もはや頑固とか、一途を越えて、偏執狂なまでに、細部にこだっり、歪んだ戦争映画だ。
映画監督としては一線を越えたこの類まれな作家性こそ特異性となる。
雇われた仕事を的確にこなす職業監督のプロフェショナリズムも必要だが、
結局作家主義の名の下では我の強い変人や変態こそが、その名を刻む。
こんな歪んだ戦争映画は初めての体験だろう。
勿論これは最大限の褒め言葉であり、
こだわるべきディティールと意図的に描かずに省いた俯瞰背景が絶妙なバランス感を生んでいる。

まず特筆すべきは、クリストファー・ノーラン監督のフェチシズムともいえるフィルム撮影への偏愛。
それもIMAXカメラを使用。
彼のプロフィール写真といえば必ずIMAXカメラの台座に座る姿が思い浮かぶくらいだ。
わざわざアナログのフィルムで、しかもかさ高いIMXカメラを使用するデメリットは多く、
ポストプロダクションでの作業や上映自体がほぼデジタルに担っている昨今、
完全に時代への逆行となるが徹底して貫く頑固さだ。
更に輪をかけてはCG嫌い。
作品でもCGを使わずに、
実際の場所ダンケルク周辺で実機を飛ばし、実際の船と人海戦術でエキストラを並べ、撮影された。
目の前に実際に起きている現象をカメラで記録するという映画の原点を頑なに守る。
ちなみに監督自身も携帯電話もメールアドレスも持たない徹底した偏屈ぶりらしい。
わざわざ手間とコストを要する手法を意固地に選択する。
舞台劇の様なミニマムな背景設定の小品ならともなく、戦争という国と国の争いであり、
通常ならばどうしてもスケールが大きくなり、登場人物も視点も複数化する、ましてや実話映画化なのだ。
この二つの執着は決して賢明な選択とは思えない。
自ら掲げた初期二条件を見事にクリアして、
2時間の尺内でこれだけクオリティの高い娯楽作品として仕上げる手腕は並大抵のことはない。
ノーラン監督はずば抜けて変人で変態だけど、素晴らしい映画作家である。

●時間軸の操作
間違いなく映画は編集によって、時間を操作するメディアである。
多分それは写真や文学などのメディアの物語よりも、映画の特徴として顕著だろう。
2時間という時間で縛られた1本の映画に複数の長さの時間軸を並行させるという実験的な手法が凄い。

①ドイツ軍に包囲されたダンケルクで救助を待つ40万人の兵士の海岸での1週間
②イギリスからドーバー海峡を渡り船で救助に向かう民間人の海上での1日
③援護に向かうスピットファイア3機の空中での1時間

という現実では長さの異なる三つの時間軸をまるで共通時間軸で同時進行しているかのように交錯させる。
このアイディアには感服する。
単なるカットバックではなく、その実際の長さや場所の異なるショットを
たった今、この瞬間で進行している出来事のように巧みに繋いでいく編集が本当に見事だ。
バックにはハンス・ジマーの神経を逆撫でしながらも、煽り立てる音楽と
時計がハリを刻むカチカチカチという刻む始終音がインサートされる。
編集と相まって最初から最後まで、常に緊張感が耐えることが無い。こんな映画は初体験だ。

●不在の敵
本来包囲しているはずのドイツ軍の姿を一切描かない。
最後までほぼ敵は不在のまま、その気配のみで表現する。
銃声や爆発音、来襲して爆弾を落とし、機銃攻撃する敵機の姿はあっても、生身の兵は描かれない。
当然姿なき者には視点はなく、いったいどういった戦況なのか、ドイツ側の侵攻状況も見えない。
この極端な設定にもまた感服する。
戦争は当然ながら便宜上の敵と味方が争い、ドンパチするのが定石のはずが、その一方しか描かない。
これによって観客もまた、
戦地に取り残され、なんとか脱出を試みて、生き残りを賭けた兵士の気分と同調せざる得ない。
基本戦争映画というより、戦場映画であり、また戦場での戦いというより、撤退、敗走を描いた作品だ。
この勝利によるカタルシスを一切封印された特異性ながらも、決して娯楽性は失われていない。
いちおう見所としてはメインとなる3人のイケメンを配しているのは女性客へのサービスか?
無名だけど、今後いろいろな作品で活躍しそうな男前たち。
彼らが受難劇さながら、敗走の先々が次々と攻撃、沈没されていく様をマゾヒスティックに追う。
船内の看護婦など、多少の女性は登場するが、ものの見事に野郎ばかkり映画だ。
ノーラン監督は以前の作品でも見受けられるが、
それなりにスター女優を配しながらも、美しくエロく撮ることには淡泊で、興味が薄そうだ。
今作はそれが戦地という格好の舞台を得た究極のIt's a Man's Man's Man's Worldだ。
もう画面いっぱいにオッサンと若者ばかり。
救助に向かう民間船にマーク・ライアンス、海軍将校にケネス・ブラナーという老名優、
更には二人よりはちょっと若手だけど過酷な戦場の悲惨さを象徴するキリアン・マーフォーと
登場は少なくても素晴らしい演技陣たちを揃えている。

●ミニマムだけど圧巻の空中戦
登場するのは実際に飛行可能なスピットファイア3機とドイツの爆撃機、戦闘機数機。
CGならば、安易に物量作戦で空全面に戦闘機を散りばめ、
宙を飛び交う弾丸と爆発音と爆炎と派手な見せ場が展開できる場面だ。
ところが主に登場するのは飛行可能なスピットファイア機のみ。
予算の制約という大人の事情ではない。逆にオッサンのこだわりなのだ。
何せ、わざわざ5億円かけて飛行可能なレプリカを再現しているのだから。
時折ドイツの敵機は画面の隅に流れるが、メインはイギリスが誇る戦闘機の艶姿だ。
ミリオタ度数は低いけど、完璧なアングルで
華麗に宙を舞うがごときの動きを焼き付けた空中戦には惚れ惚れする。あれは萌えるぞ。
操縦士にはトム・ハーディ―を配しながらも、
常にマスクに隠され、「マッドマック」以上に殆ど顔を見せないまま。声と目線だけの演技という難儀さ。

