中国が続いたので、茅ケ崎、日本に戻ってみたい
<茅ヶ崎市、中学校の13学区>

小学校に続き、茅ケ崎市の中学校の学区に関して、二つの概略図を作図した。

一つ目は学区の区境で3学区以上が集まる地点を繋ぎ、

二つ目は隣接学区(中学校)同士を繋ぎ、

位置関係を示したものだ。

<5人に1人の避難所>

小学校19区に比べ、6区少ない13区だが、両者合わせて32箇所が茅ケ崎の避難所の全容でもある。

13中学校の避難所としての収容人数合計は19,979人。先日紹介したように、小学校は33,441人なので、総計で53,420人。最新の2019/12/01現在の推定人口は242,013人なので、22%が収容できる計算だ。多いとみるか少ないとみるかは災害の度合いによるだろう。

因みに、2018/04/01現在、全国で指定されている指定避難所は 74,050 箇所、収容可能人数は約 3,511 万人となっている。総務省統計局による2019/11/01現在の推計総人口は,1億2,618万人 。 茅ヶ崎よりは5%高い27%の収容ができる。

https://www.stat.go.jp/data/jinsui/index.html

この13地域分けは、自治会の区分とも連動し、災害計画にも密接な関係をもっているが、特に、中学校は災害時の避難所としてだけでなく、医療拠点、医療救護所として設定されている。

なお、文科省では、「災害に強い学校施設づくり検討部会」(第9回:2014/06/05)においての配布資料で「教育活動と避難生活の共存を想定した対策を講ずる必要性が改めて明らかに」として、東日本大震災のとき、ピーク時では622校が現実に避難所となったことについて、次のように総括している。

https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/shisetu/013/007/shiryo/__icsFiles/afieldfile/2014/03/14/1345093_5.pdf

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「歴代皇帝を中心にみる中国人名体系 メモ」図
さて、「中国地勢」の14枚に続いて、中国史を頭に叩き込むためには、アナールのようなプロ集団でもないので、四の五の悩やまずに、やはり、各王朝の皇帝を叩き込むことを基準にした方がよさそうだ。
始まりは、皇帝の人名からだ。でも整理を続けると、さすが中国史。その人名そのものに行きつく手前の人名の構造・体系を紙一枚にするにも鬱蒼とし過ぎている。とりあえず、項目を列挙してものを中心にメモを作図してみた。

名前の種類を類別する呼称はなんと13もある!
実は「本体」の王朝、そのまた皇帝から攻めるよりは、周縁の夷狄から囲い込んでは、と暫く試行を続けたが、権力の歴史、「勝てば官軍」で、「本体」と「周縁」の入れ替わりも含めて、結局は全史になってしまうので、棚に上げた。
とはいえ、「易姓革命」なんて、超「権威」的に有為転変までをも取り込んでしまった「権力」の猛者たちの連なりだ。「権力」による「権威」のクリプト化といおうかグロッタ化も生半可でない。<天帝使我長百獣>と豪語するだけあって、人名は、人間を、その王を、他と区別する初歩中の初歩として、時代によっての行きつ戻りつの塗り込みが激しい。
おかげで、そのアトランダムともいえるほど度々送り出されるそれぞれの人名の形の中華の波紋は、追い越したり、重なったり、反射したりで、周縁国家群には、周回遅れのトップランナーにしか過ぎないことを忘れさせるほどに、複雑に絡み合う。
日本語の、例えば、「公」というものを複雑怪奇にした、といおうか解り難くした、日本の諡号や廟号やなんやかやは、まさに、その根源的な由縁として、本家本元として、中国史上の人名を整理していくことは重宝だ。
いや、そもそも、中国史を頭に叩き込もうと思ったのは、日本語の始まりを探ろうと思ったからで、「人」に「固有」の「名詞」なるものは、「ことば」の根幹の一つとして、先回りできるかもしれない。

