ベストセラー『生物と無生物の間』の著者で生物学者の福岡伸一がヨハネス・フェルメールの作品を追ってオランダ,アメリカ,フランス,イギリス,ドイツ,オーストリアを巡り,現存するフェルメールの37作品のうち34作品を現地で鑑賞したレポートである。

 

鑑賞できなかった作品は行方不明になっている『合奏』,個人蔵で閲覧許可が出なかった 『聖女プラクセデス』,個人蔵で現在どこにあるのかが不明の『ヴァージナルの前に座る女』の3作品とのことである。

 

 旅に出た理由について福岡伸一は「フェルメール作品の細部に秩序ある調和として現れている『光のつぶだち』」(p.10)に導かれたためであると述べている。光が粒子であることを理論的に予言したのはアインシュタインであるが,「アインシュタインに先立つ300年近く前,すでに光が粒子であることを確かに認識していた人間がいたのだ。それがヨハネス・フェルメールである。彼は光の粒子性に気づき,光のつぶだちを正確にキャンバスの上に捉えた。何が彼をしてそのことを可能にしたのか。旅はここから始まる」(p.12)。

 そして「微分」。「《微分》というのは,動いているもの移ろいゆくものを,その一瞬だけ,とどめてみたいという願いなのです。… 《微分》によって,そこにとどめられたものは,凍結された時間ではなく,それがふたたび動きだそうとする,その効果なのです」(p.42)。 著者の高校時代の教師が語った言葉である。

 

 著者は鑑賞したフェルメールの作品の一つ一つについて丁寧な解説を読者に与えてくれる。同時に著者は縦横無尽に想像力の羽を伸ばし読者をフェルメールの世界へと誘う。ベルリン国立絵画館に展示されている『紳士とワインを飲む女』。著者は少し離れた場所からこの<フェルメールの部屋>を眺めながら「自然な安定がある」(p.182)と評し,絵に描かれたいろいろなもの―背もたれの椅子,つややかな楽器,テーブルクロス,白い磁器のワイン差し,オリーブ色の布を纏った帽子の男と紅色のドレスの女,ステンドグラス―に言及したあと,次のように述べる。「ここには配置の均衡がある。そして時間が止められている。女がワインを飲みほしたその瞬間にぴたりと合わせられて。安定と均衡はその一瞬の静止に由来している」(p.182)。この「静止」こそが著者の言う《微分》なのだろう。だとすれば,それは次の動きを予感させるものでなくてはならない。著者は言う。「しかし,フェルメールの絵筆は,飲み干されたグラスが一瞬,静止したその地点にとどまることはなかった」(p.184)。そして,著者はベルリンから235キロ離れたブラウンシュバイクにあるアントン・ウルリッヒ公美術館所蔵の『二人の紳士と女』の前に立つ。著者は二つの絵画を比較し,光の明るさの違いなどを指摘したあと,最も大きな違いについて次のように言う。『紳士とワインを飲む女』では,女とその女にワインをすすめる男が描かれていたのに対し,『二人の紳士と女』では「もうひとり,部屋の隅に男が肘をついて目を伏せ座っている。中央の二人の男女にはまったく関心がないかのごとくに」(p.187)。そしてこの三人の関係についての著者の想像力は次のように飛翔する。「慇懃なものごしで女性にアプローチしている男と,部屋の隅に肘をついてふてくされているかのような男は,実は同一人物なのではないか」(p.188)。「つまり,ここには2つの異なる時間が流れている。男は,女に近寄り,グラスを持つ女の手に触れんばかりにして,ワインをすすめている。その魂胆はあまりにも明らかである。女はそれを見透かしたようにこちらへ視線を向け,困ったような冷笑を浮かべる。そして男に何ごとかを言った。ぴしゃりと。その言葉に,男はなすすべなく退却し,やれやれといった様子で後方の椅子にどっかりと腰を沈めた。途中,窓をバタンと閉めたのかもしれない。つまり,光がここに届かないのは,この男だけが別の時間にいるからだ。むろん,これは私の他愛もない夢想である。専門家が聞いたら一笑に付すだろう。しかし,これだけは言える。止められていたはずの時間がここではふたたび動き出している」(p.188)。この二つの絵画をつないでいるものは「微分」。つまり「時間を止めながら,時間の流れを表現する方法」なのであった。

