監督:ケリー・ライカート

キャスト

ダニエル・ロンドン(マーク)

ウィル・オールダム(カート)

 

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長編デビュー作「リバー・オブ・グラス」で高く評価されたケリー・ライカート監督が、ジョナサン・レイモンドの短編小説を基に撮りあげた長編第2作。妊娠中の妻と故郷で暮らすマークのもとに、街に戻って来た旧友カートから電話が掛かってくる。久々に再会した2人は、旧交を温めるべく山奥へキャンプ旅行に出かけるが…。「パッチ・アダムス トゥルー・ストーリー」のダニエル・ロンドンがマーク、シンガーソングライターのボニー・プリンス・ビリーことウィル・オールダムがカートを演じた。(「映画.com」より)

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 この映画のストーリーを語れと言われても、取り立てて語るようなストーリーはないのである。あえて言えば、故郷の町で暮らすマークのもとに、久しぶりに地元に戻ってきたカートから電話があり、マークの車に乗って二人で山奥の温泉に行って戻ってくるというだけの話だ。これだけの話になぜ魔法にかかったように引き込まれるのだろうか。

 

 若かった頃、マークとカートはお互いに何の束縛もなく自由気ままによく一緒に連れだって遊んだ仲なのだろう。久しぶりに会った二人なのでいろいろと話が弾むはずだが、車中でもそれほど会話が弾んでいるようには見えないのだ。沈黙が続くなか車の中から見える風景だけが流れていく。しかし、そこにこそケリー・ライカート監督の狙いがある。

 若い頃は同じ時間、同じ価値観を持っていたはずの二人なのだが、今の二人の境遇はとてもかけ離れたものになっている。マークは妻がいて出産を控えている身であり、地域のコミュニティとも溶け込んでいる。カートは自由気ままにあちらこちらを渡り歩くヒッピーのような生活をしてきたのであろう。いわば、一方は自分を取り巻く環境にがんじがらめになっており、他方はある意味社会からドロップアウトしているのである。もはや共有できる価値観はどこにもないのだ。しかし、けんかをするわけではない。なんとなく落ち着かないのだ。その関係をケリー・ライカート監督は言葉ではなく二人の表情やしぐさで語りかけてくる。

 

 束縛と自由。私たちはいつまでも若い頃のような自由気ままな気分で生きることはできない。いつの間にかゆっくりと「社会的責任」という名のしがらみによって絡め取られていかざるをえないのだ。マークはどこかそのことの息苦しさを感じているようにも見えるが、カートのように生きることはできないという自覚があるのだろう。しかし、カートは本当に自由なのだろうか。彼はどこか寂しそうなのである。

 日帰りのつもりが少し道に迷ってしまいテントを張って夜を過ごすことになる。たき火の前でカートは言う。「マーク、寂しいよ。キミがとても恋しい。キミと友達でいたいのに何か壁がある。それがとてもいやなんだ。」 マークは「そんなことはないよ」と言うが、カートにはわかっている。もはやマークとの間に昔のような友情は成立しないことを…。

 

 印象に残っているシーンがある。

なんとか目的地の温泉にたどり着いて二人で温泉に浸かりながら、カートが自分の見た夢について語るシーンだ。

「悲しみは使い古した喜びなのよ。」(Sorrow is nothing but worn out joy.)

 カートの夢の中に出てきた女性が言った言葉だ。まさに「オールド・ジョイ(Old Joy)」である。

 そのあと、カートはゆっくりとマークの肩をマッサージする。マークは一瞬驚いた表情を見せるが、目を閉じて身を任せる。そして、カメラは結婚指輪がはめられているマークの左手を写すが、その手はゆっくりと湯の仲に沈んでいく。マークを束縛しているしがらみが消えた瞬間であり、カートとの友情が蘇った瞬間である。しかし、それはその一瞬のことでしかない。ラスト、旅を終えた彼らはカートの住まいまで戻ってきてあっさりとした別れをする。おそらく彼らはもう会うことはないであろう。

 

 大人になるということ。それは人生の新たなステージに入っていくことであり、その過程で私たちはいろいろなものを捨てなければならない。寂しいことではあるが仕方のないことであり、その寂しさ、やりきれなさを出来るだけセリフを省いて映像で表現してみせたところにケリー・ライカート監督の真骨頂を感じる作品である。