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中国の地勢、その6。
中国史を頭に叩き込むための中国図作図の続きというおうか、脇道の続きです。
前回の作図に、歴代の主要各「都」の勢力が如何程のものであったか「見える化」(文系と理系の狭間といおうか、文字表現と図像表現の狭間にある、一段とあやしげな言葉だが)させたものを、合間の作業として、いたずらに⑭図【「都」の歴史的重さ・勢力変遷図】を作った。
前回述べたように、数字を絶対的客観性のようなものを備えているかのように示す詐術を超えて、時間という単位を空間的な単位で置き換える詐術だ。さらに、それを、観念的な年数で示すか、数字で示すか、図像として、線分で示すか、円で示すか、他にも、いろいろある中でも、今回は恣意的に円で表現した。
今流行りの「印象操作」が「年数で示すか、数字で示すか、図像として、線分で示すか、円で示すか」如何に違うように誘導できるか例示したくなるものの、いずれかの機会に譲りたい。
とはいえ、西安=長安、洛陽から北京へと大きくカーブを描きながら、途中で侵略や内戦によって南京や台北へと向かう枝分かれのカーブが描かれていて、何となく解ったような気がする図ができたので、少しばかり満足している。

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中国の地勢、その5。
◆資料の揺らぎ◆中国史を頭に叩き込むための中国図作図の続きというおうか、脇道です。脇道とはいえ、あまりにも、根拠としたい「公式」資料によっての異同があり過ぎて、重箱を重ねるかのようなメモになってしまった。
脇道自体は、脇道とはいえ、前からイメージ化するため、個人的に作ってみたかったもの。
◆都の三次元平均◆以前から脇道として歴史的にみた「都」の平均的な位置を割り出したかった。位置は経度と緯度の二次元、それに歴史、つまりは時間、その経緯度に「都」が設置されていた年数という三次元目を加えた、歴史的な平均位置だ。予めお断りしたいのが、これは詐術的な論考であり、氾濫する情報を整理するための気休めだ。最後にその詐術の詐術たる所以の一端に触れておきたい。でも、全ての仮定や前提が前提であることを確認してみることができるならば、一理の理があるとは思っている。
◆都の重心◆そうした加重平均のような計算をすると⑪図に示した「北緯35°、東経113°」が歴代「都」の時空間的「重心」だ。
◆中国核心部の面積◆さて、勝手に決めた、中国の核心部、北緯20-40度、東経105-120度の面積は北に行くほど、経度間の距離が窄まっており、凸球面の一部ではあるが、凡そ台形であると考えることができる。上辺/北辺は1277.6㎞、下辺/南辺は1568.6㎞、高さは経度間はいずこも同じ1緯度あたり111.3㎞、の20緯度分で、222.4㎞なので、3,163,697㎢だと仮定できる。どうせ仮定なので、これを円周率、πの切りの好い倍数にあわせるため、少し(0.7%)下方修正して、3,141,592㎢としてみよう。
◆1,000㎞の円◆都合よく、ちょうど半径1,000㎞の円が中国の核心部、政治中心部の面積といえる。図式化すると、⑫図のようになる。
◆実際の現代中国面積との異同◆実は現代中国の実際の面積は、半径1,000㎞の円の3倍の9,424,775㎢より少し多い。実際の面積については、次に述べるように諸説あることもあり、大勢に影響はないと勝手に思っているが、後程記すように、中国の歴史を核心部で捉えていくという仮説と良く一致する。
◆中国国土面積の揺らぎ◆例えば、Wikipediaをみても、中国の面積は、はっきりしない。領有権の問題も含め、いくつかの項目間、各国語版間で異同がある。典拠がまちまちだからだ。これは中国に限らず、他の多くの国々も同じ問題を抱えている。
Wikipedia日本語版では、9,572,900㎢(ブリタニカ)、 9,596,9611㎢(国連統計局)㎢としていて、さらに、アクサイチン、カラコラム回廊、香港、澳門(マカオ)を含めるとそれぞれ、 9,640,011㎢、 9,641,145㎢らしい(備考欄が難解でよくわからない)。一方、典拠のない「中国行政区分の面積一覧」では合計が9,565,216㎢だ。
◆揺らぎは数パーセント◆一方、これまでの作図では台北を含めてきたので、これらに、台湾の36,188㎢を足すと 「典拠無し」:9,601,404㎢、ブリタニカ: 9,676,199㎢、国連統計局:9,677,333㎢。半径1,000㎞の円の3倍の9,424,775㎢に比べると、1.9%、2.7%、2.7%と、都合よく、それほど大きな違いはない。
◆日本の面積の揺らぎ◆因みに、国連統計局による日本の面積は377,972㎢、「一般財団法人国土技術研究センター」では377,971㎢、そして、外務省hp各国語版では「約378,000㎢」と「約」で表現している。内閣府をはじめ、中央省庁で、国土・領土の面積を探しても、北方や島々のことはあっても、全体について、しかも数字つきのものは見つからない。
中央省庁では、国土地理院の「全国都道府県市区町村別面積調」(H28年度)で積み上げた数字、377,971.57㎢しかない。平成27国勢調査(総務省統計局)にも積み上げ数字があるが、これは377,970.75㎢で、1.18㎢少ない。
