首相は改憲が選挙の争点といいますが。2015年解釈改憲による安保法制が何をもたらしたか、きちんと検証しないまま改憲を口にするのは論外だと思います。
 2015年安保法制で、自衛隊の海外での一部集団的自衛権行使により、日本も危険な任務を担うことによって、日本の発言力が増すとか。アメリカに言われるまま増額してきた「思いやり予算」の軽減(危険任務を担うことによるバーター)とか、景気の良いことをいっていましたが、トランプ政権の出現によって、そういった夢のような話は全て吹っ飛びましたよね。日本の危険負担増を対米交渉の材料にするどころか、逆にトランプ大統領に日米同盟は不公平だからといって負担増要求のカードを切られる始末。
 2015年解釈改憲・安保法制、日本の独立性を取り戻すだとか、日本の基地負担を減らすとかいうことには、何の役にも立ちませんでした。対中防衛に関して、アメリカの戦略が変わるとか日中関係におけるアメリカのコミットメントが変わるとか、そういう事も全く説明出来てませんよね(アメリカの態度は時に応じて変化を見せてはいますが、安保法制があったからこそこういう変化が有ったといえることは何もなく、個別的自衛権を前提とした法制のままでも問題ないと思える事ばかり)。
 改憲を議論したいなら、まずは2015年解釈改憲・安保法制が何をもたらしたのかを、きちんと総括してから臨むべきでしょう(4年も経って、まだ成果は出てませんてのはあり得ないですね)。成果があったというなら、なぜさらに9条改憲に進む必要があるのか?成果がないから、もっとダイナミックに9条改憲してアメリカに対する従属度を強めたいのか?改憲が争点だと言う前に、国民に説明すべき重要な事柄が、すっぽり抜け落ちてます。説明すべき事を説明せずして、改憲を争点にするなるなんて、あり得ないことでしょう。
https://www.sankei.com/politics/news/190707/plt1907070007-n1.html

 新元号発表フィーバーが、やや落ち着いてきた。それでもまだ月末にかけて、「平成最後の○○」とか、月が変われば「令和最初の○○」みたいなものが、ゾロゾロでてくるに違いない。

 強制されない限り基本的に西暦を使っている立場としては、本当にどうでもいい話ではあるが、割と身近なトピックの中で、年号がやたらに強調されて気になるものが一つある。ライダーシリーズである。何年か前に、「昭和ライダーvs.平成ライダー」といった映画も作られ、仮面ライダーはどういうわけだか、当たり前のように年号でシリーズが区切られている。ということは、改元以後の作品は「令和ライダー」と呼称されるようになるのだろうか。気になってみてネットで検索してみたら、もう4月1日には「令和ライダー」はトレンド入りするキーワードになっていた。ちなみに、今放送されている仮面ライダージオウが平成と令和のどちらに分類されるかは、公式にはまだ定まっていないようだ。本シリーズに登場する未来のライダー忍・クイズ・キカイは、令和ライダーということに?キカイは、もっと先の未来の話だから令和でもないかも知れないが。この時王は、平成ライダーシリーズの総まとめという位置づけを、かなり強く意識しているので、最後の平成ライダーと、後にいわれるようになるかもしれないし、最終話の展開が、以後の作品との繋がりを強く暗示したものになれば、橋渡し的作品として、いつまでもどちらにも分類しがたい作品と見なされた状態が続くかもしれない。

 ただ、こういった分類は、製作側が公式に決めた設定ではあるけれども、作風が今年で大きく切り替わり、時代を画するような変化が生じるかというと、正直、そういったことは考えにくい。平成ライダーシリーズの作風が、今後も続いていくだろうということは、多くのファンがなんとなく共有しているだろうし、来年以降も、現有の作風を期待してファンはモニターの前に座るだろう。

 そもそも昭和ライダーと平成ライダーの違いというのは、前者が事実上の石ノ森章太郎原作作品であるのに対し、後者はテロップでは石ノ森章太郎原作とは出てくるけれども、東映が独自の新機軸をたてて、ライダーらしい作品に仕上げたものという、はっきりとした違いがある。時間的に、BLACK RXとクウガの間に10年くらいのブランクがあいたことも、両者の違いを明確に意識させる要因となっている。また、前者は分かりやすい悪の組織が存在し、硬派なヒーローがそれに立ち向かうという構図はほぼ共通している。一方、後者は敵が見えにくい。敵は巨大企業だったり、政治家だったり、宇宙生命体だったり、学校の理事長だったり、元々一般人が何らかの特殊能力を手に入れて巨悪に仕上がっていくものもある。ライダー同士で殺し合うお話もあるという、一見多様だが、それらしいパターンが確立している。この両者を、別のカテゴリーで区切るのは正しいが、年号が切り替わったから作風が変わったということではなく、石ノ森の関与の度合いが決定的に違うことによる部分が大きい。後者の基軸を、今後も受け継いで行くであろうライダーシリーズが、新機軸の「令和ライダー」になりきれないだろうというのも、容易に想像がつく。

