本書の奥付を見ると「2025年8月20日 第1刷発行」となっている。数日前の朝日新聞の広告欄でこの本の存在を知って「ぜひ読んでみたい」と思って早速図書館の予約人数を確認。224人、蔵書数1冊。10年後には読めそうだ。はぁ…とため息。本は読みたい時が読み時。仕方がない、ということでアマゾンでポチ。2310円。翌日届く。で、読んでみた。

 

 「ハルノアラシ。

  今から五十年前のあの夜のことに思いを馳せる時、真っ先に私の頭に浮かぶのは、母から教えられたこの言葉だ。」という書き出しで始まる553ページに及ぶこのミステリー小説。一言で言って力作である。

 昭和49年(1974年)3月27日、東京都佃島で4人家族に起きた殺人および傷害事件が物語の発端だ。両親と11歳の長女が惨殺され、7歳の長男だけが重傷を負いながらも一命を取り留めた事件である。物盗りの犯行か怨恨か?物語は「昭和編」、「平成編」、「令和編」に分かれ、捜査を担当する刑事も「昭和編」の湯浅卓哉と鎌田幸三から「平成編」の鎌田幸三と草加文夫、そして「令和編」の藤森菜摘へと受け継がれる。まずこの構成の見事さに唸ってしまった。それぞれ性格が異なる刑事たちの真実を追い求める姿勢と、時代を経て進展する科学的捜査法の成果により徐々に明らかになっていく真実。そこには昭和49年、いや満州事変あたりから始まる犯人たちを取り巻く人間模様があったのだ。このあたりの複雑な関係を描く著者の捌き方は見事という他ない。そして終盤に思いもよらぬどんでん返しを含みながらすべての伏線が回収され、ジ・エンドとなる。

 久しぶりに読み応えのあるミステリー小説に出会ったというのが率直な感想である。ただ、若干読みづらく感じられた箇所があったことも事実である。物語の進行中に小野田寛郎氏の日本への帰国のニュースとか、三菱重工ビル爆破事件やオウム真理教事件といった実際に起こった出来事が挿入され、さらには戦前の満州国に関する箇所が歴史の記述に流れすぎていたり、石原莞爾の「世界最終戦論」の説明なども挿入されるのであるが、これらは物語の進行と関係はあるものの、もう少し簡略に記述してもよかったのではないだろうか。読み進めるのがやや面倒くさく思われた箇所である。また、「令和編」で藤森菜摘が謎を解決していく描き方であるが、「昭和編」や「平成編」で登場する先輩刑事たちが何年もかけて解決できなかった点を駆け出しの藤森が1年も経たないうちに解決する手がかりがどのようにして得られたのかがあまり明確に描かれていないように思われた点にもやや不自然さが残るように思われた。

 もちろん、以上の点がこのミステリーの価値を損なうものでないことは言うまでもないことであり、ミステリー好きな読者にはオススメの一書である。

 2025年8月23日付け朝日新聞朝刊の読書欄を読んでいたら「売れている本」のコーナーで著述家の読書猿という人が竹内洋『教養主義の没落』を紹介していた。この本に関しては私は以前このブログで書評を書いたことがあったので、興味を引かれて「呪縛消えた後の知の欲求回帰」と題されたその新聞記事を読んでみた。

 

 現在この本が売れている大きな原因の一つはシンガー・ソングライターの米津玄師が「べらぼうに面白かった」という賛辞を送ったことによるようであるが、先日このブログで取り上げた本田圭佑のデヴィッド・グレーバー『負債論』への賛辞を見てもわかるように著名人の影響力の大きさを感じるところである。