◆日本の境界未定地域◆同調で「都道府県にまたがる境界未定地域」の合計は12箇所、12,780.26㎢にものぼる。全体の1/30だ。しかもこれは「都道府県にまたがる」もの。これ以外の各都道府県内の「市町村等にまたがるもの」は74地域、36,160.75㎢。合計、48,941.01㎢。実に12.9%が「境界未定地域」。
◆国家間の境界未定地域◆こうした「国内」事情を日本と比べて、中国の「国内」各省間に、どの程度抱えているか分からない。いずれにしろ、国内ですらこういった状態なので、人間社会、「国をまたがる」国家間の領有権問題、紛争、つまりは境界未定地域が数%というのも致し方ないものかもしれない。
◆在米日本大使館による日本の面積の不思議◆ところで、色々な「公式」サイトを調べたが、面白いのが、在米日本大使館だ。362,215㎢とある。
この根拠もさることながら、注に(slightly smaller than California)とある。ワイドショー解説ならともかく、日本外交の最大手の出先のサイトでの表記として、モンタナ州の38万㎢台の方が近いのに、カリフォルニア州は42万㎢台を比較基準にするのはどうかなあと思う。確かに州名の如く、山の多い州ではあるが、、、、
◆「本島面積」という由来◆因みに362,215㎢はインターネット上の総務省統計局の「 第六十五回 日本統計年鑑 平成28年」のうちにある「1-1 国土構成島数,周囲及び面積」の最右欄の「本島面積」の数字と一致する。積算をみると、北海道:77,984、本州:227,943、四国:18,298、九州:36,783、沖縄:1,207とある。
意図的なのかどうか、最右欄を引用しただけか、分からないが、不思議な引用だ。他の大使館等は外務本省と同じようなもので、在米大使館だけが独自で出色だ。
◆現代中国、半径1750㎞の円◆さて、脇道の中国に戻ろう。諸々ある中国の面積の数字の中間をとって、9,621,127㎢としよう。ちょうど半径1750㎞の円になるからだ。核心部の3.0625倍、凡そ3倍で都合が良い。核心部に、倍の大きさの周縁部が囲んでいるというイメージだ。
実は、このイメージは現実とよく符合する。図式化すると、⑬図のようになる。本当は右側、東側が膨らんだ、卵を横倒ししたような曲線が描ければいいのだが、、、、
実は、各省政府の提供する数字を典拠としている英語版Wikipediaの各省面積一覧での合計は9,634,057㎢で、これに台湾の36,188㎢を足すと、9,670,245㎢となり上記の半径1750㎞の円、9,621,127㎢と0.5%の違いしかなく都合よく一致する。
◆辺境州と核心部の割合、7:3◆さて、中国の大きい省は「国境」沿いだ。英語版Wikipediaから南のベトナムと接する「広西チワン族自治区」から順に朝鮮半島との国境までを9州を時計回りになぞると歴然とする。各省の面積順位、面積、全体に対する面積比(台湾を含まない)が次の通り。
9位 広西チワン族自治区 236,300㎢ 2.46%
8位 雲南省 394,000㎢ 4.11%
2位 チベット自治区 1,220,000㎢ 12.30%
1位 新疆ウイグル自治区 1,600,000㎢ 16.70%
7位 甘粛省 450,000㎢ 4.69%
3位 内モンゴル自治区 1,183,000㎢ 12.30%
6位 黒竜江省 469,000㎢ 4.89%
14位 吉林省 187,000㎢ 1.95%
21位 遼寧省 145,700㎢ 1.52%
合計が5,885,000㎢になる。
4、5位以外の面積トップテンが入っている。如何に中国が領土拡張の努力をしてきたか分かるが、逆に言えば、残りのたった4割が中国の核心部の側にあるということだ。
4、5位の州は国境沿いの西部の省の「中一つ」にある。西の国境州の内側東側にある青海省とそのさらに東側隣の四川省だ。後述することになると思うが、成都もあり、日本で辛い四川料理の名としてきかれる四川省の特異性がここにある。同じように北京も極めて北限に近い都市だ。青海省の722,300㎢を上記9州に加えると、6,607,300㎢で全体の68.5%になり、残りが3,062,945㎢で上記の半径1000㎞の円の3,141,592㎢と2.5%違いで、ほぼ同じだ。
◆詐術、もしくは詭弁◆最初に記した注意点だ。これは確率論とか統計論等にみられる理系と文系の狭間にある疑似科学的、詐術的な論述だ。
①詐法は無数にあるが、その一つであり、根本的かつ分かり易い詭弁は、空間も時間も一様であることを前提としていることだ。
②さらに、それらの時や空間が次元が交換可能な、しかも等価で交換可能な、次元であるように前提していることだ。それは理系では、比較的古くから不確かなことと受け止められているのに、未だに限定付きではあるものの、世間では依存し続けている「空気」の中にあること自体が問題の根源にあって、厄介だ。
◆人による、人のための、人の詭弁◆少なからぬ、一部の、文系では、未だに、軽く、迷信とまでいわなくとも、無前提な絶対前提のように使われている。同じ時間や空間と称していても、文系と理系を分かつのが、両者とも観測者は同じであっても、文系の観測対象が人間由来であることだ。そこからして時空間が歪んでいるのは明らかだ。
◆悪意による、悪意のための、悪意の詭弁◆その人為、その作為は人である以上、当たり前かもしれない。でも悪意をもって使われているとしか思えない使い方、都合の良い数字が溢れ、跋扈する世の中になってきた昨今、パラダイム・チェンジのときが訪れたのかもしれない。

