そもそもが動物と子供、更にはその病や死を描く企画自体があざとい。
大好きな最初の飼主を死別して、転生を繰り返しならが、ようやく再会するというお話。
次々と生まれ変わり犬種や性別が変わっても、記憶だけは何となく残っていて、
その犬自身の声(視点)で物語を語るのだ。
この擬人化したナレーションには拒否感もあるかもしれない。
でも物語上、犬自身の声か、神の声(文字通り創造主か映画つくり手)か、
いづれかのナレーションなしには成立できないプロットだから仕方がない。
まあ擬人化と言っても言葉のみで、行動は犬のままなので許容範囲だろう。

しかし予告編で全てネタバレになっとるぞ!
基本的に物語は予告編のまんまで、話を少々膨らませてこそはいるけど、
一番泣かせるポイントであるオチまで堂々と披露しているのだ。おいおい、そこまでして売り込むか。
文句を言いながらも、やっぱり転生する犬がコーギーとなれば劇場へ駆けつけるしかない。
やっぱりコーギーが可愛すぎる。
やたらと食いしん坊で飼主の食事も何でも食べたり(ピザにアイスクリームは駄目だろ)、
「あれ、尻尾は何処へいったの?」とクルクルと回ったり、
「そんなに急がないでよ、僕は足が短いんだ」と飼い主の後をちょこまかと追う姿には目じりが下がる。
最初のゴールデンレトリバーの賢さ、運動能力の高さ、何よりも飼主イーサンへの無償の愛情といい、
やがて訪れるその悲しい別れといい、犬を飼ったことがある人にとっては、
我が家の犬を思い出してはあるあるだらけで、時折うるっと来てしまう。
おもちゃを運んでくる様、ベッドで一緒に眠りたがる姿、
身体に鼻先を乗せ上目づかいで飼主を眺める様子など既視感一杯でたまらない。
確かに全体的な物語は生まれ変わりのシステム、飼主との再会などご都合主義でいっぱい。
細かいツッコミを入れるとキリがないけど、これはアラを見つける映画ではなくて、
犬と人のどこにでもありがちな日々の生活を描いた作品なのだ。
監督は「HACHI」に続き犬映画専科と化しているラッセ・ハルストレムなんだから困ったものだ。
北欧出身のヒューマンドラマの名匠がいつの間にか犬屋さんとなっているぞ。
でも監督は作品全体を湿っぽく、如何にも泣かせるがための演出で
作品全体をベタベタに厚化粧しないのが好感が持てる。
犬と人との細部の描写にこそが全てであるかのように、老いや死を美化してとりわけ強調しない。
犬に限らず全ての生きとし生けるものにとって死は平等に必然であり、決して逆らえない。
作劇上のの死と生まれ変わりと言う流れを受けとめてしまえば、違和感はない。

ちなみに我家のコーギーは8歳。
もう犬の年齢ではシニア扱いであり、多分飼主夫婦二人の年齢を越えたしまった。
そんなに遠い未来ではない日に、訪れるであろう別れを想像するだけで途轍もない悲しくなる。
ちなみに反則技とも言うべき犬との別れの映画は「いぬのえいが」の中の一篇。
映画泥棒からチェックされるかも知れないけど。監督は犬童一心。犬の心の人なのか?


