監督:タカハタ秀太

キャスト

藤原竜也(津田伸一)

土屋太鳳(鳥飼なほみ)

風間俊介(幸地秀吉)

豊川悦司(倉田健次郎)

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直木賞作家・佐藤正午の同名ベストセラーを藤原竜也主演で映画化。都内のバー。かつて直木賞を受賞した天才小説家・津田伸一は,担当編集者の鳥飼なほみに執筆中の新作小説を読ませていた。その内容に心を踊らせる鳥飼だったが,津田の話を聞けば聞くほど小説の中だけの話とは思えない。この小説が本当にフィクションなのか検証を始めた鳥飼は,やがて驚きの真実にたどり着く。謎めいた小説家・津田を藤原,津田に翻弄される担当編集者・鳥飼を土屋太鳳,津田とコーヒーショップで出会った日に失踪したバーのマスター,幸地秀吉を風間俊介,津田の行きつけのコーヒーショップ店員・沼本を西野七瀬,彼らが暮らす街の裏社会を仕切る倉田健次郎を豊川悦司が演じる。監督は「ホテル ビーナス」のタカハタ秀太。

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 映画に対する感想をひと言で言うと,アイデアはとても面白いエンタメ作品だが,そのアイデアを映画としての面白さに作り上げるための脚本がダメということだ。

 例えばXという事象とZという事象があるとしよう。このXとZの間に何らかの関係があるのではないかということを証明するために科学の世界で用いられる方法の一つは,両者に関連のあるYという事象をその間に介在させ「X=Y,Y=Z。ゆえにX=Z」という三段論法だ。現実の世界においてもいくつかの事象の間の関連を示す方法は因果関係などいろいろあるが,そのような関連を示す方法に無理がある場合,それは陰謀論と言われる。

 この映画の予告編を観ると「この男の書いた小説が現実になる」というキャッチフレーズが見られる。このキャッチフレーズから想像される物語は件の小説家がオカルト的能力を持っているか,小説を模倣した事件が起こるかというところだが,この映画はそれほど単純ではない。映画で展開されていることは,現実に起こった一見したところ関係のないいくつかの事件に基づいて,それらの事件を小説家が自分の想像力によってつなぎ合わせて描かれた小説なのである。

  編集者の鳥飼が小説家の津田に尋ねる。「偽札の話と失踪事件,この二つがどう繫がるんですか」。映画は現実の事件と小説家の想像力によってつなぎ合わせられた「事件」が渾然一体となって展開される。観客には何が現実で,何が想像上の「事件」なのかは知らされない。このアイデアは大変面白い。したがって,映画を見終わった観客がこのアイデアの面白さを実感するためには「なるほど」という納得感が必要なのだ。それは上に述べた事象と事象をつなぎ合わせる事象が精巧に組み立てられ,最後に何が現実で何がフィクションであったかを映像で示されて初めて成り立つことである。しかし,この映画はその点をほとんど放置したままエンディングとなるのだ。脚本の失敗としか言いようのない映画であり,ネット上では,あのシーンやこのシーンについて<ああだこうだ>といった情報が飛び交っているが,私には脚本の失敗した作品の内容をあれこれ推測する趣味はないので,「この男が書いた小説(ウソ)を見破れるか」というキャッチフレーズを苦々しく思うだけである。

監督:堤幸彦

キャスト

堤真一(石川一登)

石田ゆり子(石川貴代美)

岡田健史(石川規士)

清原果耶(石川雅)

