死にゆく地球を離れ、恒星間の人類の移民として宇宙船ってジャンル映画としての設定は目新しくなく、
つい昨今にも製作予算は桁違いだけど「パッセンジャー」というのがあった。
AIの声を相手に一人孤独に宇宙船艦内で過ごす姿には既視感いっぱい。
でも低予算のSFとかホラーにはまだまだ逸材が眠っている。
予算はなくても、アイディア次第でまだまだ楽しめる作品に仕上げることが出来る。
無数のクズ映画を掘り起こしていると、時々アタリに出会うというのがジャンル映画の醍醐味なのだ。
このスペインの若手監督も今後ひょっとひょっとしたら世界的にブレイクするかもしれない。

最初、それらしい宇宙船艦内のセットだけの密室劇で展開される。
乗船している宇宙船の全体像すら描かれない。
CG予算の都合かと思えば、勿論それがちゃんと伏線になっている。
中盤で給気系統の故障修理のために、並走する宇宙船からエンジニアの男が派遣されてくる。
艦内で生まれたヒロインは、外の世界を知らず、両親の残した映像で意外に他人に会ったことが無い。
初めて会うのがこの男だった。密室でのアダムとイブの邂逅だ。
初めての男とぎこちなくも接して、好感を抱く。
ネタバレになるが、ここから物語の語り口の視点が男側へと移り、隠された真相が明らかになる。
自分の生きていた世界が全て意図的につくられた偽物で
実際には別の現実世界が存在していたというお馴染みの展開へと転がっていく。
これも定石設定であり、とりわけ意外性は高くないが、前半と後半の組み合うせが面白い。
先程の伏線の意味合いもわかる。
やがて外の世界、現実世界へと踏み出すが、
当然ある実験目的で架空の閉ざされた世界をつくり、それを守ろうとする管理者達がいる。
男は管理者に対象監視のために雇われたエンジニアだが、真相を話し、二人逃亡を企てる。
全編言語はスペインであり、ロケーションと舞台設定はコロンビアというのが珍しい。
欧米とは異なる垢ぬけない街並みやが、逆に低予算ならではの現実とは異なる近未来を思わせる。
役者も二人(どちらも有名スターではない)を除けば、悪徳科学者、黒服の追手など
登場人物も最小限のみで、定番の設定の予想外の繋ぎと転調だけで、
しっかりと楽しませる娯楽性を持つ掘り出し物。

偏愛度合★★★

「まるでカーチェイス版の『ラ・ラ・ランド』」という宣伝の煽り文句も分からないことはない。
彼らに共通するのは、映画マニアでオタク気質の監督による脳内妄想の具現化である。
自らの抱えるコンプレックスやトラムマに比例してて、絶えず湧き起こる表現衝動による、
これまでの人生で血となり肉となってきた作品たちへの純粋な愛に満ちた再現なのだ。
でも同時にこれを才能と呼んでも差し支えないのは、劇中の細分渡るまで
隠されたメッセージや元ネタを知らなくても十分に娯楽作品として成立していることだ。
物語はこれまでも体験したことがあったようなシンプルな王道で、全く難解な部分はなく、
観客はクイックに突き進むプロットに身を任せていれば、2時間の現実逃避が体験できる。
これってかんたんなことのようで、実は脚本演出は当たり前のこと、
美術、小道具、音楽、、編集などに徹底した気配りがあってのこと結果なのだ。
エドガー・ライト監督のこれまでの作品に一貫していた駄目な酔っ払い達の狂おしい叫び
という路線から離れ、キャラクター、設定とも王道に徹してのも娯楽性の提供は驚くべきだ。
でも長年温めてきた企画で、自ら脚本も手掛けているので、突然変異でも、雇われ仕事でもない。
それでこのクオリティーの維持は一皮むけて、ネクストレベルに到達し、思わず歓喜する。