●俯瞰できない歪な物語構造
ディティールを徹底してリアルに描き込みながらも、このダンケルクにおける戦況を俯瞰できない。
確信犯的な省略や全体像の描写を排しているため、当然だ。
海岸線を埋める兵士たちの人数が足らないければ、遠景はボール紙の絵を立てかけるなど、
時折荒業に及び、あるはずの飛行機群は3機のみの死闘に描くことで、脳内で全体像を補完させる。
物語に多くの空白と省略を設けることで、全体像を描かず観客自身の想像力で完成させるという手法だ。
構造自体は歪だけど、逆に制約されない自由な見立てを可能とする。
こんな奇妙な戦争映画は初めての体験であり、多くの観客は最初は戸惑うかもしれないが、
ジャンル映画でありながらも、単なるジャンルを超えた傑作として成立させている。
このずば抜けたクリストファー・ノーラン監督の作家性と変人、変態性は他の追随を許さない。

偏愛度合★★★★★


見事な演出、脚本、撮影、役者による素晴らしい演技と揃った是枝監督の新境地。
稀に見る邦画豊作の昨年から一転、同じ役者を使いまわしたゴミ青春映画ばっかりで一気に低迷。
その中ではズバ抜けて実験的な意欲作で、2017年で記憶に残る1本になること必至。

映画には古今東西数多の法廷劇があり、傑作も多く、本来極めて映画的な物語の構造を持つ。
真実と嘘、善と悪、さらには罪と罰という分かりやすい対立構造があり、
法廷でのやりとりを通じての真理の追求が物語の起承転結を明確にする。
あるいは裁判を通じて登場人物の成長があったり、勧善懲悪であったり定石が多い。
被告(弁護士)と原告(検事)のいずれに観客の視点を置いても、
最後には必ず勝敗(判決)があり、カタルシス(あるいはその逆)へと自然に導くことができる。
だが同時にそれはあくまでも映画的な文法で、俯瞰的に図式化された物語構造に過ぎず、
実際の裁判は必ずしも真実を明らかにする場ではなく、法廷は便宜上の判決を決定する場と主張。
リアリティの追求というよりは、映画的図式化を見事に逆手に取った構造となる。
それは台詞や言葉で白黒を明確に説明しない曖昧さ、観客によって受け取り方が異なる多義性であり、
歴史が勝者の都合で残す主観的なものであると同様に、所詮法廷における真実もまた
関係者の主観的な見方に過ぎず、視点の置き方次第では真実は複数となり、
いちおうの結論自体が多数決によるある種擬似的なものに過ぎない。
今作は法廷の在り方、あるいは法の定める罪と罰自体を問うのだ。

まずは本来は法廷劇のはずが、通常の法廷映画ならお馴染みの検察と弁護士の舌戦を
駆使した丁々発止のやりとりはなく、被告人と弁護士のガラス越しの接見シーンが延々と続く特異な構成。
撮影段階で、接見シーンを増やし、本来であれば映画的な見せ場である弁護士による最終弁論すら
(実際には撮影したにも関わらず)全てカットするという監督の意図的な極端な手法がうかがえる。

冒頭で役所広司演じる殺人懲役の前科のある三隅が河原で第二の殺人を犯す絵が提示される。
第二の殺人が物語の前提条件のはずだが、
物語という話のつかみとも言うべきこのシーンが後々観客を揺るがし混乱させる。
映画において、映像化されたものは必ずしも現実ではなく、ひょっとしたら幻かも知れない。
観客は映像を信じると同時に、常に疑っていかねばならない。
中盤でインサートされ列車の中での重盛の夢のシーン(雪原での三人の姿)がそれを案じさせる。

警察による逮捕や検事による起訴などは描かず、
塀の中に拘留中で裁判を待つ三隅に弁護士の重盛が接見する。
順撮りされたらしいが、ここから延々と続く、二人のやりとり(都合7回)こそが物語の根幹をなす。
「あれほど自分の脚本がわからなくなったのは初めて」と
監督自身がインタビューでこぼすように、現場での俳優が物語を動かしていく。
まるで役所広司という根っからの俳優で空っぽの器でカメラが回れば何にでもなりうる男が
発言をコロコロと変え、周囲を翻弄させる、空っぽの器の様な得体の知れない人物を演じる姿の実録を
脇にいる監督がカメラで記録したかの様にも思える。
ある意味俳優演技を撮影したというドキュメンタリー的かもしれない。
それくらいになリアルというよりも、生々しく見える。
福山雅治演じる弁護士は受け身の芝居に徹している。
次々を姿を変える物の怪を目の当たりにして、素で戸惑い、混乱している様が同じく記録されている。
弁護士として選民感というか傲慢な人を見下したような人物が、接見を追うごとに変化していく。
もはや演技とか、演出というレベルではない。
監督の恣意的な演出や俳優の技巧を越えた緊張感が生じている。
この特異な接見シーンを繋ぐのが、
本来ならば主であるはずの法廷シーンや弁護士側の事実関係調査や彼らの日常風景である。
逆にこちらは台詞も演出もコントロールされている感じがする。
例えば重盛の娘との日常エピソードが、三隅と被害者の娘の疑似的な父娘関係性とダブらせたり、
同じセリフを言い手を変えて繰り返すなど、丁寧な脚本構成がうかがえわれる。
それ故に接見シーンの生々しさと妙に噛み合わず、
無意識的と恣意的構造が交錯して、結果異常に張り詰めた空気が全編に持続する。
監督の物語を動かす役所広司と福山雅治のやりとりへの信頼感と同時に脇役への気配りは流石。
お馴染みといえる斎藤由貴の不気味さはもちろん、やはり何と言ってもその娘役の広瀬すず。
前作からの連投だが、一転して高い運動能力を封印して、片足の不自由な被害者の少女を演じる。
笑顔すらなく、感情や思いを全て内に秘めこんでしまっている役柄だ。
彼女の演技への監督の絶対的な信頼感が画面越しにひしひしと伝わってくる。
後半の言動ですんなり決着するはずの法廷が覆され、一転二転してゆく。
まるでカイザー・ソゼだ。
怪我の原因も劇中では明確にしないため、思わず映画マニアとしては、ラストシーンで
それまで引きずっていた足を伸ばし、素に歩き出すのではないかと勝手に妄想してしまう。
彼女とダブらせた存在として容姿が似た蒔田彩珠を重盛の娘役に配しているのは意図的だろう。

