すっぴんマスター -17ページ目

すっぴんマスター

(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第107審/生命の値段⑯




パソコンの調子が悪く、しばらくスマホからの投稿になりそうです。

最近はせいぜい4000文字くらいの短い記事ばかりなので、できるとおもうけど、ぼくフリック入力できないから、しんどいかもしれないなあ。あとコピペしたり文字の大きさ編集したりも意外と…。というわけなので、質量ともにハンパなものになること、お詫びします。



射場が有馬に呼び出されてどこか外にいる。待ち合わせの場所に着いたので射場は連絡するが、後ろ盾は誰かとか、病院乗っ取るのに仕込まれたんだろとかいうばかりで来ない。そしてまた移動を命じる。不気味なので、射場はその後ろ盾である壬生に連絡する。だが、この動作もけっこうギリギリだ。射場は見張られていると壬生はいうのだ。だからまずキョロキョロしないようにいう。有馬のことを調べた壬生は予想外に警戒している。じぶんと同レベル以上にまずい相手という認識らしい。ヤクザではないようだが、いちばん大切なのは面子であり、つぶされるようならほんとに殺すと。壬生もサクッと後輩殺してたけど、今回は射場や九条みたいなカタギもからんでるし、正面から相手どる以外ない状況では、警戒するほかないのだろう。


で、壬生のとっておきの九条が出動。これ、弁護士事務所とかではなく病院の院長室かな。

九条は、提示額5000万は必ず払うというふうに多少軟化した態度だ。病院は売却される。そのときに現金で払うと。しかし有馬は、嫌な感じにしぶる。正孝中心に病院を立て直すというニュースだ。そこから、九条や射場の後ろ盾、つまり壬生は、病院を高く売るつもりなんだろうと見抜いているのだ。ただ借金返済で済む話でもなくなっている。あと幹細胞ビジネスやりたい。

幹細胞のことはスルーした感じだが、九条は有馬の顔を立てて7000万ではなしをつけようとする。でなければ法廷で。というわけで、さすがに九条と法律で争うのはめんどくさいので、有馬は承諾。最後に射場の椅子を蹴りつけ、これが最後だと壬生によく言っておくよう告げるのだった。


白栖のようなつぶれかけた病院に取り入るには、理事長ではなく、第一抵当権を持っている銀行を押さえるんだと、いつもの寺みたいなとこで壬生が宇治に語っている。金融庁に指導を入れてもらったと。近くでネコと遊んでいる、例の白州次郎みたいな友人の知り合いに頼んでもらったらしい。これが大手だとまず無理だが、白栖は地銀と長い付き合いがあり、だからうまくいったと。

白州次郎は、壬生がたんに金儲けのためにやっていたら手伝わなかったという。病院の立て直しは世のため人のためになる。壬生の動機はわからないが、まあいい病院になるならそれもいいだろう、くらいの感覚かもしれない。


有馬の件も片付いた。壬生は、あとは正孝の問題を九条に解決してもらうというのだった。




つづく




正孝の問題とはいったい…。正孝はひとの共感能力に欠ける人物ではあるが、知能の高さゆえのようにもおもえる。先に理知による把握がきてしまうために人間関係が感情ベースでなく、またじしんでそのことを自覚してしまっているぶん、いっそうカルテ的把握をしてしまいがちなのだ。


人間的に問題はあるだろうが、医術に支障のあるものでもなく、壬生の知ったことでもないだろう。問題はやはりあの考え方、思想だろう。その思想ゆえ、正孝は次期理事長を断ってもいる。へたすると今回の病院立て直しの件は、正孝はニュースで知ったレベルで、説得されていないかもしれない。ただ、医院長になる、というふうではなく、あくまでスーパードクターとして関与することになるようだから、それならということで受けたのかもしれない。


特に気になるのは、新病院が富裕層向けだということだ。誰のための医療なのかを悩む彼が、患者を指定する病院を認めるとはおもえないのである。

彼は、延命治療に反対するものなので、発言からすると安楽死への傾きもあるかもしれない。そのことの是非はここではあまり重要ではなく、彼がそう考えるのは、患者にとってのベスト、つまりいちばんの幸福を考えるからだ。ここで「幸福をおもう」とは書かなかったのは、彼には「おもう」ことはできないはずだからだ。つまり、この思想は、理知によって生まれてきたはずなのである。