 同じニチアサ時間帯に放送されている「スーパー戦隊シリーズ」をみれば、昭和も平成も令和もないという事は、もっと明白だろう。ライダーのように10年のブランクで区切られることもなく、昭和から一貫してやっているこのシリーズは、昭和戦隊・平成戦隊と区切られることはない。原作も最初のゴレンジャーとジャッカー電撃隊のみが石ノ森作品で、後は東映が独自に作っているといっていい。作品の基軸も、何度か変更が試みられたが、くどいくらいのパターンは容易に変えがたく、強いていえば、現在のリュウソウジャーまで、一貫して「昭和戦隊」が続いているといえる。

 昭和のヒーロー臭さを継承している戦隊シリーズと、その辺を払拭したライダーシリーズの間に、温度差があるのもよく知られたことだ。こういうと、戦隊シリーズには昭和らしさ、平成ライダーには平成らしさがあると、言えるのかもしれない。ただ、これが単純に年号で切り替わっているかというと、やはり違うだろう。昭和戦隊と平成ライダーの区切りも、どこに明確に境が有るわけでも無く、戦後の時代変化は確実に有るけれども見えにくくゆっくりと進んでいる。平成ライダーにも、もうしばらく平成ライダーであってくれるよう願いたい。革命や大戦で、大きく時代が区切られて、大衆娯楽作品のあり方が180度変わるようなことがない平和な戦後の時代、実にけっこうではないか。

 しかし今回全く争点化もされてないし政府も言及しないが。
 今回の安保法制の動機、財界からのリクエストが下支えしていることは俎上に乗せられているが、もう一つ、外務省サイドからの「日本の安保理常任理事国入り」への悲願というのが、政府の動きを強く下支えしてきたのではないか。
 官僚グループの中でも、自衛隊は退職者含めて賛否両論で、半分腰が引けていると見ることも出来るのに。外務省は現役官僚が発言することがないので分かりにくいが、退職してコメンテーターとかやっている面々は、軒並み賛成、というか強く推進している。常任理事国入りは外務省の悲願だが、集団的自衛権を行使しない国で常任理事国入りは難しい。ゆえに、どんなに限定をつけられても良いから集団的自衛権を、ということで、推進のシナリオを書いているのは外務省なのでは。
 法案の立法理由説明で、中東・東シナ海・南シナ海の具体的事例を聞いても、どれも抽象的で本気度が感じられないのは、実は政府にとってその辺の事はダシというかどうでもよく、常任理事国入りが強烈な裏テーマだったのではないかと思えてきた。本来は、無理筋を押してまで、そういったものを目指すべきなのかというのは、国民的議論の俎上に乗せるべきだったのではないのかと、ふと思う。ただ、関連性が見えにくいので、争点化は難しいのかもしれないが。


 実際、日本がアメリカに対して無用とも思える譲歩を行う際には、必ず常任理事国入りの話がセットになっているし。4月に安倍首相がアメリカに行って安保法案成立を「公約」してきたが、やはりその時、大統領から常任理事国入り支持の発言を引き出している。
 また、中国の方でも反日デモが活発化したのは、05年に日本が常任理事国入りしようとしたのを、中国側が阻止しようとしたことが発端だ。アジアで唯一の常任理事国としての立場が揺るいでしまうことは、中国にとっては、日本人が考えるよりも重大事。

 日中の間に浮いている紛争の島は、尖閣諸島だけでなく、それよりももっと大きな難物は、「常任理事国入り」という島なのでは。

 外務省がこれに躍起となることによって生じる軋轢・デメリットは、思った以上に大きい。こういったデメリットを踏まえた上で、現在の対米政策(今回の安保法案などその一例かもしれない)が、国民にとって引き合うものなのか、考えるべきだと思う。

 個人的には、現在の5ヶ国による過剰な特権を軸にする秩序維持が、機能不全に陥っているという認識だが、常任理事国を増やすことによって解決するのではなく、拒否権そのものを無くし、安保理を十数カ国程度の非常任理事国で構成するように改革すべきではないかと思う。もちろんこれで国連の紛争解決能力が、劇的にアップするとは思えないが。

9月14日も月曜日だというのに、委員会採決間近という事もあって、数万の人が国会前に集まったという。
 大江健三郎とか、著名人がスピーチする集会が終わった後、警察の護送車がゾロゾロでてきて、集会参加者を分断する騒ぎがあったらしい。
 下の写真、1,2枚目は現地の人から直接送られてきた写真。




