ルーク4のブログ

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神様がクリスチャンに与える愛、夢、希望、信仰の証を中心に書いています。

「日本におけるキリスト教 113 聖書が教える人間に対する福音について」

 

この日本でも、何事もそうですが、人についても「白か黒か」で判断することは出来ない事が常識になってきています。

 

例えば、昔であれば、勉強ができない子や注意散漫な子は「ダメな子」と決めつけられて、厳しい躾をしていたそうです。

 

しかし現在では「ダメな子か出来る子か」という白か黒かではなく、

「LD(学習障害)」や「ADHD(注意散漫多動性障害)」という様々な子どもたちに配慮することは、教育の現場では常識となっています。

 

また、昔は「男か女か」と白と黒がはっきりしているような時代に「同性愛者」と呼ばれて、忌み嫌われていた人たちも、

 

現在では「LGBTQなど性的マイノリティを理解しましょう。」などと白か黒かではない風潮が高まっています。

 

 

そして、聖書の教えも「人間」について、「白か黒か」という教えではなく、「人間」は、いくつもに分かれていて、イエスさまは、それぞれに教えていることが違います。

 

大きく分けると、「神さまを信じた人々」と「神さまを信じない人々」とに分かれています。

 

さらに「神さまを信じた人々」の中でも、3つに分かれます。

 

① 「神の子どもと呼ばれる人々」

② 「悪魔が遣わした者たち」

③ 「イエスを主と呼んで慕っているが、不法を行なっているので、イエスさまから離れ去れと最後通告される偽クリスチャン」

 

 

①についての御言葉

 

「私たちが神の子どもと呼ばれるために、—事実、いま私たちは神の子どもです—

 

御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。

 

愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。

 

後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。

 

キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。(第一ヨハネ3章1~3節)」

 

まだまだありますが、かなり長くなってしまうのでとりあえずはこの御言葉だけにします。

 

 

②についての御言葉

 

「小さい者たちよ。今は終わりの時です。

あなたがたが反キリストの来ることを聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。

 

それによって、今が終わりの時であることがわかります。

 

彼らは私たちの中から出て行きましたが、もともと私たちの仲間ではなかったのです。

 

もし私たちの仲間であったのなら、私たちといっしょにとどまっていたことでしょう。

 

しかし、そうなったのは、彼らがみな私たちの仲間でなかったことが明らかにされるためなのです。(第一ヨハネ2章18~19節)」

 

「しかし、私は、今していることを今後も、し続けるつもりです。それは、私たちと同じように誇るところがあるとみなされる機会をねらっている者たちから、その機会を断ち切ってしまうためです。

 

こういう者たちは、にせ使徒であり、人を欺く働き人であって、キリストの使徒に変装しているのです。

 

しかし、驚くには及びません。サタンさえ光の御使いに変装するのです。

 

ですから、サタンの手下どもが義のしもべに変装したとしても、格別なことはありません。彼らの最後はそのしわざにふさわしいものとなります。(第二コリント11章12~15節)」

 

まだありますが、長文になりすぎるので、この2つにとどめます。

 

 

③についての御言葉

 

「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。

 

その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ。主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』

 

しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』マタイの福音書7章21~23節」

 

 

次は「イエス・キリストを信じない人々」についてですが、2つに分かれています。

 

①「正しい人たち」

②「のろわれた者ども」

この2つの人たちです。

 

最後の審判で、「神の子ども」たちは引き上げられて、空中で主イエスと会いますので、地上に残っているのが、「正しい人たち」と「のろわれた者ども」です。

 

その御言葉です。

 

王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。

 

あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べ物を与え、わたしが渇いていたときに、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったときに、わたしに宿を貸し、

わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』

 

それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入れ。

 

おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、

わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。』

 

『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』

こうして、この人たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。」

 

 

その「正しい人たち」についての関連する御言葉です。

 

「わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方です。

 

あなたがたがキリストの弟子だからというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれる人は、決して報いを失うことはありません。これは確かなことです。(マルコの福音書9章40~41節)

 

 

そして、永遠の刑罰に入る「のろわれた者ども」についての福音は、終始一貫、ただ戒めと神の怒りとさばきと地獄行きの警告だけです。

 

その「のろわれた者ども」をイエスさまは「狼」と言われました。

 

「いいですか。わたしが、あなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなものです。ですから、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい。

 

人々には用心しなさい。彼らはあなたがたを議会に引き渡し、会堂でむち打ちますから。マタイの福音書10章16~17節」

 

 

「のろわれた者ども」は「正しい人たち」と真逆であり、「悪」しかなく、聖霊に逆らっている者たちです。

 

「わたしの味方でない者はわたしに逆らう者であり、わたしとともに集めない者は散らす者です。

 

だから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒涜も赦していただけます。しかし、御霊に逆らう冒涜は赦されません。

 

また、人の子に逆らうことばを口にする者でも、赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、だれであっても、この世であろうと次に来る世であろうと、赦されません。

 

木が良ければ、その実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木のよしあしはその実によって知られるからです。

 

まむしのすえたち。おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えましょう。心に満ちていることを口が話すのです。

 

良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです。(マタイの福音書12章30~35節)

 

 

「のろわれた者ども」について、イエスさまは、神の国は取り去られると警告されました。

 

「だから、わたしはあなたがたに言います。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられます。

 

また、この石の上に落ちる者は、粉々に砕かれ、この石が人の上に落ちれば、その人を粉みじんに飛ばしてしまいます。」

 

祭司長たちとパリサイ人たちは、イエスのこれらのたとえを聞いたとき、自分たちをさして話しておられることに気づいた。

 

そこでイエスを捕えようとしたが、群衆を恐れた。群集はイエスを預言者と認めていたからである。(マタイの福音書21章43~46節)」

 

 

「のろわれた者ども」について、イエスさまは「わざわいだ!」と言い放ち、「天の御国に入れない!」と断言されます。

 

「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは人々から天の御国をさえぎっているのです。自分も入らず、入ろうとしている人々をも入らせません。(マタイの福音書23章13節)」

 

そして、地獄行きを宣告されました。

 

「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは預言者の墓を建て、義人の記念碑を飾って、

『私たちが、父祖たちの時代に生きていたら、預言者たちの血を流すような仲間にはならなかっただろう』と言います。

こうして、預言者を殺した者たちの子孫だと、自分で証言しています。

 

おまえたちも父祖たちの罪の目盛りの不足分を満たしなさい。

 

おまえたち蛇ども、まむしのすえども。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうしてのがれることができよう。マタイの福音書23章33節」

 

 

そして、地獄行きについての詳細を教えられました。

 

「さて、金の好きなパリサイ人たちが、一部始終を聞いて、イエスをあざ笑っていた。

 

イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、人の前で自分を正しいとする者です。しかし神は、あなたがたの心をご存じです。人間の間であがめられるものは、神の前で憎まれ、きらわれます。

 

19 ある金持ちがいた。いつも紫色の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。

 

20 ところが、その門前にラザロという全身おできの貧しい人が寝ていて、

21 金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。

 

22 さて、この貧しい人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。

 

23 その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。

 

24 彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先に水を浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』

 

まだまだありますが、このように、最後の審判で悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入る「のろわれた者ども」に対しての福音は、戒めと神の御怒りとさばきと地獄行きの警告です。

 

まさに、この御言葉通りです。

 

「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。

 

そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行いが悪かったからである。ヨハネの福音書3章18~19節」

 

 

このように、「イエス・キリストを信じている人たち」の中でも「神の子どもたち」「悪魔から出た者たち」「偽クリスチャン」とに分かれています。

 

そして、「イエス・キリストを信じていない人々」の中でも「正しい人たち」と「のろわれた者ども」とに明確に分かれています。

 

それゆえ、それぞれに教える「福音」の内容も違います。

 

特に「神の子どもたち」と「のろわれた者ども」とはまったく異なっています。

 

 

それなのに、もしも、ただ「イエス・キリストを信じた人々」と「イエス・キリストを信じていない人々」と2つだけに分けているなら、

 

あの新井白石がシドディ宣教師の聖書解釈と福音理解(教会の外に救いはない)に対して、「幼稚すぎる」と吐き捨てられるのも至極当然と言えるでしょう。

 

また、支離滅裂で荒唐無稽で矛盾だらけで、意味わかんないと言われてしまうこともあり得ると思われます。

 

つづく

 

「日本におけるキリスト教 112 キリストを信じなくても与えられる永遠の命について」

 

以前にも伝えましたが、日本で最も有名で愛されているクリスチャンは「マザーテレサ」だと思います。

 

マザーテレサの特筆すべき信仰の1つは「イエス・キリストを信じていない人々も救われている」ということです。

 

マザーテレサは、多くの人々にその信仰を言い現わしています。

 

日本のカトリック教会の粕谷甲一神父も体験した1人で、著書「キリスト教とは何か ①」の中で、次のように書いています。

 

「インドに行った時に、マザーテレサがわたしにこういうことを話してくれました。

 

ある夕方、修道院に帰ってきたら、玄関に小さな男の子が立っていて、「マザー、お母さんが危ないから来てください」と言う。

 

マザーはすぐに弁当を持って一緒に行きました。

 