それが、「理屈でいけば真の医療はこうだ」というしかたであらわれたものなのか、それとも、彼自身がいっていたように、パターン分析による擬似的共感の結果そうなっているのか、それは不明だ。彼に共感能力が乏しいのはたぶんほんとうだ。たとえば、第1審に登場した少年、あの交通事故を通じて、正孝は九条に含みがあるわけだが、あれも、少年がかわいそうというより、じぶんなら足を切らずに済んだ、という悔しさが大きかったようにみえる。でも、それが問題でもない。少年が足を失ったことを悔やむことの底にあるものが、「かわいそう」であっても「じぶんなら…」であっても、行為的医師としてのちがいはないからだ。


だから、少年のことを反省する優しげなふるまいは、正孝の本性と矛盾しないし、もっといえば、その内面に起きていることはたんに医療従事者としてはあまり重要ではない。だが、その理知であまねく医療を見渡すありようが、富裕層をターゲットにする、などといった、まさしく「経営」的な目線を許容するのかということなのだ。要するに、正孝はひととして欠陥はあるかもしれないが、医療にかんしては誰よりも真剣で、必要以上に考えぬいている人物なのである。


これまでは、「生命の値段」のキャラクターを「対応」するものか「創出」するものかで分類してきた。「対応」するのが正孝や九条、「創出」するのが白栖や幸孝、それに相楽や射場だ。壬生だけが、両者を止揚するものと考えられたが、ともかく、いつでも「対応」できるようにあるために正孝や九条はプライベートを捨てた生活をしているわけである。それが、利用者をこちらから指定する、創出するありようを認めるはずがないのだ。


これを、ほかならぬ九条が説得するということなのだろうか。じっさいのところ、九条も「対応」ばかりではない。依頼人がすべての彼である、「対応」の結果として望まない仕事を強いられることもある。そのあたりの現実認識は、九条のほうができているだろう。しかし、身内の説得が通用しない頑固な正孝を、よりによって九条が説得できるだろうか…








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第27話/白亜

 

 

 

 

ジャック戦を待って闘技場に居座るピクル。その彼を、バキが訪ねる。するとピクルは、バキの言葉を拾って、「ヤル」という言葉を発したのだった。

 

もはや友人か保護者のようなポジションにあるバキが、赤ちゃんが立って歩いたときの親みたいなリアクションで驚きをあらわす。ピクルは続けて「ピク・・・」とまでいっている。やっぱりいちばん耳にする言葉を覚えるだろうから、当然だろう。「やる」は、いちばん耳にするということはないとおもわれるから、おそらくその以前に、発話の準備のようなことはピクルのなかで完成していて、あらわれた愛しのバキがくちにすることを真似してみた感じかもしれない。「ピクル」もそうかも。

ピクルの言葉を受けて、バキは、ジャックとやるのだ、ということをいう。そうしてピクルは笑顔で「ジャック」という言葉もくちにするのだった。

 

 

試合当日、会場には、バキが訪れたときと同様、ピクルがすでに体育すわりで待っていて、客はそのことにどよめいている。バキは帽子をかぶっているので客席にいるっぽい。

準備万端、薬をバキバキにきめたジャックも登場。ついこのあいだ鎬昂昇戦があったばかりでもあり、ファンが増えている印象がある。

ジャックは2メートル43センチ211キロ、ピクルは2メートルあまりに130キロあまり。ピクルの体重ってそんなもんなんだっけ。でも、都会暮らしでやせたりはしていないし、前から130キロくらいなんだろう。あの筋密度なので、嘘喰いの箕輪みたいに、250キロとかあっても驚かないけど。

 

まだ開始前。ピクルが発射してしまう。嚙みつきの動作だ。ジャックはこれをタオルで受け止める。ピクルがタオルにくらいついたところを釣り、ジャックがこれを投げる。ふつうに身長の高さから投げられたので、距離もなかったはずだが、ピクルは身軽に空中でからだを返して着地、ダメージはない。驚異的な運動神経である。

タオルは武器、そしてピクルは開始前に攻撃。双方反則を行ってから試合はようやく開始するのであった。

 

 

 

つづく

 

 

 

まあ、厳密にいえば、試合は開始していないわけだから、これは反則ではないことになるのだが・・・。でもそうなると試合前の攻撃という反則は存在しないのか?リングにあがったらいちおう最低限のそういうルールにはしたがうということに同意していることになるから、まあこれは屁理屈かもしれない。

 

