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ルーク4のブログ

神様がクリスチャンに与える愛、夢、希望、信仰の証を中心に書いています。

「日本におけるキリスト教 72 人間は地獄行きが相応しいのか?戦争とキリスト教

 

前回の続きですが、まずは「人間」について考えてみます。

 

何事もそうですが、人間を語るうえに最も重要なのが「どこの国のどの時代の話か」ということになると思います。

 

例えば、この日本では長年の戦争時代を過ごしてきた人々がいます。

野々市市のホームページ足跡から引用します。

 

「1931年[昭和6]の満州事変から、1945年[昭和20]の太平洋戦争の終戦までの15年間は、戦争が続いた暗い時代でした。

昭和に入ると世界中が不景気になり、日本でも人々の生活は苦しいものとなりました。

 

このようなとき、一部の軍人や政治家は、広い土地と豊かな資源がある満州[中国の東北部]を日本のものにすれば、国民の生活が良くなると主張し、このような考えが国民にも広まり戦争の時代が始まったのでした。

 

1937年[昭和12]には日中戦争(にっちゅうせんそう)が始まり、戦争は中国各地に広まりました。

 

この中国との戦争に行きづまっていた日本は、ドイツ・イタリアと軍事同盟を結び、石油などの資源を求めて東南アジアに軍隊を送りました。アメリカやイギリスなどの連合国と対立が深まり、1941年[昭和16]には太平洋戦争が始まりました。

 

戦争を続けていくために、政府は、兵器を作る工場に国民を動員(どういん)できるようにし、砂糖やマッチ、味噌(みそ)、醤油(しょうゆ)などの生活用品まで制限しました。

『贅沢(ぜいたく)は敵(てき)だ』という標語(ひょうご)も生まれ、生活は少しずつ苦しくなっていきました。」

 

引用以上

 

 

この戦争時代において、アメリカ兵隊たちを「憎き鬼畜米兵」と言って、アメリカ兵隊を殺せば殺すほど「英雄」となり、日本国民は歓喜しました。

 

もしも、私がこの時代に生きていれば、自分自身もそうなっていたと思います。

 

 

また、人類史上、最も残酷非道な無差別殺人はアメリカによる日本の広島と長崎への「原爆投下」と言われています。

 

この日本では、原爆投下は「人間が成せる仕業ではなく、悪魔の仕業」と思う人も多いと思います。

 

しかし、アメリカではまるで違うのでビックリ仰天しています。

 

プレジデント オンライン2020 8 9 

「原爆が100万人の命を救った」アメリカの言い訳を垂れ流すNHKの罪」から引用

 

「原爆の使用は戦争終結のためにしかたなかった。結果として多くの人が救われたのだ」というアメリカ側のためのプロパガンダをやっているみたいです。

 

現在では、アメリカの歴史研究者ですら以下の事実を認めています。

 

英米ソがヨーロッパやアジアの戦後処理を話し合っていた1945年7月の段階で、アメリカは日本との戦争を終らせる選択肢は4つ、(1)本土上陸作戦を行う(2)皇室維持を条件として認めた降伏勧告を出す(3)原爆を投下する(4)ソ連の参戦を待つ、つまり、本土上陸作戦か原爆投下の2者選択ではなかった、ということです。

 

とくに、アメリカは、皇室維持という条件を提示すれば日本が降伏する可能性がきわめて高いことも知っていました。

 

ですから、原爆投下か本土上陸作戦かしか選択肢がなく、多数のアメリカ兵の命が失われないように前者を選んだというのは事実ではありません。

 

ところがNHKの番組は日本の視聴者に事実を伝えず、アメリカのために原爆正当化のプロパガンダを行っているのです。

 

引用以上

 

 

なんとアメリカでは「原爆投下」を多くの人の命を救うために行なったと正当化しているのです。

 

アメリカは未だに核兵器を所有しています。ストックホルム国際平和研究所(SIPRI)2023年1月時点の核兵器数が発表では、アメリカの核兵器数は5428です。

 

原爆投下を正当化していれば、これからも「多くの人の命を救うために」という大義名分で「核兵器を使用する」可能性があるのです。

 

日本人の多くは「それは非常に恐ろしい」と思いますが、アメリカ人の多くはそうは思っていないようです。(そう思わないようにマインドコントロールされていると思います。)

 

 

また現在、イスラエルがガザ地区への戦闘を行なっていますが、今日の京都新聞の記事には次のように書かれています。

 

「イスラエルにパレスチナ住民の殺りくをやめさせ、休戦実現へ動かねばならない。

 

 オランダ・ハーグの国際司法裁判所(ICJ)がパレスチナ自治区ガザでの戦闘を巡り、イスラエルに対し民族大虐殺(ジェノサイド)を防ぐ「あらゆる手段」や人道支援の確保などを行うよう命じた。

 

 ICJの命令は国連加盟国に法的拘束力がある。イスラエルは順守しなければならない。各国も一致して命令に従うようイスラエルに迫る必要がある

 

ガザ地区での死者はすでに2万6千人を超え、200万人近くが家を失った。

 

イスラエルは戦闘を続け、病院や社会インフラなどの破壊も続けている。こうした状況を踏まえ、ICJは数年かかるとされるジェノサイドかどうかの判断とは別に仮処分(暫定措置)として命令を出した。それだけ緊急性が高いということだ。

 

 即時停戦が盛り込まれなかったことから、イスラエルのネタニヤフ首相は「自衛権を剥奪する試みは拒絶された」と強調しているが、筋違いも甚だしい。

 

引用以上

 

 

このように日本では、ICJに賛同して、イスラエルはパレスチナ住民の殺戮(民族大虐殺(ジェノサイド)を行なっていると非難し、即時停戦を訴えている声は多いです。

 

しかし、イスラエルは違うのです。

2023/12/26の「イスラエルの世論調査」は次の通りです。

 

 【エルサレム共同】

パレスチナ自治区ガザでのイスラム組織ハマスとイスラエル軍の戦闘を巡り、イスラエル国民の約7割がガザの民間人の苦境を考慮する必要がないと考えていることが26日までのシンクタンク「イスラエル民主主義研究所」の世論調査で分かった。

 

約8割が、軍は国際法を順守しようと努力しているとも回答した。

 深刻化するガザの人道危機を懸念する国際社会とイスラエル社会の差が浮き彫りになった。

 

 「イスラエルは軍事作戦の継続を計画する際に、ガザ市民の苦境を考慮する必要があるか」との問いに対し、計69・3%が「全く考慮する必要はない」「ほとんど考慮する必要はない」と答えた。

 

引用以上

 

 

なんと、イスラエル国民の約70%は、ガザ市民の苦境を考慮することはなく、軍事作戦を継続するべきと答えているのです。

 

その結果、幼子を含めて多くのパレスチナ市民が殺されました。

 

 

このように、どこの国の人かによって「大量無差別殺人」において、正当化して実行されたり、非難して阻止したり、分かれるのです。

 

これは、まるで同じ「人間」とは思えません。

 

 

聖書はこの事をいくつもの御言葉によって痛快に教えてくれます。その中の代表的な1つです。

 

「子たちよ。だれにも惑わされてはならない。彼が義人であると同様に、義を行う者は義人である。

 

罪を犯す者は、悪魔から出た者である。悪魔は初めから罪を犯しているからである。神の子が現れたのは、悪魔のわざを滅ぼしてしまうためである。第一ヨハネ3章7~8節」

 

 

「 神の子と悪魔の子との区別は、これによって明らかである。すなわち、すべて義を行わない者は、神から出た者ではない。兄弟を愛さない者も、同様である。

 

わたしたちは互に愛し合うべきである。これが、あなたがたの初めから聞いていたおとずれである。

 

カインのようになってはいけない。彼は悪しき者から出て、その兄弟を殺したのである。なぜ兄弟を殺したのか。彼のわざが悪く、その兄弟のわざは正しかったからである。

 

兄弟たちよ。世があなたがたを憎んでも、驚くには及ばない。

 

わたしたちは、兄弟を愛しているので、死からいのちへ移ってきたことを、知っている。愛さない者は、死のうちにとどまっている。

 

あなたがたが知っているとおり、すべて兄弟を憎む者は人殺しであり、人殺しはすべて、そのうちに永遠のいのちをとどめてはいない。第一ヨハネ3章10~15節」

 

 

この聖書の教えでは、カインのように悪しき者から出て、行いが悪く、兄弟を殺す者はすべて、そのうちに永遠のいのちをとどめてはいないのです。

 

その大切な教えは「イエス・キリストを信じない人々は地獄行き、永遠の火に投げ込まれる」という聖書に書かれていない教えによって、解釈を違うほうへ向かわせていることを痛感しています。

 

次も聖書から神の御怒り、神の裁きはどのような人々に起こされているのかを見ていきます。

 

「日本におけるキリスト教 71 神の教え(御言葉)は人々に神は愛だということが心に響くもの」

 

昨年からNHK朝ドラ「ブギウギ」を楽しみに見ています。その中でいつまでも心に響いている言葉があります。

 

それは「歌は人を生かすために歌うもの。戦争なんてくそ食らえよ」という言葉です。

 

歌手のりつ子は慰問先で、年端もいかない特攻隊員の少年たちのリクエストに応えて自身の最高のヒット曲を歌いました。

 

「これでもう思い残すことはありません。ありがとうございました。」と少年たちに掛けられた言葉が耳から離れない、というりつ子。

 

「私の歌に背中を押されて、あの子たちは死んでいったかもしれない。悔しかったわ。だって、歌は人を生かすために歌うものでしょ」と吐露。苦しい思いがりつ子の胸をふさいでいた。

 

 「戦争なんてくそ食らえよ」と、りつ子は吐き捨てる。戦争が終わっても、戦争で受けた心の傷はいつまでも残り続けることを思い知らされる。そんなりつ子の苦しみを和らげたのはスズ子の言葉だった。

