脳裏に過ったのは「20センチュリー・ウーマン」だった。
休日の映画館の3本梯子のラスト。
正直全く期待していなかっただけに、掘り出し物といってもいいだろう。
直前に観た作品の印象が全部ぶっ飛ぶくらいの傑作。
あれ、さっき何の作品を観たっけ?と記憶が消えるくらいに上書きされた。
アイスランド映画という希少感だけの辺境性やLGTBの権利主張的なメッセージ映画でもない。
確かにゲイの少年こそ登場するけど、
もっと普遍的で青臭い青春譚であり、閉鎖的な社会において疎外されるアウトサイダーの姿を
これ以上ないくらいにやさしい視点で切なくも、生々しく描き切った素晴らしい作品だ。
アイスランド版「20センチュリー・ウーマン」といっても誰にも通じないかも知れないけど、
自分の中では完全に共鳴したハーモニーのように繋がるのだ。
舞台も設定も、テーマも全然異なるけど、溢れんばかりの淡い映像美と
登場するキャラクター達の全てに愛着を覚えてしまうような丁寧な人物描写に通じるものがある。
実はどちらも監督の自伝的な記憶の再構築らしい。
氷の国アイスランドの通年でも限られた光の季節が舞台。
ラストの初冠雪でもうすぐに冬がやって来るというまでの与えられた僅かな時間が描かれる。
「ひつじ村の兄弟」「馬々と人間たち」など昨今公開が続いているが、
アイスランドというお国柄の持つ印象は強くない。
素朴な人々と羊、雄大な自然とか月並みなキーワードに過ぎない。
物語も牧羊と農作を営む、ひなびた田舎町の漁村が舞台だ。でも先入観は不要だ。
アイスランドでなくても、田舎町の持つ排他的で保守的な独特の閉塞感は予想がつくだろう。
そこではゲイであったり、男運・男癖の悪い母など、規格外の人物の生きずらさも同様だろう。
劇中ではこれらアウトサイダーへのやさしい目線が一貫している。
劇中では何度もオコゼという皆から疎まれる醜い魚に喩えらている。

「20センチュリー・ウーマン」と同様に母と息子の関係、そして共に暮らす姉妹という家族
(この場合は疑似的な家族ではなく本当の血縁同士)が縦軸となる。
そして主人公の少年と家族ぐるみでの付き合いで幼馴染の少年との友情(あるいは隠された愛情)、
想い焦がれる女友達たちが横軸となり、物語が展開される。
主人公ソールの往年のリバー・フェニックスを思わせる美少年ぶりにはその筋の人は悶絶だろう。
短髪に上目づかいの視線、無垢なまでの無自覚な行動にリバー・フェニックス記憶を探る。
彼に想い焦がれるタイプの異なる金髪でワイルドな女性の視線を集める美少年クリスティアンも同様。
映画において男優、特に美少年を愛でる習慣は希薄だけど、
このふたりの生き生きとした描写には目を奪われる。
一部巷では、どっち派という好みの選択がありそうだ。
たまたま好きになった相手が同性だったというだけで、LGTB的視点のみでとらえられない友情だ。
ゲイ映画だからという否定も、逆の肯定も、余計ない配慮は全く要らない。
母役こそ、アネット・ベニングの圧勝だけど、その他の美少女たちは決して負けていない。
性に目覚めた末っ子のソールの目の前で目の前で着替えたり、
何かと性的にからかったりする美人姉妹もいい感じ。
口の悪いパンクな姉貴とポエマーなアーティスト志望の姉貴とキャラ分けも巧み。
男兄弟の長男だったので、姉の存在には常に憧れが付きまとい、あり得なかった幻想を刺激する。
また女友達とのキスや初体験など、そんな素晴らしい青春の記憶がなくても、ときめきは止まらない。
それぞれが家庭や個人的な事情を抱えているけど、
限られた光の季節での躍動感のある日々の描写には、もう苦しくて死にそうになる。
まさしく「ときめきに死す」だ。
ときめきは人物描写だけではない。
全体的に淡いトーンと自然光を巧みに活用した広大なランドスケープがこれまた堪らない。
単に風光明媚な観光案内的な映像というより麦穂の揺れる草原や湖、断崖絶壁の海岸、
アップダウンのある丘陵風景など、このアイスランドの過酷な自然こそが心象風景となる。
更にロングショットから一転しての寄りのアップショット、逆光で金髪が透けながらの横顔接写に繋ぐ。
引きと寄りの絶妙のバランスが絶妙。あゝまたしてもときめきが止まらない。
本当にすぐれた映画って、自分とは共有記憶がないのに、まるで同じ時を過ごし、
その瞬間の同じときめきを共に感じたようなような錯覚を伴うのだ。
私的には直球ど真ん中ストライクにツボな作品で文句なしの満点★5つだ。

