1月はレビューを書いた2作品(『誰もがそれを知っている』と『レイブンズ』)以外に以下の3作品を観ました。

 

1. 『火口のふたり』(2019年 日本)

監督:荒井晴彦

キャスト

柄本佑(永原賢治)

瀧内公美(佐藤直子)

 

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直木賞作家・白石一文が男と女の極限の愛を描いた小説「火口のふたり」を、柄本佑と瀧内公美の共演で実写映画化。「幼な子われらに生まれ」「共喰い」などの名脚本家で、本作が監督第3作となる荒井晴彦が監督・脚本を手がける。東日本大震災から7年目の夏。離婚、退職、再就職後も会社が倒産し、全てを失った永原賢治は、旧知の女性・佐藤直子の結婚式に出席するため秋田に帰郷する。久々の再会を果たした賢治と直子は、「今夜だけ、あの頃に戻ってみない?」という直子の言葉をきっかけに、かつてのように身体を重ね合う。1度だけと約束したはずの2人だったが、身体に刻まれた記憶と理性の狭間で翻弄され、抑えきれない衝動の深みにはまっていく。(「映画.com」より)

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出演者は柄本佑と瀧内公美の二人だけで、この二人の性愛シーンが全体の70パーセントぐらいを占める。昭和の時代のロマンポルノを思い出させる。監督には自分の世界観があるのだろうが、私にはまったく伝わってこなかった。それ以上に、取って付けたような台詞回しにうんざりした。例えば、直子と賢治が二人で浴槽につかって話す会話とかラストの会話とか、話の内容が唐突すぎないか。2019年の「キネマ旬報」ベストテン1位なのだが、私には不可解。柄本佑も瀧内公美も魅力的な俳優なのに、もったいない。

 

2. 『依頼人』(1994年 アメリカ)

督:ジョエル・シュマッカー

キャスト

スーザン・サランドン(レジー・ラブ)

トミー・リー・ジョーンズ(ロイ・フォルトリッグ)

ブラッド・レンフロ(マーク・スウェイ)

 

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偶然自殺の現場を目撃し、ある事件について″知りすぎた″少年が過去に傷を持つ女弁護士とともに様々な利害の渦巻く社会の中で戦っていくヒューマン・サスペンス。原作は最近立て続けに「ザ・ファーム 法律事務所」「ペリカン文書」が映画化されているジョン・グリシャム。今回も製作のアーノン・ミルチャンがゲラ刷りの段階で原作を読み、すぐさま監督に話を持ちかけた。監督は「セント・エルモス・ファイアー」「フォーリング・ダウン」のジョエル・シューマカー。製作は「キング・オブ・コメディ」「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」「JFK」などを手がけているアーノン・ミルチャンとスティーヴン・ルーサー。共同製作はメリー・マクラグレン。脚本はアキヴァ・ゴールズマン、ロバート・ゲッチェル。撮影はトニー・ピアース・ロバーツ。音楽はハワード・ショアが担当している。主演は「知りすぎた少年」にオーディションで5000人の中から選ばれた新人ブラッド・レンフロ、「アトランティック・シティ」「テルマ&ルイーズ」「僕の美しい人だから」などのスーザン・サランドン。ほかに、「ある愛の詩」「JFK」「逃亡者(1993)」のトミー・リー・ジョーンズ、「ラブリー・オールドメン」「モ'・ベター・ブルース」のオシー・デイヴィスなどが共演。(「映画.com」より)

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  ひと言で言うといろいろな意味で生意気なガキとクセの強い女弁護士がマフィアを相手に戦うという話だが、ご都合主義満載の映画でテレビドラマを観るぐらいの気分で観ればよいレベル。これが、電話ボックス一つでワクワクするような映画「フォーン・ブース」の監督が作った作品とは俄には信じがたい。

 

3. 『桐島です』(2025年 日本)

監督:高橋伴明

キャスト

毎熊克哉(桐島聡)

奥野瑛太(宇賀神寿一)

北香那(キーナ)

甲本雅裕(桐島のアパートの隣人)

高橋惠子(AYA)

 

