監督:アスガー・ファルハディ

キャスト:

 ペネロペ・クルス(ラウラ)

 ハビエル・バルデム(パコ)

 リカルド・ダリン(アレハンドロ)

 バルバラ・レニー(ベア)

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「別離」「セールスマン」でアカデミー外国語映画賞を2度受賞しているほか、カンヌやベルリンといった国際映画祭でも高い評価を受けているイランの名匠アスガー・ファルハディが、スペインの田舎町を舞台に全編スペイン語で撮り上げたミステリードラマ。主演をペネロペ・クルスとハビエル・バルデムが務め、実生活で夫婦の2人が共演した。アルゼンチンで夫と2人の子どもと暮らすラウラが、妹アナの結婚式に出席するため、故郷スペインの小さな村に子どもたちを連れて帰ってくる。地元でワイン農園を営む幼なじみのパコや家族と再会し、ともに喜ばしい日を迎えるラウラたちだったが、結婚式のアフターパーティのさなか、ラウラの娘イレーネが姿を消してしまう。やがて何者かから巨額の身代金を要求するメールが届き、イレーネが誘拐されたことが判明。それぞれが事件解決のために奔走するなかで、家族の間にも疑心暗鬼が広がり、長年に隠されていた秘密があらわになっていく。2018年・第71回カンヌ国際映画祭コンペティション部門出品。(「映画.com」より)

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 アスガー・ファルハディ監督の映画の特徴は、なにかある出来事が起こったとき、それまでの均衡を保っていた関係に小さな亀裂が入り、やがてそれが修復不可能なものにまで発展してしまう人たちの心の揺れを見事に剔抉するところにある。ただ、ファルハディ監督はそうなってしまう決定的な原因は誰かが悪いからだということを描くのではない。したがって、映画にカタルシスを求める観客にとっては見終わったあと、どこかモヤモヤしたものが残るのだ。しかし、少し考えてみれば分かることだが、私たちの人生の現実はカタルシスのようなものによって一挙にスッキリするものになっているだろうか。たしかに映画の中には終盤に問題が一挙に解決され、観客にカタルシスを与えてくれる作品もたくさんある。それを否定するつもりはないし、私もそういった作品、つまりエンタメ映画が嫌いではない。ただ、そのカタルシスが長続きしないのも確かである。言わばマッサージ効果と同じことである。これに対し、観客に向かって私たちの現実の一部を切り取り、それを提示してくる映画も存在する。つまり、「本当のこと」を語る映画なのだ。当たり前のことだが、私たちは生きている限り自分にとっての「本当のこと」に向き合わざるを得ないのだが、その種の映画は観客である私たちをその世界に連れて行くのである。もちろん、映画は哲学の教科書ではない。難しい言葉で監督の世界観だけを語られても退屈なだけだ。私が観たい映画はエンタメとしての面白さを通じて「本当のこと」が語られている作品である。

 さて、能書きが長くなったが、以上の基準に照らしてこの映画を観たときに、いつものファルハディ監督らしさとともに、いささか物足りなさをも感じたというのが正直なところである。物語の背後にあるのは社会的・経済的格差からくる登場人物たちの心の中にある屈折した感情である。

 映画の序盤。登場人物たちは久々の再会を懐かしみ、喜び合い、親族の結婚を祝福する。その中で起こる誘拐事件。それをきっかけに人びとの長年の思いが一挙に噴き出す。その辺りの描き方はやはりいつものファルハディ監督といったところだ。私が物足りなさを感じたのは、この物語の中心人物であるラウラとパコの心の揺れの描き方に説得力があまり感じられなかった点にある。その理由はサスペンスとしてのストーリーの面白さに必要以上にこだわったことに尽きるのではないかと思うのだが、その結果、彼らの言動がご都合主義に流れて、その分薄っぺらいものになっている箇所が随所に見られたのである。例えば、ラウラがパコに対して言い放つ決定的な言葉。発せられた言葉の虚実はともかく、その言葉を発するまでのラウラの心の揺らぎが映画からは見えてこないため、観客としては虚を突かれたように感じてしまうのである。また、パコが必要以上にイレーネの救出にのめり込んでいく心情が映画からはあまり伝わってこなかったのである。だから私たちはイレーネとともに「…(ネタバレになるためセリフは伏せておく)」と発するより仕方がないのだ。もっとも、ファルハディ監督がイレーネにこの言葉を言わせたのは観客に対して「わかるでしょ」とのことだとは思うが…。もちろん、そうは言っても、事件が「解決」してからエンディングに至るまでの描写にはファルハディ監督らしさを見ることはできたのだが…。

