思い返せば昨年の今日から自粛生活に入ったのだった。なので,2月19日は私にとっての自粛記念日なのだ。昨年の今頃と言えば,連日ダイヤモンド・プリンセス号の集団感染が報じられており,神奈川県在住の80代女性が日本で初めて新型コロナで死亡したのは2月13日のことであった。この新型コロナウイルスに関して最初に報道されたことの一つに,この感染症の危険性は年代によって異なるということであり,私のような70代の人間の死亡率はかなり高いということであった。そのため,私はネット,テレビ,新聞を中心にできるだけコロナウィルスに関する情報を集め,かなり徹底した自粛生活をする必要があるという結論に達したのである。

 私の生活は一変した。この1年,友人,知人,仕事関係の人など,濃淡の差はあれ自分と何らかの関わりのある人たちとは誰にもリアルな生活の中で会うことはなかった。もっとも,妻だけが唯一の例外であり,電話で彼らと話をしたり,zoomを使って会話をすることはあったのだが…。当然のことながら,公共交通機関を利用することもまったくなくなり,一駅隣にあるレンタル店に行ってDVDを借りることもなくなった。その分,映画を観ることが極端に減り,代わりに読書量が増えた。

 外出と言えば,スーパーやコンビニ,ドラッグストアに買い物に行くことと,ほぼ毎日の散歩ぐらいである。時間の経過するスピードが非常に速く感じられるようになり,つい1年前までのことなのにコロナ以前の生活はとても遠い昔のことのように思われ,懐かしい思い出のようにさえ感じられるのである。ひょっとしたら,自分の中で世界に対する感じ方に何らかの変化が生じているのかもしれない。

 私が現在の場所に引っ越してきたのはほぼ10年前のことである。コロナ以前には自分の住み処と最寄り駅の間を歩くだけだったのだが,自粛生活の中で散歩コースを探す必要に迫られ,最寄り駅とは反対の方向に歩いて行ったところ,とてものどかな場所があることがわかったのである。今では散歩はほぼ毎日の日課となっているが,このコースをとても気に入っている。そして,つい1カ月ほど前から散歩コースにある溝に白鷺が姿を見せるようになり,毎日のようにその姿を見ていると何故か愛着が湧いてきたのである。ウ~ン,動物が特に好きなわけではない私の場合,これはコロナ以前にはなかった感情ではないだろうか。やはり,自分の中で何かが変わったのだろう。

 

 

 この国でも一昨日からワクチンの先行接種が始まったが,当初の予定より進行が遅れそうで,年内に希望者全員への接種が終わるかどうかの見通しも立たないようであり,集団免疫が獲得されるのはかなり先のことになるだろう。ということは,私の自粛生活もまだまだ続くということであるが,もし仮に全国的にほぼ安全な状態になったと言われても,引きこもりの人が外の世界に足を一歩踏み出すのが難しいと言われているように,私の意識がコロナ以前のような状態に戻るにはさらに時間がかかるのではないだろうか。もっとも,今の気分はそれでも構わないとは思っているが…。まあ,あのパスカルも『パンセ』の中で言っているではないか。

 「人間の不幸などというものは,どれも人間が部屋にじっとしていられないがために起こる。部屋にじっとしていればいいのに,そうできない。そのためにわざわざ自分で不幸を招いている。」…ウン,けだし至言。(笑)

 

 

 

 

 124日の当ブログで読書における偶然の一致ということを話題にし,半藤一利氏の書物について書きましたが,その中でドナルド・キーン氏の『石川啄木』を読んでいたときにもそのような偶然の一致があり,当時(2019年)利用していたYahoo!ブログでその書物を取りあげたことがあると書きましたので,それを再掲することにします。Yahoo!では長くなりましたので,2回に分けて掲載しましたが今回は大幅に縮小して1回で掲載します。それでもかなり長いです。

 