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1970年代に起こった連続企業爆破事件の指名手配犯で、約半世紀におよぶ逃亡生活の末に病死した桐島聡の人生を映画化。2024年1月に末期の胃がんのため、神奈川県内の病院に入院していることが判明した桐島聡は、偽名で逃亡生活を送っていたものの「最期は本名で迎えたい」と素性を明かし、大きく報道されたが、その3日後に他界。数奇な道のりを歩んだ桐島聡の軌跡を、「夜明けまでバス停で」の高橋伴明監督のメガホンで描く。

 

1970年代、高度経済成長の裏で社会不安が渦巻く日本。反日武装戦線「狼」の活動に共鳴した大学生の桐島聡は、組織と行動を共にする。しかし、1974年の三菱重工爆破事件に関わり、多数の犠牲者を出してしまったことで、深い葛藤に苛まれる。組織が壊滅状態となり、指名手配された桐島は偽名を使い逃亡生活をつづけ、ある工務店で住み込みの職を得る。ようやく静かな生活を手にした桐島は、ライブハウスで知り合った歌手キーナが歌う「時代遅れ」に心を動かされ、相思相愛の関係となるが…。

 

桐島聡役を毎熊克哉が演じ、奥野瑛太、高橋惠子、白川和子、下元史朗、甲本雅裕らが顔をそろえる。(「映画.com」より)

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題材としては桐島聡の逃亡生活を高橋伴明監督がどのように描くかに興味を引かれたが、前半の3分の1ぐらいの爆破事件に関わっていくまでの描写がチープで、そこに対する桐島聡の心情などが描き切れておらず、そのために逃亡生活の部分との連続性がやや不明なものになってしまった。逃亡生活の部分は時系列的に描かれており、逃亡中の様子などは伝わってきたが、自分が起こした事件や自分の仲間が起こした多くの犠牲を出した事件について桐島自身がどのような思いを持っていたのかといったことは垣間見えるものの描き切れていない印象を受けた。したがって、桐島が最後に自分の本名を名乗ったことについての高橋伴明監督の解釈がどのようなものであるか私にはあまり伝わってはこなかった。やや辛口の感想になったが、劇中歌として歌われる河島英五の「時代おくれ」は桐島聡の心情のある部分を歌っているようにも思われるので、あの歌を採用したのはよかったと思われる。ラストに高橋恵子が登場するシーンがあるが、唐突で不要なシーンだと思われる。甲本雅裕はなかなかよい味を出していた。

 

監督:マーク・ギル

キャスト

浅野忠信(深瀬昌久)

瀧内公美(深瀬洋子)

古舘寛治(深瀬助造)

池松壮亮(正田モリオ)

高岡早紀(南海)

 

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「イングランド・イズ・マイン モリッシー、はじまりの物語」で知られるイギリスのマーク・ギル監督が浅野忠信を主演に迎え、世界的に高い評価を受け続ける写真家・深瀬昌久の波瀾万丈な人生と、彼の最愛の妻にして被写体であった洋子との物語を、実話とフィクションを織り交ぜながら描いたダークファンタジーラブストーリー。

 

北海道の高校を卒業した深瀬昌久は、父の写真館を継がずに上京する。さまよう日々のなかで、深瀬は美しく力に満ちた女性・洋子と恋に落ちる。洋子は深瀬の写真の主題となり、2人はパーソナルでありながら革新的な作品を生みだしていく。家族愛に憧れる深瀬は洋子の夢を支えるため懸命に働くが、ついに彼女の信頼を裏切ってしまう。深瀬の心の闇は異形の“鴉の化身”へと転生し、哲学的な知性で彼を芸術家の道に導こうとする。

 

天才写真家の狂気と純粋さを浅野が繊細かつワイルドに演じ、「火口のふたり」の瀧内公美が洋子を存在感たっぷりに演じた。(「映画.com」より)

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 実在の写真家・深瀬昌久(1934-2012)をモデルにした作品。寡聞にして私はこの写真家のことをまったく知らなかったのだが、Wikiによると「写真表現を通して「私性」と「遊戯」を追求した写真家として知られる」とある。実在の人物をモデルにしているとは言え、映画である以上、マーク・ギル監督による深瀬像であることは言うまでもない。

 

