監督:クリント・イーストウッド
キャスト
クリント・イーストウッド(ウィリアム・マニー)
ジーン・ハックマン(リトル・ビル・ダゲット)
モーガン・フリーマン(ネッド・ローガン)
リチャード・ハリス(イングリッシュ・ボブ)
ジェームズ・ウールベット(スコフィールド・キッド)
**************************************
クリント・イーストウッドが、師匠であるセルジオ・レオーネ監督とドン・シーゲル監督に捧げた異色西部劇。1870年代の米ワイオミング。かつては無法者として悪名を轟かせたウィリアム・マニーだったが、今は若い妻に先立たれ、2人の幼い子どもとともに貧しい農夫として静かに暮らしていた。そこに若いガンマン、キッドが立ち寄り、賞金稼ぎの話を持ちかける。共演にジーン・ハックマン、モーガン・フリーマン、リチャード・ハリス。92年度のアカデミー賞では作品、監督を含む4部門を受賞した。(「映画.com」より)
**************************************
私の知る限り、「許されざる者」という邦題のアメリカ映画は2つある。一つは今回取り上げるクリント・イーストウッド監督の作品であり、もう一つは1960年に制作されたジョン・ヒューストン監督(バート・ランカスター / オードリー・ヘップバーン主演)の作品である。原題なのだが、前者はUnforgivenであるのに対し、後者はThe Unforgivenである。The Unforgivenはたしかに「許されざる者」という意味になるが、Unforgivenだけなら「許されない」という形容詞なので「許されざる者」という邦題にはやや違和感がある。なぜこのような細かい(したがって、どちらでもよい)ことにこだわるかというと、クリント・イーストウッド監督作のタイトルには「許されないことだけれど…」ということが示唆されているのではないかと思ったからである。もっとも、単にジョン・ヒューストン監督作と全く同じタイトルにしたくなかっただけのことなのかもしれないが…。
「映画.com」のレビュー欄をパラパラと読んだところ、この映画の解釈として「許されざる者」とは誰なのかということを問題にしているレビューが目についたのだが、「誰(or何)が許さないのか?」を問題にしているレビューを目にすることはなかった。しかし、私にはこの問いこそがこの映画のテーマに関わるのではないかと思われるのである。それは神なのか、法なのか、それとも登場人物の誰かなのか…。私にはそれは法だと思われるのだ。
この映画の時代背景が19世紀の後半であるということは重要だ。つまり、国家による法的規制がまだ十分に行き届かない地域も少なからず存在した時代である。さらに、リトル・ビル・ダゲットのように保安官自身が無法な行為を行うこともあった時代であって、賞金稼ぎのために殺人を犯すなどということは法的観点からは決して許されることではないにもかかわらず、普通に行われていたのである。
以上のようなことを背景にこの映画を見たとき、クリント・イーストウッドが問いかけているのは私たちの行為を律する基準は何なのかということのように思われるのだ。たしかに、法は私たちが自身の行為を律する際の外的基準として存在する。しかし、クリント・イーストウッド監督は、私たちの中には法を超えたところで自分の行為を律する内的な基準が存在するのではないかということを問いかけてくるのである。若いころ無法者であったものの今では二人の子供を育てながら地道な生活を送っているマニーがなぜ賞金稼ぎの話に乗ったのか? 貧困にあえぐ中、生活費を稼ぐための豚が伝染病にかかり、幼い二人の子供を育てるため。マニーはなぜネッドの仇を討つために保安官のところに戻ったのか? 親友だから。いずれも法を超える(に反する)決断である。しかし、マニーの中には、彼にそのような行動を取らせた内的な基準があり、それは愛する者への忠誠心なのだ。クリント・イーストウッドはたとえUnforgivenであったとしても、マニーのその内的基準を肯定しているように私には見えたのだ。君はすべてをかけて愛する者を守ることができるか、君は愛する者のために戦うことができるか…と。
この映画の冒頭とエンディングのナレーションは示唆的である。
(冒頭)
若く美しい娘クローディアは母の意に背きウィリアム・マニーと結婚した。
マニーは人殺しで酒浸りの残忍な札付きの悪党であった。
だが母の心配とは逆に美しい娘は天然痘で病没した。
1878年のことだった。
(エンディング)
数年後、長旅の末クローディアの母が一人娘の永眠の地を訪れたが、父と子供たちの姿はなく…。
西海岸で商売に成功したとのうわさを聞いた。
母にはどうして一人娘が酒浸りで残忍な札付きの悪党と結婚したかついに分からなかった。
クローディアもクローディアの母も映画には登場しないが、この二つのナレーションを通じて観客にはマニーの内なる基準とそれを理解していたクローディアと、それと対照的に世の中という外的な基準しか持っていなかったクローディアの母とが示唆されているのである。