 3枚目は主催者HPで公開されていたものだが。もはや護送車は身動き取れなくなっているのに、バンバンアイドリングして、排気ガスをまき散らして嫌がらせ。日本のデモなんて、国会議事堂の中に流れ込むわけでもなく、海外のデモに比べればカワイイもんだが、警察はいったい何を怖れているのか?こんな事をして、デモ参加者が減るとでも思ってるのだろうか。発想がたいへん陰湿です。

 日本の市民運動とかで、ハンストやらダイ・インなるものは、私は全く支持しない。ダイ・インは意味不明。ハンストなんて、焼身自殺するくらいの覚悟がないとダメ、といった批判は、運動内では常にあることだが。
 しかし、SEALDsとかがやってる運動に、道路にはみ出したとか、点字ブロックを踏んでるとか、そういったレベルの批判で鬼の首を取ったような態の大人たちの多いこと、そしてその幼稚な事よ。彼ら、わざわざ道路使用許可を取って道路をオキュパイしてるわけ。健常者も視覚障害者も含めて、交通を遮断して座り込むことを目的とした手法なんだから。邪魔だとかいうのは、その辺を通行する人と警察と、運動家の間で話し合って調整することだから、ネットだけで様子を見てる人間が、とやかくいう事ではない。

 そもそも公道や公的施設でパレードやオキュパイするのに警察の許可を取ることが、先進国の中ではかなり特殊。(韓国あたりは許可が要りそうだが。)欧米などでは、警察の許可などお構いなしに公園に人が集まってオキュパイが始まる。そしてその後に警察との調整が始まる。
 公道や公的施設に機械的に道交法や不法侵入が当てはまるかは、かなり微妙で、デモに公共性を認めている社会では、かなり寛容だ。日本でも官庁オキュパイというのはめったに起きないが、これに即時不法侵入を当てはめるということはない(だいたい当局と代表者が話し合って退去の条件や手順を調整しにかかって、穏便に解決する。)。車道も必要に応じて歩道扱いになる。警察の裁量が強すぎるといわれる日本においてですら、そういうことなのである。
 日本には、警察の裁量が全てと思い込んでいる人が多すぎる。日本の警察の裁量は大きいが、それでも状況に応じて調整が行われるのである。

 集会が道交法違反だとか言ってる人の中で、去年の台湾での「ひまわり学生運動」、香港での「雨傘運動」に喝采を浴びせていたような人がいたら、真摯にその身を恥じて欲しい。ひまわり・雨傘ともに、道交法も不法侵入もへったくれもなかったわけだから。
 SEALDsの学生なんて、しょせんは平和ボケでぬるい運動しかできんヤツらだと言うなら、ぜひ彼らに国会オキュパイを勧めてみてはどうか。私は、彼らの穏便な運動姿勢を支持しますが(ハンストとかは除く)。

=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=2015.09.05 zakzak by 夕刊フジ【ニッポンの新常識】安保法案反対の面々が重度の「米国依存症」という皮肉 K・ギルバート氏http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20150905/dms1509051000002-n1.htm=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=

 K・ギルバートという人、一体何が言いたいのだろう。彼の論理は、突き詰めると日本人に「米国依存症はよくない!今後は単独防衛でやる!アメリカ軍は日本から出ていけ!」と言わせる内容。彼自身、この論理が、突き詰めるとそこまで行くものだと気付いているのかどうか知らないが。とりあえず、日本人にそういったことを言わせたいわけではないだろう。

 彼が一番強調したいところは、つまるところ「米国が、日本や韓国の国防に片務的な責任を負っている」というところだろう。アメリカは日本の傭兵として働いてるのに、日本は何もやってないだろう。これからもっと貢献して、双務的な状態に近づけろ、という話。なんだかアメリカ人の暗示にかかって、「日本て何もしてないんだね」とか思っている人もいるようだが、これがとんだ詐欺。日米の軍事協力は、片務的でもなんでもなく「非対称であるが対等」という形をとっているだけなのである。この辺は、かつてのブログにも少し書いたので、そちらも参照のこと。

小川和久の論理では集団的自衛権は要らないということになるのでは?

 米国の太平洋覇権のために、日本がどれだけのコストとリスクを負っていると思ってるのだろうか。米軍のアジアでの活動のために、米軍が日本に基地を置くことによって節約されるコストは、年間250億ドルと見積もられている。お金だけではない。朝鮮半島・台湾有事となれば、日本は最も危険な最前線での兵站活動を担うことにもなる。当然沖縄や横須賀などの米軍基地がある都市は、真っ先にミサイル攻撃に晒される。前線に自衛隊を送るかどうかという議論以前の問題で、日本が前線になり、自衛隊員だけでなく日本国民が前線に位置する状態となる。日米の軍事協力というのは、日本がそこまでのハイリスクを抱え込んだ上で、「非対称であるが対等」なものとして運用されてきた。いまアメリカ側が、日本が抱えているリスクは大したものではないとし、「非対称であるが対等」としてきたものを「片務的」と主張するのは、日本側のリスク負担を安く買い叩こうとしているだけのことである。日本は、こんな安っぽい値段交渉に応じて良いのだろうか?