偏愛度合★★★

いい加減にネタが被り過ぎ。
多分監督自身も自覚しており、これが最後だろうけど、
主役を変えても脇を固めるのが常連ばかりで、
「モテキ」「バクマン。」などのこれまでの作品の既視感だらけ。
いつも同じ作風で一貫して、同じことを撮り続ける大家もいるけど、その域に達するにはまだ早い。
もっと大根監督の様々なジャンルでの異なった作風での冒険を楽しみたいのが本音。
とりあえず今後リリー・フランキーと新井浩文の使用と雑誌編集部の登場は禁止すべきだろう。
全体的に小ネタの寄せ集めで、細部細部では結構楽しめるのだけれども、物語全体として、
奥田民生になりたいボーイが全ての男を狂わせるファムファタールと出会うことによって、
大人に成長するビルドゥングスロマンとしては中途半端。
妻夫木聡が童顔としっかりとした演技力でオーラを消した情けないモラトリアム青年を演じ、
プロット的には物語の最初と最後をオーバーラップさせて、
一応成長しているようにはしているけど、その過程や共感性、説得力はちょっと弱いかな。
原作由来かも知れないが、ちょっと狂った恋バナや業界裏話などの一発ネタを楽しむべき作品。
変人フリーライター役のリリー・フランキーも流石に露出が増え、独壇場だったはずの
演技規格外の素人暴走もどうやら計算ずくらしきワンパターンが見え隠れして新鮮味は薄れた。
安藤サクラのアッパーとダウナーの間を急降下する緩急演技も確かに面白いんだけど、
「ゆとりですがなにか」類似品な感じもある。
新井浩文にいたっては「モテキ」の役柄、演技そのままだし、
松尾スズキや天海祐希のトリッキーなキャラクターも同じく想定内。
やっぱり水原希子の映画なんだろうな。
大根監督の好みのヒロインを如何に美しく、きれいに、可愛く撮るかの執念は今回も健在。
だた素の彼女は劇中の女子会でのJBの物真似をしているキャラクターに近いような気がする。
インスタグラムなどを見ていても、徹底して媚びたり、異性受けを狙わない、
自分の趣味嗜好だけに真っ直ぐなパンクな気質が見受けられる。それが潔く、心地よい。
寄って来る男を無意識、あるいは確信犯的に相手の求める姿を演じるという役柄とはギャップがある。
容姿、表情、声、ファション、行動、露出とありとあらゆる手法を駆使して、
多くの男性が抱く妄想としてのファムファタールを演じ切っているのは認められる。
この手の男性が勝手に抱く妄想像って、一歩間違えば同性からは冷ややかな見方もあるだろうし、
女性観客の拠り所の無ささは否めない。

偏愛度合★★★

いい意味で闇鍋のような映画である。
何が出てくるか、何処へ向かっているのか全く予想がつかないまま圧巻の力強いで最後まで見せ切る。
元来映画ってのは見世物小屋なのだ。
スクリーン一杯に繰り広げられるありとあらゆる見世物を心ゆくまで堪能するのが本来の楽しみ方。
不条理な争乱が絶えない彼の国で、銃弾と弾丸が飛び交い、のんきにロバでミルクを運ぶ男がいて、
無造作に血が流れ、しばしば人が死にゆく、鶏が啼き、アヒルが飛び、蛇がうねり、羊が地雷で爆発し、
謎の美女が現われ、歌って踊ってのウエディングパーティーが爆撃と黒服男の襲撃で消え、
悪い星の下のカップルが行く宛てのない逃亡生活へ。もう何でもありの状態だ。
一応は三つの実話といくつかの寓話をミックスした創作とあるけど、もうそんなことは
どうでもいいくらいにリアリティを越えた奇想天外で圧巻のエネルギーに満ちたファンタジー。
舞台はユーゴスラビア解体以降、セルビア、クロアチア、ボスニアなど民族と宗教を巡り、
血で血を争う内戦が続いていた自国をもでるにしているのだろう。
これこそお馴染みのエミール・クストリッツァ節全開であり、この何でも出てくる闇鍋感は快感だ。
映画ってのは、だいたい男がいて、美女と銃弾を傍らに、
そこにいかした音楽をたっぷり添えれば傑作が一丁仕上がりなのだ。
まずは主人公を監督自身が演じる。
決して巧みな演技力というわけではないけど、飄々とした流れのままに生きる中年男の脱力感と
その奥底に秘めた愛に泣ける。
相方は至宝モニカ・ベルッチ。
肉は腐る寸前が一番美味しいと言われるが、この瞬間の危うい美しさが物語に華を添える。
個人的にはもうひとりのいかれたパンク娘である妹も捨てがたいが、二人に翻弄されながら、
ミュージシャンから戦場のミルク運びへ、更には美女を連れての逃避行へと狩りだされる。
隠れて、走って、滝に飛び込み、川を泳いで、ヤマを越えてひたすら逃げ続ける。
人の飽くことない諍いと不条理に満ちた戦争の愚かさと悲しさへの皮肉を、
カップルの逃避を通して描きながらも、その厳しい旅路と最後の顛末にはちょっと悲しくなる。
また監督自身が率いる「ノー・スモーキング・オーケストラ」の奏でるバルカン音楽が堪らない。
ブラスと弦楽器が奏でる哀愁のメロディーがどこか日本人の涙腺をしげきするのだろうか。
それに加わる圧巻のリズム隊のハーモニーには思わず劇場で足踏みしてしまう。
これだけ、テンコ盛りにいっぱい詰め込んでも2時間でまとめ上げて、
これまでの作品の集大成的な位置づけでありながらも、幅広い観客層が文句なしに楽しめる傑作。


