1 月 24 日の当ブログで読書における偶然の一致ということを話題にし,半藤一利氏の書物について書きましたが,その中でドナルド・キーン氏の『石川啄木』を読んでいたときにもそのような偶然の一致があり,当時( 2019 年)利用していた Yahoo! ブログでその書物を取りあげたことがあると書きましたので,それを再掲することにします。 Yahoo! では長くなりましたので, 2 回に分けて掲載しましたが今回は大幅に縮小して 1 回で掲載します。それでもかなり長いです。
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2ヶ月ほど前のことであるが,ドナルド・キーン著『石川啄木』(角地幸男訳 新潮社)を読んだ。もっとも,私の場合,ドナルド・キーンの著作と言えば,若い頃『百代の過客』を読んだ程度であり,また石川啄木について言えば,『一握の砂』,『悲しき玩具』を読んだことはあるが,特に啄木の熱心な読者でもないのに,どういうわけか,書棚を見ていたら3年ほど前に購入して以来ツンドク状態になっていた本書が目に付いたので読んでみようという気になったのである。それが2月 24 日。そして3分の1ほど読んだところでちょっと休憩ということでテレビをつけたら「ドナルド・キーン氏死亡」のニュースが … 。「エッ!」という驚きとともにこの偶然の一致になにかの縁を感じてしまったのである。そこで,この本のブック・レビューを書こうと試みたのだが,その前に啄木の短歌や文章も読んでみようと思って『一握の砂』や『悲しき玩具』を再読し,『 ROMAZINIKKI 』,『時代閉塞の現状 食うべき詩』なども読んでみた。
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ドナルド・キーンの著作『石川啄木』は啄木の短歌を直接扱った文芸評論ではなく,啄木が書き残した日記を通じて彼の生涯を年代記的に追っている「石川啄木評伝」である。しかし,なぜ日記なのか? ドナルド・キーンは次のように述べている。「啄木は,千年に及ぶ日本の日記文学の伝統を受け継いだ。日記を単に天候を書き留めたり日々の出来事を記録するものとしてでなく,自分の知的かつ感情的生活の『自伝』として使ったのだった」(『石川啄木』 p.329)。要するに,啄木の書き残した日記を追うことによって石川啄木像なるものが見えてくるということである。では,本書を通じて浮かび上がる石川啄木像とは何か? 私の前に現れたそれは自由を希求した一人の人間であり,同時に大いなる矛盾を内包した一人の人間の姿である。彼の私生活においては,それは自分勝手,放埒,短絡的行動となって表れる。特に妻・節子や彼を経済的にも支えた金田一京助,宮崎郁雨との関係においてそれが顕著である。
明治45年(1912年)4月13日,啄木は26歳の若さでその生涯を閉じた。臨終の床には節子,年老いた父母,それに若山牧水がいた。金田一京助が駆けつけたときには啄木はすでにこの世の人ではなくなっていた。
啄木の自由への希求と彼の中にある「矛盾」は私生活においてだけではなく,ドナルド・キーンが指摘しているように,彼の詩論においても表れている。ドナルド・キーンは『石川啄木』の第1章「反逆者啄木」を正岡子規についてのコメントから始めている。曰く。「子規の『革新』は,次のような形を取った。桜の花や紅葉などのお決まりの題材の代わりに,子規は自分が眼にした出来事の記録として,またごくありふれた経験に対する反応として短歌や俳句を作った。…子規は伝統的な詩歌の形式に新しい生命を与え,永遠ではあっても陳腐なテーマの代わりに近代的な内容を短歌と俳句に吹き込んだ。」(p.8)しかし,ドナルド・キーンは「そのこと自体が,子規を近代歌人にしたわけではない」(p.8)と述べる。なぜか。子規は「心の奥底にある感情の動きをあからさまに語ることはなかったし,また自分を一人称で語ることもなかった」(p.8)からである。そして,キーンは「子規と違って,啄木は明らかに現代歌人だった」(p.9)と評し,3編の短歌を挙げるのだが,そのうちの一つ。
曠野(あらの)ゆく汽車のごとくに
このなやみ
ときどき我の心を通る
たしかに,キーンが言うように,ここには「心の奥底にある感情の動き」が一人称で語られているのを見ることができる。しかし,一方で,例えばこの歌は「その現代的な性格にもかかわらず文語で詠まれている」(p.11)のである。つまり,啄木は「昔からある短歌を滅ぼそうと試みたわけではなくて,むしろ自分の詩の形式として理想的な形を短歌に見出した」(p.11)のである。ここには啄木が花鳥風月などという短歌の定番を排し,自らの感情の動きを書き留めるという自由な詩を希求する一方で,文語で詠むという「矛盾」が内包されている。