ライアン・オニール主演の「ザ・ドライバー」は古くからの偏愛作品。
それをアップデートしながらも、途中から予想外の方向へと逸脱せせたレフン監督「ドライブ」といい
強盗団の逃走用車両の雇われドライバーという職は極めて映画的で王道設定ながら、
それをどう料理するかという手腕が楽しめる。
プロット自体は定石どおりに、何度か逃走成功をおさめながらも、
最後にやばいヤマに手を出して、カオスと化すという展開。
ここは予想外のドンデン返しや意外性よりも、直球勝負する。
重視したのは登場するアクの強いキャラクター達の巧みな立たせ方だ。
主人公は両親を自動車事故で亡くしたトラウマから耳鳴りの後遺症を持つ少年。
BABYという名のまま童顔だけど、超絶テクニックを披露する。
耳鳴りのためいつもイヤフォンで音楽を聴いており、劇中常に彼のきく音楽が流れ続ける。
サントラが欲しくなるベタだけど、同時にマニアックな選曲に
音楽と車や人の動きがシンクロするのが最大の見せ場。
この演出、編集手法は今後映画やCMやパクリまくられるだろう。
お互いに面識のない寄せ集めの実行犯に仕立てる影のコントローラー(ケヴィン・スペイシ―)
は「華麗なる賭け」ステーヴ・マックイーンを思い出す。人
見るからにややこしいソシオパス野郎ジェイミー・フォックスやら、
セレーナゴメス系のラテン美女エイザ・ゴンザレルなどとりあえず全員が濃ゆい。
その中で清涼剤として鎮座するのがリリー・ジェームズ。
彼女は最高のオタクの妄想美女だ。
キャラクターとしてのリアルな内面や心理描写はなく、何とも都合よく主人公と
BOY MEETS GIRLとばかりに恋に落ちて逃走劇を繰り広げるのだ
まるで「トルゥー・ロマンス」のパトリシア・アークエットだ。オタクが描く美女像は一貫している。
でも同類のオタク気質としてはそんなことにとやかく言うことはなく、気にせず共にランデブーを楽しむ。
オタクは情報中毒だ。
情報(ネタ)を無意識のうちに記憶して、現実世界でもそれを求め、妄想の中でそれを実現する。
この映画も単なる痛快カーアクション娯楽作品としても成立しているけど、同時に
選曲から、小道具や委美術のチョイス、台詞に隠された背景など膨大な情報が溢れているのだろう。
全てを解読することはできない。またする必要もない。
そこはその筋の専門家の批評を映画の後に眺めればいいのだ。

偏愛度合★★★★★

実話ベースだけど、物語進行の視点を潜入者二人に置き、サスペンス映画として見事に脚色。
史実を基にして、複数の視点を交錯させる俯瞰的な視点ではなく、単一定点から描く。
主人公であるイギリスからの二人の潜入者が現地レジスタンス組織と協力しながら、
ハイドリヒ暗殺計画(エンスラポイド作戦)の遂行の過程を時系列通りに追っていく。
ナチスの組織内部や暗殺対象であるハイドリヒ自身は外側から見える客観的事実しか描かない。
当然ながら観客の視点が主人公二人と同調することになる。
占領下のナチスの圧倒的な軍事力と内通者や密告者を強いる状況下、
誰が敵か味方かすらわからない、先の読めないサスペンスフルな展開となる。
冒頭からタイトル後の暗転(黒)をバックにパラシュートでの落下時の樹に引っかかる音のみが響く。
やがて深夜の森へ落下後、合流する二人の青年の姿が現れるが、具体的な状況説明はない。
作戦の内容や背景は物語の進行に応じて徐々に明らかになってくるが、
冒頭では観客を突き放して、過剰に状況の説明補足をしない。
現地連絡員らしき者の裏切りといきなり四面楚歌な過酷な状況を追いやり、
視点への同調を強いる巧い演出だ。
レジスタンス組織とコンタクトを取れた後も常にこの緊張感が続く。
ハイドリヒ周辺をを密かに視察して、客観的な事実のみ収集して、
そこから隙を割り出し、暗殺計画そのものを一から立案して、実行していく。
レジスタンスの女性連絡員との作戦を忘れた淡いひと時で緩急を加えながらも、
過酷な占領下という先の見えない暗闇を暗中模索しながら物語は進む。
この演出により観客は、最後までキリアン・マーフィー派かジェイミー・ドードーナン派か
というタイプの異なる男前の好みの選択はあっても、この両者の視点に同調させる。
また二人が陽と陰、夢想的と現実的であったりと何かとキャラクターの対比となっているのも上手い。
作戦の過程を内部から追い、いよいよ暗殺実行へと至る。
確かに後半、特にラスト30分間は暗殺実行失敗以降の逃走劇と最後の教会に籠城しての銃撃戦など
ただならぬ緊迫感が続く、宣伝の煽り文句にも嘘がない傑作だ。
「ヒトラー暗殺、13分の誤算」という超ド級の傑作もあるが、今作もそれに匹敵する。
監督ショーン・エリスの名自体には記憶がなかったが、
「フローズンタイム」は時間を止めるというアイデア一発の低予算だけど面白い作品だった。
きっと彼は今後、アメコミやビッグバジェットの監督に抜擢されるにちがいない。

