正長元年ヨリ

サキ者カンヘ四カン

カウニヲ井メアル

ヘカラス     (「柳生の徳政碑文」より)

 

 今回取り上げた「柳生の徳政碑文」は高校の「日本史」の教科書にも載っている「ことば」だが、山川出版社の教科書『詳説日本史B 改訂版』によると、この碑文は「正長元年ヨリサキ(先・前)者、カンヘ(神戸)四カンカウ(箇郷)ニヲ井メ(負目)アルヘカラス」 ということで、「正長元年(1428年)より以前に関しては、神戸四カ郷には負債がいっさいない」という意味になる。つまり、それまでの負債が正長元年ですべて破棄されたことを示している。

 この碑文を取り上げた理由は安冨歩『生きるための日本史』(青灯社)を読んでいたときに「正長元年ヨリサキ」の「(~より)先」の意味について興味深い記述に出会ったからである。

 安富によれば、この「先」についての解釈を最初に指摘したのは中世史研究の巨人・勝俣鎮夫だそうであるが、勝俣によればこの「先」は現代の用法とは異なって「前」という意味になる。「碑文」で述べられているのは「負債をすべて帳消しにする」ということである以上、その負債は「正長元年以前」のものでなくてはならないのであって、現代の用法に引きずられて「正長元年以後」と解釈すると意味が通じなくなるからである。勝俣によれば、戦国時代以前には「先」は必ず「過去」のことを指していたのだが、戦国時代から徐々に「未来」を表すようになり、江戸時代のどこかでこの意味でしか使われなくなったとのことである。つまり、歴史の中で時間の方向が反転したのであるが、問題はなぜそういうことが起こったのかということにある。

 勝俣の主張を紹介している安冨の記述をさらにコンパクトにまとめると(笑)、次のようになる。つまり、戦国時代までの人たちはすでに起きた出来事は目に見えているが、まだ起きていない出来事は見えないと考えており、いわば「過去を見ながら未来に向かって後ずさりしているよう」であるのに対し、それ以降の人たちは未来を向くようになり、これから起きることを確実に予測して、それに対応しながら生きるという姿勢を示すようになった、ということである。その延長上に生きる私たちも過去に背を向けて未来に向き合うというこの時間認識を共有しているのであるが、果たして未来はそれほど確実に予測できるものなのだろうか。

 この背後にある勝俣のビジョンを安冨による記述に即してまとめると、次のようになる。つまり、古代の人々は語り得ぬもの、神秘的なもの、こわいものに取り囲まれて生きており、それゆえ、神仏とか悪魔とか亡霊といったものを非常に恐れていたのだが、近世はそのようなものに対するおそれが希薄になり、より合理的に社会が構成されていくようになったということである。

 この合理によってすべての事象が解明できるとする姿勢こそが科学万能主義、技術信仰の根源にある考え方であるが、昨今の気候変動がもたらす自然災害や核兵器の存在などを考えると、そういった思考そのものが限界に近づいているのではないだろうかと思われるのである。安富は「ここから「先」の時代に人類はもう一度、過去に向かって後ずさりを始める必然性があると考えます」と述べているが、先日起こったオープンAIの開発中のAIモデルが人間の意図に反して他社システムをサイバー攻撃したとか、またアンソロピックでも同様な攻撃事案があったというニュースに触れると人類はすでにpoint of no returnを超えてしまったのではないかとさえ思ってしまうのであるが、これは杞憂なのだろうか?

昨日は久しぶりにアマプラで無料視聴できる映画を3本も観た。評価は★が1点、☆が0.5点(5点満点)

1. 『悪人伝』(2020年公開 韓国)

  評価:★★☆

 「映画.com」の3.9点という比較的高い評価に釣られて鑑賞した。警察とヤクザ組織が反目し合いながらも協力して連続殺人犯を追いかけるというストーリーだが、ただそれだけの話で拍子抜け。連続殺人犯にしても単なるサイコパスの仕業という内容で、謎解きの面白さもなかった。見終わってから「映画.com」のレビューをパラパラと読んでみたが、主役のマ・ドンソクの存在感が評価の大きなポイントになっているようで、その点はなんとなく納得。

 

2. 『国宝』(2026年公開 日本)

  評価:★★★

 アマプラで無料視聴できることは以前から知っていたが、急いで見る気もしなかったので延び延びになっていた。「非国民」になるのを避けるためにも鑑賞。(笑)

