監督:スティーブン・ソダバーグ

キャスト

 ケイト・ブランシェット(キャスリン・セント・ジーン)

 マイケル・ファスベンダー(ジョージ・ウッドハウス)

 マリサ・アベラ(クラリサ・デュボース)

 トム・バーク(フレディ・スモールズ)

 ナオミ・ハリス(ゾーイ・ヴォーン医師)

 レゲ=ジャン・ペイジ(ジェームズ・ストークス大佐)

 ピアース・ブロスナン(アーサー・スティーグリッツン)

 

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「オーシャンズ」シリーズのスティーブン・ソダーバーグ監督と「ミッション:インポッシブル」の脚本家デビッド・コープがタッグを組み、エリート諜報員と二重スパイが最重要機密をめぐり繰り広げる頭脳戦を描いたミステリーサスペンス。

 

イギリスの国家サイバーセキュリティセンター(NCSC)のエリート諜報員ジョージは、世界を揺るがす不正プログラム「セヴェルス」を盗み出した組織内部の裏切り者を見つける極秘任務に乗り出す。容疑者は諜報員のフレディ、ジミー、情報分析官のクラリサ、局内カウンセラーのゾーイ、そしてジョージの愛妻である凄腕諜報員キャスリンの5人。ある夜、ジョージは裏切り者の動向を探るべく、容疑者全員をディナーに招待する。食事に仕込まれた薬とアルコールの効果で、容疑者たちの意外な関係性が浮かび上がるなか、ジョージは彼らにあるゲームを仕掛ける。

 

諜報員ジョージをマイケル・ファスベンダー、彼の妻で容疑者でもあるキャスリンをケイト・ブランシェット、4人の容疑者を「マッドマックス フュリオサ」のトム・バーク、「Back to Black エイミーのすべて」のマリサ・アベラ、「ダンジョンズ&ドラゴンズ アウトローたちの誇り」のレゲ=ジャン・ペイジ、「007」シリーズのナオミ・ハリスが演じた。(「映画.com」より)

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 アマゾン・プライムで視聴するのに追加料金が必要だった本作だが4月末に無料視聴できるようになったので早速鑑賞した。

 

 タイトルの「ブラックバッグ」とは、“極秘任務”のことで、冒頭、NCSCの諜報員ジョージが不正プログラム「セヴェルス」を盗んだ組織内部の二重スパイを見つけ出す極秘任務を命じられる。容疑者は5人でその中の誰が裏切り者かを見つけ出す任務である。5人の容疑者の性別は男性が2人、女性が3人なのだが、厄介なことに容疑者の中にジョージの妻である凄腕の諜報員キャスリンが含まれているのだ。

 本作はいわゆるスパイもののサスペンスなのだが、スパイものと言っても派手なアクションがあるわけではなく、内容は容疑をかけられた5人の人物との心理戦であって、その心理戦を堪能する作品である。

 誰がウソをついているのか?…。ジョージの任務はこれを見つけ出すことなのだが、彼にとって最も気がかりなことは妻キャスリンが裏切り者であるかどうかだ。物語が進むにつれてこの夫婦を巡る出来事が興味深いものになっていき、徐々に裏切り者の背後にいる黒幕の存在も…。

 

 物語はジョージと裏切り者との駆け引きを中心とした会話劇として展開されるのだが、この駆け引きを楽しむことがこの映画のすべて。人間関係の機微などどこ吹く風。精神を高揚させる薬物入りの飲み物を飲んでいるとはいえ、浮気がバレた恋人の手に食事の席でいきなりナイフを突き刺す女とその後もつきあえる神経が理解不能だが、そんなことを気にしていたらこの映画の展開の速さに置いていかれるだけだ。よく似た作品で組織の二重スパイを探し出す映画『裏切りのサーカス』と比べるとストーリーが単純で分かりやすいのだが、その分人間関係や疑惑の人物の追求などの描き方があっさりしていてその点に物足りなさが残った作品である。ジョージの妻キャスリンに対する疑惑の追求など、かなり面白い部分はあるのだが、もう一捻りあれば…というのが正直なところだ。もっともこの辺りは好みの問題もあるとは思うが…。

 

朱雀門 

 

