今週の刃牙らへん/第17話 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第17話/範馬家の評価

 

 

 

ジャック対鎬昂昇が終わり、負けた鎬昂昇のくちを通じて、ジャックの美意識をもたない徹底ぶりについて、ふたたび描写されているところである。これは、前作『バキ道』のおわりのぶぶんで、本部がガイア、加藤と議論していたところから始まっているので、本作『刃牙らへん』のテーマとなっていることといえる。

 

刃牙は光成を訪れている。ジャックは最大トーナメントでバキとたたかったころよりはるかに強くなった。いまでも勝てるか?という問いかけである。バキはそのことには応えないが、清々しさにあふれていたと、独特の表現をする。それを光成が、これまで作中でされてきた表現に言い換える。強くなること、勝つことのみ特化し、他者からの評価には興味なしと。バキ世界では、誰かがそのように評価したことがいつのまにか周囲では一般的に共有されていたりすることがよくあるが、これもそれっぽい。そういうふうにいわれている、ということは、バキも知っていた感じだ。しかし、バキは懐疑的だ。宿禰戦での、歓声をあびて、それを堪能する姿のことをいっているのだ。たしかに、これは引っかかるところである。

バキの解釈としては、「報われたい」ということがあるようだ。とくに勇次郎である。勇次郎から誉められたい。逆にこの件は、勇次郎にフォーカスしないほうがよいかもしれない。ともかく、報われたいのだ。だから、賞賛は喜んで浴びる。そのなかでも、勇次郎からの賞賛が欲しい。それが、他者からの評価を気に留めないという、歪なスタイルを生んでいるのである。

 

次は愚地独歩と克巳だ。独歩が道場でコンビニ袋をつかって遊んでいる。ふわふわ予想のつかない動きをするこれを、独歩がおしゃべりをしながらリフティングでもするみたいにコントロールする。そして、息をふきかけてやや高くあげたところを、飛び蹴りで斬る。着地して、「せいやッ」の気合だ。だが、その「せいや」が余計だというのがジャックなんだろうと、やはり例の本部談話が共有されていることをおもわせる発言だ。いちおう克巳は、「せいや」は必要ですかねと、訊ねる。克巳ってこんなしゃべりかただったっけ。

残心は空手道の「見得」、見せ場だと独歩はいう。現代のファイターが、勝利が決まるなり両手をあげて防御を解き、ゆるんでしまうさまをおもうと、残心はもっと実用的な意味のあるものだとおもうが、それも詭弁かもしれない。ここは、見せ場だと断じるほうが誠実なのだろう。それを、昨日今日立ち上げた嚙道に理解できるのかというはなしだ。なるほどな・・・。

 

 

勇次郎が滞在するホテルにはジャックが訪れている。作中初の光景だ。ふたりが食事をともにしているのである。視力はもどったのかとくちにする勇次郎も前代未聞だ。ジャックはサングラスをしているので、まだ微妙なのかもしれない。そして、ジャックはとてつもなく緊張している。表情が硬いと。その彼に勇次郎は、「たまには柔らかい物も食え」と、粋なことをいうのだった。

 

 

 

つづく

 

 

 

勇次郎は本気でジャックを認める方向に舵を切ったようだ。ジャック、強くなれてよかったね・・・。

 

バキと比べるとジャックのことはネグレクト気味だった勇次郎だが、最近になって評価しはじめているらしいことがわかっている。鎬戦前のお散歩では、骨延長手術による高身長化に身体の機能が追いついていると、ジャックの言を受けて彼の成長を認めていた。そして、大きければいいとするジャックの短絡さを、そう述べながら、できることではないとしていたのだった。勇次郎にできるかどうかはこのセリフだけではわからないが、一般にいってそうであるということをくちにしたのだ。これは、本部からはじまったジャック評価の流れにあるものではある。

 

親子喧嘩時にくりかえし書いていたことだが、勇次郎の強さをひとことでいえば、「既知」ということになる。彼は対戦するものの得意なものをじぶんもやってみせることで、相手のこころを折ってきた。13歳のバキが必死で編み出した胴回し蹴りのカウンターには、胴回し蹴りのカウンターで応じる。中国拳法最強の男、郭海皇が到達した最終奥義・消力には、まねたのかすでにもっていたのか、消力で応じる。襲いかかる最大トーナメントの敗者たちは、各選手が得意とする分野で圧倒する。わざわざそうするのである。勇次郎は、なんでも知っている。なんでもできる。これが範馬勇次郎ということなのである。