 

(追記)

 映画の中でマークの飼っている犬のルーシーも一緒に連れていくのだが、たいへん利口そうな犬でとてもよかった。

監督:大友啓史

キャスト

 妻夫木聡(グスク)

 広瀬すず(ヤマコ)

 窪田正孝(レイ)

 永山瑛太(オン)

 瀧内公美(チバナ)

 栄莉弥(ウタ)

 

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戦後の沖縄を舞台に時代に抗う若者たちの姿を描き、第160回直木賞を受賞した真藤順丈の小説「宝島」を映画化。妻夫木聡が主演を務め、広瀬すず、窪田正孝、永山瑛太ら豪華キャストが共演。「るろうに剣心」シリーズの大友啓史監督がメガホンをとった。

 

1952年、米軍統治下の沖縄。米軍基地を襲撃して物資を奪い、困窮する住民らに分け与える「戦果アギヤー」と呼ばれる若者たちがいた。そんな戦果アギヤーとして、いつか「でっかい戦果」をあげることを夢見るグスク、ヤマコ、レイの幼なじみの若者3人と、彼らにとって英雄的存在であるリーダー格のオン。しかしある夜の襲撃で“予定外の戦果”を手に入れたオンは、そのまま消息を絶ってしまう。残された3人はオンの影を追いながら生き、やがてグスクは刑事に、ヤマコは教師に、そしてレイはヤクザになり、それぞれの道を歩んでいくが、アメリカに支配され、本土からも見捨てられた環境で、思い通りにならない現実にやり場のない怒りを募らせていく。そして、オンが基地から持ち出した“何か”を追い、米軍も動き出す。

 

親友であるオンの痕跡を追う主人公グスクを妻夫木聡が演じ、恋人だったオンの帰りを信じて待ち続けるヤマコ役を広瀬すず、オンの弟であり消えた兄の影を追い求めてヤクザになるレイ役を窪田正孝が担当。そんな彼らの英雄的存在であるオン役を永山瑛太が務めた。(「映画.com」より)

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 前回の記事で感想を書いた『ブラックバッグ』と同様、アマゾン・プライムで視聴するのに追加料金が必要だった本作が4月末に無料視聴できるようになったので早速鑑賞した。

 今回は以前『ノマドランド』の感想で試みたことのある飛行機雲(「飛」と表記)と架空の対談相手(Aと表記)の対話形式で書いてみた。

 

A) 昨年劇場公開されて空前の大ヒットになった『国宝』なんだけど、観た?

飛)いや、観てないんだけど、機会があれば観たいとは思っている。でも、制作費に25億円をかけた大作『宝島』は最近配信で観たよ。

A) 『宝島』ね。ボクも観たよ。

飛)感想は?

A)メッセージはそれなりに分かるんだけど、理解し難いところもあって、イマイチだったな。キミは?

飛)文句なしの名作だね。

A)そうなんだ。その辺り聞かせてくれる?

飛)ウン。この映画、1952年から1970年のコザ騒動に至るまでの沖縄を描いた作品なんだけど、どうして1952年から始まっているか、分かる?

A)ウ~ン、そこは考えたことがなかったな。どうして?

飛)その前年に日本が連合国諸国とサンフランシスコ講和条約を締結したことは知ってるよね。

A)ウン。

飛)その結果何が起こった?

A)日本が主権を回復して独立した。

飛)そうだよね。でも、沖縄は日本から切り離されてアメリカの施政権下に置かれ日本国憲法の適用範囲外になったんだよね。

A)そうだね

飛)その条約が発効したのが1952年なんだ。そこで映画に戻ると、その1952年に何が起こったとされている?

A)オンの失踪。

飛)そうだよね。そこでこの映画についてのボクの解釈になるんだけど、オンは実は沖縄の人たちにとっての「希望」の象徴として描かれていると思うんだ。そのオンが突如として消えた。つまり沖縄にとっての希望の光の消滅だ。この映画が1952年から始まっていることの意味はそこにあるようにボクには思える。

A)なるほど。

飛)だからグスク、ヤマコ、レイは全く何の手がかりもないオンを探し続けるのさ。あれは単に行方不明になった人間を探しているのではない。自分たち沖縄の人間の希望の光を探しているんだ。

A)ネットを見ていると「全く手がかりもないのに何十年も探し続けることなどできるのだろうか。リアリティに欠けるのではないか?」という感想を書いている人もいたけど、そういうことではないんだね?

