今週の刃牙らへん/第23話 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第23話/慟哭の記憶と願望

 

 

 

 

街のなかに馴染んで、ひとの目をいっさい気にすることなく生きていたピクルを、ジャックが抱きしめる。「エエカッコしい」ではないという点でも、嚙みつきをもっとも強力な武器とするという点でも、ジャックには理想の男のはずである。ピクルってもともとかわいいけど、さらに大柄のジャックに抱きしめられてるの子どもみたいでさらにかわいいな。

 

ピクルを放し、先輩がいまの自分を築いたのだとジャックは語りかける。あの敗北のことだ。あのとき、ふたりはくちをかみ合うという交わりを行った。それは交わりを超えた物質と物質の「融合」だったとジャックはいう。しかしジャックはそこで食い負け、ただ敗北するだけにとどまらず、「保存食」へと身をおとしたのだった。ピクルは、倒したも倒してもかかってくるジャックの狂気に不死性のようなものを感じ恐怖していたが、そのことはジャックはあまり重く見ていないらしい。強さ以外のぶぶんであのようにピクルを慄かせたのはほかに武蔵くらいのものである。

その後、ジャックはバキに「ファイターとして終わってる」とトドメをさされ、慟哭、しばらく姿を見なかった。だがその結果として、いまのジャックが生まれたと。そのココロは、ピクルの慟哭を見たいという欲望だった。じぶんが味わったあの絶望に、ピクルが堕ちたとき、どのような表情で、どのように慟哭するのか、それをジャックは名曲・名画と呼ぶ。それを見たい。それが動機だったのだ。もちろん、それだけではなく、現在のジャックの姿が完成するには、本部への敗北も大きかったろう。あのようにたやすく自慢の歯を落とされたことが、彼に現在のようなチタンの歯を埋めさせたのだ。

 

言葉はわからないはずだが、伝わったらしい。無防備に抱かれていたピクルだが、ここで髪を浮かせて好戦的態度に変容する。髪を逆立ててやっと身長が五分だとジャックはいうが、巨大な恐竜とたたかってきたピクルからしたら小さな恐竜にすぎないかもしれないと、光成がもっともなことをいう。センチ単位で背が伸びたからなんだという次元にピクルはいるのだ。

 

それに対するジャックの反応は、夢があるという、なんだかよくわからないものだが、とにかく、いろいろなものとの「噛ミッコ」を彼は望む。ピクルはそういう世界にいたので、ピクルを通じてそこに接続したいというようなことだろうか。周囲ではなしを聴いていた通行人たちは笑っているが、ジャックにはどうでもいいことだ。

そうして、再び万全の体勢で噛み合える喜びを堪能するジャックの肩に、すごく自然にピクルが噛み付くのだった。

 

 

 

つづく

 

 

 

たしかにピクルは嚙みつきを用いるが、なんというか、嚙道のようにそれを中心におくというものではなく、最終目的が食事であるから、闘争がそこに連続するものとするならば、自然と、特にバトルの最終局面では噛みつく行為が馴染みはじめる、みたいなはなしだった。いきなり方法としての嚙みつきを行使するということは珍しいようにおもう。たぶん、以前のファイトをピクルは覚えていて、いまのジャックの語りもなんとなくは理解したうえで、嚙むという行為にこのひとは異常に執着しているということを感じ取ったのかもしれない。それを汲んだ、というところまではいかないとしても、刺激され、影響を受けて、嚙みつきに出てしまった感じだ。ピクルはいいやつだよな。後頭部をポカンと拳でぶん殴るとかしても不思議はないのに。

 

現在のジャックのファイトスタイル、嚙道を完成させた直接のきっかけは本部である。だが、決定的なピクル戦での敗北から現在に至るまで彼の強さへの意志を駆動させ続けたのは、ピクルの慟哭を聞きたいという欲望だったのだ。ピクルに突き動かされ、それを実現するための方法を本部が発見させたと、こういうことのようである。

 

さらに、前回のピクルのカラスを食しゴミをすする動作の描写からわかるように、彼は「エエカッコしい」をしない人物の究極のモデルでもある。人目なんか気にしない。そもそも、ひと、「他人」という概念が人類とは異なっている可能性のあるピクルであるからそれも当たり前のことだが、ともかく行為としてはそうなっている。それはジャックにもあこがれだったはずだ。「嚙む」という行為を闘争に練りこむことを、ほとんどのファイターは厭う。いろいろ考えてきたように、その理由はいくつかあるが、ひとことでいえば「なんかカッコわるいから」だろう。ジャックがそれを選ぶ際に、その最後の障壁を取り除く努力をしたのかどうか、そもそも、そんなものはあらわれなかったのか、それはわからないが、ジャックにも「エエカッコしい」の欲望はあるだろう。しかしピクルにはそんな衝動は最初からない。どうでもいいとすらおもわない。他人なんか文字通り眼中にない。非エエカッコしいの天才なのだ。だが、ジャックの欲望はピクルの慟哭に向いている。それは、ピクルを制圧し、屈服させ、見たことのない表情を引き出したいという欲望だ。これは「他人のことなんかどうでもいい」という態度と、部分的に矛盾するかもしれない。もちろん、ピクルにも勝利欲はあるだろう。だが、現代のファイターが感じるものともやはり異なってはいるだろう。ある種、ピクルが最強なのは、そう望んだからでもそうなるよう努力したからでもなく、たまたまなのだ。だから彼は恐怖心をあまり隠さない。逃げ出すこともよくする。なんならジャックに負けても、恐怖で逃げ出しても(前のときはぎりぎりで克服したが)かまわない、そういうものにあこがれるジャックは、ピクルにこだわりつづけているのである。ここに隠し切れない非対称性はある。だが、ここでジャックがすがるべきは、じぶんがピクルのような生きかたができているかということではなく、ジャックらしさを追求できているかということだろう。ジャックらしさとは、ピクルと比較したときには当然、「現代人としてのエエカッコしいからの脱却」というはなしになる。ピクルとジャックでは、前提がちがうのだ。そこで、ジャックはジャックとしての解釈をする必要が生じる。それが今回の「噛みっこ」のくだりではないかとおもわれる。彼は嚙むことを楽しんでいる。溶け合うことに喜びを感じているのである。

 

キスや性交がそうであるように、相手の皮膚より内側に、身体のいちぶを食い込ませる行為は、溶け合いの感覚をもたらす。「エエカッコしい」の感性をもたないジャックは、他人に興味がない。だが、溶け合うことには興味がある。これはすなわち、幼児的な世界観への逆行である。なぜなら、ひとが成長し、「他者」というものを学ぶ、その過程は、液体のように混ざり合った「世界」に、痛みとともに少しずつ線を引いていくという行為にほかならないからだ。しかしジャックは、線の引かれた向こう側にある「他者」には興味がない。彼は嚙みつきでその線じたいを超越し、融合しようとするものなのである。

 

 

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