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最近、私は立て続けに2人の友達との対話の中で、
自分の身体が強く反応する場面に出会った。
• 心臓がバクバクする
• 喉が乾く
• 交感神経が一気にオンになる
• 相手が沈黙するとさらにドキドキが強まる
• 「気づかせたい」という衝動が湧き上がる
この反応は、ただの緊張ではない。
私の中の“旧OS”が作動するサインだった。
カウンセラーの友達が見せてくれたもの
カウンセラーの友達は、
「子どもの話を丁寧に聴くこと」
で支えようとしている。
その姿勢はとても大切だ。
でも私は、孤立無援の子どもたちを
見てきた経験から、こう感じていた。
「この子たちが求めているのは、
部屋で話を聴いてくれる人ではなく、
アウェイな世界に一緒に飛び出し、
盾となって共に動いてくれる“絶対的な味方”だ。」
つまり、
「共感(聴く)」と「当事者性(共に動く)」は違う。
友達は「聴く」という枠組みの中で
子どもを支えようとしている。
でも私は、構造そのものと対峙しない限り、
子どもは守れないと感じている。
● 私が学んだこと
「聴くこと」は大切だけれど、
それだけで満足してしまうと、
時に大人側の自己満足(免罪符)
になってしまう。
私は、
子どもの権利と尊厳を守るために、
子ども側に立って構造と対峙する
“当事者”でありたい。
この友達は、その覚悟の解像度を
さらに高めるきっかけをくれた。
SSWの友達が見せてくれたもの
SSWの友達はこう言った。
「子どもと関わる時は1人の人として。
でも先生と関わる時はSSWという役職を使う。」
一見、合理的なように聞こえる。
でも私は違和感を覚えた。
役職を着た瞬間、人は無意識に
「学校組織の論理(大人側)」に引っ張られる。
その結果、
子どもを“1人の人”として見なくなる。
私は、彼女が子どもと関わる時も、
どこかで「大人側・学校側」に
立っているように見えた。
● 私が学んだこと
役割や肩書は便利な道具に見えるけれど、
一歩間違えると
「自分自身の本音を隠す鎧」になってしまう。
私は、
どんな立場や肩書になろうと、
“1人の人間として子どもと対等に向き合う”
というOSを大切にしたい。
ブレたら戻れる環境をつくる。
この友達は、その決意をより強くする
反面教師になってくれた。
私自身の身体反応が教えてくれたもの
ここが今回の最大の学びだった。
私は2人の友達に
「気づいてほしいこと」があった。
でもその方向に話が進まないと、
心臓がバクバクし、喉が乾き、
無理矢理でも気づかせたくなる衝動が湧いた。
この瞬間、私は自分の中に
こういう構造が立ち上がっているのを感じた。
「私は正しい。
だからあなたもこの考えになりなさい。」
これはまさに、
昔、親から押し付けられた“旧OS”の再現。
私はずっと、
「大人の都合でコントロールされること」
を嫌ってきた。
でもその旧OSが、私自身の中で
友達に向かって起動してた。
私が学んだこと
どれだけ自分が正しくても、
他人の領域に踏み込んで
「分からせよう」とすると、
お互いの存在を否定し合う戦いになる。
私はこう気づいた。
「私は子ども側に立つ新OSを選んだ。
でも、目の前の友達がどのOSを選ぶかは
友達の自由。」
これは、境界線の学びだった。
まとめ:2人の友達が私に見せてくれたもの
この2人は、私にとって
「過去に脱ぎ捨てた古いOS」 の象徴だった。
そして私は、
次の2つを強く学んだ。
① 私は絶対に、あの安全な部屋からの傾聴や
役割への逃げには戻らない。
私は子どもの側に立つ当事者であり続ける。
② ただし、自分の“正しさ”で他者を
コントロールする罠からも抜け出す。
相手を変えようとしない。
「私はこの生き方で行く」と
静かに自分の足元を固める。
最後に
2人への猛烈な違和感と身体反応は、
私が 「さらに次元の高い新OS」 へ
行けるようにする学びだった。
彼女たちの問題ではない。
私が鏡としてみているだけだ。
私は、
子どもの側に立つ当事者でありながら、
他者を否定せず、コントロールしない。
その人の生き方を決めるのはその人だ。
このしなやかな境界線の学びを持って、
私は次のステージへ進む。
ありがとうございます❤️