11月に観た映画・寸評3
『敵』(2025年 日本)
監督:吉田大八
キャスト:長塚京三 / 瀧内公美 / 河合優実
77歳になる元大学教授の渡辺儀助。専門はフランス文学。現在は雑誌の定期連載で得られる原稿料や講演料で生活しているが、それなりの蓄えもある。妻に先立たれて一人暮らしだが、料理を初め身の回りのこともすべて自分で出来る。自分の蓄えであと何年生きることができるかを計算して質素だが端正な生活を送っている。そんなある日、毎日使っているパソコンに「敵がやってくる」という差出人不明のメールが届く。
「敵がやってくる」。そのメールが頻繁に届くようになるとともに、儀助はいろいろな妄想にとりつかれるようになる。「敵」の正体はいったい何なのか。おそらくこの映画を観る人の年代によってその解釈は分かれるような気がするのだが…。
「敵は北からやってくる」。なぜ「北」なのか?それは未来なのか過去なのか。77歳の儀助にとって未来とは「死」。端正な生活を送ってはいてもやはり死の恐怖はある。では、「過去」とは何か。もう後戻りできない自分が歩んできた人生。望みながら果たせなかった自らの欲望。教え子の靖子への性的な欲望を押さえこんだことからくる後悔。妄想の中で亡くなった妻にも、当の靖子にもそのことを指摘される。その欲望は現実に出会った仏文専攻の女子大生に向かう。しかし、現実はそれほど甘くはない。雑誌の連載を通じて親しくしている編集者の死。そして連載が打ち切られる。数少ない他者とのつながりの消滅。孤独。やがていろいろな敵が儀助を襲ってくる。結局、敵は自分自身の中に存在するのだろう。
超自我によって無意識の領域へと抑圧された欲望が夢の中で荒唐無稽な形で発現するというフロイトの考えを思い出したのだが、儀助の妄想とはその類いのものなのだろうか。
