すっぴんマスター -18ページ目

すっぴんマスター

(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第25話/宣誓

 

 

 

 

激突を開始したジャックとピクルのあいだに花山が割って入ったところだ。

ふつうこういうファイトを止めるなら激突前に介入があるものだが、ピクルのばあい「やる気」になるかどうかがかなり大きい。先制攻撃じたいはピクルの嚙みつきだったが、どことなくそれは甘噛みっぽい感じがあった。しかし、それをたくみな技術ではずし、以前とはおそらく比べ物にならない重さのパンチをくらわせることで、ピクルのスイッチがようやく入り、ついに本格的にはじまろうかというところだったのである。

そこへ、そのへんにしとけと花山が入る。どっか広いところでやってくれと。もっともすぎてちょっと和んでしまうが、しかし異様な光景だ。190センチを超える花山、身長以上にとにかく「デカい」という印象がまずくる花山が、もっとも小柄なのである。

 

ここはカタギの歩くところ、そしてじぶんのシマだと花山が宣言する。放ってはおけないのだと。ピクルはことばを理解しないが、通じるものはある。だが、シマ、縄張りという概念は難しいらしい。むしろ縄張りは動物的な発想のようにもおもえるが、ジョン・ロックが、ある種の労働が所有権の開始地点であると考えたことをおもうと、土地という概念もまた近代的なものなのかもしれない。「縄張り」というといかにも野生的だが、花山が含むニュアンスはもっと「所有」的なものを含むのだ。

 

ともかく、わからないピクルが相撲みたいな構えで花山に組み付く。いつかもあった激突だ。あのときは靴がこわれ足で地面をえぐるほどの衝撃だったが、今回のはじゃれる感じに近い。花山もそう考えたらしく、彼は、ピクルがじぶんを覚えているらしいことを感じ取る。たしかに、「あのときのトリケラトプスっぽいひとだ!」みたいな感じで組み付いているっぽい。かわいいな。

 

今度はジャックのほうに向き直り、察してくれと花山はいう。彼はジャックを「デカいほうの兄ちゃん」といい、ジャックは内心で「何者・・・!!?」となっている。いや、ふたりは会ったことあるだろ。はなしたことはないけどさ。他人に興味なさすぎだろ・・・。

はるかに大きく、明らかに暴力を善とするタイプであるじぶんに、まったく臆さない、この男は何者なのかという疑問だ。ジャックが汗をかいている。見たことのないタイプなのだ。

花山は、続きは地下闘技場でやるんだなと光成に確認だか要請だかをする。中途で止めた負い目があるから見届けたいということもあるらしい。

 

去っていく花山を見送りながら、ジャックは光成に花山のことを聞く。ジャックとは正反対だというのが光成の評価だ。街頭ルールの専門家ということである。ちょっと前の本部戦で、ジャックが競技者あつかいされていたことがあったが、それを踏まえてもいるのかもしれない。ジャックのなかにまたひとり気になる人物が登録されたようだ。

 

ともかく、ジャックとピクルは両想い、地下闘技場での試合を組むことを含む意味で、光成は両者が「噛み合う」であろうことを誓うのだった。

 

 

 

つづく

 

 

 

「エエカッコしい」を厭うという文脈で、非「エエカッコしい」であるジャックとピクルが花山をどうおもうかが見モノだったが、ふつうに花山のカリスマに圧倒されて終わった感じだ。ジャックは強くなることだけしか考えてこなかったし、ピクルは原人である。所有権的な意味での「縄張り」をもつ非常に人類的な人物として、格がちがったということかもしれない。

 