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中国の地勢、その4。各王朝等歴代「首都」
◆中国史を頭に叩き込むための中国図の続きです。各王朝の勢力が何処まで及んだか、国境がどのようになっていたかは、土地に馴染みのないものにとって、中々頭に叩き込み切れない。とりあえず、政治中心であったと思われる首都の位置を、現在の中国の行政区分の「市」レベル別にマッピングしてみた。とりあえず4つの図を作成した。
⑦「中国_首都名_現在行政区分別_地名_異名_(経緯度)」一覧
⑧「中国の都がその地(現在「市等」)に初めて設置された順(周以降)」経緯度図
⑨「中国の都が設置累計年数30,100年以上の地(現在「市等」)(周以降)」経緯度図
⑩「「都」設置累計30年以上の「都」名変遷」経緯度図
◆紀元前1122年ー2018年、2,040年間、西周の鎬京(現:陝西省の西安市)以来、136首都、49箇所だ。平均すると、ちょうど、Ⅰ首都当たり15年だが、複数の首都があった時期を含めると延べ3,766年なので、27.7年、現在の行政区分での1箇所当たりが76.9年だ。
◇現代のこの日本列島に住む者にとって未だに京都に次いで「都」のにおいがするのは「奈良」。その奈良も、長くとって、平城京とよばれて平安京に遷されるまでが84年、短くとって、間の長岡京に遷都されるまでも74年である。そのことを考えると、中国は広く、歴史も日本より古く迄遡るとはいえ、結構な数の「都市」が未だに「都」のにおいがしているのだと思われる。
◇「奈良以上」に長きにわたって「都」であったのが8箇所、西安=1002年、洛陽=772年、北京=586年、南京=238年、開封=167年、杭州=152年、武威=122年、成都=85年、次いで、台湾の台北が68年だ。
◇権力や権威の実態的な威勢は別としても、累積年数で最長は現陝西省の西安市の1002年間、単独の「王朝/帝国」では現河南省の洛陽市にあった、「東周」の洛陽の512年間だ。
◆首都とは、為政者もしくはその取り巻きが政治的な権力や権威の「重心」を置こうとしたところだ。既に実態的な「重心」が先行していた場合もあろうし、逆に、人為的に、つまりは他の地勢を殺ぐために置いた場合もあろう。
◇そうしたことを考えると、歴代中国の政治の「重心」は黄河沿岸だった。トップの二つの西安と洛陽、そして長江(揚子江)と大運河によってつなぎ目となった、開封を加えると少なくとも半分以上の1941年間もの長きの間だ。
◇西の<長安(西安)>に対して東の<洛陽>というらしい。
<長安>は黄河上流(支流)の一つ「渭水」沿い、山奥の盆地にあり、洛陽は黄河中流の「洛水」沿い、山から平原に流れ込む辺り。
◇因みに、日本の京都を「洛」で表すようになったも、平安京の西半分を長安城、東半分を洛陽城とよんだものの、西側は湿地帯で廃れてしまったということだ。
◆いずれにしろ、北方の異民族の脅威への対抗と豊かな沿岸部ということで、政治の重心があったのだろう。
◇北方の異民族の侵入や内部分裂によって<南京>などの他所へ移った時期もあったが、北方の平定、安定によって首都の北漸、今日の<北京>に繋がる。
◆ところで、これらの図で特筆した都市達の掉尾を飾るのが、中国での首都設置累積年数12位の<邯鄲>。
4世紀の百年の間に、三つの王権が、首都を足掛け、それぞれ2年、13年、15年と「邯鄲の夢」を枕にみた。

