7月は記事にあげた『許されざる者』、『陪審員2番』、『コラテラル』、そして昨日レビューを書いた『悪い夏』以外に以下の3本の映画を観ました。

 

1.     朽ちないサクラ(2024年 日本)

監督:原廣利

キャスト

杉咲花(森口泉)

萩原利久(磯川俊一)

森田想(津村千佳)

豊原功補(梶山浩介)

安田顕(富樫俊幸)

 

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「孤狼の血」シリーズの柚月裕子による警察ミステリー小説を杉咲花の主演で映画化。杉咲演じる県警の広報職員が、親友の変死事件の謎を独自に調査する中で、事件の真相と公安警察の存在に迫っていくサスペンスミステリー。

 

たび重なるストーカー被害を受けていた愛知県平井市在住の女子大生が、神社の長男に殺害された。女子大生からの被害届の受理を先延ばしにした警察が、その間に慰安旅行に行っていたことが地元新聞のスクープ記事で明らかになる。県警広報広聴課の森口泉は、親友の新聞記者・津村千佳が記事にしたと疑うが、身の潔白を証明しようとした千佳は一週間後に変死体で発見される。後悔の念に突き動かされた泉は、捜査する立場にないにもかかわらず、千佳を殺した犯人を自らの手で捕まえることを誓うが…。

 

泉役を杉咲が演じるほか、安田顕、萩原利久、豊原功補らが顔をそろえる。監督は「帰ってきた あぶない刑事」の監督に抜てきされた原廣利。(「映画.com」より)

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 『市子』を観ていい女優だなと思った杉咲花主演、柚月裕子原作ということで鑑賞。ラストのどんでん返しは結構インパクトがあるし、伏線も回収されているし、ミステリー作品としてはよくできた映画だとは思うが、なんとなくすっきりしない気分が残った。そして「なぜだろう?」と考えてみて…、その原因はタイトルにあることがわかった。「サクラ」って…、なるほどそうか。もちろん、杉咲花はやっぱりよかったが。

 

 

2.     ユリゴコロ(2017年 日本)

監督:熊澤尚人

キャスト

吉高由里子(美紗子)

松坂桃李(亮介)

松山ケンイチ(洋介)

清野菜名(千絵)

木村多江(細谷)

 

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沼田まほかるの同名ミステリー小説を、「僕等がいた」の吉高由里子主演で実写映画化。「君に届け」「近キョリ恋愛」の熊澤尚人監督がメガホンをとり、「人間の死」を心の拠り所にして生きる悲しき殺人者の宿命と葛藤を、過去と現在を交錯させながら描く。亮介は余命わずかな父の書斎で1冊のノートを見つける。「ユリゴコロ」と書かれたそのノートには、ある殺人者の記憶が綴られていた。その内容が事実か創作か、そして自分の家族とどんな関係があるのか、亮介は様々な疑念を抱きながらも強烈にそのノートに惹きつけられていく。謎に包まれた殺人者・美紗子役を吉高、彼女と運命的な出会いをする洋介役を松山ケンイチ、ノートを発見しその秘密に迫る亮介役を松坂桃李がそれぞれ演じる。(「映画.com」より)

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 新婚の亮介の妻・千絵が忽然と姿を消す。ある日、亮介は父親の書斎に「ユリゴコロ」と題されたノートを見つける。そのノートには「私のように平気で人を殺す人間は脳の仕組みがどこか普通と違うのでしょうか」という一文で始まる殺人の記録が綴られている。それは父親の創作ノートなのか、それとも誰か他人が書いた事実なのか…。サスペンスとしてはつかみはOKだ。その後時代を隔てた2つの物語が交互に展開されていく。この2つの物語がどのように交わるのかがこの映画の焦点なのだが、構成その他にアラが目についた作品で、全体としてはイマイチ。ストーリー展開に破綻はないが、前半と後半で映画のテイストが違いすぎてついていけないし、ラストの展開も唐突すぎる。

 

 

3.     ヒルビリー・エレジー 郷愁の哀歌(2020年 アメリカ)

監督:ロン・ハワード

キャスト

エイミー・アダムス(ベヴ)

グレン・クローズ(マモーウ)

ガブリエル・バッソ(J・D・バンス)

 