偏愛度合★★★★

89年のベトナム中部の田舎町って、
こんなにも貧しくも素朴で豊かな自然が満ちた生活だったことに驚いた。
自分くらいの年代ならば、89年ってまだまだ記憶が生々しいついこの前という感じだ。
ガス、水道、電気も通っておらずも、農業を営み、家畜を飼い、慎ましながらも家族を養う。
夜になると深い暗闇があり、神話や物の怪に対する恐れや信心が存在していた。
流石に都市部には多くの人が集まり、自転車も三輪自動車も走り、
あちらこちらに市場が開かれているのだが、郊外の周辺部とのギャップが顕著みたいだ。
郊外の緑が豊かな田園風景を舞台にした少年少女のひと夏の青春図には期待が高まった。
緑豊かな稲田や森や川、風が抜けるていく風景が美しい。
ところがどうにも物語が動きださない。
正直なところ、舞台設定は文句なしで、少年少女の演技も十分にリアルでなので、
問題があるとすれば演出(監督)なのだ。
ベトナムといえは名匠トライ・アン・ユンがいる。
彼は既にベトナムの土着性(ローカライズ)からは離れ、ワールドワイドに作品を撮りけている。
彼に続く逸材と称されているヴィクター・ヴー監督は格違いの力量不足が感じられる。
経歴を調べるとアメリカで生まれ育ち、ハリウッドで映画を学んだらしい。
そこが明らかに凶と出ている。

まずはドローンを使った空撮の多用。
テクノロジーは映画の撮影方法を変える。
デジタルカメラが小型化し、玩具のラジコンヘリコプターでも機材を搭載しての空撮がいとも簡単になった。
その昔なら本物の飛行機かヘリコプターを高額払って飛ばして、
重量機材と撮影監督を同乗なせなければ到底得られない映像だった。
それが地上からのラジコン操作でいとも簡単に映像化できるのだ。
素人にビデオカメラを渡して撮影させると、ほぼ不安定にズームをいじりまくりブレブレで
鑑賞にてない映像が出来上がるのと同じだ。新しいテクノロジーは使い方次第なのだ。
正しく効果的な使用こそが映像としての説得力を生む。
アメリカ生まれの監督はドローンを既知していて、作品の手法に取り入れたのだろう。
効果を出している部分ももちろんあるのだが、執拗に繰り返されるドローン映像はやっぱりくどく、
映像技術を見せびらかしているにしか思えない。安易なテクノロジーの使用は物語を壊す。

もうひとつはCG。
デスクトップクラスのPCでも、それなりに未知のクリーチャー創造し、動かし、
画面の中に合成することが容易にできるようになった。
劇中で兄が語る昔話に登場する獰猛な虎を安易に映像化して見せる。
語りの中でこそ息づく神話性を無視して、映像として具体化させるセンスの無ささに驚いた。
思い出したは、小栗康平「FOUJITA」で後半に登場する幻の白い兎の姿である。
やすっぽいCGで映像化されたそのカットがそれまで積み上げてきた映画の世界観を全て破壊した。
具体的に映像化して描くべきない部分が必ずある。
映像として描かないからこそ想像力で埋め合わせをするのだ。
ドローンとかCGが簡単にできるかンくようになった現代。
無自覚な監督は安易にテクノロジーに頼り、画面にそのままの姿を並べることに抵抗がない。
ベトナムは決して映画的産業が豊かな国ではないだろう。
これらのテクノロジーがごく普通に普及されているとは考えにくい。アメリカルーツの監督故に、
舶来品をありがたり、自慢するかのごときの安易さとセンスの無ささが不快で仕方がなかった。
登場する素朴な少年、少女はもちろん、
貧しいながらも苦労して子供を育てる親、まだまだ村社会的な周囲の人々など役者はリアルに演じている。
それを記録する撮影もまたリアリズムに徹するべきだった。
安易なテクノロジー自慢によらずに、オーソドックスな固定カメラでの長回しや手持ちカメラでの移動、
ドリーやクレーンと言った昔ながらの最低限の機材で限定すべきだっただろう。
更に輪をかけて、ストリーテリングの稚拙さ。
幼い恋心や聡明な弟に対して兄のとった行動といった肝となるエモーショナルな描写が
上手く描かれているとは言えない。主人公に短絡的な行動には反感さえ生まれる。
語り口の稚拙さ故に体感時間は長く、中途半端な映像だけが美しく流れる雰囲気映画に陥っている。
題材だけに、勿体ない。