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堤幸彦監督と堤真一が初タッグを組み,雫井脩介の同名ベストセラー小説を映画化したサスペンスドラマ。一級建築士の石川一登と校正者の妻・貴代美は,高校生の息子・規士や中学生の娘・雅とともに,スタイリッシュな高級邸宅で平和に暮らしていた。規士は怪我でサッカー部を辞めて以来,遊び仲間が増え無断外泊することが多くなっていた。ある日,規士が家を出たきり帰ってこなくなり,連絡すら途絶えてしまう。やがて,規士の同級生が殺害されたニュースが流れる。警察によると,規士が事件に関与している可能性が高いという。行方不明となっているのは3人で,そのうち犯人と見られる逃走中の少年は2人。規士が犯人なのか被害者なのかわからない中,犯人であっても息子に生きていてほしい貴代美と,被害者であっても彼の無実を信じたい一登だったが…。貴代美役に「マチネの終わりに」の石田ゆり子。「八日目の蝉」の奥寺佐渡子が脚本を手がけた。

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 ひと言で言うと,惜しい作品だという印象だ。息子の失踪というサスペンスタッチで描かれてはいるのだが,サスペンスとしての緊迫感はそれほど感じられないし,かといって,謎解きの面白さがあるわけでもない。サスペンス映画として見れば平凡な出来である。やはりこの映画は家族の物語であろう。予告編を見るとこの点について「家族を想うあなたの物語」と述べられている。焦点は,息子は殺人事件の加害者なのか,それとも被害者なのかということに収斂するのだが,この点をめぐる父と母の思いは正反対のベクトルを描く。映画はそれを,予告編が言うように「息子を信じたい父と,守りたい母」として描いているのだが,この単純な割りきり方にやや残念な思いが残る。本当にそれだけなのかという問いかけはなかったのだろうか。この家族のそれぞれが事件をどのように受け止めたかというその思いの違いを丹念に描くことによって家族関係のリアルに迫ることができたのではないかとも思われるのである。それができなかったのはおそらくサスペンスの部分に軸足を置きすぎたからではないかと思われるのだが,その点が惜しまれる作品であるというのが率直な印象である。

 エンディングで貴代美が自分の心情を雑誌記者の内藤(松田翔太)に打ち明けるシーンがある。これはとても大事なシーンであり,もう少し含みを持たせた描き方にして欲しかったとも思うのである。

監督:濱口竜介

キャスト:

 西島秀俊(家福悠介)

 三浦透子(渡利みさき)

 霧島れいか(家福音)

 岡田将生(高槻耕史)

 

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 村上春樹の短編小説集「女のいない男たち」に収録された短編「ドライブ・マイ・カー」を,「偶然と想像」でベルリン国際映画祭銀熊賞を受賞した濱口竜介監督・脚本により映画化。舞台俳優で演出家の家福悠介は,脚本家の妻・音と幸せに暮らしていた。しかし,妻はある秘密を残したまま他界してしまう。2年後,喪失感を抱えながら生きていた彼は,演劇祭で演出を担当することになり,愛車のサーブで広島へ向かう。そこで出会った寡黙な専属ドライバーのみさきと過ごす中で,家福はそれまで目を背けていたあることに気づかされていく。主人公・家福を西島秀俊,ヒロインのみさきを三浦透子,物語の鍵を握る俳優・高槻を岡田将生,家福の亡き妻・音を霧島れいかがそれぞれ演じる。2021年・第74回カンヌ国際映画祭コンペティション部門に出品され,日本映画では初となる脚本賞を受賞したほか,国際映画批評家連盟賞,AFCAE賞,エキュメニカル審査員賞の3つの独立賞も受賞。また,2022年・第94回アカデミー賞では日本映画史上初となる作品賞にノミネートされる快挙を成し遂げたほか,監督賞,脚色賞,国際長編映画賞とあわせて4部門でノミネート。日本映画としては「おくりびと」以来13年ぶりに国際長編映画賞(旧外国語映画賞)を受賞した。そのほか,第79回ゴールデングローブ賞の最優秀非英語映画賞受賞や,アジア人男性初の全米批評家協会賞主演男優賞受賞など全米の各映画賞でも大きく注目を集めた。日本アカデミー賞でも最優秀作品賞はじめ,計8冠に輝いた。(「映画.com」より転載)

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● 「衣」の厚い海老の天麩羅はお好き?