 もちろん、20年以上前に刊行された『教養主義の没落』が売れている原因はそれだけではなく、読書猿によれば「著者は、教養主義の死によって、むしろ本来の「教養」が息を吹き返したのではないかと示唆する」とのことである。たしかに、かつて「教養」と言えば他者に対して知識によるマウントを取るための手段として機能している面があったように思われる。竹内洋の言葉を借りると「象徴的暴力」装置として機能していたということである。竹内洋のこの本によれば、そのような教養主義が没落したのは1970年代ということになるが、私自身が大学生であったのは1970年前後で、その意味では私などは「教養主義の最後の世代」ということになるのだろうが、たしかに、授業にも出ないで雀荘に入り浸っていた私のような学生でもマルクスや吉本隆明ぐらいは読まなくちゃという意識はあったようには思う。(まあ、あまり読まなかったが。苦笑)

 読書猿は「情報がアルゴリズムによって選別される現代にあって、自分の立ち位置や苦悩の原因を知りたいという根源的な知への欲求は、かつてなく切実だ。教養主義という亡霊が去った今、「知りたい」への回帰は、知のあり方が揺らぐ現代を映す鏡であり、また微かな希望でもある」と述べて記事を結んでいるが、「教養主義」ではなく「教養」を求める若い人たちが増えているとすれば、それはたしかに微かな希望なのかもしれない。

「映画三昧」といっても、劇場をハシゴしたわけではなく配信で映画を3本観ただけのことですが…。その3本とは『教皇選挙』、『君が生きた証』、『灼熱の魂』です。

 

1. 教皇選挙 

 評価:★★★☆ (5点満点。★が1点、☆が0.5点)

 衣装、システィーナ礼拝堂のセットなど、映像の豪華さと重厚さに圧倒されるし、レイフ・ファインズを初め演技陣も素晴らしい演技を見せてくれる。それで満足すれば5点満点だが、内容がいかにも中途半端。エンタメに徹するでもなし、何か強力なメッセージを発しているでもなし、亡くなった教皇はチェスの名人、8手先まで読んでいたって…、制作陣の「どうだ」というドヤ顔が想像されるが、私としては「あ、そう」って感じ。少し前に一度観たことがあるのだが、世評と自分の評価との間にあまりにも大きなズレがあるので再鑑賞したが、評価は変わらなかった。

 

2. 君が生きた証

 評価:★★ (5点満点。★が1点、☆が0.5点)

 途中でどんでん返しのような展開になるが、あとはダラダラと場末のバーでのライブ演奏の映像が続くだけ。人物造形が浅すぎる。音楽好きな人には結構受ける映画かも。私の趣味には合わない作品だった。

 

3. 灼熱の魂

 評価:★★★★ (5点満点。★が1点、☆が0.5点)

 見終わって何とも言えない感覚に襲われたあと、この魂をどのように表現すればよいのか、整理がつかない。ドゥニ・ビルヌーブの底知れぬ深さと恐ろしさを感じさせる作品。整理がついたらレビューを書きたいとは思うが…。

 

 

 2016年,当時31歳だった無名の弁護士が書いた一冊の書物がアメリカでベストセラーになった。ドナルド・トランプが米大統領選でヒラリー・クリントンに勝利した年だ。著者の名はJ・D・ヴァンス。第二次ドナルド・トランプ政権の副大統領である。ヴァンスの名が我が国でも広く知れ渡るようになったのは,おそらく今年の2月28日,ホワイトハウスで行われたウクライナ大統領のウォロディミル・ゼレンスキーとの激しい口論の様子を報じたテレビ画面を通じてであろう。そう、ゼレンスキーに対し感謝の念がないとなじったあの人物である。

 