偏愛度合★★★

不思議な浮遊感を伴う作品だ。
観客が拠り所となる視点がグラデーションのように移り変わってゆく。
冒頭、恋人がまどろむベッドを早朝そっと抜け出て友人たちとサーフィンへ出かける
青年の姿が描かれる。恋人の顔をiPhoneで撮り、自転車で長い坂を下っていく。
当然彼の視点で彼女との愛の物語が物語が始まるのかと思えば、
あっさりとサーフィンからの帰宅時の交通事故で脳死状態となる。
視点は事故の報せを受けた両親の苦悩へと移りゆく。
でもそれと重なり、遠く離れたパリで心臓病を抱える女性の姿を描く。
やがて脳死判定で臓器移植が決まり、それを担う医師や移植コーディネーターの視点が重なる。
複数の視点から描く群像劇の一種なんだろうけど、留まることなく移動していく浮遊感が感じられる。
本来は映画は常に画面には不在の撮影者を意識しないという不問律で、
第四の壁の向こうから客観的に眺める形式だ。
主人自身が撮影者であったり、視覚とカメラを同調させるなどの例外的手法を除き、
映画は原則客観的なはずだが、誰かの視点と同調して主観的な感情を抱かせるのが常套だろう。
それが動いていく感じが所在がないと同時に、身を任せていると心地よく、移ろいゆくのだ。
結果として、特定の視点によらない客観性が生じる。
常に傍らから眺めている感じがする。
複数視点を交錯、カットバックさせて、全体をテクニカルに構築するのではなく、
緩やかに視点が移行していっても、物語も観客もまた違和感なく繋がっているのだ。
そこには客観的なリアリズムの視点が一貫している。
臓器移植で、ひとり青年の死が別の女性の生となり、命が繋がっていく様を
現実的な社会のプロトコルに従って、細部まで細々と描く。
作品全体を共通して貫いているのはブルーを基調とした淡い色彩の映像だ。
幻想的だけど、同時に細部までリアルに描写する。
このバランス感覚が絶妙だ。
邦題にある夜明け前の空の淡いグラデーションと
移植手術の臓器の生々しさとが不思議と同居している。
この不思議な感覚は初めてかも知れない。
監督は宣伝によるとミレニアム世代の気鋭の女性監督らしい。
女性ならではのといえば語弊があるが、今後が気になるちょっと面白い感覚かも知れない。

偏愛度合★★★★

ほんとミシェル・ゴンドリー「グッバイ、サマー」と似ている。
どちらも学校に馴染めない少年が悪友と共に車でひと夏の旅に出かけ、成長していくという話。
「グッバイ、サマー」はゴンドリーの自伝的な要素を膨らませたファンタジーらしいが、
こちらはベストセラーの「14歳、ぼくらの疾走」を映画化したもの。
偶然の一致だろうけど、主人公である少年の容姿、小柄で髪の長い顔つきもやっぱり似ている。
主人公が様々な体験を通して内面的成長を描くというビルドゥングスロマンは、
いつの時代にもある類型的な物語の定石なんだろう。何せこちらは語源の本場ドイツだ。
このような普遍性の強い物語は、自分の記憶にあってもなくても、
何故か不思議と既視感を感じ、性別や年齢を越えて、体験や感情を共有することができる。
特にひと夏の旅ってのが、通過儀礼としてのエバーグリーンなエモーションをかきたてる。
もちろん自分のリアルライフでは14歳の男友達との旅なんて全く無縁だけど、不思議な懐かしさ。
普遍性のある物語では、型枠は定まっているので、細部をローカライズすればいいだけ。
少年の母はアル中、父は浮気中でクラスでは変人扱いで、
彼を旅へ誘う転校生がアジア系のロシア人という行動予測不能なはみだし者。
現在の家族像や移民問題やをちょっと社会背景として脇に置いておく。
旅の手段である無断借用してきたオンボロ車って「盗んだバイクで……♪」という歌詞と同じか。
使い古された真四角な箱みたいなこの車がいい味出している。
麦畑を疾走する時の爽快感たら!
目的も、行き先も定めない旅が何とも心地よい。
目の前には見たことが無い風景がひろがり、初めての人との出会いがあったり、
隠し味として危機一髪な冒険と異性への憧れもスパイスとしてふりかけるなど、
ある意味ズルいぐらいに類型的展開でフルコースでひと夏の青春を堪能できる。
目新しさはなくても、不思議とワクワクしながら旅のひと時を共有できる。
旅から帰ってきて、夏休みを終えて登校した時の主人公の顔つきが明らかに違う。
「おお、君も成長したな~♪」と思わず声をかけたくなる。

