ドしろうとではあるが,「ダービー」の予想をしてみた。

 現在(28日13時)の単勝オッズを人気5位まで見ると,以下のようである。

1. ⑤ソールオリエンス(1.9)    

2. ②スキルヴィング(4.6)   

3. ⑭ファントムシーフ(6.2)   

4. ⑫タスティエーラ(8.7)     

5. ⑩シャザーン(23.0)

 

 当然のことであるが,出走馬18頭のうち11頭が前走「皐月賞」出走馬であり,上の上位人気馬でも②を除いて4頭が「皐月賞」に出走している。そこで,まずJRA提供のレースビデオを見ながら「皐月賞」を検討してみた。「皐月賞」上位入線馬は以下の通りである。

   馬名        通過順位

1. ソールオリエンス  15-15-17

2. タスティエーラ         6-6-4

3. ファントムシーフ  10-10-10

4. メタルスピード        9-8-8

5. ショウナンバシット  13-10-4

 レースは5F通過が58.5秒というハイペースで,通過順位を見ると分かるように後方待機馬が上位入線を果たしている。例外は2着のタスティエーラで,最後の直線で抜け出したところをほぼ最後位からソールオリエンスが上がり35.5秒の末脚で差しきって勝ったレースである。重馬場であったことを考えるとソールオリエンスの瞬発力は抜けていると思われる。ただ,5F 58.5秒というペースを考えた場合,前方で競馬をして2着に粘ったタスティエーラの能力は侮ることができないであろう。3着のファントムシーフは右後肢が落鉄していたらしく,また「共同通信杯」でタスティエーラに先着しているというところから3番人気になっているものと思われる。もう1点考慮しなければならないのは5着のショウナンバシットである。「皐月賞」当日は馬場状態が非常に悪く,上位5頭のうち4頭は外を通ったのに対してショウナンバシットは内を通っており,それが直線の伸びを欠いたとも考えられるのである。

 次に検討しなければならないレースは単勝人気2番のスキルヴィングが出走した「青葉賞」である。このレースに関して憶えているのは,創設当時「ダービー」と同距離,同競馬場で行われるということでこのレースの勝ち馬が「ダービー」でも人気になったのだが,ことごとく敗れ去ったということである。ネットでチェックしたところ,現在に至るまでも2着はあるが優勝馬は出ていないということが分かった。よく考えれば,「ダービー」までのステップで王道を歩む馬は「皐月賞」に出走するはずなので,「青葉賞」に出走するということは仕上がりが遅れているということであり,「ダービー」出走の権利狙いで目一杯仕上げているはずなので,「ダービー」ではもう余力は残っていないと考えられるのではないだろうか。そこで,今年の「青葉賞」であるが,5F通過が60.4秒というスローペースで,後方から伸びてきたスキルヴィングが34.1秒という末脚で差しきったというレースである。たしかに直線で伸びる足はあるが,ペースと馬場状態(良)を考えると評価が難しい気がする馬である。

 その他のステップレースも見たが,結論としてはこの2つのレースの出走馬から優勝馬は出るのではないかと思われる。

 ★レース展開

 ペースを作るのは③ホウオウビスケッツ,⑯パクスオトマニカ,⑰ドゥラエレーナの3頭だろうが5F60秒ぐらいの平均ペースになるのではないだろうか。有力馬の位置取りとしてはタスティエーラが先頭集団の直後辺りに着け,そのやや後ろにファントムシーフ,中団~やや後方にソールオリエンス,最後方の集団にスキルヴィングが着けるのではないかと思われる。先頭集団の馬がどこまで粘るのかによるが,直線ではタスティエーラが一旦先頭に立ち粘り込みを図るところにソールオリエンスがものすごい脚で伸びてきたところがゴールという結末になるのではないだろうか。スキルヴィングには競馬が難しいレースになると思われる。瞬発力ではソールオリエンスに劣るのでこの馬よりも前で競馬をしたいところだが,あまり前に行くこともできない馬だからである。

 馬券は連勝複式で買うが,軸はタスティエーラの粘り込みに賭けてこの馬にしたい。ソールオリエンスの瞬発力は中山でこそという気がして,直線の長い東京競馬場であの脚が使えるのかという不安があるからである。ただ,タスティエーラにも不安があって,1頭になると少し気を抜く傾向があるらしいし,松山騎手がこの馬ではなくハーツコンチェルトを選んだこと,テン乗りのレーン騎手がどういう競馬をするかという点である。特に直線での仕掛けどころを間違えないようにお願いしたい。ソールオリエンスではなくタスティエーラを選んだ決めては単勝オッズが1.9倍には馬券的にあまりうま味がないということである。(結局そこかい?!笑)

 