飛)ウン。その辺りの象徴性を読むかどうかでこの映画に対する評価が全く違ってくるように思う。

A)すると、終盤のオンの消息が判明したあとの解釈も違ってくるよね。

飛)そうだね。オンの失踪をサスペンス風に捉えると終盤の展開はグダグダに見えるだろうけど、その評価はボクには当たっていないように思う。

A) そうか。そう考えるとウタの存在を大きく扱っている意味もはっきりするね。

飛)ウン。ウタは希望の光としてのオンを継ぐ存在なのだ。そして、結局オンもウタも…。

A)でも、エンディングでグスクが海岸に座っていてオンの幻を見るよね。そこでオンが「さあ起きれ。そろそろ本当に生きるときがきた」というシーンはよかったよね。

飛)ウン。この映画は1970年のコザ騒動で終わっているが、沖縄はその2年後に日本国に返還される。でも、状況は現在でもあまり変わっていない。オンのあのセリフは沖縄の人たちだけじゃなく現在の我々ヤマトンチュに向けた監督のメッセージかもしれないね。

A)この映画の象徴的な部分は分かったけど、史実に即して描かれている言わば表の部分についてはどうなの?

飛)とてもよかった。沖縄の戦後の歴史については一応知識としては知っているけど、このように映画として描かれることによってそこに暮らしている人たちの苦悩とか怒りとかどうしようもない気持ちが現実感をもって伝わってくるよね。

A)印象に残っているシーンはある?

飛)いろいろあるけど、ヤマコたちが沖縄の本土復帰運動をしている現場にヤクザになったレイがやってきて次のように言うんだ。「デモで声あげるのが民主主義の基本だって?この島にそんなもんねぇよ。本物の民主主義はヤマトゥの奴らが独り占めしてこっちには回ってきてない」

A)あのシーンね、ボクも覚えているよ。窪田正孝の演技、よかったよね。

飛)ウン、窪田正孝だけじゃなくて、妻夫木聡や広瀬すずもこの映画にかける本気度が伝わってきたよ。俳優陣の熱演には感謝したいね。あと、ファンだから言っとくけど脇役で基地の町で暮らしていかざるをえない人の複雑な心境を表現していた瀧内公美の演技もね。

 

監督:スティーブン・ソダバーグ

キャスト

 ケイト・ブランシェット(キャスリン・セント・ジーン)

 マイケル・ファスベンダー(ジョージ・ウッドハウス)

 マリサ・アベラ(クラリサ・デュボース)

 トム・バーク(フレディ・スモールズ)

 ナオミ・ハリス(ゾーイ・ヴォーン医師)

 レゲ=ジャン・ペイジ(ジェームズ・ストークス大佐)

 ピアース・ブロスナン(アーサー・スティーグリッツン)

 

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「オーシャンズ」シリーズのスティーブン・ソダーバーグ監督と「ミッション:インポッシブル」の脚本家デビッド・コープがタッグを組み、エリート諜報員と二重スパイが最重要機密をめぐり繰り広げる頭脳戦を描いたミステリーサスペンス。

 

イギリスの国家サイバーセキュリティセンター(NCSC)のエリート諜報員ジョージは、世界を揺るがす不正プログラム「セヴェルス」を盗み出した組織内部の裏切り者を見つける極秘任務に乗り出す。容疑者は諜報員のフレディ、ジミー、情報分析官のクラリサ、局内カウンセラーのゾーイ、そしてジョージの愛妻である凄腕諜報員キャスリンの5人。ある夜、ジョージは裏切り者の動向を探るべく、容疑者全員をディナーに招待する。食事に仕込まれた薬とアルコールの効果で、容疑者たちの意外な関係性が浮かび上がるなか、ジョージは彼らにあるゲームを仕掛ける。

 

諜報員ジョージをマイケル・ファスベンダー、彼の妻で容疑者でもあるキャスリンをケイト・ブランシェット、4人の容疑者を「マッドマックス フュリオサ」のトム・バーク、「Back to Black エイミーのすべて」のマリサ・アベラ、「ダンジョンズ&ドラゴンズ アウトローたちの誇り」のレゲ=ジャン・ペイジ、「007」シリーズのナオミ・ハリスが演じた。(「映画.com」より)