すると本当にひどい場末に、まだ若いお母さんがぐんなりと横たわっていて、右と左に、やはりぐんなりした子どもがいました。

 

マザーがお弁当を出すと、「この半分をうちの子にやってください。この先に同じような家族がもう一軒あるから、残りの半分は向こうにもっていってください」と言ったというのです。

 

「貧しい人って偉大でしょう」とマザーが言うのです。

 

自分の子どもが飢えているのに、もう一軒の飢えている子どものことを頼んだという、

 

ああいう心はどこから来ると思いますか、とわたしに聞くのです。

 

「彼らはヒンズー教徒ですよ。よく祈るのです。」

 

だからマザーテレサは、そういう大きな心、きれいな心というのは祈りから来る、神さまから来る。

 

その神さまは、キリスト教専属の神さまではなくて、そういう心すべてに通じる神さまなのだと言う。」

 

引用以上

 

 

このマザーテレサと同じような信仰が、アフガニスタンにおいて、沙漠化した土地に水を導き、多くの人々の命を救ったクリスチャンの中村哲医師です。

 

イスラム教徒のためにいくつものモスク(イスラム教の礼拝堂やイスラム教の神学校)を建設しました。

 

つまり、イエスラム教徒もキリスト教徒も同じという信仰です。

 

その中村哲先生は、福音派の教会で洗礼を受けましたが、聖書解釈と福音理解がさっぱりわからず、無教会の内村鑑三先生の著書と出会って「本当のクリスチャンになれました。」と語ったことで、内村鑑三に着目する人々が増えています。

 

そこから内村鑑三先生の弟子の1人「斉藤宗次郎」氏がさらにクローズアップされています。

 

斉藤宗次郎氏は宮沢賢治の「雨ニモマケズ」のモデルと言われているクリスチャンで、1968年に召天されました。

半世紀以上過ぎましたが、未だに語り継がれているのです。

 

その内村鑑三の特筆すべき信仰の1つが「すべての人が救われる万人救済説」です。

 

そして、中村哲先生と同じく、福音派の教会の聖書解釈と福音理解がまったく合わなかったサザエさんの著書「長谷川町子」先生が、その内村鑑三先生の弟子の1人「矢内原忠雄」先生と出会って、ようやくクリスチャン人生を歩めたのです。

 

ですから、サザエさんをクリスチャンにする必要はありませんでした。

 

サザエさんは1969年からテレビ放送が始まっています。

今年で55年です。半世紀以上、日本人に愛され続けているのです。

 

 

それから、日本では三重苦の聖女として知られる「ヘレン・ケラー」さんも半世紀以上前の1968年に召天されていますが、この日本においても未だに語り継がれているクリスチャンですが、前述のマザーテレサと同じ信仰です。

 

この日本において、群を抜いて有名で、日本人の中でも半世紀以上も語り継がれているクリスチャンたちに共通している信仰が、「イエス・キリストを信じない人々も救われている」という信仰です。

 

これは偶然ではなく、神の摂理です。

 

なぜなら聖書に明確に教えられているからです。

 

前回の記事に伝えましたが、もっと詳しく見ていきます。

 

 

主イエスの来臨時についてです。

 

それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つのを見たならば、(読者はよく読み取るように。)

 

第二神殿(現在は存在しません)に荒らす憎むべき者(滅びの子)が入り、大患難時代に突入します。

 

それから、

「そのとき、畑にいるふたりといると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。

 

ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。マタイの福音書24章40~41」

 

「 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。

 

それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、

 

次に、生き残っている私たち(使徒パウロたち)が、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。

このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。

 

こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。第一テサロニケ4章16~18節」

 

 

このように、使徒パウロたち、イエス・キリストを信じている人々(クリスチャン)は、引き上げられて、空中で主と会い、いつまでも主とともにいます。

 

それは次の御言葉通りです。

 

「だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。

 

モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。

 

それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。ヨハネの福音書3章13~15」

 

イエス・キリストを信じる者は皆、イエス・キリストにあって永遠の命を持ったので、主イエスの来臨の時に引き上げられたのです。

 

 

そして、地上に残っているのは、「イエス・キリストを信じていない人々」だけであります。

 

イエス・キリストを信じた人々は、引き上げられて、空中で主と会っているのですから。

 

その「イエス・キリストを信じていない人々」は3つに分かれています。

 

イエスさまは次のように明確に教えられています。

 

「人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。

 

そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、

 

羊を自分の右に、山羊を左に置きます。

 

そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。

 

あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べ物を与え、わたしが渇いていたときに、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったときに、わたしに宿を貸し、

 

わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』

 

『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』

 

「それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入れ。

 

おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、

 

わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。』

 

こうして、この人たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。マタイの福音書25章31~46」

 

 

「イエス・キリストを信じていない人々」の中でも正しい人々は永遠の命に入ると、イエスさまは明確に教えられています。

 

その人々が、永遠の命に入る理由は「イエス・キリストを信じた」という理由ではありません。

 

「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』という理由です。

 

この正しい人々は、様々な理由があり、イエス・キリストを信じるまで至りませんでした。

 

やはり、先祖代々から「ユダヤ教徒」だから、自分だけが「キリスト教徒」になることは出来ないという理由もあったでしょうし、

 

大祭司やパリサイ人、律法学者たちの敵になりたくないから、イエス・キリストを信じなかったという理由もありました。

 

しかしながら、人として、最も小さな者たちが助けを求めている時に、助けてあげたのでした。それは当然のことでした。

 

それは、クリスチャンたちが激しい迫害の時に散らされた時でしたが、その助けた行為に恩を着せることはなかったのです。

 

 

その一方で、悪魔が蒔いた毒麦であり、まむしの末どもであり、クリスチャンたちを迫害する者、見捨てる者たちがいました。

 

イエスさまは永遠の刑罰に入ることを以前から次のように予告されました。

 

「その者たちは こうして、預言者を殺した者たちの子孫だと、自分で証言しています。

 

おまえたちも父祖たちの罪の目盛りの不足分を満たしなさい。

 

おまえたち蛇ども、まむしのすえども。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうしてのがれることができよう。

 

だから、わたしが預言者、知者、律法学者たちを遣わすと、おまえたちはそのうちのある者を殺し、十字架につけ、またある者を会堂でむち打ち、町から町へと迫害して行くのです。

 

それは、義人アベルの血からこのかた、神殿と祭壇との間で殺されたバラキヤの子ザカリヤの血に至るまで、地上で流されるすべての正しい血の報復がおまえたちの上に来るためです。

 

まことに、おまえたちに告げます。これらの報いはみな、この時代の上に来ます。マタイの福音書23章31~36節」

 

 

そして、もう1つは、自称「イエス・キリストを信じているクリスチャン」であって、主イエスの御目には「偽クリスチャン」という人々です。

 

「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。

 

その日(主の来臨時)には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ。主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』

 

しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』マタイの福音書7章21~23節」

 

この「偽クリスチャンたち」が大勢いるのです。

 

 

このように、イエス・キリストを信じていない人々は3つに分かれています。

 

マザーテレサや中村哲先生、ヘレン・ケラーたちの信仰は、「イエス・キリストを信じていなくても正しい人々は救われている」というイエスさまの教えと一致しています。

 

次回は、その事について、さらに詳しく見ていきます。

 

「日本におけるキリスト教 111 最後の審判とイエス・キリストを信じない人々について」

 

今回は予定を変更して、さらに前回までの内容について詳しく伝えることにしました。

 

109記事では、主イエスの来臨について、聖書のイエスさまの御言葉をそのまま信じれば次のようになりますと伝えました。

 

イエスさまは、大祭司たちが生存中に「来臨する」と言われたのに対して、聖霊に逆らう大祭司は「神への冒涜だ」と、「来臨」を否定したのです。

 

そして、使徒パウロが「私たち(使徒パウロたち)は主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、主の来臨時に、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。」と教えた御言葉をそのまま信じれば、使徒パウロたちが生存中に「主の来臨」が成就します。

 

 

さらに前回記事で紹介した御言葉です。

「イエスは弟子たちに言われた。 『わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方です。

 

あなたがたがキリストの弟子だからというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれる人は、決して報いを失うことはありません。これは確かなことです。』マルコの福音書9章40~41節」

 

主の来臨が、主の御言葉通りに、大祭司と使徒パウロや使徒ヨハネたちが生存中に成就したことを信じれば、

 

この「あなたがたに水一杯でも飲ませてくれる人は、決して報いを失うことはありません。これは確かなことです。」と言われた主の御言葉も成就したことが明確にわかります。

 

 

それは主の来臨における最後の審判においてです。

 

主の来臨時に、使徒パウロや使徒ヨハネ、クリスチャンたちは引き上げられて、空中で主イエスと会います。

 

すると、地上にはノンクリスチャン(イエス・キリストを信じていない人々)だけが取り残されている状況になります。

 

その時の御言葉が次の御言葉です。

 

「人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。

 

そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、

羊を自分の右に、山羊を左に置きます。

 

そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。

 

あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べ物を与え、わたしが渇いていたときに、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったときに、わたしに宿を貸し、

 

わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』

 

すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。

 

いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。

 

また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたづねしましたか。』

 

すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』(マタイの福音書25章31~40節)

 

 