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「ビューティフル・マインド」「ラッシュ プライドと友情」の名匠ロン・ハワードが手がけたNetflixオリジナル映画。「アメリカン・ハッスル」のエイミー・アダムスと「天才作家の妻 40年目の真実」のグレン・クローズをキャストに迎えたヒューマンドラマ。J・D・バンスの回顧録「ヒルビリー・エレジー アメリカの繁栄から取り残された白人たち」を原作に、3世代にわたる家族の愛と再生の物語を描く。名門イェール大学に通うバンスは理想の職に就こうとしていたが、家族の問題により、苦い思い出のある故郷へ戻ることに。そこで彼を待ち受けていたのは、薬物依存症に苦しむ母ベブだった。バンスは育ての親である祖母マモーウとの思い出に支えられながら、夢を実現するためには自身のルーツを受け入れなくてはならないと気づく。共演は「キングス・オブ・サマー」のガブリエル・バッソ、「マグニフィセント・セブン」のヘイリー・ベネット、「スラムドッグ$ミリオネア」のフリーダ・ピント。(「映画.com」より)

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2016年に出版され、アメリカでベストセラーになったJ.D.ヴァンスの自叙伝『ヒルビリー・エレジー アメリカの繁栄から取り残された白人たち』の映画化作品。J.D.ヴァンスとはウクライナのゼレンスキーとホワイトハウスで舌戦を繰り広げて日本でも有名になった第2次トランプ政権の副大統領である。映画はアイビーリーグの名門イェール大学のロースクールの卒業を間近に控えているヴァンスが名門法律事務所への就職試験の面接が一週間後に迫っている時に入った故郷の母親が薬物依存症で入院したという連絡を軸に、ヴァンスの幼い頃からの生い立ちを挟みながら進行する。貧しい白人労働者が多く住むラストベルトと呼ばれるオハイオ州のミドルタウンがヴァンスの故郷である。暴力的で薬物依存症の母親に育てられ、同じような環境で育った悪友たちと悪い遊びをしていたヴァンスがどのようにしてイェール大学のロースクールに進んだのかを映画は描く。そして、そこには祖母の叱咤激励があったと…。私は上に挙げたヴァンスの著書『ヒルビリー・エレジー アメリカの繁栄から取り残された白人たち』も読んだが、映画はその本の重要な部分をスキップしており、その点でかなり不満が残った。それはトランプを批判していたヴァンスがなぜトランプ支持に転向したのかが推測される部分であり、さらに言えば、それは現在のアメリカの政治状況を把握する手がかりにもなるのではないかと思われるからである。とはいえ、俳優陣に関して言えば、ヴァンスの母親を演じたエイミー・アダムスの毒親ぶりや、祖母を演じたグレン・クローズの迫力は高く評価したい。グレン・クローズが第93回アカデミー賞助演女優賞にノミネートされたのも納得である。

 

監督:城定秀夫

キャスト

北村匠海(佐々木)

河合優実(林野愛美)

伊藤万理華(宮田有子)

毎熊克哉(高野洋司)

箭内夢菜(梨華)

竹原ピストル(山田吉男)

木南晴夏(古川佳澄)

窪田正孝(金本龍也)

 

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第37回横溝正史ミステリ大賞優秀賞を受賞した染井為人の同名小説を北村匠海主演で映画化し、真面目に生きてきた気弱な公務員が破滅へと転落していく姿を描いたサスペンス。

 

市役所の生活福祉課に勤める佐々木守は、同僚の宮田から「職場の先輩・高野が生活保護受給者の女性に肉体関係を強要しているらしい」との相談を受ける。面倒に思いながらも断りきれず真相究明を手伝うことになった佐々木は、その当事者である育児放棄寸前のシングルマザー・愛美のもとを訪ねる。高野との関係を否定する愛美だったが、実は彼女は裏社会の住人・金本とその愛人の莉華、手下の山田とともに、ある犯罪計画に手を染めようとしていた。そうとは知らず、愛美にひかれてしまう佐々木。生活に困窮し万引きを繰り返す佳澄らも巻き込み、佐々木にとって悪夢のようなひと夏が始まる。

 