50年代のフォルムノワールを意図したらしい銀残しを使った陰影感が見事な撮影や美術、
イタリア人作曲家によるピアノや弦楽器による重厚な音楽と徹底したつくりこみと、
監督自身が先の見えぬ現場で俳優によってつくりあげていく生々しさが同居する稀有のバランス感だ。
粗編段階で3時の作品を監督自身が編集も兼ねて、2時間の作品へと引き算していったらしい。
常々言えわれることだが、足し算は容易でも引き算は思い切りとセンス、そして痛みを伴う。
ましてや自分の分身とも言うべき作品を自ら切るのだ。
でも結果的には余白の残したこれ以上は切れないが、
これ以上長いと余分となる絶妙のさじ加減となっている。見事な編集だ。
それ故に観客は法廷劇には定石の起承転結や結論を描かないため、観客は行間を埋めるというか、
余白を楽しみ、それぞれが思い思いの解釈で物語を再構築することができる。
実はそれこそ素晴らしい映画の持つ力なのだ。

偏愛度合★★★★★



「この映画にはいいニュースと、悪いニュースがある。さてどちらから聞きたい?」

アメリカ映画でお馴染みの台詞だ。
同様の台詞をいったい何度聞いたことだろうか?

では、まずはいいニュースから。
紛れもないゾンビ映画だが、特殊なジャンル映画にとどまらない娯楽作品として、
2時間弱という尺内で疾走する列車内の閉鎖空間を舞台にノンストップアクションで描く。
ジャンル映画の枠内に留まらない夫婦、父と娘、恋人未満のカップル、学友など、
ごく普通の人間関係を「疫病感染」という突如日常に侵入した異物によってドラマとして再構築する。
物語は幅広く、エンターテイメントに楽しめるようにキャラクターは図式化されたいる。
メインとなる主人公数名の敵役として自己中心的な憎まれ役(会社役員)を配し、
それに助長する敵役の客室乗務員と職務を全うする列車運転手のプロフェショナリズム
の対比などにもさりげなく目配せする。
高速で走る列車という閉鎖舞台に紛れ込んだ一人の感染者という設定が見事だ。
列車という横幅のない縦長の、奥にしか逃げようがない密室劇として展開される。
パンデミックに感染者が増え、狭い空間を上下に重なりながらと連なり迫ってくる絵が素晴らしい。
対抗する手段としてはアメリカ映画なら当たり前の銃器や刃物などはなく、
唯一の武器的なものが野球バットのみで、基本素手と蹴りで防がなければならない。
この条件付けがよりリアルな目の前の出来事として迫ってくる。
夫婦関係が壊れた父親役コン・ユの顔つきが物語の進行につれて、
服は血まみれで状況は悪化の一方だけど、娘を守る父として清々しくいい顔になっていく。
妊娠中の妻を何としてでも守ろうとする素手で感染者と闘うマ・ドンソクの怒涛の頼もしさもある。
舞台設定は斬新だけど、目新しい筋立てではないが、スピードと演出で一気に語り切る。
またゾンビ映画の隠しテーマである社会性も用意。
オリジナル「ゾンビ」がベトナム戦争への反戦運動や黒人公民権運動などでアメリカ国内が
半ば内戦状態であったことが背景ならば、こちらは北から南へ感染者が攻めてくるというのが
朝鮮半島の一触即発に緊張化する南北問題であることは明らかだろう。
北からの感染者拡大でソウルは陥落し、南下しつつ、最終防衛線が釜山というのも暗示的。
未見の前日譚であるアニメーション「ソウルステーション」で感染者大量発生の背景説明は
あるのかもしれないが、実はそこは描く必要がない。
何かの災害が発生した時、現場で被害者となる市井の人には知る由もない情報だからだ。
「ゾンビ」でも日本公開版では、冒頭に宇宙線で死者が蘇るなどとそれらしい理由を
補足説明してあったが、オリジナルにはない蛇足に過ぎない。
突然因果関係も、理由もなく隣人が襲ってくるのが恐怖なのだ。
韓国というお国柄と舞台設定を活かした文句なしのゾンビ映画。

さて、悪いニュース。
このジャンルを偏愛する愛好家(単なる変態ともいえるが)としてはゴアが足らない。
血糊と肉片が足らないのだ。
甘くないスイーツ、カフェインレスコーヒー、ダイエットコークなど本来含まれおり、
それ自体が商品を根幹となるべき要素を意図的に排除するのが正直苦手なのだ。
排除対象によって、本来ならば受けいれられないはずの顧客層を取り込み、客層を広げるとい手法。
確かにストーリーをマニアでない一般観客への汎用化と類型化、簡潔化と血糊量は矛盾する。
しかしゾンビというジャンル映画におけるゴア描写こそ、
歌舞伎における見得切りと同じで、血糊炸裂と腸の流出、肉体破壊はお決まりの見せ場なのだ。
目を閉じて怖がっているわけでも、眉をしかめるわけでもなく、
「いよ、待ってました!」という感じで見せ場なのだ。
現在の様にCGで血をクリッククリックとポスプロで付け加えるわけではなく、
アナログ時代には目の前で展開されている風景をカメラで記録するのみだ。
現場でカメラの前で、ゾンビに齧られ、血糊が飛び散り、腸が流出し、
手足がバラバラにされるという姿を提示しなければならないのだ。
この見せ場の為には、予算ないけど、アイディアとはったりで乗り切る。
トム・ザビーニという天才がその原点だろう。
豚や牛の腸を集め、粘着質の赤インクで血糊を管からポンプで流出させる。
この地味など苦労こそが、リアルな場面をつくり、
それが後世に作品を越えてブラシュアップされ伝道されてきたのだ。
昨今こそ安易なCG主体となったが、やはりゴアあってのジャンル映画なのだ。
感染者(ゾンビ)も白目をむいた単に顔色の悪い、青筋の血管の浮いた体調の悪い人にしか見えない。
ちょっとそこだけは残念無念。
邦画「アイアムアヒーロー」並に娯楽性と徹底した肉体破壊性を併せ持って欲しかった。
指定が上がっても、あるいは別のハードコアバージョンとしてでも、ゴアを炸裂して欲しかった。
十代に先日亡くなったジョージ・A・ロメロ監督の「ゾンビ」を劇場でショックを受けて以来、
延々とこのジャンルの獣道を突き進み、現実世界が追い込まれてくると夢にまで登場するほどのものだ。
大概「ゾンビ」と楳図かずお「漂流教室」をミックスしたような世界の終わりの物語だ。
トラウマ的な恐怖と思い入れが詰まった私的映画史の一部でもあるのだ。
あゝついつい偏愛ジャンル故に長文に渡り熱く語ってしまった。
どちっかというと悪いニュースってわけではなく、愚痴に近いかもしれないな。