このイエスさまが言われた「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。」という事が起きたことが聖書には次のように書かれています。

 

「サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。

 

その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされた。(使徒の働き8章1節)」

 

この教会に対する激しい迫害の時に、クリスチャンたち(イエスさまの兄弟たち)は逃亡生活に入りますが、その中でも最も小さい者たちは空腹であり、渇き、裸であり、宿もなく、病気にかかったりしながら、放浪の旅をしていました。

 

また、捕らえられて牢の中に入れられました。

 

その状況の時に、ノンクリスチャン(イエス・キリストを信じない人々)たちの行動は二つに分かれました。

 

激しい迫害が起きる前はこのような状況でした。

 

「また、使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議なわざが人々の間で行われた。みなは一つ心になってソロモンの廊にいた。

 

ほかの人々は、ひとりもこの交わりに加わろうとしなかったが、その人々は彼らを尊敬していた。(使徒の働き5章12~13節)」

 

このクリスチャンの交わりに加わろうとしなかった人々は、つまりノンクリスチャン(イエス・キリストを信じない人々)ですが、使徒たちとクリスチャンたちを尊敬していました。

 

そして、尊敬する使徒たちとクリスチャンたちが激しい迫害にあっている時に、色々と助けたのです。

 

しかしながら、イエスさまが言われた通りに、水一杯を飲ませるだけが精いっぱいだった人も多かったのでしょう。

 

それから、その人々とは真逆の、もう一方のノンクリスチャン(イエス・キリストを信じない人々)は、クリスチャンたちを迫害して、助けを求めても見捨てたのです。

 

 

ですから、来臨時の最後の審判では、「最も小さい者たちのひとりにしたのはわたしにしたのです。」と言われて「祝福された人よ。わたしの父の家にお入りなさい」と永遠の命に入れられました。

 

まさに、イエスさまの来臨は、激しい迫害の時にクリスチャンの中でも最も小さい者たちを助けてくれたノンクリスチャン(イエス・キリストを信じない人々)が生存中に行なわれたことがわかります。

 

そして、イエスさまが言われた「あなたがたに水一杯でも飲ませてくれる人は、決して報いを失うことはありません。これは確かなことです。」という主の御言葉が成就したのです。

 

ものすごく感動しました。

 

 

しかしながら、「主の来臨はまだです。これからです。」という聖書解釈と福音理解をしているなら、イエスさまの教えはものすごく奇怪で荒唐無稽なものになってしまいます。

 

イエスさまが来臨されて、最後の審判の基準が次の通りです。

 

『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』

 

こうして、この人たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。(マタイの福音書25章45~46節)」

 

すると、次の御言葉は何の意味もなくなってしまいます。

 

「 御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。(ヨハネの福音書3章36節)」

 

この矛盾をどう解き明かすのか?ものすごく難解となります。

 

そもそも、前述のイエスさまの来臨の時についての教えを否定しているのですから、他の御言葉からも様々な矛盾が起こされています。

 

そして「のろい」の中にいるように、「ああでもない、こうでもない」と珍走してしまいます。

 

「これが正しい聖書解釈です!」というのが現われて、「それだ!」と多くの牧師やクリスチャンが食いつくのはいいが、何年かすれば、また他の聖書解釈が現われて、「それだ!」と食いつきを繰り返します。

 

それゆえ、口論や論争が絶えません。

 

これから現れる反キリスト(滅びの子)はローマ法王だと断言する牧師やクリスチャンたちもいますし、

 

また、反キリストによる大患難時代における主の空中再臨は、大患難時代前だとか、大患難時代後とかという、論争が過熱しています。

 

そして「主の来臨は近い!」ということも熱心に語られています。

 

それらの聖書解釈と福音理解は全部、どこかの聖書箇所を抜き取ったり、都合のいい御言葉を切り取って集めたり、

 

現状のイスラエルの状況や世界情勢を都合よく合わせながら、ああでもない、こうでもないというものです。

 

そして、進展することはなく、二転三転していたり、他の聖書解釈と福音理解に変わったりすることも珍しくありません。

 

 

さて、話を戻しますが、

 

イエスさまの御言葉をそのまま信じれば、ノンクリスチャン(イエス・キリストを信じない人々)の中でも2つに分かれています。

 

一方は、イエスさまやクリスチャンたちに反対しない人々であり、使徒たちやクリスチャンたちを尊敬している人々です。

 

そして、人として、最も小さい者たちが助けを求めている時に助けています。

 

 

もう一方が「悪魔が蒔いた毒麦」であり、「まむしの末」であるので、やみ(悪魔)を愛し、悪いことをしているので、光(イエス・キリスト)とクリスチャンたちを憎んでいる人々です。

 

次の御言葉通りです。

 

「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。

 

そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行いが悪かったからである。

 

悪いことをする者は光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。(ヨハネの福音書3章18~20節)」

 

そして、最も小さい者たちを迫害したり、見捨てます。

 

 

このように、イエスさまの御言葉を否定せずに、誠実に純粋に信じていれば、大きな矛盾は起きませんし、聖書解釈と福音理解は1つにまとまります。

 

そして、祝福されるのです。

 

この日本でも、多くの人々に素晴らしい影響を与えているクリスチャンは、イエスさまの御言葉を否定せずに誠実に純粋に信じている人ばかりです。

 

 

「日本におけるキリスト教 110 聖書が教えるイエス・キリストを信じない人々について」

 

前回109の続きです。

109の投稿は、既成の教会に所属する牧師やクリスチャンたちからは「異端の教えをする危険人物」だと判断されています。

 

ですが、一部の無教会のクリスチャンたちや、イエス・キリストを信じていない人々には非常に理解されている内容だと好評を得ています。

 

今回110とセットで読んでもらえれば、地獄行きに関する聖書解釈と福音理解に確信を得られる内容となっています。

 

 

さて、人がこの世で生きていれば「友達」と「友達ではない人」とに分かれてしまうものです。

 

また、その「友達ではない人」の中では、「自分に好感を持ってくださる人」と「自分を嫌っている(苦手な)人」とに分かれるものです。

 

その人が、自分を嫌っている理由として、生理的に嫌いとか、人気があるから嫌いとか理不尽な場合もあります。

 

そして、「自分に好感を持ってくださる人」と「自分を嫌っている(苦手な)人」とは、天と地ほどの違いがあります。

 

「自分に好感を持ってくださる人」とは出会いたいと思いますが、「自分を嫌っている(苦手な)人」とは二度と出会いたくないと思うからです。

 

 

聖書の教えも「イエス・キリストを信じた人々」と「イエス・キリストを信じない人々」とに分かれています。

 

その「イエス・キリストを信じない人々」の中では、「イエス・キリストに反対しない人々」と「イエス・キリストを殺すくらいに憎んでいる人々」とに分かれています。

 

そして、「イエス・キリストに反対しない人々」と「イエス・キリストを殺すくらいに憎んでいる人々」とは天と地獄行きほどの違いがあることをイエスさま御自身が明確に教えられています。

 

 

まずは「イエス・キリストに反対しない人々」についてです。

 

「イエスは弟子たちに言われた。 『わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方です。

 

あなたがたがキリストの弟子だからというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれる人は、決して報いを失うことはありません。これは確かなことです。』マルコの福音書9章40~41節」

 

このように、イエスさまは、わたしたち(イエス・キリストとクリスチャン)に反対しない者は、イエス・キリストとクリスチャンたちの味方であり、

 

クリスチャンに水一杯でも飲ませてくれる人たちは、決して報いを失うことはありません。と明言されました。

 

そして「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」と言われました。

 

 

今度は「イエス・キリストを殺すくらいに憎んでいる人々」についてです。

 

「そのとき、イエスは群集と弟子たちに話をして、こう言われた。「律法学者、パリサイ人たちは、モーセの座を占めています。

ですから、彼らがあなたがたに言うことはみな、行い、守りなさい。けれども、彼らの行いをまねてはいけません。

 

彼らは言うことは言うが、実行しないからです。

 

わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは預言者の墓を建て、義人の記念碑を飾って、

『私たちが、父祖たちの時代に生きていたら、預言者たちの血を流すような仲間にはならなかっただろう』と言います。

 

こうして、預言者を殺した者たちの子孫だと、自分で証言しています。

 

おまえたちも父祖たちの罪の目盛りの不足分を満たしなさい。

 

おまえたち蛇ども、まむしのすえども。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうしてのがれることができよう。マタイの福音書23章1~2、29~33節」

 

 

イエスさまと同様に、バプテスマのヨハネも次のように教えています。

 

「さて、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川沿いの全地域の人々がヨハネのところへ出て行き、自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けた。

 

しかし、パリサイ人やサドカイ人が大ぜいバプテスマを受けに来るのを見たとき、ヨハネは彼らに言った。

 

『まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。』マタイの福音書3章5~7節」

 

バプテスマのヨハネは、預言者たちを殺した者たちの子孫のまむしのすえたちに「必ず来る神の御怒り」を告げて、バプテスマ(洗礼)を授けませんでした。

 

 

このように、「イエス・キリストを信じない人々」において、「イエス・キリストに反対しない人々」と「イエス・キリストを殺すくらいに憎んでいる人々」とがあります。

 

そして、「イエス・キリストに反対しない人々」については「わたしたちの味方です。」と教えられました。

 