いつもながらの苦言はやっぱり邦題。
原題は「チック」というシンプルに男友達の名前なのに、
確かに劇中に50年後うんうんというくだりはあるにせよ、あくまでもサイドストーリーで、
50年後の自分像を売りにしたような、目的不明の文章調のやりたい放題にはうんざり。

偏愛度合★★★★

リドリー・スコットという作家の二面性が現れている。
エンターテインメントとしてのサービス精神旺盛な大衆性と神話や宗教、哲学を引用した思弁性が
作品の中に微妙なバランスで同居しているのがのが「エイリアン コヴェナント」だ。

まずはエンターテインメント性。
前作エイリアンの前日譚なのにデカいハゲ親父ばかりでエイリアンが出てこないと不評だったのか、
今回は素直にお馴染みの姿のエイリアンが暴走しまくる。
元来CM監督出身なので、
ジャンルやテーマに節操がない職業監督としての大衆への娯楽作品としてのアピールも有する。
今回は「エイリアン」がSFというジャンル映画にホラーというジャンル映画を融合させたように、
原点へと戻って、SF映画の設定を借りたスラッシャー映画だ。
ゴア炸裂度ではシリーズで随一でスプラッターな閉鎖空間で襲ってくる殺人鬼映画となっている。
シリーズを重ねてエイリアンの容姿そのものが、
オリジナルのギーガーの性的メタファーを含むダークな異性体から独り歩きし、
誰もがお馴染みのポップアイコンと化したため、ちょい出しの演出は成立しない。
中盤からは血糊と共に暴走しまくりの堂々登場だ。
いちゃつくカップルが真っ先に殺されるなど、ジャンル映画の定石も律儀に守る。
シャワーで身体を合わせて乳繰り合うカップルを背後からエイリアンの口内の棒状突起で射貫くなど
もはやメタファーとは言えないわかりやすいまでに露骨な演出を駆使しする。
流石に類型的すぎて恐怖感はなく、「いよ!待ってました」とばかりに見得切りを楽しむのだ。
ものの見事に登場人物が次々と殺されまくる。
この開き直ったような痛快と言えば痛快だけど、誰が生き残るのかも定石通りなので想定内だ。
「プロメテウス」の10年後という時間的に連続して、その内容を補完する形で展開される続編なので、
事前の鑑賞は必要だろう。珍しく予習が役立った。

もうひとつの思弁性。
エンターテインメントの枠組みを守りながら、細部の設定に神話や宗教、哲学を忍ばせている。
前作「プロメテウス」がギリシャ神話で神から火を盗み人類へ与えた者ならば、
「コヴェナント」は神との契約となる。
どちらも船名としているが、引用元と隠喩するところは明らか。
アンドロイドのデヴィッドがダビデ像なのは劇中冒頭で説明されるが、
同型のウォルターも名もドイツ語で支配者、戦士らしい。
監督の自己完結的な思弁性は物語の裏に隠されたメッセージとなり、その筋の人は喜ぶだろう。
個人的にはこの手のある種こじつけ的な解釈は嫌いではなくて、いろいろと読み漁る方だ。
でも同時に血糊に金箔を貼り付けてた張りぼての豪華絢爛感もあり、どこか薄っぺらいのも事実。
知っていても、知らなくてもいいトリビアみたいなものか。

余談だが、
ネットで見た「出会う監督をすべて狂わせるマイケル・ファスベンダー」という文句には大笑いした。
前作に引き続きの登場で、実質的な主役である彼のことが好きすぎる監督が見え隠れする。
ある種監督の自己投影感があり、今回は後継種を含めた二役のダブルでの登場だ。
作品の思弁感は彼の存在が担当している。
本当にどれだけ監督を狂わせるねん!