 

「ほんなら、これからはワテらの歌で生かさな」

「今がどん底やったら、あとはようなるだけですもんね。歌えば歌うだけ、みんな元気になるはずや」

 

以上リアルサウンド記事より引用

 

 

「歌は人を生かすために歌うもの」

 

私はクリスチャンとして、神の教え(聖書の御言葉)を歌にして、神は愛であることが心に響くことを願って、いくつも楽曲を制作し続けています。

 

聖書が教える「愛」とは何か?その答えが第一コリント13章に書かれています。

 

「コリント人への手紙 第一 13章1~13節」

 

たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。

 

また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値打ちもありません。

 

また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。

 

愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。

礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のしたあくを思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。

 

すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。

 

愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。

というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。

 

完全なものが現れたら、不完全なものはすたれます。

私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。

 

今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔を顔とを合わせて見ることになります。

今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知らされているのと同じように、私も完全に知ることになります。

 

こういうわけで、いつまでものこるものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。

 

 

しかしながら、聖書には「愛」の教えとは真逆の「神の怒り・裁き」についても教えています。

 

プロテスタント福音派の教会では「イエス・キリストご自身が地獄(永遠の火・ゲヘナ)行きについても教えておられるのです。」と言って、「イエス・キリストを信じていない人々は地獄です。永遠の火に投げ込まれるのです。」と教えます。

 

 

プロテスタント福音派の教会に所属しているクリスチャンたちは、その教えをそのまま信じて「アーメン!」と受け入れます。

「イエス・キリストを信じない人々は地獄へ行き、永遠の火の中でもがき苦しむことを信じます!アーメン!」

 

 

しかし、プロテスタント福音派の教会から離れ去ったクリスチャンたちは自由です。

 

「イエス・キリストを信じない人々は地獄行きの教えなど、くそ食らえ!」

 

「イエス・キリストの教えは神の愛を教えて、人を生かすもの」

 

次は、「イエス・キリストを信じていない人々は地獄へ行くという教えのウソ」というか、でっち上げを聖書から徹底的に検証していきます。

 

 

 

 

 

 

「日本におけるキリスト教 70 現代の同性愛者は恐ろしいソドムの民か?」

 

プロテスタント教会の中では、聖書に出て来るソドムの民を現代の同性愛者だと断定するような教えがあります。

その聖書箇所を見てみましょう。

 

「二人の御使いが夕方ソドムに着いたとき、ロトはソドムの門の所に座っていた。ロトは彼らを見ると、立ち上がって迎え、地にひれ伏して、 言った。

 

「皆様方、どうぞ僕の家に立ち寄り、足を洗ってお泊まりください。そして、明日の朝早く起きて出立なさってください。」

彼らは言った。「いや、結構です。わたしたちはこの広場で夜を過ごします。」

 

しかし、ロトがぜひにと勧めたので、彼らはロトの所に立ち寄ることにし、彼の家を訪ねた。ロトは、酵母を入れないパンを焼いて食事を供し、彼らをもてなした。

 

彼らがまだ床に就かないうちに、ソドムの町の男たちが、若者も年寄りもこぞって押しかけ、家を取り囲んで、 わめきたてた。

 

『今夜、お前のところへ来た連中はどこにいる。ここへ連れて来い。なぶりものにしてやるから。』創世記19章1~13節

 

この聖書箇所から、「現代の同性愛者たちは、このソドムの民です。」と教えているのです。

 

 

まず、この聖書箇所から思うのは、冒頭の「二人の御使い」ということです。この御使いは人間ではないのです。

 

御使いについて「御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされて」いる(ヘブル1:14)

 

神が正しいと認めた「ロト」は、御使いに出会うとひれ伏して礼を尽くし、もてなしました。

 

しかし、神が滅ぼすと決められた「ソドムの民」は、若者も年寄りもこぞって、御使いをなぶりものにしようと押しかけました。

 

 

ソドムの民はどうして、御使いたちをなぶりものにしようとしたのでしょうか?それに関する御言葉がユダの手紙に書いてあります。

 

「主は、自分たちの地位を守ろうとはせず、そのおるべき所を捨て去った御使たちを、大いなる日のさばきのために、永久にしばりつけたまま、暗やみの中に閉じ込めておかれた。

 

ソドム、ゴモラも、まわりの町々も、同様であって、同じように淫行にふけり、不自然な肉欲に走ったので、永遠の火の刑罰を受け、人々の見せしめにされている。ユダ6~7節」

 

本来、御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされているのですが、そのおるべき所を捨て去った悪い御使いたちもいたのです。

 

その悪い御使いたちは人間と不自然な肉欲に走っていたと解釈できます。

 

それでソドムの民は、二人の御使いと不自然な肉欲を超楽しみにしていたのですが、二人の御使いは正しい御使いでした。

 

なので、ソドムの民たちは怒って、「今夜、お前のところへ来た連中はどこにいる。ここへ連れて来い。なぶりものにしてやるから。」と押しかけて来た。と解釈するのが妥当だと思います。

 

 

さて、現代の同性愛者(LGBT)と言われる方々はどうでしょう?

 

現代の時代は、御使いが見える形で現れるということは信じられませんが、もしも御使いが見える形で現れるとすれば、LGBTの方々の多くは感動して、礼を尽くして、もてなすと思います。

 

しかし、ごく一部に御使いと不自然な肉欲を持ちたいという不届き者もいるでしょうが、それは、LGBTではない人々も同じでしょう。

 

 

また「御使いと不自然な肉欲を持つ」と解釈しなかった場合でも、

 

現代の同性愛者と言われる方々が、御使いをもてなしているところへ、若者も年寄りもこぞって押しかけ、家を取り囲んで「今夜、お前のところへ来た連中はどこにいる。ここへ連れて来い。なぶりものにしてやるから。」とわめきちらすでしょうか?

 

そんな極悪非道なことをするイメージはなく、

 

むしろ、御使いたちに礼を尽くして、もてなしているイメージがあります。

 

これは多くの人々が、そのようなイメージを持つのではないでしょうか。

 

 

また、聖書は、ソドムの民が滅ぼされた理由を明確に教えています。次の御言葉があります。

 

「ソドムの住民は邪悪で、主に対して多くの罪を犯していた。創世記13章13節」

 

 

「昔、主が怒りと憤りをもって滅ぼされたソドム、ゴモラ、アデマ、ゼボイムの破滅のようである。——

 

すなわち、もろもろの国民は言うであろう、『なぜ、主はこの地にこのようなことをされたのか。この激しい大いなる怒りは何ゆえか』。

 

そのとき人々は言うであろう、『彼らはその先祖の神、主がエジプトの国から彼らを導き出して彼らと結ばれた契約をすて、

行って彼らの知らない、また授からない、ほかの神々に仕えて、それを拝んだからである。申命記29章23~26節」

 

 

「お前の妹ソドムの罪はこれである。彼女とその娘たちは高慢で、食物に飽き安閑と暮らしていながら、貧しい者、乏しい者を助けようとしなかった。

 

彼女たちは傲慢にも、わたしの目の前で忌まわしいことを行った。そのために、わたしが彼女たちを滅ぼしたのは、お前の見たとおりである。エゼキエル書‬ ‭16章49~50‬ ‭節」

 

このように、ソドムの民が滅びた理由が述べられていますが、同性愛者と言われる方々が、この御言葉の教えと同じでしょうか?

知っている同性愛者と言われる方々のことではないことを理解します。

 

ですから、聖書の教えによって、現代の同性愛者(LGBT)と言われる方々は、ソドムの民ではない!と断言しています。

 

なぜなら、神の御言葉はすべて純粋であり、神は依り頼む者の盾だからです。

「日本におけるキリスト教 69 聖書の教えでは同性愛(LGBT)は恐るべき罪人か?」

 

前回の続きです。個人的に多くのプロテスタント教会の福音派の牧師の教えを聞きましたが、「聖書の教えでは同性愛は罪です。」という教えで一致している印象を受けています。

 

その福音派の牧師は、聖書の御言葉を教えているので説得力があります。

 

個人的には、その中でも特に2つの御言葉によって「言われる通りに同性愛は恐るべき罪であり、神の裁きを受けて当然だ!」と洗脳されていた時期がありました。

 

その2つの御言葉を順番に見ていきます。

 

① 

 

「ローマの信徒への手紙1章26~32」

 

「それで、神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました。

 

女は自然の関係を自然にもとるものに変え、 同じく男も、女との自然の関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い、その迷った行いの当然の報いを身に受けています。

 

彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。

 

あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、 人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、 無知、不誠実、無情、無慈悲です。

 

彼らは、このようなことを行う者が死に値するという神の定めを知っていながら、自分でそれを行うだけではなく、他人の同じ行為をも是認しています。」

 

 

このローマの信徒への手紙1章26~32だけを読めば、神の裁きによって同性愛者たちは恥ずべき情欲にまかせられた。

 

そして、同性愛者たちはあらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ちる極悪非道な人間となった。と理解することができます。

 

なので、プロテスタント教会の福音派に在籍している時は、同性愛者たちは「神に呪われた非常に恐ろしい人間たちだ」と信じて、警戒していました。

 

それゆえ、「同性愛者がもたらすエイズ感染も恐ろしいし。」と考えるようになったのです。

 

 

そして、無教会になってから、その同性愛についての教えを見直してみました。するとまったく違っていたのです。

 

ちなみに同性愛者がもたらすエイズ感染というのも間違っているというデーターもあります。

 

ローマの信徒への手紙1章26~32の前の文章の21節から読んでいきます。

 

「なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。

 

自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、 滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。

 

そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。

 

神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです。造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン。

 

26 それで、神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました。」

 

 

つまり、このローマの信徒への手紙1章21~32節まで続けて読めば、神が彼らを恥ずべき情欲にまかせられた理由は以下の通りです。

 

彼らは神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、

滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。

 