 

しかし、「イエス・キリストを殺すくらいに憎んでいる人々」については、「ゲヘナの刑罰(地獄行き)をどうしてのがれることができよう」と教えられているのです。

 

まさに、「イエス・キリストを信じない人々」においては、2つのタイプに分かれていて、その2つは、天と地獄行きのように明暗くっきりと分かれていることがわかります。

 

 

そして、イエスさまから「預言者を殺した者たちの子孫だと、自分で証言しています。おまえたちも父祖たちの罪の目盛りの不足分を満たしなさい。

 

おまえたち蛇ども、まむしのすえども。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうしてのがれることができよう。」と言われた「悪魔が蒔いた毒麦」である「イエス・キリストを信じない人々」は、現在は存在しません。

 

注)世界には「聖書が教える悪魔が蒔いた毒麦」の模倣犯のような人々が存在していますが、この日本では出会ったことがないので、考慮していません。

 

 

つまり、模倣犯を考慮せずに、聖書の教えから判断すれば、この日本において、「イエス・キリストを信じない人々」というのは「イエス・キリストに反対しない人々」だけということになります。

 

現実にそうです。

 

自称で、預言者を殺した者たちの子孫であり、父祖たちの罪の目盛りの不足分を満たすために、イエス・キリストとクリスチャンたちを殺したいぐらいに憎んでいる人と出会ったことがありません。

 

ですが、既成のキリスト教会において、牧師や神父の教えや言動と行動に深く傷つけられて、イエス・キリストとクリスチャンたちを憎んでいる人々はたくさんいます。

 

私自身も以前のプロテスタント福音派の教会で出会ったり、SNSで出会いました。知っているだけでも数百人はいますので、現実は数万人か数十万人か、もっといるかもしれません。

 

その、私が知っている数百人の人々に共通していることがあります。

 

それは「現在のイエス・キリストを信じない人々は、滅びに向かっていて、そのまま死ねば最後の審判で永遠の火に入る」という教えの教会で深く傷ついていました。

 

 

この日本では、「イエス・キリストが私と何の関係があるのか?」と言う人が圧倒的に多いです。

 

けれど、SNSやテレビや映画、キリスト教式結婚式場などで、聖書の「愛は決して絶えることはありません。神は愛です。隣人を愛せよ。神は耐えられない試練を与えない」などの教えを聞けば、心に響いたという声をよく聞きます。

 

つまり「イエス・キリストに反対しない人々」であります。

 

イエスさまは「その反対しない人々は、わたしたちの味方です。」と教えられました。

 

その「イエス・キリストに反対しない人々」を「地獄行き」に定める教えを聞けば、誰でも怒ったり、憎んだりしても当然なのです。

 

また、牧師や神父、クリスチャンたちにひどい目にあわされられてもそうです。

 

その牧師や神父、クリスチャンたちは間違った信仰により、神さまに逆らい、聖書の教えを曲解させて悪いことをしています。

 

けれど、自分たちは正しい信仰で、正しい聖書解釈と福音理解だと確信しているので、たちが悪すぎます。

 

それゆえ、そのひどい目にあわされた人々にとっては、クリスチャンやイエス・キリストを憎むようになっても当然です。

 

聖書の教えを信じれば、その人々が地獄行きに定められることはあり得ません。

 

次は、その事に関連して、この日本において、神さまに大きく用いられているクリスチャンたちの証を見ていきます。

 

「日本におけるキリスト教 109 イエスの教えに聞き従うことについて」

 

★ 

「あなたがあなたの神、主の御声に聞き従うので、次のすべての祝福があなたに臨み、あなたは祝福される。

 

もし、あなたが、あなたの神、主の御声に聞き従わず、私が、きょう、命じる主のすべての命令とおきてとを守り行わないなら、次のすべてののろいがあなたに臨み、あなたはのろわれる。(申命記28章1~2,14~15節)」

 

そこで、イエスは言われた。「わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊があります。わたしはそれをも導かなければなりません。

 

彼らはわたしの声に聞き従い、一つの群れ、ひとりの牧者となるのです。(ヨハネの福音書10章16節)」

 

 

聖書の約束は、神さまを信じた人たちが、神さまの御声(教え)に聞き従うので祝福されますが、神さまの御声(教え)に聞き従わないならば、のろわれるということです。

 

 

イエスさまは、大祭司たちに次のように明確に宣言されました。

 

「なお、あなたがたに言っておきますが、今からのち、人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります。」

 

すると、大祭司は、自分の衣を引き裂いて言った。「神への冒瀆だ。これでもまだ、証人が必要でしょうか。あなたがたは、今、神をけがすことばを聞いたのです」

 

イエスさまは、大祭司たちが生存中に「来臨する」と言われたのに対して、聖霊に逆らう大祭司は「神への冒涜だ」と、「来臨」を否定したのです。

 

 

その後、十字架上でイエス・キリストは死なれ、三日後に復活されて、天の父の右の座に着かれました。

そして、大祭司たちはステパノを殺します。

 

その聖書箇所です。

 

11 そこで、彼らはある人々をそそのかし、「私たちは彼がモーセと神とをけがすことばを語るのを聞いた」と言わせた。

12 また、民衆と長老たちと律法学者たちを扇動し、彼を襲って捕らえ、議会にひっぱって行った

 

大祭司は、「そのとおりか」と尋ねた。

2 そこでステパノは言った。「兄弟たち、父たちよ。聞いてください。私たちの父アブラハムが、ハランに住む以前まだメソポタミヤにいたとき、栄光の神が彼に現れて、

 

3 『あなたの土地とあなたの親族を離れ、わたしがあなたに示す地に行け』と言われました。

 

〈中略〉

 

35 『だれがあなたを支配者や裁判官にしたのか』と言って人々が拒んだこのモーセを、神は柴の中で彼に現れた御使いの手によって、支配者または解放者としてお遣わしになったのです。

 

36 この人が、彼らを導き出し、エジプトの地で、紅海で、また四十年間荒野で、不思議なわざとしるしを行いました。

37 このモーセが、イスラエルの人々に、『神はあなたがたのために、私のようなひとりの預言者を、あなたがたの兄弟たちの中からお立てになる』と言ったのです。

 

51 かたくなで、心と耳とに割礼を受けていない人たち。あなたがたは、父祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっているのです。

 

52 あなたがたの父祖たちが迫害しなかった預言者がだれかあったでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを前もって宣べた人たちを殺したが、今はあなたがたが、この正しい方を裏切る者、殺す者となりました。

 

53 あなたがたは、御使いたちによって定められた律法を受けたが、それを守ったことはありません。」

 

54 人々はこれを聞いて、はらわたが煮え返る思いで、ステパノに向かって歯ぎしりした。

55 しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て、

56 こう言った。「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」

 

57 人々は大声で叫びながら、耳をおおい、いっせいにステパノに殺到した。

58 そして彼を町の外に追い出して、石で打ち殺した。

 

 

聖書が書かれている時代の「イエス・キリストを信じない人々」というのは、イスラエルの民が待ち望む「メシヤ(救世主)」である主イエス・キリストを殺し、その預言者たちも殺して、救いの福音を妨げる者たちだということが、詳細に教えられています。

 

「ユダヤ人は、主であられるイエスをも、預言者たちをも殺し、また私たちをも追い出し、神に喜ばれず、すべての人の敵となっています。

 

彼らは、私たちが異邦人の救いのために語るのを妨げ、このようにして、いつも自分の罪を満たしています。しかし、御怒りは彼らの上に臨んで窮みに達しました。第一テサロニケ2章15~16節」

 

このような者たちが、イエスさまの言われる「父親である悪魔の欲望を満たす者」であり、「聖霊に逆らう者」であり、「悪魔が蒔いた毒麦」です。

 

それゆえ、主イエスが来臨された時の最後の審判で、永遠の火に入るのです。つまり地獄行きです。

 

 

そして、その来臨の時ですが、信じない人が多いので何度も繰り返して伝えますが、

 

イエスさまは明確に、「なお、あなたがたに言っておきますが、今からのち、人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります。」と断言されました。

 

つまり、主イエスを裁いた大祭司たちが生存中に「来臨」されたのです。

 

この教えは、弟子たちにも宣言されていますし、使徒パウロも一致していて、次のように断言しています。

 

「私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。

 

主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、

 

次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。第一テサロニケ4章15~17節」

 

 

信じない人が多いために、また繰り返します。

 

聖書で使徒パウロを通した御言葉は明確にこのように教えられました。

 

「私たち(使徒パウロたち)は主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、」

 

「次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。」

 

 

主の御言葉通りに信じれば、つまり、主の御声(教え)に聞き従えば、主イエスの来臨は、主イエスを裁いた大祭司たちや、使徒パウロたちが生存中に成就しています。

 

そして、最後の審判が行われて、祝福されたイエスの羊たちは、空中で主と会い、それから永遠の命に入り、イエスの父の家に入りました。

 

それから、悪魔が蒔いた毒麦たちは、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入りました。

 

 

その主の来臨の日は、次のように詳細に教えられています。

「だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないからです。

 

彼は、すべての神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。

 

その時になると、不法の人が現れますが、主は御口の息をもって彼を殺し、来臨の輝きをもって滅ぼしてしまわれます。」

 