 「人生は一行のボオドレエルにも若かない」(『或阿呆の一生』)と言ったのは芥川龍之介だが、本作で描かれているのはボードレールになることができなかった男の物語である。なぜ彼はボードレールになれなかったのか。マーク・ギルはその原因を彼の「人生」、つまり妻の洋子を養わなければならないという義務感、さらには父親である助造との確執にあるかのように描いているが、実はそうではない。私がこの映画を通じて見たのは、(深瀬のファンには申し訳ないが)結局、彼にはボードレールになるだけの才能がなかったのだということである。そのことを彼は写真家としての人生の絶頂において思い知らされる。被写体としての妻の洋子の存在なくして彼の写真は成立しなかったのである。彼の絶望が伝わってくる。そして洋子は彼の元を去る。太宰治は小説『葉』の冒頭でヴェルレーヌの言葉を引用して次のように書いている。「撰ばれてあることの恍惚と不安と二つわれにあり」。深瀬は選ばれてある人であった。その自意識は彼の芸術家としての思いが具現化された巨大なカラスの化身として表れる。しかし、そのことが彼の人生を不安に満ちたものにする。それは自己の才能に対する疑念であり、それが彼をして酒に溺れさせ、助手の正田の前で首つりのまねごとをするという外連となって表れる。いや、あれは本気だっただろう。

 洋子と別れた深瀬は他の女性を被写体として写真を撮る。それは深瀬が求めたものとはまるでかけ離れたものであった。その絶望感の深さは選ばれてある者でなくては理解できないものなのだろう。その後、深瀬はカラスを被写体とした写真で小さな成功を得る。しかし、それはもはや深瀬の求める作品ではない。久しぶりに再会した洋子はその写真を見て言う。「私にはあなたの肖像に見える」。ある意味、残酷な言葉だ。しかし、それは誰よりも深瀬を愛し、彼を理解していた人の言葉が持つ真実なのだ。この映画は深瀬と洋子の愛の物語でもある。愛の物語?いや、「愛憎相半ばする」物語と言ったほうが正確だろう。

 深瀬を演じた浅野忠信と洋子を演じた瀧内公美の演技に引き込まれた。この映画はこの二人の存在がなければもっと薄味な作品になっていただろう。それだけではない。深瀬の父親役の古舘寛治、深瀬の助手役の池松壮亮、バーのママ役の高岡早紀もそれぞれ味わい深い演技であった。マーク・ギルのキャスティングの素晴らしさにも注目したい。

 

監督:アスガー・ファルハディ

キャスト:

 ペネロペ・クルス(ラウラ)

 ハビエル・バルデム(パコ)

 リカルド・ダリン(アレハンドロ)

 バルバラ・レニー(ベア)

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別離」「セールスマン」でアカデミー外国語映画賞を2度受賞しているほか、カンヌやベルリンといった国際映画祭でも高い評価を受けているイランの名匠アスガー・ファルハディが、スペインの田舎町を舞台に全編スペイン語で撮り上げたミステリードラマ。主演をペネロペ・クルスとハビエル・バルデムが務め、実生活で夫婦の2人が共演した。アルゼンチンで夫と2人の子どもと暮らすラウラが、妹アナの結婚式に出席するため、故郷スペインの小さな村に子どもたちを連れて帰ってくる。地元でワイン農園を営む幼なじみのパコや家族と再会し、ともに喜ばしい日を迎えるラウラたちだったが、結婚式のアフターパーティのさなか、ラウラの娘イレーネが姿を消してしまう。やがて何者かから巨額の身代金を要求するメールが届き、イレーネが誘拐されたことが判明。それぞれが事件解決のために奔走するなかで、家族の間にも疑心暗鬼が広がり、長年に隠されていた秘密があらわになっていく。2018年・第71回カンヌ国際映画祭コンペティション部門出品。(「映画.com」より)