偏愛度合★★★★★

イタリア名物「マンマミーアmamma mia」映画だった。
流石世界屈指のマザコン国だけあって、
巨匠フェリーニを代表格に母息子ものはこの国の伝統芸でもある。
でも一見何気ない気を衒わない作品が実は一番奥が深く、読み解きにくい。
アメリカ映画の明確なまでの起承転結のプロット展開、主人公の成長、
作劇に応じた適切な演出技法の駆使、時としてはそれ以上のテクニカルな撮影や色彩などの
過剰なギミック導入と全てが合理的に計算されている作風に慣れていると、
ついついヨーロッパ映画特有の曖昧さが心地よくも、同時に分かりにくさへと繋がってくる。
文章に喩えると、小難しい哲学、宗教などの業界用語や聞き慣れない横文字、漢字なども一切使わず、
平易な口語体で語るけど、語り口と構成と主題が実は計算尽くされていて、
読み終わって知らずに隠された含蓄が溢れているという名文だろう。
一見簡素なようで、表層的な格好だけの薄っぺらいものと比べて、難易度は極めて高い。
「甘き人生」もひとりの男の回想と現在が交錯する淡々とした描写が続き、明確は起承転結はない。
ラストでの唐突ともいえる終劇の突き放したオチなきオチも混乱させる。
しばらくはこの作品がいったい何を語ろうとしていたのが理解できなかった。
何か奥底まで沁み込むには時間は必要だった。
ようやく「マンマミーア」という言葉によって、ようやく糸がほぐれた。
これは母の喪失を引きずるという変則マンマミーア映画なのだ。
息子の母への依存、逆の母の息子への依存という共生関係を単純にノーとしないお国柄がイタリアだ。
幼少期、愛する母の突然の死という欠落を体験した主人公。
喪失感は成長後も続き、欠けた部分を埋め合わせるものを探して、
色彩を欠いた白日夢か、夢遊病の様に人生の半ばまで彷徨ってきた。
主人公の母を巡る二つが対比される。過去と現在、光と影、夢と現実という具合だ。
時系列通りに進行する現代(年代が明確に表示される)にランダムに挿入される過去。
といってもジャーナリストの自伝を原作とした脚本の為、
正確にはその瞬間における現在もまた過去なのだが、一応は時間の流れに従って物語は展開。
過去は多くの記憶がそうであるようにランダムで、
印象の強いものが順序とは無関係に現在とちょっとした繋がりで再生される。
どんよりと暗めの現在進行形の映像に対して、過去の記憶はやや明るくハイキーで、セピアがかっている。
母の死後、叔父叔母に育てられ、大人になってジャーナリストとして成功しているが、
急激な時代の変化と先の見えない閉塞感で混乱する90年代を空虚に生きる。
例えばボスニア戦線での仕事(戦場写真)などは心を閉ざして、周囲へ無感情で痛々しいばかりだ。
アイデンティティの喪失の原因を探る軽いミステリー風の展開となる。
劇中神父の台詞の「もしも」は敗者の印 で「にもかかわらず」が勝者の印だとか
さらっと流れていく言葉の数々が実に奥深い。これは素晴らしい映画に共通する特徴でもある。
最後には母の死の真相を知り、喪失感を埋め合わせる女性と出逢いと一応の結末は迎える。
きっかっけとなる女医を演じるベレニス・ベジョがとっても魅力的。
しかし前述の通り、物語として救済や癒しを安易にあてがうのではなく、
オチではないオチによって観客を突き放す。
そうなのだ。
人生はこれからも何が起ころうが死が訪れるまではこれからも同じくのだ。
その継続性にこそささやかな意味があるだけだ。