 2025年に読んだ本・ベスト10の後半になるが、前回の第1~5位に引き続き、第6~10位は以下のようである。

 

6. 刈谷剛彦『日本人の思考』(ちくま新書)

 

 

 教育社会学者としての著者の立場から日本人の思考の傾向について述べた書物であるが、副題の「ニッポンの大学教育から習性を読みとく」とあるように、扱われているのは日本の大学教育が翻訳語を通じて行われてきたことと日本人の思考形成の関係である。

 著者はまず日本の大学の大衆化に言及し、「大衆」という言葉は西洋語のMassesやmassの翻訳語として1920年代に発明されたものだが、包括的で曖昧な言葉として流通したと述べる。著者によれば、日本の大学教育はこのような翻訳語によって組み立てられた言葉で行われてきたが、それは日本の大学の大衆化の動因であるとともにその結果でもあった。ところが、ほとんどの場合、翻訳語は原語がもつ意味や文脈からズレており、そのズレを意識しないまま行われている大学教育は演繹型と言われる思考の習性を生み出し、それを普及させることによって日本の現状に即した帰納的思考の発展を妨げた。著者はこのような問題を指摘した上で英語のclassの翻訳語としてその言葉の意味や文脈を含意する「階級」という言葉とともに曖昧な意味で使われる「階層」という言葉をも当てられることによって階級概念を欠いた格差社会論などが広まることになったと述べる。

 本書は以上のような主張を展開すると同時にテーマを追求するプロセスを「メイキング・オブ」としてステップ・バイ・ステップで紹介しているので、若い研究者にとっても研究の手順を見るのに役立つものと思われる。

 

7. J.D.ヴァンス『ヒルビリー・エレジー』(光文社未来ライブラリー 関根光宏・山田文訳)

  これは2025年8月23日に当ブログで書評を書いた本である。J.D.ヴァンスについてはいろいろな見方があるだろうが、現在のトランプ政権を支える重要なブレインの一人であり、彼がどのような出自を持ち、それが彼の思想形成にどのような影響を及ぼしているかを見るのに役立つ一書であると思われる。なお、トランプ政権のあり方を考えるという点においては今年発刊された井上弘貴『アメリカの新右翼』(新潮選書)と石田健『カウンター・エリート』(文春新書)が興味深い書物であった。

 

 

 

 

8. トーマス・セドラチェク『善と悪の経済学』(東洋経済新報社 村井章子訳)

 

 

 少し前のことになるが、私の学生時代からの友人で長年ある大学で経済学を教えていた人物と話をしていたときにこの本のタイトルを口にしたところ、即座に「経済学に善も悪も関係ないよ」という答えが返ってきた。まさにこういった返答の背後にある現在の主流派経済学のアプローチに異を唱えているのが本書で語られている内容である。主流派経済学のアプローチの根底には自己の効用を最大化することだけを意図して合理的な行動を選択する人間像(ホモ・エコノミクス)という仮定があり、従来からそういった恣意的な仮定から出発して数学的手法を用いてその仮定の中に既に含まれている結論に到達することにどれほどの現実性があるのかという批判があったのだが、本書は一見するとおよそ経済学を論じている書物とは思えない第1章~第4章の目次(第1章「ギルガメッシュ叙事詩」、第2章「旧約聖書」、第3章「古代ギリシャ」、第4章「キリスト教」)を見ても分かるように、経済学を論じるには善悪、つまり倫理の問題を抜きにしては語れないと主張する点に特徴がある。