シングルマザーの愛美を河合優実、犯罪計画の首謀者・金本を窪田正孝、佐々木の同僚・宮田を伊藤万理華が演じる。「ビリーバーズ」「アルプススタンドのはしの方」などの城定秀夫監督がメガホンをとり、「ある男」の向井康介が脚本を担当。(「映画.com」より)

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(ネタバレを含んでいますので、未鑑賞の方は閲覧ご注意を。)

 城定秀夫監督作も主演の北村匠海出演作も観たことがなかったのだが、観るきっかけとなったのは河合優実が出演しているからだ。「映画.com」の紹介ではサスペンスとのことで、たしかにまじめな公務員が追い詰められていくシーンにはサスペンスとしての面白さがあるのだが、それ以上に本作は生活保護受給をめぐる問題点を映像化したところに意味があるように思われる。

 

 市役所生活福祉課の高野が立場を利用して生活保護受給者である愛美に肉体関係を強要しているところが物語の発端である。そこに半グレの金本が絡んで、高野と愛美の関係を盗撮して高野を脅迫し、ホームレスを集めて貧困ビジネスを企む。一方、高野と同僚の佐々木は高野の悪事に気づき市役所を辞めるよう迫る。高野は自分の悪事を報告しないことを条件に市役所を退職。金本の計画は頓挫する。佐々木は誠実に仕事に向き合っている人物なのだが、高野の仕事を引き継いでケースワーカーとして愛美の自宅を訪問しているうちに彼女に惹かれていく。愛美も佐々木の誠実な態度に触れているうちに彼に惹かれていくが、そこには危うい罠が待ち受けているのである。誠実で優しい人間が知らず知らずのうちに徐々に罠に嵌まっていく過程…。観客の中に生まれる静かな緊張感。サスペンスとしてこの作品は成功していると言えるだろう。

一方、シングルマザーの古川佳澄は生活に困窮してスーパーで万引きを繰り返しているのだが、とうとうその現場を見つけられ、そのために仕事も辞めざるを得なくなる。彼女は知人のすすめで生活福祉課を訪れるが、佐々木にいろいろと難癖をつけられて生活保護申請を却下される。そして、その日に自殺をする。

 

 厚生労働省の発表によると、令和7年度の生活保護の被保護世帯数は約165万世帯、被保護者数は約200万人になる。生活保護に関しては不正受給が時々新聞やテレビのニュースになることもあれば、逆に本当にそれを必要としている人たちが全員受給できているのかといったことも話題として取り上げられることもある。そういったことが全体のうちのどれほどの割合を占めているのかということはわからないが、この映画はその問題に焦点を当てて格差社会の闇をあぶり出す。

 登場人物がそれぞれ生活保護の闇の部分を代表しているのだ。金本は貧困ビジネスを企む裏の人物であり、その手下の山田は佐々木の誠実さにつけ込んで不正受給を続けている。高野は立場を利用して受給者の弱みにつけ込む最低の人物だが、つけ込む相手が悪かった。古川佳澄は電気を止められるほど困窮しているのだが、公的機関に頼るべき知識を持たず、ただ万引きを繰り返しているだけだ。そして、やっと生活福祉課を訪れた佳澄に対し理不尽な理屈をつけて申請を却下する佐々木も制度の公正な運用を阻む人物なのだ(佐々木がなぜこのような態度を取ったかについてはネタバレに絡むので伏せておく)。愛美はどうか。娘に対する愛情は持っているが、金本やその愛人の梨華との関係を断ち切れず、ただ日々の生活に流されている女性である。唯一正論を吐くのは佐々木の同僚の宮田有子だが、その彼女も実は…。

 このように共感できる人物が誰一人として登場しない映画なのだが、それがまさに格差社会の底辺の闇を見事にあぶり出すことになっているのである。ただ、これらの人物が一堂に会して繰り広げられる終盤の展開はたしかに面白いけれど、もう少し別の工夫があってもよかったのではないだろうか。また、エンディングのシーンはなかなかよかったが、もう少し想像力をかき立てる描き方があればという印象を持ったことも事実である。

 役者について一言。河合優実は相変わらず安定感のある演技だが、特に今回のようなアンニュイを感じさせる役どころは本当に嵌まる女優である。特筆したいのは半グレの役を演じた窪田正孝で、頭のいいワルという雰囲気がよく伝わってきた。