花山が臆することがないのは、じぶんのことをジャックより強いとおもっているとか、そういうことではない。おもっているかもしれないし、じっさいのところ花山の強さというのは計測の難しいぶぶんがあるが、それはあまり関係ない。彼が特段ジャックをおそれないのは、責任があるからである。責任がある、とは、ある種の大義がある、ということでもある。つまり、勝負をするにしても、それが個人の強さ比べのような領域に留まらないのである。そう考えると、なんだそんなことか、という向きもあるかもしれない。接客業者が不良客に強い態度で出れるのは、店舗を守らなければならない、そこを任されている、それで生きている、そのお給金で家族を養っている等の大義があるからである。それと同じことかといえば、そうちがわないのかもしれない。だが状況は接客業者がクレーマーに対峙するのとはわけがちがう。花山はヤクザであり、彼が対峙するものは原則大義など超えた暴力を行使してくるものである。範馬一族のジャックは究極形ともいっていいだろう。軍隊そのものと会話するようなものだ。銃を構えた小隊がマナー違反をしたからといって、銃口を見つめながらそれを注意するというのは、いくら大義があるといっても難しいだろう。これまでの読みどおりなら、花山のふるまいは「エエカッコしい」ととらえられても不思議ではなかった。けれども、ジャックは花山のありようにただただ驚いている。見たことがないのだ。「エエカッコしい」とは、要するに、「こうあるべき」という美学的なモデルのようなものがあって、目的や野心より先にそうしたモデルが先に立ってしまうということだ。空手の残心は、合理的観点からすれば不要かもしれないが、美学でもって現在の強さを獲得した独歩にとっては重要な行為だ。花山にとって勝負より先に立つ大義もまた、そうしたモデルにかかわる理由のひとつにほかならないだろう。しかし、彼にとってそれはモデルなどという生易しいものではないのだ。そこに殉じる、それそのものといったような、エエカッコしいの権化のようなものがヤクザ・花山薫なのである。そういう意味では、たしかに光成のいうとおり、花山はジャックの正反対である。光成はそのような意味ではいっていないが、必要のみを追求し、合理性に駆動されるジャックやピクルとは反対に、しがらみや美学にがんじがらめになりながらもむしろそれを形状化し、ちからとする、それが花山なのである。

 

以前書いたことだが、花山は一種の純粋行為体になるときに、大きなちからを発揮する。彼がこころのやわらかいぶぶんでファイターとしての理想と考えているであろう「侠客立ち」の「侠客」は、「名もなき博徒」である。彼は、鐘のなかに花山の先祖となる少年を隠したまま絶命した。ここまではただの勇敢で男らしいエピソードにとどまる。異様なのは、死んでもなお、立ち続けたことだ。死亡し、たましいを失い、そもそももっていなかった「名」からも分離しながら、ただ守り、鐘を背負って立つという行為だけは持続させたのである。ここには我というものがまったくない。皆無である。ただ、述語だけが自律して、主語なしに価値を実現するのである。この「述語」とは、エエカッコしいでいう「カッコ」にほかならないわけである。ふつう「エエカッコしい」は我を装飾するために行われる。だが究極的なところでは、我さえもそこからは失われる。ただ美学的な述語だけがいきいきと動き出す。ジャックには目からうろこだったろう。似たものとしてピクルにシンパシーを覚えるのとはまた別に、ジャックが花山に興味を覚えるのも自然なことなのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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第104審/生命の値段⑬

 

 

 

 

白栖病院から有馬を追い払って、蔵人たちの仕事を監視したあとということかな、病院に来ていた薬師前とも合流し、九条と烏丸が雑談している。弁護士の大変なところは?という薬師前の問いに、同時に複数の案件を抱えているところだと九条がこたえている。有馬や蔵人ともめて、そのあとすぐに次の現場だ。たしかに、こういう働き方って意外とないかもしれない。

ここかた小菅の東京拘置所にいって接見。帰りに近くで飲むのが通例だと聞いて、薬師前も飲むという。烏丸はぜんぜん飲めないが、薬師前は酒豪らしい。歩く彼らと同じ方向を、相楽の車が行くのに九条が気がつく。行き先は同じ、対象の事件も同じようだ。九条は、壬生の息がかかった射場の依頼で池尾のもとへ、相楽は、池尾に罪をかぶせようとする白栖医院長のもとへ。

 

池尾はお金に困ってるとかで、白栖からその後の面倒もみるといわれてしまって、揺れているぶぶんもあるのかもしれない。だが九条は絶対に受け入れてはいけないという。これは弁護士としてということではないようだが、白栖総合病院を復活・存続させるためには、誰かに責任を押し付けるのではなく、諸悪の根源である医院長の責任をしっかり追及することが必要だと九条は語る。しかし池尾は、病院に残れるのかどうか、仕事を失うのでは、という恐怖が強い。そこを烏丸がカバーする。内部告発などを理由とした解雇やハラスメントは許されない。公共通報者保護法などを利用して権利を守ろうと。池尾は、怖くてたまらないようだ。呼吸のあがる彼に深呼吸するようにいい、九条は「あなたを守ります」と、いつものノートを差し出す。20日カンモクパイだ。20日黙り続けるために、毎日1頁その日のことを書く。カンモクの反動でしゃべりたくなるのを抑える効果もあるかもしれない。また、1日1頁とすることで、日が過ぎるのをカウントすることもできる。同じことをいわれているのか、蔵人の取調べを受ける射場もカンモクをがんばっているようだ。手はわかっているということか、「つまんねーの」とするだけで、蔵人は特にそのことをどうというふうには感じていないようだ。

 