偏愛度合★★★

小さな珈琲屋を営んでいる。
基本、製造、調理、販売から経理や運営に至るまで全てワンオペが原則。
一切人は雇わず、何とか家族の手伝いのみで運営している。
家族ふたりでできることなんてたかが知れており、開店以来10年以上経っても大きくなりようがない。
ある意味同業者の成功譚という視点が加わるため、ちょっと身につまされる部分が多い。
巷ではピカレスクロマンと称されているが、「怪物か、英雄か」という宣伝キャッチコピーのように
マイケル・キートン演じる主人公の言動に同調できるかが評価の分かれ目になるだろう。
ある意味アメリカンドリームを体現した男の物語だ。
車でアメリカ中を走り、ドブ板を剥がすように、何でも売るしがない52歳の営業マンが、
世界最大の飲食チェーンの代表へと成り上がった成功譚だから大したものだ。
マクドナルドの誕生秘話ともいうべき物語なのに、同社の日本法人がタイアップはおろか、
作品の存在すらを一切無視しているのは、それがある意味黒歴史だからだろう。
マクドナルドを創立したのはその名の通りマクドナルド兄弟。
現在の店舗でも引き継がれているメニューをハンバーガーとポテト、ドリンクに絞り、コスト削減し、
高品質での素早い提供システムを確立したのはこの兄弟なのだ。
その斬新なシステムと店名自体をフランチャイズ化する際のどさくさに紛れて、
自称「ファウンダー創業者」として全てを奪ってしまったのがレイ・クロックだ。
顧客満足と品質を優先して、自分の目の届く範囲しか事業拡大をしない職人気質の兄弟と
飽くことなき利潤追求の為、不動産を巻き込んでの拡大化を図る資本主義的経営者としての
クロックの対立構造を物語は描く。さて、観客としてはどちらサイドに肩入れするかだ。
金の臭いがプンプンする、というより金の臭いしかしない乗っ取りともいえるえげつない手法だ。
ピカレスクロマンとして楽しむには、後者に視点を置き、アメリカンドリームの実現者として感じることだ。
このえげつなさを楽しめるかどうかなのだ?
どうも個人的にはこの金の臭いがするものを徹底して嫌う傾向がある。
一緒に営む家族も同様だ。
飲食業界で売上を拡大して、利益を増やすためには店舗の拡大しかない。
一店舗当たりではどんなに人気店であっても限界がある。
拡大路線は即ち飽くことなき利益の追及である。必然的に金の臭いが伴う。
金の臭いにはそれをかぎつけて、寄って来るハイエナのような輩がいる。
劇中ではフランチャイズ拡大時の不動産リースのシステムを提案した弁護士だ。
「きれいごとだと夢は絶対叶わない!」といわれても、
個人感情的には、愚直だけど堅実な兄弟の方に肩入れしてしまう。
痛みを伴わない口だけの経営コンサルタントに自店の運営診断を受ける気分になってくる。
だからピカレスクロマンとしては全然楽しめない。
主人公である悪漢の成功にはスカっと頷けないのだ。
現実逃避としての映画館のはずが、映画を観ていて、段々と息苦しさが伴ってきた。
娯楽というより、自分の店と商売のやり方における現実認識となり、ある意味勉強にはなったけど、
作品の良し悪し以前にこれはきついわ。
ちょっとえげつなすぎる。