余談だけど、いつも気になるナチスも関連映画での言語の問題。
ドイツ人なのに英語で会話ってのが多い。
例えば「ヒトラーへの285枚の葉書」での違和感が記憶に新しい。
今回はちゃんとドイツ人はドイツ語を話していたけど、
現地言語(チェコスロバキア語?)は英語に置き換えられていた。
流石にリアリティに完全遵守して、潜入者もレジスタンスもチェコ語で会話ってのには
作劇上無理があるので、これは許容範囲として、脳内で吹き替えしておいた。


偏愛度合★★★★


山師川村元気、
素直に楽しむか?斜に構えるか?

勿論この場合の「山師」は本来の鉱山技術者や採掘請負人ではなく、
投機的な事業で金儲けを企てる者、転じて詐欺師などの否定的な意味合いで使用している。
常に金の臭いを嗅ぎつける流行りものへ眼鼻の利く山師はどの業界にもいる。珈琲業界にもいる。
芸能関連においては究極の山師といえば秋元康だろう。
でもあそこまで突き抜けるともはや金の臭いしかしないので、逆に盲者王として清々しいくらいだ。
個人的に苦手なのが川村元気と小山燻堂の二人。
共通するのが、その活動範囲が多岐にわたり、如何にも搾取目的の詐欺師然とした感じでなく、
どこか似非文化人を装っていることだ。
いや、実際の中身が伴っていないので、文化人を気取っているという表現が正しいか?
流行りものと話題の人を巧みに繋ぎ、組み合わせの意外性を演出しながら、
小綺麗にパッケージした商品を「はいどうぞ、お召し上がれ」とばかりに提供する。
勿論山師の山師故に、良質な作品である場合もあれば、空っぽ似非作品であることも多い。
庵野起用は吉と出た「シン・ゴジラ」は」好き。
何かを表現していなければ常軌を維持できないようなある種狂気に近い切実さはない。
芸術家至上主義というわけでないが、この切実さを伴う作品には、無条件に惹かれる。
今作も監督に原作、脚本、声優が誰であろうと、これは紛れもない川村元気の作品だ。
そして世間的にはどう判断されるのかは不明だけど、
個人的には「君の名は。」の柳の下の二匹目の泥鰌を狙ってはずした空振りのパチモンに感じる。

オリジナル岩井俊二作品をオンエアで見たかは記憶にはないが、ほぼリアルタイムで体験。
作品の出来具合うんうんよりも、奥菜恵のあの年齢だけの破壊力に参ってしまった方だ。
それをドラマ「モテキ」の1話で無断引用し、カット割りまで真似たという大根仁が、
映画用に脚本を書くと言えば期待せずにはおられない。
アニメーションの新房昭之は「魔法少女まどか☆マギカ」を観たくらいで専門外なので判断保留。
それに声の出演には広瀬すずと菅田将暉という一番旬の男女優を配するなんて、あざとい。
もはやクリエイトというより、単なるマーケティングとしか呼べないようなあざとすぎる手法が鼻につく。
予告編からして嫌な予感だかけだった。
日本橋に彷徨いこむと、のべつ幕無しに客引きするメイドカフェのおねえちゃんみたいな
制服姿(本当にあるの?)とリアルな地方都市の風景のようでありながら、ファンタジックでつくりものめいた
全てがキラキラと輝く、光学処理の動画に眩暈がした。やばい感じしかなかった。