 今月の初めから所用で関西に滞在。用事は2日ほどで終わったのだが、久しぶりの関西なので10日間ほど滞在した。阪神競馬場に行ったり、京セラドームでオリックスのオープン戦を観たりとぶらぶら一人遊びを楽しんでいたのだが、せっかくの関西なので急に「平城京に行こう!」と思い立ち、宿泊先の最寄り駅である阪神甲子園駅から(表現がちょっとややこしいが)近鉄奈良線に乗って約1時間、大和西大寺駅に到着。大和西大寺駅と言えば、その北口付近の路上で2022年に安倍晋三銃撃事件があったことが思い出される。その現場を通ってひたすら平城京跡を目指して歩き出す。スマホで検索したら徒歩で約20分とのことであったが、北口から出発したからなのか、スマホのナビに問題があるのか、私のナビの見方がよくないのか、原因は不明だが歩けども歩けども目的地には着かず。結局かなり遠回りをしたようで40分ほど歩いてやっと朱雀門の北側にたどり着く。この門は平城宮の正門らしくそこから北が平城宮で中央朝堂院、大極門、第一次大極殿と続くようなのだが、あまりに広すぎて肉眼では何も見えない。見えるのは近鉄奈良線の線路だけでその踏切を越えて行かなければならないようである。ふと下を見ると、「踏切は8:00~17:00の間しか通れない」との注意書きが…。

 とりあえず、朱雀門の南側に回ってみると、門から南に向かって広い通りが伸びている。朱雀大路である。その左手に「平城宮いざない館」という建物があって中に入ってみると平城宮の説明をした写真や当時の平城宮を復元した模型などが置いてあって、なかなか興味深い。壁に飾ってある写真を見ていると館の関係者と思しき男性が近寄ってきて写真の説明などをしてくれた。とても丁寧に説明される方で平城京についていろいろな知識を得ることができたのは大変ありがたかった。その後、「平城宮いざない館」の休憩室でアイスクリームを食べながら少し休憩して、さて平城宮を見に行こうかと思った矢先、なんとなく持病の股関節痛が始まるような徴候が出てきて焦ったものの無理をするのはよくないと言い聞かせて平城宮見学を断念。朱雀大路を南に歩いてバス停まで行き帰路につく。結局、朱雀門を見ただけのなんとも情けないことになってしまったのだが、この辺りには少し足を伸ばすと東大寺や興福寺などもあるので、いずれ駅前のホテルに泊まってゆっくりと散策したいと思った次第である。

 

 一年ほど前から日本史関係の書籍を少し読み始めている。私の場合、現代に直結する部分も多い明治以降の歴史については以前から関係する書物などを読んだりもしているのだが、それまでの歴史については大学受験で日本史の勉強をして以来あまり進歩しておらず、自分の国の歴史についてはある程度知っておく必要があると感じたことがその理由である。その中でも古代史はとても興味深く特に8世紀の前半は大宝律令の完成、平城京造営、記紀の編纂などこの国のその後の在り方が形作られていった時代であり、特に興味を引かれるところがある。

 

「あをによし 奈良の都は 咲く花の 薫るがごとく 今盛りなり」

 「万葉集」に収められたこの歌を見るかぎり、とてものどかな時代が思い浮かぶが、一方では平城京造営が農民に多大の労役負担を課すことになり、課役を逃れるために逃亡する農民も続出したし、「長屋王の変」のように皇位継承を巡る陰謀・策略、天然痘の流行、干ばつによる飢餓、大地震などの天変地異による大禍などもあった時代である。当時の人口は400万~500万であったが、天然痘ではそのうちおよそ100万人の人たちが亡くなったと言われている。もちろん、このようなことはいつの時代にもあるのだが、この時代の人たちがそのような事態にどのように対処したのかといったこと、特に5年にわたり謎の彷徨をした聖武天皇がどのような意識を持っていたのかということにも興味深いものがある。

 

監督:トッド・フィールド

キャスト

 ケイト・ブランシェット(リディア・ター)

 ノエミ・メルラン(フランチェスカ・レンティーニ)

 ニーナ・ホス(シャロン・グッドナウ)

 

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「イン・ザ・ベッドルーム」「リトル・チルドレン」のトッド・フィールド監督が16年ぶりに手がけた長編作品で、ケイト・ブランシェットを主演に、天才的な才能を持った女性指揮者の苦悩を描いたドラマ。

