間違っているとか、いや間違いじゃいとか、いう問題なのだろうか?
そもそも彼女の何を肯定したいのかすら全く感じられない。
それは観客の無知さ、馬鹿さであるなら仕方がないが、
意味ありげに問いなき問いを提示されても困ったものだ。
曰く

「人は人生から逃げ出したくなる。運命の変化に向き合えなくなることがある」

それには同感だ。でも何故それが週末に福島からに渋谷へと高速バスで出向いて、
デリヘルをすることなのかが皆目見当つかないのだ。
純粋に金のため?それとも自虐的に自分を貶めたいのか?それが罰ならばその罪とは一体何か?
この行動原理のミッシングリンクを一切描かない。
結果として毎週末2年にも渡り、その行為から逃げることなく続けている。
根幹となる部分が全く観客に届かない。
でも唯一の救いと言えば、彼女を演じる瀧内公美の存在感だ。
境遇を嘆く悲劇の主人公ぶるわけでも、破壊衝動に駆られる訳でもなく、役所勤めも、
父の世話もデリヘル業も、過剰に演技力を駆使するわけではなく、ナチュラルに淡々と演じる。
誰しも周囲何百メートルかの範囲にはひとりぐらい見つけられそうな自然さだ。
だから物語の主幹が欠落していても、極端な居心地の悪さや違和感はない。

また震災後、原発事故そのものを具体的に描くのではなく、そこから現在まで、
そしてこれからも未来永劫続く、現実の歪みを映画の映像としてとして残したことは評価すべきだろう。
仮設住宅での暮らし、働かずに補償金で飲んだくれ、パチンコばかりしている父の姿、
立入禁止区域となった自宅への訪問など、現実をそのままに描く。
自分のような遠く離れた門外漢やこれからの世代へと伝えてかねばならない、
決して物語の絵空事ではない、ありのままの福島の現実だ。

瀧内公美以外にも、光石研、高良健吾、柄本時生など、芸達者な俳優陣を配しているだけに、
タイトルの掲げる「彼女の人生は間違っていない」という問いがもったいなくも空回りする。

偏愛度合★★★

メンヘラ版「テルマ&ルイーズ」かな。

でも話を進める前にちょっと補足しておいた方が良いのは巷にあふれる「メンヘラ」という言い回しは
英語で言う「Nigger」に近いものだろう。
黒人同士が自虐的な洒落含みの隠語として形容詞の強調語として使用したり、
呼称として呼び合うのには差し支えなくても、外部の人間が知ったかぶりで真似して使うと、
単なる侮蔑となり、蔑称となる。その点は理解しているけど、置換できる言葉もなく、
そのまま使用しているが、差別的意図はない。

これは堂々たるバディムービーだろう。

「バディ」自体は本来男同士をさす言葉だけど、女性版のバディ関係と言えるだろう。
ジャンル映画として根強い人気があるバディものだが、大概はダメ人間同士のカップル。
判断r力や選択力に長けた自立心性の強いキャラクターではなく、常に何かしらの弱さを抱える者たちだ。
その両者がセットでお互いに相手への「俺がいなきゃ、コイツは駄目だという」保護心と
無意識にそれに依存してしまい離れられないという相反する関係性がある。
ストーリーテリングの基本としては、最初は反発しあっていた二人が、何か出来事を通して、
少しだけ成長しながら、他者を守り、共に歩むという選択肢へと至るのが常だ。
これは男女関係ない。
先程挙げた「テルマ&ルイーズ」のスーザン・サランドンとジーナ・デイヴィス以外にも
松尾スズキ「クワイエットルームにようこそ」での内田有紀と蒼井優、
あるいは「17歳のカルテ」のウィノナ・ライダーとアンジェリーナ・ジョリーの関係性なども思い浮かぶ。

