「日本におけるキリスト教 113 聖書が教える人間に対する福音について」
この日本でも、何事もそうですが、人についても「白か黒か」で判断することは出来ない事が常識になってきています。
例えば、昔であれば、勉強ができない子や注意散漫な子は「ダメな子」と決めつけられて、厳しい躾をしていたそうです。
しかし現在では「ダメな子か出来る子か」という白か黒かではなく、
「LD(学習障害)」や「ADHD(注意散漫多動性障害)」という様々な子どもたちに配慮することは、教育の現場では常識となっています。
また、昔は「男か女か」と白と黒がはっきりしているような時代に「同性愛者」と呼ばれて、忌み嫌われていた人たちも、
現在では「LGBTQなど性的マイノリティを理解しましょう。」などと白か黒かではない風潮が高まっています。
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そして、聖書の教えも「人間」について、「白か黒か」という教えではなく、「人間」は、いくつもに分かれていて、イエスさまは、それぞれに教えていることが違います。
大きく分けると、「神さまを信じた人々」と「神さまを信じない人々」とに分かれています。
さらに「神さまを信じた人々」の中でも、3つに分かれます。
① 「神の子どもと呼ばれる人々」
② 「悪魔が遣わした者たち」
③ 「イエスを主と呼んで慕っているが、不法を行なっているので、イエスさまから離れ去れと最後通告される偽クリスチャン」
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①についての御言葉
「私たちが神の子どもと呼ばれるために、—事実、いま私たちは神の子どもです—
御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。
愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。
後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。
キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。(第一ヨハネ3章1~3節)」
まだまだありますが、かなり長くなってしまうのでとりあえずはこの御言葉だけにします。
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②についての御言葉
「小さい者たちよ。今は終わりの時です。
あなたがたが反キリストの来ることを聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。
それによって、今が終わりの時であることがわかります。
彼らは私たちの中から出て行きましたが、もともと私たちの仲間ではなかったのです。
もし私たちの仲間であったのなら、私たちといっしょにとどまっていたことでしょう。
しかし、そうなったのは、彼らがみな私たちの仲間でなかったことが明らかにされるためなのです。(第一ヨハネ2章18~19節)」
「しかし、私は、今していることを今後も、し続けるつもりです。それは、私たちと同じように誇るところがあるとみなされる機会をねらっている者たちから、その機会を断ち切ってしまうためです。
こういう者たちは、にせ使徒であり、人を欺く働き人であって、キリストの使徒に変装しているのです。
しかし、驚くには及びません。サタンさえ光の御使いに変装するのです。
ですから、サタンの手下どもが義のしもべに変装したとしても、格別なことはありません。彼らの最後はそのしわざにふさわしいものとなります。(第二コリント11章12~15節)」
まだありますが、長文になりすぎるので、この2つにとどめます。
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③についての御言葉
「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。
その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ。主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』
しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』マタイの福音書7章21~23節」
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次は「イエス・キリストを信じない人々」についてですが、2つに分かれています。
①「正しい人たち」
②「のろわれた者ども」
この2つの人たちです。
最後の審判で、「神の子ども」たちは引き上げられて、空中で主イエスと会いますので、地上に残っているのが、「正しい人たち」と「のろわれた者ども」です。
その御言葉です。
王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。
あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べ物を与え、わたしが渇いていたときに、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったときに、わたしに宿を貸し、
わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』
それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入れ。
おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、
わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。』
『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』
こうして、この人たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。」
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その「正しい人たち」についての関連する御言葉です。
「わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方です。
あなたがたがキリストの弟子だからというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれる人は、決して報いを失うことはありません。これは確かなことです。(マルコの福音書9章40~41節)
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そして、永遠の刑罰に入る「のろわれた者ども」についての福音は、終始一貫、ただ戒めと神の怒りとさばきと地獄行きの警告だけです。
その「のろわれた者ども」をイエスさまは「狼」と言われました。
