このブログは、息子の不登校をきっかけに
自分の思考の癖に気づき、
新しい思考の経路をつくり、
自分らしく生きるために書いています。


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関わりで大切にしていること 

小学3年生から小学5年生(2019年5月)まで

小学5年生から小学6年生(2021年3月)まで 



中3息子の記録


高1息子の記録

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最近、私は大きな気づきを得た。


夢の中で、

ナイフを当てられて動けなかった子どもが、

自分の力で走り出し、

私のところへ逃げてきた。


私は助けたのではない。

あの子は 自分の力で 逃げた。


私はただ、その子を抱きしめて

その子の力を認めただけだった。


この体験が、

現実のある話と深くつながっていった。


泣いている子どもを“チャレンジ”と称して追い込む先生


ある先生が、

子どもが泣いて嫌がっているのに、

無理やりチャレンジさせている話をきいた。


そのとき周りの大人たちは、

こう言っていた。


「先生も愛の存在なんだから暖かくみよう」

でも私は、その言葉に強い違和感を覚えた。


そして今ははっきり言える。

それは違う。


“愛の存在” (Being)と “行為の是非” (Doing)は別の問題


人は誰でも本質的には愛の存在かもしれない。


でも、

• 子どもの意思をきかない

• 泣くほど嫌なことをチャレンジという

• 子どもの境界線を踏み越える

こうした行為は、

愛とは別の次元で評価されるべきもの。


「愛だから肯定しよう」と上書きしてしまうと、

子どもの痛みが消されてしまう。


それは、私の内側の子どもが

長年されてきたことと同じ構造だった。


気づいている大人が沈黙するのは“共犯”に近い


私はこう思った。「気づいている大人が

何も言わないのは、共犯では?」


これは、誰かを責めたいわけではない。


ただ、沈黙は中立ではなく、

構造を温存する力になる。


• 子どもが泣いている

• 嫌がっている

• 逃げたいと感じている


その姿を見ていながら、

大人が何も言わないと、

「子どもが嫌がっても、強制していい」

という文化が続いてしまう。


それは結果的に、

暴力的な構造に加担することになる。


内なる子どもが“自分の力で走り出した”からこそ見えた視点


ワークの中で、

あの子は自分の足で走り出した。


私はその力を抱きしめただけだった。


その瞬間、私は知った。


子どもは弱い存在ではない。

子どもには本来、力がある。


だからこそ、

泣いている子どもを前にして

「先生も愛だから肯定しよう」

という言葉は、

子どもの力と意思を奪うことになる。


私はもう、その視点には立てない。


大人の役割は“守る”ではなく、“子どもの側に立つ”こと


大人の役割は、

子どもをコントロールすることでも、

大人の価値観を押しつけることでもない。


大人の役割は、

• 子どもの意思を尊重する

• 子どもの境界線を守る

• 子どもの痛みを見て見ぬふりをしない

• 子どもの力を信じる

• 子どもが自分で選べるように環境を整える


この “子どもの側に立つ” という姿勢。


それは、今日私が見た

内なる子どもが自分の力で走り出す姿 と

まったく同じだった。


子どもを“尊重する愛” に立つ


先生を否定したいわけではない。


ただ、子どもの痛みを無視して

「先生も愛だから」と肯定するのは違う。


それは、私の内側の子どもが

ずっとされてきたことだったから。


私は、内側の子どもが

自分の力で走り出す姿を見た。


だからこそ、外側の子どもたちにも

力がある存在として接したい。

そのためには子どもの側に立ち続けることだ。


それが、私が今立っている見守る場所。


まとめ


• 先生が愛の存在であることと行為の是非は別

• 子どもが泣くほど嫌がることを

強制するのは、チャレンジではない

• 気づいている大人の沈黙は、構造を温存する

• 子どもには本来力がある

• 内なる子どもが自分で走り出した体験が

視点を変えた

• 大人の役割は“子どもの側に立つこと”

• 私は子どもを「尊重する愛」に立つ


私は子どもの力を信じる

そして子どもの側にたつ

という愛を選んだ。


ありがとうございます❤️


エビフライとハンバーグ