 

監督:マイケル・マン

キャスト

 トム・クルーズ(ヴィンセント)

 ジェイミー・フォックス(マックス)

 ジェイダ・ピンケット=スミス(アニー)

 マーク・ラファロ(レイ・ファニング)

 

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トム・クルーズが冷酷な殺し屋役に挑んだクライムサスペンス。「Ray レイ」のジェイミー・フォックスが共演し、殺し屋を乗せてしまったタクシー運転手が過ごす悪夢のような一夜を描く。ロサンゼルスの平凡なタクシー運転手マックスは、ある晩、検事の女性アニーを客として乗せ、車内での会話を通して互いに好感を抱く。次に拾ったビジネスマン風の客ヴィンセントは、仕事のため一晩で5カ所を回らなければならないと話し、マックスを専属ドライバーとして雇いたいと依頼。高額の報酬にひかれて引き受けるマックスだったが、実はヴィンセントの正体はプロの殺し屋で、麻薬組織から5人を殺害する任務を請け負っていた。ジェイソン・ステイサムがカメオ出演。監督は「インサイダー」のマイケル・マン。(「映画.com」より)

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 原題のCollateralは「付随的事実」という意味。本ブログでも取り上げた映画『アイ・イン・ザ・スカイ』では登場人物たちが「軍事行動に伴って巻き添えを食う民間人死傷者」のことをcollateral damage「付随的損害」と言っていたが、この映画では「巻き添えを食った」というぐらいの意味である。

 

 物語の大筋は「映画.com」の紹介の通りであるが、次々と目まぐるしく展開されるストーリーは実に興味深く、さらにヴィンセントとマックスの台詞回しがしゃれていて、かなり洗練されたエンタメ作品に仕上がっている。その上、登場人物のキャラクター設定が実によく練られており、今回はその点を中心にこの映画の感想を書いてみることにする。

 トム・クルーズ演じる殺し屋のヴィンセントは一切の妥協や迷いを排して目的に向かって一直線に進む人物である。ストーリー展開の中で無理だろうという状況に陥ることも何度かあるが、彼は決して諦めない。殺人という目的の倫理性を横に置くと、世の中で成功者と言われる人たちに共通した資質の持ち主である。一方、ジェイミー・フォックス演じるタクシー運転手のマックスは、まじめで人間味に富むいい奴なのだが、自分の夢は語るものの何もできない人物である。彼はタクシーの乗客に語る。「この仕事はつなぎの仕事さ。リムジンサービスの会社を経営するのさ。ベンツを買いそろえて、いい顧客を何人か抱える。」しかし、彼は12年間もタクシー運転手の仕事をしているにもかかわらず、自分の夢を叶えるための努力をほとんどしていないのだ。世の中で言ういわゆる「負け組」なのだ。これは、そんな対照的な二人が偶然出会い、殺し屋のヴィンセントに脅されながらマックスが彼の仕事の片棒を担がざるを得ない状況に追い込まれる様子を描いた映画で、まさにcollateralなのだが、以下、私がこの映画の最大の見どころだと思った終盤の展開について触れながら、エンタメ以外の部分について感想を書いてみたい。(ただし、以下の記述はネタバレを含んでいますので、未鑑賞の方は閲覧ご注意を。)

 

 5人を殺害する任務を請け負っているヴィンセントは4人目の殺害に成功するものの自分も負傷を負う。それでも彼は任務を果たすべく5人目の殺害に向かうのだが、ついにマックスはヴィンセントの世界観を罵倒し始める。そして、ヴィンセントもマックスの負け犬根性をなじる。

マックス「あんたには人の気持ちなんてわかりっこないんだ。あんたは見下げた人間    だ。どんな育ち方をしてそんなにハートのない人間に?人間なら誰にも備わっている根本的な何かがあんたには欠けている。」

ヴィンセント「リムジン会社の夢?いくら貯めた?おまえは本気でやろうとしていない。ある夜目を覚まして気づく。夢はかなうことなく自分が老いたことを。夢を記憶の彼方に押しやり、昼間からボーっとテレビを見続ける。俺に説教するな」」