「いいですか。わたしが、あなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなものです。ですから、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい。
人々には用心しなさい。彼らはあなたがたを議会に引き渡し、会堂でむち打ちますから。マタイの福音書10章16~17節」
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「のろわれた者ども」は「正しい人たち」と真逆であり、「悪」しかなく、聖霊に逆らっている者たちです。
「わたしの味方でない者はわたしに逆らう者であり、わたしとともに集めない者は散らす者です。
だから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒涜も赦していただけます。しかし、御霊に逆らう冒涜は赦されません。
また、人の子に逆らうことばを口にする者でも、赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、だれであっても、この世であろうと次に来る世であろうと、赦されません。
木が良ければ、その実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木のよしあしはその実によって知られるからです。
まむしのすえたち。おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えましょう。心に満ちていることを口が話すのです。
良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです。(マタイの福音書12章30~35節)
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「のろわれた者ども」について、イエスさまは、神の国は取り去られると警告されました。
「だから、わたしはあなたがたに言います。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられます。
また、この石の上に落ちる者は、粉々に砕かれ、この石が人の上に落ちれば、その人を粉みじんに飛ばしてしまいます。」
祭司長たちとパリサイ人たちは、イエスのこれらのたとえを聞いたとき、自分たちをさして話しておられることに気づいた。
そこでイエスを捕えようとしたが、群衆を恐れた。群集はイエスを預言者と認めていたからである。(マタイの福音書21章43~46節)」
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「のろわれた者ども」について、イエスさまは「わざわいだ!」と言い放ち、「天の御国に入れない!」と断言されます。
「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは人々から天の御国をさえぎっているのです。自分も入らず、入ろうとしている人々をも入らせません。(マタイの福音書23章13節)」
そして、地獄行きを宣告されました。
「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは預言者の墓を建て、義人の記念碑を飾って、
『私たちが、父祖たちの時代に生きていたら、預言者たちの血を流すような仲間にはならなかっただろう』と言います。
こうして、預言者を殺した者たちの子孫だと、自分で証言しています。
おまえたちも父祖たちの罪の目盛りの不足分を満たしなさい。
おまえたち蛇ども、まむしのすえども。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうしてのがれることができよう。マタイの福音書23章33節」
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そして、地獄行きについての詳細を教えられました。
「さて、金の好きなパリサイ人たちが、一部始終を聞いて、イエスをあざ笑っていた。
イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、人の前で自分を正しいとする者です。しかし神は、あなたがたの心をご存じです。人間の間であがめられるものは、神の前で憎まれ、きらわれます。
19 ある金持ちがいた。いつも紫色の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。
20 ところが、その門前にラザロという全身おできの貧しい人が寝ていて、
21 金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。
22 さて、この貧しい人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。
23 その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。
24 彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先に水を浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』
まだまだありますが、このように、最後の審判で悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入る「のろわれた者ども」に対しての福音は、戒めと神の御怒りとさばきと地獄行きの警告です。
まさに、この御言葉通りです。
「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。
そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行いが悪かったからである。ヨハネの福音書3章18~19節」
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このように、「イエス・キリストを信じている人たち」の中でも「神の子どもたち」「悪魔から出た者たち」「偽クリスチャン」とに分かれています。
そして、「イエス・キリストを信じていない人々」の中でも「正しい人たち」と「のろわれた者ども」とに明確に分かれています。
それゆえ、それぞれに教える「福音」の内容も違います。
特に「神の子どもたち」と「のろわれた者ども」とはまったく異なっています。
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それなのに、もしも、ただ「イエス・キリストを信じた人々」と「イエス・キリストを信じていない人々」と2つだけに分けているなら、
あの新井白石がシドディ宣教師の聖書解釈と福音理解(教会の外に救いはない)に対して、「幼稚すぎる」と吐き捨てられるのも至極当然と言えるでしょう。
また、支離滅裂で荒唐無稽で矛盾だらけで、意味わかんないと言われてしまうこともあり得ると思われます。
つづく