最後に補足だけど「ゾンビ」というワードは放送禁止か、商標登録用語なのか?
ブラッド・ピットのゾンビ映画での配給会社による「ゾンビ」ワード使用禁止令以来、
確かにこの映画のチラシにもこのワードは一言も書かれていない。
差別言葉を不適切用語として別の言葉に置き換えるようなものだ。
差別の本質が消えたわけではなく、単に表面を繕った隠蔽に過ぎない。
これはまぎれもないゾンビ映画だ。
それも事前下馬評通り、エンターテイメントとしても極めて優れたゾンビ映画なのは間違いない。


偏愛度合★★★

ぶっちゃけ作品としては月並みな出来具合。
ワンダーウーマン初登場であるDCエクステンデット・ユニバースの前作「バットマンVSスーパーマン」が
余りにも説明不足で、冗長な駄作だったのと比較すれば、
一応は1本の映画として物語が完結しているのでまだマシという程度。
マーベルに対抗して、DC系列のスーパ^ヒーローが同じ世界観で活躍するという顔見世興行シリーズ。
タイトル通りのバットマンとスーパーマンの幼稚な戦いは兎も角として、
メタヒューマンと称する門外漢には全く初見なワンダーウーマン、フラッシュ、
アクアマンなど説明なく突然登場する展開には到底ついていけない。
映画編集でフラッシュフォーワード(先に起こる出来事の一片を先に見せる)は常套手段だけど、
作品を越えてこれをかまされると、全く理解不可能で思考停止に陥るしかない。
興味対象外だったが、海外での公開前後で女性ヒーローとアメコミ初の女性監督への賛辞が相次ぎ、
興行的にも大ヒットを記録を耳にし、時間差でようやく日本公開され、確認のために劇場へ。
ようやく今作でワンダーウーマンとは何者なのかが理解できた。
第一次世界大戦中の色褪せた写真でも変わらぬ姿で登場していたのは、
彼女が100歳を越える神ゼウスの血を引く子だったと説明される。
今回はその写真の舞台となる前日譚として、ワンダーウーマン誕生秘話を描く。
相変わらず物語は陳腐。
第一次世界大戦を舞台に、ドイツと闘うイギリス連合軍。
ドイツにスパイとして潜入していたアメリカ兵が逃亡時に撃墜され、ワンダーウーマンと偶然出会い、
マッドサイエンスの新兵器(毒ガス)を戦場で使用しよう企むドイツ将軍と闘うために共に戦場へ赴く。
既視感だらけの、全然目新しくもない勧善懲悪ストーリーだ。
マッドサイエンスっが男性でなく女性だひいうのが珍しい程度。
全編戦争を始めるのも、多くの犠牲者を生むのも男性社会であり、
女性は常に犠牲に強いられるだけという基本構造をなのだが、ちょっとしたバランス感のつもりだろうか?
銃弾が飛び交い、爆弾が炸裂する戦場の狭間に取り残された罪のない人々を救うためにひとり行動する。
軍役経験のあるガル・ガドットの身体能力を活かした躍動感は素晴らしい。
お供をするのが組織の規格外の男性4人という設定を添える。
決して退屈はしないが、クリストファー・ノーランによるバットマン三部作以外の
アメコミヒーローには興味が薄く、どんなに華麗にワンダーウーマンがスクリーンで舞っても萌えない。
しばし語られるフェミニズム映画として側面。
町山智浩氏は映画評論家の使命は、作品の背景や細部に隠された意図的、
あるいは無意識なテーマやメッセージを読み解き、観客に伝えることにあると訴える。
これには全面的に同意する。
コミックの原作者であるウイリアム・モールトン・マーストンの妻がイギリスでの女性参政権運動の
過激派エメリン・パンクハースト(映画「未来を花束にして」ではメリル・ストリープが演じていた)支持者
であり、彼女の希望で女性ヒーローを創作したなど、フェミニズム運動との関連性が強く、
コミックで描かれている女性を縛る鎖を断つという姿にフェミニズムのアイコンとされていることを知った。
またマーストンは嘘発見機の発明者であり、
ワンダーウーマンの武器である真実の縄に繋がる。
ましてや女性監督なのだ。
男性視線のお色気サービス的な描写は皆無で、
如何にワンダーウーマンを格好良く、美しく、彼に描くことに徹している。
国家の存亡をかける会議室にはものの見事にハゲ、ヒゲ、上から目線のオッサン達が並び、
加齢臭が漂ってきそうな中に彼女が踏み込むと「何故女性が?」と無条件に拒否反応。
そう言う時代だったんだろうけど、ある意味痛快。
結局老醜は役に立たずに、奇妙な衣装の女性が世界を救うのだから。
コミックとはいえ拍手喝さいだろう。
確かにこれらの背景を知ると、月並みな物語も、
実はその裏に多層的に隠されたテーマが浮き上がってくる。
鑑賞前、鑑賞後であれ、背景やメッセージを知っていると知らぬでは作品の見方が変わってくる。