 小川和久氏の国会での説明が、ネットで絶賛されていたので、動画を見てみた。


------

小川流二者択一論
「集団的自衛権を認めない」→日米安保解約→独自防衛→軍事コスト増大(23兆円)
「集団的自衛権を認める」→日米安保維持→軍事コスト安

------
 一見分かりやすいのだが、「集団的自衛権を認めなければ、日米安保を解約します」なんてことは、アメリカは一言も言ってない。従来通り、日米安保を維持して軍事コストを安く抑えれば良いではないか。


------

日米は対等か?
「日米同盟は対等に近い(非対称ではあるが)」

------

 その通り。遠くまでアメリカを助けに行くような軍事力はないし、これからももつべきではないが。アメリカにとって、アジアにおいて地勢的に重要なところに同盟国があり、基地を置ける事自体が、アメリカにとっては助かる(動画の5分あたり)。だから非対称ではあるが対等というのは、実に重要な指摘。
 岸内閣時代あたりも、この論理で日米安保は対等としてきたと思ったが。近年の自民党が、いつの間にか「不平等」であるということを言い出し、既にアメリカに提供している基地の負担価値などを低く評価し、新たに「集団的自衛権」という貢ぎ物を差し出さなければ対等でないと言いだしているのではないか。自国の負担を、勝手に貶めているのは今の自民党ではないのか。
 保守的立場にある政治家なら、「日米同盟は対等である。文句があるなら米軍は出ていってけっこう」と言ってやればいい。(アメリカの対中国戦略上、出ていくということは決して有り得ない選択だが。)もっと自国の価値を高く売りつける交渉能力を、日本政府は身につけるべきだが、自民党は真逆の方向に突っ走っている。

 小川氏の基本認識は、ある意味非常に正しい。そしてこの認識はむしろ、アメリカに対して毅然と交渉すべきだし、集団的自衛権なる貢ぎ物は要らない、という論理につながるべきもののように思える。集団的自衛権が必要であるという結論に、全然繋がってこない。
https://www.youtube.com/watch?v=KPuRV0EB0FM&feature=youtu.be

 今日の日曜討論、生で見ていて雑感。

------

「賛成・反対 激突 安保法案 専門家が討論」 戦後日本の安全保障政策の転換となる安保法案をどう考えるべきか?国会審議で焦点となっている論点をめぐって元政府関係者や憲法学者、元自衛官ら各界の論客が討論します。 伊勢崎賢治,水島朝穂,宮家邦彦,百地章,栁澤協二,山口昇,【司会】島田敏男,中川緑 ------

 解釈変更賛成派の宮家邦彦「最終的な判断を下すのは憲法学者ではなく、最高裁判所」。

 最高裁判所はこういった判断はしません、判断しないから結局内閣が判断することになってますといったビラを配ってたのは、自民党ではなかったか?解釈権は内閣にあるとか言った閣僚もいたね。そこが問題なんだよ。だから憲法学者が、大勢声をあげはじめたんだよ。最終的判断を下すのが、最高裁判所なんて、憲法学者を含む、誰しも分かってること。


 国際法、国際慣例で決まっていることなら、憲法にどんな規定があっても構わないという論理の百地章。国際法で決まっていて、憲法に規定がない領土規定は違憲なのか?の論。

 噴飯ものの論理すり替え。各国が主権を付託しているような世界連邦政府がない現状では、国際法・慣習と各国憲法の関係は、一国内の法律―条例の様な関係にはならない。結局、国際社会がどう動こうが、各国は自国の憲法を最優先の基準にする。憲法に反した条約は結べないし。国際法優先の話する人は、国連を世界政府か何かと勘違いしているのでは?領土に関する規定・条約はとくに憲法で禁止しているような事には触れないからOK、集団的自衛権は触れそうだからNG。ただそれだけのことではないか。


 結局、解釈改憲の正統性を、賛成派の誰一人として説明できなかった。つまるところ、安保法案は強行採決されれば、違憲の行政訴訟を起こされて、最高裁判所で判断ということになるのだろう。 https://twitter.com/nhk_touron/status/619446810059276288

 今度の邦人人質事件で、とくに「後藤さんを救出しよう」といった運動がおこって、うちにもMLなどを通じて、署名やら賛同を求めるメールが送られてきた。ただ、これに対しては、本当にどう対応して良いやら、迷ってしまう。