偏愛度合★★★★


【モヤモヤしない黒沢清】
元々言葉(説明的な台詞やナレーションなど)ではなく概念(象徴化された映像)で
映画をつくる黒沢清監督が、言葉でなく概念を盗む宇宙人の映画を撮るというツイスト具合が面白い。
それ故か今までになくテーマも展開も明確でわかりやすい作品となっている。
(監督がファンらしい)前川知大の同名の舞台、小説という原作があるからというわけでもなく、
原作があっても原型をとどめぬくらいにモヤモヤと改変を施す監督なので、今回は特異な例だろう。
宇宙人が概念を「それ、もらうよ」と盗む際に、それが具体的に何であるかを言葉で
説明補足しなくてはなく、ある程度台詞が伴い、概念を明確化している。
黒沢映画特有のいったい何が起こっているのかさえ不明な観客を突き放したモヤモヤ感は希薄となる。
当然奪われ、失われたもの、それにより生じた結果が描かれるので、筋立てがある。
例えば家族という概念を失うと、仕事という概念を失うと、所有という概念を失う……など
生じた結果が映画的な見せ場となる。
それは人を無意識に縛っていた概念の欠損が、不自由にも、時として自由にもなりうる。
物語の基軸となるのは概念を失った者の結果だ。
このわかりやすさこそ、黒沢清監督の新境地ともいえる。
噂では一部黒沢作品固定層(ハルキストならぬ、キヨシストというらしい)には評判が良くないらしい。
はっきりしないもモヤモヤした展開に何かと勝手に意味付け、屁理屈を並べてたレトリックまみれで
自分だけが理解できる選ばれし者のような方々には困った作品かも知れない。
でも多分今回はわかりやすく撮るとか、難解に撮るとかの方針は全く監督自身は意識していないはず。
取り巻き連中だけが所在がないのか。

【やんなっちゃうな、もうっ、愛よ】
わかりやすいまでに明確に隠された(いや全く隠していない)テーマがある。それは愛だ。
言葉で書くと身も蓋もなく臭くなるけど、愛してるとか、恋するとか、単なる言葉尻を捕らえての愛では
なく、その背景にある普遍的な概念こそがこの映画のテーマだ。
劇場へ同行した家族は終映後、開口一番「単なるラブストーリーやん」と語った。
この何気ない言葉こそ、物語の核心をついている。
甘い口説き言葉やベッドシーンこそ描かれなくとも、直球ど真ん中で愛をテーマとして描いているのだ。
冷めきったはずの夫婦関係のはずが、宇宙人に憑依されて以来、夫が人格変貌を遂げる。
宇宙人が人間を乗っ取っているはずが、
無意識に記憶の奥底に潜む人間性が表出していくる過程が何とも泣かせる。
忘れていても、忘れていないという人間の記憶の不可解さを痛感。
例えば劇中での青いシャツの思い出、土手途での散歩などなど。
忘れたはずの記憶も、実は奥底では息づいていて、その人物を今も構成している要素となる。
後半に至り、蓄積された愛の断片ゆえに操っているのか、操られているのかが当人すらわからなくなる。
このアイデンティティが変化していく旅の風景は「岸辺の旅」に似ている。
諦めたはずのものが目の前に再び現れて、「何故?」とぷんぷん怒りながらも、
その実内面で戸惑い、段々と切なくなってくる長澤まさみのぷんぷん演技がお見事。
封印されていた愛情が湧き出てくる様が何とも切な過ぎる。

【やんなっちゃうな、もうっ、キャスティングよ】
キャスティングが見事。
主役二人のはまり役が意外というか見事なのだ。
元々素のイメージ自体でも何を考えているかさっぱりわからない、
到底普通人には思えない松田龍平のエイリアン感をそのまんま巧みに流用。
その朴訥とした台詞回しも無表情感もぴったり。
最後にある概念を妻から奪った時のリアクションには大笑い。
父である松田優作の「なんじゃこれは~!」に匹敵する「スゲ~!」という演技。
これまで理解できなかったその概念を奪い、全てのパズルが完成したような達成感を感じる姿は
物語の白眉となり、おお、そう来たか!と拍手喝さいだ。
前述のように観る前は借りてきた猫であるはずの長澤まさみのはまり具合と新境地には驚いた。
先程から繰り返している「やんなっちゃうな、もうっ!」という台詞がいまだに小津童貞であり、
黄金期の邦画に疎い者としては監督指示通りの杉村春子風なのかは判断できないが、
劇中で最も印象的な台詞ではある。
確信犯的に笑顔や肌の露出などを封印されたまさみさんは窮屈そうで悲しげだけど、目が離せない。
訳の分からない夫の変化にいつもぷんぷんと怒っている姿は実にチャーミング。
現場では常に怒った演技ばかりで辛かったそうだけど、傍から見ると十分に存在感をアピールしている。
ハイファションの似合う美脚とバストを封印され、量販店で並んでいるかのような垢ぬけない服装も
違和感がなく、逆に倒錯的だけど妄想力で描かれていないものを勝手に探ろうと変態的にフル回転だ。
一番の露出がシマムラで売ってそうなパジャマ姿という徹底ぶり。
長谷川博己の暴走は想定内だけど、TOO MUCHに過剰過ぎる演技こそ、
この異常な状況を警告する者としてはぴったり。
規格外の行動を繰り返す宇宙人カップルやその他にも馴染みの演技派を要所要所に配して手堅い。