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2ヶ月ほど前のことであるが,ドナルド・キーン著『石川啄木』(角地幸男訳 新潮社)を読んだ。もっとも,私の場合,ドナルド・キーンの著作と言えば,若い頃『百代の過客』を読んだ程度であり,また石川啄木について言えば,『一握の砂』,『悲しき玩具』を読んだことはあるが,特に啄木の熱心な読者でもないのに,どういうわけか,書棚を見ていたら3年ほど前に購入して以来ツンドク状態になっていた本書が目に付いたので読んでみようという気になったのである。それが2月24日。そして3分の1ほど読んだところでちょっと休憩ということでテレビをつけたら「ドナルド・キーン氏死亡」のニュースが。「エッ!」という驚きとともにこの偶然の一致になにかの縁を感じてしまったのである。そこで,この本のブック・レビューを書こうと試みたのだが,その前に啄木の短歌や文章も読んでみようと思って『一握の砂』や『悲しき玩具』を再読し,『ROMAZINIKKI』,『時代閉塞の現状 食うべき詩』なども読んでみた。 

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 ドナルド・キーンの著作『石川啄木』は啄木の短歌を直接扱った文芸評論ではなく,啄木が書き残した日記を通じて彼の生涯を年代記的に追っている「石川啄木評伝」である。しかし,なぜ日記なのか? ドナルド・キーンは次のように述べている。「啄木は,千年に及ぶ日本の日記文学の伝統を受け継いだ。日記を単に天候を書き留めたり日々の出来事を記録するものとしてでなく,自分の知的かつ感情的生活の『自伝』として使ったのだった」(『石川啄木』 p.329)。要するに,啄木の書き残した日記を追うことによって石川啄木像なるものが見えてくるということである。では,本書を通じて浮かび上がる石川啄木像とは何か? 私の前に現れたそれは自由を希求した一人の人間であり,同時に大いなる矛盾を内包した一人の人間の姿である。彼の私生活においては,それは自分勝手,放埒,短絡的行動となって表れる。特に妻・節子や彼を経済的にも支えた金田一京助,宮崎郁雨との関係においてそれが顕著である。

 明治45年(1912年)4月13日,啄木は26歳の若さでその生涯を閉じた。臨終の床には節子,年老いた父母,それに若山牧水がいた。金田一京助が駆けつけたときには啄木はすでにこの世の人ではなくなっていた。

 

 啄木の自由への希求と彼の中にある「矛盾」は私生活においてだけではなく,ドナルド・キーンが指摘しているように,彼の詩論においても表れている。ドナルド・キーンは『石川啄木』の第1章「反逆者啄木」を正岡子規についてのコメントから始めている。曰く。「子規の『革新』は,次のような形を取った。桜の花や紅葉などのお決まりの題材の代わりに,子規は自分が眼にした出来事の記録として,またごくありふれた経験に対する反応として短歌や俳句を作った。…子規は伝統的な詩歌の形式に新しい生命を与え,永遠ではあっても陳腐なテーマの代わりに近代的な内容を短歌と俳句に吹き込んだ。」(p.8)しかし,ドナルド・キーンは「そのこと自体が,子規を近代歌人にしたわけではない」(p.8)と述べる。なぜか。子規は「心の奥底にある感情の動きをあからさまに語ることはなかったし,また自分を一人称で語ることもなかった」(p.8)からである。そして,キーンは「子規と違って,啄木は明らかに現代歌人だった」(p.9)と評し,3編の短歌を挙げるのだが,そのうちの一つ。

 

曠野(あらの)ゆく汽車のごとくに

このなやみ

ときどき我の心を通る

 

 たしかに,キーンが言うように,ここには「心の奥底にある感情の動き」が一人称で語られているのを見ることができる。しかし,一方で,例えばこの歌は「その現代的な性格にもかかわらず文語で詠まれている」(p.11)のである。つまり,啄木は「昔からある短歌を滅ぼそうと試みたわけではなくて,むしろ自分の詩の形式として理想的な形を短歌に見出した」(p.11)のである。ここには啄木が花鳥風月などという短歌の定番を排し,自らの感情の動きを書き留めるという自由な詩を希求する一方で,文語で詠むという「矛盾」が内包されている。