相楽は池尾が身代わりを拒否したことを白栖に告げている。白栖は引き続き圧をかけるようにいうが、その結果、池尾は訪れた九条に弁護士をかえることになったのだった。しかし相楽にも考えはあるようで、必要経費を追加するように、白栖にいうのだった。

 

 

九条たちの会話が続く。池尾たちに罪をなすりつけることを、相楽と白栖はトカゲの尻尾切りと呼んでいて、九条もそういっている。しかし本気で組織を守りたいなら、尻尾は守らなければならないと九条はいう。それは、人権派的な正義感とは異なる、ものの道理のようなことだ。部下の監督責任を問われれば上層部も捕まる。つまり、トカゲの尻尾の罪は、そもそもはトカゲ本体の罪というわけである。薬師前はこのはなしに感心するのであった。

 

 

 

つづく

 

 

人権派的発言ではないと九条は断っているが、そう遠くもないだろうという感じもする。だから薬師前はなにかを感じて、見直したような表情をしているのだ。

組織の不祥事は、ほんらい組織に属するもののはずである。そしてそれが具体的に責任を追及される状況になったとき、責任者の存在がようやく現れてくることになる。それを、仮に事実として原因はそうであったのだとしても、末端のトカゲの尻尾に責任を預けていては、責任者は務めを果たしていないことになる。九条がいっているのはそういうことだ。そこで末端のものをないがしろにする世界では、そもそも「組織」というものを想定できないということである。それだけのこととおもわれるが、あの一枚の大きい絵と薬師前の反応からは、なにかちがうものが感じられるというはなしだ。つまり、九条は、結果としては「弱いほう」を救うことになっている。理屈としてもそれは、「弱いから」そうするのである。たしかに、動機としては、人権派の弱者救済的な倫理観とは異なっている。しかし、弱いから、弱いほうの味方になる、という理路においてちがいはないのである。これは組織のはなしだが、国や自治体においても、この理屈は通るのではないだろうか。ぜんたいにひずみが生じているのなら、最前線でそのひずみを体現するものを切り捨てれば、それは生じていないことになる。問題が浮き彫りにならないのだから、当然、ほんらいその責任をとるべきもののすがたも現れない。だがそれは問題解決とは無関係だ。ただ見えなくなっているだけなのだ。そうして切り捨てられる「弱いほう」は、「強いほう」の「監督責任」が追及されるまで、守られなければならない。見えなくなってしまうからである。それがけっきょくは組織のため、また国のためになる。九条は道徳的な観点から弱者を救う薬師前と同じ結論に、「ものの道理」の観点から到達しているわけである。

 

 

白栖は、圧をかけ続ければ池尾は折れると考えていた。相楽もおおむね同意していたものとおもわれる。それが九条が登場したことでひっくり返った。「折れる」以外の選択肢があることを、池尾は知ってしまったのだ。追加料金を請求する相楽の表情は、いつもの金の亡者的なものではないように見える。なにか、プライドにかかわる状況になっているような感じがするのだ。とすると、相楽もこの展開は意外だったのかもしれない。圧、パワーには、弱者は必ず折れる。そういう合意があったからこそ、白栖の指示は成立していたのだ。それが崩れかけている。つまり、九条の存在は、「強いものは弱いものに必ず勝利する」という前提を覆しうるものだということになるのである。

 

この状況で相楽がとれる行動はなんだろうか。ふたつ考えられる。ひとつは、さらに強力なパワーをもってして池尾のこころを折るということである。しかし、相楽も弁護士なので、九条の戦略は理解しているものとおもわれる。九条のいるところに強い弱いの関係性は無効になる。とすると、九条と池尾の信頼関係を崩す以外ないようにおもわれる。探偵など雇って、九条の弱みを暴いて池尾に伝えるのである。だが、完全「対応」型仕事人間の九条に弱みなどあるだろうか。もし相楽が壬生と射場、そして九条の関係性をつきとめることができれば、事態は変わるかもしれない。20日カンモクパイで池尾が戻ろうとしている職場はやがて壬生によって売られる運命である。九条はそのことを知らないだろうが、もしこのことを池尾が知ったら、九条への依頼をやめるかもしれない。

 

 

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第24話/ご両人

 

 

 

光成とともに街中でピクルを待ち伏せしていたジャック。ピクルが嚙道に至った現在のじぶんのはじまりであったことを語り、彼が慟哭する姿を見たいという願いをくちにする、そのジャックの肩に、ピクルがうしろからすごい自然に噛み付くのだった。

 

前回も書いたけど、ピクルがいきなり嚙みつきからファイトをはじめるというのは珍しい気がする。

ピクルは、嚙みつき「も」使う、というものであって、それも、ファイトが食事と連続していたからだ。ファイトと食事がイコールではないにしても、ひとつの現象の、ある過程としてとらえているのだ。

