「日本におけるキリスト教 62 プロテスタント教会が教える献金の大いなるウソ」
まずは、聖書が教える「献金」について見ていきます。
第二コリント8章と9章に「献金」の目的と理由が詳細に書かれています。要点をまとめました。
1 さて、兄弟たち。私たちは、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。
2 苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。
10 この献金のことについて、私の意見を述べましょう。それはあなたがたの益になることだからです。あなたがたは、このことを昨年から、他に先んじて行っただけでなく、このことを他に先んじて願った人たちです。
11 ですから、今、それをし遂げなさい。喜んでしようと思ったのですから、持っている物で、それをし遂げることができるはずです。
12 もし熱意があるならば、持たない物によってではなく、持っている程度に応じて、それは受納されるのです。
13 私はこのことによって、他の人々には楽をさせ、あなたがたには苦労をさせようとしているのではなく、平等を図っているのです。
14 今あなたがたの余裕が彼らの欠乏を補うなら、彼らの余裕もまた、あなたがたの欠乏を補うことになるのです。こうして、平等になるのです。
15 「多く集めた者も余るところがなく、少し集めた者も足りないところがなかった」と書いてあるとおりです。
16 私があなたがたのことを思うのと同じ熱心を、テトスの心にも与えてくださった神に感謝します。
「第二コリント9章」
6 私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。
7 ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。
8 神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。
9 「この人は散らして、貧しい人々に与えた。その義は永遠にとどまる。」と書いてあるとおりです。
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マケドニヤの諸教会は激しい試練の中で、極度の貧しさという状況でした。
使徒パウロはコリントにある神の教会へ、このように献金を呼びかけました。
今あなた方(コリントにある教会の信者)の余裕が、彼ら(マケドニヤの諸教会の信者たち)の欠乏を補うのなら、彼らの余裕もまた、あなた方の欠乏を補うことになるのです。
こうして平等になるのです。
「多く集めた者も余ることなく、少し集めた者も足りないところがなかった。」と書いてあるとおりです。
それは出エジプト16章に書いてあるとおりのことでした。
「出エジプト16章」
15 イスラエルの人々はそれを見て互いに言いった、「これは何であろう」。彼らはそれがなんであるのか知らなかったからである。モーセは彼らに言った、「これは主(しゅ)があなたがたの食物として賜るパンである。
16 主が命じられるのはこうである、『あなたがたは、おのおのその食べるところに従ってそれを集め、あなたがたの人数に従って、ひとり一オメルずつ、おのおのその天幕におるもののためにそれを取とりなさい』と」。
17 イスラエルの人々はそのようにして、ある者は多く、ある者は少なく集めた。
18 しかし、オメルでそれを計ってみると、多く集めた者にも余まらず、少なく集めた者にも不足しなかった。おのおのその食べるところに従って集めていた。
19 モーセは彼らに言った、「だれも朝までそれを残しておいてはならない」。
20 しかし彼らはモーセに聞き従わないで、ある者は朝までそれを残しておいたが、虫がついて臭くなった。モーセは彼らにむかって怒った
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つまり、神さまは、多く集めても余ることがなく、少なく集めても足りないことがなくされて、すべての人の食べる物や金銭を平等にされるのです。
そして、多く所有している者たちに対して怒るのです。
これが、神さまの教会です。
献金についての教えも、お金に余裕がある信者たちが、貧しい信者たちの欠乏を補うために献金しているのです。
そして常に、皆が平等にされるのです。
それがイエス・キリストの教会です。
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現代のキリスト教会が、この聖書の教えに聞き従うと、このようになります。
教会の中で、お金に余裕がある信者たちが、貧しい信者たちの欠乏を補うために献金を捧げて、教会の皆が平等になるのです。
教会の信徒は誰一人、貧しい人はいなかった。
「この人は散らして、貧しい人々に与えた。その義は永遠にとどまる。」と聖書に書かれているとおりです。
献金は貧しい人々に与えられるのです。それが「義」です。
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ところが、プロテスタント教会の「献金」についての教えは、まるで違います。