それは、神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたということです。

 

 

この「日本」では過去から現在に至るまで、神の栄光を滅び去る人間や鳥や獣や這ものなどに似せた像と取り替え、造り主の代わりに造られた物を拝んで仕えることに満ちあふれています。

 

私が住んでいる町もメインは「楠の木」が神のようにして祀られ、楠の木を神のようにして拝みます。また、側に置かれている「緑色の牛の像」も拝まれています。

 

近くには稲荷神社で「キツネ」の像があり、キツネを守り神として拝んでいる人をよく見かけます。

 

他にも、あらゆる動物や木・物などが神のようにして拝まれています。

 

毎日新聞 2021/9/2の記事です。

 

「天皇が現人神(あらひとがみ)といわれた昭和戦前期、昭和天皇は自分を神扱いする側近にこんなことを言っている。

「私は普通の人間と人体の構造が同じだから神ではない。そういう事を云(い)われては迷惑だ」(昭和天皇独白録)

 

▲戦後、自らの神性を否定した人間宣言で昭和天皇は、国民とは「終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依(よ)リテ結バレ」ると宣明した。」

 

引用以上

 

 

日本では人間である「天皇」を神として崇拝する時代がありました。

 

その時代はプロテスタント教会もカトリック教会も「天皇陛下の現人神」に乗り込まれていて、戦争協力もしていたほどです。

 

無教会の先生たちは、「無教会」は、内村鑑三先生が、天皇陛下を崇拝しなかったという「不敬事件」によって誕生したことを詳しく教えています。

 

また、無教会の指導者たちは戦争にも猛反発して、逮捕者が続出している記録があります。

あの宮沢賢治氏の「雨ニモマケズ」のモデルと言われている無教会の「斉藤宗次郎」氏は、戦争に反対して大迫害にあっています。

 

 

日本は、このように、ローマの信徒への手紙1章21節からの神の栄光を滅び去る人間や鳥や獣や這ものなどに似せた像と取り替え、造り主の代わりに造られた物を拝んで仕えることに満ちあふれていますが、それで、神はその多くの日本人たちを恥ずべき情欲にまかせられたという事実はありません。

 

また、同性愛者の方々全員が、神の栄光を滅び去る人間や鳥や獣や這ものなどに似せた像と取り替え、造り主の代わりに造られた物を拝んで仕えていた結果として同性愛になったという事実もありません。

 

 

なので、無教会の立場とすれば、福音派のローマの信徒への手紙1章26~32節だけを抜き取って、同性愛を恐るべき罪人のように教えることは相当めちゃくちゃ超激しく危険な教えだと思います。

 

 

例えば、ある父親が家の庭の駐車場で車を動かした時、アクセルとブレーキを間違えてしまった。

 

その時、家の中にいると思っていた我が子が、お父さんの後を追って駐車場の車の後ろにいて、ひき殺してしまった。という痛ましい事が起きたとします。

 

それを聞いた人々は誰もが「悲劇」だと思って、父親に同情します。

 

ところが「この父親は我が子を車でひき殺した」というところだけを抜き取って伝えればどうなるでしょう。

 

それを聞いた人々は「我が子を車でひき殺すなんて、なんて残酷非道な父親だ、人間ではなく鬼畜だ」と、父親を批判非難します。

 

 

このように、何事もそうですが、「理由」を伝えなければ、まったく事実が変わってしまいます。

 

聖書のローマの信徒への手紙1章26~32節を伝えれば、同性愛を恐るべき罪人とすることが出来ます。

 

しかし、ローマの信徒への手紙1章21節から、または1章1節から伝えれば、これは現在の同性愛者に対する御言葉ではないことがわかります。

 

 

実はプロテスタント教会の「未信者(イエス・キリストを信じていない人々)は地獄へ行く。」という教えも同じで、福音派は巧妙に恣意的に御言葉を抜き取って、未信者(イエス・キリストを信じていない人々)は永遠の火に投げ込まれると断言しています。

 

無教会ではその理由から聖書を読むので、「未信者(イエス・キリストを信じていない人々)は永遠の火に投げ込まれるという教えは聖書に書かれていません!」と断言しています。

 

神は何を求めておられるのか、ただ公義を行ない、誠実を愛し、神と共に歩むことです。

 

次はもう一つの教えを見ていきます。

ソドムの民は同性愛者ではないということについてです。

 

つづく

 

「日本におけるキリスト教 68 教会の同性愛者に対する教えについて」

 

「献金」のことや「病い」についても無教会と福音派の教えとはまるで違うことを前回記事に書きました。

 

ちなみに「無教会」とは、内村鑑三先生の教えを著書からそのまま継承している人たちもいますが、そうではない人のほうが圧倒的に多いと思います。

 

私自身は、プロテスタント福音派の教会の教えは「論外」であり「ナンセンス」と思うことが多々あり、そのことを内村鑑三先生が明確に訴えていたので、かなり影響を受けました。

 

ですが、アフガニスタンで殉教されたクリスチャン医師「中村哲」先生のように、どこの教会にも所属せず、独自の聖書解釈と福音理解をしているクリスチャンということで「無教会」ということです。

 

この「無教会クリスチャン」はかなり多い印象を持っています。その多くはプロテスタント教会から離れた人々でしょうね。

 

 

さて、前回記事の「病いの教え」について、思い起こされるのが、福音派の教会の「同性愛者は罪&病い」という教えです。

 

カトリック教会も同性愛は罪と教えているそうです。

 

BBC NEWS JAPAN 2021年6月23日の記事は次のように伝えています。

 

「現在のカトリック教会の教義では、同性愛は「逸脱した行為」とされている。

 

ローマ教皇フランシスコは2013年に教皇に選出されて以来、同性愛に対してよりリベラルな姿勢をとってきた。

昨年公開のドキュメンタリーでは、同性カップルにも婚姻関係に準じた権利を認める「シビル・ユニオン」を認めるべきだと発言していた。

 

一方で、教皇はこれまで、同性愛は罪であるというカトリック教会の立場を繰り返し表明している。2018年には聖職者の間での同性愛は「深刻な問題」で「心配」だと述べた。」

 

引用以上

 

 

次はプロテスタント教会の同性愛者についての教えです。

 

大和田香菜さんの論文から

現代における日本のキリスト教と LGBT

――牧師と信者との対話から――一部引用

 

「また『船の右側』という雑誌では、新城教会主任牧師滝本順が『同性愛と神の裁き』という題で同性愛はキリスト教の中では罪であると明記し、聖書の言葉を基準にしなくてはならないと主張している。

 

しかし、キリスト教徒が最も多いとされる国アメリカでは同性婚が全面解禁されたこともあり、日本もそれに影響されたりするのではないかと懸念している(滝本 2015)。

 

 一方で平良愛香の『あなたが気づかないだけで神様もゲイもいつもあなたのそばにいる』では、実際に著者の平良愛香自身がゲイの牧師をやっていて、きっかけや実体験と LGBT を肯定する主張が述べられている。

 

キリスト教の中でも LGBT の教職者もいることが明らかだ(平良2017)。

 

 このように、日本のキリスト教内での LGBT の見解や主張は、否定側と肯定側に別れているように見える。

 

引用以上

 

 

この日本のキリスト教というのは、プロテスタント教会のことで、否定側は「福音派」で、肯定側が「日本基督教団」です。

 

「滝元順」牧師は「福音派」の重鎮の1人「滝元明」牧師の息子さんで、福音派の教会の中で大きく用いられています。

 

そして、ゲイの「平良愛香」牧師は「日本基督教団」の牧師です。

日本基督教団はレズビアンを公言されている堀江有里牧師もいますので、ゲイやレズビアンでも牧師になれます。

 

「福音派」では「聖書のいくつもの御言葉で同性愛者は罪と書いている!」という教えにより、同性愛者が牧師になるなど言語道断というような風潮があります。

 

また、戦後、日本の福音派指導者として聖書信仰の確立のために働いてきた福音派の指導者のトップの1人とも言われている「尾山令仁」牧師が訳して好評発売中の聖書「創造主訳聖書」では、同性愛者が絶望するように聖書が訳されています。

 

「同性愛にふけるなら、二人共、殺される。それは当然のことである。レビ記20章13節」

 

その他の聖書箇所も恣意的に「同性愛」という言葉に変えて、同性愛は「恐るべき罪」であることを強調しています。

 

それゆえ、聖書を読んだクリスチャンたちは、同性愛者を恐るべき罪人と判断するのです。

 

 

今度は「世の中」が教える同性愛についての教えです。

 

これまで浸透していた「同性愛者」という言葉は、現在では「LGBT」という言葉に変わって使われています。

「L」は「レズ」、「G」は「ゲイ」、「B」は「バイセクシャル」、「T」とは「トランスジェンダー」のことだそうです。

 

 

「株式会社JobRainbow」のマガジン記事は次のように教えています。一部を抜粋します。

 

「トランスジェンダーとは、こころの性とからだの性が一致していない人を指し、医学用語の”性同一性障害”とは、厳密には異なる言葉になります。

 

例えば、生まれた時の性は男性で自身のことを女性と認識している方はトランスジェンダー女性(MtF)、その逆をトランスジェンダー男性(FtM)といいます。

 

最近では、テレビや映画などでトランスジェンダーの芸能人のドキュメンタリーも見ることがありますね。

 

そして、トランスジェンダーという言葉と同じくらい、性同一性障害(GID)という言葉も頻繁に使われるようになりました。

今回は、「トランスジェンダー」について説明しながら、「性同一性障害」との違いについてもわかりやすく解説します。

 

※「障害」という言葉に抵抗がある方もいらっしゃるかもしれませんが、今回のコラムでは公益社団法人 日本精神神経学会などの用例に基づき、こちらの単語を使わせていただきます。

 