馬券は馬連で,

⑤ソールオリエンス―⑫タスティエーラ 

⑥ショウナンバシット―⑫タスティエーラ

⑫タスティエーラ―⑭ファントムシーフ

 

的中してもハズレても,今日一日をゆっくり楽しみたい。

 週末の土・日曜日になると毎週のようにウインズ,競馬場,ネット投票で馬券を買っていた生活から足を洗って(?)15年ほどになり,馬券を少額買うのも「ダービー」と「有馬記念」だけになってしまった。TVで競馬中継を見ても馬はもちろん,騎手の名前も半分ほどは馴染みがないのだが,それでもレースが始まるとやはり競馬は楽しい遊びだということを実感させられるのだ。

 今年も来る5月28日に東京競馬場で「日本ダービー」が行われる。これからネットで情報収集に精を出すつもりであるが,現在のところ「皐月賞」の勝ち馬の名前しか知らない状態である。

 初めて「日本ダービー」を見たのは1988年の第55回ダービーで,優勝したサクラチオノオーの小島太騎手が2度目のダービー制覇を果たしたのだった。もちろん,当時はそんな知識はなく,当時付き合いのあった2人の友人に競馬に関することをいろいろ教えてもらいながらの東京競馬場であった。(今は彼らとの付き合いもなくなったのだが,どうしているのだろうか…?)その後20年間ほど私はすっかり競馬の魅力に取り憑かれて完全に嵌まってしまい,毎週末に馬券を買うようになっただけではなく,ネット上で知った競馬の達人の競馬理論に心酔してその人を私淑するようになったり,また競走馬を所有するクラブ法人の会員になったりもして,数十万円のお金で馬主気分を味わったりもするようになったのだが,だんだん予想をする行為が予習・復習という受験勉強のような気分になってきて,結局競馬から離れてしまったのである。

 しかし,「鉄火場」という言葉があるように,競馬場には日常空間では味わえない「祝祭空間」という雰囲気があり,一度は行ってみるのも悪くはないのではないだろうか。まあ,それはともかく,今年のダービーを制する馬は…?う~ん,今知りたい。(笑)

 

 

 

 

監督:片山慎三

キャスト

 佐藤二朗(原田智)

 伊東蒼(原田楓)

 清水尋也(山内照巳)

 森田望智(ムクドリ)

 

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「岬の兄妹」の片山慎三監督が佐藤二朗を主演に迎え,姿を消した父親と,必死に父を捜す娘の姿を描いたヒューマンサスペンス。大阪の下町に暮らす原田智と中学生の娘・楓。「指名手配中の連続殺人犯見たんや。捕まえたら300万もらえるで」と言う智の言葉を,楓はいつもの冗談だと聞き流していた。しかし,その翌朝,智が忽然と姿を消す。警察からも「大人の失踪は結末が決まっている」と相手にされない中,必死に父親の行方を捜す楓。やがて,とある日雇い現場の作業員に父の名前を見つけた楓だったが,その人物は父とは違う,まったく知らない若い男だった。失意に沈む中,無造作に貼りだされていた連続殺人犯の指名手配チラシが目に入った楓。そこには,日雇い現場で出会った,あの若い男の顔があった。智役を佐藤が,「湯を沸かすほどの熱い愛」「空白」の伊東蒼が楓役を演じるほか,清水尋也,森田望智らが顔をそろえる。(「映画.com」より)

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 Wikiによると,片山慎三はポン・ジュノの助監督を務めていたことがあるとのことで,この映画にも随所にその影響が伺われるのだが,ポン・ジュノのファンにはお気に入りの作品ではないだろうか。

 社会派サスペンスというジャンルに属する作品だが,「映画.com」で紹介されているように,女子中学生が突然失踪した父親の行方を探す物語で,彼女が探し当てた父親とは…,という話である。今世紀において起こった幾つかの事件をベースとして組み立てられた物語なのだが,「社会派」の部分としては素材の扱い方がとても難しく,それを犯人側の視点から描くことによってなんとかその難しさを回避している印象である。したがって,今回は「サスペンス」としての視点に絞ってこの映画を論じることにする。

 最大の疑問は最初の殺人であるが,殺害の方法がかなり杜撰で,どう考えても,この「事件」に警察が介入しないはずがないと思われるのだが,そこはスルーなのだ。もっとも,この時点で警察が介入する展開になると,その後の話が続かないのであえて妥協することにしよう。ただし,この部分は「死」についてのかなりセンシティブな問題を含んでいるので,このテーマだけを取り上げた作品として提示する場合には制作者側の見識が問われるであろう。

 さて,その後の展開は,楓が父親を探す姿と,彼の失踪後の姿を時系列を前後させながら進んでいくのだが,このあたりはなかなか興味深く観ることができたし,佐藤二朗,伊東蒼,清水尋也はそれぞれの役柄をうまく演じていたように思う。特に佐藤二朗は,気が弱いくせにだらしなく,無責任なオヤジ像がピッタリとはまっていた。