 

 「界面」。この言葉も著者のこの旅のテーマを表すキーワードだ。ドレスデン,アルテ・マイスター絵画館所蔵の『取り持ち女』。「『マリアとマルタの家のキリスト』『ダイアナとニンフたち』という宗教や神話を題材にした絵」(p.166)から出発した「フェルメールが最初に描いた風俗画」(p.166)である。一番右端に黄色い服を着て白いヴェールを被った娼婦がいる。その隣にいる赤い服の男は女の客だ。男は今まさに娼婦の手のひらに金貨を落とす瞬間である。客の隣にはこの客と娼婦を取り持った女が顔を覗かせており,一番左端には,この館のオランダ絵画専門のキュレーター,ウータ・ナイトハートさんが指摘するように「みなさん,この人物たちの醜態をどう思いますか?」とでも言わんばかりに鑑賞者の方を向いている男がいる。ナイトハートさんのチームは2004年にこの絵の大規模な解析・修復作業を行ったのだが,彼女は言う。「この真ん中の水平な線で,この絵は2つに分断されているのです。しかしその線は同時に,フェルメールの筆によって溶かされてもいるのです」(p.164)。そして著者は言う。「彼(=フェルメール)は,絵の中にテーマを隔てる境界を作り,つくっては溶かす作業を繰り返した。そして,彼は,この絵を見る人々のすべての視線が,最後に,いまや溶けつつある境界線の中央に位置する女の手のひらに,金貨が落ちるその瞬間に集まるようにしたのだった。それはみごとなまでに成功した」(p.169)。 界面をつくり,それを溶かすことによって鑑賞者を絵の中に引き込む手法。そして,絵の中に引き込まれた鑑賞者の視線の先には金貨が落ちる瞬間という一連の動きの中の静止があるのだ。微分。著者は言う。「界面を,隔てるのではなく,つなげるものとしてフェルメールは発見したのだ」(p.174)。それは同館所蔵のもう一つのフェルメールの作品『窓辺で手紙を読む女』にも明確に見て取れると著者は言う。

 

 本書の中で著者が随所で言及している重要な人物が多くの顕微鏡を作り,顕微鏡の父としてその名を科学史にとどめるアントニ・ファン・レーウェンフックだ。フェルメールとレーウェンフックは奇しくも同年同月(1632年10月)に同じ土地(オランダのデルフト)に生まれた。著者は言う。

 「変革の時代。フェルメールは絶え間なくうつろう光の粒と時間の流れをいかに絵の中に封じ込めることができるかを一心不乱に考え続けた。絵画とそれを描くもの,絵画とそれを見つめるもの,そのあいだの界面をいかに溶かしうるかを全身全霊で求め続けた。

 レーウェンフックは肉眼では見えないミクロな世界に驚くべき小宇宙が広がっていることに気づいた最初の人間となった。それをよりはっきりと見極めるためレンズを磨きぬいた。そしてレンズの向こうに現れた光景を手当たりしだいに記録し続けた。得意の計算力を応用して微生物の数や大きさを夢中になって推定した。

 つまり,デルフトで同時代を過ごしたこの二人は,まったく同じ道をたどり,同じことを行っていたのだ。この新しさをいかに記述するか。この世界をいかに表現しうるのか。それはこの時代,ガリレオが希求したことであり,カッシーニが追いかけたものとも同じだった」(pp.219-221)。