 政府に対して何か要求するにしても、一体何を求めるか、どこまで求めて良いのか、正直戸惑うのだ。海外に行った邦人に対して、政府はどこまで責任をもつべきなのか。政府の責任と権限が及ぶ範囲は、あくまで日本国の領域である。この中では、日本国民は平等にあらゆる種類の福利を受ける権利があるし、政府には義務がある。
 ただ、これが国外になるとどうなるだろう。あらゆる国家の主権が及ばない南極などは別として、日本国外のたいていの陸地はどこかの国家の主権下にある。そして、たいてい普通の邦人が足を運ぶところは、日本と条約などを結んでいて、相互互恵の関係にある。A国の国民が日本に来たときには、ある程度の留保は付きながらも日本国民と同じくらいに保護するから、日本国民がA国に行ったときは、A国国民に最低限与えられている保護はお願いしますよ、ということだ。こういうことになっているので、日本では外国人も国民健康保険に入って日本国民と同じように福祉を受けることが出来る(もちろん税金や保険料は払わなければならないが)。もし日本国内で深刻な事件・事故にA国国民が巻き込まれた場合はどうなるか。日本の警察・消防、場合によっては自衛隊は必死にA国国民を救出するということになる。「外国人だから見捨てておけ」という事にはならない。そのかわり、日本国民がA国で何らかの事件・事故に巻き込まれた場合、A国の警察・消防や軍隊が、必死になって助けて下さいね、ということだ。
 つまり、外国における邦人の保護というのは、相手国に代理で行ってもらうのが大前提ということだ。もしA国に邦人の保護を行う能力がない(混乱によってA国が保護能力を喪失していたり、A国の保護能力を上回る災難が発生していた場合)、日本はA国に対して渡航しないように警告を発する。この警告というのはつまり「A国に行って、どんな事態に巻き込まれてもA国の助けは期待できないし、日本政府としても責任もてません」という意味だ。

 以上のような原則を、国家の側が崩してしまうと、どうなってしまうか。日本のA国民に対する保護が不十分だということで、A国の軍隊が日本に次々と上陸し、A国国民の保護を行った場合。こういう事は、第二次世界大戦前には、よく行われていた。これも、相手国の同意を得て行う場合と、同意を得ずして行う場合とがあるが、後者は今日通常「侵略」と呼ばれる。前者も同意のとり方が問題とされて、後日「侵略」ではないかという議論になったりする。アメリカなどは、二次大戦後もこういった自国民保護を平気でやるが、現在こういった能力を保持し、平気で行う国は少数だ。言い換えると、「侵略国」になるリスクとひき換えてまで、危険な国や地域に自国民を送り込む国は減っているということだ。逆に、日本は戦前には明らかに危険なところに自国民を送り込んでいた。日本軍の派遣がなければ危険だということが明らかなところに。日本国政府の直接的なマンパワーの投入による邦人保護は、結局何を引き起こすのかということは、とりあえず押さえておかなければならない。

 もう一つ、個人が以上のような原則からはずれて行動してしまうと、どうなるのか。つまり、日本の外務省などが立ち入らないよう警告している国や地域に足を踏み入れ、そこで何らかの事件・事故に巻き込まれた場合。これはもう「自己責任」としか言いようがない。日本国のサポート対象外のところに行ってしまったのだから。
 A国の保護が期待できないからといって、日本の自衛隊なりが出ていくと、当然別の意味での多大なるリスクを日本は抱え込んでしまうことになる。一番こわいのは、日本はまた「侵略」をする立場になるのか、という国際世論にさらされることである。日本国に、主権領域を越えて何らかのマンパワー行使を求めるということは、恐ろしく過剰な国家権力行使を求めているということに他ならない。

 以上のように話を整理した上で、「後藤さんを救出しよう」と政府に求める運動には、2つの方向性が有り得るという考えに行き着く。1つ目は、日本政府に積極介入を求める方向性。交渉などによる間接的な介入から、マンパワーの積極的な投入を求めていくというものである。この方向性の最終手段は、自衛隊などの派遣だ。ただ当然、日頃から自衛隊の海外派遣や集団的自衛権に反対している人々は、こういうことを求めているとはとうてい考えられない。そうなると考えられるのが、2つ目の方向性。逆に政府の作為を減らすよう求めるというものだ。そもそも今回の人質事件は、安倍政権のテロ組織に対する挑発が発端だという考え方からすると、そういった挑発的言動を全て撤回するなりして、不作為(つまり余計なことをするな)の方にもっていくよう要求するというものだ。もちろん不作為を求めると同時に、極力関係当事国の協力などを得て、交渉することなどは求めるだろうが。
 今回の件で、2つ目の方向性で政府が出来ることといえば、対テロ支援と称した2億ドルの中東向け資金援助の支援名目を切り替えるとか、支援先を変えるとか、支援を撤回するとか、あまり多くはない。他には、中東政策では、イスラエル寄りの立場であると受け取られることを極力控えるとか、人質救出に向けてとれる措置は本当に少ない(ただ、どれも大事なことだと思うが)。大局的には、集団的自衛権行使を撤回するとか、そういったことも入ってくるかもしれないが。

