今度の邦人人質事件で、とくに「後藤さんを救出しよう」といった運動がおこって、うちにもMLなどを通じて、署名やら賛同を求めるメールが送られてきた。ただ、これに対しては、本当にどう対応して良いやら、迷ってしまう。
政府に対して何か要求するにしても、一体何を求めるか、どこまで求めて良いのか、正直戸惑うのだ。海外に行った邦人に対して、政府はどこまで責任をもつべきなのか。政府の責任と権限が及ぶ範囲は、あくまで日本国の領域である。この中では、日本国民は平等にあらゆる種類の福利を受ける権利があるし、政府には義務がある。
ただ、これが国外になるとどうなるだろう。あらゆる国家の主権が及ばない南極などは別として、日本国外のたいていの陸地はどこかの国家の主権下にある。そして、たいてい普通の邦人が足を運ぶところは、日本と条約などを結んでいて、相互互恵の関係にある。A国の国民が日本に来たときには、ある程度の留保は付きながらも日本国民と同じくらいに保護するから、日本国民がA国に行ったときは、A国国民に最低限与えられている保護はお願いしますよ、ということだ。こういうことになっているので、日本では外国人も国民健康保険に入って日本国民と同じように福祉を受けることが出来る(もちろん税金や保険料は払わなければならないが)。もし日本国内で深刻な事件・事故にA国国民が巻き込まれた場合はどうなるか。日本の警察・消防、場合によっては自衛隊は必死にA国国民を救出するということになる。「外国人だから見捨てておけ」という事にはならない。そのかわり、日本国民がA国で何らかの事件・事故に巻き込まれた場合、A国の警察・消防や軍隊が、必死になって助けて下さいね、ということだ。
つまり、外国における邦人の保護というのは、相手国に代理で行ってもらうのが大前提ということだ。もしA国に邦人の保護を行う能力がない(混乱によってA国が保護能力を喪失していたり、A国の保護能力を上回る災難が発生していた場合)、日本はA国に対して渡航しないように警告を発する。この警告というのはつまり「A国に行って、どんな事態に巻き込まれてもA国の助けは期待できないし、日本政府としても責任もてません」という意味だ。
以上のような原則を、国家の側が崩してしまうと、どうなってしまうか。日本のA国民に対する保護が不十分だということで、A国の軍隊が日本に次々と上陸し、A国国民の保護を行った場合。こういう事は、第二次世界大戦前には、よく行われていた。これも、相手国の同意を得て行う場合と、同意を得ずして行う場合とがあるが、後者は今日通常「侵略」と呼ばれる。前者も同意のとり方が問題とされて、後日「侵略」ではないかという議論になったりする。アメリカなどは、二次大戦後もこういった自国民保護を平気でやるが、現在こういった能力を保持し、平気で行う国は少数だ。言い換えると、「侵略国」になるリスクとひき換えてまで、危険な国や地域に自国民を送り込む国は減っているということだ。逆に、日本は戦前には明らかに危険なところに自国民を送り込んでいた。日本軍の派遣がなければ危険だということが明らかなところに。日本国政府の直接的なマンパワーの投入による邦人保護は、結局何を引き起こすのかということは、とりあえず押さえておかなければならない。
もう一つ、個人が以上のような原則からはずれて行動してしまうと、どうなるのか。つまり、日本の外務省などが立ち入らないよう警告している国や地域に足を踏み入れ、そこで何らかの事件・事故に巻き込まれた場合。これはもう「自己責任」としか言いようがない。日本国のサポート対象外のところに行ってしまったのだから。
A国の保護が期待できないからといって、日本の自衛隊なりが出ていくと、当然別の意味での多大なるリスクを日本は抱え込んでしまうことになる。一番こわいのは、日本はまた「侵略」をする立場になるのか、という国際世論にさらされることである。日本国に、主権領域を越えて何らかのマンパワー行使を求めるということは、恐ろしく過剰な国家権力行使を求めているということに他ならない。
以上のように話を整理した上で、「後藤さんを救出しよう」と政府に求める運動には、2つの方向性が有り得るという考えに行き着く。1つ目は、日本政府に積極介入を求める方向性。交渉などによる間接的な介入から、マンパワーの積極的な投入を求めていくというものである。この方向性の最終手段は、自衛隊などの派遣だ。ただ当然、日頃から自衛隊の海外派遣や集団的自衛権に反対している人々は、こういうことを求めているとはとうてい考えられない。そうなると考えられるのが、2つ目の方向性。逆に政府の作為を減らすよう求めるというものだ。そもそも今回の人質事件は、安倍政権のテロ組織に対する挑発が発端だという考え方からすると、そういった挑発的言動を全て撤回するなりして、不作為(つまり余計なことをするな)の方にもっていくよう要求するというものだ。もちろん不作為を求めると同時に、極力関係当事国の協力などを得て、交渉することなどは求めるだろうが。
今回の件で、2つ目の方向性で政府が出来ることといえば、対テロ支援と称した2億ドルの中東向け資金援助の支援名目を切り替えるとか、支援先を変えるとか、支援を撤回するとか、あまり多くはない。他には、中東政策では、イスラエル寄りの立場であると受け取られることを極力控えるとか、人質救出に向けてとれる措置は本当に少ない(ただ、どれも大事なことだと思うが)。大局的には、集団的自衛権行使を撤回するとか、そういったことも入ってくるかもしれないが。
ただ、非常に弱いけれども、2つ目の方向性での運動には、それなりの意義があるとは思う。「後藤さんを救出しよう」という運動も、「イスラム国」が当初身代金2億ドルを要求してきたときには、2億ドルの中東支援の撤回や、使途の変更を交渉オプションに救出を求めていく、という話なら賛同できると思ったのだが。人質解放の要求が、2億ドルの身代金から、ヨルダンに収監されている死刑囚の解放ということになって、途端に話の性質が変わってしまった。これはもう、日本政府に何かを求めて何かが変わるという問題ではなくなってしまった。日本政府としては、ただヨルダンにお願いをするしか方法がない。
これ以上の救出を求める運動は、無意味と考える(中東支援のあり方に再考を促すような運動は引き続き有意味とは思うが)。これ以上運動を続けて、日本政府を突き上げたところで、安倍首相はテロ組織に対して憤りの表情をつくりながら、自衛隊派遣などの「国家としてのサービス」を充実させていくだけのことだ。
日本という国に、必要以上の強権を行使させたくなければ、「自己責任」という割り切りは、どこかで必要になってくるはずだ。何もかも国家に責任があると突き上げると、結局はその権限行使の強化を是認してしまう方向に絡め取られ、いずれ個人の首を絞めてしまいかねないと思うのだが。