 そして著者は旅の終わりに再びパリを訪れる。なぜ再訪なのか。この旅はオランダから始まり,アメリカ,次に『レースを編む女』と『天文学者』が展示されているはずのパリ,ルーブル美術館へと至ったのだが,当時『天文学者』がアメリカの美術館に貸し出し中でこの作品を鑑賞することができなかったためである。

 著者は『天文学者』の中で実に精密に描かれているアストロラーベ(天測儀),書物,ホンディウスの天球儀を紹介したあと,これらの小道具類が「いかにも天文学者風の持ち物ではあるけれど,どれも決してほんとうの天文学者の持ち物ではない」(p.215)と述べる。『天文学者』には著者が対になっていると言う絵画が存在する。ドイツ,フランクフルトのシュテーデル美術館所蔵の『地理学者』だ。ここには『天文学者』と同一人物だと思われる男性が描かれており,「背後の棚の上に載っているのがホンディウスの地球儀である」(p.215)。つまり,この二つの絵に描かれているのはプロフェッショナルの天文学者でも地理学者でもないのである。では,その人物とは誰なのか。著者は言う。「描かれたのはほんものの学者にまさるとも劣らない知識への情熱を一生涯抱き続けた偉大なアマチュアだった」(p.217)。 そして,著者の想像力はその人物こそがアントニ・ファン・レーウェンフックだと推測するのである。「フェルメールとレーウェンフックは必ずやデルフトのどこかで交差したはずである。現在,彼らの生前の接点を証拠だてる記録は何も残されていない。けれどもそれは想像以上に緊密なものではなかっただろうか。彼らはしばしば集い,レンズの作用や光の見え方について熱心に話し合ったのではないだろうか。」(pp.219-221)

 

 私は美術についての知識はほとんど持ち合わせていないと言ってもよいぐらいの無知である。フェルメールについても,2012年に東京都美術館で開催された「マウリッツハイス美術館展」で『真珠の耳飾りの少女』を見ただけである。そんな私がなぜ本書を手に取ったのかと言えば,それは偏に本書の著者が福岡伸一だからである。そして,本書を読むのに私はほぼ一週間の日々を費やした。このように書くとどれほど浩瀚な書物かと思われるかもしれないが,本書は250ページほどのごく標準的な厚さの本である。では,なぜそんなに時間がかかったのか。一つには私の美術に対する知識が乏しいためであろう。しかし,それだけではない。著者の丁寧な解説や想像力に導かれてフェルメールとその世界,さらにはその時代を生きた人々や後世のフェルメールに関わる人たちの話を読み進めていくうちに残りのページ数が尽きていくのがだんだんと惜しくなってしまったのである。私は既に読んだ箇所を何度も読み返し,できるだけ「読了」を遅らせるような「努力」をしながら読み進めたのだ。

 この感想文で紹介したのは本書のごく一部分であり,本書にはこれ以外にも興味深いことがらが随所に述べられている。この一週間,紅茶を飲みながら本書を手にしてフェルメールの世界へと誘われた午後のひととき,それは実に贅沢な時間であった。

 なお,この感想文で書いたことがらは私が理解した限りでの内容であり,もし著者が述べている趣旨を取り違えた紹介をしているとすれば,それはすべて私の責任であることを申し添えておきたい。

山本圭『嫉妬論 民主社会に渦巻く情念を解剖する』

               (光文社新書 2024年)

 

 

  嫉妬という感情はなんとも厄介なものだ。以前,テレビの対談番組を見ていた時にある高名な思想家が「自分は20歳の時に嫉妬の感情をうまく封じ込めることに成功した」という発言をしたので少し驚いたことがあるのだが,通常は嫉妬心は誰にでもある感情のように思えるし,小説や映画でも嫉妬を扱った作品は枚挙に暇がない。本書の著者である山本圭も「どうやら嫉妬するのであれ,嫉妬されるのであれ,総じてこの感情を回避して生きることは容易ではなさそうだ」(p.36)と述べている。

 

