「日本におけるキリスト教 63 献金の取り扱いは非難されることがないように」 | ルーク4のブログ

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神様がクリスチャンに与える愛、夢、希望、信仰の証を中心に書いています。

「日本におけるキリスト教 63 献金の取り扱いは非難されることがないように」

 

聖書が教える「献金」について、次のように教えられています。

 

「私たちは、この献金の取り扱いについて、だれからも非難されることがないように心がけています。

それは、主の御前ばかりでなく、人の前でも公明正大なことを示そうと考えているからです。第二コリント8章20~21節」

 

「公明正大」は「公平で、良心に恥じることがなく、正しいこと」という意味です。

 

聖書が教える「献金」は、だれからも非難されることがなく、神の御前でも、人々の前でも公平で、正しいことが示されます。

 

 

プロテスタント教会の「献金」の使い道について、数年間にわたり、多くの教会の牧師や伝道師、信徒リーダー、キリスト教誌を調べてきました。

その中で、わかりやすく解説していたのが、次の通りです。

抜粋して伝えます。

 

月刊「いのちのことば」掲載号:2020年06月号

「日常の「神学」 今さら聞けないあのこと、このこと 第6回 献金と教会」

 

岡村 直樹

現在、東京基督教大学大学院教授、日本福音主義神学会東部部会理事、hi-b-a責任役員、日本同盟基督教団牧師。

 

多くのクリスチャンにとって「献金」は、新しく教会に来た人に対して最も気を遣うことのひとつかもしれません。「教会はお金儲けの場所ではないから、変に誤解されたくない」というのが大きな理由でしょう。

 

確かに教会の目的は、お金を儲けることではありません。しかし、ほとんどの教会が、牧師の給与を含め、教会全般の運営を「献金」によってまかなっているのも事実です。

 

では、クリスチャンは「献金」についてどう考えるべきでしょうか。

 

まず大切なことは、お金を含め、人間が自分のものと思っているものすべては、もともと人間のものではないという認識を持つことです。

 

「地とそこに満ちているもの世界とその中に住んでいるもの それは主のもの」(詩篇24・1)と聖書に書かれているからです。その上で神様は、私たち人間にそれらを管理する責任を与えてくださいました。

 

エデンの園の管理がアダムとエバに任されたように(創世1・26〜29)、私たち人間は、地上にあるすべてのものを、自分のものとしてではなく、神様のものとして管理する立場にあるのです。

 

では、お金を含めた財産の管理者である私たちは、それをどう用いることができるでしょうか。人間社会の常識では、管理者は自らが管理を任されている財産に対して、それが自分のものであるかのように手を付けることは許されません。

 

しかし神様は違います。神様は人間一人ひとりに管理を任せている財産の大半を、自分の必要のために使ってもいいですよと言われます。その上で、しかし十分の一だけは私に返しなさいと言われるのです(レビ27・30、マラキ3・6~12)。聖書の神様は、なんと太っ腹なお方でしょう。

 

では私たちは、どのような態度で「献金」をすべきでしょうか。パウロは以下のように語っています。

 

「一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は、喜んで与える人を愛してくださるのです」(Ⅱコリント9・7)。

 

キリストも、最も価値の低いレプタ銅貨二枚を献金箱に入れた貧しい女性に対し、「だれよりも多くを投げ入れました」と言われました(マルコ12・42〜44)。

 

「献金」に関して最も大切なのは、その額でも、厳密な割合でも、人からどう思われるかでもありません。ただ心から喜んで、感謝を込めて神様にささげるということなのです。

 

現代の多くの教会では、教会堂や土地の購入のために多額の「献金」が用いられます。

 

決して間違いではないと思いますが、「神様に仕える人々を十分にサポートしているか」また「地域社会の弱者をケアすることにも予算が用いられているか」といった問いかけを通して、献金の使い道を常に確認することも必要です。

 

 

そして、ほとんどの教会の牧師、伝道師、信徒リーダーたちが次の御言葉を強調していました。

 

「私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。

ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。第二コリント9章6~7節」

 

 

日本のプロテスタント教会の「献金の使い道」については、韓国のプロテスタント教会と同じく、次のようです。

 

「ほとんどの教会が、牧師の給与を含め、教会全般の運営を『献金』によってまかなっているのも事実です。」

 

「現代の多くの教会では、教会堂や土地の購入のために多額の『献金』が用いられます。」

 

 

プロテスタント福音派の教会に深く傷つけられた方が発信する「ふみなるとnote」の中で、献金について、次のように語っていました。

 