舞台はトスカーナにある問題を抱えた女性たちが社会復帰を目指して自主的に生活する
療養施設というコミュニティ。イタリアでは隔離病棟は法的に廃止されているらしい。
そこに女王として君臨している自称伯爵夫人がヴァレリア・ブルーニ・テデスキ。
ちょっと苦手な馬面系だけど、流石の貫禄と存在感で空っぽな胡散臭いキャラクターを演じる。
対するミカエラ・ラマッツォティ。
やせ細り、身体中タトゥーだらけで自傷癖痕の捨てられ、野良化した猫のような女性だ。
何となく「ボーイズ・ドント・クライ」のヒラリー・スワンクを思わせる。
偶然出会ったこの二人が徐々に絆を深め、
施設を抜け出し、逃避行を繰り広げるロードムービーでもある。
燦燦と太陽が降り注ぐ、トスカーナの自然が舞台なので、画調は明るく湿っぽいタッチではないが、
当然ながらそれぞれがこれまでに抱えこんできた薄暗い記憶に光が当たりってくる。
物語の視点として一貫しているのは、良いことも悪いことも含めて生きて生きた人生なので、
安易な解決策や救済は与えずに淡々とありのままを描く。この突き放し方は不快ではない。
それよりも二人の関係性、バディ感を全面に出して物語をドライブさせる。
「テルマ&ルイーズ」の破天荒さとは異なるイタリアらしい女性版バディムービーだ。


偏愛度合★★★

イ・スヨン監督は韓国の黒沢清とも言うべきか?
過去作「4人の食卓」でも同じく、似通った作風がある。
共通するのは、日常に何かしらの異物(人物やイメージなど)が侵食して、
現実と幻想の境界が曖昧となり、やがてある着地点(結末)へと物語は移行するが、
その意味や解釈を台詞や映像で明確にしないこと。
またホラー映画に属しながらも、直接的な残虐描写は避け、
不可解な状況のみを執拗に描く心理サスペンスのとしてのスタイルを貫く。
理よりも、無意識な恐れに訴えかける作風がどこか似ている。
「犯人は生首に訊け」と煽動的な邦題ながら、
生首それ自体あるいは、切断、殺戮シーンは直接描かない。
漢江の解氷でから首と手首が切断bされた死体が発見されるのが事件の発端。
15年に渡り未解決の連続殺人が続く、どこか荒んだ雰囲気の郊外の街が舞台だ。
視点は明確に妻と息子と別れ、ひとり勤務医として働くスンフン。
彼の下宿先の肉屋の家族との日常生活や病院での勤務風景を丁寧に描写して、
観客の視点を同化させる。
もちろん確信犯的に後半にかけて視点そのものを揺らがせるための下準備だ。
この場合、日常に侵入してくる異物とは怪しげ肉屋の親子だ。
何かと親しげだけど目が笑っていない息子の行動と老人性痴呆の父の怪しげな言葉が気にかなりだす。
観客も同化し、身の回りにあるミステリーの謎解きゲームへと繰り出し、徐々に想像力が暴走する。
肉屋という設定が絶妙な違和感を生む。
食卓に乗れば食べものであっても、そこに至るまでを担う加工行為の持つ潜在的な畏怖感。
生首を思わせる黒いビニール袋の物体が気になって仕方がない。
夢とも現ともつかないイメージが繰り返され、じわじわと締め付けてくる感じが堪らない。
肉屋以外の周囲の人物までもが怪し気に見えてくる。
最後にはこれまで信じていたことがひっくり返して、視点が揺らぎ、虚空へと突き放される。
黒沢作品と比べれば、比較的に一見合理的な説明が種明かしつぃて提示されている。
今まで主人公(=観客)が現実と思って信じていたことが事実とはとは異なるという、逆転だ。
ネタバレになるので、詳細は書けないが、でも更なるオチが続き、混沌は整合化されたわけではない。
この絶望感というか、宙ぶらりんな不安感が残る。
つくづく実感できるのは、一番怖いのは物の怪でも、霊でもなく、自分たちの隣にいる人なのだ。

