監督:アスガー・ファルハディ
キャスト:
ペネロペ・クルス(ラウラ)
ハビエル・バルデム(パコ)
リカルド・ダリン(アレハンドロ)
バルバラ・レニー(ベア)
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「別離」「セールスマン」でアカデミー外国語映画賞を2度受賞しているほか、カンヌやベルリンといった国際映画祭でも高い評価を受けているイランの名匠アスガー・ファルハディが、スペインの田舎町を舞台に全編スペイン語で撮り上げたミステリードラマ。主演をペネロペ・クルスとハビエル・バルデムが務め、実生活で夫婦の2人が共演した。アルゼンチンで夫と2人の子どもと暮らすラウラが、妹アナの結婚式に出席するため、故郷スペインの小さな村に子どもたちを連れて帰ってくる。地元でワイン農園を営む幼なじみのパコや家族と再会し、ともに喜ばしい日を迎えるラウラたちだったが、結婚式のアフターパーティのさなか、ラウラの娘イレーネが姿を消してしまう。やがて何者かから巨額の身代金を要求するメールが届き、イレーネが誘拐されたことが判明。それぞれが事件解決のために奔走するなかで、家族の間にも疑心暗鬼が広がり、長年に隠されていた秘密があらわになっていく。2018年・第71回カンヌ国際映画祭コンペティション部門出品。(「映画.com」より)
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アスガー・ファルハディ監督の映画の特徴は、なにかある出来事が起こったとき、それまでの均衡を保っていた関係に小さな亀裂が入り、やがてそれが修復不可能なものにまで発展してしまう人たちの心の揺れを見事に剔抉するところにある。ただ、ファルハディ監督はそうなってしまう決定的な原因は誰かが悪いからだということを描くのではない。したがって、映画にカタルシスを求める観客にとっては見終わったあと、どこかモヤモヤしたものが残るのだ。しかし、少し考えてみれば分かることだが、私たちの人生の現実はカタルシスのようなものによって一挙にスッキリするものになっているだろうか。たしかに映画の中には終盤に問題が一挙に解決され、観客にカタルシスを与えてくれる作品もたくさんある。それを否定するつもりはないし、私もそういった作品、つまりエンタメ映画が嫌いではない。ただ、そのカタルシスが長続きしないのも確かである。言わばマッサージ効果と同じことである。これに対し、観客に向かって私たちの現実の一部を切り取り、それを提示してくる映画も存在する。つまり、「本当のこと」を語る映画なのだ。当たり前のことだが、私たちは生きている限り自分にとっての「本当のこと」に向き合わざるを得ないのだが、その種の映画は観客である私たちをその世界に連れて行くのである。もちろん、映画は哲学の教科書ではない。難しい言葉で監督の世界観だけを語られても退屈なだけだ。私が観たい映画はエンタメとしての面白さを通じて「本当のこと」が語られている作品である。
さて、能書きが長くなったが、以上の基準に照らしてこの映画を観たときに、いつものファルハディ監督らしさとともに、いささか物足りなさをも感じたというのが正直なところである。物語の背後にあるのは社会的・経済的格差からくる登場人物たちの心の中にある屈折した感情である。
映画の序盤。登場人物たちは久々の再会を懐かしみ、喜び合い、親族の結婚を祝福する。その中で起こる誘拐事件。それをきっかけに人びとの長年の思いが一挙に噴き出す。その辺りの描き方はやはりいつものファルハディ監督といったところだ。私が物足りなさを感じたのは、この物語の中心人物であるラウラとパコの心の揺れの描き方に説得力があまり感じられなかった点にある。その理由はサスペンスとしてのストーリーの面白さに必要以上にこだわったことに尽きるのではないかと思うのだが、その結果、彼らの言動がご都合主義に流れて、その分薄っぺらいものになっている箇所が随所に見られたのである。例えば、ラウラがパコに対して言い放つ決定的な言葉。発せられた言葉の虚実はともかく、その言葉を発するまでのラウラの心の揺らぎが映画からは見えてこないため、観客としては虚を突かれたように感じてしまうのである。また、パコが必要以上にイレーネの救出にのめり込んでいく心情が映画からはあまり伝わってこなかったのである。だから私たちはイレーネとともに「…(ネタバレになるためセリフは伏せておく)」と発するより仕方がないのだ。もっとも、ファルハディ監督がイレーネにこの言葉を言わせたのは観客に対して「わかるでしょ」とのことだとは思うが…。もちろん、そうは言っても、事件が「解決」してからエンディングに至るまでの描写にはファルハディ監督らしさを見ることはできたのだが…。