偏愛度合★★★

ただボブ君を憂う。
物語自体が実話ベースなので、映画は役者を使った再現劇であり、彼は本人役として、登場している。
勿論複数の猫スタンドインもクレジットされているので、
全編というわけではないだろうが、ボブ君はどんな気持ちだったのだろう?
カメラの前で監督に俳優と身勝手な人間達の指示で動かなければならないのだから。
フランソワ・トリフォ―作品「アメリカの夜」を思い出した。
猫という生き物が如何に映画撮影に不向きかというエピソードがある。
窓際を横切り、皿のミルクを舐めるというごく単純なシーンを撮影するのに
何にも縛られない猫の気まぐれ行動で何度も何度もリテイクを出し、監督が苦悶するという名シーンだ。
ボブ君は劇中のクレジットで写真で登場する(また実話ベースのこのパターンか!)ジェームズとは
飼主と飼い猫という上下ではなく、ロンドンの街で偶然に出会ったバディ同士として、
何かしらの繋がりを抱いていたのだろう。
でもそれをあたかも今、ここで起こっているかのように見知らぬ俳優相手に再現するなんて、
映画制作という都合には猫には無関係なことだ。
人間だって自分の人生の辛く、嫌だった頃を演技して、再現してみろと言われればうんざりするだろう。
ましてや、相手は自由な猫。
社交的なタイプや排他的なタイプなど猫にもいろいろな性格があるだろうけど、
基本的猫の持つ性分を何よりも自由を愛する傾向を思うとちょっと憂いでしまう。
猫を飼っていた身としては、その縛られない自由さ愛する者として逆に痛感してしまう。

確かにイイ話だ。
ロンドンで家なしの路上生活者で金もなく、おまけに麻薬中毒者、
日々ギター一本の弾き語りのチップで生活しているというボトムの人間が
猫との出会いを通じて立ち直っていくという現実にはあり得ないくらいに稀な成功譚を再現する。
彼の人生を書籍化したら、美談として盛り上がり、世界中で大ベストセラー、更に商売っ気は止まらず、
満を持して、猫本人をも駆り出されての映画化なのだ。
そりゃ、へそ曲がりとしてはやり過ぎ感を疑ってしまうのは仕方がない。
実話ベースかも知れないが、周囲の人物像もジャンキー仲間、ジェームズを支える良き隣人女性、
世界中にどこにでも生息する誰に頼まれたわけでもないのに猫奉仕活動する猫オバサン、
彼を嫉妬する路上生活者など、わかりやすいくらいに図式化され、
何かしらの困難が訪れ、それを猫と共に乗り越えていくという定石通りの展開が用意されている。
当然宣伝には、「実話を元にした感動作」「奇跡」「大反響」「思いもよらぬセカンドチャンス」
「心温まる」と月並みな煽り文句がここぞとばかりに並ぶ。
正直言って、もう実話も感動も食傷気味。毒ののない映画はつまらない。
そして、更に苦言を添えれば、彼がギター1本を弾きながら歌う音楽のつまらなさ。
溢れる自意識だけでできた、陳腐の内面告白ソングばかりだ。毒のない音楽もまたつまらない。

偏愛度合★★★


予想通りというか、予想以上に
最低でだけど、同時に最高の映画だった。
流石ポール・ヴァーホーヴェン!流石イザベル・ユペール!
元来持つ露悪性が相性抜群で屈指のコラボレーションとなった超ド級の傑作だ。

世には、自分の信じる者を一片も疑わずに善意を装い相手へ良きことを押し売りする者と、
見るからに確信犯な悪意や敵意をあからさまにしながらも、相手に中途半端な共感を求めない者がいる。
果たして本当に危険なのはどちらだろうか?
宗教勧誘者なんかに多いのが前者で扉をノックしながらも、笑顔と土足で人の心に入ってくる。
反対に後者は見るからに露悪的で悪趣味ながらも、相手に一切の共感性を求めず、
嫌なら立ち去ればよいという潔いまでの開き直りを提示する。こちらは異端な表現者たちに多い。
個人的には接した者の選択の余地(合うか合わない)が多い後者を全面的に支持する。
異端の者たちのつくりだすものこそ、その時は理解されなくとも、世代を越えて伝わっていく芸術なのだ。
そういった悪趣味を心ゆくまで堪能できる今年一番の怪作だ。

さて本題。
まずはポール・ヴァーホーヴェン。
この監督特有の一見子供じみた悪ふざけとも見えるむき出しの悪趣味や皮肉はいつも通り。
元来人の持つ悪意や敵愾心、嫉妬、愚かさや弱さなど全てが隠すことなくあからさまに描かれる。
単なるフェミニズムという視点では語りつくせないが、
男性は全て愚かで、強く賢い女性が最後に勝つという作品モチーフが一貫して繰り返される。
「ELLE」の場合、登場する全員がクズだ。
物語的に図式化された善悪の対比はない。
多少の役割分担的な誇張はあれども、全てありのままにゴミ箱の中のクズのように並べられる。
視点となるヒロインですらレイプ事件の被害者としての善なる存在ではない。
その後の行動を追っていくと、狂気すらにじませながらも、決してぶれることなく、我が道を進み、
選択する行為の数々からは実は被害者であるヒロインが一番のクズといって過言ではない。
そう、道徳や倫理観を問う映画ではない。
道徳や倫理を越えたところにある愚かしい人間の行為を描く。
これは明らかにコメディだ。真っ黒で過ぎて、殆どの人は全然笑えないけど、コメディなのだ。
背景や内面の説明を全て省き、行動のみを細部に渡って、執拗に描く。
人が如何に愚かな行動をなすかを描く。
また語り口は歪だ。
通常映画文法な省略するような細部にこそ、隠されたメッセージがある。
レイプ直後、寿司の出前注文で「はまちも頼むわ」という映画史上空前の名台詞の破壊力は凄まじい。
当初こそ犯人捜しのミステリーと模した形式を導入するが、
怪しげな容疑者候補が次々と横切るものの、相手を突き止め、
そして復讐という物語的なカタルシスを生む月並みな展開を無視して、横道へ逸脱し始める。
犯人が明らかになってからの展開の方が恐ろしい。
全くこの先読みできない展開だ。
ラストに至って唖然とする。
画面は全般的にフラットで映像美的な特徴はなく、淡々と状況のみを追う。
撮影監督のつくりあげる「絵」自体に執着しないというのもヴァーホーヴェンの作風のひとつだ。
クソが生きる世界をありのままに、美化することなく描写するだけだ。
まだまだ書きたいことがあるけど、
もうこれでもかというくらいに全編ヴァーホーヴェン節炸裂の怪作といえるだろう。
齢80歳になっても、枯れない貪欲な毒には心底参った。