つまり、神殿(第二神殿)の中に、滅びの子が現われて座を設けますが、イエスさまの来臨の輝きをもって、滅びの子は滅びますので、滅びの子が出現している時に来臨されます。

 

 

以前の記事で紹介しましたが再度紹介します。

「Josephology」氏のブログ記事から

 

「ルカ19章44節の「訪れ」とは「主の来臨」に他ならない。さらにルカ21章21節において主イエス・キリストは、エルサレムが包囲されようとしている時にはその都を脱出すべきであると警告され、また地方にいる人々は山に逃げるべきでエルサレムがいかに堅固な都であろうとそこに入って籠城すべきではないとも警告された。

 

そしてルカによる福音書21章22節には、「それは書き記されていることがすべて成就される、報復の時だからである。」とあり、

 

ここにおいて主イエス・キリストは、エルサレムの滅亡(紀元七〇年)をもって旧約聖書の預言が全て成就し、旧約時代──すなわち、エルサレム神殿の時代が完全に終焉を迎えることを、明らかにされた。

 

引用以上

 

 

イエスさまが言われたように、第二神殿の終焉の時に、ダニエル書の預言が成就しています。

滅びの子が出現して、神殿の座に座り、神であることを宣言し、大患難時代が起きました。

 

 

そして、エルサレムの壊滅と共に,神殿を中心とする崇拝の取決めは終わりを告げました。

モーセの律法の特定な要求に従って再興されることはもうありません。

 

前回記事で詳しく書いた通り、エルサレムの地で「神殿」が再興されることは永久になくなりました。

 

 

なので、現在において「最後の審判で永遠の火に入れられた」

「悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入れ」

 

「悪魔が蒔いた毒麦」などという地獄行きの教えは必要がないことがわかります。

 

その聖書解釈と福音理解をしているクリスチャンたちは祝福されます。

 

聖書を読んでも、すべてのことに感謝できますし、心に愛・喜び・平安・寛容・親切・善意・誠実・柔和・自制の実が結ぶようです。

 

 

しかし、「まだイエス・キリストの来臨は起きていない。

これから、イエス・キリストの来臨が起きるのです。」

 

「まだ、滅びの子は出現していない。これから、滅びの子が出現するのです。」という聖書解釈と福音理解をしていれば、次のようにのろわれたようになります。

 

現在、主イエスを裁いた大祭司たち、主イエスを殺し、預言者たちも殺してきた、聖霊に逆らう人々は実在しません。

 

なので、最後の審判において「永遠の火に入る人々」を新たに定めなければならなくなるのです。

 

それで多くのキリスト教会では、「現在のイエス・キリストを信じない人々」を最後の審判において、永遠の火に入る人々に定めました。

 

日本の場合ですと、約99%の人々はイエス・キリストを信じていないという状況です。

 

それは、私たちが祖父母を通して知り得る昭和か明治か大正の時代もそうでした。

そればかりか、クリスチャンはいなかったとされる時代も長くあります。

 

それゆえ、自分だけがクリスチャンになっても、家族、親戚、友達。恩師、尊敬する人々、お世話になっている人々、その全員がイエス・キリストを信じていない状況に悩み苦しみ続けることになります。

 

まさに「のろい」の中にいます。

 

 

さらに「これから反キリスト(滅びの子)が出現する」

 

「反キリストによる大患難時代が来る。その前に空中再臨が起きて、神の御心のクリスチャンだけが救われる」などという教えで、不安や怖れの日々を過ごしています。

 

まさに二重、三重の「のろい」の中にいます。

 

 

聖書のイエスさまの教えをそのまま信じれば祝福されます。

 

そして、「のろい」の中にいることはあり得ません。

 

次は、イエス・キリストを信じないという理由で、地獄行きではないという教えを、イエスさまと使徒パウロたちが明確に教えられていることを見ていきます。

 

 

「日本におけるキリスト教 108 聖書の神殿は終焉していることについて」

 

「さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストが来られることと、そのみもとにわたしたちが集められることについてお願いしたい。

 

霊や言葉によって、あるいは、わたしたちから書き送られたという手紙によって、主の日は既に来てしまったかのように言う者がいても、すぐに動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたりしないでほしい。

 

だれがどのような手段を用いても、だまされてはいけません。

 

なぜなら、まず、神に対する反逆が起こり、不法の者、つまり、滅びの子が出現しなければならないからです。

 

この者は、すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して、傲慢にふるまい、ついには、神殿に座り込み、自分こそは神であると宣言するのです。

 

まだわたしがあなたがたのもとにいたとき、これらのことを繰り返し語っていたのを思い出しませんか。テサロニケの信徒への手紙二2章1~4節」

 

 

新約聖書に書かれている不法の者、つまり、滅びの子が出現して神殿に座り込む「神殿」とは、松田央神学博士のキリスト教研究「イエスと神殿」から抜粋して伝えます。

 

「イエスの時代の神殿は、ヘロデ大王の治世に修復されたものを指している。(ソロモン時代の神殿と王宮は焼き討ちにあった。列王記下25:1-9)

 

また、エゼキエル書40ー43章に従って建てられた。

 

イエスの生存中はまだ建設の途中であり、紀元64年、すなわちローマ軍によって永久に破壊されるユダヤーローマ戦争勃発の一か月前にようやく完成したのである。」

 

引用以上

 

松田神学博士は「神殿」はローマ軍によって永久に破壊されたと表現しています。

 

 

「神殿は永久に破壊された」という理由について述べていきます。

 

プロテスタント教会や多くのキリスト教会では、「まだ不法の者、つまり、滅びの子は出現していない。これから出現するのです。」という聖書解釈と福音理解です。

 

それゆえ、これから「第三神殿」が建設されなければならなくなります。

 

佐野剛史(一般社団法人クリスチャンコモンズ代表理事)のブログ「終末預言を読み解く:第三神殿の再建」から抜粋します。

 

「ソロモン王の建てた第一神殿には、神の臨在(シャカイナグローリー)がありました(2歴代誌7:1~3)。

 

バビロン捕囚後に総督ゼルバベルが建てた第二神殿には、主の臨在はありませんでしたが、主の祝福が約束されていました(ハガイ2:1~9)。

 

しかし、第三神殿には、主の臨在も、主の祝福の約束もありません。イザヤ66:1~4には、次のような主のことばが記されています。

 

1 【主】はこう言われる。「天はわたしの王座、地はわたしの足台。あなたがたがわたしのために建てる家は、いったいどこにあるのか。わたしの安息の場は、いったいどこにあるのか。

2 これらすべては、わたしの手が造った。それで、これらすべては存在するのだ。──【主】のことば──わたしが目を留める者、それは、貧しい者、霊の砕かれた者、わたしのことばにおののく者だ。

 

3 牛を屠る者が、人を打ち殺す者。羊をいけにえにする者が、犬の首を折る者。穀物のささげ物を献げる者が、豚の血を献げる者。乳香を記念として献げる者が、偶像をたたえる者。実に彼らは自分の道を選び、そのたましいは忌まわしいものを喜ぶ。

4 わたしも彼らを厳しく扱うことを選び、彼らに恐怖をもたらす。それは、わたしが呼んでもだれも答えず、わたしが語りかけても聞かず、わたしの目に悪であることを行い、わたしの喜ばないことを選んだからだ。」

 

ここでは、神殿を建てる者への祝福や励ましのことばはありません。むしろ、厳しい叱責の言葉があります。

 

それは、神殿を建てる人々が、主が語ったみことば(聖書)に聞き従わないためです。

 

神殿では、祭壇で牛、羊、穀物、乳香などをささげますが、そうしたものがすべて、豚の血や偶像など汚れた忌まわしいものと見なされます(3節)。

 

第三神殿は、反キリストが神性宣言を行う『反キリストの神殿』となり、神に真の礼拝をささげる場所とはなりません。」

 

引用以上

 

 

聖書を読めばわかりますが、聖書には第三神殿への記述はありません。それなのに第三神殿は建設されるという思考を持てば、

「第三神殿は、反キリストが神性宣言を行う『反キリストの神殿』となり、神に真の礼拝をささげる場所とはなりません。」と言わざる得ません。

 

さらに、神殿が再建されない大きな理由があります。

 

「目覚めよ!」のブログ記事「聖書の見方 奇跡的な霊の賜物はやみましたか」の中で次のように説明しています。

 

「しかし今日では,崇拝に関する変化が起きたことを証明するための奇跡的な賜物は必要ではありません。

 

たとえエルサレムの神殿がまだ存在しているとしても,アロンの家系の出で,聖所で務めを行なう資格があると言えるユダヤ人はだれもいないからです。

 

ですから,モーセの律法に記されている神殿での奉仕を行なうことはできません。なぜですか。それはモーセの律法が,アロンの家系でない者が祭司の務めに携わることを禁じていたからです。(民数 3:10; 18:7)

 

西暦前六世紀にバビロン捕囚から帰還したものの,アロンの家系に属することを証明できなかったある人々が,祭司として奉仕するのを禁じられたのは,そうした理由からでした。―エズラ 2:61,62。

 

それで西暦70年のローマ人の軍隊によるエルサレムの壊滅と共に,神殿を中心とする崇拝の取決めは終わりを告げました。

 

