平成31年2月8日(金)、タムクラセーレストラン(Tham Krasae Restaurant)で昼食をとった私たち7人は、タムクラセー駅(Tham Krasae 駅)に向かいました。

 

◇カセー洞窟

 

 タムクラセー駅はとても簡素な木造の駅舎なのですが、日本の鉄道の多くの駅と違って、ホームがとても低いのに驚きました。

 

(タムクラセー駅)

 

 タムクラセー駅にいるのは、私たちも含めて、ほとんどが外国人観光客でした。

 

(タムクラセー駅)

 

 タムクラセー駅から、タイ国有鉄道南本線ナムトック支線(通称ナムトック線)に乗って、映画『戦場にかける橋』の舞台となったクウェー川鉄橋まで行くのですが、次の列車までかなりの時間があったので、C野さんの案内で、線路沿いにあるカセー洞窟に向かいました。

 

 タムクラセー駅の先で、クウェー川はS字に湾曲していて、その周りにとても長閑な景色が広がっています。

 

(タムクラセー 駅の先)

 

 多くの観光客が、ナムトック線の線路を歩いていました。

 

(タムクラセー駅の先)

 

 ナムトック線は単線で、1日の運航数がそもそも少ないのですが、列車が通過するときは、タムクラセー駅からその先のタムクラセー桟道橋を渡るまで、安全のために時速5kmほどまで速度を落として走るので、このように線路を歩いても危険はないようです。

 ちなみに、線路の下の橋梁などは、写真のとおり、木製です。

 

 

(Tham Krasae 駅の先)

 

 クウェー川の対岸に浮かんでいる緑色の屋根は、水上コテージです。

 

 線路の上を数分歩くと、カセー洞窟クラセー洞窟)に着きました。

 

 タイは2月でも30℃ほどの暑さなのですが、洞窟内はひんやりしていて快適でした。

 

 奥に入っていくと、金色の仏像が鎮座していました。

 

(カセー洞窟)

 

 仏像に手を合わせた私たちは、タムクラセー駅に戻りました。

 

◇ナムトック線

 

しばらく待っていると、ゆっくりと列車がホームに入ってきました。

 

(Tham Krasae 駅)

 

 ここから、タイ国有鉄道南本線ナムトック支線(ナムトック線)の鉄道の旅が始まります。

 

 

(Tham Krasae 駅)

 

 私は鉄ちゃん(鉄道マニア)ではありませんが、初めて乗る鉄道は、やはりワクワクします。

 

(ナムトック線の車窓からの景色)

 

 ナムトック線は、基本的にクウェー川の近くの田園地帯や、ヤシなどの生い茂る林の中を通っていきます。

 

(ナムトック線の車窓からの景色)

 

 しばらく景色を楽しんでいたのですが、車内に冷房はないので、窓を全開にして暑さを凌いでいたものの、徐々に暑さが堪えてきます。

 

(ナムトック線の車窓からの景色)

 

 ふと見るとK子ちゃんはあまりの暑さに寝に入っていたのですが、ソフトドリンクの売り子のお兄さんが来たときにすぐに起きて、私やY枝ちゃんの分もまとめて買ってくれました。

 こういうときに飲む冷えたドリンクは、最高です。

 

(ナムトック線の車窓からの景色)

 

 タムクラセー駅から列車に揺られること、1時間10分ほどで、クウェー川鉄橋に着きました。

 

(クウェー川鉄橋)

 

 このクウェー川鉄橋が、映画『戦場にかける橋』の舞台です。

 

 クウェー川鉄橋も、線路上を歩けるようで、数か所に設けられている避難所のところには、多数の観光客が列車の通過を眺めていました。

 

(クウェー川鉄橋)

 

 川岸に浮かんでいる屋根のある建物は水上レストランで、この中で、多くの人が食事をしながら列車の通過を眺めていました。

 

(クウェー川鉄橋)

 

 クウェー川鉄橋を通過した列車はクウェー川鉄橋駅で停車し、私達はここで降りました。

 

(ナムトック線)

 

 日本の駅と違ってホームが低いので、写真の右側に写っている人のように、列車の入口に付いている梯子を使って乗降します。

 

◇旧泰緬鉄道

 

 クウェー川鉄橋駅には、泰緬鉄道(たいめんてつどう。英語名:Thai-Burma Railway)の記念碑がありました。

 

 

(泰緬鉄道記念碑)

 