ただ、2019年5月にWHOが「性同一性障害」を「精神障害」の分類から除外し、「性の健康に関連する状態」の「性別不合」に変更する(参考:WHOが性同一性障害を「精神障害」の分類から除外しました)など、世界の潮流は変わりつつあります。

 

性同一性障害とは、医学用語です。GID(Gender Identity Disorder)ともいわれ、性自認と身体的性が一致しておらず、外科的手術による一致を望む状態を指します。

 

先ほど紹介した、「トランスセクシュアル」と非常に近い意味の言葉ですね。つまり、広い意味では、トランスジェンダーの中に、性同一性障害は包括されることになります。

 

しかし、「性同一性障害」という言葉を手放しで使うことには疑問が残ります。というのも、「性自認と身体的性が一致していないため、それを一致させたい」だけにもかかわらず、それを果たして「障害」と呼んでよいのでしょうか(もちろん、この話をするとそもそも障害って何を指すのだろう……となってしまうのですが)。

 

また、現行の制度においては、「障害」として診断されるからこそ「手術」ができる、という論理のジレンマも存在しています。(参考:厚生労働省「みんなのメンタルヘルス」)

 

なお、世界的には既に「性同一性障害」は「性別違和」や「性別不合」と呼ばれ、WHOでは「精神疾患」でなく、「健康に関連する状態」として扱われています。(参考:WHOの「国際疾病分類」が改訂され、性同一性障害が「精神疾患」から外れることになりました)

 

なお、「トランスジェンダー=病気」という思い込みは残ってしまっていますが、2018年6月の段階でWHOはトランスジェンダーを「精神疾患」から除外すると宣言しています(参考:WHOの「国際疾病分類」が改訂され、性同一性障害が「精神疾患」から外れることになりました)。

 

トランスジェンダーは一般的に、上述で説明した性自認(こころの性)と身体的性(からだの性)が一致していない方全般を表す言葉ですが、その中にもいろいろな状態の方が存在しています。

 

そのため、必ずしも性自認が男性/女性だけでなく、中性や無性と言われるXジェンダーの方もトランスジェンダーに含まれます。

 

引用以上

 

 

このように、世の中では「LGBT」は病気ではないという教えに変わってきました。

 

日本の芸能界では昔から「LGBT」の方は大きく用いられて、信頼されている人も多い印象を受けています。

 

個人的に覚えているのは「NHK紅白歌合戦」の時、小林幸子さんとの派手な衣装合戦の「美川憲一」さんです。

美川憲一さんは「オネエ(LGBT)」の言葉遣いで化粧もしていますが、LGBTではないとカミングアウトされました。

 

しかし、世間一般ではすっかり男性(体)だけど女性(心)の人として認知されてきました。

そして、男なのに女として生きる存在は、微笑ましい気分になりました。

 

それから「はるな愛」さんや「マツコ・デラックス」さんたちが活躍されていますが、和ませる存在です。

 

つまり、個人的には「LGBT」の方々は好感を持っていました。

 

しかし、プロテスタント教会の福音派のクリスチャンになった後では、「聖書の教え」によって「LGBT」の人たちを「恐るべき罪人」として認識するようになり、忌み嫌うようになりました。

 

そして、福音派の教会を離れて、「無教会」になった今は、「聖書の教え」によって「LGBT」の方々を神に造られた存在であり和らぐような好印象を持つようになったのです。

 

私たちは互いに愛し合うべきという聖書の教えがあります。

そして、イエスさまの御目は、特にこの世の弱い立場の人たちに注がれていると教えています。

 

長くなったので、次はその聖書の教えをみていきます。

 

つづく

「日本におけるキリスト教 67 病気を治す宗教について」

 

今回は急遽予定を変更して、前回の記事で指摘があったことを先に記事にすることにしました。

 

前回記事では「献金」について、日本基督教団ではなく、2つとも福音派の教えでしたので、改めて「日本基督教団」の「献金」についての教えを紹介します。

 

 

「日本キリスト教団  所沢武蔵野教会」

 

私たちの教会の経済は、最初から、すべて信仰者の献金によって運営され、成り立ってきました。

教会の献金には、大まかに言って次の種類があります。

 

1.月定(維持)献金

 これは、教会献金の主要なもので、教会員各自が月額を定めて毎月献金するものです。ここには、客員や求道者の有志の献金も含まれます。

2.礼拝献金

これは、礼拝の席上、神の恵み、御言葉の恵みに応えて自分を捧げる志を証し、また感謝を表すものとして為される献金です。やむを得ず、この教会の礼拝に出席することができず、ほかの場所で各自が聖書を読み、また祈りをしてこの時に礼拝を守った人が、次回教会の礼拝に出席した際に前回の分の献金もするという習慣を心掛けることも、忠実な信仰生活という意味においては大切なことでしょう。

3.特別献金

これは、クリスマス献金、イースター献金など、教会歴に基づいてなされる献金や、受洗記念日、誕生日、結婚記念日、召天、病気回復など記念すべき日、感謝すべき日に神に献げるものです。これらの献金は、教会内外に対する伝道のために直接・関節の費用として用いられます。

 

 

「日本基督教団東中野教会」

 いつも教会のお祈りとお支えをありがとうございます。教会の管理・運営、伝道、牧会は、献金によって賄われております。

 

 新型コロナのために、教会に来ることがかなわない時などのために、以下の方法での献金が可能です。どうぞよろしくお願い致します。

オンライン献金はこちらから

(1)銀行口座への振り込み ※手数料は「個人負担」となります。

銀行名・支店名: 三菱UFJ銀行  東中野支店 (普通預金)口 座 名: 日本基督教団東中野教会

【ゆうちょ銀行の口座間の振込】

口 座 名: 宗教法人 日本基督教団東中野教会

 

 

「日本基督教団 南町田教会」

実際にいくらの金額にすればよいかは、教会での目安を参考にして自分で決めます。

仕事をして収入を得ている方はすべて「月定献金」をするのが本来です。

 

「月定献金」があってこそ、事実、教会が運営されます。「月定献金」は地上の教会の見える面での生命の糧です。

 

 

以上のようにプロテスタント教会の「日本基督教団」の献金についての教えはいずれも「教会は最初から献金(お金)によって運営、管理、牧会などが賄われてきた」ということです。他のいくつもの日本基督教団の教会も一致していました。

 

なので、突き詰めれば、「献金(お金)」は教会の見える面での生命の糧ということだというを理解しました。

 

これは福音派の教えも一致していますので、プロテスタント教会の献金についての教えは同じと思いました。

 

 

そして、前回記事もそうですが「現在では、クリスチャンになっても聖書に書かれている『すべての病いを癒やす』ということは出来ません」と書けば、

 

それを見たプロテスタント福音派の教会の人たちから、「いやいや、私たちの教会では、聖書に書かれている癒やしの業が行われていますよ」と反論があります。

 

 

この「すべての病いを癒やす」についても「無教会」と「プロテスタント福音派の教会」では教えがまるで違うことを痛感しています。

 

「プロテスタント福音派の教会」に所属していた時期は、超教派の交流があり、多くの牧師たち、世界中で活躍している外国の牧師たちのメッセージを聞きました。

 

福音派の教会で大きく用いられている牧師たちは「聖書絶対主義」の次のような信仰でした。

 

「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって」(テモテヘの第二の手紙 3:16)ということは、それは神様の霊感を受けて書かれたものであり、神様の御言葉です。主を信じるということは、聖書を信じるということです。

 

「「イエスは、人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによると言われました。(マタイの福音書 4:4)

 神の御言葉はあなたの命です。

 

「Ⅱコリント人への手紙 5章7節  確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。」

 

「ヘブル人への手紙11章1節  信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」

 

神にとって不可能なことは一つもありません。

(ルカの福音書、第1章37節)

 

 >>あなたには、すべてができること、あなたは、どんな計画も成し遂げられることを、私は知りました。

(ヨブ記、第42章2節)

 

 >>ああ。神、主よ。まことに、あなたは大きな力と、伸ばした御腕とをもって天と地を造られました。あなたには何一つできないことはありません。

(エレミヤ書、第32章17節)

 

 >>人にはできないことが、神にはできるのです。

(ルカの福音書、第18章27節) 

などなど、聖書に書かれていることは、現在でも同じように起こる!という信仰を強く心に根付かせる教えです。

 

それゆえ、「聖書に書かれている病いの癒しは起きています!」と断言するクリスチャンが少なくありません。

 

 

しかし現実はどうでしょうか?

 

個人的に福音派の教会で、何人もの「奇跡の癒し」の御業を起こしている牧師や宣教師たちの「奇跡の癒しの集会」に何度も参加しましたが、一度も癒されたことはありません。

 

教会の友達たちも大きな期待を持って参加したのですが、誰も癒されることはなく、皆で失望しました。

 

中には癒された人もいましたが、ごく少数です。

 

劇的に「末期がん」が癒されましたというのは稀なケースです。

 

死者を400人以上も生き返らせたというガジマ牧師が来日した時も期待外れで、タイミングよく教会のリーダー格が亡くなったばかりでも「主イエスが生き返らせてはいけない!と言ったので無理です。」と断ったそうです。

 

 

私がプロテスタント福音派の教会に失望した頃、駅前で「真光教」の信者夫婦に手かざしという癒やしを受けました。

すると、キリスト教会では体験したことがないほどの暖かいものを感じて癒されたことがあります。

 

そして、真光教の教会に連れて行かれました。

そこには80代の女性が何人もいて、皆が活力にみなぎっていたのでビックリしました。

 

真光教の公式ホームページのQ&Aには次のように書かれています。

「手かざしで「光」を受けると、どういうことが起きるのですか?