上にも書いたように,ドナルド・キーン著『石川啄木』はその大半が「石川啄木評伝」であって啄木の足跡を知るには恰好の書と言えるが,「二つの『詩論』」と題された第13章だけは唯一啄木の詩論を扱っており,大変興味深い章である。この章は啄木が明治42年11月より東京毎日新聞に連載していた「弓町より」というエッセイに即して展開されているので,私もドナルド・キーンの問題意識に沿ってそのエッセイを読んでみた。その結果,たしかにドナルド・キーンが言うように,啄木の詩論が彼の作品と矛盾していることを指摘することはできるが,同時に,私には啄木の短歌がなぜ私たち日本人の心に響いてくるのかということの本質が表れているとも思われたのである。
『石川啄木』の「第13章 二つの『詩論』」においてドナルド・キーンは「食(くら)うべき詩」というタイトルで呼ばれることが多い啄木の「弓町より――食らうべき詩」を取りあげ,啄木が一方では「詩」の自由さにひかれながら,他方では現実の詩作においては短歌という形式に拘り,文語での表現に拘ったという「矛盾」を検証している。しかし,ドナルド・キーンはこの「矛盾」の原因について必ずしも明快な答を与えているわけではない。わずかに「思うに口語で短歌を書かない理由は,文語で歌を作るのが啄木にはあまりにも自然だからで,また啄木が古語を愛していたからだった」(p.279)と述べるに留まっているのである。もちろん,それは啄木自身がそのことについて明快に説明していないからであるが…。
「弓町より-食(くら)うべき詩」は石川啄木の『時代閉塞の現状 食うべき詩』(岩波文庫)に収められている。その中で啄木は生活のために「郷里から函館へ,函館から札幌へ,札幌から小樽へ,小樽から釧路へ…流れ歩いた。いつしか詩と私とは他人同士のようになっていた」(『時代閉塞の現状 食うべき詩』 岩波文庫p.56)と述べている。北海道を流れ歩いた経緯についてはドナルド・キーン『石川啄木』の第4章~第7章(pp.73-150)に詳しく述べられているが,要するに,それは啄木自身の身勝手さが原因であったようだ。それはともかく,詩と他人同士になった啄木であったが,釧路で生活する啄木の耳に,「思想と文学との両分野に跨がって起こった著名な新しい運動の声」(『時代閉塞の現状 食うべき詩』 p.57)が響いてくる。しかし,啄木はこの新しい運動に対してまったく矛盾した姿勢をとる。啄木は次のように述べている。
「詩が内容の上にも形式の上にも長い間の因襲を蟬脱(せんだつ)して自由を求め,用語を現代日常の言葉から選ぼうとした新らしい努力に対しても,むろん私は反対すべき何の理由も有たなかった。…しかし,それを口に出しては誰にも言いたくなかった。…私は自分の閲歴の上から,どうしても 詩の将来を有望なものとは考えたくなかった。たまたまそれらの新運動にたずさわっている人々の作を,時折手にする雑誌の上で読んでは,その詩の拙いことを心潜(ひそ)かに喜んでいた。」(『時代閉塞の現状 食うべき詩』 p.57)
新運動の持つ自由を肯定しながら,それを「口に出しては誰にも言いたくない」と言い,さらには「詩の将来を有望なものとは考えたくなかった」という啄木のこの矛盾した心情についてドナルド・キーンは「啄木の議論に付いていくのは,なかなか難しい」(『石川啄木』p.278)と述べている。
いずれにせよ,啄木は北海道にまで聞こえてくる新運動の声に居ても立ってもいられず,東京に戻る。そして,釧路まで聞こえてきた新運動について次のような感想を述べる。
「帰って来て私はまず,新らしい運動に同情を持っていない人の意外に多いのを見て驚いた。というよりは,一種の哀傷の念に打たれた。…そうしてその人達の態度には,ちょうど私自身が口語詩の試みに対して持った心持に似た点があるのを発見した時,卒然として私は自分自身の卑怯に烈しい反感を感じた。この反感の反感から、私は、未だ未成品であったために色々の批議を免れなかった口語詩に対して,人以上に同情を有(も)つようになった。」(『時代閉塞の現状 食うべき詩』 pp.58-59)
「私自身が口語詩の試みに対して持った心持」とは,すでに見たように,口語詩が古い因襲を脱するという自由な精神に共感しながら,その将来を有望なものとは考えたくなかった心情を指している。そして,ここでは,その心情を啄木は「自分自身の卑怯」だと認め,「口語詩に対して,人以上に同情を有(も)つようになった」と述べているのである。では,啄木は口語詩に傾倒していったのだろうか。啄木は言う。
