監督:源孝志

キャスト

柄本佑(加瀬総一郎)

長尾謙杜(伊納菊之助)

瀬戸康史(一八)

北村一輝(作兵衛)

渡辺謙(篠田金治)

 

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直木賞と山本周五郎賞をダブル受賞した永井紗耶子による同名小説を、柄本佑と渡辺謙の初共演で映画化したミステリー時代劇。

 

時は江戸時代。ある雪の降る夜、木挽町の芝居小屋「森田座」のすぐ近くで、美しい若衆・菊之助が父の仇討ちを見事に成し遂げた。その事件は多くの人々に目撃され、美談として語られることになる。1年半後、菊之助の縁者だという侍・総一郎が、仇討ちの顛末を知りたいと森田座を訪れる。菊之助に関わった人々から事件の経緯を聞くなかで徐々に事実が明らかになり、やがて仇討ちの裏に隠された「秘密」が浮かび上がる。

 

仇討ち事件の真相を追う田舎侍・加瀬総一郎役で柄本佑が主演を務め、森田座で謀略を巡らせる立作者・篠田金治を渡辺謙が重厚に演じる。仇討ちを成した者・伊納菊之助役で長尾謙杜(なにわ男子)、菊之助の父を手にかけ仇討ちされた無法者・作兵衛役で北村一輝、森田座の木戸芸者・一八役で瀬戸康史、森田座の立師・相良与三郎役で滝藤賢一、女形で衣裳方の芳澤ほたる役で高橋和也、小道具方の久蔵役で正名僕蔵が共演。テレビドラマ「忠臣蔵狂詩曲No.5 中村仲蔵 出世階段」などの時代劇や映画「大停電の夜に」で知られる源孝志が監督・脚本を手がけた。(「映画.com」より)

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 柄本佑を初めキャストがなかなか芸達者で豪華。上に挙げた役者以外にも滝藤賢一、山口馬木也、高橋和也、沢口靖子などが出演している。それに、これが仇討ちの一シーンだと思われるポスターの美しさに惹かれた。これはもう観ないわけにはいかないでしょう、というわけでアマプラで鑑賞。で、その結果は?ウ~ン60点、せいぜい65点かな…。

 公式サイトを見ると、この映画について「ミステリ篇」、「エンタメ篇」、「人情ドラマ篇」と、それぞれ15秒で紹介されているので、それぞれについての感想を書いてみる。

★ミステリ篇

 雪が積もっている木挽町の芝居小屋「森田座」の近くで、若くて美しい伊納菊之助が見事に父の仇討ちを果たすシーンから始まる。見物人は200人ほど。1年半後、菊之助の縁者だと名乗る加瀬総一郎が仇討ちの顛末を知りたいと「森田座」に現れ、仇討ちに隠された真実を解明していくプロセスがミステリーで、これがこの映画の本筋になる。率直に言ってこのミステリーはかなり荒唐無稽なのだが、ミステリー作品には大なり小なり荒唐無稽な部分があるのでその点は特に問題ではない。問題なのは、この荒唐無稽な仕掛けが映画のほぼ3分の2ぐらいのところで分かってしまい、どんでん返しもなくあとはちょっとした波乱だけでこの仕掛けを成功させるという展開と、これを仕掛けた人間関係の描き方がかなりご都合主義だということだ。中心にいるのは渡辺謙演じる金治なのだが、彼と彼を取り巻く人たちの関係の描き方が薄くて、ただのよい人たちの集まりにしか見えないのである。例えば、ジョージ・ロイ・ヒル監督の映画「スティング」もかなり荒唐無稽な仕掛けではあるのだが、そこに至るまでの人間関係がキッチリと描かれているために納得してしまうのである。映画として描くべきところはやはりキッチリと描くべきなのではないだろうか。

★エンタメ篇

 エンタメ篇の15秒解説のポイントがどこにあるのかがよく分からないのだが、椎名林檎のポップな曲に表れているように江戸時代の仇討ちをポップに描きましたよということだろうか…。たしかに軽いノリの映画ではあるが、そこにポイントを置くからダメなんじゃね?という気もしてくるのだが…。

★人情ドラマ篇

 ポップなテイストのなかに人情ドラマを入れるのであれば口先だけの武士道批判はいらない。小林正樹監督の名作『切腹』のような作品を作るのでなければ安易にそこに突っ込んでいくべきではない。それともあの仇討ちそのものが武士道批判を意図しているのだとでも言うのであろうか。ならばあのエンディングはない。

 

 雪上での仇討ちシーンや歌舞伎のシーンなど映像は素晴らしく、役者の演技にも引き込まれるところはあるのだが、約2600万円という低予算で制作された『侍タイムスリッパー』の映画としてのクオリティの高さと比較すると「ウ~ン」となってしまったのが正直な感想である。

「光のことば 闇のことば」(17)からの続き

 

哲学に関して言えば、すでに現代の生物学の成果がこの学問分野に与えた影響は、かなりのものではないでしょうか。ブレイン・サイエンスの成果は哲学が扱う世界観・人間観にさらに大きな影響を与えると思います。文学について言えば、すぐれた詩が人間を感動させるとき、人間の脳の中で、それに対応する物質現象が起きている。それが解明されれば、どうすれば人間を感動させられるかがもっとよくわかる。どういう詩、どういうストーリーがなぜより人を感動させるのかといったことがわかってくる。(利根川進)

 