このことが浮き彫りになったのは、親子喧嘩でバキが虎王を決めたときだった。虎王はバキ世界の技ではない。『餓狼伝』という、夢枕獏原作の板垣作品の奥義だ。これが、美しく決まったのだ。なぜ決まったのか? それは、虎王が他の作品、他の世界という異次元からやってきた技であり、端的に未知性を備えていたからなのだ。もちろん、オリバのリアクションもあったことだし、虎王はじっさいにはバキ世界にも存在していたらしいことがわかっている。だが、バキが物語作品として読まれるときに、虎王が『餓狼伝』の技として読者に受けたられることは必然である。なぜ虎王があんなにきれいに決まったのか、そしてなぜそれで、絶対者勇次郎の威厳は、依然として損なわれないのか。それはこうした事情によるのである。

このことにはバキもまた気がついていた。その結果が、ゴキブリを師匠とする態度である。なぜゴキブリなのか? ゴキブリが、加速においてじっさい優れているとバキが感じたから、ということはあるだろう。だがそれだけではない。ここに含まれていることは、とうてい「師匠」にはなりえないものからも学ぶという、対勇次郎において必要な格闘哲学だったのである。なぜなら、勇次郎は既知の王者だから。優れた武術があるらしい、では学ぼうと、そこに出かけても、それはすでに勇次郎が修得し、蹂躙したあとである。バキはいつまでも、どこに出かけても、勇次郎のあとを追っていくことしかできなかった。だから、勇次郎に限らず、誰も師匠とは考えないであろうものを拾い、そこから学ぶしかなかったのである。「ゴキブリ」ということが記号的に示すのはそうしたことなのである。

 

そして勇次郎のジャック評価である。そんな既知の王者、オールマイティである勇次郎が、ジャックの行為を「出来ることではない」としたのである。これがどれだけ重い言葉か、以上のことを踏まえるとよくわかる。「お前にできて俺にできないことはない」が勇次郎の基本スタンスなのだ。その彼が、一般論的な口ぶりではあれ、ジャック的ありようを出来ないとしたのだ。絶対者勇次郎にとっては、すべての格闘技者のふるまいは、じぶんの内側に含まれる、復元性に満ちたとるにたらないものである。彼にとってはどんな格闘技者のアイデンティティも意味を失う。勇次郎の前では、「オレはこの分野では絶対に負けない」と、格闘技者が自信をもっているぶぶんすべてが意味を失効するのである。その勇次郎が、ジャック的ふるまいを「出来ない」とした、つまり、じしんの内側には含まれていない他者的なものと認めたということなのである。

これは、たんにジャックが強くなったことそれだけが原因なのではない。勇次郎じしんのほうでも、親子喧嘩を経て、大きな変化をしているということは当然ある。親子喧嘩での決着は、勇次郎に「他者」を与えた。「他者」とは、「思い通りにならないもの」のことである。じぶんに比肩する強さのバキという「他者」が、はじめて眼前にあらわれ、あのような、勇次郎にとっては前代未聞の決着をみたことで、彼は、赤ん坊が痛みを通じてはじめて世界を分節したときのように、「思い通りにならないもの」の存在を知るに至ったのだ。バキ戦があったからこそ、勇次郎は「他者」としてのジャックを受け容れる準備ができたのである。

 

