第103審/生命の値段⑫
有馬を退けたところで、今度はその有馬を退ける口実となった蔵人たちが到着したのだった。蔵人は九条が射場の代理人だということを知らないらしい。しきりに、関係者以外は出て行けという。委任状があるということをいっても、蔵人の態度は変わらない。少し意外な感じもする。九条にかんしては、コンピュータでこたえを出力するみたいには、蔵人の言動は一意的には定まらないみたいである。
テレビでよくみる、ダンボールをいっぱいもった検察のひとたちがあらわれて、関係資料を根こそぎを持ち帰っていく。九条はその様子を撮影する。国家権力の横行を抑制するためだという。蔵人にとってはいちいちいらいらする感じだ。
これは、秘書の池尾ということになるのか、面会にきている相楽が、白栖医院長との作戦会議どおりに、罪をかぶるようすすめているところだ。池尾に罪の意識はなかった。だがお金には困っている。白栖はその面倒をみるといっているのだ。池尾は暗い表情のまま黙るが、話を受けるのだろうか。
久々の宇治だ。久我が誕生日ということで時計をプレゼントしている。これは、久我が欲しかったもののようだ。久我はかなり喜んでいる。
コーヒーを飲みながら、ふたりが雑談。宇治がヤクザになったのは15歳ということだ。父親が虐待をする人間で、殺すか殺されるかという状況になって、逃げ出して伏見組の部屋住みになったという。当時は学校でもいじめられてひどい状況だった。いまの巨躯からは信じられないが、そのころはチビでガリで気弱だったのだと。だがある年の2学期、誰も触れられないオーラをもった金髪の転校生があらわれた。それが転機だった。彼は絶対にいじめに加担せず、盗まれた靴を持ってきて放り、今のままでいいのかと問うたのだ。一回噛みつけば一瞬で変わると。
彼の言葉を体内に響かせたまま、歯磨きにすら違和感を覚えるほど生きることに苦労している状況で、すべてがどうでもよくなり、吹っ切れた宇治は、歯ブラシを折り、それをいじめの主犯の、おそらく顔に、殺す気でつきたてたのである。すると、周りの見る目がいっきにひっくりかえった。転校生のいったとおりになったわけである。
久我ははなしをわかっていないようで、その転校生とはまだつきあいがあるのかなどといっているが、当然、それが壬生である。久我の時計を選んだ男だと。久我は壬生の男っぷりに感涙するのだった。
退散してキャバクラにいくというはなしだった有馬は、部下たちとともに山にきて穴を掘っている。部下たちはなぜ掘らされているかわかっていないようだが、白栖や射場に警告をするのだという。ただ、掘った穴を撮影して射場に送りつけるだけだ。しかしその穴は、いかにも棺桶が入りそうな、要するにひとが埋められそうなサイズ感なのであった。
つづく
射場は壬生の息がかかっており、実質壬生が病院を買って、そして売るための、長期的な計画のために動いている男だ。とすると、どこかで有馬と壬生は衝突することになるかもしれない。しかしいま壬生は身を潜めており、そうでなくても、壬生は丑嶋ばりに直接的な行動には出ない男だ。有馬は部下とも仲良くやっているようで、わりといいキャラな感じがする。殺す殺されるというような衝突にはならず、大損する感じでおさまればよいなとおもう。
壬生と宇治の出会いのエピソードは、丑嶋と柄崎・加納の出会いによく似ているようでもある。が、似ていないようでもある。
壬生と丑嶋は、ともに転校生である。宇治はいじめられていたが、柄崎はむしろいじめる側で、げんに丑嶋は転校してすぐぼこぼこにされた。その柄崎も、鰐戸兄弟にはあごで使われていて、いじめられていたが、これを砕いたきっかけは丑嶋であった。けれども、この場面でいういじめっこを砕いたのは宇治だが、鰐戸三蔵を砕いたのは丑嶋である。このあたりの差は、深刻に受け取ってもよいし、ほぼ同じと受け取ってもよいし、どちらでもいいというか、物語を読み進めるにあたっては、「丑嶋と柄崎のような信頼関係が壬生と宇治にはある」というふうに受け取ることさえできれば、問題なさそうに見える。だが、丑嶋と柄崎のものを別世界の壬生と宇治のようなものと考えたとき、やはり壬生の「無関係感」は無視できないかもしれない。丑嶋は、転校するなり、暴力という貨幣の交換体験に組み込まれることを余儀なくされたし、彼自身それを望んでもいた。それを掌握するために、丑嶋は、手近でもっともおそれられていた三蔵の頭を砕いたのである。だが壬生はそうではない。宇治のいじめには、する側にもされる側にもコミットしない。ただきっかけを与えただけだ。