 

ドイツの有名オーケストラで、女性としてはじめて首席指揮者に任命されたリディア・ター。天才的能力とたぐいまれなプロデュース力で、その地位を築いた彼女だったが、いまはマーラーの交響曲第5番の演奏と録音のプレッシャーと、新曲の創作に苦しんでいた。そんなある時、かつて彼女が指導した若手指揮者の訃報が入り、ある疑惑をかけられたターは追い詰められていく。

 

「アビエイター」「ブルージャスミン」でアカデミー賞を2度受賞しているケイト・ブランシェットが主人公リディア・ターを熱演。2022年・第79回ベネチア国際映画祭コンペティション部門に出品され、ブランシェットが「アイム・ノット・ゼア」に続き自身2度目のポルピ杯(最優秀女優賞)を受賞。また、第80回ゴールデングローブ賞でも主演女優賞(ドラマ部門)を受賞し、ブランシェットにとってはゴールデングローブ賞通算4度目の受賞となった第95回アカデミー賞では作品、監督、脚本、主演女優ほか計6部門でノミネート。(「映画.com」より)

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(ネタバレ注意)

 とても見応えのある映画である。私は二度観た。もっとも、ストーリーそのものに斬新さはない。ひと言で言うとある分野で頂点を極めた人物がスキャンダルのためにその地位を追われ転落していくという物語である。まあ、松本人志や中居正広を思い浮かべれば、その点はよく似た話である。「映画.com」の紹介にあるように「ドイツの有名オーケストラで、女性としてはじめて首席指揮者に任命され…天才的能力とたぐいまれなプロデュース力で、その地位を築いた」同性愛者のリディア・ターはその権力を利用して自分の教え子の女性たちに性的関係を強要していたが、そのうちの一人であるクリスタの自殺をきっかけにその事実が暴露され、転落していくという物語である。

 では、この陳腐な話を見応えのある映画作品にしているものは何かと問えば、一貫して追求されている「芸術と人間性」というテーマと、そのテーマを完璧に表現しているケイト・ブランシェットの演技にある。おそらくこの映画はブランシェット抜きでは成立しなかったであろう。

 冒頭のかなり長いエンドロールのあと、ニューヨークでのトークイベントに招待されたターがステージの椅子に腰掛け、司会者がターの輝かしい経歴を紹介するシーンが描かれる。それに引き続き、司会者がターに様々な質問をする。その中で彼女の師であるバーンスタインから与えられたものは何かという問いにターは「精神の集中」という意味のヘブライ語の「ガバナ」と答える。つまり、「作曲家の意図とどう向き合うかを教わったのだ」と。また、ペルーの先住民の音楽について「彼らが歌を受け入れるのは歌を生み出した魂と歌手の魂が同化した時だけだ」とも述べる。指揮者としてのターの芸術に対する考え方が端的に表れた発言である。つまり、芸術を生み出した者とそれを伝える者との間の調和がすべてだと。

 この講演のあと、ターはニューヨークのジュリアード音楽院の指揮科の学生たちに特別講義をする。彼女はマックスという男子学生にバッハの音楽について質問するが、彼は自分が有色人種で全性愛者なのでバッハの男尊女卑的な考え方が理解できないし、彼の音楽も理解できないと返答する。ターは彼の考えを全否定し、そんなことは音楽とは全く関係のないことだと反論してパワハラ的な行為をする。マックスは「あなたは最低だ」と言って教室から出て行く。

 冒頭からこの辺りまででほぼ40分なのだが、ターの芸術観がよく分かる展開になっている。要するに彼女は芸術家は素晴らしい芸術を生み出せばよいのであって、どのような私生活を送ろうともそんなことは芸術とは無関係なのだと考えているのである。もちろん、自分がその地位を利用して性生活の相手を得ることも…。しかし、世の中はそれを許さなかった。クリスタの自殺を契機に彼女とクリスタとのメールのやり取りやジュリアード音楽院でのパワハラ行為の映像などがネット上に曝されていく。そこには彼女の教え子で秘書を兼ねているフランチェスカの密かな告発もあった。ターは時折の錯乱状態を伴いながら徐々に追い詰められていき、とうとうその地位を追われることになる。

