すっぴんマスター -18ページ目

すっぴんマスター

(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第19話/父が子を誘う理由

 

 

 

範馬勇次郎とジャック・ハンマーの親子がホテルで会食中だ。

 

テーブルにはモリモリの骨付きラム肉が置いてある。ひとつひとつは小さいけど、とてもふたりで食べる量には見えない。

ウェイターが説明する前で、ふたりは勝手にはじめる。ふつうは骨を外すものだが、ジャックはポッキーみたいに骨ごと食べる。骨ごと食べるというか、骨も食べられる箇所のように当たり前にかじるのである。勇次郎はふつうに食べてるらしい。勇次郎も人間の骨格をしていないし、やろうとおもえばできそうだけど。

骨をかじり、くだく音がどういうものか知らないが、なかなか騒々しいらしい。個室で幸いだったと勇次郎はいうのだった。

 

食事が終わったところで、ジャックは、何故じぶんを誘ったのかと訊ねる。理由が必要かと勇次郎がいうのに対して、父親が自分について語るすべてを、余すことなく聞きたいとジャックは素直にいう。勇次郎はかなりうれしそうだ。見たことない顔だ。

勇次郎は、父親が息子を飯に誘うことのどこが不自然なのだと、わりと真顔でいう。以前ならこれはもう少し演技くさかった。刃牙との経験を通じて、これを本気でおもうに至ってるっぽい。

ジャックは笑いを隠しながら、それは普通の父と子のはなしでしょという。そりゃあ、そうだなあ・・・。範馬家では、勇次郎がどれだけ「父」になりきれたとしても、うそくささは拭い去れない。

ジャックは勇次郎の目を見ながら、特段敵意がある感じでもなく、素直な質問として、あなたはじぶんを普通の父親だとおもうのかと問う。勇次郎は「フツウ・・・か・・・」といって少し黙っちゃう。そして空を見上げ、考えたことのないと気がつくのだった。

まあ、たいがいのひとは、ふつうとはなにかなんて考えないとおもうので、こたえとしては勇次郎だからどうだというものでもないのだが、ジャックはそれを勇次郎らしい回答だという。まあ、勇次郎が「普通とはなにか、考えたことがない」というふうに読むと、たしかに勇次郎らしいかもしれない。

尊敬と憧れをこめてジャックは、人として、生物として普通ではないと勇次郎を評す。勇次郎はふつうにその言葉を受け取っているが、まともに見たら挑発文句である。ウェイターはたまらず退室だ。だが、じつはドアの外からなかをうかがっている。

勇次郎は、ふざけてるのか本気でへこんでいるのか、それを「人でなし」と言い替える。だいぶちがうとジャックはあわてるが、「尊敬と憧れ」に免じて許してやると。

だが、長いあいだジャックのはなしを聞いていた勇次郎は、いつのまにか闘争心でいっぱいになっていたっぽい。基本的にジャックは勇次郎をほめていたわけだが、そこに含まれる微量の挑発と、ジャックじしんの魅力が、勇次郎をその気にさせてしまったのかもしれない。デザートのタイミングだが、そんな柄でもないだろう、それより、何故イチバン手にしたいもののために踏み出さないのかと、勇次郎が髪を浮かせながら立ち上がる。

ジャックは落ち着いている。以前までには感じられなかった、強烈な自信が見て取れる。それは勇次郎のほうではないのかというはなしだ。あなたこそが俺を欲しいのではないかと。テーブルをまわりこんで立ち上がったジャックはほんとうに巨大だ。それを、勇次郎は泣かすぞという。ゴングも行司もない、襲いかかれば開始だと、ジャックは応じるのだった。

 

 

 

 

つづく

 

 

 

いまのジャックはほんとうに強い。勇次郎、バキ、ピクルと、若干例外的に武蔵が強さとして並んでいるとして、範馬一族としてようやくそこにジャックが食い込むことができた感じだ。ほんとにたたかうなら接戦だろうし、すごく長くなるだろう。つまり、本気でははじまらないと見た。

だが、本気ではないならないで、勇次郎と接触することで、ジャックの強さがほんとのところどれくらいかわかるだろう。

 

勇次郎が「普通」を考えたことがないというのは少し意外でもあった。なぜなら、食事のマナーやいま見せている「父親らしい」ふるまいは、「普通」の目線を想像的に獲得することでとられているものだからだ。これについては、本人が普通であるかどうかは関係ない。「普通」とは、規範のことである。規範が、動詞になって働き、ダイナミズムを帯びている状態のことである。「エエカッコしい」のはなしにも通じるこの「規範」について、勇次郎は考えたことがないというのである。

ただ、ここでの会話は、「貴方は自身を普通の父親だと」おもうのか、ということで、それを受けて、勇次郎はいちど「普通」という言葉をかみしめて、考えたことないといっている。「普通」を考えたことがないのか「普通の父親」を考えたことがないのかで意味は微妙に異なってはくる。しかしここでは、いずれにしても「どのようにふるまうべきか」という規範について考えるものとして、同一にあつかうこととする。

 

勇次郎が「普通」を考えたことがないという状況については、みっつのものが考えられる。ひとつは、嘘をついているということである。ジャックは父の強さを崇拝している。そんな息子の前で、彼は引き続き「範馬勇次郎」を演じてしまっているのかもしれない。ふたつめは、勇次郎じしんが気づいていないということである。彼は、地上最強という孤独のなか、それでも食事のマナーのような、社会関係の網目のなかでのみ有効な、ローカルな作法を身につけている。そうなっているからにはかつてそこに渇望があったことになる。その場所で求められるしかるべきふるまいを選びたい、ふつうのひとがしていることをしたいという欲望があったのだ。そうして、彼は、地上最強ではない市井のひとびとにとっての世界を想像し、そうしたマナーを身につけたはずなのである。この過程が、すっぽぬけてしまっているのだ。たしかに、範馬勇次郎が「渇望」するなどということは、セルフイメージ的にもあってはならないことだろう。孤独の描写じたいが、バキ戦で初めて見られたものだった。勇次郎は、じしんの孤独を、忘れないまでも、なるべく見ないようにしている。その結果、「ふつうのふるまい」を求めたという事実も、無意識に見落としてしまっているのかもしれない。

