朝と夕方、私は毎日お散歩に出かけます。
時間にして、だいたい20〜40分くらい。
お休みの日には、1時間くらい歩くこともあります。

 

 

もちろん、愛犬・奈々太郎🐕️のためでもありますが、
実は、それ以上に「私のため」でもあるのです。

 

 

健康や運動のため——それも大切。
でもね、本当に楽しみにしているのは、

朝日と夕陽に会いに行くこと。

 

 

だから、散歩の時間は
だいたい日の出や日の入りの前後になります。

 

私が暮らしているこの場所は、周りが田んぼに囲まれていて、
見渡す限り、ぐるっと360度、空が広がっています。

 

 

毎日違う表情を見せてくれるこの空が、私は大好き。
ただ空を見上げるだけで、心がふっと軽くなって、晴れやかになります。

 

しかも、不思議なことに、
歩いていると、ふとアイディアが浮かんできたり、
「気づき」が降りてきたりするんです。

 

お天気が良くない日には、道端に咲く季節の花を楽しんで、
雨の日には、その雨のしずくや風の音を味わう。


どんな日も、自然はちゃんと何かを見せてくれます。

 

 

最近では「朝日を浴びるとセロトニンが増えて、心の安定にいいですよ」なんて
科学的なデータもたくさん出ていますね。

 

でも私は、こう思うんです。

 

 

「科学的に証明されているからやる」
「お医者さんが言っているからやる」
「誰か偉い先生がすすめているからやる」

 

——それもいいけれど、いちばん大事なのは、

 

 

「好きだからやる」
「楽しいからやる」
「面白いからやる」

 

 

という、自分の“心の声”を基準に選ぶこと。

これ、ほんとうに超・超・重要なんです❗

 

 

 

 



野上徳子(のがみとくこ)
内科医・心理カウンセラー
1967年生まれ、岡山県育ち。愛媛県松山市在住。

30年診療に携わる中で、昔から‟病は氣から”というように病気の原因は氣(意識)が大きく関わっていることに気付き、現在は、病気や生きづらさの中に生きる価値を見出し、本当の自分として命を輝かせて生きるサポートをしています。

 

 

 

先日、ある友人と話をしていたときのことです。
共通の知人で、ステージ4bの癌を患っている○○さんの話になりました。


そのとき友人がこんな言葉を口にしました。
「○○ちゃん、命の時間を使っているんだね」


その言葉に、私は少し黙ってから、こう返しました。
「ちょっと待って。それって○○ちゃんだけじゃないよ。

私たちも同じように“命の時間”を生きているんだよ」



こう言うと、冷たく感じる方もいるかもしれません。
「なんて薄情なことを言うんだろう」
「心がない人だな」
そんなふうに思われるかもしれません。



でも私は、命の時間というものを、もっと広く捉えていたいのです。

今、多くの人が


癌=死


そう思い込んでいます。


たしかに、ステージによっては命を落とすこともあります。
ステージ4bとなれば、医師から「余命」という現実的な数字が告げられることもあるでしょう。

でもね、その数字は「ただの統計データ」に過ぎません。



実際に、
・余命通りに旅立つ方もいれば、

・その前に亡くなる方もいて、

・驚くほど長く生きる方もいます。

・そして、癌が治ってしまう方だっているのです。



じゃあ、その違いは何?

私は、命の時間の使い方にこそ、その答えがあると思っています。



不安、恐怖、絶望の中で日々を送る人。

たとえその感情を抱きながらも、命の時間を慈しみ、大切に味わって生きる人。



同じ“限られた時間”でも、その使い方によって、人はまったく違う人生を紡いでいきます。


私たちは皆、いつか終わりが来る命を生きています。
ただ、その「限りある命の時間」を意識して過ごしている人は、どれほどいるでしょうか?


もしかしたら、癌という病は、私たちに大切なことを教えてくれているのかもしれません。

「命の時間は、誰にとっても有限なんだよ」って。

 

 

 

 



野上徳子(のがみとくこ)
内科医・心理カウンセラー
1967年生まれ、岡山県育ち。愛媛県松山市在住。

30年診療に携わる中で、昔から‟病は氣から”というように病気の原因は氣(意識)が大きく関わっていることに気付き、現在は、病気や生きづらさの中に生きる価値を見出し、本当の自分として命を輝かせて生きるサポートをしています。

 

 

 

 

松山に戻ってまいりました。
たくさんのあたたかいメッセージ、本当にありがとうございます。心に沁みました。

 

 

奈々太郎も、3日間ペットホテルに預けられて緊張していたのでしょうね。
迎えに行くと、いつもはおとなしい子が興奮してワンワンと吠えて……きっと心細かったのだと思います。

 

奈々太郎久しぶりの散歩で嬉しそうです。

 

今回、家族を見送るという経験を通して、あらためて思い知らされました。
人がひとり旅立つということが、これほどまでに大変で、心を揺さぶるものなのだということを。

 

 

あまりにもやるべきこと、決めることが多すぎて、主人には悲しむ余裕さえなかったのではないか……そんなふうに見えていました。


けれどふと、主人がぽつりとこんな言葉をこぼしました。
「母が亡くなって、悲しいというよりも、“やっと逝けたね。お疲れさま”っていう感じなんだ」と。

 

 

