今週の九条の大罪/第101審 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第101審/生命の値段⑩

 

 

 

 

壬生からの緊急の依頼で九条と烏丸が車で移動しているところ。渋滞でぜんぜん動かないということで、車をとめてキックボードで移動するのだった。間に合えばなんでもよし。

 

九条が向かっているのはもちろん白栖病院で、医院長の雅之が出てくるまで動かないと、有馬という事件屋が居座っているところである。暇なので有馬はぜんぜん楽しくないクソゲーをやっている。ふだん熱が出るほど詐欺の手口を考えることに集中しているから、なにも考えなくてすむスマホゲームは休憩になるのだという。有馬いわく、詐欺を考え出すには才能がいるという。市場とニーズを読むちからがなければならないので、それもそうかもしれない。そこに混乱と不安を見出して、安心と欲求を与えると。

 

正孝は有馬をおいて院内に出ているが、先月手術した患者をもう忘れている。個人としては認識せず、カルテを通して、症状で認識しているらしい。カルテの作成は患者と症状を分離させる方法なので、これはこれで正しいのかもしれない。

 

ナースによれば、事件以来、白栖総合病院は患者離れが深刻だ。正孝はどこか他人事っぽいが、コンサルの射場と、秘書の池尾、じぶんも検察に呼ばれているから他人事ではないという。じぶんも検察に呼ばれているから他人事ではない、ということだ。つまり、病院に関しては他人事ということになる。彼にとって病院は、じぶんの理想の医療と、身につけた技術を現実のものにする交換可能な場所でしかないのだろう。

ナースは、院内をうろつく有馬の手下のこともいうが、相楽に相談するとたいして気にしていない。でもナースの深刻な表情には気付いていたらしい。これは、前にやっていたナースと同じなのかどうかよくわからないが、手術前のあれの相手をすることのある人物ではあるらしい。だから妊娠でもしたのかとおもったらしいが、とりあえずちがった。もし妊娠していたらどうするのかと聞かれて正孝は、堕胎は専門ではないから他の医者に紹介状を書かせると、人間とはおもえない応答をするのだった。

と、正孝の目に、第1審に登場し、彼が手術をしなかったことで足を切断させることになったする男の子が見える。そのそばには薬師前もいるのだった。

 

相楽と雅之がガラス越しに密談。射場と池尾は逮捕される可能性がある、どちらかに罪をかぶってもらおうというはなしだ。雅之は借金のある池尾を推薦する。金を払って、出てきたら面倒をみるといおうということだ。

病院には相楽といっしょにいた女性の朝倉弁護士がきて、正孝とともに有馬に対峙している。借金返済まで有馬は居座る気だが、飲み屋のほうが居心地がいいという有馬に、では好きなところに行けと朝倉はいう。おもったとおり、有馬は一緒に行くかという反応を示し、前にも見せたことのあるキツイ態度で、調子にのるなと、朝倉はこたえる。

 

そこへ、九条がちゃらちゃらした感じで登場だ。正孝と九条の初遭遇の場面だが、あまり大きくは描かれない。だが、正孝が九条のことを忘れがたく憎んでいることにかわりはない。彼は即座に九条があの九条であることを認識し、用はないとする。だが九条は射場、つまり壬生の依頼で来たものだ。相楽が雅之の代理人であるのとは別に来ているのである。こういうとき、ややこしいな。協力したりすることがあるのか、それとも、通常は同じ事務所からそれぞれ弁護士がつくみたいなことになるのかな。でないとよけいはなしがこじれそう。

九条は軽い調子で立ち退くよう有馬にいうが、彼にその気はない。嫌だといったらどうするか。言うのは自由である。しかし有馬は秒で立ち去ることになると九条は断言するのだった。

 

 

 

 

つづく

 

 

 

九条にはなにか奥の手があるようだ。法の抜け道的なことか、それとも有馬個人に属する弱みかなにかか?ともかく自信はあるようだ。

 

正孝は今回ちらっと登場した男の子の件で九条を目の敵にしている、というとどこかちがうのだが、なんだろう、彼の考える理想に反する存在のようなものとしてとらえている。正孝はどうやら男の子への感情移入のようなものを経て社会やシステム、それを象徴する存在としての九条に怒りを覚えているわけではないらしい。ではなにかというと、理想の実現を阻む関節のクセみたいなものとしてである。正孝の理解が少し難しいのは、彼が、行為としては慈愛に基づくようなものを採りながら、じっさいには最高の医療の実現を動機としているからである。彼自身、そのことには無自覚だし、行為としてそれが慈愛に近いものならば、どうでもいいともいえる。だが、少し深掘りすると、今回のナースとの会話のような不具合が生じるわけである。

 

しかし、この考えかたは、ひとの気持ちがわからないという、正孝のサイコパス的な要素ばかりによるものでもない。そもそも、カルテというものが、患者と症状を分離させるために成立した方法だからである。そのようにして、患者への、場合によっては感情さえ経由したようなアプローチを排除し、ただ科学的な目線のみで症状を見つめなおすことは、自然主義の文学にも影響を与えており、こうしたカルテ的文体こそ自然のありのままを記述するものであると、ゾラら当時の作家たちは考えたのである。

科学を用いれば、自然のありのままをとりだすことができる。たとえば、ものの移動や、時間のすすみかたは、体感によって差が出ることがある。つまらないことをしているときは長く感じる時間も、楽しいことをしていればあっという間だ。しかし科学はこれを同じ量のものと計測するのである。カルテはそうした哲学の医療面でのあらわれである。だから、正孝の思考法は、もともとの彼の人格によるところも大きいけれども、じっさいには「カルテ的思考」とでもいうべき、ある意味では標準的なものなのだ。つまり、正孝は医師に向いているというはなしになるのかもしれない。

 

ただ、それでいいのか、というのはまた別の問題である。今回のナースはそこに疑問を投げかけるわけだ。今回の「生命の値段」では、医療業界に疑問を投げかけるものとして、まず正孝があらわれた。それは、「対応」「創出」のふたつの態度で、医療者を区別するものであった。医師はほんらい患者の出現に「対応」するものである。だが、現実の厳しい病院経営は患者を「創出」することを要求する。この葛藤がまずあった。だが、「対応」するものとして、誠実に医師としての任務を果たす正孝は、そのぶん「カルテ的思考」に染まっている。それは、カルテを見なければ患者を思い出せないくらい、「患者」と「症状」をくっきり分割したものだ。「対応」「創出」のスキームで見渡すぶんには、だからなんだというはなしでもある。だがこれは病院経営と現実の施術の衝突がおこる現場でのはなしだ。では、ひととして、「カルテ的思考」は正しいのだろうかと、ナースの存在は疑問を投げかけるのである。

 

しかしこのことも、実はすでにこたえが出ている可能性がある。正孝は、理想の実現に邪魔なものとして九条をとらえるが、じっさいにはふたりはよく似ている、というはなしは以前にもした。「対応」するものには、拘束時間というものがない。道で急にひとが倒れたとき、飛行機のなかで「お客様のなかに医療従事者のかたはおられませんか」といわれたときが、仕事のはじまりであり、ということは、そういう偶然のタイミングがいつ訪れるか予測できない以上、彼の抱える全ての時間が勤務時間なのである。これは九条も同様である。こういうものにプライベートはありえない。だから、職場の屋上にテント張って寝るし、奥さんのことはおざなりになるのである。極論をいえば、「対応」者に誠実さを求めることはできても、一般的な人間らしい正しさを求めることは難しいのである。

 

 

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