 上にも書いたように,ドナルド・キーン著『石川啄木』はその大半が「石川啄木評伝」であって啄木の足跡を知るには恰好の書と言えるが,「二つの『詩論』」と題された第13章だけは唯一啄木の詩論を扱っており,大変興味深い章である。この章は啄木が明治42年11月より東京毎日新聞に連載していた「弓町より」というエッセイに即して展開されているので,私もドナルド・キーンの問題意識に沿ってそのエッセイを読んでみた。その結果,たしかにドナルド・キーンが言うように,啄木の詩論が彼の作品と矛盾していることを指摘することはできるが,同時に,私には啄木の短歌がなぜ私たち日本人の心に響いてくるのかということの本質が表れているとも思われたのである。

 

 『石川啄木』の「第13章 二つの『詩論』」においてドナルド・キーンは「食(くら)うべき詩」というタイトルで呼ばれることが多い啄木の「弓町より――食らうべき詩」を取りあげ,啄木が一方では「詩」の自由さにひかれながら,他方では現実の詩作においては短歌という形式に拘り,文語での表現に拘ったという「矛盾」を検証している。しかし,ドナルド・キーンはこの「矛盾」の原因について必ずしも明快な答を与えているわけではない。わずかに「思うに口語で短歌を書かない理由は,文語で歌を作るのが啄木にはあまりにも自然だからで,また啄木が古語を愛していたからだった」(p.279)と述べるに留まっているのである。もちろん,それは啄木自身がそのことについて明快に説明していないからであるが…。

 

 

 「弓町より-食(くら)うべき詩」は石川啄木の『時代閉塞の現状 食うべき詩』(岩波文庫)に収められている。その中で啄木は生活のために「郷里から函館へ,函館から札幌へ,札幌から小樽へ,小樽から釧路へ…流れ歩いた。いつしか詩と私とは他人同士のようになっていた」(『時代閉塞の現状 食うべき詩』岩波文庫p.56)と述べている。北海道を流れ歩いた経緯についてはドナルド・キーン『石川啄木』の第4章~第7章(pp.73-150)に詳しく述べられているが,要するに,それは啄木自身の身勝手さが原因であったようだ。それはともかく,詩と他人同士になった啄木であったが,釧路で生活する啄木の耳に,「思想と文学との両分野に跨がって起こった著名な新しい運動の声」(『時代閉塞の現状 食うべき詩』 p.57)が響いてくる。しかし,啄木はこの新しい運動に対してまったく矛盾した姿勢をとる。啄木は次のように述べている。

 「詩が内容の上にも形式の上にも長い間の因襲を蟬脱(せんだつ)して自由を求め,用語を現代日常の言葉から選ぼうとした新らしい努力に対しても,むろん私は反対すべき何の理由も有たなかった。…しかし,それを口に出しては誰にも言いたくなかった。…私は自分の閲歴の上から,どうしても詩の将来を有望なものとは考えたくなかった。たまたまそれらの新運動にたずさわっている人々の作を,時折手にする雑誌の上で読んでは,その詩の拙いことを心潜(ひそ)かに喜んでいた。」(『時代閉塞の現状 食うべき詩』 p.57)

 新運動の持つ自由を肯定しながら,それを「口に出しては誰にも言いたくない」と言い,さらには「詩の将来を有望なものとは考えたくなかった」という啄木のこの矛盾した心情についてドナルド・キーンは「啄木の議論に付いていくのは,なかなか難しい」(『石川啄木』p.278)と述べている。

 いずれにせよ,啄木は北海道にまで聞こえてくる新運動の声に居ても立ってもいられず,東京に戻る。そして,釧路まで聞こえてきた新運動について次のような感想を述べる。

 「帰って来て私はまず,新らしい運動に同情を持っていない人の意外に多いのを見て驚いた。というよりは,一種の哀傷の念に打たれた。…そうしてその人達の態度には,ちょうど私自身が口語詩の試みに対して持った心持に似た点があるのを発見した時,卒然として私は自分自身の卑怯に烈しい反感を感じた。この反感の反感から、私は、未だ未成品であったために色々の批議を免れなかった口語詩に対して,人以上に同情を有(も)つようになった。」(『時代閉塞の現状 食うべき詩』 pp.58-59)