 ただ、非常に弱いけれども、2つ目の方向性での運動には、それなりの意義があるとは思う。「後藤さんを救出しよう」という運動も、「イスラム国」が当初身代金2億ドルを要求してきたときには、2億ドルの中東支援の撤回や、使途の変更を交渉オプションに救出を求めていく、という話なら賛同できると思ったのだが。人質解放の要求が、2億ドルの身代金から、ヨルダンに収監されている死刑囚の解放ということになって、途端に話の性質が変わってしまった。これはもう、日本政府に何かを求めて何かが変わるという問題ではなくなってしまった。日本政府としては、ただヨルダンにお願いをするしか方法がない。
 これ以上の救出を求める運動は、無意味と考える(中東支援のあり方に再考を促すような運動は引き続き有意味とは思うが)。これ以上運動を続けて、日本政府を突き上げたところで、安倍首相はテロ組織に対して憤りの表情をつくりながら、自衛隊派遣などの「国家としてのサービス」を充実させていくだけのことだ。

 日本という国に、必要以上の強権を行使させたくなければ、「自己責任」という割り切りは、どこかで必要になってくるはずだ。何もかも国家に責任があると突き上げると、結局はその権限行使の強化を是認してしまう方向に絡め取られ、いずれ個人の首を絞めてしまいかねないと思うのだが。

[靖国神社は本当に日本の伝統か]

 さて、A級戦犯の合祀・分祀問題に触れたついでに、靖国神社の合祀・分祀の祭儀が本当に、伝統的で動かしがたいものなのかどうかも疑ってみたい。梅原猛「だから靖国参拝はしてはいけない」(『論座』2001/9)で簡潔かつ十分に説明されているように、靖国神社は、実は日本的な祭祀の形からすれば、ずいぶん異質で、かつ新しいものなのだ。つまり伝統といっても、せいぜい明治になって作られた「新しい伝統」なのである。

[日本の伝統的な祭祀のあり方]

 江戸時代以前には、ときの政権のために戦って命を落とした人を祀ったり称揚するような祭祀および祭祀施設は存在しなかった。日本では、武士の登場以来、軍人の職業化が進んでいた。日本の武士は、君主のために忠義を尽くすとは言いながらも、一義的には「お家繁栄のため」「裸一貫から身を立てるため」戦っていたため、国(朝廷や幕府)が戦死者を追悼・称揚する施設はないのだ。「お家」の活躍のために死んだ者を祀る主体は、あくまで「お家」であって、ときの政権ではなかった。国(朝廷や幕府)が戦死者を悼むにしても、「お家」に対して家禄を増やしたり、下賜品を与えたりして報いるという「君主―家臣の家」というのが基本軸になっており、国が直接戦死者を弔うということは無い。忠義を尽くしたが、跡継ぎがいなかったり、家を存続させる形で上手く立ち回れなかったりした武士の家は、どんなに戦死者を出しても歴史の記憶から消えていった。あくまでお家が基本だから、家を栄えさせる事に失敗すれば、消えてしまっても仕方がないという考え方だ。もちろん、気の毒なケースを見かねて、他家から養子を入れさせ、お家を再興させて祭祀を維持することもあった。ここでも戦死者祭祀の基本主体は、お家だったことがよくわかる。

 一方、敵味方を問わない戦死者・巻き添えの無辜の百姓の死を悼むための寺や仏像建立というものもある。ただし、これはたいてい、敵味方問わずのものであって、味方のみを慰霊したり称揚したりする祭祀のあり方とは全く異なる。

 つまり靖国神社のような、味方のみを慰霊したり称揚したりする祭祀施設は、古来日本には存在しなかったのだ。家を中心とする祭祀とも相容れない。敵味方を問わず慰霊する祭祀とも相容れない。そもそも武士にとって、勝った側のみを称揚する心根は、厳に慎まなければならないとされたものなのだ。斬った相手に手を合わせる。(自分の出世栄達のためという勝手な都合とはいえ、斬ってすまぬということだ。)この考え方は、剣道や相撲にはしっかり残っていて、勝った選手や力士が、負けた側に勝ちを誇ったり、ガッツポーズをとるようなことは反則行為とすらされている。

 むしろ日本では、殺してしまった相手・滅ぼした相手に、祟り神として祟ってくれるなよ、という考えから、勝者よりも敗者の怨霊鎮魂の方が盛行した(出雲大社・天満宮・平将門信仰など)。自身の政治的成功のために滅ぼした相手に、祟ってくれるなというのも勝手な話ではあるが、少なくともそういった祭祀のあり方が、日本本来の伝統というべきものなのだ。

[靖国のような祭祀のあり方はどこから来たか]

