「木下貴司・瑠古堂書店」のYouTubeチャンネルが2日前に更新されて松本清張『高台の家』の紹介をしていたのだが、この小説も先日図書館で借りた『松本清張全集 39』に掲載されているので早速読んでみた。話の内容は松本清張の作品にしてはイマイチ面白くなかったのだが、この小説の中で人類学者のシロコゴロフの書いた『北方ツングースの社会構成』という書物の日本語翻訳からの引用があり、その引用部分に「支那音楽が少しづつ満州のツングースに浸透して来てゐる。」という記述があって「エッ!」と思ったのである。シロコゴロフという人類学者は実在の人物であり、『北方ツングースの社会構成』という書物も存在するのだが、私はその書物もシロコゴロフという人類学者もまったく知らなかった。私が「エッ!」と思ったのはそのことではなく、また上に引用した部分に「支那」という現在では差別語とされている表記が用いられていることについてでもなく、上に引用した部分に表記されている「少しづつ」という言葉遣いについてである。通常、一定量の事物について、それを均等に割り当てたりその分量だけを繰り返し行うことを表す場合には、例えば「一人ずつ」のように「ずつ」と表記するべきであって、「づつ」は誤表記ではないかと思ったからである。したがって、ここでも「少しずつ」と書くべきではないかと思って国語辞典を引いてみると「ずつ」は掲載されているものの「づつ」は不掲載である。

 

 

 ところが、全集でもその点についての注釈はまったくないので、AIに聞いてみたところAIの答えは以下のようであった。

 

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🎯結論:現代仮名遣いでは「ずつ」が正しい。

文化庁『公用文作成の要領』および『現代仮名遣い』では、 「ずつ」を用いると明記されています。

・一人ずつ 

・少しずつ 

・10個ずつ配る 

いずれも「ずつ」 が正しい。

 

🧭なぜ「ずつ」なのか(歴史的背景)

● もともとは「づつ」だった。 

歴史的仮名遣いでは「づつ」と書かれていました。 

語源は「つつ(接続助詞)」が濁音化したものとされます。

 

● しかし現代仮名遣いでは「ず」と「づ」を区別しない。

現代仮名遣いでは、 

・「ず」(/zu/) 

・「づ」(/dzu/) 

の音の区別が失われたため、原則として「ず」に統一されました。

そのため、歴史的には「づつ」でも、現代では「ずつ」に一本化されています。

 

📌 例外はあるのか?

  ありません。

  「ずつ」は例外なく「ずつ」です。

 

「つづく/つづける」など語源的に「つ+づ」が残る語とは異なり、「ずつ」は語源的理由による例外扱いにはなっていません。 (copilotより)

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 ネットで調べたところ、『北方ツングースの社会構成』の翻訳の刊行年は1941年なので、「支那」という言葉を使っているのは不思議ではないし、「ゐる」という表記からも分かるように、歴史的仮名遣いを用いていたために「づつ」と表記されているということであろう。

 最近、「木下貴司・瑠古堂書店」というタイトルのYouTubeチャンネルを時々視聴している。チャンネル登録者数はそれほど多くはないが、12分前後で松本清張の作品を紹介してくれるチャンネルで、私にとってはなかなか面白い。松本清張の作品なので推理小説が多く、当然のことだがネタバレはいっさいなし。先日も松本清張の『表象詩人』が紹介されていたので興味深く聞かせてもらったのだが、面白そうな小説だったので早速それが掲載されている『松本清張全集 39』を図書館に予約すると、ラッキーなことに翌日貸し出し可能の通知が来た。

 

 私はよく知らなかったのだが、もともと1972年に『週刊朝日』に連載されていた小説だそうである。40年の時を隔てて殺人事件の真相が解明されていく心理戦を中心とした物語なのだが、ストーリーの進展もさることながら、小説の中で外函付きの本が推理のポイントになっており、「そう言えば、最近外函の付いた本など見たことがないな~」と思って自分の書棚を見渡したところほんの何冊かしかその類の本がなかった。20年ほど前に若い頃に買ってずっと所蔵していた本の大半を古書店に売ったことがあって、そのときに外函付きの本も処分していたのである。

 

 

 アップした画像は大阪市立大学経済研究所編『経済学辞典』(岩波書店)で、大学の経済学部に入学して最初に買った本である。そういう経緯もあったので20年前に売らなかったのだろうが、その後この辞典を開いた記憶はない。奥付を見ると、「1965年9月21日初版」となっているが、現在ではこの辞典に掲載されている項目のほとんどはウィキペディアで検索すれば分かることだと思われるし、そもそも情報そのものも古くなっている項目も多いことだろう。その後、中央公論社から刊行された『世界の名著』シリーズも何冊か買った記憶があるが、あのシリーズも外函に入っていた。もっとも、読んだのは「アダム・スミス」だけだったが…。そういえば大阪市立大学もいつの間にか大阪府立大学と統合して大阪公立大学という名称になっているのだった。私は受験しなかったが、(今もそうだと思うが)当時は関西の受験生の間ではかなり人気のある大学だった。