 ストーリーの紹介がやや長くなったが、この映画の計算され尽くした構成の見事さに唸らされた。やや意地の悪い言い方をすれば「外連」と言ってもいいほどのものである。まず、トッド・フィールド監督はこの映画は二度観ることによって初めて理解できる作品であると言っているように思えるのだ。映画の冒頭、長いエンドロールが流れる。時に取られる手法ではあるが、この映画を見終わったときに観客はその意図を理解するのである。クラッシック音楽界を追われたターは東南アジアのある国に行き、アマチュア楽団の指揮者となり、指揮棒を振るおうとするところで多くの人たちが船室に座っている映像に切り替わる。そして、「君たちに別れの言葉は必要ないな。この船に乗ったらもう戻れない。次に諸君らが降り立つのは新大陸になるだろう。もし覚悟が失われたら引き返すがよい。誰も君を責めない。」というメッセージが流れて映画は終わる。象徴的なシーンであるが、もちろんこれはターに向けたメッセージである。普通に理解すればターはもうクラッシック音楽の世界には戻れないというメッセージになるだろう。しかし、私にはこのシーンは冒頭のエンドロールにつながっているように思われるのだ。そしてターは「新大陸」に降り立ち、この映画で描かれているように栄光と転落を繰り返すのである。ターは決して自分の芸術観を放棄したわけではない。考えてもみよう。ターは栄光の絶頂にあったとき本を出版する予定であった。タイトルは“Tar on Tar”だ。「ターはどこまでも続く」。しかし、Tarを逆に読んでみたらどうだろう。Rat。「卑劣漢」だ。Rat on Rat。トッド・フィールド監督がターの芸術観を肯定しているのか否定しているのか?おそらく否定しているのだろうが、その点は私にはハッキリとは分からなかった。しかし、二度観ることでその味わい深さがよく伝わってくる映画であることは確かである。

 1月はレビューを書いた2作品(『誰もがそれを知っている』と『レイブンズ』)以外に以下の3作品を観ました。

 

1. 『火口のふたり』(2019年 日本)

監督:荒井晴彦

キャスト

柄本佑(永原賢治)

瀧内公美(佐藤直子)

 

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直木賞作家・白石一文が男と女の極限の愛を描いた小説「火口のふたり」を、柄本佑と瀧内公美の共演で実写映画化。「幼な子われらに生まれ」「共喰い」などの名脚本家で、本作が監督第3作となる荒井晴彦が監督・脚本を手がける。東日本大震災から7年目の夏。離婚、退職、再就職後も会社が倒産し、全てを失った永原賢治は、旧知の女性・佐藤直子の結婚式に出席するため秋田に帰郷する。久々の再会を果たした賢治と直子は、「今夜だけ、あの頃に戻ってみない?」という直子の言葉をきっかけに、かつてのように身体を重ね合う。1度だけと約束したはずの2人だったが、身体に刻まれた記憶と理性の狭間で翻弄され、抑えきれない衝動の深みにはまっていく。(「映画.com」より)

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出演者は柄本佑と瀧内公美の二人だけで、この二人の性愛シーンが全体の70パーセントぐらいを占める。昭和の時代のロマンポルノを思い出させる。監督には自分の世界観があるのだろうが、私にはまったく伝わってこなかった。それ以上に、取って付けたような台詞回しにうんざりした。例えば、直子と賢治が二人で浴槽につかって話す会話とかラストの会話とか、話の内容が唐突すぎないか。2019年の「キネマ旬報」ベストテン1位なのだが、私には不可解。柄本佑も瀧内公美も魅力的な俳優なのに、もったいない。

 

2. 『依頼人』(1994年 アメリカ)

監督:ジョエル・シュマッカー

キャスト

スーザン・サランドン(レジー・ラブ)

トミー・リー・ジョーンズ(ロイ・フォルトリッグ)

ブラッド・レンフロ(マーク・スウェイ)

 