 

9. 島倉原『MMT講義ノート』(白水社)

 

 

 MMTとはModern Monetary Theory「現代貨幣理論」の略で、本書はそのMMTについての解説書である。類書もいろいろ発刊されているが、MMTの理論とその政策を丁寧にわかりやすく、かといってレベルを落とすことなく解説している点で本書は非常に優れた書物である。現在、新聞やテレビを見ると「積極財政か緊縮財政か」という話題をよく目にするが、そもそもこの問題は究極的には「貨幣とは何か」ということに発している。この点に関して経済学には二つの考え方がある。つまり、貨幣とは物々交換の媒介物であるとする「商品貨幣論」と貨幣とは信用、つまり負債であるとする「信用貨幣論」である。MMTは後者の考え方に基づく理論であるが、そこから出てくる結論をひと言で言うと「税金は財源ではなく、国債は資金調達手段ではない」ということである。これは逆に言うと、税金は財政出動において発行した通貨を(特に好況期に)回収する手段であり、国債は中央銀行による短期金利の調整手段であるということになる。本書はこのようなMMTの理論を丁寧に解説するとともに、それに基づく経済政策をも提案しており、その考え方に賛成するにせよ、「MMTはトンデモ理論だ」と批判するにせよ、一読の価値のある書物である。

 

10. 伏尾美紀『百年の時効』(幻冬舎)

 これは2025年9月5日に当ブログで書評を書いた本である。

 

 

 

 

 最初にひと言断っておくと、私は今までの人生において「東大なんか入らなきゃよかった」と思ったことは一度もない。なぜなら…東大に入ったことがないから。(笑) 「入ったことがない」どころか東大を受験したことすらない。いや、もっと言うと、東大構内に足を踏み入れたことさえない。要するに私は東大とはまったく無縁な人生を送ってきたのだが、先日、図書館に行って書棚をいろいろと見て回っていたときに、そのタイトルが目について借りてみたのが本書である。

 

 本書の構成は「第1部 あなたの知らない東大」と「第2部 東大に人生を狂わされた人たち」から成っている。第1部では東大生のタイプと東大入学後の東大に特有な履修システムなどについて述べられていて、それによると、東大生には天才型、秀才型、要領型という3つのタイプが存在するとのこと。天才型というのは集中力と頭の回転が桁外れで、何をやっても圧倒的にスピードが速い人たちだが、このタイプはそれほど多くはなく、東大生全体の1割かそれ以下だろうとのこと。医学部医学科に進学する理科三類(理三)の学生の大半はこのタイプらしい。秀才型は天才型ほど頭の回転は速くはないが、並の人よりははるかに優秀でコツコツと物事を成し遂げるタイプで、著者の感覚では東大生の半数以上がこのタイプだそうである。要領型は東大入試をテクニックでクリアしてきた人たちで、東大生の3割ぐらいはこのタイプとのことで、著者もこのタイプに属するらしい。要するに「東大生」と言っても、私たちが想像する以上にその頭脳格差は大きいようである。それだけではなく、経済格差、情報格差などにもかなりの開きがあるとのことである。

 学部・学科の所属に関して言えば、これは東大に特有なシステムだが、東大生は入学した時点では進学する学部・学科は決まっておらず(一応、入学試験は文科一類(文一)、文二、文三、理一、理二、理三に分かれて実施されるが)、3年生の専門課程に進学するときにはじめて学部・学科が決まる。これを進学振り分け(通称・進振り)と言うらしいのだが、人気のある学部・学科の場合、2年生前期までの成績次第では自分の希望する学部・学科に進学できないこともよくあるそうだ。要するに、東大生は東大に入学したあとも競争をしなければならないのであって、今度は東大生同士での競争なので、ある意味入試よりも厳しい争いになるとのこと。

