中国の地勢、その4。各王朝等歴代「首都」
◆中国史を頭に叩き込むための中国図の続きです。各王朝の勢力が何処まで及んだか、国境がどのようになっていたかは、土地に馴染みのないものにとって、中々頭に叩き込み切れない。とりあえず、政治中心であったと思われる首都の位置を、現在の中国の行政区分の「市」レベル別にマッピングしてみた。とりあえず4つの図を作成した。
⑦「中国_首都名_現在行政区分別_地名_異名_(経緯度)」一覧
⑧「中国の都がその地(現在「市等」)に初めて設置された順(周以降)」経緯度図
⑨「中国の都が設置累計年数30,100年以上の地(現在「市等」)(周以降)」経緯度図
⑩「「都」設置累計30年以上の「都」名変遷」経緯度図
◆紀元前1122年ー2018年、2,040年間、西周の鎬京(現:陝西省の西安市)以来、136首都、49箇所だ。平均すると、ちょうど、Ⅰ首都当たり15年だが、複数の首都があった時期を含めると延べ3,766年なので、27.7年、現在の行政区分での1箇所当たりが76.9年だ。
◇現代のこの日本列島に住む者にとって未だに京都に次いで「都」のにおいがするのは「奈良」。その奈良も、長くとって、平城京とよばれて平安京に遷されるまでが84年、短くとって、間の長岡京に遷都されるまでも74年である。そのことを考えると、中国は広く、歴史も日本より古く迄遡るとはいえ、結構な数の「都市」が未だに「都」のにおいがしているのだと思われる。
◇「奈良以上」に長きにわたって「都」であったのが8箇所、西安=1002年、洛陽=772年、北京=586年、南京=238年、開封=167年、杭州=152年、武威=122年、成都=85年、次いで、台湾の台北が68年だ。
◇権力や権威の実態的な威勢は別としても、累積年数で最長は現陝西省の西安市の1002年間、単独の「王朝/帝国」では現河南省の洛陽市にあった、「東周」の洛陽の512年間だ。
◆首都とは、為政者もしくはその取り巻きが政治的な権力や権威の「重心」を置こうとしたところだ。既に実態的な「重心」が先行していた場合もあろうし、逆に、人為的に、つまりは他の地勢を殺ぐために置いた場合もあろう。
◇そうしたことを考えると、歴代中国の政治の「重心」は黄河沿岸だった。トップの二つの西安と洛陽、そして長江(揚子江)と大運河によってつなぎ目となった、開封を加えると少なくとも半分以上の1941年間もの長きの間だ。
◇西の<長安(西安)>に対して東の<洛陽>というらしい。
<長安>は黄河上流(支流)の一つ「渭水」沿い、山奥の盆地にあり、洛陽は黄河中流の「洛水」沿い、山から平原に流れ込む辺り。
◇因みに、日本の京都を「洛」で表すようになったも、平安京の西半分を長安城、東半分を洛陽城とよんだものの、西側は湿地帯で廃れてしまったということだ。
◆いずれにしろ、北方の異民族の脅威への対抗と豊かな沿岸部ということで、政治の重心があったのだろう。
◇北方の異民族の侵入や内部分裂によって<南京>などの他所へ移った時期もあったが、北方の平定、安定によって首都の北漸、今日の<北京>に繋がる。
◆ところで、これらの図で特筆した都市達の掉尾を飾るのが、中国での首都設置累積年数12位の<邯鄲>。
4世紀の百年の間に、三つの王権が、首都を足掛け、それぞれ2年、13年、15年と「邯鄲の夢」を枕にみた。

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