中国の地勢、その3。
中国史を頭に叩き込むための中国図の続きです。
中国核心部全体の一応の地勢図ができたので、歴史図に取り掛かりたい。
とりあえず、古代王朝、夏、殷・商時代から西周が終わって、周王室の権威が崩れていった東周後半の時代、春秋戦国時代の図。
⑤まずは朧げな東周とその周りの数々の夷狄。
夷狄については無数の資料からの断片的な情報の集積のせいか、同じ夷狄であっても、異名であったり、同じものが複数のもので表されたりしてはっきりしないので多くの市販書で一致する物の中、時代や地域を「アバウト」にして記載した。ネットをはじめ、国外との日常的なコミュニケーションはもとより、「国家」観も実態も今日とは根本的に違う時代だ。たまに、交易や交戦で接触した、その折々の「名」を反映しているのだろう、、、、
⑥次に、周の内部の様子として「戦国七雄」を記入した下図を描いた。
当たり前だが、大河と平原や盆地というそれぞれがヒンターランドに依拠していることが分かる。なお、「春秋五覇」はなにを指すかの定説がなく(Wikiによると8ヶ国、12王にもなってしまう)いずれにしろ戦国七雄に塗り替えられていくこともあって、今回は突き詰めることを棚上げした。

実は、そもそもの最初、夷狄の歴史変遷図を始めに作って、いわば帰納的に、中国本体が描けるかと思って調べたが、豈図らんや、いとも明らかに根本的な考え方として浅はかであったことを認識した。とはいえ、材料はだいぶ揃った。
中華の歴史は東洋史の王道であって、孔子の「夷狄之有君、不如諸夏之亡也」をどう解釈しようが、2000年にわたって、夷狄は、所詮、中華あっての夷狄に過ぎないものとして、あり続けてきたのだろう。
そして2000年があけて、ようやく世界の超大国となっても、まだまだ周縁不安がある実態の中、ポリティカル・コレクトネスが喧伝される時代が野合し、結局は、夷狄側からの歴史観はおろか、夷狄側を視座とした歴史図は見つけるのは難しい。
そもそも、当時より、都に居をおく定住民の統治者にとってバーチャルなイメージの地図が必要なほど、リアルに現場を走り回る移動民の統治者にとって地図は必要ないのかもしれない、と素人目には感じられる。

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