 サスペンスとしては,事件が一旦「解決」した後での展開の仕方が出色であった。この映画ではピンポン球がそれぞれのシーンを象徴するものとしてじつにうまく使われているのだが,ラストで父親が娘と卓球でラリーをしながら交わす会話が徐々に緊張感を帯びていき,ついにはピンポン球は見えなくなりながらも,二人がラリーをする姿と卓球台に当たる球の音だけが響いてきて,楓が自分が探していたものの真実を確信するという構成はお見事でした。

監督:アグニエシュカ・ホランド

キャスト

 ジェームズ・ノートン(ガレス・ジョーンズ)

 バネッサ・カービー(エイダ)

 ピーター・サースガード(ウォルター・デュランティ)

 ジョゼフ・マウル(ジョージ・オーウェル)

 

映画はメディアをどのように描いているか。

 

 ネタバレになるが,映画のストーリーを簡単に紹介すると次のようである。

 1929年の大恐慌後の1933年,資本主義諸国が大量の失業者であふれる中,社会主義国であったソビエト連邦だけが繁栄を続けていることに疑問を抱いた,ロイド・ジョージの元外交顧問・ガレス・ジョーンズはその疑問を解くため単身モスクワを訪れ,外国人記者を監視する当局の目をかいくぐってウクライナに赴く。そこでジョーンズが見たものは,ホロドモールと言われる想像を絶する悪夢の光景だった。ホロドモールとは当時のスターリンの政策がもたらした「飢餓による殺害」で,数百万人の死者が出たと推計されている。ジョーンズは逮捕されるが,この事実を公表しないことを条件にイギリスに戻ることを許可される。もし公表した場合には人質になっているイギリス人技師たちが処刑されることになっているため彼は非常に悩むが,悩んだ結果公表する決心をする。しかし,イギリスのメディアもアメリカのメディアも彼の報告を取りあげず,彼は失意のうちに故郷のウエールズに戻る。しかし,ある日,ウエールズにやってきた当時のアメリカの新聞王に直接訴えかけ,その事実が公表されたのである。

 

 まず邦題の「赤い闇 スターリンの冷たい大地で」であるが,この邦題は観客をミスリードすることになっている。邦題だけを見れば,この作品はジェノサイドとも言えるスターリンによるあの非人道的なホロドモールの惨状を描くことがそのテーマであるかのように受け取られるのだが,もしそうだとすれば,この映画は描き足りないと言わざるを得ないであろう。スターリンがなぜあのような所業を行ったのかについての監督の理解がほとんど示されていないからである。

 この映画の原題がMr. Jonesであることから分かるように,映画制作者の意図はホロドモールの惨状を世界に知らせるためのガレス・ジョーンズの奮闘を描きたかったのである。しかし,その点でこの映画は取り上げている問題を一人のジャーナリストの奮闘劇に矮小化してしまっているところに私には不満が残った。なぜメディアの問題に突き進まないのか?

 たとえば,ジョーンズは一介の記者としての立場でモスクワに行くことができたのだが,その時に頼った人物はピューリッツァー賞を受賞したこともあるウォルター・デュランティである。しかし,そこで見たデュランティの姿は享楽に耽り,ソ連のプロパガンダを流す俗物に堕していた。問題はここである。つまり映画の描き方はかなり単純な善・悪の二分法にしかなっておらず,デュランティ個人の問題に解消されており,当時の政治状況,あるいはメディアの普遍的な問題にまで迫ることができていないのである。

 ところで,この映画にはジョゼフ・マウルがジョージ・オーウェル役で出演していて,当時のスターリン体制を動物たちのお伽話として批判的に描いた小説『動物農場』を示唆するシーンも挿入されているのだが,オーウェルは1945年に「報道の自由」と題された「『動物農場』序文案」という一文を書いている。それの訳者である山形浩生によると,「(オーウェルの)死後20年以上たってからタイプ原稿が見つかり,1972年に雑誌掲載され,その後各種の全集や『動物農場』の様々な版に含まれるようになった」(p.193)そうである。その序文案によると,このおとぎ話の出版は非常に難航したのだが,その原因が当時のソ連に出版社が忖度をして出版することに尻込みをしたからであるとのことである。そのことに対してオーウェルが当時の出版界や知識人たちの自主検閲を痛烈に批判しているのがその内容なのだが,この映画はそういった問題を正面から取りあげようとはしていないのである。