ピクルがしている体育座りは、日本では軍隊教育的なものの延長にある、規律の象徴のようなものだ。手を封じ、その手で足を封じ、みずからじぶんの動きを制限するような座りかた、それが体育座りなのである。これを白亜のひと・ピクルがしているというのは興味深い・・・といってもけっこうむかしからしていたような気がするので、完全に思いつきだから、適当に読んでもらいたいが、これはピクルなりの制御心のあらわれなのではないか。ピクルには、武蔵以上に、その行動を制限する規範のようなものが存在しない。しかし、現代にやってきて、ある種の我慢をすることでご褒美がもらえるということを学んだのである。そういう心理描写は直近にもあった。こうして待っていれば、ジャックがやってくる。その直感が、彼をおとなしくさせるのであり、そのあらわれが体育座りである、というわけだ。

 

これと、ピクルが言語を習得しつつあることは無関係ではない。前回くわしく書いたが、ピクルが話せるようになることは、ピクルの弱化・強化、どちらにも転びうる。だが、少なくとも彼は以前とはちがうファイターになる。その先にあるのは、ジャック的ありようだろうとおもわれる。そこでは、嚙みつきは特別な技になる。言語以前のピクルは、人間的な意味での世界の分節は行っていなかった。分節を行っていないというのは、物事の区別を、言語的にはしていなかったということである。半分冗談だが、ピクルにとっては、克巳と範海王のあいだにちがいはないのである(克巳とはいちどたたかって、わかりあっているので、厳密にはちがうわけだが)。

それが、言語の習得によって、少しずつ分節がはじまっていく。すでに彼は「ピクル」や「ジャック」という発話を獲得した。それがそのまま意味につながるわけではないが、すでに兆してはいるわけである。そのとき、ジャックはジャック以外と差異化される。そのようにして、わたしたちは、少しずつ世界に線を引いていくことで、複雑な網目で認識を果たしているのだ。

そうした網目によって認識される世界の極限には、社会契約がある。刑罰の存在する法治国家がある。嚙みつきが「オンナコドモ」の技術とされる男根社会がある。もちろん、ピクルにはまだまだ遠い世界のはなしだ。だが、いま彼はそれに抗う究極人類ともいえる非エエカッコしいの具現、ジャックとたたかおうとしている。その影響が、彼に嚙みつきを分離させる。これまでただ食事とファイトが連続しているなかにあいまいにあった、拳と等価の機能としてのそれが、強力かつ政治信条的な意味を含む武器になりかわるのである。嚙みつきじたいのパワーは変わらない。しかしそのあつかわれかたが変わるのだ。げんに彼はいきなり嚙みつきからファイトをスタートさせた。これが強さにつながるものなのかどうかは、ジャックじしんが噛道でどれだけ強くなれたのかということと一体なのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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第106審/生命の値段⑮

 

 

 

 

秘書の池尾に罪をかぶらせる作戦でいた白栖と相楽弁護士だったが、九条の介入により、池尾はこころがわりをしてしまった。そこで相楽は、九条が反社ばかり相手にする信用ならない弁護士であることを伝え、じぶんは信用できるということを示す。スマホでカウンターを表示し、1秒ごとに支払う金額が減っていくというパフォーマンスをしたのだった。あの行為の要諦は、いま時間と自由を奪われているということを池尾に自覚させるところにあった。いま進行しているこの「時間」には値段がついている。無意味に自由を奪われるのでなく、その不自由に値段をつけたほうがよいのではないかと、こういうはなしだ。

 

あの場で池尾に回答を迫っていた感じだが、けっきょくこたえは出なかったのかもしれない。としたら0円になってしまっているはずだが、そこのところはどうしたのかな。とにかく、白栖に結果を聞かれた相楽は、確実に罪をかぶるだろうと、確信はありつつも池尾からたしかな回答が得られたふうではないこたえをしている。そんなふうにすぐ金で願える弱者が嫌いだと、相楽はひとりごとだ。

 

池尾は、今度は蔵人による取調べだ。カンモクしていれば最大20日までしか勾留できない、という九条の助言通り、池尾はがんばって沈黙を貫いている。蔵人は問い詰めたり人格攻撃をするタイプではないようで、楽しいおしゃべりをしようと持ちかける。ガサ入れした日、池尾の机にはカップラーメンがあったが、それがしょうゆ味だったのはなぜかと、戸惑う問いかけだ。おいしいものはいろいろある、なぜスタンダードなしょうゆ味なのかと。その前に蔵人はカップラーメンなんか食べないだろうと池尾はいうが、九条とよく似ているというか、蔵人は好きらしい。カレー味の残り汁にチャーハンおにぎりいれて粉チーズをかけるそうだ。なにそれ超おいしそう。

 

池尾は、じぶんはアンパイを選ぶ人生だった、だからスタンダードなものを選んでしまうのだという。その日のランチも鮭と梅のおにぎりだったらしい。電子マネーで病院のなかで買ったから、金の流れを調べている蔵人にはわかるのだ。それ以上に、池尾の行動原理を理解するためでもあるという。