 泰緬鉄道は、旧日本陸軍が戦時中にタイ(漢字表記:泰)とビルマ(漢字表記:緬甸。現:ミャンマー)を結ぶ鉄道として建設・運営していたもので、戦後、イギリス軍が日本軍の捕虜に命じて一部を撤去させました。

 その後に残存していた一部が、現在、タイ国有鉄道南本線ナムトック支線となっています。

 

 この泰緬鉄道の建設には、日本陸軍兵士のほか、連合国の捕虜(イギリス人、オーストラリア人、オランダ人、アメリカ人)、東南アジア各地で募集されたタイ人、ビルマ人、マレー人、インドネシア人など、多数の人が携わりましたが、建設工事中にかなり多くの人が亡くなりました。

 戦後、日本軍による捕虜虐待があったと証言する人もいて、泰緬鉄道建設を担った鉄道連隊に所属する兵士や、連合軍の捕虜を収容した俘虜収容所の関係者らが、BC級戦犯として111人が有罪判決を受け、そのうち32人が死刑となっています。

 

 また、作業に携わった東南アジア人の一部は、強制連行であったとの説もあります。

 

 確かに、動員された人の数も亡くなった人の数も、諸説あるものの、数万人が亡くなったのは、間違いないことのようです。

 

 ただし、実際に虐待を受けて亡くなった連合国の捕虜が数名いたのも事実のようですが、建設に携わった日本軍の兵士も含めて、食料不足からくる栄養失調コレラ・赤痢・天然痘等の伝染病マラリア熱帯潰瘍などによって亡くなった人が圧倒的に多く、また、東南アジアの人々も、賃金を得られることから募集に応じて労務に従事してもので、自らの意思で辞めることもでき、実際に辞めた人もけっこういたとも言われており、強制連行であったかについては、まだ議論のあるところです。

 

 このように、泰緬鉄道の建設によって多数の人が亡くなった原因などは、しっかりと検証していくべきだと思いますが、このような状況で多くの作業員が亡くなった事実を、無前提に第二次世界大戦が日本の侵略戦争であったとする主張に結び付けようとする言説には、注意が必要です。

 ここでは、どの歴史観が正しい、正しくないということは述べません。ある歴史観が全面的に正しく、その他が全面的に間違っているというわけでもありません。重要なことは、特定の歴史観に囚われず、多角的な視点を持つことだと思います。

 

 そこで、教科書やマスコミ報道などで語られる歴史とは異なった視点があることも、ご紹介しておきたいとと思います。

 

 

 日中戦争が泥沼化する中で、アメリカ・イギリスとの開戦に踏み切った日本は、蒋介石率いる中国国民党重慶政府をアメリカ、イギリス、ソ連などの連合国が武器弾薬などを送って支援する、いわゆる「援蒋ルート」を遮断する必要がありました。

 援蒋ルートはいくつかありましたが、そのうちの1つが、イギリスの植民地であったビルマラングーンから中国昆明に至るビルマルートでした。

 

 アメリカ・イギリスとの開戦前、日本軍は、ビルマ独立の支援のためビルマで工作活動を続け、ビルマ人独立運動家のアウン・サン(当時は、オンサンとも呼ばれていました。アウン・サン・スーチー氏の父です。)を日本に亡命させ、さらに、大本営直属で、鈴木敬司大佐を機関長とする南機関を発足させました。

 そして、ビルマから30人の青年独立運動家を海南島に脱出させ、アウン・サンと共に、南機関による厳しい軍事訓練を受けました。

 

 アメリカ・イギリスと開戦した直後の昭和16年(1941年)12月、日本軍の支援を受けたアウン・サンらは、タイのバンコクでビルマ独立義勇軍を設立し、アウン・サンは、その参謀に就任しました。

 

 その翌月の昭和17年(1942年)1月、援蒋ルートビルマルートを遮断するため、日本軍はビルマに侵攻を開始し、ビルマ独立義勇軍もこれに参加します。

 ビルマ独立義勇軍は、進軍しながら主に占領地のビルマ人の宣撫工作に従事し、志願兵を募り、軍事訓練を施すなどして、ビルマ独立義勇軍の参加者を増やしていきました。

 日本軍とビルマ独立義勇軍は快進撃を続け、イギリス軍は首都ラングーン放棄し、昭和17年(1942年)3月8日にラングーンを無血占領することに成功し、さらに6月にはビルマ全土を制圧しました。

 