 生活のあらゆる面で、よい変化が起きてきます。

 たとえば、病気に苦しんでいる人の多くが回復に向かいます。重い慢性病も、薄紙をはがすように徐々に快癒していき、本来の生命力を取り戻していく様子がみられます。」

 

 

他の新興宗教でも癒やしの業が起きている証であふれています。

 

中には127人の病いが治った体験集があり、何人もの末期がんなどの死に至る病いが完治していました。

なので、現状のキリスト教会の「癒しの業」は、他の病いを治す宗教と同じレベルです。

 

どの宗教も「どんぐりの背比べ」なので、マスコミもほとんど相手にすることがありません。

 

そのような現状なのに、「私たちの教会は、病いを癒やせます!」「聖書に書かれている奇跡が起きています!」などと言えば、大言壮語と思われて失笑されるでしょう。

 

 

ちなみに個人的に真光教で病いが癒された経験があると言いましたが、その後は再発しています。

 

それは交通事故によるムチ打ち症状でした。

 

キリスト教を含めて宗教の癒しというのは、一時的なことが多く、再発しているものです。

 

しかし、聖書のイエスさまと弟子たちの癒しの御業は再発がしないものになります。

それから、無教会になってから、感謝なことにムチ打ち症状は癒されています。今のところ再発はないです。

 

 

聖書に書かれている「病いの癒し」は、現代に起きても地方全土に広がるものです。

現在ならSNSで世界中に発信されるでしょう。

 

「イエスはガリラヤの全地を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった。マタイ4章23節」

 

「ついには、病人を大通りに運び出し、寝台や寝床の上に置いて、ペテロが通るとき、彼の影なりと、そのうちのだれかにかかるようにしたほどであった。

 

またエルサレム附近の町々からも、大ぜいの人が、病人や汚れた霊に苦しめられている人たちを引き連れて、集まってきたが、その全部の者が、ひとり残らずいやされた。使徒5章15~16節」

 

聖書が教えている「癒しの御業」とは、病人や苦しんでいる全部の者が、ひとり残らず癒されるのですから。

 

 

「無教会」の内村鑑三先生の弟子の一人で、サザエさんの著者「長谷川町子」先生の師匠である無教会の「矢内原忠雄」先生は、著書「イエス伝」の中で次のように教えています。

 

「我らの周囲を見れば、多くの愛する者が病んでいる。あるいは精神病、あるいは結核病、婦人病、その他さまざまの病気に苦しんでいる。

 

病気以外にも、いろいろの人生の苦難に悩んでいる。

 

これを見て我々の愛の心はうずき、奇蹟をもってこれらの病苦を一挙に癒してやることができれば!と思う。

 

十二使徒は権を与えられたが、我らには奇蹟を行なう力なきことを嘆ずる。

 

〈中略〉(重要なことですが長くなるので、次の機会に詳しく書きます。)

 

しかし今の代にこの種の奇蹟が一般的でなきことを嘆ざるには及ばない。

 

奇跡的異言や奇跡的医癒は止み、預言や知識は廃れても、愛は永久に絶えることがない。(第一コリント13章)

 

そして愛のあるところ、常に奇蹟が伴う。

 

今日でも、ある者は信仰により死ぬべき病気より奇跡的に救われ、ある者は信仰により長き病床にしばられながら、霊魂の歓喜に満ちている。

 

彼には彼の奇跡的恩恵があり、これにはこれの奇跡的恩恵がある。」

 

引用ここまで、詳しいことは次の機会の投稿記事で

 

 

内村鑑三先生もそうですが、「無教会」の教えは常に「弱い立場の人々」を思いやる信仰です。

 

癒やされた人のことではなく、癒されなかった人々のことを思って、「我らには奇蹟を行なう力なきことを嘆ずる。」という信仰なのです。

 

それは無教会は「すべての上に愛を着けなさい」という信仰の土台があるからです。

 

献金についても、病いの癒しについても、死後についても、聖書の御言葉のすべてに「愛」を着けなさい!という教えなのです。

 

その信仰が心に響いて、私は「無教会」のクリスチャンです。

 

つづく

 

「日本におけるキリスト教 66 プロテスタント教会の献金についての教え」

 

2024年が始まり、いきなり能登半島地震が起きてしまい、びっくりしました。

この度の令和6年能登半島地震により被災された皆様、ならびにそのご家族の皆様に心よりお見舞い申し上げます。

皆様が一日も早く平穏無事な時を過ごせますようにお祈り申し上げます。

 

この2日間は静まって祈り、新年の挨拶も控えて、何か発信することも差し控えました。

ここ最近の記事の内容が、聖書の教えでは、自分の持っているものを、助けを求めている人々のために使うことだったので、これからその道が開かれると思います。

 

 

さて、ブログ記事の方では、前回記事の反響が大きく、その続きを待っている人たちが多いので、続きを書きます。

 

その前に、公平を保つために、プロテスタント福音派の教会の「献金」について多くの牧師やクリスチャンたちの支持を得ている教えを紹介することにしました。

 

プロテスタント福音派の教会では、大きく用いられている牧師の1人が、数百人規模の教会を築き上げた信仰の友の牧師が教えている「献金についての信仰」をブログ記事などで拡散して、多くのクリスチャンたちに教えている結論は以下の通りです。

 

 

「進藤龍也牧師のヤクザな日記」

クリスチャンの11献金について:菅原亘牧師

 

私の結論は、十分の一献金は神への恵みと感謝の表現として、もっとも大切にしている富を捧げる行為でもって主への従順と礼拝の姿勢を表わしていると言うことです。

 

富はこの世の神です。富は限りなく人を貪欲へと誘惑します。

富は何よりも魅力的です。富があれば多くのものが手に入ります。

 

この富を十分の一でもって主にささげることにより、金銭への貪欲、誘惑に勝利している証明になるのです。

 

パウロは「働き手が報酬を受けることは当然です」と18節に書いているのですから。

教会で良く指導しておられる先生は、聖書の基準から言えば、一般社会の給与の2倍がふさわしいのです。

 

ですから、教会が教勢も良く伸びており、経済的に豊であれば

牧師様たちに対して世間の2倍の報酬で報いるのが聖書の教えに近いのです。

 

このことも含めて考える時に、聖徒たちが十分の一献金で、神の宮、教会を支えることがなければ、とても聖書的な報酬を尊い献身でもって主に仕え、聖徒たちに仕えている、牧師様方に十分な報いをお渡しすることは出来ませんね。

 

2倍の報酬に対しても牧師様も遠慮される方が多いと思います。

 

また、そのような勢いのある教会は絶えず、会堂建設のローンがあったりしますので、返済の方に献金を回さないといけない現実が多いと思います。

 

先生の報酬を押さえてでも早くローンを返済したいと考えている牧師様方がほとんどなのです。

 

日本の牧師様方は本当に辛抱強く忍耐強く質素で倹約家がほとんではではないでしょうか。

 

ちなみにアメリカなどのメガチャーチ(会衆が2000名以上の礼拝出席者の教会をそう呼びます)の牧師様方は年間10万ドル以上(約1000万円以上)の報酬が平均のようです。

 

引用以上

 

 

今度は、もう一つのプロテスタント福音派の教会の献金についての教えです。伝統があり大きな教会堂と恵まれた信徒数の萩窪栄光教会がわかりやすく教えています。

 

「日本イエス・キリスト教団 荻窪栄光教会」礼拝メッセージ

 

献金は献身の象徴

 クリスチャンは収入の最初の使い道は、献金としてささげるということです。

それは残ったお金を献金に当てるのではなく、はじめから収入のうち神様にささげるものを聖別して取り分けておきます。

 

旧約聖書の時代から初子や初なりのものは神様にまずささげたのです(出13:2)献金は自分自身をささげていることの象徴としてささげます。

 

私たちのいのちは主イエスの十字架によって神様に贖い取られました。ですから私たちは主のものです。

自分のものは何一つなく、反対に神様のものを使わせていただいています。献金は礼拝行為であり、礼拝は献身なら、献金は献身を象徴します。

 

5.献金は祝福の基

 

 献金を聖書が教えるように忠実に行ってきた人は必ず祝福され、信仰も確実に成長してゆきます。

ささげるとお財布の中身は軽くなりますが、不思議なことに神様は何倍もの祝福として返されます。

 

この原理は試した人だけがその恩恵にあずかれます。聖書には神を試みてはいけないと書かれてありますが、唯一の例外が献金です(マラキ3:10)。

 

神様は収入の十分の一を携えてくれば、代わりにあふるる恵みを与えようと約束してくださる気前の良い神なのです。

 

 献金という行為が礼拝や集会の一部ではなく、むしろ献金する心はキリスト教信仰の神髄です。

 

引用以上

 

 

さらに、次の「教会での献金」に関わる聖書の教え

 

「ルカ14:33 そういうわけで、あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません。」

 

「使徒4章34~35 彼らの中に乏しい者は、ひとりもいなかった。地所や家屋を持っている人たちは、それを売り、売った物の代金をもってきて、使徒たちの足もとに置いた。そしてそれぞれの必要に応じて、だれにでも分け与えられた。」

 

このイエスさまが命じられたことと、12弟子たちの初代教会が聞き従ったことについて、「現代ではカルトのような教えになる」などと説明して、ないがしろにしています。

 

そして、財産全部を捨てて、持ち物をすべて共有するというイエス・キリストと初代教会の非現実的な教えではなく、現在の教会が行なっている什一献金などの「献金」がいかに良心的であるかをアピールして、理解を得られているのです。

 

 

今度は「無教会」の立場で、そのイエスさまが命じられた教えを見て行きます。

 

この12弟子の初代教会の時代、キリスト教の信者(クリスチャン)はイスラエルのユダヤ教の社会から追い出されていました。

キリスト教はイスラエルの指導者たちから忌み嫌われていて、いつ迫害が起きても不思議ではない状況でした。

 

イエスさまが十字架上で死なれた時、弟子たちはユダヤ人を非常に恐れて隠れて過ごしていました。

 

ですから、迫害が起きれば、逃亡生活になり、持っている財産や土地などの持ち物はほとんど価値のないものになります。

 