 嫉妬という感情は様々な観点から扱うことができるが,本書はそれを学術的な観点から扱うことを目指している。学術的に扱うとすれば通常は社会心理学という分野が考えられるが,著者の山本圭は政治学の研究者であり,したがって,本書では嫉妬という感情が政治や社会生活といかに関わっているかという観点からそのテーマが扱われることになる。具体的には嫉妬と民主主義との関係である。

 

  まず「嫉妬」とはどういう感情なのかということについて,著者は,嫉妬とは「他人の幸福が自分の幸福を少しも損なうわけではないのに,他人の幸福をみるのに苦痛を伴うという性癖」(p.41) であるというイマニュエル・カントによる定義付けを紹介し,それを次のようにパラフレーズする。

 「嫉妬者は自分の損得とは無関係に隣人の幸福を許すことができない。つまり,彼(女)は自分の利得を最大化しようとしているわけではないのである。むしろ逆である。彼(女)はたとえ自分が損をしようと隣人の不幸を願う。嫉妬は功利主義的な快楽計算にはしたがわず,そうした自暴自棄さはある意味で,すがすがしくさえ感じるほどだ。」(p.41)

 次に嫉妬を抱く人とはどのような人であり,嫉妬の対象になるのはどのような人であるかという点について,著者はアリストテレスを引き合いに出して次のように言う。つまり,前者に関しては「自分と同じか同じだと思える者がいる人々」(p.43)であり,後者に関しては「時や場所や年配,世の評判などで自分に近い者」(p.43)である。要するに,嫉妬の感情が生じるのは自分を他人と比較するときである。つまり,「嫉妬の感情は比較可能な者同士のあいだに生じるのである」(p.44)。

 以上が嫉妬とは何か,またその感情はどのような時に生じるのかということについての著者の説明であるが,著者によれば,さらにこの感情にはそれに関わる恐怖が三つ存在する。それは,①他者から嫉妬されること,②自分が嫉妬していると他者に思われること,③自分が嫉妬していることを自分で認めることである。では,このような恐怖を回避する戦略にはどのようなことがあるだろうか。①に関しては隠蔽,否認,賄賂,共有と言ったことが挙げられる(pp.66-71)。 ②に関しては自分が嫉妬していないことを行為で示すことが必要であり(p.73),③は自分が嫉妬している人間に対して劣等感を持っていることを認めることになるので,例えば運が悪かったなどと,その原因を自分以外の別のものの責任に転嫁するといったことが挙げられる(pp.74-75)。

 

 さて,本書の中心的なテーマである嫉妬と政治との関係であるが,著者はまずジョン・ロールズの有名な『正義論』を検討する。ロールズによれば,「敵意に満ちた嫉み」が生じる条件は三つあるが,公正な社会はそのような条件を緩和し,嫉妬に対する十分な免疫を備えているので,「嫉妬は存在したとしても,決して深刻な問題にはならない」(p.178)ということになる。このようなロールズの主張に対して小坂井敏晶は次のように批判する。社会制度が公正である場合,私たちは自分の待遇が悪いのは自分の能力が低いからだと考えざるを得ないが,私たちはそれを受け入れることができるだろうか,と。また,ロールズの公正な社会において格差が減少すると,小さい差異が耐えがたいものになるのではないだろうかという批判も存在する。そもそも嫉妬とは不合理な感情であり,「ロールズの議論は,こうした人間の不合理な次元を十分に捉えられていない」(p.181)ということになる。

 上のロールズの主張とそれに対する批判は「嫉妬と民主主義」と題された第5章のテーマに通じる。結論を先取りすると,著者は次のように述べている。

 「嫉妬の行き過ぎは,他者への信頼を損ない,社会を分断するかぎりで,民主主義を脅威にさらすに違いない。しかし,… 嫉妬は民主社会においてこそ本領を発揮する。より正確に言えば,民主主義こそ人々の嫉妬心をいっそう激しくかき立て,それを社会に呼び込む当のものなのだ。本章では,嫉妬と民主主義の関係について考察するが,それは単に嫉妬の抑制を説くことを目的とはしていない。むしろ嫉妬の両義性を示すことで,この感情との付き合い方の常識を根本から揺さぶることを目指したい」(pp.204-205)。