 第2部は東大に入った「にもかかわらず」その後の人生において苦労した人たちへのインタビューで構成されている。これが本書のテーマであるが、例えば、法学部を出てメガバンクに就職したものの行内でいじめに遭い鬱病を発症した人や大学院の修士課程を修了してキャリア官僚になったものの安い給料、1日16時間以上の長時間労働、議員によるパワハラなどで「東大に入らなければこんなつらい仕事に就くこともなかったかな」と言っている人たちである。また、法学部を卒業して家庭の事情により地方の市役所職員になったものの高学歴をネタにいじめに遇い、一年半で退職して地方国立大学の医学部に入学して医師を目指している人。さらに、大学院の博士課程で博士号を取得したものの大学教員になれなかった人。これはいわゆる「高学歴ワーキングプア」と称される人たちの一人だが、まあ、苦労して博士号を取得したところで大学教授になれるのは10人に1人もいない世界ではあるようだが…。最後に頸椎椎間板ヘルニアの治療を受けるため健康保険に加入する必要があり、そのために東大卒でありながら高卒と偽って派遣の警備員をしている人が紹介される。年収は230万円で手取り180万円だそうだが、本とネコで生活は満たされているそうだ。しかし、インタビューの最後に「親が死んで、飼っているネコも死んだら、俺に心残りはないし、川に流れてもいいかな」と考えているらしい。

 最後に著者は東大を出た人が幸せに生きるための提言として、「東大を出たことを忘れる」、「環境が合わなければ速やかに脱出する」、「自分と他者を比べない」という3点を挙げているが、どうなんだろう…。

 タイトルに惹かれて読んでみたが、本書の中心的テーマである第2部で述べられていることに関しては、「まあ、そういう人たちもいるだろうな」という感想で、地方の市役所職員になった人を除いては、特に東大に入ったことの後悔でもないように思うのだが…。実際、本書193ページに掲載されている「オープンワーク株式会社」が2019年に公表した「出身大学別30歳年収ランキング」を見ると、東大卒は810.9万円で2位の一橋大学(739.6万円)、3位の京大(727.6万円)を大きく引き離して1位なので、本書に登場する人たちはどちらかというと東大生の中でも圧倒的少数派ではないかと思われる。著者は本書を通じて、東大生には頭は良いが対人スキルが低い人たちが目立つと述べているが、本当にそうなんだろうか?個人的な経験で言えば、私が働いていた業界にも東大卒の人たちは何人もいたし、よく一緒に飲みに行ったりしたこともあるが、特に対人スキルが低いとか、風変わりな人たちだと感じたことはなかったので、著者が本書を書いた意図はイマイチ理解しづらいところがある。もっとも、私が仕事をしていた業界には、「東大なんか入らなきゃよかった」と思っている人たちはおそらく存在しないだろうということは言えそうではあるが…。

  本日は中山競馬場で第70回有馬記念(芝2500m 15時40分)が開催される。私の場合、ダービーと有馬記念だけは馬券を買うことに決めているので、例によって素人の予想を試みることにする。以前、毎週末になると馬券を買っていた頃に比べると、今はJRAがネットで過去のレースの映像も含めていろいろなデータを提供してくれているので、私のような一夜漬けでも予想ができるようになった。このサービスには感謝したい。

 

 そこで、まずはステップとなるレースの検討から始める。取り上げるのは天皇賞(秋)、ジャパンカップ、エリザベス女王杯の3レースである。

 

