今週の刃牙らへん/第16話 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第16話/美意識の徹底

 

 

 

ジャック・ハンマーと鎬昂昇のたたかいはジャックの勝利で決着した。

嚙みつきのダメージとしては首筋と腕の二箇所、致命的な攻撃を受けてしまったので、当然、昂昇は病院に運ばれた。試合前に約束していたとおり、兄の紅葉が治療することに。

ほかの医師だか看護師だかは、まだ眠ってはいるけどふつうに生還した鎬昂昇をみて、「武術」ってすごいといっている。体力のはなしならともかく、出血に耐えることは武術とあまりかんけいない気がするけど、このひとたちは素人だし、それに、一般人よりは耐性はあるのかもしれない。「武」の天才を「医」の天才が救ったいいはなしだと紅葉がいうが、たぶん、「医」のぶぶんが大きいんじゃないかとおもう。だけど、ふつうなら死んでた、みたいに弟を貧弱っぽく表現するのもなにだから、こういう言いかたになったんじゃないかな。

 

翌日、鎬昂昇はベッドから抜け出して、もう稽古をはじめていた。屋上である。紅葉はすぐ屋上だとわかったようだ。広いからかな。

稽古といっても反復稽古のようなものではなく、状態をたしかめている感じの軽い運動だ。紅葉についてきた医師だか看護師だかはその動きの美しさを讃える。強力なのに、まるで「舞い」のようだと。

そこに、鎬昂昇は、今作のテーマでもあることをくちにする。美しく見えるのは、「カッコつけてるから」だと。ビシッと見栄えをよくしようとする衝動に逆らえない、武道家はその呪縛から逃れられない。“なぜ”かは語られないが、そういうものだと。紅葉はそこに含まれているものを読み取る。ジャックにはそれがないというはなしだ。そんな美意識にとらわれることは、ジャック・ハンマーにはない。むしろその美意識という無駄をどれだけ捨て去れるかという美四季の持ち主だと。なるほど、そういうことであるなら、嚙みつきへのこだわりは「美意識をもたない」という美意識の象徴ととらえることができ、彼が不自然に鎬昂昇への裸締めの戒めをほどき、嚙みつきを実行したことの理由にもなるかもしれない。

 

オンナコドモの技とも、獣と技ともいわれる嚙みつきをわざわざ選択したジャック。それだけに肝はすわっている。鎬昂昇は、範馬勇次郎ですらそこまでは徹しきれないだろうと、本部たちと同じ結論に達するのだった。

 

 

 

つづく

 

 

 

本部も鎬も勇次郎の名前を出すけど、正直勇次郎にかんしてはよくわからないなあ。

勇次郎とジャックは、別人であるから、当然考えかたも異なるのだが、これまで読んできたところで考えてみると、例の「強さ」を求めるものであるか「勝利」を求めるものであるかという点で、大きく異なってはいる。

まず、そもそも勇次郎では、「求める」という述語じたいがあらわれてこないだろう。求めるからには、その瞬間に手元にそれはないのである。そういうことは、勇次郎の人生にはなかった。求めるということは、餓えるということだ。わがままを腕力で押し通す人生の勇次郎には、究極レベルの敗北を求めるということ以外、そんな事態はなかったはずだ。だがそれでも、ファイターを大別するこの「強さ」と「勝利」のどちらを彼が求めるのかとしたら、「強さ」であろうとおもわれる。「勝利」が手元にないという事態こそ、勇次郎にはなかっただろうからだ。だが「勝利」が相対的なものであるいっぽう、「強さ」は絶対的な表現が可能だ。誰にも負けることのない「強さ」をもつ人間がさらに「強さ」を求めることは可能なのである。

たほうでジャックは、以前みたように、やはり「勝利」を求めるものである。そのために「強さ」が必要になることはあっても、逆はないのだ。だからこそ、鎬昂昇にかけた裸締めを解いたり、たがいにじぶんのからだを的にしたようなたたかいかたができるのである。「強さ」を求めるものは、明日をみる。明日、筋肉が成長していることを夢見ずして、今日の筋トレで筋繊維を破壊することは理屈からいってもできないのだ。だがジャックはそうではない。だから、平気で両目の視力を失うことができるのだ。