  民主主義の重要な価値観として「平等」が挙げられるが,この「平等」とか公正さの要求が嫉妬から生じたものであることを指摘したのはジークムント・フロイトである。つまり,「嫉妬は正義や公正さに自らを偽装し,相手を『引き下げる』ことで自分を慰める」(p.216)のではないかということである。現代のリベラル派にとっては居心地の悪い議論ではあるが,この点に関して著者は結論を保留している。

 さらに,民主主義における平等の理念は別の仕方でも嫉妬の問題と関わっている。それはアレクシ・ド・トクヴィルが『アメリカのデモクラシー』において指摘しているように「民主的な平等が人々のあいだに嫉妬感情をもたらす」(p.218)ということである。平等化以前の社会においては人々は主人を自分と同等な存在とはみておらず,したがって,不平等を当然のこととして受け入れているので嫉妬心が生まれることはないが,「他者を自分と同類とみなす想像力」(p.219)が解放されるようになると不平等に正当性はないものと認識され,嫉妬という感情が生まれる。この平等と差異こそが民主主義の構成要素である以上,「嫉妬が民主的な社会において不可避であること」(p.220)は容易に理解できる。要するに,「嫉妬は私たちのデモクラシーの条件かつ帰結ということになる」(p.220)のである。

 さて,著者が言うように,民主的な社会においては嫉妬は不可避であるのならば,私たちは嫉妬とどのように向き合えばよいのだろうか。確実に言えることは,もし仮に嫉妬が禁止されて完全な平等社会が到来したとすれば,著者も言うようにそれは「一種のディストピア」だということだ。したがって,著者の結論は「民主社会はこの感情(=嫉妬)を受け入れる必要がある」(p.231)ということである。私もこの結論には同意だが,「受け入れる」ということがはたしてどのようなものであるのか,また受け入れた上で嫉妬心をある程度緩和するにはどうすればよいのか…。なかなかの難問ではあるが,著者が示すところは,社会的には「多元的な価値観を許容する社会」(p.240)を目指すということであり,また私たちが他者との比較をやめられないのであれば,比較を徹底してみることによってねたましく思う隣人の意外な事実が目に入り,嫉妬心もかなり緩和されるのではないかということなのだが…。もちろん,著者自身も認めているように,これとて万能であるとは言えず,「嫉妬心が完全に社会から,あるいは私たちから消え去ることはないであろう」(p.244)。そうだとすれば,本書の締めくくりにおいて著者が書いているように,私たちは「怒りや悲しみといった人間味ある感情がそうであるように,嫉妬もまた私たち人間の条件」であると思ってできるだけそれを飼いならす工夫をするより仕方がないのであろう。

 

 以上,本書の中心的なテーマである「嫉妬と民主主義」を中心に著者の主張を見てきたが,本書はそれ以外にも,「嫉妬」と「ジェラシー」,「ルサンチマン」,「シャーデンフロイデ」といった概念との異同,さらには(一部は紹介したが)「嫉妬」に関するヨーロッパや日本の古今の思想家たち(プラトン,イソクラテス,プルタルコス,トマス・アクィナス,ベーコン,カント,マンデヴィル,ヒューム,ルソー,ショーペンハウワー,ニーチェ,マーサ・ヌスバウム,福沢諭吉,三木清など)の考え方の紹介,嫉妬と対をなす「誇示」などについての考察にもページを割いており,今後のさらなる展開も含めて興味深い書物である。

 

 

 5月3日の朝日新聞朝刊の「クロスレビュー」というコーナーに「『変な家』大ヒット」と題して,朝宮運河さん(怪奇幻想ライター),柳下毅一郎さん(映画評論家),森岡友樹さん(マドリスト)の批評が掲載されていた。マドリストって?と思ったのだが,mixiで「間取り図大好き!」というコミュニティーを立ち上げた人とのことだそうである。