あゝそのまんまだった。

冒頭こそオリジナルのストーリーをそのまま追うけど、そもそも元々は40分強の物語を
劇場用に90分に話を広げなければならないのだ。
引き算ではなく、足し算と追いう段階で流石の大根仁でも脚本家として分が悪い。
基本プロットを残しながらも、色々異物をぶち込み、希釈するのだ。
「もしもあの時……」という設定のみで、大したストーリーも説明もないのに、
共有記憶を持たない第三者である観客まで思わず胸が疼くような夏の風景の一幕に
懐かしさすら感じてしまうのがオリジナルである岩井版。このありえない普遍性こそが傑作の証。
でもそれだけでは尺が足りないので、
主人公たちを何度もタイムリープさせ、繰り返し時間を再構築できるご都合主義なガラス玉を導入。
そのガジェットが何なのかは説明されない。それは別に構わない。
でもそれ自体が物語で浮いている。余計なもので、物語を水増ししているだけで、異物感が濃厚だ。
プールでの競泳シーンとか、電車での駆け落ちとか細部は割とオリジナルに忠実に再現している。
本来の部分と付け加えた部分の接合が悪く、物語全体の唐突な展開や希釈感が残る。
声だけだが、広瀬すずの破壊力のは奥菜恵に迫るは勢いかも。
でも彼女以外の少年たちの、中学生のはずがまるで小学生のような幼過ぎるデザインがかみ合わない。
設定年齢を中学生へとあげたためのバランスの崩れか。
また逆光に花火、灯台の光と全編光学フィルターをかけまくったようなキラキラ感全開が絶えられない。
正直拷問級の作品だったけど、岩井版への敬意分★1個おまけ。

さて、山師川村元気、
映画ヒットで吉と出るか?大ゴケで凶と出るか?


偏愛度合★★

スラム街というコミュニティにおける麻薬を介した人間模様劇。
確かにロドリゴ・ドゥテルテ大統領による徹底した麻薬撲滅運動が背景となっているが、
大量の麻薬の製造、提供する組織であるカルテルの実体追及もなく、
日常的に雑貨屋などの小商いで行われる末端のビニール袋に入った数グラム程度の売買が中心。
映画自体は意図的に、木を見て森を見ない。
駄菓子や食品を売る店を構えながらも、裏で「アイスキャンディー」と隠語される麻薬を扱う。
主人公ローサは、麻薬に手を出すぐうたら亭主と子沢山の生活を支えるためである。
完全に善(白)なる存在ではないが、同時に悪(黒)でもない。
公的には上からの命令により、これら密売人を摘発することで、投獄、拷問して、密告させ、
元凶の草の根を手繰る一方、保釈金という名目で多額の上納金をせびり、
麻薬をくすねて私腹を肥やす悪徳警官、自警団の姿もある。
彼らもまたやっていることは汚いけど、あくまでもボトムで生きる生々しい人間模様に過ぎず、
明確な善悪の対比、ましてや勧善懲悪なカタルシスなんてどこにもない。
目の前に横たわるリアリスティックで混沌たる世界なのだ。観客もまた、単純に肯定未否定もできない。
スラム街という狭い閉鎖エリア、昔の日本の近所付き合いみたいな顔見知りで密な関係がある。
血縁で繋がった家族やそれに準ずるぎ義理家族、友人、常連客などが濃すぎるくらいに入り乱れている。
閉鎖社会において、こん人間関係は人と人とのセーフティネットとして機能している反面、
自己都合で利用するというマイナスの側面を持つ。
邦題通りローサは密告されたのだ。
顔見知りで可愛がっていた兄が弟の釈放を警察から持ち掛けられ、ローサの名をチクる。
しかし現行犯摘発されたローサ夫妻は被害者なのかといえば、あっさりと仕入れ先の売人の名を告げる。
そう、「ローサは密告され、ローサは密告した」というのが正しい邦題だ。
別に作品視点はこのことの合否、善悪を問うているわけではない。
それを強いる権力側がいる限り、密告は誰しもに起こりうる出来事なのだ。
ここでフィリピンでの大統領令による麻薬撲滅という背景が活きてくる。
ただ森は一切描かないで、末端の木の枝の先のみを執拗に描く。
実は登場人物の善悪ではなく、密かに作品に隠されたテーマはここにあるのだ。
雑多の人ごみに車やシクロ(人力タクシー)が溢れ、延々と雨が続きで道路はぬかるみ、
ネオンは暗くくすむ様を延々と手持ちの長回しで捉える。
常に緊張感が漂い、ハリウッド映画文法の定石で言えば絶対何か起こりそうな
禍々しいロングショットなのに、単に裏手へ歩いているだけと、巧みに観客心理をすかす。
全編通してのドキュメンタリー映画のような緊張感は半端ない。