【笑えるジャンル映画の寄せ集め】
基本的な展開は既視感のある異星人侵略ものだ。
ジャンル映画に誰も見たことがない新機軸を求めているわけではなく、
定石の巧みな引用や組み合わせであったりする。
宇宙人が人の肉体を乗っ取る設定自体は何度も映画化された「ボディスナッチャー」という古典があり、
ブラックなコメディタッチといえば「ヒドウン」という作品もある。
既存作品をパーツを巧みに組み合わせる。
アメリカ映画の圧倒的物量には到底及ばないけど、
銃撃戦やドローンとの爆撃戦などそれなりの見せ場もある。
黒澤監督の初のSFだけど、ジャンル映画としてのホラーとSF(特に侵略もの)は類似している。
どちらも平凡な日常にある日突然ある異物が侵入してきて、既成概念を打ち砕き、混乱を生じさせ、
最後には何らかの変化を周囲にもたらすというのが基本プロットだ。
その異物が幽霊であっても、宇宙人であっても然程大差はない。
描きたいの侵入者ではなく、それによって主人公にもたらせた成長や絶望なのだ。
長澤まさみと松田龍平の演じる加瀬夫妻の愛の物語が根幹となる。
逆に並行する二人の若い男女侵略者の暴力的な逃避行と
同行する長谷川博己の見て見ぬふりのは暴走は娯楽作としての展開の刺激部分となる。
全体的に絶望的な状況にも関わらず、能天気に明るい雰囲気が覆い、
侵略を間近に控えながらも、中盤まで淡々と日常が続き、
後半に至っては(笑えないけど)悪ふざけ全開という吹っ切れたようなヌケの良さは珍しい作風。
バックに流れるマーチ風というか、チンドン屋みたいな劇音楽と起こっている事実のアンバランスが面白い。
決してガハガハとは笑えないけど、最初からコメディとして狙っているはずだ。
(ネタバレになるが)直球ではなく、ツイストはされてはいるがハッピーエンドといえる結末も珍しい
WOWOWで放映中のスピンオフドラマ「予兆」の方がJホラーの脚本家高橋洋との共作いうだけあって、
いつものダークな黒沢節が全開しており、ホラー色が強い。
台詞が殆どない、照明がかわりながらの不気味なパンでの長回し移動など、見所も多い。
陰陽ではないが、ちょうど二作で補完する企画なのかもしれない。