偏愛度合★★★★

「巴里のアメリカ人」という名作があったが、こちらは「フランスのアメリカ人」とも言うべき。
元来アメリカ人の抱えるフランスという国や国民性へのコンプレックスをアメリカ人女性の視点で
都合よく隠したり、美化したりせずにありがちな姿のままに皮肉に描く分析映画となっている。
一例をあげると…

◎フランス語が話せない(あるいは話そうとしない)。基本「ボンジュール」と「メルシー」レベル
◎美食の国に滞在しながらも結局欲するのはチーズバーガー
◎メニューを見てもちんぷんかんぷん
◎ワインや料理への官能表現に乏しく、基本「おいしいわ」としか言えない
◎カタツムリ(エスカルゴ)は食べるものではない
◎風景を楽しむことよりも、効率よく目的地へ到達することを第一とする
◎場所をわきまえずに、勝手に写真をパシャパシャ撮る(愛機はライカと欧州ブランド志向あり)
◎車の修理といった現実的で合理主義な対応能力は高い

てな具合でる。あるあるというアメリカ人的行動を執拗に描く。
歴史を垣間見てもわかる通り、ヘミングウェイ、ヘンリー・ミラー、マイルス・デイヴィスなど
パリに魅せられた数多のアーティストたちがいる。
でもどんなにフランス人にあこがれても、アメリカ人としてのアイデンティティからは逃れられない。

監督、脚本であるエレノア・コッポラが自分自身の体験を元にした物語らしい。
アレック・ボールドウイン演じるワーカホリックで妻をぞんざいに扱う無神経な映画製作者の夫の
モデルは当然フランシスだろう。
会話に出てくる、制作中の作品の監督の我が儘なこだわりなんて絶対実話なんだろうな。
以前の監督作がドキュメンタリー映画「ハート・オブ・ダークネス」。
「地獄の黙示録」のロケ地での混沌たる日々のカーツ大佐並の暴君と化した夫を描いた作品だ。
糟糠の妻とか内助の功とか男性都合の見方もあるけど、時々痛い一発をかます女性は強かだ。
長年連れ添ういながらもいいろいろと危機があったんだろうなと思わせる。

今回は自分のフランスでのちょっと甘い思い出を初劇映画として監督、制作は夫のぞーえおロープ
しかしエレノアさん、自分の役柄にダイアン・レインを配するなどちょっと厚かましく美化しすぎだよ。
それくらいにダイアン・レインは相変わらず美しい。
嘆きの橋のキス「リトル・ロマンス」からのリアルタイムの付き合いの同世代だから、嬉しい限り。
そういえば彼女の元夫はフランス人男優だわ。

彼女と夫の仕事仲間であるフランス人男性とカンヌからパリへと車で向かう。
彼は仕事よりも美味いモノを食べること、
ワインを呑むこと、人生を楽しむことにかける典型的なフランス人として描く。
レストランだの、名所だのと寄り道ばかっかりでパリへ辿りつかない。
原題は「PARIS CAN WAITN 」の通り、先を急ごうとする合理主義者のアメリカ人へ
「パリはいつでも待ってくれるよ」と軽くかわして、フラフラとマイペースな珍道中が続く。
「ボンジュール、アン」という邦題も劇中の台詞にあり、今作の邦題としてはこちらの方がいいかも。
決してわかりやすい男前って感じではないが、料理にワインに人生を楽しむことへの含蓄に溢れた役柄。
そこは流石に美化しすぎない。
また一線を越えそうで、結局越えないところが彼女なりの矜持なのか?
いやそれもひょっとして夫の制作する映画のためへの虚構(嘘)なのかな?
プロバンスの古城にリュミエール研究所、セザンヌの絵のモデルの山、実在の有名レストラン、
草原でのピクニックなどまるで我が国の女性誌のフランス特集のグラビアのようだ。
多分女性ならアバンチュールな気分でオープンカー(途中で故障リタイヤするけど)で旅する
ロードムービーとして存分に堪能できるだろう。
フランス好きのオッサンが観てもでもそうなんだから。