偏愛度合★★★

ヌーベルバーグの流れ以降のフランス映画マニアとしては「ドワイヨン」という銘柄には興味津々。
監督であるローラ・ドワイヨンはジャック・ドワインヨンの娘といっても、
ジェーン・バーキンとの娘でシャルロットの義であるのは妹であるルー・ドワイヨンで、
こちらは腹違いの娘で、夫はセドリック・クラピッシュらしい。監督夫婦なのか。
勝手な想像だけど、幼いころから父の仕事現場で映画制作を眺めていたのだろうか?
そこで父やスタッフからの、少女への気遣いが、
ひょっとして今作の少年少女たちへの演出に繋がっているとか妄想すると面白い。
それくらい子供使いが巧みな演出だ。勿論真偽は知らない。

余談はさておき本題。
少女ファニーを演じるレオニ―・スーショーに尽きるだろう。
オーディションで1000人近くから選ばれた映画初出演の少女だ。
数人の少年少女を引き連れ、スイスへの逃亡路のリーダー的な役割であり、
二人の妹を抱えながらも、何とか越境を成し遂げる行動派の少女だ。
斎藤環風にこじつければ、ある意味この映画は戦う美少女の亜流かも知れない。
彼女の目力が凄い。
視線の動きや、不安げな表情、覚悟を決めた時の凛々しい強い意思が
映画初出演とは思えないくらいに、ナチュラルに、そして巧みなストーリーテリングとして機能している。
年齢を越えたクールな視線に期待がを込めて、将来はレア・セドゥ系の女優に育つかも知れない。
ナチス統治下のフランスでユダヤ人の少年少女を密かに児童施設に匿う支援者たちがいた。
仲間内の密告から、逃亡を余儀なくされ、最後にはスイスへと越境するまでの旅路だ。
また例によって「実話から生まれた感動の物語」と煽っているけど、感動はない(勘弁してくれよ!)。
実話から逸脱しないように、丁寧に行動を追い、生き抜く様をリアルに描く。
決し少年少女たちを穢れなき無垢なる天使としては描かない。
それ故に絶対的な神も安易に救いや癒しをを与えない。
大人の世界には真理と同時に混沌や矛盾、裏切り、強欲、殺意などが渦巻いている。
悪役ナチスと正義の倒フランス国民というわかりやす図式はなく、
統治者の命令により同胞を売るフランス人もおり、善悪な線引きは曖昧で抽象的だ。
目の前の大人が敵か味方かすら理解できない。
戦争や占領、ユダヤ人収容所など大人が一方的に押し付ける不条理が理解できない。
そんな世界のシステムを俯瞰できない無力な存在として子供たちを描く。
目の前の現実に戸惑、お互いに諍い、飢え、何度もくじけそうになりながら、
苦しみに耐えながらもひたすらスイス目指して歩き続ける姿を割と淡々と描く。
いわゆる類型的感動演出はない。
突きつけらえた事実に向い、逃げずに戦い続けるだけだ。
戦う美少女といっても、文字通りのファイティングではなく、現実を処理してこなして、サバイブするだけ。

最後にまた余談だけど、
少女のフレア気味のスカート姿から細い足が伸び、足元にはいかつい編み上げの
ロングブーツなどという姿には思わず萌える。
実は大人でも同様。女性の軍用やパンクなブーツフェチかもしれない。


偏愛度合★★★


つくづくアメリカ人は蜘蛛男が好きならしい。
まあ日本なら繰り返し再生産される仮面ライダーとか、ウルトラマンとかのコンテンツと同じか?
スパイダーマンの映画的なオリジナリティを提示したのが、サム・ライミの初作2001年。
オッサンの時間緒感覚で言えばついこの前であり、続編2作が制作され、シリーズはいったん終了。
しかし間一髪淹れずに「アメージング・スパイダーマン」シリーズが2作公開。
「(500)日のサマー」の監督マーク・ウエブという期待もあったけど、
結局不遇時代のエマ・ストーンしか残さなかった。それくらい記憶が希薄なリブート。
そして2年後、またしてものリブート。
私的に嫌悪する鼠屋傘下のマーベルの貪欲なまでの金の臭いしかしない。
期待値ゼロで劇場へ臨み、満足値ゼロで帰還という全くの予定調和だった。
そもそもアメコミの複数のヒーローの物語が繋がり、
一体化していくというユニバースという世界観が面倒くさい。
莫大な製作予算の回収のため、固定客確保と次作へと中毒化させる手法もわかるが、
ここまでくると潔いけど、単に銭儲けしか感じられない。
「シビル・ウォー」で初登場したスパイダーマンの単独作で、
今後の展開を控えているアベンジャーシリーズのスピンオフ的存在か?