 

加えて、ジャックの物語的要素として「勝利」を求める気持ちには、哀しみもつきまとっている。その出自にかんしてもそうだし、負け続きの最大トーナメント以降も、彼に強く勝利を求めさせただろう。「勝利」とは、強く願えば手に入るというものではなかった。誰よりも努力すれば手に入るというものでもなかった。血統さえ場合によっては関係ない。そのように、不明確でつかみどころのないもの、これをしっかりとつかみとろうとするのがジャックなのである。こう書けば、彼が一般にいわれる美意識などというものを切り捨てる理由も見えてくる。

 

鎬昂昇は武道家が逃れられない呪縛について語ったが、なぜそうなのかは語らなかった。それは、一般化できないからかもしれない。そうかもしれないが、みんながみんなそうなら、それぞれに個別の理由はありながらも、そういう傾向になってしまう原因はあるはずである。それはなにか。本部は様式美のことをいっていた。それは、格闘技が技術体系として普遍的なものになっていくことと無関係ではない。要するに、空手とか柔道が、その流派において道場を開くとき、原則的には、「誰でも強くなれます」ということが示されているのである。それが「技術体系」ということだ。最強にはなれないかもしれないが、強くなれます、そういう体系のもと、ひとは腕を磨くのである。それが当たり前としてある世界では、自然と様式美が発生していく。その様式美に、美意識、「エエカッコしい」が宿るのである。

ただ、バキや勇次郎など例外的な人物もいる。彼らは、どこかの道場の門下生として強くなっていったタイプではない。バキはさまざまな師匠に学んだはずだが、どの流派ということはない。だから、様式美からは遠い。その究極がピクルということになるわけだが、そのバキと勇次郎ですらも、本部では、「刃牙らへん」、すなわち「エエカッコしい」の連中に含まれてしまっていた。これは、いまみた武道家全般にいえる様式美とはまた別に、個別で考えなければならないだろう。本部もこのふたりは特別扱いしている。では、彼らが「エエカッコしい」になる理由はなにかというと、「範馬」ということなのだろう。バキは宿禰戦で、たぶん眠いわけではないのに、わざわざ試合前に横になって、眠そうに普段着でたたかいに臨んでいた。たぶん、そういうことを本部はいっている。ほんとうに、あそこで寝る必要はあったのか、試合前に眠るくらいの普段着感覚でファイトをするということを演出するためではなかったかと。それは、たぶんそのとおりなのだ。バキも、意識してか無意識にか、最強の少年、勇次郎の息子という属性、もっといえば「流派」を意識して、それにふさわしい行動をとろうと、彼にしかない美意識においてふるまいを律しているのである。この意味で、勇次郎もまた「範馬勇次郎」という「流派」から逃れられないのだ。

 

流派が、彼が属するものが美意識を醸成する。では、それこそ新しく「嚙道」を確立したジャックはどうなるというはなしだが、これも少し前に考えた。ふつう技術体系を確立したというと、さきほど述べたように、「誰でも強くなれます」という看板を出すことを意味する。「誰でも」という点に広さのちがいはあれど、おおざっぱにそういうことはいえるだろう。しかし、必要なときに視力をさしだすようなたたかいかたが普遍的であるとはとてもいえない。ここには、ジャック的な個性が必ず必要になるのである。嚙道は、体系として確立しながら、つまり動画や文章で解説できるレベルに技術の輪郭がはっきりしながら、ジャック以外のものには修得できないのである。もっといいかたをあまくすれば、「ジャックみたいなもの」にしか修得できない、ということになるだろうか。そして、鎬兄弟が看破したように、ジャックにおいては美意識をもたないことが美意識となる。その象徴が「嚙む」ということなのだ。そこにだけジャックのこだわりは生じるだろう。「勝利」のためならどんなにかっこわるくなってしまってもいい。だから嚙む。そうして、嚙むことは、勝利を求める気持ちの記号になる。こういう、すこしいびつな状況だからこそ、勝てそうなタイミングで裸締めをほどき、わざわざ嚙みつきに移行する、というようなことが起こるのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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