偏愛度合★★★

作品、シリーズをこえて品質保証が売りのトム様なのに、どうにも困った作品だ。
50年代に制作された「ミイラ再生」の3度目のリメイクであったとしても、
やはり比較してしまうのは直近で記憶に新しい「ハムナプトラ」だろう。
比べるなと言われても、何となく比べてしまう。
原題こそ「The Mummy」でエジプトのミイラが蘇るという設定は同じでも全く異なる話になっている。
蘇るミイラがハゲ親父の司祭だった「ハムナプトラ」に対して、こちらは美しき王女だ。
更にはどこかB級感が漂うブレンダン・フレイザーとトム・クルーズを比べればその差は明らかだ。
でもヒロインに関しては完敗。
「ハムナプトラ」はダニエル・クレイグのパートナーであり、年を重ねるごとに
美しさに磨きをかけてきたレイチェル・ワイズと並べると、
アナベル・ウォーリスは近年稀に見る華に欠けるヒロインだろうか。
シリーズ続投もあるのか?不安をあおる存在だ。
そう、問題はこの「ダーク・ユニバース」というマーベル、DCのアメコミ両雄の続き、作品を越えての
物語と世界観の連続性というシリーズ化をホラー業界に導入したのが元凶となっている。
正直、興行的な金の臭いしかしない。
これから登場を待つのがミイラ男に半魚人、吸血鬼?全然期待がわいてこない顔ぶれだ。
「ハムナプトラ」は別に好きな作品ではないが、
その後に柳の下の泥鰌を狙う続編こそつくられることにはなったが、一応作品単位で完結している。
オイオイと説明されるのかもしれないが、現時点では異物としか感じないジキルとハイドやら、
悪を識別、分析、拘束、破壊を目的とした秘密組織プロディジウム(設定自体が時代遅れで意味不明)
が唐突に挿入されるプロットは、説明不足で構成自体がボロボロだ。
トム・クルーズがお抱えの信頼筋クリストファー・マッカリーを呼び、手直ししたという話もあるが、
結果は成果に至らず、散漫な展開となっている。
ミイラが蘇って、呪術で世界を征服をするってんも今更感炸裂で月並みなのだけど、
大都市を襲い、混乱させるという光景をいったい何度見たことか。
オイオイ、またロンドンかよ!
またしても飛行機から脱出劇、またしても襲い掛かる砂嵐から逃げながらいつもの姿勢よく、
手を上下に動かすアスリートのようなくトム走りと全編に配した見せ場に目新しさは皆無。
「キングスメン」の敵役が印象的だったミイラ王女ソフィア・ブテラの非人間感は悪くないけど、
ラッセル・クロウがしでかすジキルとハイドの密室での変貌なんて、もう笑うしかない。
後々のシリーズユニバース)への(わざと説明しない)思わせぶりがクドイ。
ダーク・ユニバースのスタートには、既にダークな暗雲がいっぱいに立ち込めており、幸先悪いぞ。

偏愛度合★★★

これは笑えないコメディだな。
最近ではオリヴィエ・アサヤス監督「パーソナルショッパー」に近い逸脱感がある。
現実的な物質主義の物語が突然霊媒や交霊といった幻想譚へと逸脱していくあの感じ。
また共に黒沢清に通じる異物感がある。
彼岸と此岸、死者と生者、肉体と魂、現実と幻想という一見相反する要素をシームレスに混在させ、
そこに一切論理的な説明や補足を加えずに、あるがままに映像化するというあのタッチだ。
ラストで説明しない観客の一方的に想像力の奈落へと突き放す感じも似ている。
マウゴシュカ・シュモフスカ監督が意識しているかは不明だけど、かなり似通ったものある。

ただ宣伝文句にある「ラストが胸を打つ感動のヒューマンドラマ」ではない。
父と娘の愛憎入り混じるこじれた関係を描くドラマだけど、その方法論はネジくれている。
父は現実的だけど、感情が滑落した検察官で、対する娘は摂食障害に患って、心を閉ざしている。
二人の間に横たわるのは母の死という喪失感。
父娘の間を取り持つセラピーであり、霊媒師でもあるもうひとりの女性がいる。
父娘に、不在の母と母を繋ぐ女性という四者が物語を動かす。