そして三つ目は、言葉のまま、「普通」について考えることなく「普通」が実現しているということだ。これは、それこそ「普通」のひとなら、当たり前のことだ。たいがいのものは、ひとのものを奪っていいかどうか検討してから奪うことをやめる、というふうには生きていない。ただ、奪わない。しかし勇次郎はそうではないだろうというのが問題なのである。

普通の父親らしいふるまい、普通の食事のマナー、骨ごと肉を喰らう息子を見て個室でよかったとする普通の感覚、これらを、それがなんであるか理解しないまま、ほんらいそこに属さないものが身につけているという状況、それがこの三つ目の解釈だ。文化資本という考え方があるが、たとえば高い教養を、「教養」というものが存在しないような世界で、特に意識せず身につけるということは不可能である。

 

こうしたわけで、おそらく勇次郎においては、ひとつめとふたつめの解釈が入り混じったような自己確立が行われているのではないかとおもわれる。つまり、「普通」を模倣していることを、彼自身気付いておらず、そしてなぜ気付いていないかというと、そこには「範馬勇次郎」というセルフイメージがあるからなのである。「範馬勇次郎」たるものが、「普通」を意識して、孤独から逃れようと、擬似的な「社会」を体験しようとしていることを、自他にむけて示すことに彼は耐えられないのである。だから、そのような模倣が実行されたことを彼のこころの安全弁のようなものは忘れさせるのだ。

 

そして、おそらくこれが、勇次郎における「エエカッコしい」の本質なのである。孤独を貫徹せず、妙なところで社会性を発揮しようとし、じっさい身につけて行使している、そのことが、範馬勇次郎という存在にわずかなゆがみを呼んでいるのだ。ゆがみといってもそれは、前回見た「強さ」目線でいったときのはなしだ。ジャックが体現する「強さ」は、ある種の子どもっぽさからきている。強さだけ、それだけがあればいいとするものは、社会性なんか必要としない。そういう目線で見たとき、それは「エエカッコしい」になるのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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第98審/生命の値段⑦

 

 

 

白栖雅之医院長が検察に逮捕されたところだ。取り調べるのは九条の兄、鞍馬蔵人である。

内容としては、ファクタリングということで、またややこしいが、支払われる予定になっている診療報酬を債権にしてファクタリング会社に買い取ってもらい、先にもらうということのようだが、そのことじたいは違法ではないという。ただ、その際に架空の請求書を発行してしまったようなのだ。つまり、債権を発行した時点では存在していなかった売上を捏造したということだろうか。期日までにファクタリング会社に振り込めばよいと考えてついやってしまいがちらしい。ファクタリング会社としても、期日に同じ金額が支払われることになる。だが、その行為じたいは詐欺ということになる。

雅之はすぐに弁護士の相楽を呼ぶようにいう。どういう戦略なのかよくわからないが、蔵人は電話番号を聞いたり、調べてかけろといわれてから黙ったりする。白栖はこういう状況に慣れているということなのか、蔵人の拒否を見越すように、腕に書いておいた電話番号を見せつけて電話するように改めていうのだった。

 

蔵人が書記っぽいことをやっていた部下に白栖病院のこれまでを解説する。80億もの累積赤字を抱える病院を、医院長は徹底的な効率化と人事戦略で復活させた。アメリカで学んだスーパードクター、長男の正孝を中心にして呼吸器、消化器を得意分野として打ち出して医療資源を集中させた。だがじっさいは資金繰りにおわれて今回のような詐欺もやっている。ファクタリングより前に描かれた病床数の詐欺でコロナの補助金をもらうメソッドにかんしては、そのやりかたを他の病院に提供してなんらかの利益を受けていた可能性があるとまで蔵人はいう。蔵人は部下に、相楽に電話するようにいい、外でタバコを吸うのだった。

 

正孝は友人の山根と会っている。ぱっと見さえない感じで、正孝の友人というより金をたかる小学校の同級生みたいな雰囲気だが、医者らしい。

山根は、奥さんへの傷害で捕まり、離婚でもめていると、泣きながらいう。もとは嫁のいいなりで勤務医だったが、給料も悪いしきついから製薬会社の査定をする医者になったのだという。9時5時で帰れるのはよかったが、家事をおしつけられ、自分の時間がなくなっていった。そういうなかで否定的なことを毎日言われ続け、スーパーで軽く小突いたらわざと派手に転んで通報されたと。山根はストレスでハゲてしまっている。奥さんの心配をする正孝に、「山根のことも心配してるだろ?」と、急に山根がギャルみたいなしゃべりかたになる。いや、ギャルは名字で自分を呼ばないか・・・。

用事というのは、離婚の弁護士に払うお金である。気前よく封筒にいれたお金を預かり、山根は、いい弁護士の電話番号は記憶しておけと正孝に忠告する。山根は学生時代から正孝と知り合いらしいが、正孝は医師免許の性格判断試験で2回落ちているらしい。彼は、人の気持ちがわからないという。正孝はそれを、感情を学ぶ時間に勉強していたからだと解釈している。なぜ相手が不愉快になるのかが理解できない。だから、なにがダメかをパターンとして公式にして、生活を送っているらしい。そんな彼を知っているから、山根は弁護士のことをいうのだ。いつか必要になるということである。

 