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偶然自殺の現場を目撃し、ある事件について″知りすぎた″少年が過去に傷を持つ女弁護士とともに様々な利害の渦巻く社会の中で戦っていくヒューマン・サスペンス。原作は最近立て続けに「ザ・ファーム 法律事務所」「ペリカン文書」が映画化されているジョン・グリシャム。今回も製作のアーノン・ミルチャンがゲラ刷りの段階で原作を読み、すぐさま監督に話を持ちかけた。監督は「セント・エルモス・ファイアー」「フォーリング・ダウン」のジョエル・シューマカー。製作は「キング・オブ・コメディ」「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」「JFK」などを手がけているアーノン・ミルチャンとスティーヴン・ルーサー。共同製作はメリー・マクラグレン。脚本はアキヴァ・ゴールズマン、ロバート・ゲッチェル。撮影はトニー・ピアース・ロバーツ。音楽はハワード・ショアが担当している。主演は「知りすぎた少年」にオーディションで5000人の中から選ばれた新人ブラッド・レンフロ、「アトランティック・シティ」「テルマ&ルイーズ」「僕の美しい人だから」などのスーザン・サランドン。ほかに、「ある愛の詩」「JFK」「逃亡者(1993)」のトミー・リー・ジョーンズ、「ラブリー・オールドメン」「モ'・ベター・ブルース」のオシー・デイヴィスなどが共演。(「映画.com」より)

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  ひと言で言うといろいろな意味で生意気なガキとクセの強い女弁護士がマフィアを相手に戦うという話だが、ご都合主義満載の映画でテレビドラマを観るぐらいの気分で観ればよいレベル。これが、電話ボックス一つでワクワクするような映画「フォーン・ブース」の監督が作った作品とは俄には信じがたい。

 

3. 『桐島です』(2025年 日本)

監督:高橋伴明

キャスト

毎熊克哉(桐島聡)

奥野瑛太(宇賀神寿一)

北香那(キーナ)

甲本雅裕(桐島のアパートの隣人)

高橋惠子(AYA)

 

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1970年代に起こった連続企業爆破事件の指名手配犯で、約半世紀におよぶ逃亡生活の末に病死した桐島聡の人生を映画化。2024年1月に末期の胃がんのため、神奈川県内の病院に入院していることが判明した桐島聡は、偽名で逃亡生活を送っていたものの「最期は本名で迎えたい」と素性を明かし、大きく報道されたが、その3日後に他界。数奇な道のりを歩んだ桐島聡の軌跡を、「夜明けまでバス停で」の高橋伴明監督のメガホンで描く。

 

1970年代、高度経済成長の裏で社会不安が渦巻く日本。反日武装戦線「狼」の活動に共鳴した大学生の桐島聡は、組織と行動を共にする。しかし、1974年の三菱重工爆破事件に関わり、多数の犠牲者を出してしまったことで、深い葛藤に苛まれる。組織が壊滅状態となり、指名手配された桐島は偽名を使い逃亡生活をつづけ、ある工務店で住み込みの職を得る。ようやく静かな生活を手にした桐島は、ライブハウスで知り合った歌手キーナが歌う「時代遅れ」に心を動かされ、相思相愛の関係となるが…。

 

桐島聡役を毎熊克哉が演じ、奥野瑛太、高橋惠子、白川和子、下元史朗、甲本雅裕らが顔をそろえる。(「映画.com」より)

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題材としては桐島聡の逃亡生活を高橋伴明監督がどのように描くかに興味を引かれたが、前半の3分の1ぐらいの爆破事件に関わっていくまでの描写がチープで、そこに対する桐島聡の心情などが描き切れておらず、そのために逃亡生活の部分との連続性がやや不明なものになってしまった。逃亡生活の部分は時系列的に描かれており、逃亡中の様子などは伝わってきたが、自分が起こした事件や自分の仲間が起こした多くの犠牲を出した事件について桐島自身がどのような思いを持っていたのかといったことは垣間見えるものの描き切れていない印象を受けた。したがって、桐島が最後に自分の本名を名乗ったことについての高橋伴明監督の解釈がどのようなものであるか私にはあまり伝わってはこなかった。やや辛口の感想になったが、劇中歌として歌われる河島英五の「時代おくれ」は桐島聡の心情のある部分を歌っているようにも思われるので、あの歌を採用したのはよかったと思われる。ラストに高橋恵子が登場するシーンがあるが、唐突で不要なシーンだと思われる。甲本雅裕はなかなかよい味を出していた。

 