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中国の地勢、その3。
中国史を頭に叩き込むための中国図の続きです。
中国核心部全体の一応の地勢図ができたので、歴史図に取り掛かりたい。
とりあえず、古代王朝、夏、殷・商時代から西周が終わって、周王室の権威が崩れていった東周後半の時代、春秋戦国時代の図。
⑤まずは朧げな東周とその周りの数々の夷狄。
夷狄については無数の資料からの断片的な情報の集積のせいか、同じ夷狄であっても、異名であったり、同じものが複数のもので表されたりしてはっきりしないので多くの市販書で一致する物の中、時代や地域を「アバウト」にして記載した。ネットをはじめ、国外との日常的なコミュニケーションはもとより、「国家」観も実態も今日とは根本的に違う時代だ。たまに、交易や交戦で接触した、その折々の「名」を反映しているのだろう、、、、
⑥次に、周の内部の様子として「戦国七雄」を記入した下図を描いた。
当たり前だが、大河と平原や盆地というそれぞれがヒンターランドに依拠していることが分かる。なお、「春秋五覇」はなにを指すかの定説がなく(Wikiによると8ヶ国、12王にもなってしまう)いずれにしろ戦国七雄に塗り替えられていくこともあって、今回は突き詰めることを棚上げした。

実は、そもそもの最初、夷狄の歴史変遷図を始めに作って、いわば帰納的に、中国本体が描けるかと思って調べたが、豈図らんや、いとも明らかに根本的な考え方として浅はかであったことを認識した。とはいえ、材料はだいぶ揃った。
中華の歴史は東洋史の王道であって、孔子の「夷狄之有君、不如諸夏之亡也」をどう解釈しようが、2000年にわたって、夷狄は、所詮、中華あっての夷狄に過ぎないものとして、あり続けてきたのだろう。
そして2000年があけて、ようやく世界の超大国となっても、まだまだ周縁不安がある実態の中、ポリティカル・コレクトネスが喧伝される時代が野合し、結局は、夷狄側からの歴史観はおろか、夷狄側を視座とした歴史図は見つけるのは難しい。
そもそも、当時より、都に居をおく定住民の統治者にとってバーチャルなイメージの地図が必要なほど、リアルに現場を走り回る移動民の統治者にとって地図は必要ないのかもしれない、と素人目には感じられる。

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中国の地勢、その2。
中国史を頭に叩き込むための中国図の続きです。昨日の地図にまず、上図で、
③ 2大・大河、黄河と長江(揚子江)と高度を付け加えた。
中国では自国を沿岸部から内陸に3つの高度(第3-1階梯)に分ける慣習があるらしい
この縦、ほぼ南北の線、分水嶺のような両矢印で示したヘリの線が中国地勢の理解には役に立ちそうだ。
その次の下図の地図には
④主要な平原、丘陵、盆地と高原を付け加えた。
現代中国では4大高原、4大盆地、それから5つの平原を主要な地形として列挙しているらしいが、ここでは西方や北方のものは省いた。所詮、中華からみた地勢なので、核心部に留まっていた方がズレが少ないかもしれない。
なお、これは、1週間ほどああでもないこうでもないと一応は考えたものの、1-2時間ばかりで仕上げた、全くの私製のもので、中国生まれの人、中国在住の、いわゆるネイティブの感覚は勿論、常識にすら擦り合わせていないものです。
間違いをご指摘いただければ幸甚です。

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日本、日本語の発生を探るに、言語や宗教など、様々な角度からの中国史への配慮が必須だ。そのために、先ずは、中国の地勢を叩き込むことが必要だ。様々な歴史図を集めながら、幾つかのラフは描けるようになったが、要は、夷狄を除くと、意外と簡単な図になることが朧気ながらみえてきた。そして、中国の核心を東経105-120度北緯20-40度の間に据えてみると落ち着いてみえることが分かってきた。その核心部を、上図が比較的精確な図で、下図が5度四方の升に描いてみたものだ。