ピクルは手と足をロックしてジャックをにがさないかまえだ。だが、これまで闘争中にピクルが行使した嚙みつき、あのロケットみたいなタックルとともんい見せた攻撃に比べると、いかにも緊張感がない。これは、ジャックを保存食として認識しているのかもしれない。あのときとっておいたやつが逃げ出してしまっている、みたいな気持ちなのか。だとすると前回通じ合ったように見えたやりとりは気にせいだということになる・・・。

 

ジャックは、不用意に背をみせたじぶんのミスだとする。それほどダメージはなさそう。そして光成に離れるようにいい、手を振って半回転して向きを変え、そこから下方向に、ピクルのホールドからするりと抜け出す。かつてジャックは本部に似たことをやられて歯をぜんぶもっていかれた。本部の着ていたものが特殊繊維だったということもあるだろうが、衣類のうえから嚙むことについては勇次郎も注意していたし、あまり関係ないようにおもう。だがピクルの歯は無事みたい。どの程度肉をもっていかられたのか不明だが、出血からすると軽いっぽい。

 

ふりかぶったジャックは、「歯ァ喰イシバレ」と、つい先日父にいわれたことをいう。そして右の拳がピクルの顔面にめりこむ。ピクルには久々の衝撃ではないだろうか。直近でたたかった相手は武蔵で、こういう打撃はなかったからな・・・。懐かしいんじゃないかとおもう。

ジャックのパンチは相変わらずすばらしい。電撃のような描写とともに、血を出しながらピクルが吹っ飛ぶ。まあピクルなので、それほどのダメージはなさそうだが、たたかうつもりにはなったらしい。

 

そこへ花山薫が「そのへんにしときねぇ」と割って入るのだった。

 

 

 

つづく

 

 

 

ここが花山組のシマということなのか、よくわからないが、ここに(ことを荒立てずに)割って入れるのって花山くらいなので、なんにせよよかったのかもしれない。勇次郎やバキだとすぐじぶんの物語にしちゃうから「止める」とかじゃないし・・・。独歩や渋川みたいな年長者ですらそういうところあるからな。ある程度以上強くて、他人のことをじぶんのことのように考えることのできるもの、要するに強いんだ星人ではないけど強いひと、というと、花山しかいないのであった。あとは本部くらいかな。ピクルは本部になついてるから本部でもよかったか、とおもったけど、本部に負けてるジャックにとっては標的のひとりなので、やっぱり花山しかいないか。

花山としては、ここがじぶんのシマであってもなくても、一般人がロケか真剣かまだ悩んでるようなこの状況で、非現実的なふたりが大立ち回りをすることは望ましくないのだろう。なにしろ「義」のひとだから。けが人でるかもしれないし、みんなびっくりしちゃう。感情的な喧嘩や不可避の衝突ならまだしも、これは避けられるバトルなのだから、いまはやめときましょうよと、こんなところだろう。

ただ、非「エエカッコしい」であるところのジャックとピクルは、ちょっと反感をもつかもしれない。花山は心外かもしれないが、この介入はカッコいい。そしてその動機はおそらく一般人を守るためのものである。この感覚は、ふたりとは折り合わない。特にジャックが、ここでは集中できないとして、それもそうだなと拳をおさめるかどうかは、偶然が左右しそうな感じもする。

 

見たように、開始時のピクルの嚙みつきはどこか緊張感に欠ける。それこそ、鳩が人間の食べてるポテトつまむような自然さがある。あのホールドも、動きを制限するというより「逃がさない」という感じに見える。とするとやはりピクルはジャックを保存食として思い出したのだろうか・・・。

そうして決まったジャックのパンチは、以前よりずっと強力になっているはずである。ファイターどうしでは言葉より技が雄弁にすべてを物語る。前より大きくなっているということもあるし、嚙道を極めることによって動きが全体に洗練されている可能性もある。ピクルは敏感に変化を感じ取ったことだろう。たんに保存食が反抗した、という以上のものを、ピクルは受け取ったにちがいない。だからちょっとうれしそうなのだ。

 

ここでジャックがとった行動はふたつ、からだを反転させての脱出と、パンチである。これはどちらも、ジャック以外のものの気配が感じられる動きだった。脱出については、もちろん本部である。パンチは、セリフは勇次郎だし、動きはどこか夜叉猿とかとたたかってたころのバキっぽい。すべて、かつてじぶんを敗北させたものたちだ。ここからは、ジャックがひとにはらう「敬意」というものを覚えたことが感じられる。そもそも、嚙道を完成させたのは本部で、その動機はピクルだった。ジャックは、これまでたくさん負けてきた。たくさん失敗してきた。彼はそれを引き受け、学ぶことを覚えた。それが嚙道につながっているのである。だとすれば、こうした動きひとつひとつに、彼が強者と認めたものの気配が感じられるのも自然なことだ。そのひと固有のエクリチュール(文体)というものは、本来存在しない。さまざまなものと接触し、嚙んで味わい、内面化され、織り上げられることで、そのように見えるものが成立するだけだ。ジャックは敗北を通じてそのことに自覚的になったのである。