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 アマゾン・プライムで視聴するのに追加料金が必要だった本作だが4月末に無料視聴できるようになったので早速鑑賞した。

 

 タイトルの「ブラックバッグ」とは、“極秘任務”のことで、冒頭、NCSCの諜報員ジョージが不正プログラム「セヴェルス」を盗んだ組織内部の二重スパイを見つけ出す極秘任務を命じられる。容疑者は5人でその中の誰が裏切り者かを見つけ出す任務である。5人の容疑者の性別は男性が2人、女性が3人なのだが、厄介なことに容疑者の中にジョージの妻である凄腕の諜報員キャスリンが含まれているのだ。

 本作はいわゆるスパイもののサスペンスなのだが、スパイものと言っても派手なアクションがあるわけではなく、内容は容疑をかけられた5人の人物との心理戦であって、その心理戦を堪能する作品である。

 誰がウソをついているのか?…。ジョージの任務はこれを見つけ出すことなのだが、彼にとって最も気がかりなことは妻キャスリンが裏切り者であるかどうかだ。物語が進むにつれてこの夫婦を巡る出来事が興味深いものになっていき、徐々に裏切り者の背後にいる黒幕の存在も…。

 

 物語はジョージと裏切り者との駆け引きを中心とした会話劇として展開されるのだが、この駆け引きを楽しむことがこの映画のすべて。人間関係の機微などどこ吹く風。精神を高揚させる薬物入りの飲み物を飲んでいるとはいえ、浮気がバレた恋人の手に食事の席でいきなりナイフを突き刺す女とその後もつきあえる神経が理解不能だが、そんなことを気にしていたらこの映画の展開の速さに置いていかれるだけだ。よく似た作品で組織の二重スパイを探し出す映画『裏切りのサーカス』と比べるとストーリーが単純で分かりやすいのだが、その分人間関係や疑惑の人物の追求などの描き方があっさりしていてその点に物足りなさが残った作品である。ジョージの妻キャスリンに対する疑惑の追求など、かなり面白い部分はあるのだが、もう一捻りあれば…というのが正直なところだ。もっともこの辺りは好みの問題もあるとは思うが…。

 

朱雀門 

 

 今月の初めから所用で関西に滞在。用事は2日ほどで終わったのだが、久しぶりの関西なので10日間ほど滞在した。阪神競馬場に行ったり、京セラドームでオリックスのオープン戦を観たりとぶらぶら一人遊びを楽しんでいたのだが、せっかくの関西なので急に「平城京に行こう!」と思い立ち、宿泊先の最寄り駅である阪神甲子園駅から(表現がちょっとややこしいが)近鉄奈良線に乗って約1時間、大和西大寺駅に到着。大和西大寺駅と言えば、その北口付近の路上で2022年に安倍晋三銃撃事件があったことが思い出される。その現場を通ってひたすら平城京跡を目指して歩き出す。スマホで検索したら徒歩で約20分とのことであったが、北口から出発したからなのか、スマホのナビに問題があるのか、私のナビの見方がよくないのか、原因は不明だが歩けども歩けども目的地には着かず。結局かなり遠回りをしたようで40分ほど歩いてやっと朱雀門の北側にたどり着く。この門は平城宮の正門らしくそこから北が平城宮で中央朝堂院、大極門、第一次大極殿と続くようなのだが、あまりに広すぎて肉眼では何も見えない。見えるのは近鉄奈良線の線路だけでその踏切を越えて行かなければならないようである。ふと下を見ると、「踏切は8:00~17:00の間しか通れない」との注意書きが…。