  先日お亡くなりになったノーベル賞受賞者の利根川氏による37,8年前の発言であるが、哲学に関して言えばデカルト以来の近代哲学の課題である認識の問題は現代では脳科学や認知科学といった実証的な科学によっても研究されていると言われており、この分野の現在地がどの辺りにあるのかについては興味深いものがある。一方、文学に関する利根川氏の発言についてはどうだろうか?人が感動するとき人間の脳内で生じる物質現象が解明されれば「どうすれば人間を感動させられるかがもっとよくわかる」と仰っているが、同じ文学作品を読んでも感動する人もいればそうでない人もいるという事実を考えれば、一概にそのように断定することは不可能だと思われる。もちろん利根川氏はその程度のことは十分承知の上で発言されてはいるのだが、結局のところ最終的な結論としては個々の人間の性格や知能などは遺伝子によって決まっているのであり、その範囲内で私が上で疑問として述べたようなことが偶然性として働くことはあるとされるのである。そうなると、生命体の基本はDNAという物質なのであって、我々はすべてDNAが身にまとっている姿に過ぎないということにもなるであろうが、文系脳の私としては科学はある程度のことは解明できるとしても生命体にはそれを越える神秘的な部分が存在すると考えるほうが「健全」(笑)なのではないかと思うのである。科学や技術の暴走を防ぐためにも。

山田五郎さんが今月14日に原発不明がんでお亡くなりになりました。享年67歳

 

 実のところ、私が山田五郎さんのファンになったのはほんの6ヶ月ほど前のことなのです。テレビでは時々拝見していたので山田五郎という名前は以前から知っていたのですが、山田五郎さんがYouTubeで配信されている「山田五郎 オトナの教養講座」という番組を偶々拝見して、すっかり嵌まってしまったのです。この番組は主に西洋美術・絵画を私のような無教養な人間にも分かりやすく、また楽しく解説してくださる番組でとても楽しい時間を過ごさせていただきました。感謝いたします。ありがとうございました。ご冥福をお祈りいたします。

ぼくは脳の中で起こっている現象を自然科学の方法論で研究することによって、人間の行動や精神活動を説明するのに有効な法則を導き出すことが出来ると確信しています。(利根川進)

 

 1987年に日本人初となるノーベル生理学・医学賞を受賞した利根川進氏が今月11日、86歳で死去された。(合掌)

 

 

 上の言葉は立花隆氏によるインタビュー形式によって編纂された書籍、『精神と物質』(文春文庫)からの引用である。インタビューの内容は主に利根川氏がノーベル賞受賞の対象になった免疫のカギとなる抗体の多様性に関するもので、立花氏が専門的な内容を読者にも分かりやすく解説しながら進んでいくので、文系脳の私でもなんとか概要ぐらいは理解できたように思われる。

 

 上の言葉から分かるように利根川氏は明らかに科学万能主義の立場に立って人間の精神現象なども物質レベルに還元することによって解明することが可能だと述べているのだが、これに対して立花氏は「精神現象というのは重さもない、形もない、物質としての実体がないんだから、物質レベルで説明をつける意義があまりないと思いますが」(p.324)と反論している。興味深い議論だが、このインタビューは『文藝春秋』1988年8月号~1990年1月号まで断続的に連載されたものを書籍化しているので、この両者の発言は今からほぼ37、8年前のものということになる。利根川氏は上で「確信しています」と述べていることを明らかにするために1990年以降は本格的に脳の研究に転じたらしいのだが、その成果はどうだったのだろうか?この議論の中でも私が特に興味を引かれたのは利根川氏が哲学や文学と脳との関連に言及している箇所なのだが、私は科学や論理ですべてが解明できるとはとても思えないので、この問題は引き続き取り上げることにする。(次回に続く)

 本日(7月20日)の朝日新聞朝刊の「文化」欄に「仮題『東京物語』 取り消して『長屋紳士録』に?」と題する記事が掲載されている。記事によると「小津安二郎監督が戦後第1作として発表した『長屋紳士録』(1947年)のタイトルは、当初『東京物語』となる可能性があったことがわかった」とのことである。横浜市在住の人物が所有している『長屋紳士録』の準備段階と見られる脚本(ガリ版刷りのわら半紙をひもでとじたもの)の表紙を見ると「假題 東京物語」と書かれているが、その文字が取り消し線で消されており、後に加えられたとみられる「長屋紳士録」の文字が確認できるとのことである。

 

 

 私は『長屋紳士録』を観ていないのでどのような内容の作品なのかは分からないが、『長屋紳士録』と『東京物語』では、タイトルから受ける印象がずいぶん異なるように思われる。さらに、もし『長屋紳士録』が『東京物語』というタイトルで公開されていたら1953年に公開された名作『東京物語』はどのようなタイトルになっていたのだろうか?実を言うと私はこの映画のタイトルが『東京物語』であるということに若干の違和感があったのだが、だからといって『上京物語』というのも違うように思われるし、『上京顛末記』はあまりにもダサい。このようなことを考えると、やはり『東京物語』が一番フィットしているのだろうという気にはなってくる。ひょっとしたら小津監督は『長屋紳士録』でボツにした『東京物語』というタイトルにこだわりがあって、それに相応しい物語を書いたのかもしれない。それとも脚本を書いている途中で「そうだ、あのときボツにしたタイトルがこの物語に相応しいではないか」と閃いたのだろうか?

 

 ところで、最近観たNetflix制作の韓国ドラマ『誰だって無価値な自分と闘っている』はこのタイトルを見ただけで鑑賞したいという気になった作品で、内容も「生きていく上での価値って何なのだろう?」ということを問いかけているタイトル通りのドラマでとてもいい作品だった。