蔵人が表情を変えて本題に戻る。白栖は池尾が独自の判断で不正受給をしたといっているが、梅のおにぎりで昼食を済ませる池尾がそんなタマにはおもえないわけである。池尾は、相楽からの1億円の提案に目がくらんだという。これをいうのはわりと大きい気もするが、蔵人はそこには特に言及しない。とにかく、池尾は相楽の申し出を受けないつもりのようだ。その前に九条に諭されていたから。不正が蔓延する会社からいいサービスは出てこない。病院の名前をかえて、役員を全員クビにしないといけないと。烏丸が引き継ぐ。まず法的観点から役員の刷新、新体制を築く。その対応は可能だと烏丸はいう。経営面では正孝の評価と実力を活かす。保険外診療も含めた高度医療サービスも実現させ、富裕層の誘致を行う。グループ展開まで視野にいれているらしい。そのとき、池尾はいまよりもっと重要な人物になる。なんかいつものふたりじゃないみたいだな。だが、それもこれも依頼人のためだ。弁護士は必ず依頼人の代理だと九条はいう。だから、依頼人の不利益はつぶす。転じて利益を求めるということだろう。

 

池尾は、泥舟に執着していたと蔵人に語る。次は新しいカップ麺を試すのだ。蔵人の取調べはある意味成功したのかもしれない。

そしてニュース。病院の態勢が一新する。正孝とはどうやって話し合ったのか、そのあたりはよくわからないが、射場がうまく動いているのかもしれない。病院の価値を上げるというのは、壬生の意志でもあるからだ。

 

だが、ニュースを受けた九条と烏丸の反応はきわめて謎めいたものだ。池尾はカンモクを貫いたという。目の前の金ではなく未来にかけた。そこまではいいが、九条はそこに、あと一手で詰みだという、謎の言葉を付け加えるのだった。

 

 

 

つづく

 

 

 

詰みって、白栖がってことなのかな。今回の病院刷新のはなしは、不正受給とは別ラインのはなしだ。病院がそうなる以上、もう池尾は白栖側のおもうとおりには動かない。とすれば白栖の最終手段もなくなってしまったわけである。白栖が退場し、正孝を中心にして病院が新しくなる状況は、九条、壬生の両者の望むところでもある。だが、壬生の計画は、不正受給等で信頼を失ったダメ病院を最安値で買い叩いて、それを最高の病院に仕上げたところで売る、というものだった。この「買い叩く」が、まだできていないうちに、きわめてポジティブな、イメージ刷新のニュースが流れてしまっている状況である。壬生は渋い顔をしているのではないか。いや、複雑すぎてよくわからないけど・・・。

 

 

一般に、弁護人が経営に口出しをするようなことがあるのかどうかはよくわからないが、今回、池尾が諭されたという九条の「代理」という言葉からは、ふつうに考えられる法律の専門家としての代理人としての意識を超えたものが感じられる。考えてみればそれも一理あるもので、依頼人はいま不自由な状況になるのだから、経営に限らず、依頼人の利益を守ろうと動くのは自然なことかもしれない。ただ、そこには越権行為というものがあるだろうとはおもう。そのたりのことはよくわからない。ここで問題とされるべきなのは九条の意識のほうだろう。

ふつうに考えられる本人‐代理人の関係というのは、時間的制約や専門的知識の多寡の差から、本人が実現し得ないことを代理人が変わって行うという状況だろう。弁護士は、ふつうの市民が身につけることの困難な法的知識と経験でもって、本人だけでは実現し得ないことをなしとげる。だから、まずは法的観点からの助言が最初に行うこととなる。だが九条の意識は、自由を奪われている状況の依頼人(本人)の利益ぜんたいを考慮するものなのだ。だから不似合いにもみえる経営のはなしなどもし始める。なぜかというと、いま生じている依頼人の不自由が、法律に基づいたものだからだろう。依頼人が、法的に不自由を課されている。その状況における法律の専門家としての九条は、ほんらいなら可能だった、もしくはまた別に代理人を立てるなりして実現できたことをぜんたいを、フォローしようとするのである。だからこそ、笠置雫の面倒を最後までみるようなことになるのである。これはそれほど不自然なはなしでもないのだ。依頼人にとって不案内な世界である法的実務をかわりにやるのが弁護士であることはまちがいないだろう。しかし法的事情で拘束されているものにとっては、そのものの行動全般を支援しなければならない。なぜなら、その不自由は法律によって生じているからだ。九条はこういう思考法でいるようにみえる。