冒頭、河原で発見された首つり死体の検証検証で、
縊れていた死者本人がいきなり歩いて去っていくという奇妙な場面がある。
それに対しては何の説明もなく、また伏線的に後の展開に繋がっているわけではない。
生きているのにまるで死んでいるかのように無感情な生者と自分が死んだことに気が付かない死者
という双極の対比では説明できない世界観が提示されるだけだ。
他にも「え?」という伏線のようで、実は明確には繋がらないエピソードが続く。
女性セラピーの私生活。犬と暮らし、過去には息子を突然死で亡くしたという過去があるようだ。
彼女の言動も一見まとものようだけど、どこか挙動不審さが隠されている。
これらが何故かホラー的な演出ではなく、コメディ的に描かれる。
例えば父が見る妻の夢もまた、美化された記憶のノスタルジーではなく、肥えた女性が
パンツ一枚で音楽に合わせて奇妙に踊るという具合で第三者には醜悪な笑い話のように見える。
その時は意味が分からず、戸惑うだけだった。もちろん全く笑えない。
というよりも、終映後ずっと考えて続けて、ようやく監督の狙いが、
笑うに笑えない、ブラックなコメディタッチにあることに気が付いた。
世界に存在する様々なこじれたことやこじらせた者を小難しく、理屈を並べて解きほぐすのではなく、
そのこじらせ自体を笑い飛ばしてしまうのだ。
作劇的には全然笑えないけど、何事もなるようになり、それは受け入れるしかなく、
何でも笑い飛ばすしかないのが現実を生き抜く抜く唯一の方法なのだ。
原題は「Body」。
本質は魂であり、肉体は単なる入れ物という考えもあるだろうが、黒沢清と同様に二元論で明確にしない。
劇中死体(Body)が何度も登場するが、魂がこじれた生者もまた所詮は肉の塊に過ぎない。
最後の一大見せ場が交霊式だ。
定石通りの丸テーブルに蝋燭を灯して、円状に手を握り合い、降霊するのだ。
「一体何が起こるのか?何が待っているのか?」と観客を煽りながらも、
あっさりと何も起こらないまま、すかされる。
そして提示される鼾と笑顔の突き放したラストシーンが素晴らしい。
物語的な安易な救済や癒しにハならないけども、同時にちょっと微笑む程度には安心する。

リチャード・ロジャース&オスカー・ハマースタイン2世による
劇中歌「You'll Never Walk Alone」の歌詞が巧み物語を示唆する。

偏愛度合★★★★

悪い予感は的中した。
「コンビニ・ウォーズ」でのリリー=ローズ・デップのパターンだ。
ただひたすら、門脇麦を愛でるしかない。
偏見かも知れないが、自分が好きな役者には個性は固有の間合いがある。
例えば満島ひかりや二階堂ふみなどには、その人にしかできない、独特の間合いとリズムがある。
仕草や表情、台詞の息継ぎの仕方などが集まって、キャラクターをつくりあげ、
他者には絶対真似できない独特の間合いを持つ役者がいる。
それは汎用性のあるテクニカルな熟練や訓練によるものではない。
それが個性なのだ。
満島ひかりは何を演じてもやっぱり満島ひかりだ。
でも他の誰も決して満島ひかりにはなれない。
門脇麦も経験値は少ないけど、彼女ならではの間合いを持つ女優だろう。
ブレスが明確で鋭角的な満島ひかりとは対照的で浮遊感のあるふにゃふにゃの不定感がある。
声も素晴らしい。喜怒哀楽によらず、ぼそぼそと頼りなげに呟く。
また確信犯か、無意識か不明だけど、やや挙動不審なトリッキーな動きをする。
それらは役柄とうまくはまれば、その間合いが引き立ってくる。
アテ書きらしいので、そこは問題ない。
2時間弱、十分に麦鑑賞をすることが出来る。
器用な高畑充希とか松岡茉優でも、きっとそれなりにこなせるだろうけど、
意図的でない些細なずれ具合は門脇麦しかできない。
「人気脚本家」らしい尾崎将也という監督(脚本)のキャリアは全然知らないけど、
余りの無能さは、今後悪い意味で覚えておいた方がいいだろう。
ありえないくらいに月並みな台詞に、ご都合主義な設定とプロット、彼女以外のキャラクターは
全て展開だけのために用意されたような薄っぺらさには、全くリアルに感じられない。
リアルって現実世界というリアリティではなくて、物語としてのリアルな生々しさということだけど、
三浦貴大の無自覚な無神経さ、YOUの毒、マキタスポーツの能天気さなど、
全て他の作品での既視感しかなく、配役の無駄使い。
「世界は今日から君のもの」という仰々しいタイトルも理解できない。
主人公は、物語の終わりに然程成長していないし、成長する必要もない。
そもそも彼女自身の内面的な主観ではなく、
如何にも出来合いに用意された「成長紛い」を上から目線で偉そうに描くのが耐えられない。
これは酷いわ。