そしてもちろん、三蔵粉砕の場面にあたる、いじめっこに歯ブラシをつきたてる現場に、壬生はいない。このときから壬生は、進み出る相手の肩をついて実現する前の技をすべて封じてしまう達人のように、ちょっとした動きで相手をコントロールしてしまう領域にいたのだ。宇治はキレモノである。壬生がそういう人間であり、じぶんもそのようにコントロールされたことに、すぐに気がついたかもしれない。それをよしとしたうえでつきあっているのか、あるいは克服してじぶんもその段階に達したのか、それはまだよくわからない。ともかく、中学生のこんなころから、壬生の方法はかたまっていたのだ。それは、「その場にいない」ということなのである。とすると、伏見組とのことで身を潜めている現在の状況は、究極の壬生的状況ともみることができるかもしれない。
これまで、「生命の値段」のおもな登場人物たちを、出来事に「対応」するものか、出来事を「創出」するものかで分類してきたが、おおむね壬生は「対応」するものと考えることができた。「対応」するものにはプライベートがない。いつヤクザに襲われるかわからない生活のものに、「定時帰宅」はありえないのである。が同時に、以上のことからして、彼は「創出」するものでもあることがわかる。たったひとことで、彼は宇治の人生を変えたのだ。だが彼の本質はその先にあって、その人生が変わった現場に、彼自身はいないのである。白栖医院長でいえば、情報の非対称性を利用して、患者を惑わし、不必要に通院期間を延ばす行為が「創出」にあたるが、しかしその患者が通院する先に彼はいないし、なんなら彼の助言によって通院することになったということも患者は理解していないのである。プライベートがないだけではない。壬生は、仕事の現場にすら存在していないのである。その存在感を、存在していないことによって基礎付けるもの、それが壬生なのだ。
かつて安部公房は、蛇の不気味さについて、生活感の欠如ということを書いていた。蛇は、手足がなく、擬人化が難しいため、生活を人間ベースに想像することが難しい。そういうものが目前に出てきたとき、ひとは、それが虚空から突如として現れたかのように感じる。それが不気味さの出所であると。
ぼくは、これはゴキブリについても応用可能な考え方だと考えた。そこにはバキ理論も含まれているので、本ブログでしか通用しない理論となるが、なぜゴキブリは「突然」あらわれるのかということで、バキのいう、加速のないあの動きが、不気味さの原因ではないかとおもわれたのである。
蛇は、「いる」ときと「いない」ときがくっきりと分かたれている。ずっといなかったのに、ひとが道の向こうからちょっとずつ近づいてくるようには現れず、突然「いる」の状態で現出する。だから、驚きと理解のできない感覚がそこに生じる。ゴキブリもまた擬人化の難しい体型をしているが、さらにあの、停止とトップスピードのあいだにアナログな加速時間が体感的には見られないことが、「いる」と「いない」を断絶させているものと考えられたのである。安部公房のいう「擬人化」は、ここでいう「加速時間」にあたる。「いない」から「いる」に至る過程をトレースできないこと、それが不気味さの原因なのだ。
壬生は、プライベートも仕事も、どこの場面を切り取っても、そこにはいない。いないのに、壬生の息がかかったものたちがうごめき、働きあって、物事は壬生のおもうように動いている。保存されたエネルギーが万物のなかにひそんで、さまざまなものに姿をかえて広がっていくように、壬生は、「行為」そのもののなかに、それと気付かれないように潜んでいるのだ。「いる」と「いない」の落差は互いを相対化するものである。しかし壬生は全的に「いない」。相対化することができない。計測できないのである。
丑嶋と柄崎のあのエピソードは、ふたりの信頼関係がどういう経験をベースに成り立っているのかを示したものだった。では壬生はどうだろう。これは信頼関係と呼べるものだろうか。いじわるなみかたをすれば、「いない」は偶像崇拝の禁止を連想させるし、ここからはなんとなく一神教的なものが感じられてしまうのだが、それは今度考えよう。重要なことは、壬生にとって、「信頼」はなんのために必要なのかということだ。というか、信頼は、「必要」から生じるものなのだろうか。もちろん彼のほんとうの動機は彼にしかわからない。しかし、これまでの行動を振り返っても、壬生はその「いない」を実現するために信頼を構築しているようなところがあるのかもしれない。
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