 『ヒルビリー・エレジー』は31歳のヴァンスがイェール大学ロースクールを卒業するまでの回顧録である。タイトルにある「ヒルビリー(hillbilly)」とは「田舎者」という意味の蔑称だが,ヴァンスは「これから述べる私の人生を理解するには,私が自分自身を『スコッツ=アイリッシュのヒルビリーだ』と心の底から思っていることを知っておいてもらう必要がある」(p.8)と述べている。「スコッツ=アイリッシュ」とは18世紀にアイルランド島のアルスター地方からアメリカに移住し,主にアパラチア山脈周辺に住みついた移民の人たちであり,ヴァンスの故郷もグレーター・アパラチアと呼ばれているオハイオ州のミドルタウンという田舎町である。彼らは白人には違いないが,富裕層の多いアメリカ北東部の白人たちとは対照的な環境の中で暮らしている。グレーター・アパラチアについてヴァンスは次のように述べている。「社会階層間を移動する人が少ないことに加え,はびこる貧困や離婚や薬物依存など,私の故郷はまさに苦難のただ中にある」(p.9)。いわゆる「ラストベルト(さびついた工業地帯)」という言葉で我が国でも知られるようになった地域であるが、本書で述べられているのはヴァンスが自分の隣人たちであると言う「アメリカの繁栄から取り残された白人たち」が自分たちの問題をどう感じているかについての話である。

 本書にはヴァンスの家族、親類、近隣の人たちなど様々な人たちが登場するが、その多くが貧困に加え,離婚,アルコール依存,薬物依存,家庭内暴力など様々な問題を抱えている。事実,ヴァンスの母親もパートナーになる男を次々に替えるだけではなく,薬物依存に苦しみ,気に入らないことがあるとすぐに暴力を振るう女性である。例えば,小学生のころのヴァンスが何か母親の気に障ることを言って殺されそうになり,パトカーがやってきて母親を逮捕したこともあったし,高校生の頃には看護師をしていた母親にクリーンな尿をくれと言われたこともあった。看護師免許を更新するために薬物中毒の彼女が無作為抽出の尿検査に応じなければならなかったためだ。ヴァンスの家庭は崩壊状態にあったと言ってよい。そんな環境で育ったヴァンスがアメリカのエリート層を輩出しているアイビー・リーグの一つである名門イェール大学のロースクール(大学院)に入学することができたのは祖母の叱咤激励のおかげであるが、私にはイェールに入学してからヴァンスが感じた違和感についての記述が興味深く思われた。

 「イェール大学ロースクールの変わり種」と題された第12章でヴァンスはイェールのクラスメイトとの付き合いを通して自分が育った環境が彼らといかにかけ離れたものであったかを痛感する。「アイビー・リーグの大学は、学生の多様性にこだわりを持っているため、黒人、白人、ユダヤ人、イスラム教徒など、さまざまな学生がそこに集まっている。だが、そのほぼ全員が両親のそろった、経済的にも何ひとつ不自由のない家庭の出身だ。」(p.339) さらに「イェールのロースクールは州立大学の卒業生を受け入れるべきではないと主張した」教授について、「このような態度が労働者階層に与える影響は計り知れない」(p.344)とも述べる。さらに、ヴァンスは自分自身のアイデンティティに関わるエピソードを紹介して、次のように述べている。

 それはヴァンスがイェールに入学してからしばらくして地元に戻ってガソリンスタンドに立ち寄ったとき、給油をしていた女性にイェールの学生なのかと尋ねられたときのことである。彼はそのときの葛藤について、「イェールのロースクールの学生である自分か、ミドルタウンのヒルビリーの祖父母のもとで育った自分かの、どちらかを選ばなければならなかった」(p.343)と述べ、結局、彼は「ミドルタウンのヒルビリーの祖父母のもとで育った自分」を選択するのだが、そこには圧倒的大多数の学生が富裕層か、少なくとも中流の家庭の子弟で占められるイェールで味わったカルチャーショックというよりも違和感が働いていたのだろう。そして、「私は、自分が新しい世界のなかで文化的な異人だと気づいたときに、ティーンエイジャーのころから悩み続けてきた疑問について真剣に考え始めたのである」(p.346)と述べるのだが、それは環境格差の現実、またそれから来る意識の違いといった「疑問」である。

 「何がヒルビリーを救うのか?」と題された第15章でヴァンスは自分の故郷の人たちと同じような環境にいる人たちをどのようにすれば救うことができるのかということについてあれこれ述べているのだが、「おわりに」と題された最終章で彼は「社会政策は役に立つかもしれないが、私たちが抱える問題を政府が解決してくれるわけではない」(p.424)と述べる。