 

 話が別の方向にそれたが、以前と比べて本の体裁は相当変化した。ハードカバーの本などほとんど見かけないし、まして外函付きの本など最近は見たこともない。本が売れないこの時代にそんなことをしたら本の製作にコストがかかりすぎるということがその理由だろうが、本を読むという行為そのものにそれほど価値を見いだすことができない人が激増しているのだろう。本以外にいろいろな情報源が存在する今の時代にコスパとかタイパとかを考えたらあまり効率のよい行為とは言えないが、読書は情報を得るためだけにあるのではなく、ゆっくりとしたペースで物を考えながら文字を追うという行為もなかなか楽しい「娯楽」だと思えるのだが…。

 

監督:中平康

キャスト

 桂木洋子(宮原紀久子)

 宮口精二(宮原雄一郎)

 伊藤孝雄(川島郁夫)

 

(物語)

 大学教授である宮原雄一郎の14歳年下の妻・紀久子は夫の教え子である大学生の川島郁夫と不倫関係にある。ある夜、紀久子は自宅の近くの林の中で郁夫の激しい抱擁に身をまかせていたのだが、そのとき二人はタクシー強盗事件を目撃する。被害者の運転手は無残な姿で殺害されるのだが、犯人が去ったあと二人は現場から逃げる。翌日、事件は大きく報道されるのだが、目撃者として警察に届ければ二人の不倫の恋も明るみに出てしまう…。

 

 吉村昭原作の短編を中平康監督で製作されたサスペンス映画で、殺人事件そのものではなく、それを目撃した二人の男女の苦悩を中心に展開される。ラストは「そうくるか」という感じだが、71分という短尺のせいもあって、やや単調な印象が拭えない。そこに至るまでのプロセスをもう少し丁寧に描くとか、あるいは郁夫の妹の英子の役回りがイマイチ活かされていないようにも思われるので、ラストの展開からさらにもう一つの展開があってもよかったのではないかとも思われる。その点サスペンスとしての物足りなさは残るが、不倫に踏み込んでしまった女の不安や情念をよく演じていた桂木洋子の演技はなかなかよかったと思う。

 

 1959年の日活のモノクロ映画で、宮口精二や伊藤孝雄は覚えているものの、桂木洋子はよく知らない女優なのだが、ネットで検索すると黛敏郎夫人で映画にも多数出演されていて『喜びも悲しみも幾年月』にも出演されている。ウ~ン、記憶にない…。

 

監督:ケリー・ライカート

キャスト

ダニエル・ロンドン(マーク)

ウィル・オールダム(カート)

 

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長編デビュー作「リバー・オブ・グラス」で高く評価されたケリー・ライカート監督が、ジョナサン・レイモンドの短編小説を基に撮りあげた長編第2作。妊娠中の妻と故郷で暮らすマークのもとに、街に戻って来た旧友カートから電話が掛かってくる。久々に再会した2人は、旧交を温めるべく山奥へキャンプ旅行に出かけるが…。「パッチ・アダムス トゥルー・ストーリー」のダニエル・ロンドンがマーク、シンガーソングライターのボニー・プリンス・ビリーことウィル・オールダムがカートを演じた。(「映画.com」より)

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 この映画のストーリーを語れと言われても、取り立てて語るようなストーリーはないのである。あえて言えば、故郷の町で暮らすマークのもとに、久しぶりに地元に戻ってきたカートから電話があり、マークの車に乗って二人で山奥の温泉に行って戻ってくるというだけの話だ。これだけの話になぜ魔法にかかったように引き込まれるのだろうか。

 

 若かった頃、マークとカートはお互いに何の束縛もなく自由気ままによく一緒に連れだって遊んだ仲なのだろう。久しぶりに会った二人なのでいろいろと話が弾むはずだが、車中でもそれほど会話が弾んでいるようには見えないのだ。沈黙が続くなか車の中から見える風景だけが流れていく。しかし、そこにこそケリー・ライカート監督の狙いがある。