 そして、昭和18年(1943年)8月1日、日本の支援のもと、バー・モウを首相とし、ビルマ国がイギリスからの独立を宣言します。そして、ビルマ独立義勇軍を解散して新たに設立したビルマ防衛軍は、独立後、ビルマ国民軍に改編され、アウン・サン国防相兼ビルマ国民軍司令官に就任しました。

 

 戦後、バー・モウは、著書『ビルマの夜明け』の中で、このように語っています。

 

~それは言葉では言い現せないほど幸せな日々だった。人々は喜びに胸をふくらませて、いたる所で歌った。国民こぞってこれを祝うために、各地域社会を代表する委員会が設けられた。くる日もくる日も群衆がパゴダを訪れて灯明をあげ、花を捧げた。
 僧たちは町中で振舞を受け、催物は果てしなく続いた。人々は集い、日本語で"万歳"を叫んで、日本に対する深い感謝を現わす決議をした。同時に、喜びと感謝の気持ちを綴ったメッセージが東条首相と日本政府に送られた。~

 byバー・モウ(『ビルマの夜明け』より引用)

 

 

 この点、インパール作戦の失敗により、日本の敗色が濃厚となる中で、アウン・サンはビルマの独立は見せかけであると訴え、日本を裏切ってイギリスと手を結んだことなどから、日本はビルマを本当に独立させる気がなく、侵略戦争であったことに変わりがないとの主張もあります。

 

 しかし、アウン・サンは、敗色濃厚な日本と共に敗戦国になるよりは、戦勝するであろうイギリス側について、戦後、イギリスと交渉して独立していく現実路線を目指したという評価が正しいと思います。

 その証拠に、アウン・サンは、日本のことを一切恨んでおらず、戦後、共に戦った鈴木敬司がビルマに連行され、BC級戦犯として裁判にかけられそうになった時、アウン・サンが猛反対し、鈴木敬司は釈放されています。

 

 日本が本当にビルマを植民地にしようと考えていたら、そもそもビルマ人に軍事訓練を施しませんし、武器弾薬の供与もしません。それについても、日本が東南アジアを侵略したと考える人は、ビルマ人を兵力として利用するためだけに軍事訓練を施した主張するかもしれませんが、そうだとしたら、ビルマ人をビルマ独立義勇軍の重要なポストに付けていることの説明がつきません。

 

 日本の侵攻によってインド東南アジアの多くの国々が、戦中・戦後に欧米諸国から独立しましたが、日本の敗戦後、旧宗主国が再植民地化を図るべく、再び侵攻を開始しました。

 旧日本軍は武装解除を命じられ、武器を独立派の人々に渡すことも禁じられていましたが、多くの旧日本軍将兵は東南アジアの独立派に武器を供与し、中には、現地に残って、独立戦争に身を投じた者も多数いました。

 

 例えば、インドネシアの旧宗主国であるオランダからの独立戦争に身を投じた旧日本軍の将兵は3000人を超えると言われ、そのうち、約1000人が、その独立戦争で戦死しています。

 

 インドネシアアラムシャ第三副首相が昭和62年(1987年)に訪日した際、日本占領時に日本軍の支援によって創設されたPETA郷土防衛義勇軍)での人材育成に感謝し、独立戦争に参加した日本の将兵について、次にように語っています。

 

~日本軍の軍政は良かった。

 (中略)行政官の教育は徹底したものだった。原田熊吉ジャワ派遣軍司令官の熱烈な応援により、PETAが創設された。PETAは義勇軍と士官学校を合併したような機関で、3万8000名の将校を養成した。兵補と警察隊も編成され、猛烈な訓練をしてくれたばかりでなく、インドネシア人が熱望する武器をすぐに供与してくれた。

 (中略)(日本が連合軍に)無条件降伏した後も、多数の有志将校がインドネシアの独立戦争に参加してくれた。

 経験豊かでしかも勇猛果敢な日本軍将兵の参加が、独立戦争を、我々に有利な方向に導いたか計り知れない。~

 by アラムシャ(インドネシア第三副首相(当時の役職))

 

 教科書には載らない事実ですが、日本が敗戦した後、日本国民の多くが、日本が侵略戦争をし、アジアの人々に多大な迷惑をかけたと考えている中で、実際に自国の独立を目の当たりにした東南アジアの人々から、このような意見が出ているという事実があることも、我々日本人は、もっと知るべきではないでしょうか。

 

 