 本書を通じて浮かび上がるヴァンス像を簡略にまとめると次のようになるだろう。つまり、彼は「アメリカの繁栄から取り残された白人たち」が多く住むラストベルトで薬物依存の母親に苦労しながら外部の世界を知らずに過ごしていたのだが、祖母の叱咤激励のおかげで自分の育った環境とは別の世界の存在に気づき、アイビー・リーグの名門イェールに入学して様々なカルチャーショックや違和感を抱きつつ、自分のアイデンティティは故郷の町にあるということを自覚するとともに、どのようにすればそのよう環境にいる人たちを救うことができるかということを考えるようになったということである。

 ところで、私にはこのヴァンス像と、ゼレンスキーに対してトランプの番犬のように振る舞ったヴァンスとが直線的に繋がらないのだ。事実、ヴァンスは2016年にはトランプについて、貧しい白人労働者階級を一時的に気分よくさせるが根本的に彼らの病を治癒できない「文化的ヘロイン」と呼んで激しく批判していたのである。いったい何がヴァンスをしてこのような反トランプから親トランプへと導いたのだろうか?この点に関して今年の6月に出版された井上弘貴『アメリカの新右翼』(新潮選書)の中でセバスチャン・ゴルカのユーチューブチャンネルでヴァンスが語ったことが紹介されている。それによると、「2016年には自分はまだ何もわかっていなかったが、エリートたちは根本的に堕落しており、この国のことをまったく考えていないというトランプの主張がいかに正しいかを理解するにいたった」(p.171)とのことである。エリートたちが堕落しているという認識は『ヒルビリー・エレジー』の中でイェールに対してヴァンスが感じた違和感に通じるところがあるのだろうか。仮にもしそうだとすれば、ヴァンスの根本的な認識は変化しておらず、「アメリカを正す」手法についての考え方に変化があったとも言えるような気がするのだが、依然として私には疑問が残ったままではある…。いずれにしても、「平等」を掲げてポリティカル・コレクトネスを標榜しながら格差拡大をもたらしたリベラル派の政治に対する「カウンターエリート」(石田健『カウンターエリート』(文春新書))として登場してきたトランプ政権の中でも2028年の大統領選で有力な候補の一人になるかもしれないヴァンスの根本的な思想がいかなるものであるかはアメリの政治、延いては世界の情勢にとっても無視し得ないだろうと思われる。

監督:ジョナサン・グレイザー

キャスト

クリスティアン・フリーデル(ルドルフ・ヘス)

サンドラ・ヒュラー(ヘートヴィヒ・ヘス)

 

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「アンダー・ザ・スキン 種の捕食」のジョナサン・グレイザー監督がイギリスの作家マーティン・エイミスの小説を原案に手がけた作品で、2023年・第76回カンヌ国際映画祭コンペティション部門でグランプリ、第96回アカデミー賞で国際長編映画賞を受賞。ホロコーストや強制労働によりユダヤ人を中心に多くの人びとを死に至らしめたアウシュビッツ強制収容所の隣で平和な生活を送る一家の日々の営みを描く。

 

タイトルの「The Zone of Interest(関心領域)」は、第2次世界大戦中、ナチス親衛隊がポーランド・オシフィエンチム郊外にあるアウシュビッツ強制収容所群を取り囲む40平方キロメートルの地域を表現するために使った言葉で、映画の中では強制収容所と壁一枚隔てた屋敷に住む収容所の所長とその家族の暮らしを描いていく。

 

カンヌ国際映画祭ではパルムドールに次ぐグランプリに輝き、第96回アカデミー賞では作品賞、監督賞、脚色賞、国際長編映画賞、音響賞の5部門にノミネートされ、国際長編映画賞と音響賞の2部門を受賞した。出演は「白いリボン」「ヒトラー暗殺、13分の誤算」のクリスティアン・フリーデル、主演作「落下の解剖学」が本作と同じ年のカンヌ国際映画祭で パルムドールを受賞したサンドラ・ヒュラー。(「映画.com」より)