といっても、どうもはなしはそれで終わらないっぽいので、九条がどういうつもりで経営のはなしなどはじめたのかは、しばらく見てみないとわからないかもしれない。でもいまは烏丸もついてるし、そんな悪いはなしでもないような気もするけど。

 

 

カンモクパイについては、なんだかよくわからない。事実としては、池尾はカンモクしていない。カンモクしていたらあの病院再編にいたるというようなはなしでもないだろう。ただ、よけいなことをいったわけでもないのかもしれない。この点では、九条と蔵人の意向は一致していたともいえる。つまり、池尾に罪をかぶせることなく、しっかり白栖の責任を追及するということだ。それは兄弟双方の望むところなのだ。つまり、ここでは、相楽の誘いにのって自白してしまわないことがカンモクだったのだろう。

蔵人の取調べがあのようなものになったのも、やはり目的が池尾に罪を認めさせることではなく、白栖の罪を暴くことだったからだろう。蔵人は、九条的にいえば、見えないものは存在しないといったタイプだ。しかし、同時に検事らしい正義感のようなものは強くあるタイプでもある。その視野が九条と比べると狭く、融通がきかないというだけのことなのだ。

蔵人には池尾というものは理解できない。世界は理解できないものであふれている。だが、彼は法律家的に「書かれてあるもの」として世界を認識するものである。だから、行動原理を理解しようとしたのだ。九条は、理解できないものを、ただ受け容れるだろう。理解する必要はない。ただ、存在していることを容れればそれでよい。しかし真実を探究する検事としての蔵人はそれを望まない。他者とは、記述可能なものとして発見しなければならないものなのだ。それが、今回に限ってはということだが、よい方向に働いたということなのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

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第26話/純度勝負

 

 

 

 

噛み合うふたり、ジャックとピクルの対戦が決まった。いちどストリートファイトになりかけたが、花山の仲介で地下闘技場でのファイトに切り替わった感じである。

ジャックはピクルにいちど負けているわけで、このたたかいは、相手が言語での交渉ができないピクルであるぶん、ピクルがその気になってくれなければ成り立たない。そういう意味で、前回のやりとりは様子を確認するという意味があったのだろう。でも花山がきてくれてよかったな。

 

光成がバキにこのたたかいをどう見るか訊ねている。勇次郎と並ぶ強者で、どちらとも対戦経験のあるバキに聴くのは、適切なのだろうが、ちょっと強すぎて、参考にならないようにもおもう。

バキの見立てでは、咬筋力では五分だという。以前までは基礎体力やタフネスなど、要するにフィジカルではピクルが圧倒していたが、それは過去のはなしだとも。ジャックがうえだともいっていないが、以前ほどの差はないというくらいだろう。

バキはその根拠を、甘さが消えたことに求める。光成も同意だ。強さへの純度が増し、くもりなく勝ちたがっている。これは純度勝負、純度に古代も現代もないのだ。

 

 

地下闘技場にはすでにピクルがひざを抱えて待機していた。地下闘技場って、どのくらいの頻度でふつうの試合してるのかな。この様子だとジャックがくるまで動かなそう。

ピクルは言葉を理解できないが、これまでの経験、パターンから、あの大男、ジャックと再びたたかうのだということをわかっていた。あれとたたかい、噛み、咀嚼してひとつになるのだと、だいたいそんなふうに理解していたと。やっぱりいまでも倒したら食べるつもりにちがいはないんだね。

 

と、誰かがくるのをピクルがにおいで感じ取る。バキである。ピクルが露骨に喜ぶ。対戦中は魔術のような技をつかう彼に恐怖し、親子喧嘩のときはでしゃばって歯を折られていたが、苦手意識はもうないらしい。赤ちゃんみたいに声をあげ、手を広げて喜んでいる。いやかわいすぎるだろ。なにこのかわいい最強生物。

バキは暴力的なタイプではないし、いっかいたたかったら友達みたいなところはじっさいある。ピクルもそれを感じ取っているのかもしれない。また、死闘を演じながら互いに五体満足でいられた数少ない例でもある。ほんとうにうれしいのだろう。

 

ピクルはハグを求めていたっぽいが、自然手四つのようなポーズになり、それをバキが別の手で包み、語りかける。ヤルんだねと。すると、なんとピクルは、「ヤ・・・ル・・・」と言葉で応えたのである。

 

 

 

つづく

 

 

 