  映画制作上の巧みさに感心した,というより,「参ったな」という感じだ。その上で見終わった感想を海老の天麩羅に例えて言うと次のようになる。

「最上質の小麦粉で衣を作り,最上質の油で揚げているが,肝心のエビがごく普通の小さいエビという感じ。つまり,衣が厚すぎる。見せ方は上手だな~とは思うが…。」

今回はこの点についてちょっとした感想を書いてみたい。

● まず,「衣」の部分から。

 映画の構成がはっきりとした「序破急」になっている。具体的に言うと次のようである。

序-主人公の家福悠介の妻である音が亡くなるまで。

破-ある人物が警察に逮捕されるまで。

急-ラストまで。

「序」の部分は40分ほど続くのだが,実は,この「序」の部分が終わったところで初めてクレジットタイトルが表れるのである。ちょっとした工夫なのだが,これによってそれまでの物語が一旦リセットされるという効果がもたらされ,観客は新たな気持ちで次のステージに移っていくことができ,ほぼ3時間という長尺にもかかわらず,エンディングまで飽きることなく集中して映画の中にとどまることができるのだ。実に巧みな演出である。

 さて,「序」の部分であるが,この箇所の理解が映画全体のテーマ設定に大きく関わっていると思われるので,少し詳しく書いておきたい。① 物語はいきなり家福と音のセックスシーンから始まる。家福は舞台俳優で演出家であり,音は売れっ子の脚本家である。行為の最中,音はある物語を語る。それは,自分のことを前世がヤツメウナギだったと言う女子高生が「ヤマガ」という同級生の部屋に繰り返し忍び込み,自分が来た痕跡をそれとなく残していくという物語なのだが,何やらそれは何かの比喩めいた話のようにも聞こえるのだ。② 家福は愛車サーブを駆って仕事場に向かうのが日常になっているのだが,彼は運転しながらカセットテープでチェーホフの『ワーニャ伯父さん』のセリフを聞くのがルーティーンになっている。セリフを朗読しているのは音であり,家福はそのセリフに合わせて「ワーニャ」の箇所のセリフだけを口にするのである。③ ある日,家福はロシアでの公演に行く予定がキャンセルになり,成田から自宅に引き返す。そして音の不倫現場を目撃するのである。しかし,彼はそれをとがめることなく,音に気づかれないように自宅をあとにし,その後も,何事もなかったかのように音との生活を続ける。④ 彼が遅く帰宅したある日,音がくも膜下出血で死んでいるのを発見する。その日,家福が出かけるときに音は彼の帰宅後,何かを話したそうにしていたのである。「序」で描かれているのは以上の4つのポイントである。

 2年後,家福は広島で開催される演劇祭の演出を担当することになり,愛車のサーブで広島に向かう。そこで彼は専属ドライバーとなった寡黙なみさきと出会い,彼女との交流を通して家福の抱えている悩み,問題が濱口監督の実に巧みな演出によって浮き彫りにされていく。家福は『ワーニャ伯父さん』の演出家として彼なりの方法で舞台稽古を指導していくのだが,『ワーニャ伯父さん』の劇そのものがこの映画のテーマとシンクロしているのである。家福の演出する劇は多言語劇であり,日本語だけではなく韓国語,中国語,英語が飛び交うばかりか,そこには手話までもが含まれているのである。濱口監督は言葉が理解できなくても,また言葉などなくても人と人とは理解し合うことができるのだということを言いたいのだろう。『ワーニャ伯父さん』の劇中で述べられるセリフのように,人は生きていかねばならないのだと。それはまた,演劇祭スタッフのユンスと聴覚障害を持つ彼の妻で,舞台でエレーナ役を演じたユナとの触れ合いによっても描かれる。翻って,家福と音の関係はどうだったのか。