 「私自身が口語詩の試みに対して持った心持」とは,すでに見たように,口語詩が古い因襲を脱するという自由な精神に共感しながら,その将来を有望なものとは考えたくなかった心情を指している。そして,ここでは,その心情を啄木は「自分自身の卑怯」だと認め,「口語詩に対して,人以上に同情を有(も)つようになった」と述べているのである。では,啄木は口語詩に傾倒していったのだろうか。啄木は言う。

 「しかしそのために,熱心にそれら新らしい詩人の作を読むようになったのではなかった。それらの人々に同情するという事は,畢竟私自身の自己革命の一部分であったに過ぎない。」(『時代閉塞の現状 食うべき詩』 p.59) さらに続けて啄木は言う。「その間に,私は四,五百首の短歌を作った。短歌!あの短歌を作るという事は,言うまでもなく叙上の心持と齟齬している。」(p.59)

  ここで述べられている「叙上の心持」とは,言うまでもなく口語詩に対する啄木の共感である。しかし,啄木はそちらに向かうのではなく,短歌に拘るのだ。啄木自らが「齟齬」と述べているこの矛盾を私たちはどのように解すればよいのだろうか。この点についての啄木の説明は,小説を書きたかったのだが書けなかったからというものだが,理由として説得力があるとは思えず,疑問は一向に解決しない。

 このような疑問が解決しないまま啄木は「食(くら)うべき詩」の意味について次のように述べる。

 「謂う心は,両足を地面(じべた)にくっ付けていて歌う詩という事である。実人生となんらの間隔なき心持をもって歌う詩という事である。…こういう事は詩を既定の或る地位から引下す事であるかも知れないが,私から言えば我々の生活に有っても無くても何の増減のなかった詩を,必要な物の一つにするゆえんである。詩の存在の理由を肯定する唯一つの途である。/ 以上の言い方は余り大雑駁ではあるが,二,三年来の詩壇の新らしい運動の精神は,必ずここにあったと思う。否,あらねばならぬと思う。」(『時代閉塞の現状 食うべき詩』 pp.60-61)

 啄木によれば,詩は実人生から離れたものであってはならず,新運動の精神もそのことに基づいているのである。したがって,啄木は詩や詩人を特別なものとする考え方を排除して,「詩その物を高価なる装飾品の如く,詩人を普通人以上,もしくは以外の如く考え」(『時代閉塞の現状 食うべき詩』 p.62)るのは根本的な誤謬であると断じ,詩語についても,現代の言葉で書かれなければならないと述べるのである。曰く。「とにもかくにも,明治四十年代以後の詩は,明治四十年代以後の言葉で書かれねばならぬという事は,詩語としての適不適,表白の便不便の問題ではなくて,新らしい詩の精神,即ち時代の精神の必然の要求であった。」(『時代閉塞の現状 食うべき詩』 p.63)

 以上の観点から啄木は新運動に対する批判に反論するのであるが,すでに述べてきたように,それは啄木自身の詩作とも矛盾するのである。「弓町より――食(くら)うべき詩」において啄木はそのことに直接言及してはいない。そうである以上,私たちは啄木が書いていることを手がかりにして推測するより仕方がないであろう。啄木は「食(くら)うべき詩」の締めくくりにおいて次のように述べている。

 「諸君(=詩の新運動の実行者たち。飛行機雲注)の真面目な研究は外国語の智識に乏しい私の羨やみかつ敬服するところではあるが,諸君はその研究から利益と共に或禍いを受けているような事はないか。仮にもし,独逸人は飲料水の代りに麦酒(ビール)を飲むそうだから我々もそうしようというような事…とまでは無論行くまいが,些少でもそれに類した事があっては諸君の不名誉ではあるまいか。もっと卒直に言えば,諸君は諸君の詩に関する智識の日に日に進むと共に,その智識の上に或る偶像を拵(こしら)え上げて,現在の日本を了解することを閑却しつつあるような事はないか。両足を地面に着けることを忘れてはいないか。又諸君は,詩を新しいものにしようという事に熱心なる余り,自己および自己の生活を改善するという一大事を閑却してはいないか。換言すれば,諸君のかつて排斥したところの詩人の堕落を再び繰替えさんとしつつあるようなことはないか。」(『時代閉塞の現状 食うべき詩』 p.66)