 とりあえず、朱雀門の南側に回ってみると、門から南に向かって広い通りが伸びている。朱雀大路である。その左手に「平城宮いざない館」という建物があって中に入ってみると平城宮の説明をした写真や当時の平城宮を復元した模型などが置いてあって、なかなか興味深い。壁に飾ってある写真を見ていると館の関係者と思しき男性が近寄ってきて写真の説明などをしてくれた。とても丁寧に説明される方で平城京についていろいろな知識を得ることができたのは大変ありがたかった。その後、「平城宮いざない館」の休憩室でアイスクリームを食べながら少し休憩して、さて平城宮を見に行こうかと思った矢先、なんとなく持病の股関節痛が始まるような徴候が出てきて焦ったものの無理をするのはよくないと言い聞かせて平城宮見学を断念。朱雀大路を南に歩いてバス停まで行き帰路につく。結局、朱雀門を見ただけのなんとも情けないことになってしまったのだが、この辺りには少し足を伸ばすと東大寺や興福寺などもあるので、いずれ駅前のホテルに泊まってゆっくりと散策したいと思った次第である。

 

 一年ほど前から日本史関係の書籍を少し読み始めている。私の場合、現代に直結する部分も多い明治以降の歴史については以前から関係する書物などを読んだりもしているのだが、それまでの歴史については大学受験で日本史の勉強をして以来あまり進歩しておらず、自分の国の歴史についてはある程度知っておく必要があると感じたことがその理由である。その中でも古代史はとても興味深く特に8世紀の前半は大宝律令の完成、平城京造営、記紀の編纂などこの国のその後の在り方が形作られていった時代であり、特に興味を引かれるところがある。

 

「あをによし 奈良の都は 咲く花の 薫るがごとく 今盛りなり」

 「万葉集」に収められたこの歌を見るかぎり、とてものどかな時代が思い浮かぶが、一方では平城京造営が農民に多大の労役負担を課すことになり、課役を逃れるために逃亡する農民も続出したし、「長屋王の変」のように皇位継承を巡る陰謀・策略、天然痘の流行、干ばつによる飢餓、大地震などの天変地異による大禍などもあった時代である。当時の人口は400万~500万であったが、天然痘ではそのうちおよそ100万人の人たちが亡くなったと言われている。もちろん、このようなことはいつの時代にもあるのだが、この時代の人たちがそのような事態にどのように対処したのかといったこと、特に5年にわたり謎の彷徨をした聖武天皇がどのような意識を持っていたのかということにも興味深いものがある。

 

監督:トッド・フィールド

キャスト

 ケイト・ブランシェット(リディア・ター)

 ノエミ・メルラン(フランチェスカ・レンティーニ)

 ニーナ・ホス(シャロン・グッドナウ)

 

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「イン・ザ・ベッドルーム」「リトル・チルドレン」のトッド・フィールド監督が16年ぶりに手がけた長編作品で、ケイト・ブランシェットを主演に、天才的な才能を持った女性指揮者の苦悩を描いたドラマ。

 

ドイツの有名オーケストラで、女性としてはじめて首席指揮者に任命されたリディア・ター。天才的能力とたぐいまれなプロデュース力で、その地位を築いた彼女だったが、いまはマーラーの交響曲第5番の演奏と録音のプレッシャーと、新曲の創作に苦しんでいた。そんなある時、かつて彼女が指導した若手指揮者の訃報が入り、ある疑惑をかけられたターは追い詰められていく。

 

「アビエイター」「ブルージャスミン」でアカデミー賞を2度受賞しているケイト・ブランシェットが主人公リディア・ターを熱演。2022年・第79回ベネチア国際映画祭コンペティション部門に出品され、ブランシェットが「アイム・ノット・ゼア」に続き自身2度目のポルピ杯(最優秀女優賞)を受賞。また、第80回ゴールデングローブ賞でも主演女優賞(ドラマ部門)を受賞し、ブランシェットにとってはゴールデングローブ賞通算4度目の受賞となった第95回アカデミー賞では作品、監督、脚本、主演女優ほか計6部門でノミネート。(「映画.com」より)

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(ネタバレ注意)

 とても見応えのある映画である。私は二度観た。もっとも、ストーリーそのものに斬新さはない。ひと言で言うとある分野で頂点を極めた人物がスキャンダルのためにその地位を追われ転落していくという物語である。まあ、松本人志や中居正広を思い浮かべれば、その点はよく似た話である。「映画.com」の紹介にあるように「ドイツの有名オーケストラで、女性としてはじめて首席指揮者に任命され…天才的能力とたぐいまれなプロデュース力で、その地位を築いた」同性愛者のリディア・ターはその権力を利用して自分の教え子の女性たちに性的関係を強要していたが、そのうちの一人であるクリスタの自殺をきっかけにその事実が暴露され、転落していくという物語である。