長い療養生活の末に、一度も自宅へ戻ることのなかった義母。
病院から式場へ向かう道の途中、車が家のすぐ前を通りました。


そのとき、義母の魂も、ほんの一瞬、懐かしいわが家を見つめていたのではないか……そんな気がしてなりません。

 

 

 



野上徳子(のがみとくこ)
内科医・心理カウンセラー
1967年生まれ、岡山県育ち。愛媛県松山市在住。

30年診療に携わる中で、昔から‟病は氣から”というように病気の原因は氣(意識)が大きく関わっていることに気付き、現在は、病気や生きづらさの中に生きる価値を見出し、本当の自分として命を輝かせて生きるサポートをしています。

 

 

 

私たちはなぜ、「死」について考えるのでしょうか。

それは、漠然とした不安があるからかもしれません。

 


年齢を重ねるにつれ、身近な人の死をきっかけに、

少しずつ「死」は現実味を帯びてきます。

 

 

けれど、実際に死を「自分ごと」として感じられるのは、

よほど近しい人の死を体験したときだけ。

 


それほどまでに、「死」はどこか遠いものとして私たちの日常から切り離されています。

けれど、死は誰にでも必ず訪れます。

 


だからこそ、死について考えることには大きな意味があります。
死を見つめることは、「どう生きるか」を考えることでもあるからです。

 

 

医療の現場で感じるのは、若い人の死と高齢者の死への反応の違いです。


若い人が病気になると、医療者も家族も必死になります。亡くなると深い悲しみが広がります。
けれど、高齢者が病気にになると、「寿命だから仕方ない」と、どこか受け入れられてしまう。

 

 

その違いはどこにあるのでしょう。

それは「経験の差」ではないでしょうか。

 


若い人には、まだたくさんの経験が待っていた。
恋愛、結婚、子育て、旅、仕事の喜び…。
それらを経験できずに亡くなることが、「かわいそう」と思われるのです。

 

 

一方で、高齢者は「もう十分生きた」と思われる。
つまり、経験を積んだかどうかが、生の満足感を左右しているのです。

 

 

人は死を目前にしたとき、後悔を抱きます。
「あれもしたかった」、「これもやっておけばよかった」


そのすべては、“経験”したかったこと。

 

 

 

がんを宣告されると、命の期限をはっきりと意識するようになります。


すると、これまで我慢していたこと、後回しにしていたことを「今やろう」と思い立つ人がいます。
がんをきっかけに仕事を辞め、本当にやりたかったことに踏み出す人もいます。

 

 

「やりたいことをすべてやって生ききる」
その姿は、生きるとは「経験を重ねること」だということを教えてくれます。

 

 

命は永遠ではありません。


だからこそ、今という時間を大切に、自分の人生を自分の足で歩いていくことが大切です。


どれだけ経験できたかが、「生きた証」になるのです。

 

 

 



野上徳子(のがみとくこ)
内科医・心理カウンセラー
1967年生まれ、岡山県育ち。愛媛県松山市在住。

30年診療に携わる中で、昔から‟病は氣から”というように病気の原因は氣(意識)が大きく関わっていることに気付き、現在は、病気や生きづらさの中に生きる価値を見出し、本当の自分として命を輝かせて生きるサポートをしています。

 

 

 

義母が旅立ちました。

 

あまりにも突然で、
つい昨日まで元気だったと聞いています。

 

 

誤嚥性肺炎で入院。
一度は落ち着きを取り戻したものの、
嚥下機能が弱くなり、誤嚥を繰り返すため、胃ろうをつくりました。


退院に向けて準備をしていた矢先のことでした。

 

 

義母は、感情が豊かで、思ったことをすぐ口に出すタイプの人でした。
その率直さに、私は何度も戸惑い、時には傷つくこともありました。

 

 

結婚前、夫は言っていました。
「母はクセがある人だから、きっと苦労すると思う。
年を取って認知症になったら、手がつけられなくなるかもしれない」


その言葉どおり、義母の言動に心が揺れる日々が続きました。

 

 

心理学を学び始めた頃、
義母に対する怒りやわだかまりが次々と浮かび上がり、
それを手放すためのワークに何度も何度も取り組みました。

 

 

2017年、義母は急性腎炎で入院。
長い療養生活の中で、認知症が進行していきました。

 

 

晩年には、実の息子である夫の顔さえわからなくなっていたのに、
私の顔を見ると、にっこりと笑って
「徳子さん、よく来てくれたね」と言ってくれました。

 

 

“目の前の人は、自分の写し鏡” と言われます。

 

 

今、振り返ってみると、
義母は私の中に眠っていた「怒り」という感情を
引き出し、解放させてくれた存在だったのだと思います。

 

 

義母のおかげで、私は少しずつ
怒りを手放すことができるようになりました。

 

 

旅立った義母の顔は、まるで眠っているように穏やかで、安らかでした。

 

「お義母さん、ありがとう」

 

 

 

 



野上徳子(のがみとくこ)
内科医・心理カウンセラー
1967年生まれ、岡山県育ち。愛媛県松山市在住。

30年診療に携わる中で、昔から‟病は氣から”というように病気の原因は氣(意識)が大きく関わっていることに気付き、現在は、病気や生きづらさの中に生きる価値を見出し、本当の自分として命を輝かせて生きるサポートをしています。