ピクルは非常に高い知能の持ち主でもあったので、いつかこうなるんではないかとはおもっていたが、マジでしゃべりはじめた。といっても、赤ん坊がお母さんの言葉を復唱するようなもので、まだ意味を理解しているとかそんな次元ではないだろう。しかしそれも時間の問題かもしれない。

 

もといた時代でピクルは、激闘を演じた相手を必ず食べなければならないという宿命にあった。すばらしいたたかいのできるライバルは、それだけで愛しい存在、親友だった。けれど、そういうものとは生存をかけてたたかわなければならない。そして、どちらかしか残らない。だから、彼はいつもバトルが極まると涙を流していたのだ。愛しければ愛しいほど、そのものとの別れが迫ってくるのである。そりゃ悲しいよね。

現代にきてからのファイトでは、幸い死者は出てこなかったが、烈や克巳は身体のいちぶを失うことにはなった。それまで彼の形状とは異なるものに生まれ変わらざるを得なかったのである。その意味で、そこにはたしかに別れがあったろう。ジャックのたたかいは異常すぎたので少し別として、そんななかでバキは、あそこまで徹底的に出しつくすながら、ピクルの戦意喪失という結果にいたり、愛し合いながらも別れが訪れなかった。これはピクルにはこれまでなかった経験なのである。愛したからといって失わなくていいということを初めて学習したといってもいいかもしれない。それが今回のあの反応を呼んでいるのだろう。

 

 

言語をもたないことは、世界の大洋的認識を意味した。ものごとを分節する手段をもたないので、事物と事物のあいだに落差がなく、連続しているのである。もちろん、ではことばをしゃべらない動物はどうしているのかというはなしになるが、彼らはにおいや音などを通じて、つまり独自の体系を経由させて世界を整理整頓しているはずである。ピクルもそうしていたはずだ。そうでなければ、克巳と範海王の区別がつかないことになる。

それが言語をもつようになるのはどういうことかというと、そうした人間の分類体系をもって世界を眺めることが可能になる、もっといえば、それでしか見れないようになる、ということにほかならない。その先には、ルソーのいう「憐れみの情」や法治国家もうっすら見えている。今回もピクルが想像していた勝利の先に訪れる食事はきわめて原始的で、非人類的な行動でもあった。勝利は相手の死を意味し、そもそも闘争は食事のために行われるのだから、食べなくてはならない。こういう原理でピクルは動いているのだが、この原理のどのぶぶんも、現代の人類には通らないものだ。勝ったからといって相手は死んでいるとは限らないし、闘争は食事を意味しない。こうしたことを、ピクルが理解していく可能性が高まるのである。

そのとき、ファイトの面でなにが起こるかというと、今回のテーマに寄せていえば、「嚙む」という行為のもつ意味の変容である。ピクルはたしかに嚙みつきを用いるが、それはジャックのものとは明らかに異なっている。「開いた手を握ると拳になる」くらいの意味しか彼にはない。なんというか、別に特殊ではないし、食べるときにつかう強力な顎が、闘争にも使えるという、それだけのことでしかない。だから、いきなりジャックに噛みついたときも、少し甘嚙みっぽい感じがあった。つまり、いうほどピクルは「嚙む」という攻撃方法にこだわりはないのである。

しかし、言語を通じた世界の分節が可能になれば、嚙みつきはにわかに特殊な技術になる。食事の動作にぼんやり含まれている顎の運動、というものを超えて、ジャックと同じく非常に強力な武器としてこれを用いることができるようになるかもしれないのだ。そう考えると、噛道的にいえば、ピクルは強くなるのかもしれない。「嚙む」ことを武器として意識的に使えるようになるのである。

 

だがそれは同時に、ピクルのファイトスタイルの変更も意味することになる。ピクルはいま、げんに強いわけである。嚙みつきを意識的に武器にしなくても、じゅうぶん強い。だから、そこに嚙みつきがあぶりだされて、ジャックと噛み合うようになることが、そのままピクルの強化を意味するとは限らないのだ。

 

 

このまま赤ん坊程度にでもコミュニケーションがとれるようになったらうれしいな。しばらくは相手の言うことを復唱するだけだろうけど。

 

 

↓今月発売の2巻、表紙がジャックだ!完全版など以外で表紙がバキでないのはすごく珍しい。

 

 

 

 

 

 

 

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第105審/生命の値段⑭

 

 

 

 

壬生と宇治、それに彼らが心酔する白洲次郎みたいな男の3人がお寺にきている。寺なんだな。神社にいきそうだけど。

 