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 アスガー・ファルハディ監督の映画の特徴は、なにかある出来事が起こったとき、それまでの均衡を保っていた関係に小さな亀裂が入り、やがてそれが修復不可能なものにまで発展してしまう人たちの心の揺れを見事に剔抉するところにある。ただ、ファルハディ監督はそうなってしまう決定的な原因は誰かが悪いからだということを描くのではない。したがって、映画にカタルシスを求める観客にとっては見終わったあと、どこかモヤモヤしたものが残るのだ。しかし、少し考えてみれば分かることだが、私たちの人生の現実はカタルシスのようなものによって一挙にスッキリするものになっているだろうか。たしかに映画の中には終盤に問題が一挙に解決され、観客にカタルシスを与えてくれる作品もたくさんある。それを否定するつもりはないし、私もそういった作品、つまりエンタメ映画が嫌いではない。ただ、そのカタルシスが長続きしないのも確かである。言わばマッサージ効果と同じことである。これに対し、観客に向かって私たちの現実の一部を切り取り、それを提示してくる映画も存在する。つまり、「本当のこと」を語る映画なのだ。当たり前のことだが、私たちは生きている限り自分にとっての「本当のこと」に向き合わざるを得ないのだが、その種の映画は観客である私たちをその世界に連れて行くのである。もちろん、映画は哲学の教科書ではない。難しい言葉で監督の世界観だけを語られても退屈なだけだ。私が観たい映画はエンタメとしての面白さを通じて「本当のこと」が語られている作品である。

 さて、能書きが長くなったが、以上の基準に照らしてこの映画を観たときに、いつものファルハディ監督らしさとともに、いささか物足りなさをも感じたというのが正直なところである。物語の背後にあるのは社会的・経済的格差からくる登場人物たちの心の中にある屈折した感情である。

 映画の序盤。登場人物たちは久々の再会を懐かしみ、喜び合い、親族の結婚を祝福する。その中で起こる誘拐事件。それをきっかけに人びとの長年の思いが一挙に噴き出す。その辺りの描き方はやはりいつものファルハディ監督といったところだ。私が物足りなさを感じたのは、この物語の中心人物であるラウラとパコの心の揺れの描き方に説得力があまり感じられなかった点にある。その理由はサスペンスとしてのストーリーの面白さに必要以上にこだわったことに尽きるのではないかと思うのだが、その結果、彼らの言動がご都合主義に流れて、その分薄っぺらいものになっている箇所が随所に見られたのである。例えば、ラウラがパコに対して言い放つ決定的な言葉。発せられた言葉の虚実はともかく、その言葉を発するまでのラウラの心の揺らぎが映画からは見えてこないため、観客としては虚を突かれたように感じてしまうのである。また、パコが必要以上にイレーネの救出にのめり込んでいく心情が映画からはあまり伝わってこなかったのである。だから私たちはイレーネとともに「…(ネタバレになるためセリフは伏せておく)」と発するより仕方がないのだ。もっとも、ファルハディ監督がイレーネにこの言葉を言わせたのは観客に対して「わかるでしょ」とのことだとは思うが…。もちろん、そうは言っても、事件が「解決」してからエンディングに至るまでの描写にはファルハディ監督らしさを見ることはできたのだが…。

 2025年に読んだ本・ベスト10の後半になるが、前回の第1~5位に引き続き、第6~10位は以下のようである。

 

6. 刈谷剛彦『日本人の思考』(ちくま新書)

 

 

 教育社会学者としての著者の立場から日本人の思考の傾向について述べた書物であるが、副題の「ニッポンの大学教育から習性を読みとく」とあるように、扱われているのは日本の大学教育が翻訳語を通じて行われてきたことと日本人の思考形成の関係である。

 著者はまず日本の大学の大衆化に言及し、「大衆」という言葉は西洋語のMassesやmassの翻訳語として1920年代に発明されたものだが、包括的で曖昧な言葉として流通したと述べる。著者によれば、日本の大学教育はこのような翻訳語によって組み立てられた言葉で行われてきたが、それは日本の大学の大衆化の動因であるとともにその結果でもあった。ところが、ほとんどの場合、翻訳語は原語がもつ意味や文脈からズレており、そのズレを意識しないまま行われている大学教育は演繹型と言われる思考の習性を生み出し、それを普及させることによって日本の現状に即した帰納的思考の発展を妨げた。著者はこのような問題を指摘した上で英語のclassの翻訳語としてその言葉の意味や文脈を含意する「階級」という言葉とともに曖昧な意味で使われる「階層」という言葉をも当てられることによって階級概念を欠いた格差社会論などが広まることになったと述べる。

 本書は以上のような主張を展開すると同時にテーマを追求するプロセスを「メイキング・オブ」としてステップ・バイ・ステップで紹介しているので、若い研究者にとっても研究の手順を見るのに役立つものと思われる。