「しかしそのために,熱心にそれら新らしい詩人の作を読むようになったのではなかった。それらの人々に同情するという事は,畢竟私自身の自己革命の一部分であったに過ぎない。」(『時代閉塞の現状 食うべき詩』 p.59) さらに続けて啄木は言う。「その間に,私は四,五百首の短歌を作った。短歌!あの短歌を作るという事は,言うまでもなく叙上の心持と齟齬している。」(p.59)
ここで述べられている「叙上の心持」とは,言うまでもなく口語詩に対する啄木の共感である。しかし,啄木はそちらに向かうのではなく,短歌に拘るのだ。啄木自らが「齟齬」と述べているこの矛盾を私たちはどのように解すればよいのだろうか。この点についての啄木の説明は,小説を書きたかったのだが書けなかったからというものだが,理由として説得力があるとは思えず,疑問は一向に解決しない。
このような疑問が解決しないまま啄木は「食(くら)うべき詩」の意味について次のように述べる。
「謂う心は,両足を地面(じべた)にくっ付けていて歌う詩という事である。実人生となんらの間隔なき心持をもって歌う詩という事である。…こういう事は詩を既定の或る地位から引下す事であるかも知れないが,私から言えば我々の生活に有っても無くても何の増減のなかった詩を,必要な物の一つにするゆえんである。詩の存在の理由を肯定する唯一つの途である。/ 以上の言い方は余り大雑駁ではあるが,二,三年来の詩壇の新らしい運動の精神は,必ずここにあったと思う。否,あらねばならぬと思う。」(『時代閉塞の現状 食うべき詩』 pp.60-61)
啄木によれば,詩は実人生から離れたものであってはならず,新運動の精神もそのことに基づいているのである。したがって,啄木は詩や詩人を特別なものとする考え方を排除して,「詩その物を高価なる装飾品の如く,詩人を普通人以上,もしくは以外の如く考え」(『時代閉塞の現状 食うべき詩』 p.62)るのは根本的な誤謬であると断じ,詩語についても,現代の言葉で書かれなければならないと述べるのである。曰く。「とにもかくにも,明治四十年代以後の詩は,明治四十年代以後の言葉で書かれねばならぬという事は,詩語としての適不適,表白の便不便の問題ではなくて,新らしい詩の精神,即ち時代の精神の必然の要求であった。」(『時代閉塞の現状 食うべき詩』 p.63)
以上の観点から啄木は新運動に対する批判に反論するのであるが,すでに述べてきたように,それは啄木自身の詩作とも矛盾するのである。「弓町より――食(くら)うべき詩」において啄木はそのことに直接言及してはいない。そうである以上,私たちは啄木が書いていることを手がかりにして推測するより仕方がないであろう。啄木は「食(くら)うべき詩」の締めくくりにおいて次のように述べている。
「諸君(=詩の新運動の実行者たち。飛行機雲注)の真面目な研究は外国語の智識に乏しい私の羨やみかつ敬服するところではあるが,諸君はその研究から利益と共に或禍いを受けているような事はないか。仮にもし,独逸人は飲料水の代りに麦酒(ビール)を飲むそうだから我々もそうしようというような事…とまでは無論行くまいが,些少でもそれに類した事があっては諸君の不名誉ではあるまいか。もっと卒直に言えば,諸君は諸君の詩に関する智識の日に日に進むと共に,その智識の上に或る偶像を拵(こしら)え上げて,現在の日本を了解することを閑却しつつあるような事はないか。両足を地面に着けることを忘れてはいないか。又諸君は,詩を新しいものにしようという事に熱心なる余り,自己および自己の生活を改善するという一大事を閑却してはいないか。換言すれば,諸君のかつて排斥したところの詩人の堕落を再び繰替えさんとしつつあるようなことはないか。」(『時代閉塞の現状 食うべき詩』 p.66)
この指摘は私にはとても重要な指摘のように思われる。啄木は詩の新運動が持つ自由な精神に共鳴しながらも,それがいつのまにか西洋の単なる模倣になり,自分たちの生活からかけ離れた,いわば美辞麗句を並べ立てるだけの代物になってしまう可能性を感じ取っていたのではないだろうか。啄木にとって詩や詩人は特別な存在ではなく,普通の生活人がその生活の中から生み出すものでなければならなかった。それが啄木をして短歌という表現形式に踏みとどまらせた理由であり,そこにこそ私たち日本人が啄木の短歌に共鳴する所以があるのではないだろうかと思われるのである。
ドナルド・キーンは著書の末尾で述べている。「啄木の詩歌は時に難解だが,啄木の歌,啄木の批評,そして啄木の日記を読むことは,単なる暇つぶしとは違う。これらの作品が我々の前に描き出して見せるのは一人の非凡な人物で,時に破廉恥ではあっても常に我々を夢中にさせ,ついには我々にとって忘れがたい人物になる。」(『石川啄木』p.330)