モーセの律法の特定な要求に従って再興されることはもうありません。

 

真の崇拝がもはやエルサレムの実際の神殿に依存していないこと,また「霊と真理をもって」イエス・キリストを通して近づくのを至高者が望んでおられることを証明するための奇跡は,必要とされなくなりました。―ヨハネ 4:23,24; 14:6。

 

また次の点も注目に値します。すなわち,奇跡的な霊の賜物はそれらが一時的なものであることを示唆するような仕方で伝授されたということです。

 

聖書の示すところによると,奇跡的な賜物は使徒パウロや,12使徒の一人あるいは数人のいる前で与えられました。―使徒 2:1,4,14; 10:44-46; 19:6。」

 

引用以上

 

 

もしも、エルサレムで神殿を新たに建設したとしても、モーセの律法が,アロンの家系でない者が祭司の務めに携わることを禁じているために、モーセの律法に記されている神殿での奉仕を行なうことは出来ないのです。

 

それゆえ、これからエルサレムで神殿を建設しても、「聖なる場所」ではなく、第二神殿のレプリカの公共施設ということになります。

 

そして、世界中のユーチューバーたちがそのエルサレムの第二神殿のレプリカの公共施設に押し寄せて、「聖なる場所に立ち、私がイエス・キリストです!」と宣言する聖書の預言のパロディ動画を撮影して拡散することになるでしょう。

 

まして、そのような神殿を真似した公共施設に滅びの子(反キリスト)が出現しても、もはやお笑いであり、茶番劇のようです。

 

なので、モーセの律法に反して、神の臨在も神の祝福もなく、聖なる場所でもない「第三神殿」が建設されることはあり得ないでしょう。

 

 

ですから、第二神殿の時に滅びの子が出現して、神殿に座り込み、ダニエル書の預言が成就し、大患難時代がありました。

 

そして、クリスチャンとして、このイエスさまの御言葉を心に持ち続けて、イエスさまの預言が成就したことを信じます。

 

「偽証者がたくさん出て来たが、証拠はつかめなかった。しかし、最後にふたりの者が進み出て、言った。「この人は、『わたしは神の神殿をこわして、それを三日のうちに建て直せる』と言いました。」

 

そこで、大祭司は立ち上がってイエスに言った。「何も答えないのですか。この人たちが、あなたに不利な証言をしていますが、これはどうなのですか。」

 

しかし、イエスは黙っておられた。それで大祭司はイエスに言った。「私は、生ける神によって、あなたに命じます。あなたは神の子キリストなのか、どうか。その答えを言いなさい。」

 

イエスは彼に言われた。「あなたの言うとおりです。なお、あなたがたに言っておきますが、今からのち、人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります。」

 

すると、大祭司は、自分の衣を引き裂いて言った。「神への冒瀆だ。これでもまだ、証人が必要でしょうか。あなたがたは、今、神をけがすことばを聞いたのです。マタイによる福音書26章61~65節」

 

 

聖書の中で、イエスさまが言われた通りに、大祭司たちが生存中に、主イエス・キリストの来臨を見たのです。

 

そして、聖書に教えられている通りに、主の来臨時に、パウロたちは空中で主イエスと会いました。

 

神殿は壊されて、イエスの来臨があり、羊と山羊とに分けられて、最後の審判が行われました。

 

イエスの羊たちは新しいイエス・キリストの体である神殿にいるのです。

 

「イエスは答えて言われた。『この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。』

それでユダヤ人たちは、『この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか』と言った。

 

イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。

 

イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。ヨハネによる福音書2章19~22節」

 

神殿について聖書を見ていけば、イエスの来臨にも繋がります。

 

使徒パウロが教えている通りに、だれがどのような手段を用いても、だまされてはいけません。

 

 

「日本におけるキリスト教 107 しるしを要求するユダヤ人と日本人は違うことについて」

 

今回はそもそも、どうして主イエス・キリストは、イスラエルの地での福音宣教において「奇跡としるし」を成されたのかを見ていきます。

 

「ユダヤ人はしるしを要求し、第一コリント1:22」という理由は、イスラエルの神がモーセのような預言者一人(キリスト)を立てると預言され、だれでも彼の言葉に聞き従わない者は責任を追及すると命じられたからです。

 

「主はそのときわたし(モーセ)に言われた。『彼らの言うことはもっともである。 わたしは彼らのために、同胞の中からあなたのような預言者を立ててその口にわたしの言葉を授ける。彼はわたしが命じることをすべて彼らに告げるであろう。

彼がわたしの名によってわたしの言葉を語るのに、聞き従わない者があるならば、わたしはその責任を追及する。』申命記18章17~19節」

 

 

イスラエルの神は、エジプトで奴隷となっていたイスラエルの民を救い出すリーダー信仰者にモーセを選ばれました。

 

しかし、その事をイスラエルの民が信じることができるのか?と懐疑的なモーセに、イスラエルの神は「神から遣わされたという奇跡としるし」を与えられたのです。

 

「モーセは答えて申し上げた。「ですが、彼らは私を信ぜず、また私の声に耳を傾けないでしょう。『主はあなたに現れなかった』と言うでしょうから。」

 

主は彼に仰せられた。「あなたの手にあるそれは何か。」彼は答えた。「杖です。」

すると仰せられた。「それを地に投げよ。」彼がそれを地に投げると、杖は蛇になった。モーセはそれから身を引いた。

 

主はまた、モーセに仰せられた。「手を伸ばして、その尾をつかめ。」彼が手を伸ばしてそれを握ったとき、それは手の中で杖になった。

「これは、彼らの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主があなたに現れたことを、彼らが信じるためである。」

 

主はなおまた、彼に仰せられた。「手をふところに入れよ。」彼は手をふところに入れた。そして、出した。なんと、彼の手はツァラアトに冒され、雪のようになっていた。

 

また、主は仰せられた。「あなたの手をもう一度ふところに入れよ。」そこで彼はもう一度手をふところに入れた。そして、ふところから出した。なんと、それは再び彼の肉のようになっていた。

 

「たとい彼らがあなたを信ぜず、また初めのしるしの声に聞き従わなくても、後のしるしの声は信じるであろう。

もしも彼らがこの二つのしるしをも信ぜず、あなたの声にも聞き従わないなら、ナイルから水を汲んで、それをかわいた土に注がなければならない。あなたがナイルから汲んだその水は、かわいた土の上で血となる。出エジプト4章1~9節」

 

 

イスラエルの神が、イスラエルの民を救い出されたのは「奇跡としるし」が伴いました。

紅海が真っ二つに分かれて、イスラエルの民は海の底を歩いて脱出に成功した話は有名ですね。

 

それゆえ、ユダヤ人はしるしを要求しましたし、主イエス・キリストが救世主キリストである証明として、奇跡としるしを行なわれました。

 

「もしわたしが、わたしの父のみわざを行っていないのなら、わたしを信じてはなりません。しかし、行っているのなら、たとえわたしが信じられなくても、わたしのわざを信じなさい。

それは、父がわたしにおられ、わたしも父にいることを、あなたがたが知り、また深く理解するようになるためです。ヨハネによる福音書10章37~39」

 

ですから、イスラエルの地での福音宣教は次の通りです。

奇跡としるしを体験したり、見たりした大勢の群衆がイエスにつき従いました。

 

「イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。

 

イエスのうわさはシリヤ全体に広まった。それで人々は、さまざまな病気や痛みに苦しむ病人、悪霊につかれた人、てんかんの人、中風の人などをみな、みもとに連れて来た。イエスは彼らをいやされた。

 

こうしてガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤおよびヨルダンの向こう岸から大ぜいの群集がイエスにつき従った。マタイによる福音書4章23~25」

 

 

しかしながら、「異邦人」は、イスラエルの神がモーセを通して、奇跡としるしを行なわれることによって、イスラエルの民を救い出されたという話は関係ありませんし、他人事です。

 

ですから、異邦人のところへの福音宣教に遣わされた使徒パウロとバルナバも初めは「奇跡としるし」を行なう福音宣教でしたが、次のような事になりました。

 

(前回記事で、奇跡としるしを行なう限られた信仰者の中に、バルナバの名前を一緒に書いていたつもりが、うっかり書き忘れたので、きちんと書いておきます。)

 

イコニオムでも、ふたりは連れ立ってユダヤ人の会堂に入り、話をすると、ユダヤ人もギリシヤ人も大ぜいの人々が信仰に入った。

 

しかし、信じようとしないユダヤ人たちは、異邦人たちをそそのかして、兄弟たちに対して悪意を抱かせた。

 

それでも、ふたりは長らく滞在し、主によって大胆に語った。主は、彼らの手にしるしと不思議なわざを行わせ、御恵みのことばの証明をされた。

 

ところが、町の人々は二派に分かれ、ある者はユダヤ人の側につき、ある者は使徒たちの側についた。

 

異邦人とユダヤ人が彼らの指導者たちといっしょになって、使徒たちをはずかしめて、石打ちにしようと企てたとき、

ふたりはそれを知って、ルカオニヤの町であるルステラとデルベ、およびその付近の地方に難を避け、そこで福音の宣教を続けた。

 