 若い頃は同じ時間、同じ価値観を持っていたはずの二人なのだが、今の二人の境遇はとてもかけ離れたものになっている。マークは妻がいて出産を控えている身であり、地域のコミュニティとも溶け込んでいる。カートは自由気ままにあちらこちらを渡り歩くヒッピーのような生活をしてきたのであろう。いわば、一方は自分を取り巻く環境にがんじがらめになっており、他方はある意味社会からドロップアウトしているのである。もはや共有できる価値観はどこにもないのだ。しかし、けんかをするわけではない。なんとなく落ち着かないのだ。その関係をケリー・ライカート監督は言葉ではなく二人の表情やしぐさで語りかけてくる。

 

 束縛と自由。私たちはいつまでも若い頃のような自由気ままな気分で生きることはできない。いつの間にかゆっくりと「社会的責任」という名のしがらみによって絡め取られていかざるをえないのだ。マークはどこかそのことの息苦しさを感じているようにも見えるが、カートのように生きることはできないという自覚があるのだろう。しかし、カートは本当に自由なのだろうか。彼はどこか寂しそうなのである。

 日帰りのつもりが少し道に迷ってしまいテントを張って夜を過ごすことになる。たき火の前でカートは言う。「マーク、寂しいよ。キミがとても恋しい。キミと友達でいたいのに何か壁がある。それがとてもいやなんだ。」 マークは「そんなことはないよ」と言うが、カートにはわかっている。もはやマークとの間に昔のような友情は成立しないことを…。

 

 印象に残っているシーンがある。

なんとか目的地の温泉にたどり着いて二人で温泉に浸かりながら、カートが自分の見た夢について語るシーンだ。

「悲しみは使い古した喜びなのよ。」(Sorrow is nothing but worn out joy.)

 カートの夢の中に出てきた女性が言った言葉だ。まさに「オールド・ジョイ(Old Joy)」である。

 そのあと、カートはゆっくりとマークの肩をマッサージする。マークは一瞬驚いた表情を見せるが、目を閉じて身を任せる。そして、カメラは結婚指輪がはめられているマークの左手を写すが、その手はゆっくりと湯の仲に沈んでいく。マークを束縛しているしがらみが消えた瞬間であり、カートとの友情が蘇った瞬間である。しかし、それはその一瞬のことでしかない。ラスト、旅を終えた彼らはカートの住まいまで戻ってきてあっさりとした別れをする。おそらく彼らはもう会うことはないであろう。

 

 大人になるということ。それは人生の新たなステージに入っていくことであり、その過程で私たちはいろいろなものを捨てなければならない。寂しいことではあるが仕方のないことであり、その寂しさ、やりきれなさを出来るだけセリフを省いて映像で表現してみせたところにケリー・ライカート監督の真骨頂を感じる作品である。

 

(追記)

 映画の中でマークの飼っている犬のルーシーも一緒に連れていくのだが、たいへん利口そうな犬でとてもよかった。

監督:大友啓史

キャスト

 妻夫木聡(グスク)

 広瀬すず(ヤマコ)

 窪田正孝(レイ)

 永山瑛太(オン)

 瀧内公美(チバナ)

 栄莉弥(ウタ)

 

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戦後の沖縄を舞台に時代に抗う若者たちの姿を描き、第160回直木賞を受賞した真藤順丈の小説「宝島」を映画化。妻夫木聡が主演を務め、広瀬すず、窪田正孝、永山瑛太ら豪華キャストが共演。「るろうに剣心」シリーズの大友啓史監督がメガホンをとった。

 

1952年、米軍統治下の沖縄。米軍基地を襲撃して物資を奪い、困窮する住民らに分け与える「戦果アギヤー」と呼ばれる若者たちがいた。そんな戦果アギヤーとして、いつか「でっかい戦果」をあげることを夢見るグスク、ヤマコ、レイの幼なじみの若者3人と、彼らにとって英雄的存在であるリーダー格のオン。しかしある夜の襲撃で“予定外の戦果”を手に入れたオンは、そのまま消息を絶ってしまう。残された3人はオンの影を追いながら生き、やがてグスクは刑事に、ヤマコは教師に、そしてレイはヤクザになり、それぞれの道を歩んでいくが、アメリカに支配され、本土からも見捨てられた環境で、思い通りにならない現実にやり場のない怒りを募らせていく。そして、オンが基地から持ち出した“何か”を追い、米軍も動き出す。

 

親友であるオンの痕跡を追う主人公グスクを妻夫木聡が演じ、恋人だったオンの帰りを信じて待ち続けるヤマコ役を広瀬すず、オンの弟であり消えた兄の影を追い求めてヤクザになるレイ役を窪田正孝が担当。そんな彼らの英雄的存在であるオン役を永山瑛太が務めた。(「映画.com」より)

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 前回の記事で感想を書いた『ブラックバッグ』と同様、アマゾン・プライムで視聴するのに追加料金が必要だった本作が4月末に無料視聴できるようになったので早速鑑賞した。

 今回は以前『ノマドランド』の感想で試みたことのある飛行機雲(「飛」と表記)と架空の対談相手(Aと表記)の対話形式で書いてみた。

 

A) 昨年劇場公開されて空前の大ヒットになった『国宝』なんだけど、観た?