 それでは靖国神社のような、国のために殉じた者の慰霊、ないしは勝者称揚の祭祀のあり方が日本に入ってきたのはいつなのか。これは、2つの経路があると考えられる。1つは、明治以降に西洋文明国のやり方は全て正しいとして輸入した時期に、日本の伝統に合うか合わないかを検証せず、強引にコピーしてしまったという流入経路だ。もう一つは、幕末から明治初期にかけて、統一的な王朝国家を理想として、中華王朝の統治のあり方を熱心に勉強した幕末・明治初期儒学の思想家たちが、当時の清朝から学びとったという流入経路だ。前者の経路は容易に想像がつくが、容易に想像がつくせいか、かえってあまり専門的な研究はないようだ。今後優れた研究がでることを期待したい。意外と分かりにくいのが後者の経路なのだが、これは小島毅『靖国史観―幕末維新という深淵』(2007年、ちくま新書)が詳しく分析しているので、そちらを参照されたい。

江戸時代までは、家臣の家が、自らの家の繁栄のために君主の家に忠義を尽くす、ということで江戸幕府政権は成り立っており、そこには国のために、という論理がなかった。ところが明治になって、職業軍人集団としての武士階級を解体し、農民を動員して軍隊を作るようになると、戦死者に対する祭礼の在り方も、従来のようにはいかなくなる。武士は死んでもそれが仕事だ。しかし、国民皆兵制度のもとでの兵隊は、そういうわけにはいかない。徴兵されて死んだ旧武士階級以外の者にとっては、働き手を奪われて、後は見舞金程度で済まされては、国に対して遺恨しか生まれない。そこで無理にでも徴兵する際に、国のために命をかけるという考えを国民に植え付け、死んだら国が慰霊を保障する必要がでてきた。国が慰霊を行っているような身近な事例は、日本にとっては、清朝にしかなかった。

 清朝からコピーしてくる際に、日本の伝統に合わせた祭祀の構築を、もっと模索すればよかったのだが。日本的な体裁をもたせるために、神社的な建物の形と神官の服飾が採用されてはいるが、祭儀のあり方は、神道風でありながらも新しく構築されることになった。なので、靖国神社は、日本の伝統からすると異質というか、違和感のあるものになってしまった。日本の伝統的な神社が、多様なものを受け入れる、良き雑多性を持っているのに対し、靖国神社とその分社である護国神社は、どこか「われら」以外のものを寄せ付けぬ、居心地の悪い清潔感が滲み出ている。靖国神社が立派な慰霊施設だと称賛する海外の元首もいるが、それはあくまで西洋的な祭祀の論理、あるいは儒教的な論理で褒めてくれているのであって、グローバルスタンダードに即していることを評価されているだけで、日本人としては違和感をぬぐえない。この褒めてくれている外国人は、本当に日本のことを理解してくれているのだろうかと。

 国内でも、諸外国では似たような慰霊施設を持っているから堂々とやれといった意見もしばしば見られるが、そういったホシュ論者は、いつも思うことだが日本の伝統よりも、国際基準を優先するグローバリズム論者なのだ。どこが保守なのだ、と毒づきたくなる。保守なら、もっと日本の伝統を一義に考えろよと。もっとも、近年のネットを中心とするウヨクやホシュ論者は、グローバリズムの盛行とセットで生まれてきた、グローバリズムの双子の弟のようなもので、日本の本当に伝統的なものから物事を考えようという方向性に欠け、逆にグローバルスタンダードから日本の伝統を解釈しようとしているため、多くの伝統を見落としていることは、不思議なことではないのかもしれないが。

 とにかく、日本の伝統的なものを深く省察もせずに、「当たり前」という大雑把な議論でなにもかも強制することが、なによりも恐い。

[全ての日本人が気兼ねなく参拝できる神社なのか]

 ホシュ論者の中でよく見られる、靖国に参拝するのは日本人としては当たり前という言葉を聞く度に、それでは靖国参拝をしていない天皇は、日本人ではないのだろうかと思う。昭和天皇の靖国参拝は、1975年が最後になった。天皇が靖国参拝を辞めた理由は、様々な推測がなされているし、一つだけの要因によるものではないと思われる。1975年というのは、三木首相が戦後初めて終戦の日に現役首相として靖国を参拝したときに、公的参拝か私的参拝かということが国会で取り上げられた年だ。私的参拝というものが考えにくい天皇の参拝というものが、やりにくくなったというのも要因の一つではあるだろう。A級戦犯合祀問題と、どうしても切り離したい者は、どうもこの要因のみを強調して、合祀は関係ないと主張しようとするのだが、これは極端な強弁である。2006年にその一部内容が公になった、元宮内庁長官・富田朝彦の手による、いわゆる富田メモにより、やはりA級戦犯合祀が、天皇の靖国参拝の大きな障害になっていることが明らかになった。また、今上天皇が1993年に埼玉県靖国神社に参拝したとき、わざわざ神社側にA級戦犯が合祀されていないことを確認したことからも、天皇および宮中の意志は明白である(また、護国神社に参拝していることからも、天皇が公的・私的参拝云々の問題が、天皇の靖国参拝を断念させた決定的な理由ではないことも明白である)。また、天皇の靖国参拝が、今のように中国などから強い抗議があって取りやめられたわけではなく、自発的に取りやめたという点も重要だ。