そして、山根が国選からかえて無事不起訴にしてもらったという「いい弁護士」というのが、九条である。傷害の件を不起訴にしたのだ。離婚も引き続き九条が担当するが、裁判にするより和解して示談がいいのではというはなしである。そばには烏丸がいて、九条の不健康な食生活を指摘したりしているのだった。

 

 

 

つづく

 

 

 

 

白栖のもとにはさっそく相楽がやってきているが、ほかの弁護士をふたりも連れてきているので、3倍の金がかかることになるようだ。いちいちお金かかる感じにもっていくのだな。

 

ともかく、山根を経由して、正孝と九条とのつながりができつつあるわけである。

だが、もともと正孝と九条はつながりがあった。第1審の交通事故で足を失った少年の裁判を、正孝は追っていたのだ。あちこちの病院をたらいまわしにされ、最終的に弟の幸孝の病院で足を切除することになったことを、正孝は後悔している。これは、弟の拝金主義的なものと対立する考え方として、病院の理想像を述べる過程で出てきたはなしだ。それは、現行の医療システムの瑕疵への怒りと、じぶんなら切除させずに済ませることができたかもしれないという、技術的不足の瀰漫への怒り、それに、その少年の足を奪った犯人側の弁護士・九条への怒りがごちゃごちゃになったものだったのだ。

ふつうに考えると九条と正孝は対立しそうだが、いろいろなぶぶんで似ている。だが、決定的に異なるぶぶんもある。おそらく、九条と正孝は、互いに相対化するしかたで、システムへのアプローチのしかたを浮き彫りにする関係性になるとおもわれる。

似ている部分とは、以前(といっても休載の関係でずいぶん前のはなしになり、ぼくじしんあんまり覚えていないのだが)書いた「創出」と「対応」の、ふたつの取り組み方に関してである。これは、今回のはなしでいうひとの気持ちがわからない正孝のありかたともつながる。「創出」とは、患者や依頼人、つまり、病院や弁護士の客を作りだす、という意味である。「対応」とは、まず患者や依頼人が出現し、しかるのちに、医術や法律が誕生するという順に行われるものである。「創出」サイドは、現実の厳しさもあって病院経営を効率的に行う白栖医院長、次男の幸孝、そして医院長から火種をたやさないよう注意する相楽弁護士がいる。彼らでは、まず医者や弁護士がいる。そのために、患者や依頼人を作りだすのである。「対応」サイドにいるのは正孝と九条、それに壬生である。彼らはどちらかといえば原理主義的で、医術や法律の本質からものごとを見つめなおそうとしている。まず、患者や依頼人が現れる。そこに、技能をもつものとして自分達が駆けつけ、なんとかする。彼らの考える仕事の原像はそういうものだ。「対応」することが仕事である以上、彼らに定時勤務というという概念はない。患者があらわれたときが仕事のはじまるときなのだから、当然そうなる。すると、必然的にプライベートというものが失われることになる。かくして、妻をないがしろにする正孝、職場に住む九条という状況が生じるのである。ここに壬生が入るのは、壬生のような不良も、そういう生きかたを強いられるからだ。いつヤクザにさらわれるかわからない状況に定時などない。17時を過ぎたから今日はもう京極の手下が襲ってくることはないな・・・なんてことはないのである。

そして、原理主義的な彼らが、その手続きにしたがうとき、感情は無用となる。九条がこころのもっともやわらかいところにあるべき両親にかんする記憶をトラウマとして処理し、思考の道程からはずしていることからもわかるように、彼も感情を意図的に排除して仕事をするものだ。正孝は、ある種の症状として、そうした感情が欠けているようである。このぶぶんも、似ているといえば似ているが、いま意図的かどうかを記したことでわかるように、似ていないといえば似ていない。そしてその理由も明らかである。九条は、システムにしたがうために、手続きを守るために感情を捨て去る。たほうで正孝は、システムへの怒りとともに、現行の状況を嘆くとともに仕事をするものなのだ。

 

こういうわずかなちがいが、両者がもし接触することがあれば、浮き彫りになるのではないかと期待できるのである。むしろこの点については、正孝は、悪法を変えようとする烏丸に近いのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

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第18話/初めてのこと

 

 

 

 

今回のチャンピオンは、『刃牙らへん』1巻発売記念でスピンオフ作品の短篇がたくさん載っているぞ!

ほとんどがストーリー的に意味のあるものではなく、単発的に魅力を伝えるものだが、疵面だけはちがう。疵面だけは、ふつうに続く感じのストーリーだ。期待していいんですか?このブログの、しかもこの記事読んでいるようなかたにはあまり意味のないはなしだろうけど、疵面はほんとにおもしろいから、バキ読者で読んだことないひとはぜひ読んでみてください。

 

 

本編では鎬昂昇戦を終えたジャックが、おそらく招待されるかたちで、勇次郎と食事を摂っている。これって、親子喧嘩が開始したときのあのホテルなのかな。だとしたらホテルのスタッフは気が気じゃないだろうな。勇次郎が息子を読んで食事という、同じ状況なわけだから。あのときも近くにウェイターっぽいひとがいたけど、同じひとかな。手元に該当巻がないからわからない。でも、そもそもウェイターでは勇次郎の対応は許されないかもしれない。

先に飲み物を用意するかということで、ジャックはものすごい戸惑いながら水をという。ウェイターはそれを解釈して、ミネラルウォーターを用意するというが、もちろんジャックはそんなつもりでいってない。なにか飲み物を好みで選ぶという状況じたいが、ジャックの人生にはあまりなかったろう。飲み物とは、たんに水分を摂取するための媒介でしかなかったはずだ。察した勇次郎が、水道水は出ないぞという。ジャックはようやく、ではミネラルウォーターを・・・と、息もたえだえになりながらいうのである。まだ状況をつかみとれていないっぽいウェイターは、ガス入りかガスなしか尋ねようとし、勇次郎が「水道水を注文した客にする質問か」と諌めるのだった。要するに、客に恥をかかせるのかということだ。ウェイターは、お客が「水」といえば「水道水」を想定するようなものであるということを見て取って、気をつかうべきだった。聞かずにおすすめのものにしてしまうとか。でも、勇次郎がそんなにおっきい声でいっちゃったらあんまり意味ないけど。