この方法はバキにも見られたものである。バキもまた、核のようなものをもたない、きわめてフレキシブルなファイターだった。核をもたないことは通常弱みとなる。だが、とことんテクストを編み上げることに執心していけばそれは逆転して強みになる。死角がなくなるからである。そうして、バキはトータルファイターになっていった。流儀をもたないファイターなのである。バキがなぜこうした方法を採ったかというと、勇次郎に勝つためだ。そして勇次郎もまたトータルファイターである。だが勇次郎のばあいは、広く世界を渉猟闊歩し、学習していったものとはことなる文化資本的なすごみがある。要するに、天才なので、見ただけで、あるいは想像しただけで、なんでもできてしまうのだ。これがバキを葛藤させる。バキは、父に近づくために、なんでも学ぼうとする。しかし行ってみるとそこはすでに父の荒らしたあとである。量的なレベルで学習しようとしても、父に追いつくことはできない。既知の魔人である勇次郎に勝つためには、父が想像もしないようなところから未知のアイデアをもってこなければならない。それが、他作品からの「虎王」であり、誰もが目をそむけるゴキブリまで師匠にするというマインドセットだったわけである。

 

ジャックもまたその領域に至ったわけだが、動機が打倒・勇次郎という感じが少し薄いぶん、悲愴感はない。そして、なにより自然な行動だ。なぜなら、ジャックには「エエカッコしい」がないからだ。強くなるためなら、なんでもパクるし、敬意もはらう。とりわけ本部戦での敗北は、父にいちど注意されら「着衣への嚙みつき」を、愚かにも実行したせいだった。勇次郎に負けたときは着衣に噛みついたわけではないが、「同じ失敗をくりかえしている」という感じは否めない。もしかすると二度の骨延長ですらそうなのかもしれない。「日に二度の敗北」もそうだ。ジャックは量のひとなので、とにかく重ねる。そして、失敗まで重ねてしまうのである。そのさきに、ついに彼は、そこから学ぶという道を見つけ出したのである。

 

 

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第103審/生命の値段⑫

 

 

 

 

有馬を退けたところで、今度はその有馬を退ける口実となった蔵人たちが到着したのだった。蔵人は九条が射場の代理人だということを知らないらしい。しきりに、関係者以外は出て行けという。委任状があるということをいっても、蔵人の態度は変わらない。少し意外な感じもする。九条にかんしては、コンピュータでこたえを出力するみたいには、蔵人の言動は一意的には定まらないみたいである。

 

テレビでよくみる、ダンボールをいっぱいもった検察のひとたちがあらわれて、関係資料を根こそぎを持ち帰っていく。九条はその様子を撮影する。国家権力の横行を抑制するためだという。蔵人にとってはいちいちいらいらする感じだ。

 

 

これは、秘書の池尾ということになるのか、面会にきている相楽が、白栖医院長との作戦会議どおりに、罪をかぶるようすすめているところだ。池尾に罪の意識はなかった。だがお金には困っている。白栖はその面倒をみるといっているのだ。池尾は暗い表情のまま黙るが、話を受けるのだろうか。

 

 

久々の宇治だ。久我が誕生日ということで時計をプレゼントしている。これは、久我が欲しかったもののようだ。久我はかなり喜んでいる。

コーヒーを飲みながら、ふたりが雑談。宇治がヤクザになったのは15歳ということだ。父親が虐待をする人間で、殺すか殺されるかという状況になって、逃げ出して伏見組の部屋住みになったという。当時は学校でもいじめられてひどい状況だった。いまの巨躯からは信じられないが、そのころはチビでガリで気弱だったのだと。だがある年の2学期、誰も触れられないオーラをもった金髪の転校生があらわれた。それが転機だった。彼は絶対にいじめに加担せず、盗まれた靴を持ってきて放り、今のままでいいのかと問うたのだ。一回噛みつけば一瞬で変わると。

彼の言葉を体内に響かせたまま、歯磨きにすら違和感を覚えるほど生きることに苦労している状況で、すべてがどうでもよくなり、吹っ切れた宇治は、歯ブラシを折り、それをいじめの主犯の、おそらく顔に、殺す気でつきたてたのである。すると、周りの見る目がいっきにひっくりかえった。転校生のいったとおりになったわけである。