そしてイザベル・ユペール。
久々に本領発揮した感じ。
そうなのだ、こちらこそが彼女の本来の演技なのだ。
最近パリを舞台にした大人の恋愛ものなんかで、
60代という年の割にお茶目では美しい女性という感じだったけど、元はコワイ女優だったのだ。
決して年を食って、丸くなってたわけではないのだ。猫をかぶっていただけなのだ。
逆に考えると、演技でつくられた多彩な像に振り回される観客の心中は穏やかではない。
やはり女優って物の怪の一種だよな。
ミヒャエル・ハネケ作品で魅せたトラウマ級に背筋を凍らせる女優だったのを改めて思い出した。
アメリカ女優に総スカンされたヴァーホーヴェンとの邂逅って、ある意味奇跡のコンビネーションだろう。
当初から彼女の為に用意された脚本であり、作品だと言っても違和感はない。
ユペールって昔から殆ど印象が変わらない。
若い頃、例えば「天国の門」なんかでも、現在より若いけれども、ピチピチしたフレッシュな感じはない。
グラマーではないけど、細身の体型は合変わらず、作品中でもしばしば脱いでいるが色気は絶えない。
某大御所フランス女優の変形(巨大化)ぶりとは大違い。
不機嫌そうに薄い唇をへの字に曲げ、感情表現をわかりやすく、表にはしないが、
複雑で多彩な心理描写の巧さとキャラクターや役柄、
そしてタブーに執着しない幅広い役選びはいまだバリバリ現役で凄まじいよな。
作品中でも途轍もない存在感を途切れることなく発し続け、観客を混乱させる。
まさしく怪演といえる毒を発し続ける。
連続幼児殺人犯である父の娘という背景こそ描かれるが、そこも逸脱した横道のひとつにすぎず、
キャラクター形成の因果関係といった過剰な説明補足はしない。
物語の語り口としては、視点ではあるけど単なる感情移入はできない。
彼女もまたクズで最悪なのだ。

断言しよう。
やっぱり今年一番最低で、最高の映画だ。

偏愛度合★★★★★

フランチ~でオシャレさんOlive一派の指定銘柄「地下鉄のザジ」やジャック・タチ作品を
引用しながらも、意図的に洗練させない、お洒落さや映像美をはずした田舎臭いベタな作風への
こだわりはやはり監督夫妻が道化師、パントマイム出身であることへのこだわりだろうか?
他にもチャップリン、キートン、ローレル&ハーディ、マルクス兄弟あたりまで影響を遡っていけそう。
演出と出演を兼ねるアベ―ル&ゴードンも決して正統的な美男美女でなく、
どちらかというと凡庸な容姿を活かして、
全身を活用した動きでスラップスティックなコメディ感を表現している。
ベタさ加減が突き抜けている。
まるで書き割りか模型の様な雪に覆われたカナダの田舎町で味気ない日々を過ごす図書館員フィオナ。
彼女を演じるのがフィオ・ナゴードン。
扉を開けると雪吹雪が吹き込み、風で飛んでいくという笑えない程にベタすぎるギャクから始まる。
パリの叔母からの手紙で、憧れの街へ会いに出かけることを決意する。
「パリのアメリカ人」ならぬ「パリのカナダ人」なのだが、同じくカナダ人なのに英語しか話せず、
殆どフランス語ができないという異邦人から見るパリという設定が共通する。
都会へ上京する田舎者という姿を類型的に並べる。
ひっつめた髪形に眼鏡、垢ぬけない服でフレームザック一杯の荷物を背負い、
そこにはカナダの国旗がはためくという悪ノリぶり。
カナダ人のクリシェ化というか風刺漫画での誇張のようだ。
パリに到着して、片言のフランス語で叔母を探すが、行方が知れず、
挙句の果てに記念写真ごとセーヌ川に落ちてすべての荷物を無くしてしまう。
全般こんな感じの全身を使った道化師の様なパフォーマンスばかりが続く。
笑えそうで、笑えない。けして劇場全体が大笑いの爆笑映画ではない。隅でクスクスレベルの笑い。
荷物を拾った怪しげな路上生活者ドミニク・アベルと肝心の叔母がパリを舞台でドタバタにすれ違う。
出逢いそうで出逢わない、すれ違いがプロットの基本だけど、それ程起承転結ってわけはなく、
エッフェル塔にセーヌ川遊覧船、自由の女神とお馴染みのパリ観光名所と
小ネタをあちらこちらに散らばせて、物語を引っ張っていく。
高架下で口笛吹く「ラスト・タンゴ・イン・パリ」のメインテーマに、
出逢ったばかりの見ず知らずの男女が船上レストランでタンゴを踊るなど、大雑把なようで
細かいネタの仕込はバッチリ。
引用作品への愛に満ちたオマージュはあるけど、完ココピに模倣しすぎない、
物語と映像をスタイリッシュに構築しすぎない、意図的に外した垢ぬけない作風は面白い。
やっぱり道化師夫婦二人による全身とパリというフォトジェニックな街を活かした道化パフォーマンスだ。

偏愛度合★★★


浅野忠信主演、演出による作品に違いない。

それくらいに彼の存在感が大きい作品。
逆を返せば、それくらいにどうしようもなく古臭い陳腐な脚本と無能な監督を主演俳優一人で引っ張り、
周囲の俳優との熱のこもった掛け合いを展開し、監督は単なる撮影記録者としてしか機能させずに、
力技で物語の体裁を整えて、事情を知らぬ者なら、一見傑作風に見せるという荒業を成し遂げたのだ。

