2016年,当時31歳だった無名の弁護士が書いた一冊の書物がアメリカでベストセラーになった。ドナルド・トランプが米大統領選でヒラリー・クリントンに勝利した年だ。著者の名はJ・D・ヴァンス。第二次ドナルド・トランプ政権の副大統領である。ヴァンスの名が我が国でも広く知れ渡るようになったのは,おそらく今年の2月28日,ホワイトハウスで行われたウクライナ大統領のウォロディミル・ゼレンスキーとの激しい口論の様子を報じたテレビ画面を通じてであろう。そう、ゼレンスキーに対し感謝の念がないとなじったあの人物である。
『ヒルビリー・エレジー』は31歳のヴァンスがイェール大学ロースクールを卒業するまでの回顧録である。タイトルにある「ヒルビリー(hillbilly)」とは「田舎者」という意味の蔑称だが,ヴァンスは「これから述べる私の人生を理解するには,私が自分自身を『スコッツ=アイリッシュのヒルビリーだ』と心の底から思っていることを知っておいてもらう必要がある」(p.8)と述べている。「スコッツ=アイリッシュ」とは18世紀にアイルランド島のアルスター地方からアメリカに移住し,主にアパラチア山脈周辺に住みついた移民の人たちであり,ヴァンスの故郷もグレーター・アパラチアと呼ばれているオハイオ州のミドルタウンという田舎町である。彼らは白人には違いないが,富裕層の多いアメリカ北東部の白人たちとは対照的な環境の中で暮らしている。グレーター・アパラチアについてヴァンスは次のように述べている。「社会階層間を移動する人が少ないことに加え,はびこる貧困や離婚や薬物依存など,私の故郷はまさに苦難のただ中にある」(p.9)。いわゆる「ラストベルト(さびついた工業地帯)」という言葉で我が国でも知られるようになった地域であるが、本書で述べられているのはヴァンスが自分の隣人たちであると言う「アメリカの繁栄から取り残された白人たち」が自分たちの問題をどう感じているかについての話である。
本書にはヴァンスの家族、親類、近隣の人たちなど様々な人たちが登場するが、その多くが貧困に加え,離婚,アルコール依存,薬物依存,家庭内暴力など様々な問題を抱えている。事実,ヴァンスの母親もパートナーになる男を次々に替えるだけではなく,薬物依存に苦しみ,気に入らないことがあるとすぐに暴力を振るう女性である。例えば,小学生のころのヴァンスが何か母親の気に障ることを言って殺されそうになり,パトカーがやってきて母親を逮捕したこともあったし,高校生の頃には看護師をしていた母親にクリーンな尿をくれと言われたこともあった。看護師免許を更新するために薬物中毒の彼女が無作為抽出の尿検査に応じなければならなかったためだ。ヴァンスの家庭は崩壊状態にあったと言ってよい。そんな環境で育ったヴァンスがアメリカのエリート層を輩出しているアイビー・リーグの一つである名門イェール大学のロースクール(大学院)に入学することができたのは祖母の叱咤激励のおかげであるが、私にはイェールに入学してからヴァンスが感じた違和感についての記述が興味深く思われた。
「イェール大学ロースクールの変わり種」と題された第12章でヴァンスはイェールのクラスメイトとの付き合いを通して自分が育った環境が彼らといかにかけ離れたものであったかを痛感する。「アイビー・リーグの大学は、学生の多様性にこだわりを持っているため、黒人、白人、ユダヤ人、イスラム教徒など、さまざまな学生がそこに集まっている。だが、そのほぼ全員が両親のそろった、経済的にも何ひとつ不自由のない家庭の出身だ。」(p.339) さらに「イェールのロースクールは州立大学の卒業生を受け入れるべきではないと主張した」教授について、「このような態度が労働者階層に与える影響は計り知れない」(p.344)とも述べる。さらに、ヴァンスは自分自身のアイデンティティに関わるエピソードを紹介して、次のように述べている。
それはヴァンスがイェールに入学してからしばらくして地元に戻ってガソリンスタンドに立ち寄ったとき、給油をしていた女性にイェールの学生なのかと尋ねられたときのことである。彼はそのときの葛藤について、「イェールのロースクールの学生である自分か、ミドルタウンのヒルビリーの祖父母のもとで育った自分かの、どちらかを選ばなければならなかった」(p.343)と述べ、結局、彼は「ミドルタウンのヒルビリーの祖父母のもとで育った自分」を選択するのだが、そこには圧倒的大多数の学生が富裕層か、少なくとも中流の家庭の子弟で占められるイェールで味わったカルチャーショックというよりも違和感が働いていたのだろう。そして、「私は、自分が新しい世界のなかで文化的な異人だと気づいたときに、ティーンエイジャーのころから悩み続けてきた疑問について真剣に考え始めたのである」(p.346)と述べるのだが、それは環境格差の現実、またそれから来る意識の違いといった「疑問」である。
「何がヒルビリーを救うのか?」と題された第15章でヴァンスは自分の故郷の人たちと同じような環境にいる人たちをどのようにすれば救うことができるのかということについてあれこれ述べているのだが、「おわりに」と題された最終章で彼は「社会政策は役に立つかもしれないが、私たちが抱える問題を政府が解決してくれるわけではない」(p.424)と述べる。
本書を通じて浮かび上がるヴァンス像を簡略にまとめると次のようになるだろう。つまり、彼は「アメリカの繁栄から取り残された白人たち」が多く住むラストベルトで薬物依存の母親に苦労しながら外部の世界を知らずに過ごしていたのだが、祖母の叱咤激励のおかげで自分の育った環境とは別の世界の存在に気づき、アイビー・リーグの名門イェールに入学して様々なカルチャーショックや違和感を抱きつつ、自分のアイデンティティは故郷の町にあるということを自覚するとともに、どのようにすればそのよう環境にいる人たちを救うことができるかということを考えるようになったということである。
ところで、私にはこのヴァンス像と、ゼレンスキーに対してトランプの番犬のように振る舞ったヴァンスとが直線的に繋がらないのだ。事実、ヴァンスは2016年にはトランプについて、貧しい白人労働者階級を一時的に気分よくさせるが根本的に彼らの病を治癒できない「文化的ヘロイン」と呼んで激しく批判していたのである。いったい何がヴァンスをしてこのような反トランプから親トランプへと導いたのだろうか?この点に関して今年の6月に出版された井上弘貴『アメリカの新右翼』(新潮選書)の中でセバスチャン・ゴルカのユーチューブチャンネルでヴァンスが語ったことが紹介されている。それによると、「2016年には自分はまだ何もわかっていなかったが、エリートたちは根本的に堕落しており、この国のことをまったく考えていないというトランプの主張がいかに正しいかを理解するにいたった」(p.171)とのことである。エリートたちが堕落しているという認識は『ヒルビリー・エレジー』の中でイェールに対してヴァンスが感じた違和感に通じるところがあるのだろうか。仮にもしそうだとすれば、ヴァンスの根本的な認識は変化しておらず、「アメリカを正す」手法についての考え方に変化があったとも言えるような気がするのだが、依然として私には疑問が残ったままではある…。いずれにしても、「平等」を掲げてポリティカル・コレクトネスを標榜しながら格差拡大をもたらしたリベラル派の政治に対する「カウンターエリート」(石田健『カウンターエリート』(文春新書))として登場してきたトランプ政権の中でも2028年の大統領選で有力な候補の一人になるかもしれないヴァンスの根本的な思想がいかなるものであるかはアメリの政治、延いては世界の情勢にとっても無視し得ないだろうと思われる。