久我ははなしをわかっていないようで、その転校生とはまだつきあいがあるのかなどといっているが、当然、それが壬生である。久我の時計を選んだ男だと。久我は壬生の男っぷりに感涙するのだった。

 

退散してキャバクラにいくというはなしだった有馬は、部下たちとともに山にきて穴を掘っている。部下たちはなぜ掘らされているかわかっていないようだが、白栖や射場に警告をするのだという。ただ、掘った穴を撮影して射場に送りつけるだけだ。しかしその穴は、いかにも棺桶が入りそうな、要するにひとが埋められそうなサイズ感なのであった。

 

 

 

つづく

 

 

 

射場は壬生の息がかかっており、実質壬生が病院を買って、そして売るための、長期的な計画のために動いている男だ。とすると、どこかで有馬と壬生は衝突することになるかもしれない。しかしいま壬生は身を潜めており、そうでなくても、壬生は丑嶋ばりに直接的な行動には出ない男だ。有馬は部下とも仲良くやっているようで、わりといいキャラな感じがする。殺す殺されるというような衝突にはならず、大損する感じでおさまればよいなとおもう。

 

 

壬生と宇治の出会いのエピソードは、丑嶋と柄崎・加納の出会いによく似ているようでもある。が、似ていないようでもある。

壬生と丑嶋は、ともに転校生である。宇治はいじめられていたが、柄崎はむしろいじめる側で、げんに丑嶋は転校してすぐぼこぼこにされた。その柄崎も、鰐戸兄弟にはあごで使われていて、いじめられていたが、これを砕いたきっかけは丑嶋であった。けれども、この場面でいういじめっこを砕いたのは宇治だが、鰐戸三蔵を砕いたのは丑嶋である。このあたりの差は、深刻に受け取ってもよいし、ほぼ同じと受け取ってもよいし、どちらでもいいというか、物語を読み進めるにあたっては、「丑嶋と柄崎のような信頼関係が壬生と宇治にはある」というふうに受け取ることさえできれば、問題なさそうに見える。だが、丑嶋と柄崎のものを別世界の壬生と宇治のようなものと考えたとき、やはり壬生の「無関係感」は無視できないかもしれない。丑嶋は、転校するなり、暴力という貨幣の交換体験に組み込まれることを余儀なくされたし、彼自身それを望んでもいた。それを掌握するために、丑嶋は、手近でもっともおそれられていた三蔵の頭を砕いたのである。だが壬生はそうではない。宇治のいじめには、する側にもされる側にもコミットしない。ただきっかけを与えただけだ。そしてもちろん、三蔵粉砕の場面にあたる、いじめっこに歯ブラシをつきたてる現場に、壬生はいない。このときから壬生は、進み出る相手の肩をついて実現する前の技をすべて封じてしまう達人のように、ちょっとした動きで相手をコントロールしてしまう領域にいたのだ。宇治はキレモノである。壬生がそういう人間であり、じぶんもそのようにコントロールされたことに、すぐに気がついたかもしれない。それをよしとしたうえでつきあっているのか、あるいは克服してじぶんもその段階に達したのか、それはまだよくわからない。ともかく、中学生のこんなころから、壬生の方法はかたまっていたのだ。それは、「その場にいない」ということなのである。とすると、伏見組とのことで身を潜めている現在の状況は、究極の壬生的状況ともみることができるかもしれない。

 

これまで、「生命の値段」のおもな登場人物たちを、出来事に「対応」するものか、出来事を「創出」するものかで分類してきたが、おおむね壬生は「対応」するものと考えることができた。「対応」するものにはプライベートがない。いつヤクザに襲われるかわからない生活のものに、「定時帰宅」はありえないのである。が同時に、以上のことからして、彼は「創出」するものでもあることがわかる。たったひとことで、彼は宇治の人生を変えたのだ。だが彼の本質はその先にあって、その人生が変わった現場に、彼自身はいないのである。白栖医院長でいえば、情報の非対称性を利用して、患者を惑わし、不必要に通院期間を延ばす行為が「創出」にあたるが、しかしその患者が通院する先に彼はいないし、なんなら彼の助言によって通院することになったということも患者は理解していないのである。プライベートがないだけではない。壬生は、仕事の現場にすら存在していないのである。その存在感を、存在していないことによって基礎付けるもの、それが壬生なのだ。

 

 

かつて安部公房は、蛇の不気味さについて、生活感の欠如ということを書いていた。蛇は、手足がなく、擬人化が難しいため、生活を人間ベースに想像することが難しい。そういうものが目前に出てきたとき、ひとは、それが虚空から突如として現れたかのように感じる。それが不気味さの出所であると。