偏愛度合★★

「セッション」はマイルズ・テラーの全身からにじみ出る傲慢なキモオタ感が苦手で、
作品自体の演出的な技巧は認めても、作品が苦手だったので、いきなりテラー踏み絵が待っている。
結果は、結構オーソドックスな実話をベースにしたボクシング風味の家族映画だった。
ボクシング自体は、ボクサーという主人公のキャラクターにおける動機付けであり、
彼を中心とした家族関係、あるいは疑似的な家族としての人間模様だ。
相変わらずマイルズ・テラーは気持ち悪いけど、
交通事故で首の骨を折りながらも再度リングへと挑戦する不屈の青年を力任せに演じていた。
確かに熱演だけど、殆どヤンキーの根性焼きの世界だ。
この傲慢なまでのチンピラ感はいい意味でも悪い意味でも彼の特質なんだろう。認めざる得ない。
「ロッキー」シリーズのリングでの熱すぎるファイトシーン描写、
その直系「グリード」での新機軸な手持ちロングショットなどの華麗さは希薄。
闘いそのものは割と淡々と描き、どちらかと言えば中継をモニター越しに眺めている感じ。
実際に劇中でも家族一同は茶の間のテレビにかじりついて一喜一憂する。
実は主題となっているのは、人間関係の方だ。
リングで殴り合っているより、
家族で集まって飯食っている時間の方が長いないのではいうくらいに家族を強調する。
マーティン・スコセッシが製作総指揮だからイタリア系ならでのは濃密さなのか?
セコンドである父との関係性、試合放映を直視できないという母の息子の安否を気遣う気持ち、
事故の際に車に同乗していた兄の思いなど血縁関係の濃さは類を見ない。
時として考えが異なっても、常に血の結びつきは根深く、最後には家族共に生きる。
そこにトレーナーを演じるアーロンエッカートとの疑似的な父子、師弟関係が加わる。
禿げ頭にメタボ腹という人体改造演技で主人公をサポートする。
脛骨骨折により医者からは再起不能と言い渡されながらも、執拗に再起を図る。
やがてそれが周囲の人間関係を巻き込み、再度リングへと上がり、勝利へと導く。
「ロッキー」があのテーマ曲をバックのスローモーション、ストップモーションなど、
臭いまでの外連味のある感動演出だったけど、その辺は、割と抑制気味で淡泊に事実を追う。
ラストには涙ボロボロというタイプではない。
実話を元にした伝記映画故なのか、それとも商売っ気のない監督の気質なのか?

ちなみに実話ベース映画で繰り返してディスっている
ラストクレジットでの本人登場はいい加減にやめようよ。リアリティが増すどころか興醒めするだけ。

偏愛度合★★★

「イット・フォローズ」を古典的な幽霊屋敷設定で名前の持つ呪術的な言霊モンスター化したホラー。
新旧ホラーのハイブリッド感が面白い。
ジャンル映画の場合、誰も見たことがない斬新な物語は理想だけれども、最近の「ライフ」のように、
既存設定を巧みに組み合わせ、その中で楽しませるという手法もまだまだ生きている。
何かが伝染して、現実世界へと侵食してくるというプロットは「イット・フォローズ」そのまま。
名前の意味合いを探ると面白い。
元来全ての事象に名前があるのではなく、名前のないものは存在できない。
対象に名前を付けることによって初めて存在が明確になるのだ。
また名前には呪術的な意味を持つ。
名前を知られると相手を支配できるという呪力としての側面がある。
ホラー映画での悪魔祓いでは主の御名によって、悪魔の固有名を連呼するシーンがお馴染みだ。
「スペル」という逆恨みで呪いの言葉を掛けられたヒロインの顛末という例もある。
日本で言う「言霊」という考え方の通り、口に出すとそれは現実となる。
名前は対象の認識であり、存在証明であり、支配なのだ。
「13日の金曜日」ジェイソンだって、「ハロウィン」ブギーマンだって、
殺人鬼たちは無名の殺戮者が人々に怖れられ、命名されることで、キャラクター化されるのだ。
その点では、その名を知るだけでも、考えるだけででも恐怖の対象となるのはホラーの王道設定だろう。