1. 天皇賞(秋) 芝2000m  14頭

 このレースの出走馬のうち有馬記念出走馬は③ジャスティンパレス、④ミュージアムマイル、⑥メイショウタバル、⑩コスモキュランダ、⑯タスティエーラの5頭。

  着順は以下の通り。

2着  ④ミュージアムマイル

3着  ③ジャスティンパレス

6着  ⑥メイショウタバル

8着  ⑯タスティエーラ

12着 ⑩コスモキュランダ

*○の中の数字は有馬記念の馬番。

 レースはメイショウタバルが5F62.0秒という超スローペースで逃げる展開で、直線での瞬発力勝負になった。

 2着のミュージアムマイルだが、中団外から1着馬と同じ3F32.3秒で上がっているが、0.1秒差の2着。着順差は位置取りと直線で外に出す時間のロスがあったためで、1着馬との能力差は感じられない。3着のジャスティンパレスは直線で外に出すのに苦労した分、仕掛けが遅れた。この馬は瞬発力勝負よりジワジワ伸びるタイプのように思われる。5着以内に入った馬のうち4頭が後方からの競馬だったのに対し、この馬だけが好位で粘り、ミュージアムマイルとクビ差の3着だったのは立派。6着のメイショウタバルは宝塚記念を逃げ切った馬でここでも逃げ切りを試みるが、超スローに持ち込んだのが結果的にマイナスだったように思われる。8着のタスティエーラは好位からG前400mからスパートし、一旦先頭に立つが、G前200mで力尽きる。仕掛けが早すぎた。騎乗ミス。12着のコスモキュランダは能力不足。

 以上より、まず注目するべきは2着のミュージアムマイルで、この馬は他の4頭よりやや上位だと思われるが、瞬発力勝負になったので、3歳馬で斤量に恵まれたという点は差し引いて考えるべき。また、皐月賞優勝馬でありながらダービーで6着に沈んだ点から考えて距離適性にやや疑問が残るか?3着のジャスティンパレスと6着のメイショウタバルはペースと展開次第で逆転はあり得る。8着のタスティエーラは中山のほうが合うかもしれない。

 

2. ジャパンカップ  芝2400m  17頭

 このレースの出走馬のうち有馬記念出走馬は②シンエンペラー、③ジャスティンパレス、⑨ダノンデサイル、⑩コスモキュランダ、⑬アドマイヤテラ、⑯タスティエーラの6頭だが、⑬アドマイヤテラは発想直後落馬・競走中止。

 着順は以下の通り。

3着  ⑨ダノンデサイル

5着  ③ジャスティンパレス

7着  ⑯タスティエーラ

8着  ②シンエンペラー

9着  ⑩コスモキュランダ

*○の中の数字は有馬記念の馬番。

  高速馬場の5F57.6秒というハイペースの競馬で、後方待機馬に有利なレース。

3着のダノンデサイルだが、中団からの競馬になったが、最初のコーナーでややカカってしまい、それが最後の直線で響いた。直線で1,2着馬にあっさり差されたが、有馬記念出走馬の中では能力上位か。5着のジャスティンパレスは最初のコーナーでロスがあり、中団後方からの競馬になり、最後はジワジワ伸びるが、一瞬の切れはない。7着のタスティエーラは好位からの競馬だが、この馬にとってスピード決着は不利。8着のシンエンペラーは有馬記念出走馬の中では最も前で競馬をしたが、能力的にやや劣る感は否めない。9着のコスモキュランダは能力不足。以上より、JC出走馬の中ではダノンデサイルを上位に取りたい。

 

3. エリザベス女王杯  牝馬限定戦 芝2200m  16頭

  このレースの出走馬のうち有馬記念出走馬は⑤レガレイラのみ

 

 レガレイラは中団後方から直線で一気に差しきった。快勝。ここでは他馬との能力の違いを見せつけた。

 

【展開予想】

 逃げるのは⑪ミステリーウェイか⑥メイショウタバルだろうが、ミステリーウェイは前に行く以外に活路が見いだせないので、先頭争いに巻き込まれたくないメイショウタバルは2番手に控えるだろう。⑪はハイペースで逃げるだろうが、⑥はそこまで速いペースにはならないだろう。Mペースかそれよりもやや速いペースになるのではないか。有力馬の位置取りは中団~後方になりそうである。この展開から考えると、3~4コーナー中間辺りからのロングスパートになりそうだが、⑪は4コーナーを過ぎた辺りで後方馬群にのみ込まれ、⑥が抜け出すところを有力馬が追いかけるという展開になり、ほぼ実力通りの決着になると思われる。