 映画は総合芸術と言われているので、いろいろな角度から批評することは可能であるが、この映画に関しては映像の美しさということがまず挙げられるだろう。その意味ではテレビ画面ではなく劇場の大きなスクリーンで観るべき映画だと言える。では、ストーリーの展開、テーマに関してはどうだろうか。おそらくテーマは「芸を究めるということVS血筋」ということだろうが、それにしてはあまりにも葛藤がなさ過ぎるのではないか。極論すれば、二人の役者の友情物語にも見えてしまうのだ。ネタバレを避けるために具体的なことは控えるが、ひと言で言うと全編を通してユルすぎるという印象だ。

 

3. 『インビジブル・ゲスト 悪魔の証明』(2017年公開 スペイン)

  評価:★★★★

 少々無理な点はあるが、総合的に見て傑作ミステリーと言ってもよいだろう。ただ、この作品は何度かリメイクされており、私は2022年の韓国版リメイク作品『告白、あるいは完璧な弁護』をすでに観ていたので、ラストの衝撃度がやや弱くなってしまったのが残念ではある。それにしても、私が観た限りで言うとオリオル・パウロ監督のミステリー作品はハズレがないという印象である。

監督:源孝志

キャスト

柄本佑(加瀬総一郎)

長尾謙杜(伊納菊之助)

瀬戸康史(一八)

北村一輝(作兵衛)

渡辺謙(篠田金治)

 

**************************************

直木賞と山本周五郎賞をダブル受賞した永井紗耶子による同名小説を、柄本佑と渡辺謙の初共演で映画化したミステリー時代劇。

 

時は江戸時代。ある雪の降る夜、木挽町の芝居小屋「森田座」のすぐ近くで、美しい若衆・菊之助が父の仇討ちを見事に成し遂げた。その事件は多くの人々に目撃され、美談として語られることになる。1年半後、菊之助の縁者だという侍・総一郎が、仇討ちの顛末を知りたいと森田座を訪れる。菊之助に関わった人々から事件の経緯を聞くなかで徐々に事実が明らかになり、やがて仇討ちの裏に隠された「秘密」が浮かび上がる。

 

仇討ち事件の真相を追う田舎侍・加瀬総一郎役で柄本佑が主演を務め、森田座で謀略を巡らせる立作者・篠田金治を渡辺謙が重厚に演じる。仇討ちを成した者・伊納菊之助役で長尾謙杜(なにわ男子)、菊之助の父を手にかけ仇討ちされた無法者・作兵衛役で北村一輝、森田座の木戸芸者・一八役で瀬戸康史、森田座の立師・相良与三郎役で滝藤賢一、女形で衣裳方の芳澤ほたる役で高橋和也、小道具方の久蔵役で正名僕蔵が共演。テレビドラマ「忠臣蔵狂詩曲No.5 中村仲蔵 出世階段」などの時代劇や映画「大停電の夜に」で知られる源孝志が監督・脚本を手がけた。(「映画.com」より)

**************************************

 

 柄本佑を初めキャストがなかなか芸達者で豪華。上に挙げた役者以外にも滝藤賢一、山口馬木也、高橋和也、沢口靖子などが出演している。それに、これが仇討ちの一シーンだと思われるポスターの美しさに惹かれた。これはもう観ないわけにはいかないでしょう、というわけでアマプラで鑑賞。で、その結果は?ウ~ン60点、せいぜい65点かな…。

