朝目覚めの入浴で刺激の少ない館内の温泉「白樺の湯」へ。しかしながら予想以上であったのが半露天風呂です。まるで額縁に飾られた東山魁夷の絵画「緑響く」のような浴槽を湖面と見立てて木々の緑が映る眺めを楽しませてくれます。
内湯は大きな窓が特徴の明るく開放的な浴室になっています。どちらも弱アルカリミネラル泉なので優しいお湯です。
今日の行程は「山寺」を堪能して宮城県側の「作並温泉」で自慢の露天風呂を浸かることが目的なのです。俳聖芭蕉がこの地を訪れ329年。立石寺や仁王門、弥陀洞を訪ねると、芭蕉が残した風景に出会え、澄み渡る群青の空に浮かぶ五大堂を眺めると、その雄大さに時が経つのを忘れてしまいます。さあ!山寺に出発します。一般に「山寺」と言うと、石段がたくさんある険しい所といったイメージですが、現在は石段も整備され大変登りやすくなっています。数多くのお堂に手を合わせ、周囲の景色を楽しみながら山道を登り、ゆっくりとした時間がたのしめます。
東北の霊場、通称「山寺」と言われるが、正式には「宝珠山立石寺」と言い、平安時代の初め貞観2年(860)、第三世天台座主慈覚大師円仁によって開山された天台宗のお寺です。1015段の石段が連なる静寂に包まれた参道が続き、俳人・松尾芭蕉が「閑かさや 岩にしみ入る 蝉の声」の名句を残しています。当時と比べれば規模が小さくなったとはいえ、現在も33万坪のもの境内地を持ち、その中に大小30余りの堂塔が残されています。
先ずは車を参拝者専用無料駐車場に入れます。ここは立石寺登山口手前の「そば処信敬坊」横の細い道を上がったところにあります。登山口の階段を上った正面の「根本中堂」から山寺巡りはスタートです。延文元年(1356)初代山形城主/斯波兼頼が再建した入母屋造5間4面の建物でブナ材の建築物では日本最古と言われます。伝教大師が比叡山に灯した灯りを立石寺に分けた不滅の法灯を拝することができます。
根本中堂の前に祀られた布袋様の像、お腹を撫でてお参りをするといいことがあるとか。
地続きの左隣には「日枝神社」。立石寺の守り神として近江国坂本から勧進されました。「山王権現」とも呼ばれています。
宝物殿前には「芭蕉・曽良像」があります。元禄2年(1689)「奥の細道」で芭蕉は尾花沢から日本海を目指して西へ向かうつもりでしたが、土地の人々に一見を勧められて南へ8里余の立石寺まで足を延ばしたのです。
いよいよ「山門」からの石段コースが始まります。山門から大仏殿のある奥之院までの石段は800段を越えます。鎌倉時代建造の歴史を感じさせる茅葺き屋根の門は風情があります。
山門をくぐると石段は少し急になりますが、ゆっくり登れば恐れることはありません。両脇に並ぶのは西国三十三ヶ所のご本尊を模した石仏です。
「姥堂」には三途の川で閻魔大王の助手を務める奪衣婆の石像が祀られています。ここから下は地獄、ここから上が極楽という浄土口で、かつて参拝者は、そばの石清水で心身お清め、新しい着物に着替えて極楽に登り、古い衣服は堂内の奪衣婆に奉納するのです。
左の大きな岩は笠岩といい慈覚大師が雨宿りをしたところとも伝わります。
お山の自然に沿ってつくられたこの参道は、昔からの修行者の道です。一番せまいとことは約14cmの4寸道で、開山・慈覚大師の足跡をふんで私たちの先祖も子孫も登ることから親子道とも子孫道ともいわれます。
ここを抜けると「せみ塚」です。芭蕉が「閑かさや・・・」の句の着想を得た場所ではないかといわれ、最上林崎の俳人・坂部壺中らが、昭和6年(1769)に、芭蕉が書いた短冊を埋めて塚を建てました。登山口から石段を420段ほど登ったところ、樹木が鬱蒼と茂る長い階段の中腹に立ちます。
蝉塚の東にある「弥勒洞」は長い歳月の雨風が直立した岩を風化させ、阿弥陀如来像を彷彿とさせることからの名称です。1丈6尺(約4.8m)の姿から丈六の阿弥陀ともいい、仏のお姿に見ることができた人には幸福が訪れるといいます、岩肌には板碑型の供養碑が刻まれています。ここから奥之院まで580余段です。