 マックスはヴィンセントが制止するのも聞かず猛スピードで車を走らせ、転倒する。転倒した車からなんとか脱出したヴィンセントは最後の任務に向かって駆け出し、マックスはヴィンセントが落としていった殺害リストを見て5人目の標的になっている人物の名前を知る。それはマックスがその夜初めて乗せた客で、お互いに好感を抱いた女性検事のアニーであった。マックスの中に彼女の殺害をなんとしてでも阻止しなければという感情が芽生える。それはひょっとするとマックスの人生で初めて芽生えた本気で何かをやり遂げなければという感情だったのかもしれない。そして、物語は終盤のアクションへとなだれ込んでいく。

 

 我が国でも平成のある時期から、仕事で成功するかどうかを基準にして人生の「勝ち組」とか「負け組」といったことが言われるようになったが、私はこの言葉を聞くたびにいやな気持ちになったものだ。「ヘッ、仕事で何かをやり遂げるってことかよ」ということである。マックスは自分の身を危険に晒してもヴィンセントによるアニーの殺害を阻止すべく奮闘する。マックスにとってアニーはわずか十数分客としてタクシーに乗せただけの女性に過ぎない。それでも、人は全力を尽くすことがあるのだ、とマイケル・マンは言っているのだ。エンディングはヴィンセントの人生を象徴しているようであった。

 

監督:クリント・イーストウッド

キャスト

ニコラス・ホルト(ジャスティン・ケンプ)

トニ・コレット(フェイス・キルブルー)

J・K・シモンズ(ハロルド・チコウスキー)

ガブリエル・バッソ(ジェームズ・マイケル・サイス)

ゾーイ・ドゥイッチ(アリソン・クルーソン)

 

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「許されざる者」「ミリオンダラー・ベイビー」のクリント・イーストウッドが、94歳を迎えた2024年に発表した監督作。ある殺人事件に関する裁判で陪審員をすることになった主人公が、思いがけないかたちで事件とのかかわりが明らかになり、煩悶する姿を描いた法廷ミステリー。

 

ジャスティン・ケンプは雨の夜に車を運転中、何かをひいてしまうが、車から出て確認しても周囲には何もなかった。その後、ジャスティンは、恋人を殺害した容疑で殺人罪に問われた男の裁判で陪審員を務めることになる。しかし、やがて思いがけないかたちで彼自身が事件の当事者となり、被告を有罪にするか釈放するか、深刻なジレンマに陥ることになる。

 

「マッドマックス 怒りのデス・ロード」のニコラス・ホルトが主人公ジャスティンを演じるほか、「ヘレディタリー 継承」のトニ・コレット、「セッション」のJ・K・シモンズ、「24 TWENTY FOUR」のキーファー・サザーランドらが共演。陪審員のひとりとして、リアリティ番組「テラスハウス」などに出演した日本人俳優の福山智可子も出演している。(「映画.com」より)

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(ネタバレを含むレビューです。未鑑賞の方は閲覧にご注意を。)

 法廷劇である。法廷劇は映画の一つのジャンルと言ってもいいほどよく目にするが、最近私が観た『落下の解剖学』も見応えのある法廷劇であった。しかし、一般に法廷劇と言って思い出すのはシドニー・ルメット監督の『十二人の怒れる男』ではないだろうか。あの作品を通じてシドニー・ルメットが発したメッセージは予断でもって物事を判断することの危うさ、真実を追究する姿勢といったことだろう。今回取り上げた『陪審員2番』でもそれは一つのテーマではある。ただ、イーストウッド監督が最も伝えたかったメッセージはそこにはない。そして私はこのメッセージに前回取り上げた『許されざる者』と共通するものを感じたのである。

 

 ストーリーは比較的単純だ。強い雨が降るある夜、ある酒場で一組の恋人同士がけんかをして男が引き留めるにもかかわらず女の方は怒って帰ってしまうのだが、その女は交通の少ない道路の橋から落下した死体となって発見されるのである。やがて恋人の男(サイス)が殺人犯として逮捕され、裁判が開かれる。たまたまその裁判の12人の陪審員の一人に選ばれたのがジャスティン・ケンプである。物語の詳細は省略するが、ケンプは事件の概要を聞いているうちに被害者の女は自分が運転する車にぶつかって橋から落ちたのではないかと疑い始めるのである。実はケンプはその事件のあった夜、恋人同士がけんかをした酒場に一人で客として来ており、女が落下した橋で何かが自分の運転する車にぶつかった衝撃があり、車外に出て確認をしたが何も見えず、鹿がぶつかってどこかに走り去ったのだろうと思っていたのである。しかし、その疑念はやがて確信に変わっていく。