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 「映画.com」の紹介にあるように、タイトルの「関心領域」とはナチス親衛隊が使った言葉であるが、彼らがなぜそのように呼んだのかといえば、その地域がナチスにとって軍事的にも経済的にも重要な地域だったからである。しかし、この映画にとってこの言葉はまったく別の意味を持つ。それは現実に起こっている事態に対する登場人物たちの関心の持ち方、そしてそれを通じての人間存在の複雑さを描いているのである。

 

 映画の主な舞台は第2次世界大戦中のアウシュビッツ強制収容所と塀を隔てて隣接するルドルフ・ヘス一家の邸宅である。塀の向こう側で何が起こっているかは映像で示されるのではなく、悲鳴、銃声、怒声といった音、それに死体を焼却する際に煙突からもくもくと立ち上る煙によって表現される。ヘスはこの収容所の司令長であって、収容所はいわば彼の「職場」であり、住居は一家にとって「豪華な公務員住宅」である。

 起承転結がはっきりしている映画ではない。いろいろなエピソードが前後の脈略なく唐突に表れたりするのであるが、それらは「関心領域」というこのタイトルに収斂していくのである。上で「関心領域」という言葉について「現実に起こっている事態に対する登場人物たちの関心の持ち方」と書いたが、その観点から見たときに3人の登場人物が浮かび上がる。

 まずルドルフの妻のヘートヴィヒ。彼女は塀の向こうで起こっていることを十分に知っている。しかし、彼女の関心はそこにはない。彼女にあるのは現在の贅沢な暮らしを象徴するこの邸宅への執着だけである。彼女はユダヤ人女性から奪い取られた豪華なコートを身につけてポケットに入っていたルージュで唇を塗るのだ。おぞましい。二人目はヘートヴィヒの母親である。彼女は遠路はるばる娘の住まいを訪ねてきて、その贅沢な暮らしに満足そうな様子なのだが、徐々に塀の向こう側で起こっていることに気づきはじめ、夜中にその家から逃げ出すのである。関心の遮断。そして最後にリンゴを置く少女。彼女は夜の暗闇の中で収容所の周りの囚人たちが作業する場所に来て、彼らのための食料としてリンゴを一つ一つ置いていく。これはルドルフが幼い娘に童話を読み聞かせているシーンに唐突に挿入されるのだが、ヘス一家の「幸せな家庭」と他者のために命がけで行動する少女が見事に対比されているシーンである。

 映画はこのような三人を配置することによって、「関心領域」への無関心、それからの逃亡、積極的な関わりといったパターンを描くことで、「あなたはどう?」と問いかけているように見えるが、じつはそうではない。もし映画がこのような問いを発しているのであるとすれば、それに対する答えはとても難しい。そうではなく、映画が投げかけている問題は、この三人は私たちの中に同居しているのではないだろうかということである。ホロコーストのような究極的な状況を前にして問題を立てれば私たちは答えに窮するが、ある状況に面したとき、私たちは自分の中にあるこの3つの面のどの顔を出すのかによって自分自身を知るのだろうと私は思う。もしこの映画がホロコーストの非道を描いているのだとすれば、あまりにも薄味だし、その状況を前にして「あなたならどうか?」という問いを発しているのであれば、そんな問いには私は答えられない。私はこの映画が人間の内面にある複雑さを扱っているという一点においてこの作品を評価したいと思う。映画の終盤、ヘスがユダヤ人問題の処理の方法についての会議に出席し、その後パーティーをしている人たちを階段の上から見下ろし、ゆっくりと階段を降りていく途中で嘔吐するシーンがある。このシーンの解釈は難しいが、私にはホロコーストという大状況に抗うことなく巻き込まれたヘスの中にあった嫌悪感が噴き出したように思われた。ことほどさように、私たちは複雑な存在なのである。