サム・ライミの提示したスパイダーマン像をなぞっただけの「アメージング」シリーズと明らかに違い
新機軸を打ち出している。監督はその筋には評判の「コップ・カー」ジョンワッツ。
腕のあるインディーズの監督を引き抜き、
いきなり大予算の大作を任せるというのも昨今の流行りだけど、多少が期待が残る。
しかし結論から言えば、トム・ホランドがどうしても生理的に駄目駄目だ。
超能力を身に着けスパイダーマンへとなった過程をバッサリカットして、いきなりうざい高校生として描く。
キャラクター設定年齢を14歳に下げたことに伴い、常にベラベラとしゃべりまくり、
自意識過剰で、目立ちたがり、行動が行き当たりばったりで、
全て結果から(周囲の大人の力を借りての)尻ぬぐい合戦が最後まで続く。
同世代から見れば共感があったり、息子を持つ親世代ならば母父性愛で
見守ってやりたくなるのかも知ないが、残念ながら、
個人的には鬱陶しいクソ餓鬼という生理的拒否しかないのだ。
逆に彼の暴走を支える周囲のキャラクターは心地よい。
何よりもマイケル・キートン。空を舞う「バットマン」を演じ、それを自虐的に揶揄した「バードマン」に
再び「バードマン」という悪役を演じさせるこのメタな多層性。
また「ファウンダー」では資本主義(ダークサイド)ヒーローの権化ともいうべき役柄を演じていながらも、
今回は大富豪トニー・スタークという搾取する者から、
搾取させる者という役に配されるという皮肉か、確信犯的に仕掛けた配役か?
ヒーローたち大都市で攻防を繰り広げ、破壊された瓦礫の処理を行う真面目な業者だったが、
トニー・スターク系列の子会社に仕事を奪われ、闇ルートでの武器販売へと走る。
自分で壊して、その後始末も自分で儲けるというスタークもまた元武器商人。
数年に渡り、FBIにもアベンジャーズにも目につかないように、
ただ家族を養うために小商いを続けるバルチャーのリアリティはこの物語の肝。
そしてそれを演じるマイケル・キートンの冴えない風貌と地に足のついた演技力には驚かさせる。
また「アイアンマン」シリーズの育ての親とも言うべきジョン・ファブローが
監督業から解放された伸び伸びとした客演が如何にも楽しだ。

摩天楼を飛躍する颯爽たるスパイダーマン像を封印して、
雑多で生活感あふれるクイーンズを舞台にした劇中でも引用される「フェリスはある朝突然に」
のようなジョン・フューズ的な学園物が展開される。
80年代を過ごした者としては懐かしい反面、どこかこっぱ恥ずかしく、落ち着かない。
マシュー・ブロデリックが喋り続けても、
嫌味はなく、感情移入できたはずだけど、今回のトム・ホランドは駄目だ。
マシンガントークから溢れ出る自意識とその結果の無責任さな行動が正直つらかった。
タイトルにある「ホームカミング」へエスコートする憧れのヒロインが金髪白人ではなく、
エスニック系の長身美人というのは面白い。スパイダーマンの正体を知る太っちょ相棒も同様。
トム・ホランド抜きにすれば、新機軸を打ち出した現在のリアルな「スパイダーマン」像だろう。