さらに登ると嘉永元年(1848)に再建された、ケヤキ造りの美しい門「仁王門」が見えてきます。左右には運慶13代の後裔・平井源七郎たちが作ったと伝わる仁王尊像と十王尊像が安置されていて、邪心をもつ人は登ってはいけないと睨みつけています。ここから奥之院まで360余段です。
先に奥之院に向かうこともできますが、今回は「納経堂・開山堂」から「五大堂」を先に見にいくことにしました。立石寺を開いた慈覚大師の木造の尊像が安置された大師の霊廟である開山堂、その隣の百丈岩の上に位置する小さな赤い祠は、写経が納められた納経堂です。慶長4年(1599)に山形城主・最上義光によって建てられた山寺で一番古いお堂で、その真下に貞観6年(864)歿の慈覚大師が眠る入定窟があります。
さらに頭上の建物は五大堂といい、正徳4年(1714)に再建された舞台造りのお堂です。宝珠山を守る五大明王を祀って天下太平を祈る道場として、山寺開山30年後に慈覚大師の弟子・安然が建立しました。眼下に山里に囲まれたのどかな町並みを見下ろせる山寺随一の展望台です。
五大堂から開山堂、納経堂を見下ろせば、杉木立の中、奇岩が折り重なるようにして続き、霊場ならではの厳粛さと静寂が満ちています。この3つは山寺を代表する建造物です。
奥之院を目指します。山寺の中でもここがもっとも高い場所で、海抜417m、参道の終点になります。正面右側の古いお堂の正式な名称は「如法堂」で、慈覚大師が中国で修行中に持ち歩いた釈迦如来と多宝如来を本尊とします。石墨草筆の写経道場で明治5年(1872)に再建されました。隣に像高5mの金色の阿弥陀如来が祀られた大仏殿があります。
江戸時代までは、12の塔中支院があり多くの僧が修行に励んでいましたが、今では、仁王門から奥之院の間に性相院、金乗院、中性院、華厳院の4つの山内支院がその面影を残しています。奥之院から脇道に入った奥が華厳院です。慈覚大師円仁が開山のころ住んでいたと伝わり、手前右側の岩屋には全国で最も小さい三重小塔も祀られています。
中性院の背後の岩窟には新庄藩戸沢家の歴代の石碑が立ちますが、向かいには現在の山形の基礎を築いた、山形城第11代当主「最上義光」公の御霊屋があります。
最後の10時半の開店を待って「美登屋」で名物の「だしそば」をいただくことに。刻んだキュウリやナス、ミョウガ、ショウガなどの香味野菜と納豆昆布を加えた「だし」たっぷりの冷たい名物おそばです。
今晩の温泉地「作並温泉」方面に向かいます。ここからはまさしくJR仙山線に沿ってのドライブです。
「ニッカウヰスキー」の創業者・マッサンこと竹鶴政孝が、目指したのは複数の蒸留所で生まれた個性の異なる原酒をブレンドし、より芳醇なウイスキーをつくることでした。そのため人生の集大成として75才で造り上げたのが「宮城峡蒸留所」です。
昭和42年(1967)、父・竹鶴政孝の命を受け、新たな蒸留所の予定地を東北の山間地に探していた竹鶴威は、広瀬川沿いに生い茂るクマザサに隠された清流を発見します。その水で作った水割りを飲んだ政孝はこの地に次ぎの蒸留所を造ることを即断し、2年後に完成したのが、ここニッカウヰスキー宮城峡蒸留所です。イワナやヤマメが泳ぐその清流の名が「新川(にっかわ)」という偶然に政孝も驚いたといいます。
作並地区の豊かな自然に囲まれた蒸留所は、青空とコントラストを描くレンガ色の40棟余りの建物からなり、緑に抱かれヨーロッパの古城のような雰囲気です。緩やかな斜面を上っていけば、正面に見えてくる鎌倉山の姿も清々しいです。かつて麦芽の乾燥に使われていた三角屋根のキルン塔は蒸留所のシンボルです。
ビジターセンターでは、ウイスキーの製法や種類、宮城峡蒸留所の特徴、ニッカウヰスキーの歴史、創業者竹鶴政孝のウイスキーづくりへの想いばどを映像やパネル、展示物で紹介しています。
ここで見学受付を終えれば、ガイドツアーが始まり仕込棟から蒸留棟へと施設を見学していきます。宮城峡の華やかで軽やかなモルト原酒はスチームでじっくり蒸留する「蒸気間接蒸留」から生まれます。そのためポットスチルも余市の細身のものとは違いふっくらとした形をしています。また酒造りの神への敬意を表すためしめ飾りがされています。また世界でも希少なカフェ式連続式蒸留機を使っています。
