「日本におけるキリスト教 71 神の教え(御言葉)は人々に神は愛だということが心に響くもの」 | ルーク4のブログ

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神様がクリスチャンに与える愛、夢、希望、信仰の証を中心に書いています。

「日本におけるキリスト教 71 神の教え(御言葉)は人々に神は愛だということが心に響くもの」

 

昨年からNHK朝ドラ「ブギウギ」を楽しみに見ています。その中でいつまでも心に響いている言葉があります。

 

それは「歌は人を生かすために歌うもの。戦争なんてくそ食らえよ」という言葉です。

 

歌手のりつ子は慰問先で、年端もいかない特攻隊員の少年たちのリクエストに応えて自身の最高のヒット曲を歌いました。

 

「これでもう思い残すことはありません。ありがとうございました。」と少年たちに掛けられた言葉が耳から離れない、というりつ子。

 

「私の歌に背中を押されて、あの子たちは死んでいったかもしれない。悔しかったわ。だって、歌は人を生かすために歌うものでしょ」と吐露。苦しい思いがりつ子の胸をふさいでいた。

 

 「戦争なんてくそ食らえよ」と、りつ子は吐き捨てる。戦争が終わっても、戦争で受けた心の傷はいつまでも残り続けることを思い知らされる。そんなりつ子の苦しみを和らげたのはスズ子の言葉だった。

 

「ほんなら、これからはワテらの歌で生かさな」

「今がどん底やったら、あとはようなるだけですもんね。歌えば歌うだけ、みんな元気になるはずや」

 

以上リアルサウンド記事より引用

 

 

「歌は人を生かすために歌うもの」

 

私はクリスチャンとして、神の教え(聖書の御言葉)を歌にして、神は愛であることが心に響くことを願って、いくつも楽曲を制作し続けています。

 

聖書が教える「愛」とは何か?その答えが第一コリント13章に書かれています。

 

「コリント人への手紙 第一 13章1~13節」

 

たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。

 

また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値打ちもありません。

 

また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。

 

愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。

礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のしたあくを思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。

 

すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。

 

愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。

というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。

 

完全なものが現れたら、不完全なものはすたれます。

私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。

 

今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔を顔とを合わせて見ることになります。

今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知らされているのと同じように、私も完全に知ることになります。

 

こういうわけで、いつまでものこるものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。

 

 

しかしながら、聖書には「愛」の教えとは真逆の「神の怒り・裁き」についても教えています。

 

プロテスタント福音派の教会では「イエス・キリストご自身が地獄(永遠の火・ゲヘナ)行きについても教えておられるのです。」と言って、「イエス・キリストを信じていない人々は地獄です。永遠の火に投げ込まれるのです。」と教えます。

 

 

プロテスタント福音派の教会に所属しているクリスチャンたちは、その教えをそのまま信じて「アーメン!」と受け入れます。

「イエス・キリストを信じない人々は地獄へ行き、永遠の火の中でもがき苦しむことを信じます!アーメン!」

 

 

しかし、プロテスタント福音派の教会から離れ去ったクリスチャンたちは自由です。

 

「イエス・キリストを信じない人々は地獄行きの教えなど、くそ食らえ!」

 

「イエス・キリストの教えは神の愛を教えて、人を生かすもの」

 

次は、「イエス・キリストを信じていない人々は地獄へ行くという教えのウソ」というか、でっち上げを聖書から徹底的に検証していきます。