 

勇次郎の指示でドライシェリーが運ばれ、勇次郎は笑顔でグラスをかかげる。ジャックもなれないてつきでグラスを上げ、乾杯とくちにする。ジャックがひとくちで飲んでしまったのを勇次郎は楽しそうに見ている。うますぎて骨折レベルの大怪我をしたときの描写みたいに大量に発汗するのだった。初のシェリー酒、というか、乾杯が初めてだったということである。これは勇次郎にも意外だったようだ。勇次郎が想像している以上に、ジャックの人生は「強さだけ」だったのだ。

豚の丸焼きをぼりぼり食べるようなジャックには信じられないような料理が続く。鮮魚のカルパッチョは薄すぎてくちのなかで溶け、魚にはおもわれない。カナダ生まれということで、ナイフ・フォークの使い方の基本はできているらしい。はるか刃牙の上だなと、やはり楽しそうに勇次郎はいう。その「遥かに刃牙の上」という言葉に、ジャックは強く反応してしまうのだった。

やってきた白ワインのシャブリもジャックはひといきに飲み干す。飲み方は最悪だと、ため息をつきながら勇次郎はいうが、それも、マナーが悪いというより、うまいからなのだ。

つづく海亀のスープにジャックは山盛りの材料を思い浮かべるが、このリアクション、誰かもやってなかったっけ。バキか?

次は「オマールのしシャンパン蒸し アメリケーヌソース」という、どのぶぶんがなにを指すのかよくわからない料理だが、オマールというのは海老らしい。

ジャックの緊張も少しずつとけてきているのかもしれない。そして、料理がうますぎて、食欲が増してきてもいるのかもしれない。手でつかんで食べていいかというので、個室だからということで勇次郎はOKを出す。ホールではやるなよと。そうして、ジャックはまるごとバリバリ喰らうのだった。

 

 

 

つづく

 

 

 

ほんわかこころあたたまる親子エピソードのようでもあるが、最初に書いたように、現場がホテルということもあって、少し不穏でもある。最後に「無事終わるのか?」と心配してるのはウェイターなのだろうか。心配だよな。この前の親子会食はあんなことになったわけだし。

 

今回の会食がどういう方向に転がるのかにもよるのだが、ジャックにかんしていえば、彼がいままでどれだけの強度で「強さだけ」を求めて生きてきたかということがわかるものになっている。が、それと同時に、これは勇次郎の描写にもなっている。ひとつには、前回書いたように、彼がバキとの親子喧嘩の果てに「他者」を獲得したということに確認である。勇次郎は、明らかに「父親」としてふるまっている。それは、バキとの会食時にも見られたふるまいではあるが、前回のラストにあった「たまにはやわらかい物でも食え」というようなセリフからして、より自然なものになっているといえるだろう。バキとの会食は、親子喧嘩の前であり、したがって、勇次郎の父親としてのふるまいは、まだ「ふり」を出なかったものとおもわれる。すべてを腕力で押し通すことのできる彼には、原理的にいって「不如意」がなかった。不如意とは、他者の原風景なのである。だから、勇次郎は、ほんとうの意味では、「他人」というものを理解していなかった。ただ、じぶんの腕力でどのようにでも動かすことのできる人形のようなものでしかなかったのである。とはいえ、長いあいだ生きてくれば、「ふつうはこういうふうに他人というものを受け取るものらしい」ということはわかってくるだろう。それを真似していただけなのだ。

だが、ジャックに対するふるまいは、あくまで感触としてはということを出ないものの、もっと自然体なのだ。「やわらかいもの」のくだりは、要するに、「もっと『強さ』以外も味わってみろ」ということであり、同様に強さに生きるもののセリフとしても、語の余剰ぶぶんの多い、非常に人間らしいセリフといえるのである。ここに、勇次郎の人間としての成長が見て取れたわけだ。

 

そしてもうひとつ、今作ではおそらくこちらのほうが重要になるかとおもわれるが、彼の「エエカッコしい」のぶぶんが表出していると見る考えかただ。

 

はなしをもっともかんたんにしてしまうと、本作のテーマは、「刃牙らへん」のものたちは、刃牙や勇次郎をも含めて、「エエカッコしい」であり、ジャックだけが、人の目を超越して嚙道にたどりついたのだというはなしであった。これを「本部談話」と呼ぼう。この見解については、光成から加藤まで、作中人物はおおむね同意しているようであった。これはむろん闘争にかんするはなしである。実戦派の独歩も、技をきめたあとには習慣のように気合とともに残心の動作をとる。しかし、果たしてそれはほんとうに必要なのか、人の目を気にしてやっていることではないのかと、例外や解釈を排除してはなしをかんたんにしてしまえば、そういうことになる。この疑問が勇次郎にもあてはまるというのは本部談話からいわれていたことであって、たしかに、勇次郎には独自の美学のようなものがあるようではあったわけである。今回はそのことについて、闘争以外の視点で描かれているものと考えられる。まず、ウェイターの炭酸についての発言をとがめるぶぶんである。これは、ジャックがミネラルウォーターといわれて戸惑う人間であることを見て取り、接客業としてそこを汲むべきではないかと、ウェイターをたしなめる描写なのだ。相手がどういう客なのか見て取る、そしてそこで適切な行動を選び取る、さらには、第三者としてそうすべきだと考える、これらすべてが、きわめて社会的な動物としての思考過程であり、社会関係の網目のなかで生きるもののみが身につけている非常に高度な「読解」なのである。