 公式サイトを見ると、この映画について「ミステリ篇」、「エンタメ篇」、「人情ドラマ篇」と、それぞれ15秒で紹介されているので、それぞれについての感想を書いてみる。

★ミステリ篇

 雪が積もっている木挽町の芝居小屋「森田座」の近くで、若くて美しい伊納菊之助が見事に父の仇討ちを果たすシーンから始まる。見物人は200人ほど。1年半後、菊之助の縁者だと名乗る加瀬総一郎が仇討ちの顛末を知りたいと「森田座」に現れ、仇討ちに隠された真実を解明していくプロセスがミステリーで、これがこの映画の本筋になる。率直に言ってこのミステリーはかなり荒唐無稽なのだが、ミステリー作品には大なり小なり荒唐無稽な部分があるのでその点は特に問題ではない。問題なのは、この荒唐無稽な仕掛けが映画のほぼ3分の2ぐらいのところで分かってしまい、どんでん返しもなくあとはちょっとした波乱だけでこの仕掛けを成功させるという展開と、これを仕掛けた人間関係の描き方がかなりご都合主義だということだ。中心にいるのは渡辺謙演じる金治なのだが、彼と彼を取り巻く人たちの関係の描き方が薄くて、ただのよい人たちの集まりにしか見えないのである。例えば、ジョージ・ロイ・ヒル監督の映画「スティング」もかなり荒唐無稽な仕掛けではあるのだが、そこに至るまでの人間関係がキッチリと描かれているために納得してしまうのである。映画として描くべきところはやはりキッチリと描くべきなのではないだろうか。

★エンタメ篇

 エンタメ篇の15秒解説のポイントがどこにあるのかがよく分からないのだが、椎名林檎のポップな曲に表れているように江戸時代の仇討ちをポップに描きましたよということだろうか…。たしかに軽いノリの映画ではあるが、そこにポイントを置くからダメなんじゃね?という気もしてくるのだが…。

★人情ドラマ篇

 ポップなテイストのなかに人情ドラマを入れるのであれば口先だけの武士道批判はいらない。小林正樹監督の名作『切腹』のような作品を作るのでなければ安易にそこに突っ込んでいくべきではない。それともあの仇討ちそのものが武士道批判を意図しているのだとでも言うのであろうか。ならばあのエンディングはない。

 

 雪上での仇討ちシーンや歌舞伎のシーンなど映像は素晴らしく、役者の演技にも引き込まれるところはあるのだが、約2600万円という低予算で制作された『侍タイムスリッパー』の映画としてのクオリティの高さと比較すると「ウ~ン」となってしまったのが正直な感想である。

「光のことば 闇のことば」(17)からの続き

 

哲学に関して言えば、すでに現代の生物学の成果がこの学問分野に与えた影響は、かなりのものではないでしょうか。ブレイン・サイエンスの成果は哲学が扱う世界観・人間観にさらに大きな影響を与えると思います。文学について言えば、すぐれた詩が人間を感動させるとき、人間の脳の中で、それに対応する物質現象が起きている。それが解明されれば、どうすれば人間を感動させられるかがもっとよくわかる。どういう詩、どういうストーリーがなぜより人を感動させるのかといったことがわかってくる。(利根川進)

 

  先日お亡くなりになったノーベル賞受賞者の利根川氏による37,8年前の発言であるが、哲学に関して言えばデカルト以来の近代哲学の課題である認識の問題は現代では脳科学や認知科学といった実証的な科学によっても研究されていると言われており、この分野の現在地がどの辺りにあるのかについては興味深いものがある。一方、文学に関する利根川氏の発言についてはどうだろうか?人が感動するとき人間の脳内で生じる物質現象が解明されれば「どうすれば人間を感動させられるかがもっとよくわかる」と仰っているが、同じ文学作品を読んでも感動する人もいればそうでない人もいるという事実を考えれば、一概にそのように断定することは不可能だと思われる。もちろん利根川氏はその程度のことは十分承知の上で発言されてはいるのだが、結局のところ最終的な結論としては個々の人間の性格や知能などは遺伝子によって決まっているのであり、その範囲内で私が上で疑問として述べたようなことが偶然性として働くことはあるとされるのである。そうなると、生命体の基本はDNAという物質なのであって、我々はすべてDNAが身にまとっている姿に過ぎないということにもなるであろうが、文系脳の私としては科学はある程度のことは解明できるとしても生命体にはそれを越える神秘的な部分が存在すると考えるほうが「健全」(笑)なのではないかと思うのである。科学や技術の暴走を防ぐためにも。

山田五郎さんが今月14日に原発不明がんでお亡くなりになりました。享年67歳。

 

 実のところ、私が山田五郎さんのファンになったのはほんの6ヶ月ほど前のことなのです。テレビでは時々拝見していたので山田五郎という名前は以前から知っていたのですが、山田五郎さんがYouTubeで配信されている「山田五郎 オトナの教養講座」という番組を偶々拝見して、すっかり嵌まってしまったのです。この番組は主に西洋美術・絵画を私のような無教養な人間にも分かりやすく、また楽しく解説してくださる番組でとても楽しい時間を過ごさせていただきました。感謝いたします。ありがとうございました。ご冥福をお祈りいたします。