「日本におけるキリスト教 69 聖書の教えでは同性愛(LGBT)は恐るべき罪人か?」 | ルーク4のブログ

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「日本におけるキリスト教 69 聖書の教えでは同性愛(LGBT)は恐るべき罪人か?」

 

前回の続きです。個人的に多くのプロテスタント教会の福音派の牧師の教えを聞きましたが、「聖書の教えでは同性愛は罪です。」という教えで一致している印象を受けています。

 

その福音派の牧師は、聖書の御言葉を教えているので説得力があります。

 

個人的には、その中でも特に2つの御言葉によって「言われる通りに同性愛は恐るべき罪であり、神の裁きを受けて当然だ!」と洗脳されていた時期がありました。

 

その2つの御言葉を順番に見ていきます。

 

① 

 

「ローマの信徒への手紙1章26~32」

 

「それで、神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました。

 

女は自然の関係を自然にもとるものに変え、 同じく男も、女との自然の関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い、その迷った行いの当然の報いを身に受けています。

 

彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。

 

あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、 人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、 無知、不誠実、無情、無慈悲です。

 

彼らは、このようなことを行う者が死に値するという神の定めを知っていながら、自分でそれを行うだけではなく、他人の同じ行為をも是認しています。」

 

 

このローマの信徒への手紙1章26~32だけを読めば、神の裁きによって同性愛者たちは恥ずべき情欲にまかせられた。

 

そして、同性愛者たちはあらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ちる極悪非道な人間となった。と理解することができます。

 

なので、プロテスタント教会の福音派に在籍している時は、同性愛者たちは「神に呪われた非常に恐ろしい人間たちだ」と信じて、警戒していました。

 

それゆえ、「同性愛者がもたらすエイズ感染も恐ろしいし。」と考えるようになったのです。

 

 

そして、無教会になってから、その同性愛についての教えを見直してみました。するとまったく違っていたのです。

 

ちなみに同性愛者がもたらすエイズ感染というのも間違っているというデーターもあります。

 

ローマの信徒への手紙1章26~32の前の文章の21節から読んでいきます。

 

「なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。

 

自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、 滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。

 

そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。

 

神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです。造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン。

 

26 それで、神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました。」

 

 

つまり、このローマの信徒への手紙1章21~32節まで続けて読めば、神が彼らを恥ずべき情欲にまかせられた理由は以下の通りです。

 

彼らは神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、

滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。

 

それは、神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたということです。

 

 

この「日本」では過去から現在に至るまで、神の栄光を滅び去る人間や鳥や獣や這ものなどに似せた像と取り替え、造り主の代わりに造られた物を拝んで仕えることに満ちあふれています。

 

私が住んでいる町もメインは「楠の木」が神のようにして祀られ、楠の木を神のようにして拝みます。また、側に置かれている「緑色の牛の像」も拝まれています。

 

近くには稲荷神社で「キツネ」の像があり、キツネを守り神として拝んでいる人をよく見かけます。

 

他にも、あらゆる動物や木・物などが神のようにして拝まれています。

 

毎日新聞 2021/9/2の記事です。

 

「天皇が現人神(あらひとがみ)といわれた昭和戦前期、昭和天皇は自分を神扱いする側近にこんなことを言っている。

「私は普通の人間と人体の構造が同じだから神ではない。そういう事を云(い)われては迷惑だ」(昭和天皇独白録)

 

▲戦後、自らの神性を否定した人間宣言で昭和天皇は、国民とは「終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依(よ)リテ結バレ」ると宣明した。」

 

引用以上

 

 

日本では人間である「天皇」を神として崇拝する時代がありました。

 

その時代はプロテスタント教会もカトリック教会も「天皇陛下の現人神」に乗り込まれていて、戦争協力もしていたほどです。

 

無教会の先生たちは、「無教会」は、内村鑑三先生が、天皇陛下を崇拝しなかったという「不敬事件」によって誕生したことを詳しく教えています。

 

また、無教会の指導者たちは戦争にも猛反発して、逮捕者が続出している記録があります。

あの宮沢賢治氏の「雨ニモマケズ」のモデルと言われている無教会の「斉藤宗次郎」氏は、戦争に反対して大迫害にあっています。

 

 

日本は、このように、ローマの信徒への手紙1章21節からの神の栄光を滅び去る人間や鳥や獣や這ものなどに似せた像と取り替え、造り主の代わりに造られた物を拝んで仕えることに満ちあふれていますが、それで、神はその多くの日本人たちを恥ずべき情欲にまかせられたという事実はありません。

 

また、同性愛者の方々全員が、神の栄光を滅び去る人間や鳥や獣や這ものなどに似せた像と取り替え、造り主の代わりに造られた物を拝んで仕えていた結果として同性愛になったという事実もありません。

 

 

なので、無教会の立場とすれば、福音派のローマの信徒への手紙1章26~32節だけを抜き取って、同性愛を恐るべき罪人のように教えることは相当めちゃくちゃ超激しく危険な教えだと思います。

 

 

例えば、ある父親が家の庭の駐車場で車を動かした時、アクセルとブレーキを間違えてしまった。

 

その時、家の中にいると思っていた我が子が、お父さんの後を追って駐車場の車の後ろにいて、ひき殺してしまった。という痛ましい事が起きたとします。

 

それを聞いた人々は誰もが「悲劇」だと思って、父親に同情します。

 

ところが「この父親は我が子を車でひき殺した」というところだけを抜き取って伝えればどうなるでしょう。

 

それを聞いた人々は「我が子を車でひき殺すなんて、なんて残酷非道な父親だ、人間ではなく鬼畜だ」と、父親を批判非難します。

 

 

このように、何事もそうですが、「理由」を伝えなければ、まったく事実が変わってしまいます。

 

聖書のローマの信徒への手紙1章26~32節を伝えれば、同性愛を恐るべき罪人とすることが出来ます。

 

しかし、ローマの信徒への手紙1章21節から、または1章1節から伝えれば、これは現在の同性愛者に対する御言葉ではないことがわかります。

 

 

実はプロテスタント教会の「未信者(イエス・キリストを信じていない人々)は地獄へ行く。」という教えも同じで、福音派は巧妙に恣意的に御言葉を抜き取って、未信者(イエス・キリストを信じていない人々)は永遠の火に投げ込まれると断言しています。

 

無教会ではその理由から聖書を読むので、「未信者(イエス・キリストを信じていない人々)は永遠の火に投げ込まれるという教えは聖書に書かれていません!」と断言しています。

 

神は何を求めておられるのか、ただ公義を行ない、誠実を愛し、神と共に歩むことです。

 

次はもう一つの教えを見ていきます。

ソドムの民は同性愛者ではないということについてです。

 

つづく