ルステラでのことであるが、ある足のきかない人がすわっていた。彼は生まれつき足のなえた人で、歩いたことがなかった。

 

この人がパウロの話すことに耳を傾けていた。パウロは彼に目を留め、いやされる信仰があるのを見て、

大声で、「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」と言った。すると彼は飛び上がって、歩き出した。

 

パウロのしたことを見た群集は、声を張り上げ、ルカオニヤ語で、「神々が人間の姿をとって、私たちのところにお下りになったのだ」と言った。

 

そして、バルナバをゼウスと呼び、パウロがおもに話す人であったので、パウロをヘルメスと呼んだ。

 

すると、町の門の前にあるゼウス神殿の祭司は、雄牛数頭と花飾りを門の前に携えて来て、群集といっしょに、いけにえをささげようとした。

 

これが聞いた使徒たち、バルナバとパウロは、衣を裂いて、群集の中に駆け込み、叫びながら、言った。『皆さん。どうしてこんなことをするのですか。私たちも皆さんと同じ人間です。

 

そして、あなたがたがこのようなむなしいことを捨てて、天と地と海とその中にあるすべてのものをお造りになった生ける神に立ち返るように、福音を宣べ伝えている者たちです。』使徒の働き14章1~15」

 

 

このように、異邦人の場合は、しるしを要求するイスラエルと民とはまったく違う結果になります。

 

ですから、使徒パウロは福音宣教において「奇跡としるし」を基本的に封印するようになります。

 

使徒の働き17章~18章でのテサロニケ、べレヤ、アテネ、コリントでは「奇跡としるし」を行なわない福音宣教になっています。

 

そして、使徒の働き19章のエペソでの福音宣教においても次の通りです。

 

「それから、パウロは会堂に入って、三か月の間大胆に語り、神の国について論じて、彼らを説得しようと努めた。

 

しかし、ある者たちが心をかたくなにして聞き入れず、会衆の前で、この道をののしったので、パウロは彼らから身を引き、弟子たちをも退かせて、毎日ツラノの講堂で論じた。

 

これが二年の間続いたので、アジヤに住む者はみな、ユダヤ人もギリシヤ人も主のことばを聞いた。

 

神はパウロの手によって驚くべき奇蹟を行われた。

パウロの身に付けている手ぬぐいや前掛けをはずして病人に当てると、その病気は去り、悪霊は出て行った。」

 

 

パウロは会堂に入って、三か月の間大胆に語り、神の国について論じて、彼らを説得しようと努めたのです。

 

それから後、毎日ツラノの講堂で論じた。これが二年の間続いたので、アジヤに住む者はみな、ユダヤ人もギリシヤ人も主のことばを聞いた。という福音宣教でした。

 

ところが、神がパウロの手によって驚くべき奇蹟を行なわれたのでした。

 

イスラエルの地において、11弟子たちの福音宣教は、

「主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。」という福音宣教でした。

 

初めから「奇跡としるし」が伴っているのです。

「しるし」によって旧約聖書に記されている御言葉を確かなものとされました。

 

 

なので、旧約聖書の教えなど知らない人が圧倒的に多い「現代の日本」で、もし驚くべき「奇跡としるし」を行なう人物が出現したら、その人物が「神」のように崇められるでしょう。

 

当然に日本人は、聖書のイスラエルの民とは違って、「奇跡としるし」は、イエス・キリストには繋がりません。

 

また、イエスさま御自身が、イスラエルの民にこのように言われました。

 

「 イエスは、心の中で深く嘆息して、こう言われた。『なぜ、今の時代はしるしを求めるのか。まことに、あなたがたに告げます。今の時代には、しるしは絶対に与えられません。』マルコ 8:12 」

 

「さて、群衆の数がふえてくると、イエスは話し始められた。『この時代は悪い時代です。しるしを求めているが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。

 

というのは、ヨナがニネベの人々のために、しるしとなったように、人の子がこの時代のために、しるしとなるからです。』ルカの福音書11章29-32節」

 

ですので、この御言葉が現代の世界及び日本にとって重要なことがわかります。

 

そして、決定的なことを次回に見ていきましょう。

 

すると、イエス・キリストの来臨も使徒パウロたちが空中で主と会ったという御言葉が既に成就していることにも繋がっていることがわかります。

 

「日本におけるキリスト教 106 奇跡を行なうクリスチャンについて」

 

前回記事からの続きの聖書箇所を見ていきます。

 

「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、

蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」

 

この聖書箇所だけを切り取れば、イエス・キリストを信じたクリスチャンたちは皆、イエスの御名によって悪霊を追い出し、病人を癒すことが出来ると思います。

 

しかし、聖書をよく見れば、その聖書箇所の「信じる人々」=「11弟子」ということであり、11弟子が特別に手を置いたクリスチャンということが理解できます。

 

なぜなら、クリスチャンの中で、悪霊を追い出したり、病いを癒やしているのは11弟子と11弟子が特別に手を置いた7名の中のピリポ、そして使徒パウロだけなのですから。

 

もう1人「ステパノ」も不思議なわざと「しるし」を行なっていたので、病いを癒やしていたと解釈することが出来ます。

 

 

11弟子(イスカリオテのユダを除く)については次のように明確に教えられています。

 

「イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやすためであった。

 

さて、十二使徒の名は次のとおりである。まず、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、

ピリポとバルトロマイ、トマスと取税人マタイ、アルパヨの子ヤコブとタダイ、 熱心党員シモンとイエスを裏切ったイスカリオテ・ユダである。マタイによる福音書10章1~4節」

 

 

「また、使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議なわざが人々の間で行われた。みなは一つ心になってソロモンの廊にいた。

 

ほかの人々は、ひとりもこの交わりに加わろうとしなかったが、その人々は彼らを尊敬していた。

そればかりか、主を信じる者は男も女もますますふえていった。

 

ついに、人々は病人を大通りへ運び出し、寝台や寝床の上に寝かせ、ペテロが通りかかるときには、せめてその影でも、だれかにかかるようにするほどになった。使徒の働き5章12~15節」

 

この聖書箇所を見れば、使徒たちだけが、多くのしるしと不思議なわざを人々の間で行うことが出来たことがわかります。

 

ですから病人たちは大通りで、使徒ペテロが通りかかるまで待つ必要があったのです。

 

もしも、イエス・キリストを信じた人々は皆、「しるし」を行なうことが出来たなら、「使徒たちの手によって」ということにはならないはずです。

 

また、病人たちが大通りに運び出されて、使徒ペテロが通りかかるまで待つ必要はありません。

他の多くのクリスチャンの誰か1人に頼めばいいのですから。

 

 

次に11弟子以外に、悪霊を追い出したり、病いを癒やしたりする「しるし」を行なっているクリスチャンがいるのか調べてみました。

 

「この提案は全員の承認するところとなり、彼らは、信仰と聖霊とに満ちた人ステパノ、およびピリポ、プロコロ、ニカノル、テモン、パルメナ、アンテオケの改宗者ニコラオを選び、

この人たちを使徒たちの前に立たせて、そこで使徒たちは祈って、手を彼らの上に置いた。

 

こうして神のことばは、ますます広まって行き、エルサレムで、弟子の数が非常にふえて行った。そして、多くの祭司たちが次々に信仰に入った。

 

さて、ステパノは恵みと力とに満ち、人々の間で、すばらしい不思議なわざとしるしを行っていた。使徒の働き6章5~8節」

 

 

「ピリポはサマリヤの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた。

群集はピリポの話を聞き、その行っていたしるしを見て、みなそろって、彼の語ることに耳を傾けた。

 

汚れた霊につかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫んで出て行くし、多くの中風の者や足のなえた者は直ったからである。

それでその町に大きな喜びが起こった。使徒の働き8章5~8節」

 

 

その11弟子(当時、マッテヤという弟子がイスカリオテのユダの代わりに抜擢されて12弟子となっていた)が手を置いたピリポは「しるし」を行なっていました。

 

多くの人たちの悪霊を追い出し、多くの人たちの病いは直されたのです。

 

それで、サマリヤの人々はイエス・キリストを信じて、バプテスマを受けていたのですが、聖霊が与えられなかったのです。

なので、使徒たちに依り頼む必要があったのです。

 

「ピリポが神の国とイエス・キリストの御名について宣べるのを信じた彼らは、男も女もバプテスマを受けた。

 

シモン自身も信じて、バプテスマを受け、いつもピリポについていた。そして、しるしとすばらしい奇蹟が行われるのを見て、驚いていた。

 

さて、エルサレムにいる使徒たちは、サマリヤの人々が神のことばを受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネを彼らのところへ遣わした。

ふたりは下って行って、人々が聖霊を受けるように祈った。

 

彼らは主イエスの御名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊がまだだれにも下っておられなかったからである。

ふたりが彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。

 

使徒たちが手を置くと御霊が与えられるのを見たシモンは、使徒たちのところに金を持って来て、

「私が手を置いた者がだれでも聖霊を受けられるように、この権威を私にも下さい」と言った。

 

ペテロは彼に向かって言った。「あなたの金は、あなたとともに滅びるがよい。あなたは金で神の賜物を手に入れようと思っているからです。」(使徒の働き8章12~20節)

 

 

シモンの金で神の賜物を手に入れようと思っているのは論外ですが、「しるし」を行なっているピリポでさえ、聖霊を授ける権威がなかったのです。

 