 映画は家福と専属ドライバーとしてのみさきとの仕事上での交流を通じてお互いの心が接近していく様を丹念に描きながら(家福とみさきが車から火のついたタバコを持ち上げるシーンなど,演出効果満点である),ラストのカタルシスへとなだれ込んでいく。この「破」,「急」における三浦透子の演技に引き込まれた。寡黙な女性の役なのだが,存在感が半端ではないのだ。さらに,この映画で重要な役割を演じているのが岡田将生演じる高槻である。みさきが運転するサーブの中で高槻が家福にある種の「謎解き」を語るシーンがあり,それがこの映画のクライマックスなのだが,なかなか見応えのあるシーンであった。

 以上がこの映画の「衣」である。ほぼ3時間,観客を飽きさせない様々な工夫がなされており,私も飽きることはなかった。海老の天麩羅の比喩で書いたように,最上質の小麦粉と最上質の油を使った美味しそうな天麩羅なのだ。

● 海老は?

 演出の巧みさに「参ったな~」と思ってしまう映画なのだが,そう思う一方で私には鑑賞中ずっとしっくり来ないものがあったことも事実なのだ。それは上で少し詳しく書いた「序」の部分に原因があるのだと思われる。ラストの部分で家福が音への思いを語るシーンがあり,それによって観客(少なくとも私)は「序」で音が語る物語の意味,家福が音の不倫を見ながらそれから目をそらしたことの意味などを「理解」するのだが,はたして観客は映画のそのような提示の仕方に「わかった」と言えるのだろうか?決定的に欠けているのは映像なのだ。

 英語にShow, not tell.という表現がある。「語らずに見せなさい」ということだ。「序」の演出はたいへん巧みなのだが,音の思いは彼女が語る物語やカセットのセリフを通じて「語られる」だけで,私には映像を通じて伝わってはこなかったのである。霧島れいかの演技に問題があるのではない。濱口監督が十分承知の上での演出なのだ。しかし,それは成功しているのだろうか?家福は音の心情を理解できなかった。だとすれば,彼の抱えている喪失感はどこから来るのだろう?ラストで彼は気づく。自分に向き合ってこなかったということに。自分に向き合うことを通じて他者を理解する。そうかもしれない。それならば,映画は家福と音の関わりを,映像を通じて丹念に描く必要があるのではないだろうか。

 「音」という名前は象徴的だ。そう,彼女は「音」なのだ。なぜ,表情やしぐさや行為ではないのか?

 映画は映像で見せてこそ映画なのだという考えを私は捨てることができない。しかし,一般にこの映画の評価はとても高いということを考えれば,多くの人たちは,音がその声を通じて語る彼女の心情を理解できるのだろう。映画を観る視点ということについて考えさせられる映画であった。

 家福が車の中で『ワーニャ伯父さん』の中のセリフ――「レトリックはふんだんにあるが,ロジックはない」――と語るシーンがある。この言い回しを借りて,もし私がこの映画について次のように言うとすれば,それは的を射ているだろうか。「レトリックはふんだんにあるが,リアリティはない」。

 

監督:藤井道人

キャスト

綾野剛(山本賢治)

舘ひろし(柴咲博)

尾野真千子(工藤由香)

市原隼人(細野竜太)

磯村勇斗(木村翼)

寺島しのぶ(木村愛子)

 

(ネタバレ含みます)

 ヤクザ映画を<ヤクザと家族>という観点から捉えた作品はそれほど多くはないのではないだろうか。もちろん,私自身がそれほど多くのヤクザ映画を観ているわけではないので断定的なことは言えないが…。例えば,ヤクザ映画の代表作の一つである『仁義なき戦い』のシリーズは「組」と「組」との抗争に関わるいろいろなヤクザの姿を描いた群像劇であり,「家族」という存在はまったく後景に退くのである。もっとも,ヤクザの「組」は「○○一家」と言われるようにある種の家族だと言えるかもしれないが,このシリーズで描かれている「組」は「家族」というよりは「組織」という側面が強く,描かれているのは「家族」というウエットな関係ではなく,まさに弱肉強食の「仁義なき戦い」のもつ理不尽なのである。<ヤクザと家族>の関係を正面から取りあげた作品として思い出されるのは『竜二』である。主人公の竜二は羽振りのいいヤクザなのだが,徐々にその暮らしにむなしさを感じ,カタギになって家族をもつ。しかし,結局,竜二はカタギの単調な暮らしに耐えられず元のヤクザに戻っていくのだが,この作品で描かれている「家族」はヤクザにとって桎梏でしかないのである。そして,今回の映画『ヤクザと家族』である。