その後貯蔵庫に向かいますが途中には連続テレビ小説「マッサン」で使われた余市型のポットスチルが展示されています。
レンガ色の貯蔵庫が並ぶ所内は日本とは思えない雰囲気があります。貯蔵庫には熟成を待つウイスキー樽が無数に並ぶ様は圧巻です。
見学コースの最後は有料のバーコーナーもあるギフトショップ・テイスティングで無料の試飲ができます。今回はいつものスーパーニッカにシングルモルト宮城峡が味わえた。リンゴ、洋梨のようなフルーティさ、甘く華やかな花の香り、樽由来のやわらかなバニラ香が特徴です。それにアップルワインという炭酸割りに適したブランデータイプの計3種類がいただけた。
蒸留所のあちこちにニッカウヰスキーのエンブレムを見つけることができます。政孝が英国風を模して作ったものですが、細部に目をやれば狛犬と兜と元禄模様という極めて日本的なデザインになっています。特に注目したいのは中央の鹿の角を持つ兜で、戦国時代、中国地方の尼子氏に仕え、その生涯を主家の再興のささげた「願わくば我に七難八苦を与えたまえ」の武将、山中鹿之助のものです。
今夜の宿泊地は、仙台市と山形市を結ぶ国道48号線沿い、山形との県境近くに位置する、約1200年前に行基が発見したと伝わる作並温泉。その国道に沿うように流れる広瀬川源流の山間に温泉宿が点在しています。奥羽山脈を越える作並街道の往還や、杜の都・仙台の奥座敷として利用されてきました。「作並温泉 鷹泉閣 岩松旅館」に投宿ですが、その前に広瀬川の支流・大倉川に造られた「大倉ダム」によっていきます。日本で唯一のダブルアーチ式のコンクリートダムです。ダムカードGETです。
かつて「鷹湯」と呼ばれた作並温泉には奥州藤原氏征伐でこの地に赴いた源頼朝が残す言い伝えがあります。自らが射た鷹を追って深山に迷い込み、その鷹が泉に体を浸し飛び立っていくのを見た頼朝が、自らその湯壺に身を沈めて効能を実感したというものです。
作並温泉の開湯の歴史は、室町時代に岩松対馬尉藤原信寿が作並の地に移り住み、そこから11代目の寿隆(喜惣治)が、岩松家のみに伝わる秘湯を寛政8年(1796)、人々が入れるように整備したことが始まりです。藩仙台の奥座敷として人気が高まり、仙台藩主や文化人が数多く訪れたという歴史があります。
広瀬川の渓谷沿いに建つ作並温泉で最も古い歴史を持つ200余年の時が刻まれた作並温泉発祥の宿の「元湯 鷹泉閣 岩松旅館」。藩に許可を願い出た創業者・岩松喜惣治は、自ら山を切り開き、谷底の湯壺に向かう七曲97段(現在は88段)の階段を作りあげました。俳人・正岡子規は、松尾芭蕉の「奥の細道」の足跡をたどって松島や仙台をまわり、旅の途中で、この旅館に宿泊した様子が『はて知らずの記』に記されています。その際、「夏山を廊下づたひの温泉(いでゆ)かな」と詠んでいます。また『荒城の月』の作詞で有名な仙台生まれの詩人・土井晩翠もこの温泉をこよなく愛しました。
レトロな雰囲気が漂う木造建築の宿は、旧館の広瀬館と新館の青葉館に分かれていて、全91室です。そんな宿の中で今もほとんど変わらない形でそこに残るレトロな階段は、開湯当時と変わらず地下1階から湧き出る「鷹の湯」へと続いています。
創業当時の趣が残る名物の「天然岩風呂」は広瀬川の渓流沿いにあります。谷底の岩をくり抜いて造られた4つの湯船には自噴する異なる4つの源泉が「新湯」「瀧の湯」「鷹の湯」「河原の湯」にかけ流されています。
泉質は肌にやわらかいナトリウム・カルシウム-硫酸塩・塩化物泉/低張性弱アルカリ性高温泉という「美女づくりの湯」と呼ばれるしっとりなめらかな湯です。美肌効果・便秘・不眠症に効能があります。
目の前に四季折々の渓谷美が広がり、この時期夏の涼風が運ぶ緑の香りが清々しく、目の前の渓谷美を眺めながらゆったりと過ごすことができます。天然岩風呂は混浴ですが、女性専用の時間も設けられていて安心です。