俳優としては何を演じても常に浅野忠信であり、
与えられた役柄に近づくのではなく、役柄自体を自分へ近づけるタイプの演技派だ。
決して表情や仕草、肉体改造やメイクなど技巧を駆使して演じるわけではない。
役柄が近づいてくるので、物語上では違和感なく、リアルなんだけど、
同時にいつも同じな朴訥とした語り口やちょっとずれた動き、素の見えない不気味さが付きまとう。
正直表面は笑っていても、決して笑わない狂気に近い素性の知れなさがある。
これは独壇場の芸であり、他者が真似しようと技巧を凝らしても再現できない不可解さが漂う。
今作は浅野節とも言えるこの怪しさが全開なのだ。
離婚歴のあるリストラされたサラリーマンという役柄だけど、例えば「岸辺の旅」の死人や
「淵に立つ」のソシオパスと全くの地続きで同一人物だとも見える。多分誰も疑わない。
彼の相手役を務めるキャストの配役の巧さは認めざる得ない。
「葛城事件」と全く同質の自分の信念を一分も疑わない真っ直ぐな狂気が滲み出る田中麗奈。
現実世界にも態度は丁寧だけど、宗教布教に無神経にノックする人など、
怖いけど身の回りには結構よくいるタイプだ。何かを信じる者は傍から見ればコワイ。
彼女は家族と生まれてくる子という幻想を絶対的に不可侵なものとして信じている。
あゝこの二作で田中麗奈の普通の女性姿ってもう想像できないくらいに突き抜けてしまった。
宮藤官九郎のヤサグレ感も寺島しのぶの無神経さも浅野忠信との相性が好く、
脚本の字面を越えた有機的な俳優同士の掛け合いによる稀なる瞬間が何度も生まれている。
インタビューによると三島有紀子監督の演出、解釈に納得いかずに、
逆に浅野が監督に口出しして、リテイクを強い、挙句に現場で泣かせたそうだ。
作品において、心動かす素晴らしい演技があれば、それは演出者によって引き出された賜物
ではなく、純粋に役者の力と見るべきだ。そんな瞬間を何度も感じられた。
私的な因縁というわけではないが、ブドウにパンに布と中身のない空っぽな雰囲気だけの
フィルモグラフィーに散々付き合い、三島だけには作品を撮らすべきでないと豪語してきたが、
やっぱり今回も同様だった。
同じ題材でも西川美和やタナダユキ、横浜聡子なら、どう料理したかと想像してしまう。
確かに監督としての妙なこだわりはうかがえる。
16ミリフィルム撮影ベースの粒子の粗い、全体的に色調の暗めの画面を採用。
然程美的感覚に長けているわけでもなく、時代背景があやふやになり、効果的とは言えない。
また西宮の斜行エレベーターやひらかたパークのロケ地などは関西出身故なのだろう。
でも結局自分好みの雰囲気にこだわっているに過ぎず、作劇上では空回りしている。
誰もが認める画面での役者の巧みな演技も彼女の演出で引き出したものはないだろう。
だからこれは浅野忠信主演、演出なのだ。

もうひとつの問題は脚本。
まずは2017年度の「映画芸術」誌の邦画ベスト1はこれで確定済みだろう。
荒井晴彦が編集人であり、突き抜けた自己肯定と肯定派のみを寄せ集めた雑誌なので仕方がないが、
逆にそ来年発売号で、その結果を確認したいものだ。
(名を意識する前から)何度も荒井絡みの作品に接した時に常に感じたのがその古さ。
どうしようもなく古臭い、昭和の臭いがする。
それも意図した懐古的な臭い(ノスタルジー)ではなく、無意識にその時代から逃れれられない、
時代から取り残され、身体の奥底まで染み付いた古臭さだ。
彼の体現するのは、ATGなど自分を邦画嫌いにした貧乏臭さなのだ。
アメリカ映画の物量作戦やフランス映画のセンスへと逃げ、長らく邦画は無視し続けてきた。
そのもっとも嫌悪する邦画らしさを、今も無意識のままに自慢気に続けているのが荒井晴彦だ。
重松清の原作も20年前であり、当然経年劣化は否めない。
20年前を舞台で描くのであれば兎も角、現代風にアップデートしているつもりなのがかなり劣悪。
確かにスマホもPCも登場し、
主人公のリストラ出向先がAmazon以降の物流倉庫という設定は時代性だろう。
でも単に設定を現代に見せるだけのために借りてきたアイテムに過ぎない。
劇中の浅野のPCの使い方なんて意味不明を通り越して、陳腐すぎるぞ。
離婚した娘と再会するのが昔ながらのメリーゴーランドに観覧車が並ぶ遊園地(多分ひらパー)に
デパート屋上の遊園地とどちらも風前の灯火で絶滅危惧中。
原作由来なのか、脚本由来なのかは不明だけど、時代性を無視したご都合主義だ。
現在進行形の展開にやや説明的に「……年前」とテロップをいれて、
回想シーンを挿入する昔ながらのセオリー通りの語り口も月並みすぎる。
これでも相当駄目出しされ、現代風に脚色したそうだけど、いったい第一稿はどれ程酷かったのか?
荒井晴彦の脚本、演出を評価するのは構わないが、どうにも自分との相性の悪さは改めて痛感した。
個人的には最悪な監督と脚本家を揃えていながらも、
実物を観ずに貶すのは筋違いと、劇場へ自腹を切って出向いたが、やっぱり駄目だった。
最低の予想だったけど、やっぱり最低だな。