 

 物語は山本賢治という一人の男の1999年,2005年,2019年という3つの時代の姿を通して<ヤクザと家族>のあり方を浮き彫りにしていく。

1999年:父親を覚せい剤で亡くした賢治はその日暮らしの生活を送っているが,ある日,柴咲組組長・柴咲博が対立する組のチンピラに殺されかけるところを助け, 2人は父子の契りを結ぶ。

2005年:ヤクザの世界で男を上げた賢治は対立する組のヤクザを殺した兄貴分の中村の身代わりで逮捕される。

2019年:14年の刑期を終えて出所した賢治が見たものは凋落して組員もほとんどいなくなった柴咲組と暴排条例によって生きづらくなったヤクザの世界である。

 

 ヤクザであった賢治の父親が亡くなったというシーンから映画が始まる。賢治には家族という存在がなくなったのである。その日暮らしの自暴自棄な生活を送っていた賢治はやがて柴咲組のヤクザになり,組長の柴咲博と父子の契りを結ぶ。疑似家族ではあるが賢治にとって家族ができたのだ。

 家族というものが血のつながりによってのみ形成されるものであるとすれば,賢治と柴咲との関係は家族とはいえないであろう。しかし,映画は命を救ったということを通じて結ばれる絆がこの二人のつながりを家族にするのだということを主張する。家族とは心と心のつながりなのだ,と。そうだとすれば,映画の中で描かれる賢治にとっての家族とは,由香との関わり,さらには木村母子との関わりも家族なのである。

 映画の後半では14年の刑期を終えて出所したあとの賢治と「家族」との関わりが描かれる。それはまた,市民社会とアウトローの社会との関わりを描くことにもなる。賢治が服役している間に暴力団排除条例によってアウトローの世界は変化した。それ以前の時代,市民社会とアウトローの社会とはいわば「中心と周縁」とでも言うべき関係において境界を曖昧にしながらも全体として一つの社会を形成していた。しかし,時代は変わったのだ。映画『竜二』において竜二はヤクザの世界に戻って行く。そこには竜二を受け入れてくれる世界の存在があった。しかし,柴咲組が崩壊の瀬戸際にあり,市民社会とアウトローの社会が截然と隔てられた世界の中に賢治の居場所は存在しない。市民社会の中で賢治は家族の崩壊をもたらす因子でしかないのだ。ならば,彼はせめてヤクザの流儀で疑似家族を守るより仕方がないではないか。ラスト。翼は彩に何を語ったのだろうか。

 最近はブログに記事を書くこともめっきり少なくなりましたが,マイペースで書いていくことにします。とりあえず,今月鑑賞した映画のひとくちコメントから。

 

1.『運命じゃない人』(2004年)日本)

  監督:内田けんじ          

 キャスト:中村靖日 / 霧島れいか / 山中聡 / 山下規介       

 

 ジグソーパズルのピースを当てはめていくどんでん返しは,なかなか面白い。同じ時間軸をいろいろな人物の視点から回収していく脚本は見事。エンタメ作品としてなかなか楽しめる。

 

2.『ノマドランド』(2020年 アメリカ)

 2022年1月10日付けで,本ブログで記事をアップ。

 

3.『グレイス 消えゆく幸せ』(2019  アメリカ)