さらに、ひとくちで酒を飲み干してしまうことを笑いながら指摘したり、「ふつうはこうすべきである」という規範がまずあって、それにジャックがしたがっていないことを、楽しそうに眺めるということを、今回の勇次郎はずっとしているのだ。この「楽しそうに眺める」という動作に、勇次郎の大人としての成熟と、「エエカッコしい」のぶぶんが同時にあらわれている。つまり、規範を守るものとして指摘し、教育しつつも、彼は成熟した大人としてジャックを認めているので、否定的にはそれを受け取らないのである。

そして最後の大海老ではついに、「個室」だからよい、というところにまでたどりつく。「ホール」でそれをしてはいけないのは、人目があるからだ。つまり勇次郎は、人目を気にする/気にしないの、絶妙な匙加減を、ジャックを通じて自分自身堪能しているのである。最後に、勇次郎はウェイターにむけて「しっ」としている。ウェイターがなにかいおうとしているようには見えないが、これはおそらく、まさしくそのウェイターが「他者」だからだろう。海老のまるかじりを見られてはならない「ホール」の住人だからだ。これは、見なかったことにしてくれ、そのために、いまはいないことにしてくれ、ということを、勇次郎はいっているのである。

 

問題になるのは、今回勇次郎が「大人」としてみせた「エエカッコ」を、ジャックがどう受け止めるのかということである。親子喧嘩の結果として勇次郎は成熟を果たし、「カッコよくふるまうこと」をたんなる美学としてではなく、一種の包容力をもつものとして実現させている。もっといえば、ジャック的な「ん人目を気にしない」スタイルというのは、成熟した勇次郎の目を改めて通してみれば、それは要するに未成熟の、「子ども」のものなのだ。だが、ジャックが「子ども」であることを貫くことで嚙道を極めたことも事実である。バキ世界の人物たちがジャック的なありようをおおむね肯定的に受け取っていることからしても、こうした「子ども」のふるまいは、「強さ」とは相性がいいということになるのである。このことをジャックはどう受け取るのかということがポイントだろう。勇次郎を通じてジャックはじしんのスタイルが未熟をよしとする「子ども」のものだということを実感しただろう。別に、それでいいといえばそれでいいわけである。強ければいいのだから。そこの葛藤がどうなるのかが、今後の論点である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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第17話/範馬家の評価

 

 

 

ジャック対鎬昂昇が終わり、負けた鎬昂昇のくちを通じて、ジャックの美意識をもたない徹底ぶりについて、ふたたび描写されているところである。これは、前作『バキ道』のおわりのぶぶんで、本部がガイア、加藤と議論していたところから始まっているので、本作『刃牙らへん』のテーマとなっていることといえる。

 

刃牙は光成を訪れている。ジャックは最大トーナメントでバキとたたかったころよりはるかに強くなった。いまでも勝てるか?という問いかけである。バキはそのことには応えないが、清々しさにあふれていたと、独特の表現をする。それを光成が、これまで作中でされてきた表現に言い換える。強くなること、勝つことのみ特化し、他者からの評価には興味なしと。バキ世界では、誰かがそのように評価したことがいつのまにか周囲では一般的に共有されていたりすることがよくあるが、これもそれっぽい。そういうふうにいわれている、ということは、バキも知っていた感じだ。しかし、バキは懐疑的だ。宿禰戦での、歓声をあびて、それを堪能する姿のことをいっているのだ。たしかに、これは引っかかるところである。

バキの解釈としては、「報われたい」ということがあるようだ。とくに勇次郎である。勇次郎から誉められたい。逆にこの件は、勇次郎にフォーカスしないほうがよいかもしれない。ともかく、報われたいのだ。だから、賞賛は喜んで浴びる。そのなかでも、勇次郎からの賞賛が欲しい。それが、他者からの評価を気に留めないという、歪なスタイルを生んでいるのである。

 

次は愚地独歩と克巳だ。独歩が道場でコンビニ袋をつかって遊んでいる。ふわふわ予想のつかない動きをするこれを、独歩がおしゃべりをしながらリフティングでもするみたいにコントロールする。そして、息をふきかけてやや高くあげたところを、飛び蹴りで斬る。着地して、「せいやッ」の気合だ。だが、その「せいや」が余計だというのがジャックなんだろうと、やはり例の本部談話が共有されていることをおもわせる発言だ。いちおう克巳は、「せいや」は必要ですかねと、訊ねる。克巳ってこんなしゃべりかただったっけ。

残心は空手道の「見得」、見せ場だと独歩はいう。現代のファイターが、勝利が決まるなり両手をあげて防御を解き、ゆるんでしまうさまをおもうと、残心はもっと実用的な意味のあるものだとおもうが、それも詭弁かもしれない。ここは、見せ場だと断じるほうが誠実なのだろう。それを、昨日今日立ち上げた嚙道に理解できるのかというはなしだ。なるほどな・・・。

 

 

勇次郎が滞在するホテルにはジャックが訪れている。作中初の光景だ。ふたりが食事をともにしているのである。視力はもどったのかとくちにする勇次郎も前代未聞だ。ジャックはサングラスをしているので、まだ微妙なのかもしれない。そして、ジャックはとてつもなく緊張している。表情が硬いと。その彼に勇次郎は、「たまには柔らかい物も食え」と、粋なことをいうのだった。

 

 

 

つづく

 

 

 

勇次郎は本気でジャックを認める方向に舵を切ったようだ。ジャック、強くなれてよかったね・・・。

 