 この指摘は私にはとても重要な指摘のように思われる。啄木は詩の新運動が持つ自由な精神に共鳴しながらも,それがいつのまにか西洋の単なる模倣になり,自分たちの生活からかけ離れた,いわば美辞麗句を並べ立てるだけの代物になってしまう可能性を感じ取っていたのではないだろうか。啄木にとって詩や詩人は特別な存在ではなく,普通の生活人がその生活の中から生み出すものでなければならなかった。それが啄木をして短歌という表現形式に踏みとどまらせた理由であり,そこにこそ私たち日本人が啄木の短歌に共鳴する所以があるのではないだろうかと思われるのである。

 ドナルド・キーンは著書の末尾で述べている。「啄木の詩歌は時に難解だが,啄木の歌,啄木の批評,そして啄木の日記を読むことは,単なる暇つぶしとは違う。これらの作品が我々の前に描き出して見せるのは一人の非凡な人物で,時に破廉恥ではあっても常に我々を夢中にさせ,ついには我々にとって忘れがたい人物になる。」(『石川啄木』p.330)

 私はTVや新聞で政治家・小池百合子の言動を見るたびに「なぜこの人は政治家になったのだろう?」という疑問を抱いていたのだが,ノンフィクションライター石井妙子の筆はその疑問に対する明快な答えを与えてくれた。

 

 「彼女には国家観や理念はなかった。」(p.193)

 「人との縁を『人脈』とみる。彼女にとって他人とは何なのか。」(p.141)

 「トップとつながる。あるいはそのように見せる。一番強い者と親しくなり,虎の威を借りタテ社会の論理を突き崩す。」(p.273)

 

 小池百合子は「政治にはそれほど関心がないが,政治家であることには人一倍執念を燃やす人物」なのだった。そして,その根底には強烈な劣等感とそれを「バネ」にした権力への飽くなき願望が存在したのだ。

 

 小池百合子を今日の小池百合子たらしめた武器の一つは,勝負を賭けるときの度胸のよさだ。たとえば,2016年7月,小池は自民党と対立して党を飛び出し,衆議院議員を辞職して都知事選に出馬した。自民党が対立候補として公認したのが元岩手県知事の増田寛也であり,自民党本部での決起集会において当時の都連会長であった石原伸晃が来賓として招いたのが父親の慎太郎である。慎太郎の挨拶は次の言葉で始まる。「大年増の厚化粧がいるんだよ。これが困ったもんでね。俺の息子も苦労しているんだ。…厚化粧の女にまかせるわけになんかいかない。」(p.317) いかにも石原慎太郎らしい物言いだが,彼は激しい批判に晒される。記者たちは感想を聞こうと小池のもとに殺到する。そして,小池はここぞとばかり勝負に出る。彼女はそれまで語ってこなかった,というより秘密にしてきた「過酷な運命」(p.318)を告白する。石井妙子は書いている。「彼女はこの瞬間に都知事になった。」(p.319) これを「乾坤一擲」といってよいのかどうか,私にはわからないが,勝負所を見極め,そこに自分を賭ける度胸はある意味「見事」と思わざるをえない。その一方で,本書を通じて浮かび上がる小池百合子像は政策立案・実行能力における弱点を抱えた政治家であり,度胸のよさに加えて卓越した自己演出能力,利用価値のある人間とそうでない人間とを峻別する冷淡さによってその弱点をカバーすることで権力の階段を一歩一歩上ってきた政治家像である。その意味では,昨年からの感染症の蔓延という危機的状況は政治家・小池百合子にとって大きな試練であり,今のところ彼女はその危機管理能力の限界を露呈しているように思われる。ひょっとしたらコロナは彼女にとって「つまずきの石」になるのではないだろうか。