当然ながら、ピリポの「しるし」を通して、イエス・キリストを信じた人々が、ピリポと同じ「しるし」を授けられるはずがないと言えるでしょう。

 

 

聖書を見れば「しるし」を行なえたのは、11弟子とピリポとステパノ、使徒パウロとバルナバだけです。

 

残念ながら、他のクリスチャンが「しるし」を行なったという記述は、聖書のどこにも書かれていないのです。

 

ですので、イエスさまは次のように警告されたのです。

 

「あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。

 

わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。

 

その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ。主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』

 

しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』

 

だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。マタイによる福音書7章20~24節」

 

 

悪霊を追い出したり、病いを直すことは素晴らしいことです。

 

その事をイエスさまに切に祈り、癒やしを求めなさいと聖書は教えています。

 

しかし、それは「しるし」ではなく、神さまとその人との関係だということです。

 

私たちは、イエスさまから特別に「しるし」を授けられた11弟子やピリポ、ステパノ、使徒パウロ、バルナバと同じクリスチャンではないことを素直に認めなければ、非常に恐ろしいことになります。

 

なぜなら、現在、「私は、11弟子と同じような信仰者です」というように、病いを癒やしたりする「しるし」を行なえると自負していたり、目指したりするクリスチャンたちが大勢いるからです。

 

次回はその事について、さらに見ていきます。

 

 

 

「日本におけるキリスト教 105 聖書のキリストの使徒たちと現在のクリスチャンの違いについて」

 

前回の続きです。クリスチャンにとっても未信者にとっても見過ごすことはできない非常に重要な教えについてみていきます。

 

「イエスは彼らにこう言われた。『全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。

信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。

 

信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、

蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。』

 

主イエスは、彼らにこう話されて後、天に上げられて神の右の座に着かれた。

そこで、彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。

 

主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。〕

 

 

このイエスさまの教えだけを切り取れば、イエス・キリストを信じた人々(クリスチャン)は救われて、イエスの御名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、蛇をもつかみ、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば病人はいやされるという「しるし」が伴います。

 

さらに全世界に出て行って、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなければなりません。

 

それから、その福音を聞いて、イエス・キリストを信じた人々も当然に同じ「しるし」が伴います。

 

そして、イエス・キリストを信じない者は罪に定められます。

 

つまり、イエス・キリストを信じないまま死んでしまえば、最後の審判で永遠の火に投げ込まれる運命という解釈が成立します。

 

 

さて、前回記事で、このイエスさまの教えは誰に教えられたのか?ということが最も重要だと言いました。

それは「イエスは、その十一人が食事に着いているところに現れて、」と書かれてある通り、11弟子に教えられたことです。

 

その11弟子は、全世界に出て行ったのでしょうか?

 

また、11弟子たちが福音を宣べ伝え、その福音を聞いて信じた人々は、11弟子と同じ「しるし」が伴ったでしょうか?

 

 

まずは、11弟子たちがイエスさまから全世界に出て行きなさいと命じられてから、全世界に出て行ったのかを見てみます。

 

日本人が「全世界に出て行って」と聞けば、世界中の各国を行き渡ったと思います。

 

ですが、聖書が教えていることだけで判断すれば、11弟子は日本人が思うような全世界を行き渡ったわけではありません。

 

また、その後、異邦人に福音をゆだねられた「使徒パウロ」もそうでした。

世界地図で言えば、地中海周辺の一部の地域という印象を持ちます。

 

(使徒ペテロと使徒パウロの宣教に行った各地の画像を最後に載せます)

 

 

そして、「全世界に出て行って」と命じられてから後、一同は聖霊に満たされてからも、エルサレムにとどまり続けたのです。

 

それから大迫害が起こりますが、それでもまだ11弟子たち(使徒たち)はエルサレムにとどまりましたが、使徒たち以外のクリスチャンは皆、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされました。

 

「サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、

使徒たち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされた。使徒の働き8章1節」

 

その後、11弟子の1人ヤコブはヘロデ王が手を伸ばして剣で殺されました。(使徒の働き12章1~2節)

 

結局、ヤコブは全世界に出て行くことはなかったのです。

 

また、ガラテヤ書2章7~8節には使徒パウロはこのように教えています。

 

「それどころか、ペテロが割礼を受けた者への福音をゆだねられているように、私が割礼を受けない者への福音をゆだねられていることを理解してくれました。

 

ペテロのみわざをなして、割礼を受けた者への使徒となさった方が、私にもみわざをなして、異邦人への使徒としてくださったのです。」

 

割礼を受けた者とは「ユダヤ人」です。

使徒ペテロはユダヤ人への福音をゆだねられているので、全世界に出て行って、異邦人へ福音を伝えて行くことは使徒パウロにゆだねられているという理解でした。

 

 

その後、使徒ペテロは四散したユダヤ人(ダイアスポラ) にもっぱら福音を宣べ伝えたと言われています。

 

また、イエスさまが来臨される場所で待ち続ける必要がある弟子もいました。

そして、イエスさまが望まれた通りに、使徒ヨハネはイエスさまの来臨まで生きながらえたことでしょう。

 

ですから、11弟子たちに命じられた「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」というイエスさまの教えは、現代の日本人の思考で考えると矛盾することになります。

 

この「全世界」という意味は「ユダヤ人世界」という意味だと解釈すれば、11弟子がエルサレムにとどまり続けたことと矛盾はなくなります。

 

次は、使徒パウロの異邦人への福音宣教について、「しるし」について見ていきます。

使徒ペテロが巡回した町や地方

 

使徒パウロの第一次~第四次伝道宣教地

 

「日本におけるキリスト教 104 キリストを信じる者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受けるという教えについて」

 

おそらく多くの人が人間関係において、最も嫌いなタイプの1つがこのタイプでしょう。

 

自分は良くて、他人はダメ(自分にすごく甘くて、他人にすごく厳しい)というタイプです。

 

なぜなら、そういうタイプは、自分を自己中心的に愛して、他人を愛していないということの証明にもなるからです。

 

こういうタイプの社長や上司の会社に就職したら最悪です。辞めることを考えるでしょう。

 

 

今度は、聖書の教えを見ていきます。

 

「そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。 「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」

 

イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 これが最も重要な第一の掟である。

第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。(マタイによる福音書22章35~40節)」

 

なので、クリスチャンになれば、自分は良くて、他人はダメという思考を捨て去ります。

 

また、聖書の教えも「隣人を自分のように愛しなさい。」という教えによって解釈していきます。

 

 

それでは、次の御言葉の聖書解釈と福音理解を見ていきます。

 

「その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。

 

それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。

 

信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。

 

信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。 手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」

 

主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。

 

一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。

 

主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。〕マルコによる福音書16章14~20節」

 

 

ここで大きな問題になるのが、「信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。」という教えです。

 

これでは、「隣人を自分のように愛しなさい。」という教えと二律背反のようになってしまいます。

 

しかし、この聖書箇所もこれまでのように、イエスさまは誰に教えているのか明確にされているので、詳しく解釈していくと、決して二律背反の教えではないので安心します。

 

 

この聖書箇所は、イエスさまが復活されている時期の、十一人の弟子に対して教えられました。

 

そして、イエス・キリストを信じる者は「しるし」が伴うことが最も重要です。

 

「信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。 手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」

 

弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。

 

主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。

 

 

つまり、十一弟子たちの宣教は、イエスの御名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。 手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。という「しるし」が伴う宣教でした。

 

そして、イエス・キリストを信じていない人々は、その「しるし」によって、十一弟子たちの語る言葉が真実であると知って、イエス・キリストを信じたのです。

 

「主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。」と聖書に書かれている通りです。

 

 

さて、現在のイエス・キリストを信じたクリスチャンたちは、どうでしょう?

その「しるし」が伴っているでしょうか?

 

この聖書箇所で言えば、伴うしるしがなければ、クリスチャンたちが語る言葉が真実であるか、わからないはずです。

 

それにも関わらず、イエス・キリストをまだ信じていない隣人に対して、この聖書箇所の一部分「信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。」だけを教えているとすれば、アンフェアすぎるでしょう。

 

非常に悪質な話になります。

 

そもそも、伴うしるしがなければ、イエス・キリストを信じていない人ということになります。

 

 

また、こういう話をすれば、「私たちの教会では、たくさんの『しるし』が行われています!私たちには『しるし』が伴っていますよ!」と自信満々に断言する牧師や牧師婦人、宣教師、伝道師、クリスチャンたちが少なくありません。

 

そして、誰かの末期がんが癒されたとか、いくつかの奇蹟が行われたとか言いますが、そういう話は、他の宗教や神さまを信じない人々にも起こっている同じ程度の話です。

 

聖書の弟子たちに伴うしるしは、多くの群衆がイエス・キリストを信じたり、人々が尊敬したり、その町に喜びが起こるほどのものです。

 

まったくレベルが違うと思います。

 

次回はその事について、また十一弟子たちだけに伴うしるしについて、そして「伴うしるし」がなければ、クリスチャンと言えないのでしょうか?

 

本当に信じない者は滅びの宣告を受けるのでしょうか?

 

聖書の教えを詳しく見ていくと安心することになります。