第36話/服装(ナリ)
不完全ながらピクルの都市民的完成を見せて終了したジャック対ピクル。
だがそれはジャックの勝ち名乗りを受けて実況がそうとらえたものだ。最高審判長である光成が宣言したものではない。どこかに消えていた光成は実況の背後に現れ、これを小突き、お前は審判かと咎めるのだった。いや、あなたがいうのですか。地下闘技場って審判がいないのが大きな特徴ですよね。光成が試合をとめることはあるけど、なんというか、ある種の超自我的なものにすぎないのであって、ほんらいはただ試合展開の明らかさと選手本人たちの宣言が優先されるはずだ。前後するもののジャックの勝ち名乗りとピクルの戦意喪失は見て明らかなものであり、この試合はジャックの勝ちである。まあ、内容に関わる話というよりは、たんに宣言じたいを横取りされたのが悔しいのかも。
去り行くピクルを見送るジャックのそばに、花山を連れて光成が現れる。ここでも勝手に試合終了されたことを言っている、が、誰も文句はないだろうと。光成じしんはどうなのだろうか。なにかおもうところはあるようだが、彼にとってはそれほど明らかな勝利でもなかったということだろうか。
だが、光成の目的はこんなことではない。ジャックはピクルを見つけたときから花山を意識している。ここでもそこまで露骨ではないが、じっと観察している感じだ。このふたりをぶつけたいのである。
とりあえず勝利を祝福する花山。ジャックが無言ではなしが進まないので、光成が水を向ける。噛道は花山にはどう見えたかと。似たようなはなしは前もしていたが、花山は相変わらず「人様の流儀に口を出すつもりはありません」のスタンスだ。しかし、それが逆に、わずかでも同意できないぶぶんがあることを物語る。
花山は噛みつきはできないのかと光成が煽る。花山は黙っているが、ジャックがそこで「無理ダ」とようやくしゃべる。服装をみればわかる。そんな勇気はない。こんな場所でも正装でいるエエ格好しいにはできないと。ジャックも噛道がエエカッコしい的な近代格闘技の批判思想的なものだと自覚していたのか…。
花山も光成が煽りジャックが挑発していることをわかってはいるだろう。もういいでしょうという花山に、噛みつかなくても勝てるということだなみたいな、挑発なのかなんなのかわからないことをジャックはいう。で、これが効いたみたい。花山が指を折り、静かに拳を鳴らしはじめる。そして、やはり、もういいだろうと、さっきとはちがう雰囲気で述べ、歩み寄る。これは試合開始だろうとジャックはいうのだった。
つづく
これはピクル以上にあついマッチメイクだ。年も同じくらいだよな。
刃牙ワールドは、勇次郎を除くと、もともと強さの関係を不等号であらわせない世界だが、なかでも花山は測定しにくい性質の強さを持っている。強さが精神性や出自(侠客立ち)によっているぶぶんが大きいからだ。もちろん、握力という測定可能な武器もある。しかし、握力キャラはこれまでもたくさんでてきたが、武蔵など例外はいるけど、花山との直接の握力比べはあまり行われてこなかった。板垣先生も花山の作劇上の聖性を保護するのに慎重なのだろう。
図式的には、大多数のファイターには多かれ少なかれ「エエカッコしい」なぶぶんがあるが、ジャックにはそれがない、だから噛みつきのような技に挑戦できた、みたいなことになる。カッコつけない、それがジャックの強みだと。だがぼくでは、いままでのところで、ジャックが勝ちのたびにあがる称賛の声を誇らしげに喜んで受け取る姿が引っかかっていた。非エエカッコしいは人目を気にしないはずである。そういうものが、果たして歓声を喜ぶのかと。この点については、ジャックじしんはカッコつけてるかどうかを意識していない、という方向性で読んできた。彼のふるまいを外部から評価しようとしたら「カッコつけない」が出てくるのは自然だが、彼自身にそのつもりはない。「父殺しを描き続けてきた」と一般に評される作家がいたとして、当の本人にはそんなつもりはまったくない、というのと同じだ。ただ、強力だから、誰も使っていないから、噛みつきを選んだと、そういうプラクティカルな理由なんではないかとおもわれたのだ。
今回ジャックが花山を「エエカッコしい」としたことが即彼の「非エエカッコしい」たることの自覚にはつながらない。あの場面は、光成の手を借りた挑発だった。だから、ジャックが、じぶんがどう見られているのかを理解した上で、文脈を利用するかたちで挑発に活かした、というふうにみることはできる。ただ、仮にそうだとしても、噛みつくのかできないのかという流れのうちに、ジャックが花山との対戦を望んでいることにちがいはなさそうだ。つまりジャックは、彼自身が「カッコつけること」をどう考えているかとは別に、深い意味を、花山との対戦は宿すことになると理解しているのだ。
ピクルはジャックと並ぶ「非エエカッコしい」といえたわけだが、花山は逆に、刃牙キャラ屈指の「エエカッコしい」なわけである。それどころか、最初に書いたように、彼の場合はその精神性、「花山薫」として生きることじたいが強さにつながっている。ジャックとは逆にカッコつけてるから強いタイプなのだ。これは美学対決ということになるわけである。そしてそのもっとも象徴的な差異が噛みつくのかつかないのかということなのだ。
ところでその、「非エエカッコしい」は歓声を喜ぶのか問題だが、げんに喜んでいるわけだから、ジャックのなかにはなんらかの理屈があることになる。一般の感覚に引き寄せてまず考えられるのは、中二病的感性だろう。じぶんはひととは異なっていると考える中二時代のわたしたちは、症状の重さにちがいはあれど、それぞれにそれを表現してきたはずだ。しかしいっぽうであなたやわたしは、それを誰かに認められたいと思わなかっただろうか。考えてみればこれは不思議な感性である。ひととはちがうのであれば、ひとの評価なんてどうでもいい。ここまでは意識できる。だがそのさき、わずかではあれ、それを誰かに知ってほしい、ひととはちがうと言ってもらいたいと願う気持ちはあったのである。
もうひとつは、そうした「人間の抱える矛盾」みたいなはなしではなく、理屈のとおるもので、ジャックは新しい価値観を作り出す立場なのだというものである。美学をもつものを「エエカッコしい」と呼んだところで、ジャックじしんが「非エエカッコしい」を自認するところに美を見出していることはゆるがない。だが、既存の世界ではそれを美とはしない。世界は、噛みつきを、たとえば花山のかっこよさとは同列に語らない。そのうらみがジャックの原動力なのである。だったら、そういう世界をつくればいい。そう考えると、ジャックは父に認められたい、世界に認められたいとあがいていたむかしから変わっていないのだ。ただ、あがきかたが変わったのだ。流行を追うのではなくつくる、みたいなことだ。世界にはじぶんを正当に評価するものさしが存在しない。だったら、評価されないまま突っ走って、世界をひっくり返して、美意識じたいを根底から変えてしまえばよい。その上で、つまり突っ走った上で得られた評価、つまり歓声は、はばかることなく正面から受け止める権利があるわけである。
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