 いつの頃からか学校教育で教える英語はアメリカ英語(American English)になったのだが,私が50数年前に中学に入学して初めて教わった英語はイギリス英語(British English)だった。たとえば,I have a ball in my hand.の疑問文はHave you ~?で,否定文はI have not (=haven’t) ~?だった。また,先生が助動詞のwillとshallを区別するようにと言って,willは「意志未来」,shallは「単純未来」を表すなどと教わったのだが,何のことかよく理解できなかった覚えがある。さらに高校に入ると,You shall die.などという表現が出てきて,これはI will kill you.「お前を殺してやるぞ」とほぼ同じ意味だなどと教わり,ますますよくわからなくなったものだ。

 そんなある日,I shall return.という表現に出会い,それが,あのダグラス・マッカーサーが第2次大戦中,アメリカの植民地だったフィリピンの攻防戦で日本軍に攻め込まれ,フィリピンから脱出するときに発した言葉だということを知り,なぜI will return.と言わなかったのだろうかと思って調べてみたところ,次のことが分かったのである。一言で言うと,shallは「必ず~することになる」ということを表す助動詞だということである。willが主語の意志を表すのに対し,shallは主語の意志を超えた必然性,あえて言えば,「~する運命にある」という「神の意志」とでもいうべきものを表す助動詞だということだ。したがって,I shall return.にはマッカーサーの単なる意志の表明というより,それを超えて「私が(フィリピンに)戻ってくるのは必然である」,つまり,アメリカは必ずこの戦争に勝つということの表明なのである。

 なぜこんなことを思い出したかというと,先日のジョー・バイデンの大統領就任式の当日,ドナルド・トランプが就任式に出席しないで独自の「退任式」を開き,支持者の前で演説を行ったのだが,その中でトランプがWe’ll be back in some form.「我々は何らかの形で戻ってくる」と言ったからである。we’llはwe willとwe shallの短縮形であるが,おそらくトランプはwe willの省略形として使ったのであろう。shallを使うのであれば,はっきりとwe shallと言うはずだからである。ということは,これはトランプの単なる意志の表明であって,それほど強い確信を持って言ったわけではないともとれるだろう。もっとも,アメリカでは相手の意志を尋ねてShall I ~? 「~しましょうか」や,相手を誘う場合のShall we ~?「~しませんか」というケース以外ではほとんどshallは使わないようなので,トランプにはそれほどの意図はなく,私の指摘は少々穿ちすぎかもしれないとも思うが…。

 

 ところで,英語の問題とは別に,今回の米大統領選とその後の経過はトランプの身勝手さを露にするとともに,あらためてアメリカにおける「分断」の深刻さを認識させられる結果になった。その分断とは,右・左というイデオロギーによるものではなく,上・下という格差によるものであり,その意味ではトランプの4年間の政治が招いたものというよりは,それ以前からあった分断をトランプの政治が加速させたものと言えるだろう。トランプ支持者の一部の人たちによる陰謀論は論外だとしても,今回の大統領選でトランプが獲得した7400万票の持つ意味は軽くはない。実際,2016年の大統領選ではトランプはヒラリー・クリントンに勝利したのであるが,それはラストベルトにおける中流白人層の没落や,OWS運動にみられる根深い格差,またオバマ政権のいわゆる回転ドア方式に象徴される政治に対する反発などの表明でもあったのであり,今回のバイデンの勝利と前回のクリントンの敗北の違いは,今回はバーニー・サンダースの支持者が棄権しなかったからにすぎないのではないだろうか。先日の就任式ではドレスアップしたレディ・ガガがアメリカ国歌を歌ったりしてずいぶん華やかだったが,ネットでは,式に出席しながらダウンジャケットと厚手のミトンに身を包んで,ソーシャル・ディスタンスをとって1人椅子に座るサンダースの姿に注目が集まった。サンダースの姿を加工した画像がSNS上に出回ったり,サンダースが身に着けていたジャケットやミトンに注文が殺到しているという記事が配信されていて,それはそれで結構だが,私にはサンダースのこの姿は今のアメリカの分断の象徴のように思えてならないのである…。

 

 

 