 では、この陳腐な話を見応えのある映画作品にしているものは何かと問えば、一貫して追求されている「芸術と人間性」というテーマと、そのテーマを完璧に表現しているケイト・ブランシェットの演技にある。おそらくこの映画はブランシェット抜きでは成立しなかったであろう。

 冒頭のかなり長いエンドロールのあと、ニューヨークでのトークイベントに招待されたターがステージの椅子に腰掛け、司会者がターの輝かしい経歴を紹介するシーンが描かれる。それに引き続き、司会者がターに様々な質問をする。その中で彼女の師であるバーンスタインから与えられたものは何かという問いにターは「精神の集中」という意味のヘブライ語の「ガバナ」と答える。つまり、「作曲家の意図とどう向き合うかを教わったのだ」と。また、ペルーの先住民の音楽について「彼らが歌を受け入れるのは歌を生み出した魂と歌手の魂が同化した時だけだ」とも述べる。指揮者としてのターの芸術に対する考え方が端的に表れた発言である。つまり、芸術を生み出した者とそれを伝える者との間の調和がすべてだと。

 この講演のあと、ターはニューヨークのジュリアード音楽院の指揮科の学生たちに特別講義をする。彼女はマックスという男子学生にバッハの音楽について質問するが、彼は自分が有色人種で全性愛者なのでバッハの男尊女卑的な考え方が理解できないし、彼の音楽も理解できないと返答する。ターは彼の考えを全否定し、そんなことは音楽とは全く関係のないことだと反論してパワハラ的な行為をする。マックスは「あなたは最低だ」と言って教室から出て行く。

 冒頭からこの辺りまででほぼ40分なのだが、ターの芸術観がよく分かる展開になっている。要するに彼女は芸術家は素晴らしい芸術を生み出せばよいのであって、どのような私生活を送ろうともそんなことは芸術とは無関係なのだと考えているのである。もちろん、自分がその地位を利用して性生活の相手を得ることも…。しかし、世の中はそれを許さなかった。クリスタの自殺を契機に彼女とクリスタとのメールのやり取りやジュリアード音楽院でのパワハラ行為の映像などがネット上に曝されていく。そこには彼女の教え子で秘書を兼ねているフランチェスカの密かな告発もあった。ターは時折の錯乱状態を伴いながら徐々に追い詰められていき、とうとうその地位を追われることになる。

 ストーリーの紹介がやや長くなったが、この映画の計算され尽くした構成の見事さに唸らされた。やや意地の悪い言い方をすれば「外連」と言ってもいいほどのものである。まず、トッド・フィールド監督はこの映画は二度観ることによって初めて理解できる作品であると言っているように思えるのだ。映画の冒頭、長いエンドロールが流れる。時に取られる手法ではあるが、この映画を見終わったときに観客はその意図を理解するのである。クラッシック音楽界を追われたターは東南アジアのある国に行き、アマチュア楽団の指揮者となり、指揮棒を振るおうとするところで多くの人たちが船室に座っている映像に切り替わる。そして、「君たちに別れの言葉は必要ないな。この船に乗ったらもう戻れない。次に諸君らが降り立つのは新大陸になるだろう。もし覚悟が失われたら引き返すがよい。誰も君を責めない。」というメッセージが流れて映画は終わる。象徴的なシーンであるが、もちろんこれはターに向けたメッセージである。普通に理解すればターはもうクラッシック音楽の世界には戻れないというメッセージになるだろう。しかし、私にはこのシーンは冒頭のエンドロールにつながっているように思われるのだ。そしてターは「新大陸」に降り立ち、この映画で描かれているように栄光と転落を繰り返すのである。ターは決して自分の芸術観を放棄したわけではない。考えてもみよう。ターは栄光の絶頂にあったとき本を出版する予定であった。タイトルは“Tar on Tar”だ。「ターはどこまでも続く」。しかし、Tarを逆に読んでみたらどうだろう。Rat。「卑劣漢」だ。Rat on Rat。トッド・フィールド監督がターの芸術観を肯定しているのか否定しているのか?おそらく否定しているのだろうが、その点は私にはハッキリとは分からなかった。しかし、二度観ることでその味わい深さがよく伝わってくる映画であることは確かである。