白洲次郎っぽい男と壬生は、「明治以前の教えを説く塾」で知り合った。壬生と宇治は中学からの知り合いなので、塾に行っていたタイミングしだいで宇治がどうかかわっていたのかはちがってくる。壬生は中学の時点ですでに「壬生」として完成していたので、この「塾」というのはずいぶん小さいころのはなしで、宇治は通っていないのかもしれないし、あるいは大人になってから思想涵養のために通い出したのかもしれない。どちらにもみえる。

 

寺には鹿がいて、修学旅行生なのか、中学生か高校生の男子がいじめている。壬生が声をかけ、宇治が威容で学生を追い払う。宇治は鹿をかわいいというが、ふたりはぽろぽろこぼれるうんこを踏んでしまう。ほのぼのうんこエピソードだ。

うんこ踏んだ靴のまま三人は歩く。壬生と宇治が大男なので、別に小さいということもないであろう白洲次郎がなにか特殊魔法をつかってくるラスボスみたいにみえる。宇治と壬生が阿吽の金剛力士みたいだ。ちなみに、今回のはなしを通して白洲次郎の顔はまだ描かれていない。帽子でずっと隠れている。いい雰囲気だ。以前(第103審)壬生が現場に「いない」ことについて、偶像崇拝を禁じた一神教的なものを感じたが、ここからもおなじものが感じ取れる。いつか詰めないといけないな・・・。

 

白洲次郎が道徳心理学における道徳レベルについて語る。第一段階は罰を避けるためのふるまい、第二段階は法律やルールにしたがうふるまい、だがひとがほんとうに目指すべきは第三段階、内的な両親に基づく自制したふるまいだと彼はいう。第一段階と第二段階はともに「法」が存在するのだが、それに向ける態度が異なっている。罰を受けるから自制するのか、ルールだから自制するのかというちがいだ。だが、法があるなしにかかわらず、最終的にひとは両親によってその自制を達成しなければならないのだと。

だが、ルールにしたがっていれば報われる現実なんてこの世にはない。なぜならルールは作った側が優位に立てるよう設計されているから。これからさらに厳しい世の中になって、気力や希望を失いそうになったら、そのことを思い出せと彼はいう。心の中の自由は誰にも奪えない。自分軸で判断できなければ一廉のものにはなれないと。

その彼がいま興味があるのが九条である。会わせてくれと。法の非対称性を論じたあとに弁護士のはなしをするのは興味深い。法を、ただ守るべき者として受け取っていない特殊な弁護士として、壬生のはなしを通じて、彼は九条を認識しているのだろう。

 

その九条のところには釈放された射場がきている。うかない表情なのは有馬からへんな脅迫メールっぽいものが届くからだ。

 

まだ交流されている池尾のところには相楽がきている。九条が訪れることが気持ちがかわり、白栖の身代わりになって罪を引き受けるという役割を拒否したところだ。弁護士も九条に変えた。相楽はじしんのプライドをかけて、次の手に出ているところだ。

相楽のできることといえば、九条への池尾の信頼を壊すこと以外にない。九条は反社の弁護ばかりやっている悪徳弁護士である、かかわっていいのかと、まずはふつうのアプローチだ。しかし池尾は相楽のほうが信用できないという。だが信用とはなにか?と相楽は問う。「一億だ」として、手にもって見せるスマホのタイマーが16分40秒を示している。1000秒だ。これから1秒で10万ずつ額を減らしていくと。相楽は池尾が手にする利益をよく見えるかたあちで示すことで説得力を得ようとしているのだ。株式投資や不動産投資もしているじぶんにも目減りする苦痛はよくわかると。早めに決断するよう、相楽はせかすのだった。

 

 

 

つづく

 

 

 

