私たちはなぜ、「死」について考えるのでしょうか。
それは、漠然とした不安があるからかもしれません。
年齢を重ねるにつれ、身近な人の死をきっかけに、
少しずつ「死」は現実味を帯びてきます。
けれど、実際に死を「自分ごと」として感じられるのは、
よほど近しい人の死を体験したときだけ。
それほどまでに、「死」はどこか遠いものとして私たちの日常から切り離されています。
けれど、死は誰にでも必ず訪れます。
だからこそ、死について考えることには大きな意味があります。
死を見つめることは、「どう生きるか」を考えることでもあるからです。
医療の現場で感じるのは、若い人の死と高齢者の死への反応の違いです。
若い人が病気になると、医療者も家族も必死になります。亡くなると深い悲しみが広がります。
けれど、高齢者が病気にになると、「寿命だから仕方ない」と、どこか受け入れられてしまう。
その違いはどこにあるのでしょう。
それは「経験の差」ではないでしょうか。
若い人には、まだたくさんの経験が待っていた。
恋愛、結婚、子育て、旅、仕事の喜び…。
それらを経験できずに亡くなることが、「かわいそう」と思われるのです。
一方で、高齢者は「もう十分生きた」と思われる。
つまり、経験を積んだかどうかが、生の満足感を左右しているのです。
人は死を目前にしたとき、後悔を抱きます。
「あれもしたかった」、「これもやっておけばよかった」
そのすべては、“経験”したかったこと。
がんを宣告されると、命の期限をはっきりと意識するようになります。
すると、これまで我慢していたこと、後回しにしていたことを「今やろう」と思い立つ人がいます。
がんをきっかけに仕事を辞め、本当にやりたかったことに踏み出す人もいます。
「やりたいことをすべてやって生ききる」
その姿は、生きるとは「経験を重ねること」だということを教えてくれます。
命は永遠ではありません。
だからこそ、今という時間を大切に、自分の人生を自分の足で歩いていくことが大切です。
どれだけ経験できたかが、「生きた証」になるのです。