 

 

 

 

ぼくは、これはゴキブリについても応用可能な考え方だと考えた。そこにはバキ理論も含まれているので、本ブログでしか通用しない理論となるが、なぜゴキブリは「突然」あらわれるのかということで、バキのいう、加速のないあの動きが、不気味さの原因ではないかとおもわれたのである。

蛇は、「いる」ときと「いない」ときがくっきりと分かたれている。ずっといなかったのに、ひとが道の向こうからちょっとずつ近づいてくるようには現れず、突然「いる」の状態で現出する。だから、驚きと理解のできない感覚がそこに生じる。ゴキブリもまた擬人化の難しい体型をしているが、さらにあの、停止とトップスピードのあいだにアナログな加速時間が体感的には見られないことが、「いる」と「いない」を断絶させているものと考えられたのである。安部公房のいう「擬人化」は、ここでいう「加速時間」にあたる。「いない」から「いる」に至る過程をトレースできないこと、それが不気味さの原因なのだ。

 

 

壬生は、プライベートも仕事も、どこの場面を切り取っても、そこにはいない。いないのに、壬生の息がかかったものたちがうごめき、働きあって、物事は壬生のおもうように動いている。保存されたエネルギーが万物のなかにひそんで、さまざまなものに姿をかえて広がっていくように、壬生は、「行為」そのもののなかに、それと気付かれないように潜んでいるのだ。「いる」と「いない」の落差は互いを相対化するものである。しかし壬生は全的に「いない」。相対化することができない。計測できないのである。

 

丑嶋と柄崎のあのエピソードは、ふたりの信頼関係がどういう経験をベースに成り立っているのかを示したものだった。では壬生はどうだろう。これは信頼関係と呼べるものだろうか。いじわるなみかたをすれば、「いない」は偶像崇拝の禁止を連想させるし、ここからはなんとなく一神教的なものが感じられてしまうのだが、それは今度考えよう。重要なことは、壬生にとって、「信頼」はなんのために必要なのかということだ。というか、信頼は、「必要」から生じるものなのだろうか。もちろん彼のほんとうの動機は彼にしかわからない。しかし、これまでの行動を振り返っても、壬生はその「いない」を実現するために信頼を構築しているようなところがあるのかもしれない。

 

 

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第23話/慟哭の記憶と願望

 

 

 

 

街のなかに馴染んで、ひとの目をいっさい気にすることなく生きていたピクルを、ジャックが抱きしめる。「エエカッコしい」ではないという点でも、嚙みつきをもっとも強力な武器とするという点でも、ジャックには理想の男のはずである。ピクルってもともとかわいいけど、さらに大柄のジャックに抱きしめられてるの子どもみたいでさらにかわいいな。

 

ピクルを放し、先輩がいまの自分を築いたのだとジャックは語りかける。あの敗北のことだ。あのとき、ふたりはくちをかみ合うという交わりを行った。それは交わりを超えた物質と物質の「融合」だったとジャックはいう。しかしジャックはそこで食い負け、ただ敗北するだけにとどまらず、「保存食」へと身をおとしたのだった。ピクルは、倒したも倒してもかかってくるジャックの狂気に不死性のようなものを感じ恐怖していたが、そのことはジャックはあまり重く見ていないらしい。強さ以外のぶぶんであのようにピクルを慄かせたのはほかに武蔵くらいのものである。

その後、ジャックはバキに「ファイターとして終わってる」とトドメをさされ、慟哭、しばらく姿を見なかった。だがその結果として、いまのジャックが生まれたと。そのココロは、ピクルの慟哭を見たいという欲望だった。じぶんが味わったあの絶望に、ピクルが堕ちたとき、どのような表情で、どのように慟哭するのか、それをジャックは名曲・名画と呼ぶ。それを見たい。それが動機だったのだ。もちろん、それだけではなく、現在のジャックの姿が完成するには、本部への敗北も大きかったろう。あのようにたやすく自慢の歯を落とされたことが、彼に現在のようなチタンの歯を埋めさせたのだ。

 

言葉はわからないはずだが、伝わったらしい。無防備に抱かれていたピクルだが、ここで髪を浮かせて好戦的態度に変容する。髪を逆立ててやっと身長が五分だとジャックはいうが、巨大な恐竜とたたかってきたピクルからしたら小さな恐竜にすぎないかもしれないと、光成がもっともなことをいう。センチ単位で背が伸びたからなんだという次元にピクルはいるのだ。

 