飛)いや、観てないんだけど、機会があれば観たいとは思っている。でも、制作費に25億円をかけた大作『宝島』は最近配信で観たよ。

A) 『宝島』ね。ボクも観たよ。

飛)感想は?

A)メッセージはそれなりに分かるんだけど、理解し難いところもあって、イマイチだったな。キミは?

飛)文句なしの名作だね。

A)そうなんだ。その辺り聞かせてくれる?

飛)ウン。この映画、1952年から1970年のコザ騒動に至るまでの沖縄を描いた作品なんだけど、どうして1952年から始まっているか、分かる?

A)ウ~ン、そこは考えたことがなかったな。どうして?

飛)その前年に日本が連合国諸国とサンフランシスコ講和条約を締結したことは知ってるよね。

A)ウン。

飛)その結果何が起こった?

A)日本が主権を回復して独立した。

飛)そうだよね。でも、沖縄は日本から切り離されてアメリカの施政権下に置かれ日本国憲法の適用範囲外になったんだよね。

A)そうだね

飛)その条約が発効したのが1952年なんだ。そこで映画に戻ると、その1952年に何が起こったとされている?

A)オンの失踪。

飛)そうだよね。そこでこの映画についてのボクの解釈になるんだけど、オンは実は沖縄の人たちにとっての「希望」の象徴として描かれていると思うんだ。そのオンが突如として消えた。つまり沖縄にとっての希望の光の消滅だ。この映画が1952年から始まっていることの意味はそこにあるようにボクには思える。

A)なるほど。

飛)だからグスク、ヤマコ、レイは全く何の手がかりもないオンを探し続けるのさ。あれは単に行方不明になった人間を探しているのではない。自分たち沖縄の人間の希望の光を探しているんだ。

A)ネットを見ていると「全く手がかりもないのに何十年も探し続けることなどできるのだろうか。リアリティに欠けるのではないか?」という感想を書いている人もいたけど、そういうことではないんだね?

飛)ウン。その辺りの象徴性を読むかどうかでこの映画に対する評価が全く違ってくるように思う。

A)すると、終盤のオンの消息が判明したあとの解釈も違ってくるよね。

飛)そうだね。オンの失踪をサスペンス風に捉えると終盤の展開はグダグダに見えるだろうけど、その評価はボクには当たっていないように思う。

A) そうか。そう考えるとウタの存在を大きく扱っている意味もはっきりするね。

飛)ウン。ウタは希望の光としてのオンを継ぐ存在なのだ。そして、結局オンもウタも…。

A)でも、エンディングでグスクが海岸に座っていてオンの幻を見るよね。そこでオンが「さあ起きれ。そろそろ本当に生きるときがきた」というシーンはよかったよね。

飛)ウン。この映画は1970年のコザ騒動で終わっているが、沖縄はその2年後に日本国に返還される。でも、状況は現在でもあまり変わっていない。オンのあのセリフは沖縄の人たちだけじゃなく現在の我々ヤマトンチュに向けた監督のメッセージかもしれないね。

A)この映画の象徴的な部分は分かったけど、史実に即して描かれている言わば表の部分についてはどうなの?

飛)とてもよかった。沖縄の戦後の歴史については一応知識としては知っているけど、このように映画として描かれることによってそこに暮らしている人たちの苦悩とか怒りとかどうしようもない気持ちが現実感をもって伝わってくるよね。

A)印象に残っているシーンはある?

飛)いろいろあるけど、ヤマコたちが沖縄の本土復帰運動をしている現場にヤクザになったレイがやってきて次のように言うんだ。「デモで声あげるのが民主主義の基本だって?この島にそんなもんねぇよ。本物の民主主義はヤマトゥの奴らが独り占めしてこっちには回ってきてない」

A)あのシーンね、ボクも覚えているよ。窪田正孝の演技、よかったよね。

飛)ウン、窪田正孝だけじゃなくて、妻夫木聡や広瀬すずもこの映画にかける本気度が伝わってきたよ。俳優陣の熱演には感謝したいね。あと、ファンだから言っとくけど脇役で基地の町で暮らしていかざるをえない人の複雑な心境を表現していた瀧内公美の演技もね。