 ところで,私はこの記事を読むまで『変な家』という小説の存在を知らなかったのであるが,記事によると,この小説は2021年に単行本が刊行されて以来,文庫本と合わせて170万部を突破しているそうで,映画化もされて興行収入40億円を超えたそうである。内容は「中古住宅の奇妙な間取り図に端を発し,やがて恐るべき真実が明らかになる異色の不動産ミステリー」とのことである。

 間取り図ね~。「そう言えば,自分が住むことになる家の間取り図以外はじっくり見たことなどなかったな~」などと思いながら,三人の批評を読んでみた。「日常の『未知』 心理突く直球」と題された朝宮さんの批評は概ね高評価,「動画と親和性 若い人が受容」というタイトルの柳下さんの批評は映画に即したものだが,かなり辛口,最後に,「間取り図で妄想 怖さに拍車」と題された森岡さんの批評は間取り図を読むことの楽しさという点を中心に高く評価している。

 というわけで(何が「というわけで」か分からないが),とりあえず読んでみることにした。最初に以下のようなある家の間取り図が掲載されていて,「あなたは,この家の異常さが分かるだろうか」と述べられている。5~6分ジーと見たがさっぱり分からないので,本文を読み始めた。

 

 

 物語は筆者の知人の柳岡さんが今度買う予定の中古住宅の間取り図を送ってきたところから始まる。柳岡さんはその家を気に入っているのだが,一箇所不可解なところがあるというのだ。それは1Fの台所とリビングの間にある謎の空間である。しかし,筆者は建築について全くの素人なので,知人で設計士の栗原さんに相談をする。そこから筆者と栗原さんの会話が長々と続き,栗原さんがその間取り図の謎についていろいろな解説をする。栗原さんによれば,不可解なのはその謎の空間だけではなく2Fの間取り図にも不可解な箇所があるとのことなのだ。そこで,栗原さんはその不可解な点を総合するとある一つのストーリーが考えられると言って,その話をするのだが,これ以上はネタバレになるので内容紹介はここでやめておく。

 さて,読んでみた感想だが,20~30ページほど読んで感じたのはプロの作家としての文章技法が全くと言ってよいほど用いられておらず,じつに味気ない文章だということだ。しかし,その点は眼を瞑って物語の展開だけに集中すればよいということで読み進める。たしかに,間取り図についての推理はなかなか面白いし,話の展開につれて起こる事件がその間取りとどのように絡み,最後はどのようなところに話を落とし込むのだろうかという興味もかき立てられる。しかし,それも話の中間ぐらいまでだ。ひと言で言うと,「エ~,そこに落とし込みますか!!」ということなのだ。まあ,このあたりは趣味の問題なので,私には合わなかったというだけのことなのだが,このような○○○○○○しい話はどうもね~。

 朝宮さんによると,これはもともとウエッブ記事とネット動画でバズった話を小説の形に落とし込んだものだそうだが,時代はやはりSNSといったところか。AIがこの類いの小説を濫造する日が来るのも近いだろうということを感じさせる小説だった。

今日は3月30日。今から55年前の1969年3月30日,当時30歳だったフランシーヌ・ルコントという女性がベトナム戦争,ナイジェリア内戦に抗議してパリの路上で焼身自殺しました。その女性に思いを馳せて作られたのが「フランシーヌの場合」。歌っているのは新谷のり子です。

 

 

 

フランシーヌの場合は あまりにもおばかさん

フランシーヌの場合は あまりにもさびしい

3月30日の日曜日

パリの朝に燃えたいのちひとつ フランシーヌ

 

ほんとのことを云ったら おりこうになれない

ほんとのことを云ったら あまりにも悲しい

3月30日の日曜日

パリの朝に燃えたいのちひとつ フランシーヌ

 