 

【結論】

 天皇賞、JCの最先着馬である④ミュージアムマイルと⑨ダノンデサイル、それにエリザベス女王杯を快勝した⑤レガレイラを上位に取りたい。この3頭の比較だが、レガレイラは昨年の有馬記念を勝っているものの、当時は3歳牝馬ということで斤量が54キロとかなり有利であった上に、展開もこの馬に向いたということもあり、また、今回の相手はエリザベス女王杯の相手よりもはるかに強いので、この馬は3着までという位置づけにする。④ミュージアムマイルと⑨ダノンデサイルの2頭についてはあれこれ考えたが、結局結論が出なかったので、馬券はこの2頭からにする。3着馬としては⑤レガレイラ以外に、ロングスパートのきく③ジャスティンパレス、2番手追走からの粘り込みが考えられる⑥メイショウタバルまで。⑯タスティエーラは一発逆転があっても不思議ではないが、中山2500mは最初のコーナーで大外の馬はロスが発生する可能性があるので、今回は思い切って切ることにした。

 

馬券は以下の通り。  

・馬連  4―9 (6.7)

 *枠連2-5は12:03現在で6.8倍なので、様子を見てこちらにするかも。

・3連複  4、9軸の3、5、6への流し。

 3-4-9 (28.9)

  4-5-9 (7.9)

  4-6-9 (17.2)

   *4-5-9は押さえ。

 

 JRAさん、年末のプレゼントを!!!

 

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 この年末、サントリーの「響」をプレゼントしてくださる方がいて、ありがたい限り。今年の3月、手術をしてその後も医師から酒はまだ控えるようにと言われていたのだが、3ヶ月ほど前にやっと解禁になったと言ったところ、その方がお正月に飲んでくださいと言って送ってくださった。感謝。

 

 

 「響」は品薄になる以前、清水の舞台から飛び降りたつもりで自腹で買ったことがあるが、そのときでも1万円だった。その後、品薄が続いていてなかなか手に入らなくなったのでおそらく価格も跳ね上がっていると思われる、と野暮なことを考えてしまうのは貧乏人の性なのだろうか。

 2025年も残すところ一週間を切ったが、とりあえず今年読んだ本の中からベスト10を選んでみた。取り上げた書物のうち、何冊かについてはいずれまとまった書評を書くことにしたい。

 まず、今回はベスト1~5を取り上げる。

 

1. 中島岳志『縄文』(太田出版)

 タイトルにつられて縄文時代の人びとの生活様式やその歴史的意義などを解明している本だと思うと期待外れに終わる。ひと言で言って、この本は序章のタイトルにあるように「戦後日本が『縄文』に見ようとしたもの」を論じた書物である。要するに戦後日本人の精神史を扱った本である。

 岡本太郎、民芸運動の柳宗悦、ヤポネシア論の島尾敏雄、共同幻想論の吉本隆明、オカルトとヒッピー、左翼から右翼へと転向した太田竜、新京都学派の上山春平や梅原猛など、扱われている人物・現象は多岐にわたるが、それがまさに「縄文」を特徴づけていると言えるのである。そもそも、著者自身が「あとがき」で述べているように、本書の構想のきっかけになったのは安倍晋三元首相の妻・昭恵さんが森友学園の右派的な教育方針に賛同する一方で左派的な脱原発や無農薬栽培にも共感する姿勢がどのように繋がっているのかということである。昭恵さんは大麻の有用性と神秘性をも訴えており、そこに著者は自然志向に基づくスピリチュアリティとナショナリズムの結びつきを見るのであるが、調べていくうちに両者の間には大きな断絶があることも分かってきて、それが「縄文」についてのスタンスであるということになる。