 陪審員による評決のための会議が始まる。11人の陪審員がサイスを有罪だと発言するのに対し、ジャスティンだけがもっと議論を尽くす必要があると言って反対する。このあたり、『十二人の怒れる男』を彷彿させるが、反対する動機が全く異なる。『十二人の怒れる男』の陪審員8番が反対した理由は予断でもって決定を下すことを排するためであった。それに対し、ジャスティンが反対した動機はある種の罪悪感からなのである。しかし、彼には真実を告白する勇気はない。つまり、この映画におけるイーストウッドのメッセージは『十二人の怒れる男』のそれとは異なるのだ。彼が問うているのは、人は自分の内なる倫理的基準に従って行動することができるかどうかなのだ。ジャスティンは決して悪人ではない。それどころか良心の人だろう。しかし、彼には身重の妻がおり、また断酒会に通っている身なのだ。その彼が酒を飲んで車を運転してひき逃げ事件を起こしたとなれば終身刑はほぼ確実である。(このことについては、彼はよく知っている弁護士に相談しており、その弁護士から終身刑になるだろうから真実を告白してはならないと言い渡されているのである。また、彼はその夜酒場に立ち寄ったのだが、実は酒を飲まなかったのだ。しかし、誰がそれを信じるだろうか。)イーストウッドのこの問いは観客にとってもたいへん重いが、実は前回このブログで取り上げた『許されざる者』において投げかけられた問いと同じ問いなのである。私のような「ヘタレ」にはとても重く感じられる問いだ。

 物語の進行とともにジャスティンがこの事件の真犯人なのだということを確信するようになる人物が存在する。地方検事補のキルブルーだ。彼女は今回の裁判に勝訴すれば現在行われている検事長選挙で有利になるだろうと考えている。どうしてもサイスを有罪にしなければならない。そして、裁判では12人の陪審員全員がサイス有罪の評決を下し(したがってジャスティンも有罪に賛成する)、その結果、サイスの終身刑が確定する。キルブルーにはとてもすべてを投げ打って真実を告白する勇気はない。そして彼女は検事長に就任する。裁判が確定した直後、ジャスティンとキルブルーが裁判所の前の庭で「正義」について話すシーンがある。二人とも疲れ切った表情だ。

ジャスティン「彼(=実は自分)は家族を守り、あなたは州民を守る」

キルブルー「正義はどうなるの?」

ジャスティン「真実が正義とは限らない」

 

 人は誰でも自分の中に行動の基準を持っている。その基準には倫理的な基準も含まれるが、その基準に従って行動した場合、自分の持っているほとんどすべてを失いかねないとき、私たちはどこまでその基準に忠実でいることができるか。そのことをこの映画は問いかけている。つまり、私たちはどこまで偽善者なのかということだ。ウ~ン、しんどいな~。

 

 エンディングは映画として秀逸だ。ジャスティンと妻のアリソンは子供を授かり、3人の幸せな生活が映し出される。玄関のチャイムが鳴りジャスティンが扉を開ける。そこにたっているのは…、キルブルーなのだ。そしてThe End. 彼女はなぜジャスティンの家を訪ねてきたのだろうか?観客の皆さん、考えてみてくださいね、とイーストウッドは言っているのだろう。そして、予定調和はないよ、ということも。

 

 

監督:クリント・イーストウッド

キャスト

クリント・イーストウッド(ウィリアム・マニー)

ジーン・ハックマン(リトル・ビル・ダゲット)

モーガン・フリーマン(ネッド・ローガン)

リチャード・ハリス(イングリッシュ・ボブ)

ジェームズ・ウールベット(スコフィールド・キッド)

 

