同時に上映されていたロベール・ドアノーのドキュメンタリーと続けて鑑賞。
どちらも監督は女性であり、作品のテクニカルな分析、研究よりも写真家自身のパーソナリティと
その家族との関わりという切り口が共通しており、モノクローム写真で切り取られた瞬間の持つ力、
異邦人からのアメリカ像、日本人との関わりなど偶然に並べられた作品が
まるで共鳴するかのようで面白い。連続鑑賞すると違った意味合いが生まれてくるのだ。
まずはロバート・フランク。
写真(写真家)と映像(映画監督)という二つの側面を持つ。
写真と映像は地続きであり、お互い似ているようでだけど大きな違いがある。
劇中でもその違いを彼自身が語っているが、改めてその点を考えさせられた作品だ。
時間の流れから瞬間を切り取る写真に対して、
その瞬間を連ねて新しい時間の流れをつくりだすのが映像。
愚問は承知だけど、どちらか一方を選べと言われれば、圧倒的に映画(映像)派だ。
活動写真という訳の語源である「motion picture」がその差を示している。
写真pictureにmotionという動きを加えたのが映画だ。
この動きによって、より多層的に物語が語られる。
でも不思議なことに、映画における映像表現を極めれば、
逆にそこからスティルとして瞬間を切り取っても、フォトジェニックな一瞬がまるで写真と同様に存在する。
例えばゴダールなんて、そもそも物語を語ることは放棄して、
奇跡的にフォトジェニックな瞬間の連なりを作品として記録することに長けた監督だ。
また最近ではトッド・ヘインズ監督作品「キャロル」での色彩や構図、アングルなどの映像表現が
ソール・ライターの写真をモチーフとしているという確信犯的な逆引用例もある。
ロバート・フランクは写真と映像の両刀使いで創作を続けている。
すぐれた写真家が映画監督になることは珍しいことではない。
その一例はアントン・コービンやブルース・ウエーバーなどいくらでも思い浮かぶ。
少なくとも畑の違う作家(文字)やニュージシャン(音楽)よりも、そもそもの圧倒的に親和性が高い。
彼の映画は作品としては、劇映画のような明確な物語はなく、
瞬間が連なっていく感じが写真の持つ客観的な視察者というより、
その場の空気感を共有するようなパーソナルで実験的な手法だろう。
ジャズをバックにしたアレン・ギンズバーグたちとの作品などは
そのままジョン・カサヴェテス「アメリカの影」へと繋がらり、ジム・ジャームッシュに受け継がれる。
アメリカ映画の主流ではないedgeとなる。ロバートは端(edge)が好きらしい。
写真は机の引き出しにしまわれるけど、
映像は知らない道を地図なく進んでいる感じで生き物だと語っている。
「違和感のあるものはそのままにして、何かが生まれる余地を残しておく」
との言葉が突き刺さる。
監督のインタビューによれば、元々は写真家をしてスタートしているけど、
映像作品への進出は家族との関係(娘と息子の死)に起因していると説明している。
パーソナルな時間の連続性を記録しているパーソナルな感じはそこに由来しているのだろうか?
娘と息子の若い死についてのシーンは痛々しい。
多くの瞬間を切り取った写真をデジタルデータ化して、色補正や音声調整などを加え、
連続的に撮影することで、瞬間に連続性を与え、
まるで観客が作品の目の前で鑑賞しているかのように再現している。
また映画の場合、プロジェクターで背後に映された作品を本人が語るというシーンが繰り返される。
偏屈で頑固なで屈折したユーモアセンス持つ老人だ。
インタビュー嫌いらしいが、監督には信頼を置いているのか、文句ながらも正直に答える。
作品からも感じられるアメリカという現実への冷ややかだけど、同時に愛情のある視点の置き方がある。
タイトルはジャーナリストが「いま写真を勉強している若い人に何か言葉はありますか」と
聞かれたロバート・フランクの
「Keep your eyes open! Don’t blink!」
との言葉に由来している。
最後にハル・ウィルナーによる音楽監修が見事。
ジャズから、ブルース、ロックからパンクまで彼が同時代を過ごしたアメリカの音楽史を
俯瞰したような選曲が素晴らしい。
トム・ウェイツ、ヴェルヴェット・アンダーグラウンド、チャールズ・ミンガス、ジョニー・サンダース、
ボブ・ディラン、ローリング・ストーンズ、ニュー・オーダー、パティ・スミスなどと
まるで自分の音楽偏愛史を聴くかのような具合だ。 サントラが欲しくなる。
偏愛度合★★★