主演の竹内力が高利貸しの萬田銀次郎を演じ、大阪のミナミを舞台に債権者と債務者の遣り取りを描いたVシネマ『難波金融伝 ミナミの帝王』は何作か観たことがあるが、今回観たのは千原ジュニアが萬田銀次郎を演じるTVドラマ『新・ミナミの帝王』(エピソード1)だ。ストーリーは金を貸した幼馴染の銀行員・今宮を自殺に追い込んだ支店長に、「地獄を見せたる」と追い込みをかける銀次郎の姿を描いているのだが、ドラマそのものよりも銀治郎がドラマの中で発するセリフについて考えてみた。
「借りたカネはキッチリ返す。こんなことは小学生でも知ってる理屈ですわ。」
「こっちは金貸しや。客が死のうが生きようがオレには関係あらへん。地獄の底まで追っかけて貸したカネを返してもらうだけや。」
ところで、以下の言葉はどうか。
「彼らはお金を借りたのですよ! やっぱり借りたお金は返さないと。」
これは『負債論―貨幣と暴力の5000年』(酒井隆史監訳 以文社)の著者であるデヴィッド・グレーバーがウェストミンスター寺院の園遊会に出席した時に出会った女性が発した言葉である。その女性はロンドンの反貧困団体のために法的支援をおこなっている財団で働いている弁護士で、「彼ら」とは第三世界の貧困国のことを指し、「彼ら」が返済する相手はIMFである。もっとも、その弁護士はIMFをよく知らなかったらしいのでIMFが1980年代~90年代にかけて第三世界の貧困国に対してどういうことを行ったかをグレーバーが説明したのだが、そのあとで彼女が発した言葉が上のフレーズである。
この人権派の弁護士が言っていることは町の違法な高利貸しである萬田銀次朗の言っていることと寸分違わないのだが、グレーバーによれば、この「借りたカネを返すのは当たり前」というフレーズは経済的な言明をモラルの言明として表明しているということになる。(注)を含めて翻訳で770ページに及ぶグレーバーのこの浩瀚な書物は「負債とは何か」、「貨幣とは何か」を考察している書物なのだが、グレーバーの言うところに耳を傾けると、「暴力に基礎を置く諸関係を正当化しそれらをモラルで粉飾するためには、負債の言語によってそれらを再構成する以上に有効な方法はない」(p.10)ということになる。そして負債の歴史をいろいろ考察してこのモラル上の混乱についてグレーバーは次のように言う。「ほとんどの場所でほとんどの人間が、(1)借りた金を返すことは純粋にモラルの問題であるという考えと、(2)習慣的に金を貸す人間はだれであろうと邪悪であるという考えを共存させていることが、それ(=モラル上の混乱)を最もよく示している」(p.16)。萬田銀次郎や人権派の女性弁護士が言っていることはこの(1)に相当するのだが、一方で『難波金融伝 ミナミの帝王』のシリーズには悪徳な金貸しが庶民を借金で追い込む様子も描かれており、これは(2)の考えをよく表すものである。グレーバーのこの書物には人類の5000年の歴史の中で裕福な権力者から負債を負って虐待される困窮者の例と、それとは逆に強欲な金貸しが征伐される例が豊富に紹介されているのだが、その根底には本来別の概念である「モラル」と「負債」が結びつけられる混乱がある。グレーバーによれば「モラルとはその大部分が他者への義務を果たすことから成り立って」いるのであるが、「私たちはそういった義務を負債として想像するという根深い傾向を持っているのである」(p.22)。そして、この義務を負債として想像する手順において役割を果たすのが貨幣なのだが、このような数量化の背後には暴力の存在がある。以上はこの浩瀚な書物のごく導入部分でしかないのだが、本書は5000年に及ぶ負債の歴史の考察を通じて「人間とは何か、人間社会とは何か、またどのようなものでありうるのか」(p.30)についての問いを投げかけている書物である。グレーバーはアダム・スミス以来経済学が当然のこととして扱ってきた貨幣に関する問題、つまり貨幣は物々交換の不便を取り除くために発明されたという言説を単なる神話として一刀両断の元に切り捨てることから始めるのであるが、私の最大の関心事である「貨幣とは何か」という問題についての考察も実に興味深いものがある。
★この書物についてのちょっとしたエピソード
この書物の日本語の翻訳が出たのは2016年であるが、それから6カ月ほど経ったころサッカー選手の本田圭佑がツイッターで「最近読んだお気に入りの本。シェアしたいと思ったくらいなので是非」と紹介したところ6,480円のこの書物がたちまち売れて在庫切れになったらしい。著名人の影響力の大きさを感じさせられるエピソードである。








