今週の刃牙らへん/第18話 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第18話/初めてのこと

 

 

 

 

今回のチャンピオンは、『刃牙らへん』1巻発売記念でスピンオフ作品の短篇がたくさん載っているぞ!

ほとんどがストーリー的に意味のあるものではなく、単発的に魅力を伝えるものだが、疵面だけはちがう。疵面だけは、ふつうに続く感じのストーリーだ。期待していいんですか?このブログの、しかもこの記事読んでいるようなかたにはあまり意味のないはなしだろうけど、疵面はほんとにおもしろいから、バキ読者で読んだことないひとはぜひ読んでみてください。

 

 

本編では鎬昂昇戦を終えたジャックが、おそらく招待されるかたちで、勇次郎と食事を摂っている。これって、親子喧嘩が開始したときのあのホテルなのかな。だとしたらホテルのスタッフは気が気じゃないだろうな。勇次郎が息子を読んで食事という、同じ状況なわけだから。あのときも近くにウェイターっぽいひとがいたけど、同じひとかな。手元に該当巻がないからわからない。でも、そもそもウェイターでは勇次郎の対応は許されないかもしれない。

先に飲み物を用意するかということで、ジャックはものすごい戸惑いながら水をという。ウェイターはそれを解釈して、ミネラルウォーターを用意するというが、もちろんジャックはそんなつもりでいってない。なにか飲み物を好みで選ぶという状況じたいが、ジャックの人生にはあまりなかったろう。飲み物とは、たんに水分を摂取するための媒介でしかなかったはずだ。察した勇次郎が、水道水は出ないぞという。ジャックはようやく、ではミネラルウォーターを・・・と、息もたえだえになりながらいうのである。まだ状況をつかみとれていないっぽいウェイターは、ガス入りかガスなしか尋ねようとし、勇次郎が「水道水を注文した客にする質問か」と諌めるのだった。要するに、客に恥をかかせるのかということだ。ウェイターは、お客が「水」といえば「水道水」を想定するようなものであるということを見て取って、気をつかうべきだった。聞かずにおすすめのものにしてしまうとか。でも、勇次郎がそんなにおっきい声でいっちゃったらあんまり意味ないけど。

 

勇次郎の指示でドライシェリーが運ばれ、勇次郎は笑顔でグラスをかかげる。ジャックもなれないてつきでグラスを上げ、乾杯とくちにする。ジャックがひとくちで飲んでしまったのを勇次郎は楽しそうに見ている。うますぎて骨折レベルの大怪我をしたときの描写みたいに大量に発汗するのだった。初のシェリー酒、というか、乾杯が初めてだったということである。これは勇次郎にも意外だったようだ。勇次郎が想像している以上に、ジャックの人生は「強さだけ」だったのだ。

豚の丸焼きをぼりぼり食べるようなジャックには信じられないような料理が続く。鮮魚のカルパッチョは薄すぎてくちのなかで溶け、魚にはおもわれない。カナダ生まれということで、ナイフ・フォークの使い方の基本はできているらしい。はるか刃牙の上だなと、やはり楽しそうに勇次郎はいう。その「遥かに刃牙の上」という言葉に、ジャックは強く反応してしまうのだった。

やってきた白ワインのシャブリもジャックはひといきに飲み干す。飲み方は最悪だと、ため息をつきながら勇次郎はいうが、それも、マナーが悪いというより、うまいからなのだ。

つづく海亀のスープにジャックは山盛りの材料を思い浮かべるが、このリアクション、誰かもやってなかったっけ。バキか?

次は「オマールのしシャンパン蒸し アメリケーヌソース」という、どのぶぶんがなにを指すのかよくわからない料理だが、オマールというのは海老らしい。

ジャックの緊張も少しずつとけてきているのかもしれない。そして、料理がうますぎて、食欲が増してきてもいるのかもしれない。手でつかんで食べていいかというので、個室だからということで勇次郎はOKを出す。ホールではやるなよと。そうして、ジャックはまるごとバリバリ喰らうのだった。

 

 

 

つづく

 

 

 

ほんわかこころあたたまる親子エピソードのようでもあるが、最初に書いたように、現場がホテルということもあって、少し不穏でもある。最後に「無事終わるのか?」と心配してるのはウェイターなのだろうか。心配だよな。この前の親子会食はあんなことになったわけだし。

 

今回の会食がどういう方向に転がるのかにもよるのだが、ジャックにかんしていえば、彼がいままでどれだけの強度で「強さだけ」を求めて生きてきたかということがわかるものになっている。が、それと同時に、これは勇次郎の描写にもなっている。ひとつには、前回書いたように、彼がバキとの親子喧嘩の果てに「他者」を獲得したということに確認である。勇次郎は、明らかに「父親」としてふるまっている。それは、バキとの会食時にも見られたふるまいではあるが、前回のラストにあった「たまにはやわらかい物でも食え」というようなセリフからして、より自然なものになっているといえるだろう。バキとの会食は、親子喧嘩の前であり、したがって、勇次郎の父親としてのふるまいは、まだ「ふり」を出なかったものとおもわれる。すべてを腕力で押し通すことのできる彼には、原理的にいって「不如意」がなかった。不如意とは、他者の原風景なのである。だから、勇次郎は、ほんとうの意味では、「他人」というものを理解していなかった。ただ、じぶんの腕力でどのようにでも動かすことのできる人形のようなものでしかなかったのである。とはいえ、長いあいだ生きてくれば、「ふつうはこういうふうに他人というものを受け取るものらしい」ということはわかってくるだろう。それを真似していただけなのだ。