なので、財産全部を捨てて、すべての持ち物を共有して生活することは、人の思考においても非常に良い選択でした。

 

そして、迫害が起こります。「サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒以外の者はことごとく、ユダヤとサマリヤとの地方に散らされて行った。使徒8章1節」

 

 

もう一つ、イエスさまが弟子になるために「財産全部を捨てて、貧しい人々に与え、それから、わたしについて来なさい。」と命じられたのは、クリスチャンは特別な「世の光」とされて働く使命があるためです。

 

「イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。マタイ10章1節」

 

「信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。 手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。マルコ16章17~18節」

 

「どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。 平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。

 

その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからである。

 

家から家へと渡り歩くな。 どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、 その町の病人をいやし、

 

また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。ルカ10章5~9節 」

 

 

このように、イエス・キリストを信じたクリスチャンたちは、あらゆる病人や患いを癒やして、悪霊を追い出すという働きに任命されたのです。

 

そこで、病いを癒やしてもらったり、悪霊を追い出してもらった大勢の人々は、お礼に泊まらせたり、食事や飲み物をごちそうしたりして、クリスチャンたちの必要を満たしたのです。

 

あの初代教会の大迫害があり、ユダヤとサマリヤとの地方に散らされて行ったクリスチャンたちもそうでした。

 

群衆はそのクリスチャンの行っている「しるし」を見て、皆そろって耳を傾けました。

 

「汚れた霊につかれた多くの人々からは、その霊が大声でわめきながら出て行くし、また、多くの中風をわずらっている者や、足のきかない者がいやされたからである。

それで、この町では人々が、大変な喜びかたであった。使徒8章4~8節」

 

 

この「しるし」が伴うクリスチャンが現代にいれば、癌や白血病、心筋症、その他、死に至る病いも、新型コロナウイルスも、すべての病いが癒されるのです。

 

現代の日本では医師たちの過酷な現状があります。

読売新聞の記事です。

 

「神戸市の総合病院に勤務していた26歳の男性医師が昨年自殺し、労災と認定された。

亡くなる直前の残業時間は、国の基準を大幅に上回る月200時間に上っており、長時間労働によって精神障害を発症したと認められた。

 

 男性医師は、学会で発表する論文の作成にも追われていた。

 

 患者の命を預かる医師の仕事は、常に緊張を強いられる。勤務医の場合、当直や緊急の呼び出しもある。

医学の進歩で年々、医療は高度化しており、身につけるべき知識や技術も増えている。

 

患者の命を預かる医師の仕事は、常に緊張を強いられる。勤務医の場合、当直や緊急の呼び出しもある。医学の進歩で年々、医療は高度化しており、身につけるべき知識や技術も増えている。

 

 こうした業務量の増大は、経験の浅い若手にとって、特に負担が大きい。

 

若手医師の過労自殺は近年後を絶たず、2015年には東京で、16年には新潟で、それぞれ30歳代の研修医が命を絶った。」

 

引用以上

 

 

クリスチャンたちがすべての病いを癒やすことになれば、聖書に書かれている通りに、大勢の人たちがそれぞれの病いを癒やしてもらいに殺到するのです。

 

クリスチャンは数少ないので、休む日はほとんどなくなるでしょう。

 

そして、病いを癒やしてもらった大勢の人々は、クリスチャンに必要なものを押し入れゆすり入れると聖書に書いてある通りになります。

 

その前に、国が安全対策と国宝級として住居などを用意するでしょう。

 

つまり、イエスさまが教えられた「財産全部を捨てて、わたしについて来なさい。」初代教会の「持ち物をすべて共有して」という教えは、現代でもカルトのような教えでもないし、現代で通用しない話ではないのです。

 

 

しかしながら、現在のクリスチャンたちは、その「すべての病いを癒やす」というほどの癒やしの御業の「しるし」は残念ながら出来ません。

 

ですから、「財産全部を捨てて、持ち物をすべて共有して」ということは困難です。

 

けれど、「教会」においては、「お金」について何の問題もないようにすることは可能です。

 

「無教会」や貧しい人々(子供たち)のための教会は、献金が一切ありません。というか、貧しい人々(子供)ばかりなので、お金を持っていないので、献金は不可能です。

 

そのような貧しい人々(子供)の教会は、イエスさまに大きく祝福されています。

 

神の御言葉はすべて純粋であり、神は依り頼む者の盾です。

 

長くなり過ぎたので、次回にその証を書いていきます。

 

つづく

「日本におけるキリスト教 65 献金がある教会と献金を無くした無教会」

 

もう2023年も終わりに近づいています。このタイミングで、聖書が教える「献金」について考えているのは大きな意味があると思っています。

 

今回から献金を無くした無教会などのことを書いていく予定でしたが、その前に旧約聖書が教える「10分の1を捧げる」について、わかりやすくまとめることが出来たので、記事にしました。

 

 

「旧約聖書」に出て来る「10分の1を献げる」という教えは、次の通りです。

 

イスラエル12部族の中の「レビ族」は幕屋管理(後の神殿管理)を神から任命されました。

 

ところが幕屋管理は農業や牧畜の仕事と両立ができないので、土地の割り当てがされなかったのです。

それでは生活するための糧が得られなくなり、他の11部族と不平等となるうえに、餓死してしまいます。

 

なので、神がレビ族の生活を保障し、平等にするために他の11部族に対して「10分の1をことごとく献げよ。」と命じられました。

 

そうして12部族は平等となり、レビ族も安心して幕屋管理の重要な仕事が全う出来たのでした。

 

 

この続きを、三十番地教会牧師が発信する下世話の中で「献金」について詳細に教えていましたので、以下に引用します。

 

 「ところが、やがて、イスラエルの中に「王制を取り入れて、もっと強い国になろう」という動きが出てきます(紀元前10世紀ごろ)。

 

周囲の国ぐにが次々に強い王国になって、イスラエル民族に不安を与えたからです。

 この民衆の要求に対して、預言者サムエルは警告を発しています。

 

その王は「あなたたちの穀物とぶどうの十分の一を徴収し、重臣や家臣に分け与える」(サムエル記上8章15節)、

「また、あなたたちの羊の十分の一を徴収する。こうして、あなたたちは王の奴隷となる」(同17節)。

 

 これはもはや献げ物ではなく税です。それも、社会の富を民に還元する再分配の税ではなく、王が民衆に対して強制的に徴収するものです。

 

 サムエルが警告したのは、税のことだけではありません。

 

 「まず、あなたたちの息子を徴用する。王のための耕作や刈り入れに従事させ、あるいは武器や戦車の用具を造らせるためである。

 また、あなたたちの娘を重用し、香料作り、料理女、パン焼き女にする。

 また、あなたたちの最上の畑、ぶどう畑、オリーブ畑を没収し、家臣に分け与える」(同11?14節)。

 

 「あなたたちの奴隷、女奴隷、若者のうちのすぐれた者や、ろばを徴用し、王のために働かせる」(同16節)

 

 これらの搾取の上の上に十分の一税が載せられるという世の中に変わってゆくわけです。

 

そして民衆はどうなるかというと……

 「こうして、あなたたちは王の奴隷となる。その日あなたたちは、自分が選んだ王のゆえに、泣き叫ぶ。しかし、主はその日、あなたたちに答えてはくださらない」(同17?18節)

 

というわけで、紀元前10世紀には、「十分の一税」は権力者が臣民を圧迫し、臣民から搾取し、臣民を奴隷にするための道具となってゆくわけです。そのために民が貧しく苦しい生活に陥ってしまっても誰も助ける人はいません。

 

▼何重もの税制のひとつ

 

 このような厳しい生活に加えられた十分の一税という体質は、イスラエル王国が滅んで、ユダヤ人国家へと移っていってからも、祭司やレビ族に対する税という形で引き継がれます。

 

祭司やレビ人は民族の中で聖なる職業として特権階級に属するようになってゆきました。

 

 イエスの時代には、ユダヤの国はローマ帝国の属国になっており、ユダヤはローマ帝国全体の中では軽蔑され、差別されておりましたが、ユダヤ人社会の中では中で、ちゃんと権力構造が出来上がっており、

 

その時代には、宗教的な役割を果たす祭司たちが、政治的にも経済的にも最高権力者となり、一般民衆の上に君臨していました。祭政一致の時代にはよくあることです。

 

 この祭司階級すなわちユダヤ人社会の上流階級は、神殿を根拠地としていたため、「神殿階級」とか「神殿勢力」あるいは「神殿貴族」と呼ばれたりもします。

 

 この神殿貴族たちが相変わらず民から十分の一税を徴収していましたが、これが「神殿税」とも呼ばれるものです。

 

 当時のユダヤ人民衆は、ローマ帝国への人頭税や通行税、関税などの様々な税制に加えて、神殿税を課せられ、その他にも罪の贖いのための献げ物を要求されたりと、二重三重の税に苦しめられていたわけです。

 

 このような状況は今の私たちが置かれている状況と似ていると言えるかもしれません。

 

私たちも所得税、住民税、自動車税、ガソリン税、消費税、固定資産税、相続税……ありとあらゆる税を持って行かれていますから、

 

これにもうひとつ神殿税のようなものを持っていくよと義務付けられたら、たまったものではないわけです。

 

 そもそも税というものが、レビ族に支払う10分の1だけで済んでいた世の中(その当時の神が10分の1によって、12部族を平等にしていたイスラエル)とは全然違う。

 

収入の何割もの税を持って行かれて、まだその上に10分の1をオンするというひどいことをやっていたのが、イエス当時の神殿税で、それは現代の私たちの生活とも変わらない。

 

税のために生活が破綻する人もゴロゴロいたのです。

 

引用以上

 

 

現在の日本は、国があらゆる事、あらゆる物に税金を課しています。

 

それゆえ、生活するのに余裕がない人は多く、低収入者たちは困窮しています。

 