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クリント・イーストウッドが、師匠であるセルジオ・レオーネ監督とドン・シーゲル監督に捧げた異色西部劇。1870年代の米ワイオミング。かつては無法者として悪名を轟かせたウィリアム・マニーだったが、今は若い妻に先立たれ、2人の幼い子どもとともに貧しい農夫として静かに暮らしていた。そこに若いガンマン、キッドが立ち寄り、賞金稼ぎの話を持ちかける。共演にジーン・ハックマン、モーガン・フリーマン、リチャード・ハリス。92年度のアカデミー賞では作品、監督を含む4部門を受賞した。(「映画.com」より)

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 私の知る限り、「許されざる者」という邦題のアメリカ映画は2つある。一つは今回取り上げるクリント・イーストウッド監督の作品であり、もう一つは1960年に制作されたジョン・ヒューストン監督(バート・ランカスター / オードリー・ヘップバーン主演)の作品である。原題なのだが、前者はUnforgivenであるのに対し、後者はThe Unforgivenである。The Unforgivenはたしかに「許されざる者」という意味になるが、Unforgivenだけなら「許されない」という形容詞なので「許されざる者」という邦題にはやや違和感がある。なぜこのような細かい(したがって、どちらでもよい)ことにこだわるかというと、クリント・イーストウッド監督作のタイトルには「許されないことだけれど…」ということが示唆されているのではないかと思ったからである。もっとも、単にジョン・ヒューストン監督作と全く同じタイトルにしたくなかっただけのことなのかもしれないが…。

 

 「映画.com」のレビュー欄をパラパラと読んだところ、この映画の解釈として「許されざる者」とは誰なのかということを問題にしているレビューが目についたのだが、「誰(or何)が許さないのか?」を問題にしているレビューを目にすることはなかった。しかし、私にはこの問いこそがこの映画のテーマに関わるのではないかと思われるのである。それは神なのか、法なのか、それとも登場人物の誰かなのか…。私にはそれは法だと思われるのだ。

 この映画の時代背景が19世紀の後半であるということは重要だ。つまり、国家による法的規制がまだ十分に行き届かない地域も少なからず存在した時代である。さらに、リトル・ビル・ダゲットのように保安官自身が無法な行為を行うこともあった時代であって、賞金稼ぎのために殺人を犯すなどということは法的観点からは決して許されることではないにもかかわらず、普通に行われていたのである。

 以上のようなことを背景にこの映画を見たとき、クリント・イーストウッドが問いかけているのは私たちの行為を律する基準は何なのかということのように思われるのだ。たしかに、法は私たちが自身の行為を律する際の外的基準として存在する。しかし、クリント・イーストウッド監督は、私たちの中には法を超えたところで自分の行為を律する内的な基準が存在するのではないかということを問いかけてくるのである。若いころ無法者であったものの今では二人の子供を育てながら地道な生活を送っているマニーがなぜ賞金稼ぎの話に乗ったのか? 貧困にあえぐ中、生活費を稼ぐための豚が伝染病にかかり、幼い二人の子供を育てるため。マニーはなぜネッドの仇を討つために保安官のところに戻ったのか? 親友だから。いずれも法を超える(に反する)決断である。しかし、マニーの中には、彼にそのような行動を取らせた内的な基準があり、それは愛する者への忠誠心なのだ。クリント・イーストウッドはたとえUnforgivenであったとしても、マニーのその内的基準を肯定しているように私には見えたのだ。君はすべてをかけて愛する者を守ることができるか、君は愛する者のために戦うことができるか…と。

 

 この映画の冒頭とエンディングのナレーションは示唆的である。

(冒頭)

若く美しい娘クローディアは母の意に背きウィリアム・マニーと結婚した。

マニーは人殺しで酒浸りの残忍な札付きの悪党であった。

だが母の心配とは逆に美しい娘は天然痘で病没した。

1878年のことだった。

 

(エンディング)

数年後、長旅の末クローディアの母が一人娘の永眠の地を訪れたが、父と子供たちの姿はなく…。

西海岸で商売に成功したとのうわさを聞いた。

母にはどうして一人娘が酒浸りで残忍な札付きの悪党と結婚したかついに分からなかった。

 

 クローディアもクローディアの母も映画には登場しないが、この二つのナレーションを通じて観客にはマニーの内なる基準とそれを理解していたクローディアと、それと対照的に世の中という外的な基準しか持っていなかったクローディアの母とが示唆されているのである。