 

7. J.D.ヴァンス『ヒルビリー・エレジー』(光文社未来ライブラリー 関根光宏・山田文訳)

  これは2025年8月23日に当ブログで書評を書いた本である。J.D.ヴァンスについてはいろいろな見方があるだろうが、現在のトランプ政権を支える重要なブレインの一人であり、彼がどのような出自を持ち、それが彼の思想形成にどのような影響を及ぼしているかを見るのに役立つ一書であると思われる。なお、トランプ政権のあり方を考えるという点においては今年発刊された井上弘貴『アメリカの新右翼』(新潮選書)と石田健『カウンター・エリート』(文春新書)が興味深い書物であった。

 

 

 

 

8. トーマス・セドラチェク『善と悪の経済学』(東洋経済新報社 村井章子訳)

 

 

 少し前のことになるが、私の学生時代からの友人で長年ある大学で経済学を教えていた人物と話をしていたときにこの本のタイトルを口にしたところ、即座に「経済学に善も悪も関係ないよ」という答えが返ってきた。まさにこういった返答の背後にある現在の主流派経済学のアプローチに異を唱えているのが本書で語られている内容である。主流派経済学のアプローチの根底には自己の効用を最大化することだけを意図して合理的な行動を選択する人間像(ホモ・エコノミクス)という仮定があり、従来からそういった恣意的な仮定から出発して数学的手法を用いてその仮定の中に既に含まれている結論に到達することにどれほどの現実性があるのかという批判があったのだが、本書は一見するとおよそ経済学を論じている書物とは思えない第1章~第4章の目次(第1章「ギルガメッシュ叙事詩」、第2章「旧約聖書」、第3章「古代ギリシャ」、第4章「キリスト教」)を見ても分かるように、経済学を論じるには善悪、つまり倫理の問題を抜きにしては語れないと主張する点に特徴がある。

 

9. 島倉原『MMT講義ノート』(白水社)

 

 

 MMTとはModern Monetary Theory「現代貨幣理論」の略で、本書はそのMMTについての解説書である。類書もいろいろ発刊されているが、MMTの理論とその政策を丁寧にわかりやすく、かといってレベルを落とすことなく解説している点で本書は非常に優れた書物である。現在、新聞やテレビを見ると「積極財政か緊縮財政か」という話題をよく目にするが、そもそもこの問題は究極的には「貨幣とは何か」ということに発している。この点に関して経済学には二つの考え方がある。つまり、貨幣とは物々交換の媒介物であるとする「商品貨幣論」と貨幣とは信用、つまり負債であるとする「信用貨幣論」である。MMTは後者の考え方に基づく理論であるが、そこから出てくる結論をひと言で言うと「税金は財源ではなく、国債は資金調達手段ではない」ということである。これは逆に言うと、税金は財政出動において発行した通貨を(特に好況期に)回収する手段であり、国債は中央銀行による短期金利の調整手段であるということになる。本書はこのようなMMTの理論を丁寧に解説するとともに、それに基づく経済政策をも提案しており、その考え方に賛成するにせよ、「MMTはトンデモ理論だ」と批判するにせよ、一読の価値のある書物である。

 

10. 伏尾美紀『百年の時効』(幻冬舎)

 これは2025年9月5日に当ブログで書評を書いた本である。

 

 

 

 

 最初にひと言断っておくと、私は今までの人生において「東大なんか入らなきゃよかった」と思ったことは一度もない。なぜなら…東大に入ったことがないから。(笑) 「入ったことがない」どころか東大を受験したことすらない。いや、もっと言うと、東大構内に足を踏み入れたことさえない。要するに私は東大とはまったく無縁な人生を送ってきたのだが、先日、図書館に行って書棚をいろいろと見て回っていたときに、そのタイトルが目について借りてみたのが本書である。

 