 泰緬鉄道の記念碑を見た後、C野さんの案内で、映画『戦場にかける橋』の舞台となったクウェー川鉄橋を見に行きました。 

 

 

(クウェー川鉄橋)

 

 映画『戦場にかける橋』で作られた橋は木の橋でしたが、戦時中に実際に作られたのは、鉄橋でした。

 鉄橋をよく見ると、手前と奥は、アーチ状の曲弦になっているのですが、中央部に少しだけ四角い平行弦になっている部分があります。

 曲弦の部分は、戦時中に建設したオリジナルの部分だそうですが、中央部は連合国軍に爆撃を受けて崩壊し、その後、木橋を経て、修復され、現在に至っているようで、平行弦部分が、修復部分ということになります。

 

 クウェー川鉄橋を見学した私たちは、駅の近くで待機して頂いていた自動車に乗り込みました。

 

(クウェー川鉄橋駅付近)

 

◇夕食

 

 カンチャナブリのクウェー川鉄橋駅から、C野さんが予約してくれたバンコクのレストランに自動車で向かったのですが、ここでバンコクの渋滞の洗礼を受けます。

 

 C野さんが予約してくれたサバイジャイ・レストランには、C野さんの知り合いのタイ人の女性も合流することになっていたのですが、その女性が時間通りに着いていたので、遅れる旨を店に伝えてもらい、店に向かったのですが、予定よりもかなり遅れてしまいました。

 

(サバイジャイ・レストラン)

 

 サバイジャイ・レストランに着いた私たちは、C野さんの友達のタイ人女性に挨拶をしたのですが、日本語がペラペラでした。

 

 早速、タイ人女性におススメを聞きながら、C野さんが料理を注文してくれました。

 

(サバイジャイ・レストラン/プーパッポンカリーなど)

 

 そして、お待ちかねのビールですが、ビールタワーで到着しました。

 

(サバイジャイ・レストラン)

 

 これはテンションが上がります。

 

 そして、このサバイジャイ・レストランは、タイ風焼き鳥のガイヤーンが有名だそうです。

 

(サバイジャイ・レストラン/ガイヤーン)

 

 ガイヤーンは、ビールが進みます。

 

 

(サバイジャイ・レストラン)

 

 そして、ゲーン・キヤオ・ワーン、いわゆるグリーンカレーです。

 

(サバイジャイ・レストラン/ゲーン・キヤオ・ワーン)

 

 辛いけど、これもめちゃくちゃ美味しかったです。

 

 最後に、C野さんが、カオニャオ・マムアンという、タイ料理でメジャーなデザートを注文してくれました。

 

(サバイジャイ・レストラン/カオニャオ・マムアン)

 

 普段、甘いものがそれほど好きでない私は、タイ料理店でデザートを頼まないのですが、そんな私でも、このカオニャオ・マムアンは美味しかったです。

 

 

 食事を終えた私たちは、いろいろお話をさせていただいたC野さんの知り合いのタイ人女性にお礼を言って、タクシーを拾い、C野さんお勧めのタイマッサージの店に向かいました。

 マッサージの担当は、体の大きめのオジサン、オバサンが多かったように思いますが、その体の大きめのスタッフにかなり強めに揉み込まれ、最初は痛いかと思っていたのですが、私の身体がガチガチに凝り固まっていたのか、意外と気持ちよく、途中で寝落ちしてしまいました。

 

 ちなみに、そのマッサージ店は繁華街の中にあって、観光客もかなり多かったのですが、特に韓国人の中高年の男性のお客さんが多かったように思います。

 

 今回、途中から参加するメンバーも、バンコクのスクンビットの近くのホテルをそれぞれ予約していたので、マッサージを終えた私たちは、翌朝の集合時間を確認し、私とC野さん、Y枝ちゃんは、C野さんが3部屋予約してくれたスクンビットオークウッドレジデンススクンビット24にチェックインしました。

 

 この日は、深夜便でスワンナプーム国際空港に到着してから、途中、車に揺られる時間も多かったですが、に乗り、クウェー川竹の筏で下り、旧泰緬鉄道ナムトック線に乗り、映画『戦場にかける橋』の舞台を訪れ、美味しいタイ料理を堪能し、タイマッサージも受けるという、濃厚な1日で、私もシャワーを浴びて、ベッドでスマホをいじっていたのですが、そのまま寝落ちしてしまいました。

 

◇次回予告

 翌日は、チャーターした自動車でシーチャン島に向かったのですが、次回はそのお話からさせていただきます。

 

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