 

2. 鶴見太郎『ユダヤ人の歴史』(中公新書)

 歴史学や社会科学では「主体か構造か」という問題がよく議論される。本書によれば「『ユダヤ人の歴史』の見どころは、ユダヤ人が構造と格闘したり、構造を前提にしてそれを活かす道を考えたり、複数の構造を組み合わせて第三のものを作り出したりするような、『主体と構造』が織りなす局面だ」(p.9)ということになる。本書はこの観点から『聖書』の時代からつい最近のイスラエルのネタニヤフの時代までのユダヤ人の歴史を「古代」、「古代末期・中世」、「近世」、「近代」、「現代」の各局面における「主体と構造」の組み合わせを軸として展開した書物である。

なお、シオニズムによって建国されたイスラエルを正統的なユダヤ国家ではないとして批判しているヤコブ・M・ラプキン著『イスラエルとは何か』(平凡社新書 管野賢治訳)も興味深い書物である。

 

3. 西田正規『人類史のなかの定住革命』(講談社学術文庫)

 人類が定住生活を始めたのは今から約1万年前のことだが、従来、その原因は食料生産(農耕)が始まったことであるとされてきた。本書の著者はこの通説を正面から批判する。著者の疑問は、定住生活を始めるにはゴミや排泄物の処理、死体を埋葬するための墓地の設置といった問題、さらには不和が生じたときに容易に別の場所に移動できないといったことなど、遊動生活では問題にならなかった様々なことを処理しなければならないが、数百万年ものあいだ狩猟採集を行いながら遊動生活を送ってきた人類が定住に伴うそんな面倒なことをわざわざ行おうと思っただろうかということである。つまり、人類が定住生活に入っていったのは自ら進んで行ったことではなく、そうせざるを得ない事情が約1万年前に生じたのだということである。それは何か…。ひと言で言うと、氷河期が終わったことに伴う地球温暖化であり、農耕が始まったということなのではない。むしろ、農耕は定住生活をするようになったあとで始まったというのが著者の主張である。素人の私には著者の主張が正しいかどうかの判断はつかないが、興味深い議論で説得力があるようには思われた。

 

4. 上山春平『埋もれた巨像』(岩波書店 同時代ライブラリー)

 日本の歴史において8世紀初頭は律令(大宝律令)、正史(日本書紀)、都城(平城京)といった最高度に重要なモニュメントが姿をあらわした時代であるが、そのすべてに中心的な存在として関わったのは藤原不比等であるというのが著者の主張である。つまり、その後の日本という国家のグランドデザインを描いたのは藤原不比等であるということなのだ。不比等って、あの藤原鎌足の息子の…ということで、まず、この点に驚かされるのであるが、それを仕掛けたのは持統天皇であるという点に二度びっくりさせられる。だって、藤原不比等は壬申の乱において天武天皇の敵であった大友皇子の側に属していたからである。つまり、持統天皇の敵だったはずなのだが…。著者は資料をじっくり読み解きながらこういった疑問を一つ一つ解明していくのであるが、そのプロセスもじつに興味深い書物である。

 

5. 朝井リョウ『イン・ザ・メガチャーチ』(日本経済新聞出版)

 

 今年読んだ小説の中で最も面白かった小説。「推し活」という言葉が一般的になった現代。主な登場人物は3人。「推し活」に夢中になる人たち、それを仕掛ける人たち、かつて推し活にのめり込んでいた人たち。彼らの姿を通じて現代社会の病理とも言える側面を見事に剔抉した小説であるというのが私の感想。

推し活を仕掛けるチームのリーダー的存在である国見の発言。

「このチームの本来の目的は、彼らの物語を人が最も没入しやすい形に整えて差し出すこと、なんです。その上で、最も共感力が高く、自他の境界が曖昧で、視野を狭めやすい気質のファンをあぶり出し、より先鋭化させることなんです。」(p.169)