 本書の構成は「第1部 あなたの知らない東大」と「第2部 東大に人生を狂わされた人たち」から成っている。第1部では東大生のタイプと東大入学後の東大に特有な履修システムなどについて述べられていて、それによると、東大生には天才型、秀才型、要領型という3つのタイプが存在するとのこと。天才型というのは集中力と頭の回転が桁外れで、何をやっても圧倒的にスピードが速い人たちだが、このタイプはそれほど多くはなく、東大生全体の1割かそれ以下だろうとのこと。医学部医学科に進学する理科三類(理三)の学生の大半はこのタイプらしい。秀才型は天才型ほど頭の回転は速くはないが、並の人よりははるかに優秀でコツコツと物事を成し遂げるタイプで、著者の感覚では東大生の半数以上がこのタイプだそうである。要領型は東大入試をテクニックでクリアしてきた人たちで、東大生の3割ぐらいはこのタイプとのことで、著者もこのタイプに属するらしい。要するに「東大生」と言っても、私たちが想像する以上にその頭脳格差は大きいようである。それだけではなく、経済格差、情報格差などにもかなりの開きがあるとのことである。

 学部・学科の所属に関して言えば、これは東大に特有なシステムだが、東大生は入学した時点では進学する学部・学科は決まっておらず(一応、入学試験は文科一類(文一)、文二、文三、理一、理二、理三に分かれて実施されるが)、3年生の専門課程に進学するときにはじめて学部・学科が決まる。これを進学振り分け(通称・進振り)と言うらしいのだが、人気のある学部・学科の場合、2年生前期までの成績次第では自分の希望する学部・学科に進学できないこともよくあるそうだ。要するに、東大生は東大に入学したあとも競争をしなければならないのであって、今度は東大生同士での競争なので、ある意味入試よりも厳しい争いになるとのこと。

 第2部は東大に入った「にもかかわらず」その後の人生において苦労した人たちへのインタビューで構成されている。これが本書のテーマであるが、例えば、法学部を出てメガバンクに就職したものの行内でいじめに遭い鬱病を発症した人や大学院の修士課程を修了してキャリア官僚になったものの安い給料、1日16時間以上の長時間労働、議員によるパワハラなどで「東大に入らなければこんなつらい仕事に就くこともなかったかな」と言っている人たちである。また、法学部を卒業して家庭の事情により地方の市役所職員になったものの高学歴をネタにいじめに遇い、一年半で退職して地方国立大学の医学部に入学して医師を目指している人。さらに、大学院の博士課程で博士号を取得したものの大学教員になれなかった人。これはいわゆる「高学歴ワーキングプア」と称される人たちの一人だが、まあ、苦労して博士号を取得したところで大学教授になれるのは10人に1人もいない世界ではあるようだが…。最後に頸椎椎間板ヘルニアの治療を受けるため健康保険に加入する必要があり、そのために東大卒でありながら高卒と偽って派遣の警備員をしている人が紹介される。年収は230万円で手取り180万円だそうだが、本とネコで生活は満たされているそうだ。しかし、インタビューの最後に「親が死んで、飼っているネコも死んだら、俺に心残りはないし、川に流れてもいいかな」と考えているらしい。

 最後に著者は東大を出た人が幸せに生きるための提言として、「東大を出たことを忘れる」、「環境が合わなければ速やかに脱出する」、「自分と他者を比べない」という3点を挙げているが、どうなんだろう…。

 タイトルに惹かれて読んでみたが、本書の中心的テーマである第2部で述べられていることに関しては、「まあ、そういう人たちもいるだろうな」という感想で、地方の市役所職員になった人を除いては、特に東大に入ったことの後悔でもないように思うのだが…。実際、本書193ページに掲載されている「オープンワーク株式会社」が2019年に公表した「出身大学別30歳年収ランキング」を見ると、東大卒は810.9万円で2位の一橋大学(739.6万円)、3位の京大(727.6万円)を大きく引き離して1位なので、本書に登場する人たちはどちらかというと東大生の中でも圧倒的少数派ではないかと思われる。著者は本書を通じて、東大生には頭は良いが対人スキルが低い人たちが目立つと述べているが、本当にそうなんだろうか?個人的な経験で言えば、私が働いていた業界にも東大卒の人たちは何人もいたし、よく一緒に飲みに行ったりしたこともあるが、特に対人スキルが低いとか、風変わりな人たちだと感じたことはなかったので、著者が本書を書いた意図はイマイチ理解しづらいところがある。もっとも、私が仕事をしていた業界には、「東大なんか入らなきゃよかった」と思っている人たちはおそらく存在しないだろうということは言えそうではあるが…。