偏愛度合★★

偶然にも前日に観た「ウィッチ」と似た構造を持つ。
どちらも信仰についての物語だ。
宗教とは閉じる。
崇拝する対象が異なれども、ある対象への信仰心は、信じる者と信じない者を線引きする。
信じる者は救われるではないが、信者同士というコミュニティを形成して、閉鎖的となり、
信仰心を共有できない者たちを排除する傾向を持つ。
宗教を背景にした人の行為は慈悲深くなると同時に、限りなく残酷にもなりうる。
古くは十字軍遠征、魔女狩りにに始まり、現在世界で多発するイスラム系のテロなど
全て行動規範は特定の宗教への信仰心と排他性だ。
「ウイッチ」と同様に信仰心を持つ集団に別の何者かが侵入してきた時、信仰心はどうなるのかを描く。
信仰や宗教をテーマとした多くの映画はこの構造を持つ。
「夜明けの祈り」はキリスト教修道院が舞台であり、
神への祈りをささげる女性ばかりの完全に閉じた世界だ。
そこに侵入してくるのがソ連兵の集団であり、凌辱と妊娠という傷痕を残す。
物語は直接的にソ連兵の行動の描き、その合否を問うわけではない。
あくまでも閉じたコミュニティが異物の侵入によって、どう対処するかということに論点を絞っている。
対比されるのは修道院の院長と赤十字のフランス人女性医師マチルドだ。
前者が信仰心という対外的な体裁を繕うための事実をもみ消そうとする保守的な存在であり、
後者は医学という科学的で物理的な世界を生きるリアリストだ。
実は宗教という閉じた世界では信仰心は突然の異物への対処には長けていない。
基本的なレスポンスは、信仰心を守るために、その存在の排除と無視という隠滅しかない。
観客の視点となるのが、女性医師サイドだ。
ルー・ドゥ・ラージュが素晴らしく、カッコいい。
カーキー色の軍服を着こみ、髪をアップにまとめ、煙草をスパスパふかして、大型車両を走らせる。
眼の前の問題に現実的に対処するどちらかと言えば男性的な存在である。
彼女の行動と視点を通して、事実を追っていく。
ただ信仰を一方的に否定するわけではない。
祈りをささげる修道女たちの存在を認め、彼女たちに宿る尊い命を思い、彼女たちの為に行動する。
信仰で閉じた世界を破壊するのも、それを一層強くするのもどちらも外部の者なのだ。
閉じた世界はその外にある世界によって存在するのもまた事実なのだ。

偏愛度合★★★


ホラーというジャンル映画の枠組みを借りた信仰についての物語。
よくよく考えると、神を信じるのも、霊や超常現象を信じるのも同じことなのだ。
現代科学では存在を証明できない形のない存在への崇拝であったり、
逆に畏怖や執着であったりするが、所詮は同じ穴の狢に過ぎないのだ。
ましてや仏陀への信仰には怨霊も口裂け女もついてこないが、
西欧におけるキリスト教信仰においては何故か神にはもれなく悪魔が付いてくるのだ。
一見対極の別物であるが、元々はひとつで、分離不可能な存在で、
信仰心が厚ければ、厚いほど、両者の存在を認めてしまう傾向がある。
キリストへ祈りを捧げる教徒と悪魔を崇拝する魔女とは全く同義なのだ。
だから今作は、単なるオカルト映画、ホラー映画としてとらえきれない。
人が持つ広義の「信仰」へのかから理方を問う作品なのだ。
単純に悪魔や魔女を肯定するのでも、否定するのでもない。
神以外へ身をささげる存在(個人、集団)がおり、
宙を舞う魔女らしき姿が映像として描かれるが、それが現実なのか、幻想なのかは明確にしない。
村落から追放され、人里離れた鬱蒼たる森の脇に住処を置き生活する家族たち。
神への厳格な信仰心を持ち、質素ながらも日々堅実に生活している。
やがてそれが少しづつ、外部からの何者かによって崩壊し始め、家族同士がバラバラになる。
そんな極限状態における、心理サスペンスとして描く。
日常に侵入するのが何者なのかは説明しない。
台詞やナレーションで余計な補足を加えず、ほぼ主人公家族の行動のみを追い、
ただなすすべもなくお互いが疑心暗鬼に陥り、関係性が崩れていく様のみを執拗に描く。
全編モノクロームかというくらいに色彩を落としたダークな映像が見事。
不気味に響く自然音とヒステリックな弦楽器の音楽が心理的に揺さぶりをかける。
ヒッチコックでお馴染みの演出だ。
作風は異端にして、同時に王道だ。
世界中の映画祭で称賛され、既に次回作も決まり世界が注目するというロバート・エガーズ監督の
名はこれからも憶えておいた方が良さそうだ。