バキと比べるとジャックのことはネグレクト気味だった勇次郎だが、最近になって評価しはじめているらしいことがわかっている。鎬戦前のお散歩では、骨延長手術による高身長化に身体の機能が追いついていると、ジャックの言を受けて彼の成長を認めていた。そして、大きければいいとするジャックの短絡さを、そう述べながら、できることではないとしていたのだった。勇次郎にできるかどうかはこのセリフだけではわからないが、一般にいってそうであるということをくちにしたのだ。これは、本部からはじまったジャック評価の流れにあるものではある。

 

親子喧嘩時にくりかえし書いていたことだが、勇次郎の強さをひとことでいえば、「既知」ということになる。彼は対戦するものの得意なものをじぶんもやってみせることで、相手のこころを折ってきた。13歳のバキが必死で編み出した胴回し蹴りのカウンターには、胴回し蹴りのカウンターで応じる。中国拳法最強の男、郭海皇が到達した最終奥義・消力には、まねたのかすでにもっていたのか、消力で応じる。襲いかかる最大トーナメントの敗者たちは、各選手が得意とする分野で圧倒する。わざわざそうするのである。勇次郎は、なんでも知っている。なんでもできる。これが範馬勇次郎ということなのである。

このことが浮き彫りになったのは、親子喧嘩でバキが虎王を決めたときだった。虎王はバキ世界の技ではない。『餓狼伝』という、夢枕獏原作の板垣作品の奥義だ。これが、美しく決まったのだ。なぜ決まったのか? それは、虎王が他の作品、他の世界という異次元からやってきた技であり、端的に未知性を備えていたからなのだ。もちろん、オリバのリアクションもあったことだし、虎王はじっさいにはバキ世界にも存在していたらしいことがわかっている。だが、バキが物語作品として読まれるときに、虎王が『餓狼伝』の技として読者に受けたられることは必然である。なぜ虎王があんなにきれいに決まったのか、そしてなぜそれで、絶対者勇次郎の威厳は、依然として損なわれないのか。それはこうした事情によるのである。

このことにはバキもまた気がついていた。その結果が、ゴキブリを師匠とする態度である。なぜゴキブリなのか? ゴキブリが、加速においてじっさい優れているとバキが感じたから、ということはあるだろう。だがそれだけではない。ここに含まれていることは、とうてい「師匠」にはなりえないものからも学ぶという、対勇次郎において必要な格闘哲学だったのである。なぜなら、勇次郎は既知の王者だから。優れた武術があるらしい、では学ぼうと、そこに出かけても、それはすでに勇次郎が修得し、蹂躙したあとである。バキはいつまでも、どこに出かけても、勇次郎のあとを追っていくことしかできなかった。だから、勇次郎に限らず、誰も師匠とは考えないであろうものを拾い、そこから学ぶしかなかったのである。「ゴキブリ」ということが記号的に示すのはそうしたことなのである。

 

そして勇次郎のジャック評価である。そんな既知の王者、オールマイティである勇次郎が、ジャックの行為を「出来ることではない」としたのである。これがどれだけ重い言葉か、以上のことを踏まえるとよくわかる。「お前にできて俺にできないことはない」が勇次郎の基本スタンスなのだ。その彼が、一般論的な口ぶりではあれ、ジャック的ありようを出来ないとしたのだ。絶対者勇次郎にとっては、すべての格闘技者のふるまいは、じぶんの内側に含まれる、復元性に満ちたとるにたらないものである。彼にとってはどんな格闘技者のアイデンティティも意味を失う。勇次郎の前では、「オレはこの分野では絶対に負けない」と、格闘技者が自信をもっているぶぶんすべてが意味を失効するのである。その勇次郎が、ジャック的ふるまいを「出来ない」とした、つまり、じしんの内側には含まれていない他者的なものと認めたということなのである。

これは、たんにジャックが強くなったことそれだけが原因なのではない。勇次郎じしんのほうでも、親子喧嘩を経て、大きな変化をしているということは当然ある。親子喧嘩での決着は、勇次郎に「他者」を与えた。「他者」とは、「思い通りにならないもの」のことである。じぶんに比肩する強さのバキという「他者」が、はじめて眼前にあらわれ、あのような、勇次郎にとっては前代未聞の決着をみたことで、彼は、赤ん坊が痛みを通じてはじめて世界を分節したときのように、「思い通りにならないもの」の存在を知るに至ったのだ。バキ戦があったからこそ、勇次郎は「他者」としてのジャックを受け容れる準備ができたのである。

 

そして、その高評価から、今回は「たまには柔らかい物も食え」という、まるで「親」のようなセリフに至るのである。「たまには柔らかいものを食べたほうがよい」ということのココロは、これだけではわからないが、この言葉に含まれているものは、じぶんと比べるとまだ未成熟である子に対しての、そうしたほうがいいよという導きの感覚である。たとえば、親というものは、子にたいして「勉強しなさい」というものだろう。勉強したほうがいい、それは親には自明である。いざそれをなぜかと聞かれると、意外ととんちんかんな返答をしてしまいがちである。選択肢がとか、こたえるほどに、「勉強しなさい」と指示していたときの自明感は失われ、意味がせばまっていくようにおもわれる。親の説教というのはそういうものだ。ただ、おそらく子はそれを理解していないということはわかる。その、先をいくものの感覚が、愛情と一致したとき、説教が生まれるのだ。親子喧嘩を経験する前の勇次郎の世界認識は、乳児とそうちがわなかった。なにしろ、思い通りにならないことがなかったのだから。ふつう乳児は、母親の乳房がくちもとにない痛みを通じて、生まれて初めて世界を大きく二分する。世の中には「わがままが通るもの」と「通らないもの」があるのだと。この「通らないもの」が、「他者」の原風景である。しかし勇次郎にはそれがなかった。いつか描写があったが、誕生の瞬間から、彼は産婆さんを脅迫するようにして取り出させていた。だから、彼がいかに父親らしいふるまいをとっても、それはまねごとにすぎなかった。彼は世界のなんたるかを知ることのできない強者だったのである。それが、親子喧嘩を通じて、はじめて「人間」になれた。「人間」にならなければ、「親」になることもできない。「人間」だけが、「勉強はしておいたほうがいい」というようなことを実感として知ることもできない。かくして勇次郎は、バキとジャック、ふたりの息子との関係を通じて、はじめてほんとうの「親」になったのだ。そう、今回のこの場面は、なにより勇次郎の成長の描写なのである。