 上にも書いたように,映画の終盤,失意のうちに故郷のウエールズに戻ったジョーンズだが,ある日,ウエールズにやってきた当時のアメリカの新聞王に直接訴えかけた結果,その事実が公表される。この新聞王とは映画『市民ケーン』のモデルにもなったウィリアム・ランドルフ・ハーストである。ハーストが実際にどんな人物だったのかについて私は詳しくは知らないが,記事の捏造なども含むセンセーショナルな報道で,全米に一大新聞網を築き上げただけではなく,映画制作やラジオなども含むメディアを完全に支配したメディア王であったと言われている。そのハーストがジョーンズの記事をサラッと読んだだけでそれを公表する気になったのはなぜなのか。おそらくセンセーショナルな内容で,新聞が売れるという商業的動機によるものだろうが,当時の状況がそれほど簡単なものだったのかどうか,そのことに映画は全く触れておらず「めでたし,めでたし」で終わるのだ。この映画は勧善懲悪を描いているのか?制作者がエンタメ作品だと割り切っているのであれば,もっと楽しめる素材を選べばよいのであり,こんな中途半端な作品を見せられてもフラストレーションしか残らないのである。

監督:オリビア・ニューマン

キャスト

 デイジー・エドガー=ジョーンズ(カイア)

 テイラー・ジョン・スミス(テイト)

 ハリス・ディキンソン(チェイス)

 

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全世界で累計1500万部を売り上げたディーリア・オーエンズの同名ミステリー小説を映画化。

ノースカロライナ州の湿地帯で,将来有望な金持ちの青年が変死体となって発見された。犯人として疑われたのは,「ザリガニが鳴く」と言われる湿地帯で育った無垢な少女カイア。彼女は6歳の時に両親に捨てられて以来,学校へも通わずに湿地の自然から生きる術を学び,たった1人で生き抜いてきた。そんなカイアの世界に迷い込んだ心優しい青年との出会いが,彼女の運命を大きく変えることになる。カイアは法廷で,自身の半生について語り始める。

リース・ウィザースプーンが製作を手がけ,ドラマ「ふつうの人々」で注目を集めたデイジー・エドガー=ジョーンズが主演を務めた。音楽は「ライフ・オブ・パイ トラと漂流した227日」でアカデミー作曲賞を受賞したマイケル・ダナ。テイラー・スウィフトが本作のためのオリジナルソングを書き下ろしたことでも話題を集めた。(「映画.com」より)

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 タイトルに惹かれて鑑賞。ザリガニが鳴くという話は聞いたことがないので,このタイトルには何か深遠な哲学的意味でもあるのだろうかという興味で観たのだが,鑑賞後はあまりにも陳腐なストーリーにタイトルの意味を考える気力も失せてしまった。大谷翔平はパスタに塩しかかけないで食べるそうだが,それよりもはるかに薄~い内容の作品。

 恋愛的要素とミステリー的要素をベースに物語は展開されるのだが,それを構成する人物造形が絵に描いたようにパターン化されていて素人が脚本を書いたのかと思ってしまった。ひと言で言うと,特に「ザリガニの鳴くところ」を舞台にしなくても都会を舞台にしても成り立つストーリーではないか。もちろん,制作者はそうは言わないだろうから,「ザリガニの鳴くところ」を舞台にした意図について考えてみよう。

 

 「湿地は死を理解している。そして,死を悲劇にもしないし,罪にもしない。どんな生き物も生存のために奮闘する。時には獲物が命を繋ぐために捕食者を葬ることも。」

 エンディングのナレーションだ。野生が弱肉強食の世界であり,それは野生に生きる生物たちの生存本能である。もちろん,獲物が命を繋ぐために捕食者を葬ることもあるだろう。したがって,そこに人間世界の道徳観を持ち込むことは自然をありのままに見ることを妨げることになるであろう。たしかにそのとおりである。そうは言っても,例えばリカオンの群れに生きたまま食べられているシマウマの映像などを見ると,私などは「これが自然の摂理だ」などと冷静に見ることはできないのである。この映画が人間の価値観とは異なる自然界の摂理にしたがって構成されており,そこに制作者のメッセージがあるのであれば,私のような人間に対してもそれを説得的に描くべきだが,そんなシーンはあっただろうか?ひたすら湿地帯とそこに生息する動物たちの美しさしか描いていないではないか。カイアは町の人たちから「湿地帯の少女」と呼ばれて偏見の目で見られているのだが,彼女の行動のどこに野生が描かれているのだ?町に出かけていくことに少し躊躇はするものの,都会で引きこもっている人たちほどの深刻さも伺われず,出版社の編集者たちと初対面であるにもかかわらずレストランで普通に食事をするのである。カイアの小洒落た服装と住まい。制作者の考える「野生」とはこのようなものなのですか,と言いたくなるような作品であった。タイトルにしろ,上に引用した,取って付けたようなナレーションにしろ,「あざとい」としか言いようがない作品である。