そのような人々が「献金があるキリスト教会」に行くようになると、経済面でさらに苦しくなります。

 

多くの教会は「自由献金」で、「生活に苦しい人たちは献金しなくてもいいですよ。」と優しく言われても、

 

神を信じたクリスチャンは、人間は神からすべてのものを与えられていることが理解できる。

「献金」は神に感謝を捧げること。

 

神は喜んで与える人を愛される。少ししか蒔かない人は少しだけ刈り取るが、多く蒔いた人は多く刈り取ります。というような教えを聞けば、金銭的に苦しい状況でも、献金すれば報われるという思考にされます。

 

さらに、教会の信徒の中で「金銭的に苦しい時こそ献金したら、祝福されました。」と証をする人がいるので、献金をする信仰にマインドコントロールされます。

 

しかしながら、それで祝福される人はごく一部です。

多くの人はさらに経済状況が苦しくなります。

 

さらに、「自分は信仰が薄いからなんだ」「私のような罪人は認めてくれないからなんだ」などと落ち込み、深く傷ついています。

 

そして、次々に教会を離れて行きます。

 

 

そして、プロテスタント教会では、ほとんどの教会は「献金」が、牧師の給与を含めて、教会全般の運営費、教会堂のための多額の費用に使用される。という事実があります。

 

教会の始まりは、開拓した頃は「教会堂」がなく、日曜日の午前中に公民館を借りたりします。

 

数年後には献金を多く捧げる信徒たちのお蔭で、小さな場所を借りて、毎日集うことが出来ます。

 

その数年後にはローンを組んで、立派な教会堂を建てることが出来ました。

 

しかし、さらに数年後、支えてきた信徒たちが次々に召天したり、転勤したり、失業したり、定年退職したりして、献金額が少なくなり、ローン返済が困難になります。

 

それで、牧師は金策に走りますが、他のプロテスタント教会の牧師たちは金銭面で少ししか助けてくれず、ついに教会は閉鎖します。

 

毎年、いくつものプロテスタント教会が閉鎖しているそうです。

 

私が知っている限りでも9つのプロテスタント福音派の教会が閉鎖しています。

 

 

クリスチャントゥデイ2007年の記事です。

 

「教会インフォメーションサービス(埼玉県新座市)がまとめた日本のプロテスタント教会の統計資料によると、日本にあるプロテスタント教会の総数は7781教会(2006年11月1日現在)で、05年と比べて18教会減少していることが分かった。

 

06年の1年で閉鎖された教会は全国で78に上る。

 

受洗者数、子どもの教会学校出席者数も05年からともに減少している。日本の教会の弱体傾向が深刻化する中、教会指導者らは、今こそ教団教派を越えた教会協力が不可欠であることを各地で訴えている。」

 

引用以上

 

 

「献金」が、牧師の給与を含めて、教会全般の運営費、教会堂のための多額の費用に使用される。ということは

「献金の力」によって教会が成り立ちますが、献金の力がなくなれば教会は閉鎖するのです。

 

世間一般では「金の切れ目が縁の切れ目」とよく言われます。

その言葉は人間関係の冷酷さを伝えるものです。

 

ほとんどのプロテスタント教会の現状は「金の切れ目が教会の切れ目」となっています。

 

 

長くなったので、「献金」が無い教会の話は次回にします。

 

私財を投じて貧しい大学生たちに福音を伝える場所を建てて、驚くほど祝福された話や、礼拝堂は神さまが用意されているという話など、乞うご期待ください。

 

神の教会は、権勢によらず、能力によらず、神の霊によって築き上げられます。

 

それが金の力ということになれば、どのような実を結ぶか、皆さんおわかりですね。

 

 

 

「日本におけるキリスト教 64 良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。」

 

聖書の教えでは、良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。良い木が悪い実を結ばせることは出来ないし、悪い木が良い実を結ばせることも出来ません。(マタイ7章17~18節)という教えがあります。

 

また、聖書の教えを曲解している人たちは、自分自身に滅びを招いています。(第二ペテロ3章16節)と忠告されています。

 

 

前回記事で伝えましたが、プロテスタント教会が教える「献金」についての中核となる御言葉が「第二コリント8章~9章」です。

 

その聖書箇所をまとめますと、使徒パウロが、極度の貧しい教会となった「マケドニヤの諸教会」を支えるために、余裕のあるコリントにある教会に対して「献金」を勧めている教えです。

 

使徒パウロは、「献金」の目的を、今、あなた方(コリント教会)の余裕が、彼ら(マケドニヤ教会)の欠乏を補うことになり、平等になると教えました。

 

さらに、聖書に「この人は散らして、貧しい人々に与えた。その義は永遠にとどまる。」と書いてあるとおりです。と強調しました。

 

そして、献金の準備ができていなければ、マケドニヤの人がパウロと一緒に来た時に、恥をかくことになります。と忠告しました。

 

 

ところが、プロテスタント教会の「献金」の目的は、前回記事で紹介したように次の通りです。

 

「ほとんどの教会が、牧師の給与を含め、教会全般の運営を『献金』によってまかなっているのも事実です。

 

現代の多くの教会では、教会堂や土地の購入のために多額の『献金』が用いられます。」

 

 

これは、読解力がある小学生でもわかりますが、聖書が教えていることを曲解させています。

 

聖書が教える「献金」は、余裕のある人々が、貧しい人々に与えて、平等になるという教えであり、その義は永遠にとどまる。と書いてあるとおりです。

 

その聖書の教えは、神の御前ばかりでなく、人々の前でも公明正大なことを示します。

 

しかし、その教えに聞き従わず、「献金」が、牧師の給与を含めて、教会全般の運営費、教会堂のための多額の費用に使われているのは、「詐欺行為」と思われる人も少なくありません。

 

 

それは、「献金」が、牧師の給与を含めて、教会全般の運営費、教会堂のための多額の費用に使用されると、信徒数が増えれば増えるほど、教会は巨額な大金を手にすることになります。

 

すると、韓国のプロテスタント教会のように腐敗し、堕落して、社会的信頼が地に落ちてしまうのは、火を見るよりも明らかです。

 

 

プロテスタント教会では、教会堂が大きければ大きいほど、その教会と牧師は「神に大きく祝福されている」と思われます。

 

あの数名の少女たちと20代の女性たちに残酷非道なことをして逮捕されて、懲役20年の判決を受けた主管牧師の「聖神中央教会」は、日本の中では数少ない大きな教会の1つでした。(画像を下に添付 事件直後に教会の前にマスコミの車がある当時の画像です。)

それゆえ、通りがかりに「聖神中央教会の教会堂」を見たクリスチャンたちは「すごいな~この教会の牧師に会ってみたい。」と羨望の目で見ていました。

 

それゆえ、聖神中央教会の主管牧師は、超教派で大きく用いられていたと聞きました。その主管牧師の聖書講座には他教会の多くの献身者たちが学んでいたそうです。

 

しかしながら、その主管牧師は、随分と以前から、教会内で女性に対する性的暴行の噂が絶えず、それが少女にまで及びだし、ようやく発覚したという、「偽牧師」と断罪されても当然のような牧師だったのです。

 

 

このような話をすれば、プロテスタント教会の牧師やクリスチャンたちは「それは例外だ!」と反論します。

 

本当にそうでしょうか?

 

聖神中央教会の主管牧師のようなことは例外でしょうが、教会内での牧師や伝道師、指導者におけるセクハラ、パワハラなどがあるという人は少なくありません。

 

そして、金銭の問題ですが

 

確かに、プロテスタント教会の多くの教会は、長年にわたって、信徒数が増えず、平均は20人ぐらいだと言われています。

 

20人ぐらいの規模では、教会堂も一軒家ぐらいです。

ビルの一角を借りても、そんなに広くありません。

 

献金からの牧師の給与も数万円で、プライダルなどの副業で稼いだり、牧師婦人が介護の仕事をしたりして稼いだりして生計を立てているという牧師も多いです。

 

なので、献金を牧師の給与を含めて、教会全般の運営費、教会堂のための多額の費用に使用することが「詐欺行為」になるとは思えません。

 

 

しかしながら、聖書には「良い木が悪い実を結ばせることは出来ないし、悪い木が良い実を結ばせることも出来ません。」と教えています。

 

聖書には「献金」を「牧師の給与を含めて、教会全般の運営費、教会堂のための多額の費用に使用しなさい。」というような教えはありません。

 

なぜなら、イエスさまは「もし、永遠の命を得るために完全になりたいなら、財産全部を捨てて、貧しい人々に与え、そのうえで、わたしについて来なさい。」と教えられているからです。

 

また「金持ちになりたがる人は、誘惑とわなと、人を滅びと破滅に投げ入れる。愚かで有害な多くの欲とに陥ります。

 

金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。

 

ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって、自分を刺し通しました。第一テモテ6章9~10節」と教えられています。

 

 

「献金」を「牧師の給与を含めて、教会全般の運営費、教会堂のための多額の費用に使用しなさい。」というような教えをすれば、信徒数が増えれば増えるほど、牧師の給与も上がり続け、立派な大きな教会堂が建設されます。

 

韓国のプロテスタント教会のように信徒数が1万人規模になれば、1年の献金額は24億円~36億円、それ以上ともなり得ます。

 

現在の日本では、信徒数が平均20人とすれば、牧師の給与は数万円か数十万円ぐらいでしょう。

 

しかし、熱心に毎日、祈り続けているリバイバル(信徒数の爆増)が実現すれば、牧師の給与は月収が何百万、何千万、何億というのが可能になるのです。

 

また、現在は牧師の車は「軽自動車」が多いと思われますが、リバイバルが実現すれば「高級自動車」を乗り回す牧師が急増するでしょう。

 

そして、教会の礼拝堂も牧師の牧師館も立派なものが次々に建設されるでしょう。

 

つまり、「献金」を「牧師の給与を含めて、教会全般の運営費、教会堂のための多額の費用に使用する」という教えは「悪い木」だということは明らかです。

 

 

「いえ、いえ、私の教会はそうはなりません。献金の目的は聖書の教えではなくても、良い実を結ばせます。」と言う牧師たちも大勢いるでしょう。

 

しかし、聖書は「良い木が悪い実を結ばせることは出来ないし、悪い木が良い実を結ばせることも出来ません。」と断言しています。

 

「献金」の使い道の目的が同じで、その「実」が、一方では悪い実を結んで、一方では良い実を結ぶということはあり得ません。

 

 

ちょうど「詐欺師」も同じです。

 

「ネズミ講」などの詐欺も、多くの人々をだまして多額の金を手に入れる詐欺師はごく一部です。

 

多くの詐欺師は、ごく少数の人しかだませず、少数の金しかだまし取れません。

 

現在、私の教会は「献金」によって儲けていないし、良いことに使用されていると言い訳をしても、それは神の御前で果たして通用するでしょうか?