ひとりぼっちの世界に 残された言葉が

ひとりぼっちの世界に いつまでもささやく

3月30日の日曜日

パリの朝に燃えたいのちひとつ フランシーヌ

 

フランシーヌの場合は 私にもわかるわ

フランシーヌの場合は あまりにもさびしい

3月30日の日曜日

パリの朝に燃えたいのちひとつ フランシーヌ

 

 

 本日3月29日,日本プロ野球が開幕する。昨年のWBC 以来,メディアではプロ野球と言えばMLBしかないかのような扱いで,特に大谷翔平をめぐる異常とも言えるワイドショーの報道の仕方はこの国のメディアの劣化ぶりが如実に表れていて辟易させられる。もちろん,大谷翔平が不世出の野球選手であることは誰もが認めているところであり,私も彼の活躍には拍手をおくっているファンの一人ではあるが,その一挙手一投足を事細かに報道する姿勢には彼を単なるアイドルとしてしか見ていないのではないかと思われて,逆に大谷に対して失礼ではないかと思うのである。

 

 さて,NPBの開幕であるが,私はこの3年間コロナ禍であまり外出しなかったこともあってテレビでオリックスバファローズのほぼ全試合を観戦してきた。ラッキーなことに過去3年間オリックスバファローズはリーグ優勝3回,日本一1回という成績であった。オリックスバファローズの一番の魅力は,若い選手が中心のチームで彼らが伸び伸びと自由に野球をしているところだろう。私の一推しは三塁手の宗佑磨だが,何と言っても彼の魅力は身体能力の高さを活かした華麗な守備である。3年連続でゴールデングラブ賞を受賞したが,これには誰もが異論がないであろう。ただ,攻撃面に関しては昨年の成績はいかにも物足りなかったと言わざるを得ない。3年連続でベストナインにも選出されたが,2021年,2022年は納得できる成績であったのに対し,昨年は他に優秀なライバルがいなかったことにも助けられた感が強い。今年は攻撃面でも少なくとも打率2割8分以上,できれば初の3割打者になることを期待したい。

 

 

今年の展望

 今年のオリックスに関してはよく言われていることだが,投手陣では絶対的エースの山本由伸がMLBに移籍し,山崎福也がFAで日本ハムに移籍した穴をどのように埋めるかが最大の課題である。昨年,山本は16勝6敗,山崎は11勝5敗という成績を残し,二人合わせると27勝11敗で貯金16であった。現在の投手陣でこの貯金16を埋め合わせるのはまず不可能である。ただ,昨年のオリックスは86勝53敗4分という圧倒的な数字を残し,2位ロッテに15.5ゲーム差を付けて優勝したが,今年はそこまでの数字は不可能だとしても,仮に山本と山崎が登板した38試合を19勝19敗で戦えたならば,78勝61敗4分となり,優勝争いができるであろう。そのためにはローテーション投手のうち,宮城,山下,東,田嶋の4人で昨年より12勝~13勝の上積みが必要だが,西川の加入で打線は確実に昨年より厚みが増したので,この数字は可能だと見たい。ただ,ここに来て主力選手に故障や不調が目立つのが不安であり,特に中川圭太を欠いて開幕を迎えなければならないのは気がかりである。

 

とりあえず,本日のスタメンを予想してみた。

1.太田(4)

2.宗 (5)

3.西川(7)

4.頓宮(3)

5.森 (DH)

6.紅林(6)

7.杉本(9)

8.福田(8)

9.若月(2)

 

予告先発 宮城

 

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発表された実際のスタメンは以下の通り。当たったのは頓宮と紅林だけ。しかも,頓宮はDHでの出場だし。ほとんどハズレています。宗が5番。中川欠場で苦心のオーダーですね。

 

1.西川(7)

2.西野(4)

3.森(2)

4.頓宮(DH)

5.宗 (5)

6.紅林(6)

7.T-岡田(3)

8.杉本(9)

9.廣岡(8)

 

先発投手 宮城