偏愛度合★★★★

満島ひかりは素晴らしい。
でも昔「ベンチがアホやから野球がでけへん」という発言で馘首された投手がいたが、
思わず「監督がアホやから映画がでけへん」と大声で断言したくなる作品なのだ。
映画で役者が素晴らしい演技を披露すれば、それは役者の実力である。
でも逆に作品自体がちんたらとつまらない代物であれば、それは監督の実力である。
監督やら脚本やら、つくり手であるベンチがアホなのだ。
愚鈍な監督というベンチのおかげで満島ひかりの熱演が空回りしているのだ。
監督・脚本を手掛ける越川道夫なる人物のキャリアは知らないが、そして知りたいと思わないが、
今後は近づくのは避けておいた方が良さそうだ。どうやら本来は製作者らしい。
製作のみ手掛けた作品には、好みのものあるが、それは逆に監督の実力だろう。

奄美の作家の物語を祖母方の出身が奄美という満島ひかりに流れる血筋そのままの故に役柄との
シンクロ率と演技に臨む気合の入った熱量は半端なく、文字通り身を張って挑んだ役柄だろう。
短髪で化粧っ気のない姿、白い麻のシャツにワンピースや巻きスカートなど普段着姿が素敵だ。
作品を越えて一貫している満島ひかりにしか演じられな独特の間合いも健在。
常々感じていたその独特な言葉のイントネーションとブレスが奄美ルーツであることを確認できた。
相手役の永山絢斗の相性も良い。
兄である瑛太と声だけブラインドで聴けば判読できないくらいに似ていても、キャラクター薄口で、
瑛太を薄めたB太とか言われているが、攻めの演技の満島ひかり対しては、
相手役の存在と間合いに変に自己主張することなく受け入れるという守りの演技なので相性は悪くない。
私生活でも、同じような関係なのかも知れない。

この二人を揃えることが出来ながらも、如何にしたらこうも酷い作品が出来上がるのだろうか?
ある意味不思議だ。
まずは全体的に嘘臭い、生々しさに欠けるつくりものめいている。
奄美までロケーション撮影しながらも、島特有のランドスケープ感が全くない。
確かにそれらしい遠景に島影の浜辺の小屋、木漏れ日の峠道、花の咲き乱れる庭などの風景、
そして奄美の方言、島唄などがこれぞとばかりに並べられるが、不思議なくらいにリアルには感じない。
そう、何か舞台の上の書き割りの映ようなのだ。
本来は台詞や歌詞に字幕が添えられるように、
内地とは全く異なる文化圏で別の空気感を醸し出しているのだろう。
でも実は江の島でロケしましたと言われても信じてしまいそうなくらいに、島の空気感が希薄に感じる。
まるで舞台で書き割り画を背景に役者が熱演してい様を中継しているかのような演出なのだ。
演出は固定フレームでの長回しが基本。
馬鹿正直に中央に立つ人物の元へと上手から別人物がフレームインして、
向き合い会話するなど舞台をそのままなぞったような手法なのだ。
いったいカメラの向こう側の監督は何を望んでいたのだろうか?
固定での長回しを全面否定するのではない。
方法の選択は目的達成の手段という演出者の意図そのものだ。それが全くちぐはぐしている。
二人を繋げる周囲を子役(学校の生徒)もこの時代背景なのに小綺麗で垢抜けていて、
ちゃんと演技している感じが逆に興ざめする。
エピソードの積み重ね自体もダラダラとしておいて緊張感に欠けるので、
155分という長尺に必然性が感じられらない。
そう時代背景の緊迫感も欠落している。
太平洋戦争末期の敗戦色が濃厚な混乱期の海軍の特攻舞台なのにどうにも弛緩している。
沖縄の陥落、新型爆弾の投下などどれらしい台詞で状況説明されるが、全く緊張感がない。
舞台となる場所こそ異なるが同じ時代背景の「この世界の片隅に」での後半に向かう凄まじい緊迫感、
2時間という尺なのにみっちりと情報が詰まった構成力など、監督の力量の差をありありと感じる。
余談にはなるが、愛する男の特攻を翌日に控えたヒロインが文字通りもろ肌脱いで冷水で身を清め、
祈願するシーンを真正面のミディアムショットの固定で長回しする監督の演出の意図が不明というか、
デリカシーの欠如には心底飽きれた。
女優満島ひかりへの根性焼きか、観客サービスのつもりなのか、もういい加減にしろと腹立たしい。
結局映画がどうしようもないのは、全てはベンチ(監督)が愚鈍故なのか?
作品偏愛度合は最低だけど、満島ひかりの熱演分★プラス。

偏愛度合★★★