 

 

「献金」がない「無教会」では、イエスさまの御業によって、皆で集える礼拝堂が与えられています。

 

そして、不思議に人々が増し加わって、その称賛の声が広まり、マスコミが報道するほどになっています。

 

次は、そのイエスさまの御業によって祝福された証を紹介します。

 

「日本におけるキリスト教 63 献金の取り扱いは非難されることがないように」

 

聖書が教える「献金」について、次のように教えられています。

 

「私たちは、この献金の取り扱いについて、だれからも非難されることがないように心がけています。

それは、主の御前ばかりでなく、人の前でも公明正大なことを示そうと考えているからです。第二コリント8章20~21節」

 

「公明正大」は「公平で、良心に恥じることがなく、正しいこと」という意味です。

 

聖書が教える「献金」は、だれからも非難されることがなく、神の御前でも、人々の前でも公平で、正しいことが示されます。

 

 

プロテスタント教会の「献金」の使い道について、数年間にわたり、多くの教会の牧師や伝道師、信徒リーダー、キリスト教誌を調べてきました。

その中で、わかりやすく解説していたのが、次の通りです。

抜粋して伝えます。

 

月刊「いのちのことば」掲載号:2020年06月号

「日常の「神学」 今さら聞けないあのこと、このこと 第6回 献金と教会」

 

岡村 直樹

現在、東京基督教大学大学院教授、日本福音主義神学会東部部会理事、hi-b-a責任役員、日本同盟基督教団牧師。

 

多くのクリスチャンにとって「献金」は、新しく教会に来た人に対して最も気を遣うことのひとつかもしれません。「教会はお金儲けの場所ではないから、変に誤解されたくない」というのが大きな理由でしょう。

 

確かに教会の目的は、お金を儲けることではありません。しかし、ほとんどの教会が、牧師の給与を含め、教会全般の運営を「献金」によってまかなっているのも事実です。

 

では、クリスチャンは「献金」についてどう考えるべきでしょうか。

 

まず大切なことは、お金を含め、人間が自分のものと思っているものすべては、もともと人間のものではないという認識を持つことです。

 

「地とそこに満ちているもの世界とその中に住んでいるもの それは主のもの」(詩篇24・1)と聖書に書かれているからです。その上で神様は、私たち人間にそれらを管理する責任を与えてくださいました。

 

エデンの園の管理がアダムとエバに任されたように(創世1・26〜29)、私たち人間は、地上にあるすべてのものを、自分のものとしてではなく、神様のものとして管理する立場にあるのです。

 

では、お金を含めた財産の管理者である私たちは、それをどう用いることができるでしょうか。人間社会の常識では、管理者は自らが管理を任されている財産に対して、それが自分のものであるかのように手を付けることは許されません。

 

しかし神様は違います。神様は人間一人ひとりに管理を任せている財産の大半を、自分の必要のために使ってもいいですよと言われます。その上で、しかし十分の一だけは私に返しなさいと言われるのです(レビ27・30、マラキ3・6~12)。聖書の神様は、なんと太っ腹なお方でしょう。

 

では私たちは、どのような態度で「献金」をすべきでしょうか。パウロは以下のように語っています。

 

「一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は、喜んで与える人を愛してくださるのです」(Ⅱコリント9・7)。

 

キリストも、最も価値の低いレプタ銅貨二枚を献金箱に入れた貧しい女性に対し、「だれよりも多くを投げ入れました」と言われました(マルコ12・42〜44)。

 

「献金」に関して最も大切なのは、その額でも、厳密な割合でも、人からどう思われるかでもありません。ただ心から喜んで、感謝を込めて神様にささげるということなのです。

 

現代の多くの教会では、教会堂や土地の購入のために多額の「献金」が用いられます。

 

決して間違いではないと思いますが、「神様に仕える人々を十分にサポートしているか」また「地域社会の弱者をケアすることにも予算が用いられているか」といった問いかけを通して、献金の使い道を常に確認することも必要です。

 

 

そして、ほとんどの教会の牧師、伝道師、信徒リーダーたちが次の御言葉を強調していました。

 

「私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。

ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。第二コリント9章6~7節」

 

 

日本のプロテスタント教会の「献金の使い道」については、韓国のプロテスタント教会と同じく、次のようです。

 

「ほとんどの教会が、牧師の給与を含め、教会全般の運営を『献金』によってまかなっているのも事実です。」

 

「現代の多くの教会では、教会堂や土地の購入のために多額の『献金』が用いられます。」

 

 

プロテスタント福音派の教会に深く傷つけられた方が発信する「ふみなるとnote」の中で、献金について、次のように語っていました。

 

「神頼み」を信徒に推奨する教会の「信徒頼み」

 

 什一献金(毎月収入の10%を教会に献金する仕組み)を信徒に求める教会は、信徒が将来に向けて貯金できないことについて、「教育費や老後の費用などは主(神様)が面倒を見て下さる」と言う。

 

だったら今、教会が主(神様)に面倒を見てもらえばいいんじゃないの? と思ってしまう。

 

なぜ信徒にだけ「神頼み」を推奨して、教会はいつも「信徒頼み」なのか。「神様が経済を守って下さる」と言うのなら、まず教会が「神のお恵みにすがる」手本を見せて下さい。

 

引用以上。

 

 

この「ふみなると」さんの意見は核心をついています。

 

「献金」は信徒たちの血と汗の結晶ともいえます。

 

その献金の多くは、教会(建物)の必要(家賃、光熱費、通信費、活動費など)と働き人(牧師、伝道師、献身者たち)の必要(給与、車、牧師館など)に使われています。

 

つまり「信徒のお金頼み」で、教会が運営されているわけです。

 

そして、信徒のほうには「教会に献金すれば、神が必要を満たしてくださる」と説きます。

 

そのような教会の献金のあり方は、多くの未信者(イエス・キリストを信じていない人々)から非難されています。

 

現在は、旧統一教会問題で、宗教の献金についてクローズアップされてきています。

 

 

しかし、聖書の教えはこうです。

上に立つ者が「イエス・キリストだけにより頼む」ことが鉄則です。

 

 

カトリック教会の「マザーテレサ」は、「神の愛の宣教者会」の創立者として、上に立つ立場でした。

 

すべてにおいて、イエズス様(イエス・キリスト)だけにより頼まれる信仰が有名です。

 

数多くの孤児たちが住む場所、毎日の食事など、また、数多くの死にかけている人々を介護するための包帯や薬、飲み物など、多額の費用が毎日必要でした。

 

マザーテレサが神に祈りを捧げると、神の御手が動いて、これまで見捨てていた人たちが心を動かされて、ヒンズー教徒までもが土地や必要を与えるようになったという証であふれています。

 

 

もし、教会の牧師が、信徒たちの献金ではなく、イエスさまにより頼むならば、イエスさまの御手が動いて、教会の必要を満たしてくださいます。

 

信徒たちの献金は、聖書の教え通り、教会の余裕のある人々が、貧しい人々の欠乏を補うものです。

 

そうして平等になるという教えです。

この人は散らして、貧しい人に与えた。その義は永遠にとどまる。と聖書に書かれている通りです。

 

まさに、神の国と神の義を求めなさい。そうすればすべて必要なものは添えて与えられます。

 

そのような教会は、未信者(イエス・キリストを信じていない人々)からも、だれからも非難されることがなく、神の御前ばかりでなく、人々の前でも公明正大なことを示すでしょう。

 

 

また、キリスト教の中でも「無教会」は、「献金」がありません。

 

プロテスタント教会の教えでは、献金を少ししかしない人は少しだけ刈り取る。

 

神は、献金を喜んで与える人を愛してくださる。つまり、与えない人を神は喜ばない。というように教えています。

 

その教えが正しいとなれば、無教会のクリスチャンたちは皆、まったく刈り取らないし、神に喜ばれていないことになります。

 

しかし、現実は豊かに刈り取っている人が多いし、神に愛されています。

 

 

その無教会のクリスチャンの1人にサザエさんの著者「長谷川町子」先生がいます。

 

長谷川先生は、無教会の矢内原忠雄先生の集会には時々参加されていましたが、無教会には献金はありません。

 

ですが、豊かに刈り取っています。

 

私自身もプロテスタント福音派の教会に所属していた時は、いつも「金がたまらない」状況でした。

 

当然です。教会に給料の十分の一と、様々な献金しているうえに

友人、親戚、会社の人が結婚や葬式があったり、電化製品を買い替えたり、車などの維持費、助けを求めて来た人の必要を満たしたり、色々と出費がかさみます。

 

今は無教会になりましたが、「金がまだある」という状況が続いています。

 

それで、助けを求めてきた人を助ける資金になることがあります。

 

以前の教会に献金をし続けている時は、助けると、金不足のピンチに立たされていました。

 

聖書が教える「献金」の取り扱いは、だれからも非難されることがなく、主の御前ばかりでなく、人々の前でも公明正大なことを示すものなのです。

 

つづく