監督:マーク・ギル

キャスト

浅野忠信(深瀬昌久)

瀧内公美(深瀬洋子)

古舘寛治(深瀬助造)

池松壮亮(正田モリオ)

高岡早紀(南海)

 

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「イングランド・イズ・マイン モリッシー、はじまりの物語」で知られるイギリスのマーク・ギル監督が浅野忠信を主演に迎え、世界的に高い評価を受け続ける写真家・深瀬昌久の波瀾万丈な人生と、彼の最愛の妻にして被写体であった洋子との物語を、実話とフィクションを織り交ぜながら描いたダークファンタジーラブストーリー。

 

北海道の高校を卒業した深瀬昌久は、父の写真館を継がずに上京する。さまよう日々のなかで、深瀬は美しく力に満ちた女性・洋子と恋に落ちる。洋子は深瀬の写真の主題となり、2人はパーソナルでありながら革新的な作品を生みだしていく。家族愛に憧れる深瀬は洋子の夢を支えるため懸命に働くが、ついに彼女の信頼を裏切ってしまう。深瀬の心の闇は異形の“鴉の化身”へと転生し、哲学的な知性で彼を芸術家の道に導こうとする。

 

天才写真家の狂気と純粋さを浅野が繊細かつワイルドに演じ、「火口のふたり」の瀧内公美が洋子を存在感たっぷりに演じた。(「映画.com」より)

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 実在の写真家・深瀬昌久(1934-2012)をモデルにした作品。寡聞にして私はこの写真家のことをまったく知らなかったのだが、Wikiによると「写真表現を通して「私性」と「遊戯」を追求した写真家として知られる」とある。実在の人物をモデルにしているとは言え、映画である以上、マーク・ギル監督による深瀬像であることは言うまでもない。

 

 「人生は一行のボオドレエルにも若かない」(『或阿呆の一生』)と言ったのは芥川龍之介だが、本作で描かれているのはボードレールになることができなかった男の物語である。なぜ彼はボードレールになれなかったのか。マーク・ギルはその原因を彼の「人生」、つまり妻の洋子を養わなければならないという義務感、さらには父親である助造との確執にあるかのように描いているが、実はそうではない。私がこの映画を通じて見たのは、(深瀬のファンには申し訳ないが)結局、彼にはボードレールになるだけの才能がなかったのだということである。そのことを彼は写真家としての人生の絶頂において思い知らされる。被写体としての妻の洋子の存在なくして彼の写真は成立しなかったのである。彼の絶望が伝わってくる。そして洋子は彼の元を去る。太宰治は小説『葉』の冒頭でヴェルレーヌの言葉を引用して次のように書いている。「撰ばれてあることの恍惚と不安と二つわれにあり」。深瀬は選ばれてある人であった。その自意識は彼の芸術家としての思いが具現化された巨大なカラスの化身として表れる。しかし、そのことが彼の人生を不安に満ちたものにする。それは自己の才能に対する疑念であり、それが彼をして酒に溺れさせ、助手の正田の前で首つりのまねごとをするという外連となって表れる。いや、あれは本気だっただろう。

 洋子と別れた深瀬は他の女性を被写体として写真を撮る。それは深瀬が求めたものとはまるでかけ離れたものであった。その絶望感の深さは選ばれてある者でなくては理解できないものなのだろう。その後、深瀬はカラスを被写体とした写真で小さな成功を得る。しかし、それはもはや深瀬の求める作品ではない。久しぶりに再会した洋子はその写真を見て言う。「私にはあなたの肖像に見える」。ある意味、残酷な言葉だ。しかし、それは誰よりも深瀬を愛し、彼を理解していた人の言葉が持つ真実なのだ。この映画は深瀬と洋子の愛の物語でもある。愛の物語?いや、「愛憎相半ばする」物語と言ったほうが正確だろう。

 深瀬を演じた浅野忠信と洋子を演じた瀧内公美の演技に引き込まれた。この映画はこの二人の存在がなければもっと薄味な作品になっていただろう。それだけではない。深瀬の父親役の古舘寛治、深瀬の助手役の池松壮亮、バーのママ役の高岡早紀もそれぞれ味わい深い演技であった。マーク・ギルのキャスティングの素晴らしさにも注目したい。