 特別思い入れのある著述家であるというわけではないが,その著述家の著作を読んでいる最中にその人の訃報のニュースに接するということが続いている。最初は2018年1月のことで,保守の論客,西部邁氏の『思想の英雄たち』を読んでいるときだった。この本で取りあげられている思想家は15人で,「保守的自由主義の源流」と題されたエドマンド・バーグを扱った章を読み終わってTVをつけたときに西部氏の死亡が報じられていたのであった。その次は2019年2月,ドナルド・キーン著『石川啄木』を読んでいたときのことで,このときもTVでキーン氏が亡くなったことを知ったのである。因みに,この書物については以前利用していたYahoo!ブログに感想文を書いたことがある。そして,今年の1月12日,半藤一利著『昭和史』を読みだした時にも氏の訃報に接したのであるが,単なる偶然であり,それほど珍しいことでもないのかもしれない。しかし,以前には経験したこともなかったことで,一度ならず三度までも立て続けに起こったことなので,何か見えない力によって「この書物だけは死ぬまでに読んでおきなさい」と言われているような気もするのである。(まあ,私の勝手な想像でしかないのだろうが。)

 

 ところで,半藤氏の『昭和史』だが,文庫本で2分冊になっており,第一分冊が1926~1945年,つまり戦前・戦中篇を扱っており,第二分冊は『戦後篇 1945→1989』と題されているが,「あとがき」にも書かれているように,丁寧に語られているのは昭和47年(1972年)までであり,その後の17年間は半藤氏の言葉を借りれば「脱兎のごとくすっ飛び続け」ているのだが,それには半藤氏なりの理由があるのである。

 本書は,第一分冊と第二分冊を合わせると約1150ページにもなる大部の書物であるが,半藤節とも言える語りかけるような文体で書かれており,歴史上の当事者の様子が手に取るように読めるので,まったく退屈せずに読み通すことができた。第一分冊,第二分冊とも興味深いのだが,私としては第一分冊のほうがより興味深く読むことができた。本書の大きなテーマは,我が国はなぜあの無謀な戦争に突入していったのかということにあると思われるが,その点に関して本書を通じて浮かび上がってくるのは,当時の指導的な軍人,政治家たちの多くに共通する過度の楽観論と大局観の欠如であろう。もちろん,そうでない人たちもいたのだが,たとえば,三国同盟を締結するかどうかとか,南部仏印に進駐するかどうかという我が国の行く末を左右する重大な局面において,無責任な政治家,軍人が大勢を占めていたのである。それは開戦時だけではなく終戦時においても同様なことが言えるのである。日本は昭和20年8月14日ポツダム宣言受諾を連合国に通達するが,それは「戦闘をやめる」ということでしかなく,「降伏の調印」をするまでは戦争の完全な終結にはならないということを,我が国の指導者たちは知らなかったようなのである。そのためにソ連の満州への侵攻を許し,多くの犠牲を出したのだが,その時も「日本はポツダム宣言を受諾したのだからソ連もわかっているだろう」という楽観論が支配していたというのである。この点に関して半藤氏は次のように述べている。「日本が,ソ連侵攻に関してもっと真剣に考えるなら,直ちに満州に天皇の使者を送り,政府同士で戦闘停止の決め事をきちっとしなければいけなかったのです。」(p.494)

  本書には昭和天皇を初めとして実に多くの人物が登場し,彼らについて半藤氏は独自の視点から評価を下しているが,私の場合,北一輝の評価についてはやや違和感があった。半藤氏は美濃部達吉の天皇機関説と並べて北一輝のそれを紹介しているのだが,北の天皇機関説を2.26事件以後の軍国化に通じるものと断罪しているのである。2.26事件以降,陸軍では統制派が主導権を握り日本が戦争体制へと進んでいったことは事実だが,北自身は天皇を中心とする平等な社会を構想していたのであり,この点は半藤氏の評価にはやや疑問が残った。

 

 先日TVを見ていたら,その番組の中で半藤氏の死を追悼するコーナーがあり,少し興味深いことが語られていた。要するに半藤氏は,以前は「保守半藤(反動)」(笑)などと言われて左派からの批判もあったのだが,今は逆にもっぱら右派から批判されているとのことである。これは半藤氏自身が変わったのではなく,時代が変化したことの反映なのだろうとのことであった。ナルホド。