「神頼み」を信徒に推奨する教会の「信徒頼み」

 

 什一献金(毎月収入の10%を教会に献金する仕組み)を信徒に求める教会は、信徒が将来に向けて貯金できないことについて、「教育費や老後の費用などは主(神様)が面倒を見て下さる」と言う。

 

だったら今、教会が主(神様)に面倒を見てもらえばいいんじゃないの? と思ってしまう。

 

なぜ信徒にだけ「神頼み」を推奨して、教会はいつも「信徒頼み」なのか。「神様が経済を守って下さる」と言うのなら、まず教会が「神のお恵みにすがる」手本を見せて下さい。

 

引用以上。

 

 

この「ふみなると」さんの意見は核心をついています。

 

「献金」は信徒たちの血と汗の結晶ともいえます。

 

その献金の多くは、教会(建物)の必要(家賃、光熱費、通信費、活動費など)と働き人(牧師、伝道師、献身者たち)の必要(給与、車、牧師館など)に使われています。

 

つまり「信徒のお金頼み」で、教会が運営されているわけです。

 

そして、信徒のほうには「教会に献金すれば、神が必要を満たしてくださる」と説きます。

 

そのような教会の献金のあり方は、多くの未信者(イエス・キリストを信じていない人々)から非難されています。

 

現在は、旧統一教会問題で、宗教の献金についてクローズアップされてきています。

 

 

しかし、聖書の教えはこうです。

上に立つ者が「イエス・キリストだけにより頼む」ことが鉄則です。

 

 

カトリック教会の「マザーテレサ」は、「神の愛の宣教者会」の創立者として、上に立つ立場でした。

 

すべてにおいて、イエズス様(イエス・キリスト)だけにより頼まれる信仰が有名です。

 

数多くの孤児たちが住む場所、毎日の食事など、また、数多くの死にかけている人々を介護するための包帯や薬、飲み物など、多額の費用が毎日必要でした。

 

マザーテレサが神に祈りを捧げると、神の御手が動いて、これまで見捨てていた人たちが心を動かされて、ヒンズー教徒までもが土地や必要を与えるようになったという証であふれています。

 

 

もし、教会の牧師が、信徒たちの献金ではなく、イエスさまにより頼むならば、イエスさまの御手が動いて、教会の必要を満たしてくださいます。

 

信徒たちの献金は、聖書の教え通り、教会の余裕のある人々が、貧しい人々の欠乏を補うものです。

 

そうして平等になるという教えです。

この人は散らして、貧しい人に与えた。その義は永遠にとどまる。と聖書に書かれている通りです。

 

まさに、神の国と神の義を求めなさい。そうすればすべて必要なものは添えて与えられます。

 

そのような教会は、未信者(イエス・キリストを信じていない人々)からも、だれからも非難されることがなく、神の御前ばかりでなく、人々の前でも公明正大なことを示すでしょう。

 

 

また、キリスト教の中でも「無教会」は、「献金」がありません。

 

プロテスタント教会の教えでは、献金を少ししかしない人は少しだけ刈り取る。

 

神は、献金を喜んで与える人を愛してくださる。つまり、与えない人を神は喜ばない。というように教えています。

 

その教えが正しいとなれば、無教会のクリスチャンたちは皆、まったく刈り取らないし、神に喜ばれていないことになります。

 

しかし、現実は豊かに刈り取っている人が多いし、神に愛されています。

 

 

その無教会のクリスチャンの1人にサザエさんの著者「長谷川町子」先生がいます。

 

長谷川先生は、無教会の矢内原忠雄先生の集会には時々参加されていましたが、無教会には献金はありません。

 

ですが、豊かに刈り取っています。

 

私自身もプロテスタント福音派の教会に所属していた時は、いつも「金がたまらない」状況でした。

 

当然です。教会に給料の十分の一と、様々な献金しているうえに

友人、親戚、会社の人が結婚や葬式があったり、電化製品を買い替えたり、車などの維持費、助けを求めて来た人の必要を満たしたり、色々と出費がかさみます。

 

今は無教会になりましたが、「金がまだある」という状況が続いています。

 

それで、助けを求めてきた人を助ける資金になることがあります。

 

以前の教会に献金をし続けている時は、助けると、金不足のピンチに立たされていました。

 

聖書が教える「献金」の取り扱いは、だれからも非難されることがなく、主の御前ばかりでなく、人々の前でも公明正大なことを示すものなのです。

 

つづく