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最近、私は大きな気づきを得た。
夢の中で、
ナイフを当てられて動けなかった子どもが、
自分の力で走り出し、
私のところへ逃げてきた。
私は助けたのではない。
あの子は 自分の力で 逃げた。
私はただ、その子を抱きしめて
その子の力を認めただけだった。
この体験が、
現実のある話と深くつながっていった。
泣いている子どもを“チャレンジ”と称して追い込む先生
ある先生が、
子どもが泣いて嫌がっているのに、
無理やりチャレンジさせている話をきいた。
そのとき周りの大人たちは、
こう言っていた。
「先生も愛の存在なんだから暖かくみよう」
でも私は、その言葉に強い違和感を覚えた。
そして今ははっきり言える。
それは違う。
“愛の存在” (Being)と “行為の是非” (Doing)は別の問題
人は誰でも本質的には愛の存在かもしれない。
でも、
• 子どもの意思をきかない
• 泣くほど嫌なことをチャレンジという
• 子どもの境界線を踏み越える
こうした行為は、
愛とは別の次元で評価されるべきもの。
「愛だから肯定しよう」と上書きしてしまうと、
子どもの痛みが消されてしまう。
それは、私の内側の子どもが
長年されてきたことと同じ構造だった。
気づいている大人が沈黙するのは“共犯”に近い
私はこう思った。「気づいている大人が
何も言わないのは、共犯では?」
これは、誰かを責めたいわけではない。
ただ、沈黙は中立ではなく、
構造を温存する力になる。
• 子どもが泣いている
• 嫌がっている
• 逃げたいと感じている
その姿を見ていながら、
大人が何も言わないと、
「子どもが嫌がっても、強制していい」
という文化が続いてしまう。
それは結果的に、
暴力的な構造に加担することになる。
内なる子どもが“自分の力で走り出した”からこそ見えた視点
ワークの中で、
あの子は自分の足で走り出した。
私はその力を抱きしめただけだった。
その瞬間、私は知った。
子どもは弱い存在ではない。
子どもには本来、力がある。
だからこそ、
泣いている子どもを前にして
「先生も愛だから肯定しよう」
という言葉は、
子どもの力と意思を奪うことになる。
私はもう、その視点には立てない。
大人の役割は“守る”ではなく、“子どもの側に立つ”こと
大人の役割は、
子どもをコントロールすることでも、
大人の価値観を押しつけることでもない。
大人の役割は、
• 子どもの意思を尊重する
• 子どもの境界線を守る
• 子どもの痛みを見て見ぬふりをしない
• 子どもの力を信じる
• 子どもが自分で選べるように環境を整える
この “子どもの側に立つ” という姿勢。
それは、今日私が見た
内なる子どもが自分の力で走り出す姿 と
まったく同じだった。
子どもを“尊重する愛” に立つ
先生を否定したいわけではない。
ただ、子どもの痛みを無視して
「先生も愛だから」と肯定するのは違う。
それは、私の内側の子どもが
ずっとされてきたことだったから。
私は、内側の子どもが
自分の力で走り出す姿を見た。
だからこそ、外側の子どもたちにも
力がある存在として接したい。
そのためには子どもの側に立ち続けることだ。
それが、私が今立っている見守る場所。
まとめ
• 先生が愛の存在であることと行為の是非は別
• 子どもが泣くほど嫌がることを
強制するのは、チャレンジではない
• 気づいている大人の沈黙は、構造を温存する
• 子どもには本来力がある
• 内なる子どもが自分で走り出した体験が
視点を変えた
• 大人の役割は“子どもの側に立つこと”
• 私は子どもを「尊重する愛」に立つ
私は子どもの力を信じる
そして子どもの側にたつ
という愛を選んだ。
ありがとうございます❤️