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<茅ヶ崎市、小学校就学児の住む町界>

昨日の19学区とは違う地域の区切り、これまでと同じ「町界」59のうち、小学生が多く住むところを図式化した。

小学の校1-3年と、4-6年にほぼ該当する6-8歳児と9-11歳児のそれぞれが、町界内で年齢別にみたときの比率が高く、全ての町界中、その率が上位の町界の図の2つ。

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<茅ヶ崎市、小学校の19学区>

茅ケ崎市の小学校の学区に関して、二つの概略図を作図した。

一つ目は学区の区境で3学区以上が集まる地点を繋ぎ、

二つ目は隣接学区(小学校)同士を繋ぎ

位置関係を示したものだ。

合わせて、生徒数、大きさも表す非常時での避難所としての収容可能人数と、校章も一覧できるようにした。

<学区にとっての小学校、6頭身の地域の顔>
学区はその地域の歴史性を多く反映し、行政の地域分けに必ずしも重ならず、飛び地もあって、錯綜していることもあって、凡その位置関係、全体を俯瞰するためのものを作ってみた。
前回紹介した乳幼児が親、保護者、地域の援けなくして生活できないのと同様、場合のよってはそれ以上に地域内で最も激しく動く人口であることからも、児童の在り様と地域の在り様とはお互い、大きく決定する要因だと思われる。
大規模事業所が限られ、郊外都市である茅ヶ崎市にとって一小学校当たり700人弱というコミュニティはその地域の1,2をも争う地域「集団」だ。親、保護者、教師等を含めると2,100人前後の「リアル」でまさしく「ローカル」なコミュニティだ。
しかも2,100人とは、総人口24万人を19で割ると一学区当たり12.7千人のうち、1/6の大集団だ。6頭身の顔といっても良いだろう。
<小児の集団、コミュニティーだけない、地域最大級の空間、「公」空間、避難所小学校>
茅ケ崎市では公立小学校19校、公立中学校13校を災害対策地区防災拠点(「地区防災拠点」)に指定している。市のHPによると、
役割は、
1.水、食料、救援物資などの配布
2.被災状況、安全安心情報の提供、生活情報、支援情報の提供
3.家族の安否確認
4.災害時の避難所(一時的に生活する施設、「避難所」)
対象者は、
1.住宅が被害を受け、居住の場を失った方
2.災害により被害を受けるおそれがある方
3.地域外から来て、帰宅することが困難な方
4.その他、災害により生活の自立が困難な方
また、このHPでは、各所の収容可能人数を次のような説明で示している。
「収容可能人数は、体育館、普通教室及び特別教室の合計面積を2平方メートル/人で割った数字の小数点以下を切り捨てた人数」
要は、一人当たり約2平方メートル、つまりは畳1畳強(いささか窮屈かと思われるが)を一人分として割ることによって、体育館と教室の合計面積から収容可能人数を示していることになる。
逆にこの収容人数を2で掛けると体育館と教室の合計面積になり、各学校の大きさが分り、小学校の「人口密度」が分ることになる。
市の合計で児童数が13,080人、つまり、親や保護者がこの学区に住むと考えられるので、この3倍を小学生がいる世帯とみると、凡そ39,000人。一方において、収容可能人数の合計は33,441人と6,000人少ない。一人っ子が多いことから考えると、もう一つの「避難所」である中学校の避難家庭と重ならないと考えられると思われ、避難所の収容能力は小学生のいる世帯の人数分にも満たない。
全員避難という非常時は考え難いものの、市立の小中学校しか「避難所」しか指定されていない現状では自ずと限界がある現状を示している。
なお、市内の私立の小学校は1校で90人強の生徒数、特別養護学校は1校で小学部が40人弱の生徒数だ。
<典拠>
小・中学校児童生徒数及び学級数
https://www.city.chigasaki.kanagawa.jp/.../1005143.html
茅ケ崎市立 小学校・中学校ホームページ
https://edu.city.chigasaki.kanagawa.jp/
小・中学校通学区域
https://www.city.chigasaki.kanagawa.jp/.../1005146.html
https://school.mapexpert.net/pgAreaMap?L=14207...

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