 監督:タイラー・ペリー

 キャスト:クリスタル・フォックス / フィリシア・ラシャド / ブレシャ・ウェッブ /

       メカッド・ブルックス

 

 Netflix配給のサスペンス映画なのだが,脚本がお粗末で途中で真犯人が分かってしまい,シラケる。それに,若い男が中年女を騙す手口もあまりにも見え見え。

 

4.『東京オリンピック』(1964年 日本)

 監督:市川崑

 

 物事を俯瞰で見た場合と接近して見た場合とでは,同じものでも見えてくるものが異なるということは言うまでもない。私たちが日頃スポーツ中継で目にしているものはたいていの場合前者だ。それによって私たちはそのスポーツの全体像を捉えることができる。記録やスコアもその観点からのものである。市川崑はそのコンセプトとは正反対の立場からスポーツを捉える。それは選手の表情であったり,鍛え抜かれた筋肉の躍動感であったり,選手のちょっとした仕草を通して現れる精神状態などである。それによって市川監督は記録やメダルの数とは別の次元のスポーツの根源に迫ろうとしているかのようである。さらに,彼は選手にとどまらず,記録員やグラウンド整備員,観客の表情にまで迫ることによって,「参加することに意義がある」というこの祭典の原点を映画の観客に提示するのである。

 

★ 昨年コロナ禍の中で行われた東京オリンピックだが,河瀬直美監督による記録映画が6月公開予定で現在編集      作業が進行中だそうだ。しかし,昨年末,この映画の撮影風景を追ったドキュメンタリー「河瀬直美が見つめた東      京五輪」がNHK BSで放映された際,事実と異なるテロップが流されて大問題になった。もちろん,なぜそのよう        なことになったのかということについての真相は私には分からないが,少なくとも河瀬監督の説明にガッカリした 

  ことは事実だ。映像作家としての矜恃の問題だろう。

 

5.『ジョーンの秘密』(2018年  イギリス)

 監督:トレヴァー・ナン

 出演者:ジュディ・デンチ / ソフィー・クックソン / トム・ヒューズ

 

 イギリス郊外で穏やかな一人暮らしを送っていた80歳になるジョーン・スタンリー(ジュディ・デンチ)が突然訪ねてきたMI5に逮捕される。逮捕理由は半世紀以上も前にソ連のKGBに核開発の機密情報を漏えいしていたというスパイ容疑である。ジョーンに対する取り調べから彼女の驚くべき過去が次々と明らかとなる。

  事実に基づく映画だそうだが,ジョーンが核開発の機密情報をソ連に漏えいしていた動機にイマイチ説得力がなかった。現実政治の複雑さを考えれば,核の問題を単なる理想論だけで語ることができないのは分かるが,それにしても,自分も核開発に関与したという事実に関してどのように感じているのかが伝わってこなかった。それにコトは国家機密に関わる問題であるにもかかわらず,ジョーンが,自分が勤務している研究所が行っている研究内容を知るプロセスも「ホントかね?」と思わされたのだが…。事実に基づくフィクションだとは思うが,もう少し話の内容に説得力を持たせて欲しい。

 

6.『新聞記者』(Netflix制作 season1・1~6)

 監督:藤井道人

 キャスト:米倉涼子 / 綾野剛 / 横浜流星 / 吉岡秀隆 / 寺島しのぶ /

       ユースケ・サンタマリア / 田中哲司

 

 Netflix制作のドラマ。1~6話まであるが,一気に観てしまった。これも事実に基づくフィクションなのだが,豪華キャスト,さらに映画版と比べてかなり突っ込んだ内容になっている。特に興味をひかれたのはユースケ・サンタマリアが演じる豊田だが,誰がモデルなのだろうか?

 

7.『ヤクザと家族 The Family』(2021年 日本)

 監督:藤井道人

 キャスト:綾野剛 / 舘ひろし / 寺島しのぶ / 尾野真千子 / 北村有起哉 / 豊原功補

 

  いずれ当ブログで記事にする予定。