第二コリント9章のこの箇所だけを切り取って、献金を勧めます。
6 私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。
7 ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。
そして、献金は信徒の全員に勧められます。
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この第二コリント9章6~7だけをみれば、献金を豊かに蒔く者は、豊かになる。つまり献金を多くすれば多くするほど豊かにされる。
喜んで多く与える人を、神は愛して下さる。
つまり、多く与えなければ、神は愛してくださらない。
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このような献金についての教えに、教会の信徒たちは、より多く献金するようになるのです。
特に貧しい信徒たちは「豊かになる」ということに飢え渇いています。
豊かになると言っても、現在は人並み以下な生活を、「せめて人並みになりたい!」というものです。
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厚生労働省の「2019年 国民生活基礎調査の概況」によると
児童手当などを除いたシングルマザーの人の“就労”における年間収入を見ていきましょう。「ひとり親家庭等の支援について」2)によると、雇用形態ごとに金額に大きな差があります。
正社員で働いている人の年間就労収入は平均305万円、パート・アルバイトなどの人は平均133万円です。
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この中間として、年収が200万としても、月収は約17万円です。
これでは、貯金など無理ですし、エアコンなどの電化製品が壊れても、また購入することも困難です。
そのような貧しい人が、教会に来れば、人並みの生活になるために無理をして「献金」します。
母親は一日に一食にしたり、さらに節約して、献金します。
精いっぱい豊かに献金します。
頑張って、毎月2万円すれば、一年で24万円を教会に献金することになります。
そのような献金を頑張る貧しい信徒が10人いれば、教会は一年で、240万円儲かるわけです。
それで、牧師の給料があがったり、教会に新しい電化製品、照明器具、新しい楽器などが購入できます。
そのために貧しい信徒たちは、さらに貧しい生活を強いられています。
その貧しい信徒たちは喜びながら献金しています。
なぜなら、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取るという聖書の御言葉を信じているからです。
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しかし現実は、「少し給料がアップしました」とか、「バイトが正社員になって、年収が100万円アップしました」というような事になった信徒は、ごくわずかです。
ほとんどの貧しい信徒たちは、ますます苦しくなります。
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ちょうど、詐欺にあうことに似ています。
「ネズミ講」という詐欺も、ごく一部の人は金持ちになりますが、ほとんどの人は損をする仕組みです。
ごく一部の金持ちになった人たちは、幹部になります。
キリスト教会も同じで、「多く献金し続けていると、豊かに祝福されました」と証するごく一部の信徒たちは、教会の信徒リーダーになります。
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そして、ほとんどの貧しい信徒たちは、もしも教会に何年も献金し続けなければ、何十万というお金が残っていて、それで栄養があるものを子供に食べさせてあげたり、新しい電化製品を買うことが出来たと思うのです。
ですが、そのようなマイナスのことを思わせないように、聖書の御言葉を駆使するのが、牧師や信徒リーダーたちの役目です。
それは「悪意の不在」です。
本当に、この貧しい信徒さんたちが、豊かに献金を蒔き続けているので、いつかは報われる。時が来れば、イエスさまは必ず豊かにしてくださるということを信じて、御言葉で励ますのです。
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しかし、根本が間違っています。
貧しい信徒さんたちが捧げた献金によって、教会が豊かにされているだけです。
貧しい信徒さんたちがより貧しくなることによって、教会が豊かになるというのは、イエスさまの教えに反逆しています。
聖霊を欺き、神をも人をも欺いていることになるでしょう。
ザアカイは、まだイエス・キリストを信じていない時に、人々からお金をだまし取りましたが、イエス・キリストを信じると、そのだまし取った金を4倍にして返しました。
貧しい信徒さんたちからだまし取ったお金は返さなければならないでしょう。
つづく