別料金を要求していたので、探偵など雇って具体的な九条の不祥事など探すのかとおもったが、そういうことではなかったみたい。それとも、やったけど出てこなかったのかな。

池尾が白栖や相楽への屈服を避け、九条に傾いたのは量的な「パワー」に屈する以外の選択肢を初めて知ったからだ。金で折れるなら九条には傾かない。なので、ただお金を積むだけでこれを挽回することは相楽にはできなかった。そこで段階を踏む。まず、九条は信用できない。いまは信用できるとおもっているかもしれない。だが、そうさせている感性はどこに由来するものか? それは、前回のやりとりでは、「ものの道理」を九条が説明したことによっているものとおもわれる。組織を保護するためには尻尾切りをしていてもしかたない。むしろ弱いものであるところの池尾は守られるべきであり、白栖の責任をしっかり追及すべきだと。おもってもやらないことを真顔でやるのが九条だ。この理路整然とした、そしてじしんを守るものとしての説得が、信用を生んだ。それなら、それに匹敵する説得力を相楽は生み出さなければならない。それが、いまこうして相楽や白栖から離れている期間そのものが「損」であるとする理法だった。勾留されることで奪われるのは自由だけではない。人生の「時間」も奪われている。このタイミングの池尾に「時は金なり」はかなり重く響くものかもしれない。迷い、九条に傾いたことじたいが誤りであり、誤りであるからこそ、いまこうして彼は自由と時間を奪われている。その、奪われている「時間」を数字にして目の前に指し示したのが、今回の相楽の戦略ということになる。たった20日のカンモクパイのきつさを見越してのこともあるかもしれない。罪を認めたらもっと長い期間つかまることになるだろうが、そのときに奪われる「時間」には値札がついているわけである。そのちがいを、げんにいま自由と時間を奪われる体験をしている池尾に伝えたわけである。

 

 

白洲次郎の思想はどのようなものだろうか。

壬生は9条破棄を唱えるものだが、その手の攻撃的な言説については、彼は「物騒だ」としていた。彼を思想的支柱として壬生らがそのような考えに到達した可能性はあるが、今回をみても、白洲次郎みたいな男はフランス革命のルソーというか、マルクス主義のマルクスというか、直接関係はしていないがそれなしではありえなかったようなもののようにみえる。

 

道徳心理学のくだりの3段階は、段階を踏んで形成されていく良心というはなしなので、第3段階の良心にいたるまでに実は法を経由している。くわしいはなしではないので、作中発言のみに限ってのはなしになるが、だからこれは、「ほんとうの人間とは」というはなしではない。白洲次郎っぽいひともそういっている。彼は法やルールが無効だといっているのではないのである。まず罰、そして法があって、そののちに、それらを内面化した良心をもった人間があらわれる。ひとが目指すのはほんらいここで、法律に従う第2段階で足踏みしている場合ではないのだと。こう考えれば、法律をただの法典、文章のかたまりとしてはとらえない九条のありようは興味深くみえるにちがいない。それが「良心」なのかどうかはひとまずおいて、少なくとも、第2段階にとどまることをよしとはしない人間なのだ。しかも、こういう理屈ではなしを運ぶと、アウトローを肯定する文脈になりがちなところ、九条は弁護士なのだ。だからあんなにおもしろい人格になるのである。

良心にしたがう人間にとって、法令遵守は自明のことなのだ。はなしのとおりなら、まず罰を通じてやっていいこととわるいことがあることをひとは学び、続いてその内実が記された文章の存在を知る、という流れになる。ついでに社会のしくみ、どうやって治安は保たれているのかということも知るだろう。これがじぶんのなかに、自発的なものとして構成されたとき、良心が出現する。フロイトの良心も、打ち勝つことのできない存在としての「父」を内面化することで生まれた内なる父としての「超自我」によって成立するものだが、ほぼ同じ理屈であるとみられる。この「父」が「法律」なのである。

だが、白洲次郎っぽいひとの読みかたはかなり独特におもえる。明文化された「法」の支配する世界では報われない。内なる自分、自分のなかにある「法」を行使する術を学ばなければならないと、こういうはなしなのだが、その内なる「法」とは、報われない法秩序世界を内面化したものなのである。だから、彼のいっていることは、法典そのもの、法律に書かれた文章そのものの内面化が第3段階ではないということになる(じっさいの道徳心理学でもそうなのかもしれない、調べていません)。そこで行われる内面化はインストールのようなものではない。その内容は問わず、秩序を守るためにルールしたがうという手順そのものなのだ。そのルールの内容じたいは、心の中の自由があるから、どうなってもいい。ただしそのルールにだけはしたがわなくてはならない。それが良心であるのである。

これは、以前回想シーンで登場したときにいっていた「信念」とほぼ同じ意味かもしれない。敗戦で失ったのは武力や金ではなく、信念だと。それ以外はすべてその結果でしかないのだろう。書いてあるルールをただ守っていればいいのかというと、それはちがうということは、ふつうに生きていてもわかることだ。だが、「それはちがう」と口に出していうのは勇気がいる。書いてないからだ。書いてないことを口に出せないのは、それがかたい信念として形成されていないからだ。彼の理論はおおむねこんなところになりそうである。

 

弁護士は、その「書いてあること」の専門家だ。しかし九条は、そこに書かれていないものを読み取ることでいまのようになった。兄の蔵人には見えないものを読み取ることをよしとすることで、いまのスタイルになったのである。そこには信念がある。だからあの男も興味をもつのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

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