だが、ジャックに対するふるまいは、あくまで感触としてはということを出ないものの、もっと自然体なのだ。「やわらかいもの」のくだりは、要するに、「もっと『強さ』以外も味わってみろ」ということであり、同様に強さに生きるもののセリフとしても、語の余剰ぶぶんの多い、非常に人間らしいセリフといえるのである。ここに、勇次郎の人間としての成長が見て取れたわけだ。

 

そしてもうひとつ、今作ではおそらくこちらのほうが重要になるかとおもわれるが、彼の「エエカッコしい」のぶぶんが表出していると見る考えかただ。

 

はなしをもっともかんたんにしてしまうと、本作のテーマは、「刃牙らへん」のものたちは、刃牙や勇次郎をも含めて、「エエカッコしい」であり、ジャックだけが、人の目を超越して嚙道にたどりついたのだというはなしであった。これを「本部談話」と呼ぼう。この見解については、光成から加藤まで、作中人物はおおむね同意しているようであった。これはむろん闘争にかんするはなしである。実戦派の独歩も、技をきめたあとには習慣のように気合とともに残心の動作をとる。しかし、果たしてそれはほんとうに必要なのか、人の目を気にしてやっていることではないのかと、例外や解釈を排除してはなしをかんたんにしてしまえば、そういうことになる。この疑問が勇次郎にもあてはまるというのは本部談話からいわれていたことであって、たしかに、勇次郎には独自の美学のようなものがあるようではあったわけである。今回はそのことについて、闘争以外の視点で描かれているものと考えられる。まず、ウェイターの炭酸についての発言をとがめるぶぶんである。これは、ジャックがミネラルウォーターといわれて戸惑う人間であることを見て取り、接客業としてそこを汲むべきではないかと、ウェイターをたしなめる描写なのだ。相手がどういう客なのか見て取る、そしてそこで適切な行動を選び取る、さらには、第三者としてそうすべきだと考える、これらすべてが、きわめて社会的な動物としての思考過程であり、社会関係の網目のなかで生きるもののみが身につけている非常に高度な「読解」なのである。

さらに、ひとくちで酒を飲み干してしまうことを笑いながら指摘したり、「ふつうはこうすべきである」という規範がまずあって、それにジャックがしたがっていないことを、楽しそうに眺めるということを、今回の勇次郎はずっとしているのだ。この「楽しそうに眺める」という動作に、勇次郎の大人としての成熟と、「エエカッコしい」のぶぶんが同時にあらわれている。つまり、規範を守るものとして指摘し、教育しつつも、彼は成熟した大人としてジャックを認めているので、否定的にはそれを受け取らないのである。

そして最後の大海老ではついに、「個室」だからよい、というところにまでたどりつく。「ホール」でそれをしてはいけないのは、人目があるからだ。つまり勇次郎は、人目を気にする/気にしないの、絶妙な匙加減を、ジャックを通じて自分自身堪能しているのである。最後に、勇次郎はウェイターにむけて「しっ」としている。ウェイターがなにかいおうとしているようには見えないが、これはおそらく、まさしくそのウェイターが「他者」だからだろう。海老のまるかじりを見られてはならない「ホール」の住人だからだ。これは、見なかったことにしてくれ、そのために、いまはいないことにしてくれ、ということを、勇次郎はいっているのである。

 

問題になるのは、今回勇次郎が「大人」としてみせた「エエカッコ」を、ジャックがどう受け止めるのかということである。親子喧嘩の結果として勇次郎は成熟を果たし、「カッコよくふるまうこと」をたんなる美学としてではなく、一種の包容力をもつものとして実現させている。もっといえば、ジャック的な「ん人目を気にしない」スタイルというのは、成熟した勇次郎の目を改めて通してみれば、それは要するに未成熟の、「子ども」のものなのだ。だが、ジャックが「子ども」であることを貫くことで嚙道を極めたことも事実である。バキ世界の人物たちがジャック的なありようをおおむね肯定的に受け取っていることからしても、こうした「子ども」のふるまいは、「強さ」とは相性がいいということになるのである。このことをジャックはどう受け取るのかということがポイントだろう。勇次郎を通じてジャックはじしんのスタイルが未熟をよしとする「子ども」のものだということを実感しただろう。別に、それでいいといえばそれでいいわけである。強ければいいのだから。そこの葛藤がどうなるのかが、今後の論点である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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