やっぱり「やんなっちゃうな、もうっ!」に尽きる。
そういえば、早速妻が隣での台詞真似をしていたな。

偏愛度合★★★★

歌って、踊って、てんこ盛りTOO MUCHな3時間越えのインド映画よりも、
2時間を切るこの「裁き」の方が体感時間が長く感じた。
正直に言えば、椅子でモソモソと動き続け、意識が飛びそうになる睡魔と闘い、苦痛すら感じた。
でも凡庸な監督が無自覚な結果、間延びした作風となったのではなく、
多分この監督は確信犯的に狙って仕掛けているのが余計に困ったものだ。
勿論意図したのは弛緩した体感時間ではなく、観客に対して物語の拠り所を外すという試みだ。
映画の物語には拠り所が必要だ。
これは観客と作品の登場人物能の視点の共有だ。
例え倫理的配慮で行動や感情に共感や共鳴できなくても、何かしらの拠り所が必要なのだ。
特に法廷劇という特殊ジャンルであり、構造的に善と悪、真実と嘘、
その果ての有罪と無罪といった対比構造があり、通常はどちらかの視点へと観客を誘導する。
それが被告人、弁護士、検察官の誰にも拠らずに、宙ぶらりんで彷徨い続け、
インド時間なのかダラダラと続けられる裁判劇とその周辺の日常を並べる。
そもそも公衆の場でやや煽動的な歌詞内容の曲を歌った歌手が、
マンホールで発見された下水掃除人の自殺へと駆り立てたという因果が証明しようがない罪状だ。
裁判劇でありながら、さながら不条理劇だ。
言いがかりの様な逮捕、そして告訴を巡って、被告人も弁護士も誰も文句も言わず、笑うこともなく、
ひたすらくそ真面目に裁判を執り行う。
アメリカ映画の裁判劇ででお馴染みの勝訴にこだわり手段を択ばない弁護人、
あるいは悪徳検察官などのキャラクター化は一切ない。ただ淡々とやりとりを細切れに続けるだけ。
過去には反体制的な組織に関わっていたらしいが、現在は子供たちに勉強を教え、
人前でやや抽象的な自作ポエムを歌う被告が何を考えているかが全く不明。
そこに国選のようだが、高カーストで金持ちの弁護人もやる気もなく正義漢という感じではない。
高級マンションに住み、ジャズの流れる高級車で通勤、ワインとチーズを嗜み、
クラブで生演奏を聴きながら食事という生活を送る。
まさかインド映画でピシンギーニャの"Carinhoso"を
「ポルトガルで偶然聴いたブラジルの曲です」と女性歌手がギターをバックに歌うシーンを見るとは。
もちろん物語と何の関係もない。そんなんばっかり。
検察官は女性で、働く女性として、ガシガシ攻めてくる感じではなく、
その辺にいそうな普通のおばちゃんのごく普通の仕事って感じで、その普段の日常も描写される。
物語における拠り所とはこれら劇中で提示されるシーンに共感したり、
逆に拒否したりして、感情を動かされて、物語に隠された意味を見出すことである。
それをことごとく外す。
裁判はなかなか進まない。
宙ぶらりんの観客の心はあてどもなく彷徨い、物語がどこへ向かっているのかさえ見失う。
多分ここまで執拗に意味の見いだせないシーンを続け、並べるのは意図な確信犯だろう。
挙句の果てに、裁判劇は唐突に中断され、劇中では結論は描かれない。
退屈に苦しみ続けた果てに、何のカタルシスもないままに終劇となる。
おいおい、確信犯であることは理解できるが、いったいい何を伝えたいのか全く分からない。
監督の底意地の悪い神経を逆撫でするような観客コントロール技術は、
あるい意味凄いかもしれないけど、流石に共感しようがない。


偏愛度合★★

ダグ・リーマン監督なのに、公開規模がミニマム。製作がAmazonで配給の弱さか?
でも作品自体は、低予算のワンシチュエーション限定で90分という程よい尺で
一気に観客を釘付けにする演出手腕は流石なのでもったいない。
舞台はイラク戦争末期の砂漠のパイプラインに車両と複数の狙撃された死体が転がり、
無線で駆け付けた米兵2名がそれを監視する。
いっこうに姿を見せない敵兵を待ちきれず、1名が現場へと向かうと、遠距離射撃で攻撃を受ける。
もうひとりの登場人である狙撃者の姿は最後まで移されず、無線を通して声のみ。
同じイラク戦争を舞台の伝説的狙撃手を描いた「アメリカン・スナイパー」という傑作があったが、
こちらは逆に敵側の伝説の狙撃手に狙われる側になった米兵の物語。
外部と遮断された砂漠の真ん中のタイトルの漆喰の壁の影に隠れながら、敵と対峙する。
負傷して、動きを封じられ、無線は故障、炎天下に水も食料もなく、傷の出血が止まらない。
時間がだけが緩やかに流れる。
人物の動きは少なく、一方の姿おろか、位置すらも隠されたままで、
限定された状況での会話劇なので、そのまま舞台劇としても成立しそうだ。
生死を賭けるシチュエーションをつくった者と陥った者の言葉の駆け引きのみ。
派手な銃撃戦は最小限で、更には風や鳥の声、接触音など自然音のみで、
心情を描写し煽り立てる劇音楽すらない。
動きがない分、会話の節々に意味を持たせる。
例えば些細な英語の訛りであったり、状況説明うあ個人の身の上話などの細部に意味を隠す。
狙撃手と狙撃手との言葉での闘いというのが面白い。
繰り返し挿入されるスコープ越しの映像ってスリリングではあるが、同時に姿なき敵という恐怖を
象徴し、ましてや狙われる側となればその怖れは画面から伝わってくる。
リーマン監督は絶妙の手腕で、
これ以上長かったらネタ切れになり、これ以上短いと物語として成立しないという丁度の尺で披露する。
確かに見るからに低予算だけど、ワンアイディアだけで、十分に観客楽しませる逸品。

偏愛度合★★★★