冒頭で過去の連続殺人事件の回想が物語の因縁話として提示する。
ショットガンで至近距離で撃たれた割には、全体的にゴア度は控えめ。
これは作品全体も通じて、直接描写やゴアは少なく、心理的な追い込み中心となっている。
その後、ある屋敷に引っ越してきた3人の若者。
白人カップルとその親友である黒人という割と普通の貧乏学生という感じ。PCを遵守?
家賃が安く済ませるためのシェアハウスとはいえ、よくも見るからに古びた家に引っ越してくるものだが、
やがて物音や影、古いコインなど、超常現象らしきものが現われる。
これもホラー映画の古典的な定石。
古い机の引き出しに封印されていた結界を破り、「バイバイマン」という名の存在を知ってしまう。
性行為を通じて「イット」が追いかけてくるのと同じく、一度その名を知ったら、それが近づいてくる。
事実知らないことは、起こっていないことと同義であるが、同様に存在そのものは名によって規定される。
また名前により因果関係がない第三者にも呪いが伝播、拡散していくのは「呪怨」のパクリか?
その名を知った者は幻覚を見始め、狂気に至り、殺戮を繰り返し、最終的に死に至る。
「イット・フォローズ」はその人物怖れる人物の姿で現れ、他者には見えないという上手い演出だったが、
こちらはバイバイマンというキャラクタ造形を決定づけたことはちょっと興ざめ。
修行僧のような頭巾の付いたロングコート姿、スカーフェイスで狂暴な目をしている類型的な悪魔像。
連れている黒い犬は冥界の番犬ケルベロスか?
現実と幻覚の境界が曖昧となり、心理的に追い込まれていく演出は面白かったが、ここでちょっと失速。
まあ、何らかのオチをつけて物語を脚本的に完結させたいという論理性故か、
悪の元凶(ラスボス)が登場してから失速するというのもこのジェンル映画の定石なんだけどね。
ツッコミどころも多く、既視感一杯のハイブリッド型だけど、掘り出し物なのは間違いない。


偏愛度合★★★★

想定内だけど、ここまでリリー=ローズ・デップ以外に見るべきものがないとは驚き。
実は「Mr.タスク」のスピンオフということすら知らなかった。
件のセイウチ映画を観たかどうかすら記憶にない。
確か同じ劇場で公開されていた記憶はあるのだが、実際に出向いたのかがさっぱり覚えていない。
世の中知らないことが、起こっていないことと同義であると同様に、
観ていても、観ていなくても、全く覚えていないのだから、知らないことと同じだ。
ヒロインのJKコンビとジョニー・デップがやりすぎ変装で演じる怪しげな探偵も登場していたらしい。
冒頭でさらっとその事件の報道写真が映されるが、本編とは全く無関係で影響はない。
そっちは、無視しても差し支えはないだろう。

「ザ・ダンサー」に引き続き、ただリリー=ローズを愛でに出かけたのだ。
するとジョニー・デップだけではなく、母ヴァネッサ・パラディも歴史教師というチョイ役で登場していた。
元夫婦の直接絡みはないけど、この娘は父母からどんだけ愛されているんだ。
母のすきっ歯具合がひろがっている気がするのだけど、気のせいだろうか?
決して親の七光りと言い切れない、発育途上の存在感がある。
小柄だけど、躍動感のある動き、ハスキーだけどウィスパーヴォイスで突然英語からフランス語に
シフトするバイリンガルな語学力、演技力うんうんを求められる映画ではないアホアホ作品だけど、
確かに素晴らしい逸材かも知れない。
父親が離婚して以来、出演映画がこけまくり、酒におぼれ、かつてのエキセントリックな演技派が
単なる呑んだくれへと迷走しているだけに、娘には正しい途を進んで欲しいものだ。
これはまるで親心か?
もはや彼女の引き立て役としか見えない馬面で鈍重な相棒のJKはボカシをかけて欲しいと願う。
コンビだけど、余りにも優劣があり過ぎる。
ソーセージとザワークラウトが原料のミニナチ軍団を身近の武器で破壊しまくり、下手なラップモ擬きに、
フランス語での歌唱など、今回はヘタウマ全開の彼女の見せ場が堪能できる。
もうそれ以外どうでもいいや。
それくらいにテキトーでカス映画。
カナダにナチスがいたとか、ギターアンプの過電力で停電したため、熟成しきれずに小型化した
ナチ軍団とか、もう本当にどうでもいい。
まあ、アホアホ金ドブ思いつき一発ネタコメディってのもアメリカ映画の伝統の穂突難で仕方がないけど。

ちなみに偏愛度合はリリー=ローズ分の★1個オマケ。

偏愛度合★★






元ネタとなる実話ロンリーハーツ・キラー事件は何故多くの監督の興味を惹きつけるのだろうか?