そして、その高評価から、今回は「たまには柔らかい物も食え」という、まるで「親」のようなセリフに至るのである。「たまには柔らかいものを食べたほうがよい」ということのココロは、これだけではわからないが、この言葉に含まれているものは、じぶんと比べるとまだ未成熟である子に対しての、そうしたほうがいいよという導きの感覚である。たとえば、親というものは、子にたいして「勉強しなさい」というものだろう。勉強したほうがいい、それは親には自明である。いざそれをなぜかと聞かれると、意外ととんちんかんな返答をしてしまいがちである。選択肢がとか、こたえるほどに、「勉強しなさい」と指示していたときの自明感は失われ、意味がせばまっていくようにおもわれる。親の説教というのはそういうものだ。ただ、おそらく子はそれを理解していないということはわかる。その、先をいくものの感覚が、愛情と一致したとき、説教が生まれるのだ。親子喧嘩を経験する前の勇次郎の世界認識は、乳児とそうちがわなかった。なにしろ、思い通りにならないことがなかったのだから。ふつう乳児は、母親の乳房がくちもとにない痛みを通じて、生まれて初めて世界を大きく二分する。世の中には「わがままが通るもの」と「通らないもの」があるのだと。この「通らないもの」が、「他者」の原風景である。しかし勇次郎にはそれがなかった。いつか描写があったが、誕生の瞬間から、彼は産婆さんを脅迫するようにして取り出させていた。だから、彼がいかに父親らしいふるまいをとっても、それはまねごとにすぎなかった。彼は世界のなんたるかを知ることのできない強者だったのである。それが、親子喧嘩を通じて、はじめて「人間」になれた。「人間」にならなければ、「親」になることもできない。「人間」だけが、「勉強はしておいたほうがいい」というようなことを実感として知ることもできない。かくして勇次郎は、バキとジャック、ふたりの息子との関係を通じて、はじめてほんとうの「親」になったのだ。そう、今回のこの場面は、なにより勇次郎の成長の描写なのである。

 

ひとの目を気にしないジャックが宿禰戦ではめっちゃ喜んでいた件について、作中で、それもバキから言及があったのは大きい。そして、それが「報われる」ということで解釈可能だと、よもやバキと光成のくちから判明するとは、うれしい驚きである。強くなりたい、そのためにはひとの目なんかどうでもいい。美意識もない。それがジャックなのだが、じっさいの勝利や、歓声などを通じて報われたいという気持ちはある。これが同居するというはなしなのだ。評価よりはじぶんの納得感を優先させる、結果のためならなんだってやる、しかしそのいっぽう、そんなじぶんをすごいとおもってもらいたい、というような気持ちになることは、むしろ一般的な感覚であたったほうがわかりやすいかもしれない。金儲けのためなら古い友人たちから縁を切られたっていい、でも、理解できるひとには理解してもらいたい、こういうような感じだろうか。なかでも勇次郎はもっとも理解してもらいたい人物だった。ただ、この感覚が、ジャックのなかで美意識の意図的な削除とどう折り合いをつけるのかなという感じはする。翻って、ジャックは勇次郎の評価すらどうでもいいとなってしまわないかなという気がするのだ。

 

 

独歩のような営利的な格闘組織を運営するものがジャックのスタイルにけんもほろろな態度をとるのはよくわかる。前回に引き続き、武術家がなぜカッコつけがちなのかについては特に説明はないが、事実としてそうである。独歩のような経営者の立場からすると、さきほどの「勉強しなさい」ではないが、自明すぎて、うまく説明ができないかもしれない。毎度くりかえしていることだが、ふつう、格闘の技術体系が確立するということは、一般人にもコミット可能になるということとほとんど同義である。独歩や克巳のような天才でなくても、神心会に入れば、“それなりに”強くなることはできる、それが体系ということだ。そうでなければ、神心会は運営できない。道場の看板を上げ続けることはできないのである。そしてそれが、ある種のマニュアル化を生む。マニュアルは、量的なものと質的なもののバランスをとるために効率的手段だ。ファストフード店のような、非常に大勢の客を相手にするサービスがマニュアル化するのは、非常に大勢の客、そしてそれに対応する非常に大勢の従業員を、一挙にあつかうためだ。ある種の美意識は、マニュアル的なものと近いものがあるのだ。

そして、神心会のような団体では、当然、入門するものは、強くなりたくてそこにいるわけである。そこにロールモデルや理想は当然必要になる。いってみれば、微量の信仰心である。これにこたえるのが、独歩が見せた残心のような記号ではないかとおもわれる。

いずれにせよ、そういう独歩の立場からすると、「嚙道(笑)」みたいな気持ちが出てくるのは、けっこう自然なのだ。結構、ではその嚙道で入門者を増やしてみろ、怪我なく試合をやってみろ、法的落としどころを探してみろと、こういうことなのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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