 とにかく、天皇を含め、日本人全てが気兼ねなく行ける神社であるという状態がそこなわれたのは、A級戦犯合祀が大きな要因になっていることは間違いない。そんな、日本人誰もが気兼ねなく行けるわけではない状態になっている神社に行くことが、日本人にとって当然の行為である、というのは実に乱暴な話だ。また、靖国神社は戦後、一宗教法人になってしまっている。一宗教法人への参拝を、絶対視するのも思想・宗教の自由からしておかしい。一宗教法人の靖国神社が、戦死者の慰霊を行うことは結構。他の幾千の宗教法人が、戦死者の慰霊を行うことも結構。それぞれの宗教法人、個々人が、それぞれのやり方で戦死者の慰霊をやりましょうと呼びかければ、それだけで十分ではないか。

[どういう祭祀のあり方が適切なのか]

 それでもどうしても日本人みんなに靖国神社に来てもらおう、または全員揃って行けるような追悼施設を作ろうというのであれば、それなりの工夫が必要だ。ここまで論じてきた問題点から導き出される、解決のために不可欠な条件は、以下の3点になるだろう。

1.A級戦犯の分祀を行うこと(または追悼者個人名を特定しないような祭祀のやり方に切り替える)

2.一宗教法人ではなく国営の施設で、宗教性を薄めた追悼を行うこと

3.追悼対象に自国だけではなく他国の死者も含めること

 1は、神道の教義上無理だとされているが、靖国神社自体が新しい伝統であり、その祭儀も明治になって作られたものが多いという。ここは大胆に新しい教義なり祭儀を作り出してやればよいのだ。手続き的には、霊璽簿からA級戦犯の名前を削除すればよい。実は上記の3つの条件の中でも、一番ハードルが低いのではないか。天皇および首相の参拝を外交問題化させないという点だけに絞れば、これだけで問題は解決する。

 そして、まずは殺してしまった相手に手を合わせるという日本の伝統的価値観から、3のように、追悼の対象者を全ての戦死者として、個人名をいちいち特定しないというのも一案だ。どちらが味方か敵か、どちらが善か悪か、どちらが正義か不義か、そのような白黒ハッキリつける考え方自体が、曖昧さを大事にする日本的な価値観に即さないのではないか。西洋諸国や中国が、自国のみの戦死者追悼をやっているからといって、それを機械的にコピーするようなやり方ばかりが正しいわけではないだろう。他国がどうであろうが関係なく、日本らしさを強調した、独自の追悼のやり方を考える方が、よほど伝統を尊重していると思えるのだが。

 では、2の条件はどうだろうか。靖国神社をそのまま使うなら、現在の一宗教法人から国営の施設に戻す作業が必要になってくる。ここが現実的には一番難しい点だろう。ここが難しいという話になってくると、新たな施設を作るという事になるだろう。戦前のように、国家神道は宗教ではないという理屈が、詭弁なりともなんとか通用していた時代ならともかく、現在は神道スタイルの祭祀を国営施設でやるのは避けなければならない。最近はあまり裁判沙汰になってクローズアップされることも少なくなってきたが、やはり国や地方自治体の行事で神主さんを呼んで地鎮祭やらお祓いをやったり、そういった行事に出席させられたりするのは、神道の信者でない者にとっては、信仰の自由を著しく侵害された気持ちになる。となると、ありきたりな結論だが、結局は千鳥ヶ淵のような施設を中心に追悼を行っていくのが一番という事になる。千鳥ヶ淵は、慰霊する遺族もない無縁仏の祭祀施設という位置づけなので、戦死者全体を弔う施設ではないという見方もある。そこで、無縁仏以外の戦死者・戦没者も追悼しますということに切り替えればよいだけである。そこで戦死したおじいさんのことを想うのもよし、戦地で殺された人に対する謝罪の意で追悼する人がいてもよいだろう。

 靖国神社参拝に対して、少しでも異を唱える者がいると、すぐに戦死者に対する畏敬の念がないのかとか、死者を盾に同調圧力をかけてくる言動が迫ってくるのは、実に恐ろしいことである。多様な祭祀のあり方の可能性を考えている者は、靖国のみという考え方に異を唱えているだけで、決して死者を冒涜しているわけではないのだが。むしろ靖国しか考えられない者より、今の靖国のあり方以外の選択肢も考えて、真剣に死者の追悼のあり方を模索している。そういった者ほど、首相の靖国参拝には異を唱えたくなるはずである。