とりわけ偏愛する俳優ではないが、「演出」浅野忠信の苦労を垣間見て、★1個追加。

偏愛度合★★

「ドゥミとヴァルダ、幸福についての5つの物語」を
コンプリートしたかったけど、結局上映時間が合わずにこれのみ。
タイトルは知っていたが、全く前知識なしだったので、予想外の物語に唸る。
ジャック・ドゥミとジャンヌ・モローで「天使の入江」とくれば、てっきりモノクロームな映像美で描く、
ロマンチックなラブストーリーかと思っていたら、ギャンブル映画だったのにはちょっと驚き。
冒頭のアイリスアウトでジャンヌ・モローのいつも通りの不機嫌そうな表情。
そのまま高速で海辺の風景をバックしながら1カットで引っ張る。
元々は金髪に染めていたのか、ハイキーなモノクローム画面で見ると白髪の様にも見えるジャンヌ。
もはや完全に賭博中毒。お金を儲けるためというより、勝ち負けのみに執着し、
南仏のカジノのあるホテルを転々とし、掛け金がなくなれば周囲の知人に借金を無心する。
銀行勤めながら、退屈な日常から逃避して悪友に誘われて、
ギャンブルへと手を出す青年と偶然にカジノで何度もすれ違い、行動を共にする。
麻薬中毒者の耽溺を描く映画と同じなんでしょうね。
麻薬なら快楽といった目的よりも、儲けるとこよりも、賭ること行為自体に中毒するのだろう。
個人的には賭博に興味がないどころが、積極的な嫌悪を抱き、
カジノ誘致なんてもっての外、合法とされているパチンコ屋すら毛嫌いする。
そもそも誰かと勝ち負けを争う、順位を競うという他者との関係性が大の苦手なのだ。
興味のない門外漢でも世界を疑似体験して、興奮させる娯楽性への変換が映画の持つマジックだ。
ところが「007カジノロワイヤル」、あるいは勝負事なら「ハスラー」などで描かれていた
勝つことへの飽くことなき貪欲さや頭脳戦ともいえる駆け引きの面白みは希薄。
本来ながらば、ジャンル映画として起承転結の物語を成立させやすい設定なのはず。
ルーレットでお気に入りの番号の賭け続けるだけだとか、
二人が同宿するのはタイトルになっている安宿というのもツキを呼ぶというゲン担ぎだけなのだ。
賭け事としての駆け引きの無さは、二人の関係性にも通じる。
恋愛もまた男女の切った張ったの駆け引きのはずが、
妙に二人とも相手への執着は薄く、淡々しながらも何故かギャンブルを通じてだけ依存している。
演出自体も同様なので、観客もまた二人の勝ち負けや関係性の行方への感情移入は希薄となる。
モノクロームで切り取られたカンヌにニースと南仏の60年代の風俗、風景描写は見事。
そしてヌーヴェルヴァーグのミューズともいうべきジャンヌ・モローの
男に媚びない、愛想笑いしないいつも通りのインデペンデントな女性っぷりも堪能できる。


偏愛度合★★★

ポエムとア、ハンと繰り返される終わりなき日常が繰り返される世界を確信犯的な妄想として提示。
現実のパターソンという街も、劇中で言及されるウィリアム・カルロス・ウィリアムズの同名詩集とも
縁がなく(古今東西問わずポエムが苦手)、多分これからも縁はないだろうが、
この心地良い夢のごときパターソンという桃源郷は残るだろう。


イメージ 1

しかし月曜日から始まり、次の月曜日まで殆ど起承転結のない淡々とした日常描写が積み重ねる。
初期作から一貫している細部が明確でも、全体は緩やで曖昧という
意図的に俯瞰的な流れを外したオフビート感は顕著だ。
主人公であるニュージャージー州パターソンのパターソンが目覚まし時計なしで6時過ぎに目を覚ます。
きっちりと同時刻というわけではなく、6時15分が6時20分だったりと微妙には変化する。
傍らには美しい妻がが添い寝している。
質素な食事後、バス会社へと出勤する。路線バスの運転手なのだ。
「双子の夢を見たわ」という寝起きの妻の言葉から街中で双子と繰り返し出会う。
仕事を終え、定時に帰宅すると妻の手料理が待っている。
現実と比べればブラックな残業や過酷な夜勤なんかはない優雅でありえない非現実な働き方だ。
部屋の内装を変えたり、カントリー歌手のギターセットが欲しいと通販したり、
何かとお茶目な妻の言動。
作品全体が限りなく現実に近いが、ある種のファンタジーとして作風で一貫して、
美しい妻は最後まで夫を愛するお茶目な美しいのままであり、その内面は描かれない。
夕食後には犬の散歩がてらに行きつけのバーでビールをひっかける。
この言うことをきかない犬の言動が身につまされる。
夫婦と犬という3者の共同体(家族)において、群れの頂点(マスター)は奥さんであり、
パターソンは同格が、格下のお友達感覚。うちの犬もまさしくそんな感じ。
パターソンに対しては頑固なまでに我が道を行き、コマンドは殆ど機能しない。
まるで我家のコーギーのようだ。
この犬の頑な言動がちょっとした悲劇を生むことになるのだけど、それはそれで些細な日常に過ぎない。
そして一番肝心なのがポエム。
パターソンは日々の合間、仕事の合間にノートに手書きで詩を綴っている。
それが画面にアダム・ドライバーの文字でインポーズされる。
最後に登場するあ、ハンな永瀬正敏の台詞にあるように「詩は訳することができない」という通り、
いまいちこのポエムの良さは字幕レベルでは理解できない。
日常風景を主観的に淡々描写し、決して韻や対句、隠喩などテクニカルに走っているわけでもなく、
ポエマー苦手派(正確には日常ポエマー撲滅派)としてはしっくりこない。
ポエムを解せない無粋ともいえる。
でも作品自体がポエムみたいなものなのは理解できる。
平凡な街の平凡な主人公の営みも俯瞰してみれば、
映像の隙間に隠された韻があり、繰り返しがあり、
画面に登場する小道具や衣装、風景は全て何かのメタファーがあるなっているのだ。
ニュージャージー州に実在するパターソンではなく、またそこで暮らすパターソンもまた全て
監督であるジム・ジャームシュの脳内で展開される詩的な妄想なのだ。
日常がループするポエム構造なのだ。
これが何も起きないにに心地よく、快感で繰り返して体験したくなる中毒性を持つ。
桃源郷からは逃れられない。

偏愛度合★★★★