 

ひとの目を気にしないジャックが宿禰戦ではめっちゃ喜んでいた件について、作中で、それもバキから言及があったのは大きい。そして、それが「報われる」ということで解釈可能だと、よもやバキと光成のくちから判明するとは、うれしい驚きである。強くなりたい、そのためにはひとの目なんかどうでもいい。美意識もない。それがジャックなのだが、じっさいの勝利や、歓声などを通じて報われたいという気持ちはある。これが同居するというはなしなのだ。評価よりはじぶんの納得感を優先させる、結果のためならなんだってやる、しかしそのいっぽう、そんなじぶんをすごいとおもってもらいたい、というような気持ちになることは、むしろ一般的な感覚であたったほうがわかりやすいかもしれない。金儲けのためなら古い友人たちから縁を切られたっていい、でも、理解できるひとには理解してもらいたい、こういうような感じだろうか。なかでも勇次郎はもっとも理解してもらいたい人物だった。ただ、この感覚が、ジャックのなかで美意識の意図的な削除とどう折り合いをつけるのかなという感じはする。翻って、ジャックは勇次郎の評価すらどうでもいいとなってしまわないかなという気がするのだ。

 

 

独歩のような営利的な格闘組織を運営するものがジャックのスタイルにけんもほろろな態度をとるのはよくわかる。前回に引き続き、武術家がなぜカッコつけがちなのかについては特に説明はないが、事実としてそうである。独歩のような経営者の立場からすると、さきほどの「勉強しなさい」ではないが、自明すぎて、うまく説明ができないかもしれない。毎度くりかえしていることだが、ふつう、格闘の技術体系が確立するということは、一般人にもコミット可能になるということとほとんど同義である。独歩や克巳のような天才でなくても、神心会に入れば、“それなりに”強くなることはできる、それが体系ということだ。そうでなければ、神心会は運営できない。道場の看板を上げ続けることはできないのである。そしてそれが、ある種のマニュアル化を生む。マニュアルは、量的なものと質的なもののバランスをとるために効率的手段だ。ファストフード店のような、非常に大勢の客を相手にするサービスがマニュアル化するのは、非常に大勢の客、そしてそれに対応する非常に大勢の従業員を、一挙にあつかうためだ。ある種の美意識は、マニュアル的なものと近いものがあるのだ。

そして、神心会のような団体では、当然、入門するものは、強くなりたくてそこにいるわけである。そこにロールモデルや理想は当然必要になる。いってみれば、微量の信仰心である。これにこたえるのが、独歩が見せた残心のような記号ではないかとおもわれる。

いずれにせよ、そういう独歩の立場からすると、「嚙道(笑)」みたいな気持ちが出てくるのは、けっこう自然なのだ。結構、ではその嚙道で入門者を増やしてみろ、怪我なく試合をやってみろ、法的落としどころを探してみろと、こういうことなのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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第16話/美意識の徹底

 

 

 

ジャック・ハンマーと鎬昂昇のたたかいはジャックの勝利で決着した。

嚙みつきのダメージとしては首筋と腕の二箇所、致命的な攻撃を受けてしまったので、当然、昂昇は病院に運ばれた。試合前に約束していたとおり、兄の紅葉が治療することに。

ほかの医師だか看護師だかは、まだ眠ってはいるけどふつうに生還した鎬昂昇をみて、「武術」ってすごいといっている。体力のはなしならともかく、出血に耐えることは武術とあまりかんけいない気がするけど、このひとたちは素人だし、それに、一般人よりは耐性はあるのかもしれない。「武」の天才を「医」の天才が救ったいいはなしだと紅葉がいうが、たぶん、「医」のぶぶんが大きいんじゃないかとおもう。だけど、ふつうなら死んでた、みたいに弟を貧弱っぽく表現するのもなにだから、こういう言いかたになったんじゃないかな。

 

翌日、鎬昂昇はベッドから抜け出して、もう稽古をはじめていた。屋上である。紅葉はすぐ屋上だとわかったようだ。広いからかな。

稽古といっても反復稽古のようなものではなく、状態をたしかめている感じの軽い運動だ。紅葉についてきた医師だか看護師だかはその動きの美しさを讃える。強力なのに、まるで「舞い」のようだと。

そこに、鎬昂昇は、今作のテーマでもあることをくちにする。美しく見えるのは、「カッコつけてるから」だと。ビシッと見栄えをよくしようとする衝動に逆らえない、武道家はその呪縛から逃れられない。“なぜ”かは語られないが、そういうものだと。紅葉はそこに含まれているものを読み取る。ジャックにはそれがないというはなしだ。そんな美意識にとらわれることは、ジャック・ハンマーにはない。むしろその美意識という無駄をどれだけ捨て去れるかという美四季の持ち主だと。なるほど、そういうことであるなら、嚙みつきへのこだわりは「美意識をもたない」という美意識の象徴ととらえることができ、彼が不自然に鎬昂昇への裸締めの戒めをほどき、嚙みつきを実行したことの理由にもなるかもしれない。

 

オンナコドモの技とも、獣と技ともいわれる嚙みつきをわざわざ選択したジャック。それだけに肝はすわっている。鎬昂昇は、範馬勇次郎ですらそこまでは徹しきれないだろうと、本部たちと同じ結論に達するのだった。