それに対するジャックの反応は、夢があるという、なんだかよくわからないものだが、とにかく、いろいろなものとの「噛ミッコ」を彼は望む。ピクルはそういう世界にいたので、ピクルを通じてそこに接続したいというようなことだろうか。周囲ではなしを聴いていた通行人たちは笑っているが、ジャックにはどうでもいいことだ。

そうして、再び万全の体勢で噛み合える喜びを堪能するジャックの肩に、すごく自然にピクルが噛み付くのだった。

 

 

 

つづく

 

 

 

たしかにピクルは嚙みつきを用いるが、なんというか、嚙道のようにそれを中心におくというものではなく、最終目的が食事であるから、闘争がそこに連続するものとするならば、自然と、特にバトルの最終局面では噛みつく行為が馴染みはじめる、みたいなはなしだった。いきなり方法としての嚙みつきを行使するということは珍しいようにおもう。たぶん、以前のファイトをピクルは覚えていて、いまのジャックの語りもなんとなくは理解したうえで、嚙むという行為にこのひとは異常に執着しているということを感じ取ったのかもしれない。それを汲んだ、というところまではいかないとしても、刺激され、影響を受けて、嚙みつきに出てしまった感じだ。ピクルはいいやつだよな。後頭部をポカンと拳でぶん殴るとかしても不思議はないのに。

 

現在のジャックのファイトスタイル、嚙道を完成させた直接のきっかけは本部である。だが、決定的なピクル戦での敗北から現在に至るまで彼の強さへの意志を駆動させ続けたのは、ピクルの慟哭を聞きたいという欲望だったのだ。ピクルに突き動かされ、それを実現するための方法を本部が発見させたと、こういうことのようである。

 

さらに、前回のピクルのカラスを食しゴミをすする動作の描写からわかるように、彼は「エエカッコしい」をしない人物の究極のモデルでもある。人目なんか気にしない。そもそも、ひと、「他人」という概念が人類とは異なっている可能性のあるピクルであるからそれも当たり前のことだが、ともかく行為としてはそうなっている。それはジャックにもあこがれだったはずだ。「嚙む」という行為を闘争に練りこむことを、ほとんどのファイターは厭う。いろいろ考えてきたように、その理由はいくつかあるが、ひとことでいえば「なんかカッコわるいから」だろう。ジャックがそれを選ぶ際に、その最後の障壁を取り除く努力をしたのかどうか、そもそも、そんなものはあらわれなかったのか、それはわからないが、ジャックにも「エエカッコしい」の欲望はあるだろう。しかしピクルにはそんな衝動は最初からない。どうでもいいとすらおもわない。他人なんか文字通り眼中にない。非エエカッコしいの天才なのだ。だが、ジャックの欲望はピクルの慟哭に向いている。それは、ピクルを制圧し、屈服させ、見たことのない表情を引き出したいという欲望だ。これは「他人のことなんかどうでもいい」という態度と、部分的に矛盾するかもしれない。もちろん、ピクルにも勝利欲はあるだろう。だが、現代のファイターが感じるものともやはり異なってはいるだろう。ある種、ピクルが最強なのは、そう望んだからでもそうなるよう努力したからでもなく、たまたまなのだ。だから彼は恐怖心をあまり隠さない。逃げ出すこともよくする。なんならジャックに負けても、恐怖で逃げ出しても(前のときはぎりぎりで克服したが)かまわない、そういうものにあこがれるジャックは、ピクルにこだわりつづけているのである。ここに隠し切れない非対称性はある。だが、ここでジャックがすがるべきは、じぶんがピクルのような生きかたができているかということではなく、ジャックらしさを追求できているかということだろう。ジャックらしさとは、ピクルと比較したときには当然、「現代人としてのエエカッコしいからの脱却」というはなしになる。ピクルとジャックでは、前提がちがうのだ。そこで、ジャックはジャックとしての解釈をする必要が生じる。それが今回の「噛みっこ」のくだりではないかとおもわれる。彼は嚙むことを楽しんでいる。溶け合うことに喜びを感じているのである。

 

キスや性交がそうであるように、相手の皮膚より内側に、身体のいちぶを食い込ませる行為は、溶け合いの感覚をもたらす。「エエカッコしい」の感性をもたないジャックは、他人に興味がない。だが、溶け合うことには興味がある。これはすなわち、幼児的な世界観への逆行である。なぜなら、ひとが成長し、「他者」というものを学ぶ、その過程は、液体のように混ざり合った「世界」に、痛みとともに少しずつ線を引いていくという行為にほかならないからだ。しかしジャックは、線の引かれた向こう側にある「他者」には興味がない。彼は嚙みつきでその線じたいを超越し、融合しようとするものなのである。

 

 

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