今週の刃牙らへん/第21話 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第21話/ガラス

 

 

 

ジャックの挑発をエフエフ笑いとばし、ケツ叩きでしつける範馬勇次郎。

服のうえから叩いているのだが、その音は破裂音のようで、ホテルの外にまで響いているようである。少なくとも、同じフロアの、ドアの向こうにいる客たちは爆発かとびっくりしている。

続く震動はもっとすごい。地震にもおもわれるほどだが、現場にいる客室係、野中というらしいが、彼にはなにが起こったかわかるようだ。なにしろバキと勇次郎の親子喧嘩開始を見ているひとだからな。

 

ドアを開けて野中が目撃したものは、顔をガラスにめりこませたジャックである。叩かれたのはケツのはずだが、顔だけがめりこんでいる。このような状態になるのは、描かれていない追撃があったときか、ジャックが意図的にそうしたときだけである。無意識に受けてしまったケツ叩きをより堪能しようと、顔面でガラスに激突することをみずから選んだのかもしれない。ジャックならありえる。

戸惑う野中に、どこにでもある家庭問題だと、よく聞くことを勇次郎はいう。それよりも、勇次郎はジャックがガラスを突き抜けなかったことを気にしている。以前のバキ戦でガラスが壊れて交換してからこうなったようだ。強度の高いものにしたとはいってはいないが、この部屋を勇次郎がよく利用するから、死者を出すわけにもいかないホテル側として、そういうガラスを使ったということだろう。

叩き出せたものを・・・とかいっている勇次郎に、だって落っこちるじゃないですかと、すごくふつうのことを野中がいう。それは落っこちる側が考えることだと、わかるようなわからないようなことを勇次郎が重ねる。だいたい、40階程度で死ぬタマかとも、野中は「死ぬじゃないですか」とはいってないわけで、生きていようが死んでいようが、そもそもひとがガラスを突き破って落ちることがだめだといっているのだが、まあ、今夜の勇次郎はなんか興奮してるからな。

ジャックは顔を外に出した状態のまま景色をみている。耳は部屋側にあるので、もちろんはなしも聞いている。顔だけめっちゃ涼しいのかな。

 

顔を引っこ抜いたジャックは勇次郎の「落ちて死ぬタマか」という言葉を喜んでいる。ちょっと微妙に、ジャックがなにをいっているのかよくわからないのだが、ともかく信頼されていることがうれしいことはまちがいない。だが、たたかわない。今日はエレベーターで帰る。最後にお礼と、報われたという感想を述べて、ジャックは勇次郎を背に去っていくのだった。

 

ホテルの外に出たジャックは建物を見上げ、今日という1日を振り返る。そして、あの最上階から落ちていたなら、「トンダ環境破壊ダッタ」という。それはだめだと。

 

 

 

つづく

 

 

 

 

価値観というか感受性が常人とちがいすぎていてつかみにくいはなしだった。

最後の環境破壊云々は、道路を破壊してしまうことをいっているので、いわゆる意味での環境破壊とは異なるが、これは要するに、じぶんの身体へのダメージより外部の、じぶんではないもの、つまり「環境」の損傷を気にする余裕があるということだろう。だが、その前の、勇次郎の言葉を喜ぶくだりでは、なぜか破壊される道路を先にイメージしている。ここのセリフを厳密に受け取ると、「地面を割り 破壊されることがわかる」というものであるから、ジャック、もしくはジャックをたたき出した勇次郎が「地面を割る」の主語ということになり、そうなると、「破壊される」のはジャックということになるが(道路が破壊される、ということなら、「地面を割り 破壊する(破壊してしまう)ことがわかる」というような表現になるだろう)、そのイメージ図にはジャックの姿はなく、道路が割れているだけで、ますますわからない。まああんまり深く追究しなくていいか・・・。

 

とはいえ、今回のはなしに見えた気になる点と、ジャックのいうあいまいな「環境」という表現が響きあうぶぶんもあるので、あいまいなまま書いておこう。それは勇次郎とジャックの関係には、少なくとも勇次郎とバキの親子喧嘩開始時にはなかった「他者」が介入しているということだ。ホテル側のガラスの付け替えのことである。

ホテルとしては、死者を出すわけにはいかず、というかそもそも40階からひとが落下するような状況がしょっちゅう起こるということは、勇次郎がホテルごと買い取るということでもなければ好ましいわけがなく、こういう対策に出るには自然なことだった。勇次郎はホテルに住んでいるようなので、あそこでの食事も日常なのだろう。そして、たまに今回のようなことが起きる。究極のばあい、ひとが落下する。そうとなれば、それを防ごうとするのは自然なのだ。こういうふうに、勇次郎とその現象を相対化するのが、ホテル、そして野中という客室係の役割なのだ。こうした状況は、バキとの親子喧嘩が終わって、勇次郎が絶対者でなくなるまでは、ありえなかった。絶対的であるということは、相対化できないということだ。大きさをはかれないということだ。そこに、他者からの評価がほどこされるということはありえなかった。けれども、バキ戦を経て、勇次郎の強さは依然として作中最強のものではあるのだが、それがバキを通じて計量可能なものに変容した。ガラスの付け替えはこのことの具体的なあらわれなのである。

 

そしてそれが、ジャックにおいては環境への配慮というしかたであらわれている。「環境」といっても、ここでいわれていることはおそらくenvironmentではなくcircumstanceである。ジャックがどういうニュアンスでいっているのかはよくわからないが、ともかく、じぶんが落下して起こるなにか「環境破壊」を、彼はよくないことだとしている。そのようにして、闘争によって生じる闘争以外のことを考慮する余地が、ジャックにというより、作中に生じつつあるのである。

書いていておもったのは、ジャックにはシコルスキー戦での電話ボックスという「環境破壊」もあった。あれはまさしくここでいわれている「環境破壊」、外部から見た非闘争者による闘争の相対化だったが、これは、連続する目撃者というようなしかたで以後ふつうの方法にもなっていった。「刃牙らへん」という言葉はどうも本部が初出のようだが、直後にはピクルを目撃した一般人の描写でその語が出てきたこともあり、この「一般目線での相対化」ということは「刃牙らへん」という括りの成立に不可欠の要素なのである。「刃牙らへん」は、「エエカッコしい」のものたちの総称である。そして、美学レベルのものではない、通常の意味での「エエカッコしい」は、当然「他者」の目線を想定しているのだ。勇次郎は、絶対者として流動的な最強戦線にある種の秩序をほどこすものだった。昨日勝った相手に今日勝てるとは限らないバキ世界に、唯一確実な「強さ」が、勇次郎のもつものだったのである。それが「絶対」ということだ。しかし、バキという並び立つものがあらわれたことで、それは完全さを失い、相対化可能なものとなった。そうして、そこに「一般目線」が入り込む余地が生まれたのである。ガラスの付け替え、不可解な環境への配慮、そして「刃牙らへん」という括り、これらは一直線につながった同系列の現象なのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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