結婚詐欺師が鴨としてであったじょせいに惚れ込み、兄妹と称して共に独身者を騙し、大金を奪い、
都合が悪くなると殺害して、逃亡して河岸をかえるという事件。
その犠牲者は20名以上と言われているらしい。
確かにアメリカ犯罪史上の類を見ない事件かも知れない。
同時上映の最初の映画化となった「ハネムーン・キラーズ」を評した言葉が端的に表している。

ラス・メイヤー「耐えられないほど破廉恥な見世物」
フランス・トリフォ―「もっとも愛するアメリカ映画」
マグリッド・デュラス「私の知る限りもっとも美しい愛の物語」
グアスパー・ノエ「『カルネ』の元ネタとなった作品」

惹かれるものと、拒否する者が両極端に分かれている。
「すべてを受け入れ、すべてを犠牲にして突き進む愛の猛威」と称されているが、理解不可能。
人を騙したり、殺してはいけないなどという倫理観を持ち出しているわけではない。
金を得るのための方法論としての結婚詐欺、継続のための殺人という図式は理解の範疇だが、
まるで「ピックフラミンゴ」のディヴァインのような醜悪なヒロインと
口先だけの調子のいい野郎との結びつきが理解しにくいのだ。
よくある「この人は私がいなければ駄目なのよ」という一見母性的な保護心と
相反する「この人がいないと自分も生きていけない」という無意識な依存心の結びつけているのだろう。
「ハネムーン・キラーズ」は素性や個人情報におおらかだった時代を背景に
やや芝居自体は時代がかった仰々しい臭さはあるものの、モノクロームの映像と丁寧なカメラワークと
直接的な表現をできる限り避けた作品全体のトーンの抑制は全面否定できない。

個人的には未見だけど、
1996年と2006年という同素材の映画化を経て、原題を舞台にアップデートされたのが本作。
文通という手間暇のかかる牧歌的でポエムなやりとりは流石に無理があるので、
手っ取り早くネットでの出会い系サイトと設定を変更。
インターネットでのめーるやSNSでのやり取りは素早繋がりを生むが、
同時にネット自体が常に抱える悪意というものを誰もが認識している。
個人情報の安易な漏洩、虚言癖、なりすまし、意図的煽動(炎上)などが
現実に当たり前のように横たわる世界で1940年代の実話物語の再生は可能なのだろうか?
結果はもののお見事に退屈で、散漫な絵空事で始終している。
連日のように新聞三面記事やワイドショーで報じられ猟奇的な現実を越えることは出来なかった。
夫の詐欺師は似た風貌を役者を配しているが、
妻を平凡だけど、多少は見栄えのする周囲に一人ぐらいいそうな容姿へと変えている。
ただ、観客の二人への感情移入を導くものではない。

粒子の粗い、ざらついた画面に暗い色調でアップを引きを交差させる。
観客を混乱させ、不愉快ににさせるための意図的な演出だろが、編集リズムが悪く、居心地が悪い。
1時間半のという短尺なのに、ダラダラとプロットが明確に展開しないため、体感時間は恐ろしく長い。
余談だが、昔から映倫的には陰毛、性器、性行為に対しては執拗なまでにボカシをかけてきたが、
最近は残虐描写にも及ぶのね。具体的には手首をのこぎりで切断するというシーンをぼかしている。
衛星放送などでよくあるR18を避け、何とかR15+に抑えたかった意図かも知れないが、
狂乱の80年代の首切断、内臓流出といった肉体破壊を売りにしたスプラッタムービーの洗礼
をどっぷりと受けた身としては今更感いっぱいだ。
この作品を無理くりR15+におさえても、マニアの反感は買っても殆ど客は増えない気がするけど。
ヴェルツ監督の「ベルギー闇三部作」なんて知らんがなと突っ込むしかないけど、
モラルとタブー、欲望と本能という対比構造の壁を突き抜けたいのはわかるけど、
稚拙な語り口と薄っぺらいテーマにはついていけない。


編愛度合★★