 

 

 

つづく

 

 

 

本部も鎬も勇次郎の名前を出すけど、正直勇次郎にかんしてはよくわからないなあ。

勇次郎とジャックは、別人であるから、当然考えかたも異なるのだが、これまで読んできたところで考えてみると、例の「強さ」を求めるものであるか「勝利」を求めるものであるかという点で、大きく異なってはいる。

まず、そもそも勇次郎では、「求める」という述語じたいがあらわれてこないだろう。求めるからには、その瞬間に手元にそれはないのである。そういうことは、勇次郎の人生にはなかった。求めるということは、餓えるということだ。わがままを腕力で押し通す人生の勇次郎には、究極レベルの敗北を求めるということ以外、そんな事態はなかったはずだ。だがそれでも、ファイターを大別するこの「強さ」と「勝利」のどちらを彼が求めるのかとしたら、「強さ」であろうとおもわれる。「勝利」が手元にないという事態こそ、勇次郎にはなかっただろうからだ。だが「勝利」が相対的なものであるいっぽう、「強さ」は絶対的な表現が可能だ。誰にも負けることのない「強さ」をもつ人間がさらに「強さ」を求めることは可能なのである。

たほうでジャックは、以前みたように、やはり「勝利」を求めるものである。そのために「強さ」が必要になることはあっても、逆はないのだ。だからこそ、鎬昂昇にかけた裸締めを解いたり、たがいにじぶんのからだを的にしたようなたたかいかたができるのである。「強さ」を求めるものは、明日をみる。明日、筋肉が成長していることを夢見ずして、今日の筋トレで筋繊維を破壊することは理屈からいってもできないのだ。だがジャックはそうではない。だから、平気で両目の視力を失うことができるのだ。

 

加えて、ジャックの物語的要素として「勝利」を求める気持ちには、哀しみもつきまとっている。その出自にかんしてもそうだし、負け続きの最大トーナメント以降も、彼に強く勝利を求めさせただろう。「勝利」とは、強く願えば手に入るというものではなかった。誰よりも努力すれば手に入るというものでもなかった。血統さえ場合によっては関係ない。そのように、不明確でつかみどころのないもの、これをしっかりとつかみとろうとするのがジャックなのである。こう書けば、彼が一般にいわれる美意識などというものを切り捨てる理由も見えてくる。

 

鎬昂昇は武道家が逃れられない呪縛について語ったが、なぜそうなのかは語らなかった。それは、一般化できないからかもしれない。そうかもしれないが、みんながみんなそうなら、それぞれに個別の理由はありながらも、そういう傾向になってしまう原因はあるはずである。それはなにか。本部は様式美のことをいっていた。それは、格闘技が技術体系として普遍的なものになっていくことと無関係ではない。要するに、空手とか柔道が、その流派において道場を開くとき、原則的には、「誰でも強くなれます」ということが示されているのである。それが「技術体系」ということだ。最強にはなれないかもしれないが、強くなれます、そういう体系のもと、ひとは腕を磨くのである。それが当たり前としてある世界では、自然と様式美が発生していく。その様式美に、美意識、「エエカッコしい」が宿るのである。

ただ、バキや勇次郎など例外的な人物もいる。彼らは、どこかの道場の門下生として強くなっていったタイプではない。バキはさまざまな師匠に学んだはずだが、どの流派ということはない。だから、様式美からは遠い。その究極がピクルということになるわけだが、そのバキと勇次郎ですらも、本部では、「刃牙らへん」、すなわち「エエカッコしい」の連中に含まれてしまっていた。これは、いまみた武道家全般にいえる様式美とはまた別に、個別で考えなければならないだろう。本部もこのふたりは特別扱いしている。では、彼らが「エエカッコしい」になる理由はなにかというと、「範馬」ということなのだろう。バキは宿禰戦で、たぶん眠いわけではないのに、わざわざ試合前に横になって、眠そうに普段着でたたかいに臨んでいた。たぶん、そういうことを本部はいっている。ほんとうに、あそこで寝る必要はあったのか、試合前に眠るくらいの普段着感覚でファイトをするということを演出するためではなかったかと。それは、たぶんそのとおりなのだ。バキも、意識してか無意識にか、最強の少年、勇次郎の息子という属性、もっといえば「流派」を意識して、それにふさわしい行動をとろうと、彼にしかない美意識においてふるまいを律しているのである。この意味で、勇次郎もまた「範馬勇次郎」という「流派」から逃れられないのだ。

 

流派が、彼が属するものが美意識を醸成する。では、それこそ新しく「嚙道」を確立したジャックはどうなるというはなしだが、これも少し前に考えた。ふつう技術体系を確立したというと、さきほど述べたように、「誰でも強くなれます」という看板を出すことを意味する。「誰でも」という点に広さのちがいはあれど、おおざっぱにそういうことはいえるだろう。しかし、必要なときに視力をさしだすようなたたかいかたが普遍的であるとはとてもいえない。ここには、ジャック的な個性が必ず必要になるのである。嚙道は、体系として確立しながら、つまり動画や文章で解説できるレベルに技術の輪郭がはっきりしながら、ジャック以外のものには修得できないのである。もっといいかたをあまくすれば、「ジャックみたいなもの」にしか修得できない、ということになるだろうか。そして、鎬兄弟が看破したように、ジャックにおいては美意識をもたないことが美意識となる。その象徴が「嚙む」ということなのだ。そこにだけジャックのこだわりは生じるだろう。「勝利」のためならどんなにかっこわるくなってしまってもいい。だから嚙む。そうして、嚙むことは、勝利を求める気持ちの記号になる。こういう、すこしいびつな状況だからこそ、勝てそうなタイミングで裸締めをほどき、わざわざ嚙みつきに移行する、というようなことが起こるのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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