偏愛度合★★★

言葉の持つ力についての映画だろう。
大多数が熱狂している現政権(ナチス)への警告を名もなき者の声として、
不特定多数へポストガードへの手書きというささやかな手段によって伝えようとする。
これこそ言葉の持つ力を信じ、時として言葉が世界を変えうるという希望の物語だ。
ところが致命的なこの映画には欠陥がある。
言語の問題だ。
ナチス政権下のドイツ、ベルリンを舞台としており、
衣装や美術、小道具などの時代考証には気を配られているにもかかわらず、基本言語が英語なのだ。
葉書の文字や街にあふれる言葉は当然ながらドイツ語なのに、会話言語が英語なのだ。
ワールドワイドでの公開を考慮してか、エマ・トンプソンとブレンダン・グリーソンという名優を配した故か、
言語問題だけがリアリティを削ぎ、気がかりで肝心の物語に集中できない。
逆にドイツ人である、ダニエル・ブリュールのドイツなまりの英語という倒錯ぶりが浮き上がる。
他の部分がリアリズムに徹しているだけに誠に不可解な選択だ。
言葉の力を描く物語が、言葉の選択を誤っている。
主役二人にドイツ語をマスターさせるか、最悪吹き替えでも、何としてでもドイツ語で通すべき物語だ。
また言語問題を抜きにしても、物語の語り口も空回り気味。
俳優であるヴァンサン・ペレーズ監督だったとは。
そういえば最近姿を見ないかと思えば、監督業に手を伸ばしていたのか。
冒頭、いきなり物語の視点ではない息子の視点で彼の戦場での死を描く。
あえて映像化すべきではない、言葉で描写すべき、絵にかいたような蛇足だ。
物語の視点となる夫婦の悲劇的な心情を強調しようとしているのか?
これによって息子の人となりが描かれているか言えば全くそんなことはない。
更には軍からの息子戦死通知に対する夫のぞんざいな扱い方といい言葉を侮辱する行為を続ける。
物語の状況設定とキャラクターを印象付けるのしくじり、最後まで感情移入できない。
各所に手紙を残していく人物を追う警部役の行動も同様に不可解だ。
彼の頑ななまでに職務に忠実な体制側の犬としての役回りが、
徐々に追う者が追われる者の心情に共感して変化してというのが狙いなのだろうが、
命令とはいえ容疑者を安易に射殺するなど行動に一貫性がなく、その心情の変化は伝わらない。
物語においては狂言回し的な役割が全く機能していない。
昨今ナチスやヒトラー絡みの映画化が目立ち、あの忌まわしい時代を忘れてはならないと
真実を突きつける傑作も多いのだが、これはテーマに演出自体が付いていかず失敗作。

偏愛度合★★

またしてもジャンル映画である。
映画を観始めた頃、テレビの洋画劇場で放映されるジャンル映画で洗礼を受け、育った口なので、
50を超えたオッサンになってもボンクラ映画(←褒め言葉)の魅力からは逃れられない。
誰が見ても「ゼロ・グラビティ」の世界観での「エイリアン」の再現である。
それ以上でも、それ以下でもない、この潔いくらいのB級パチモン感が最高。
確かにジャンル映画においても、時折ジャンルの好事家のみを越えて映画史に名を刻み、
その後継作品へ脈々と連なる金字塔的な作品もある。
でも革新性を常に求めているわけではない。
殆どが既視感いっぱで定石を借用し再利用した量産品である。でもそれのどこが悪い?
黄金期のミュージカルなんかもそうだ。ただ素晴らしいダンスがあるだけで、
物語も演技もありきたりで既視感だらけだけど、それでも観客はそのジャンルを愛する。

B級パチモン感と称したけれども、実はちゃんとした一流スタッフと俳優を揃えたウェルメイドな作品。
やっぱり好きなのね。劇場の暗闇で一人でコソコソと観るにはピッタリで思わずアガルわ。
冒頭から「ゼロ・グラビティ」的な長回しから始まる。
宇宙空間を遠くに横切る光をから始まり、
地球の軌道上にある国際宇宙ステーションの内外をカメラが縦横無尽に動き回るショットだ。
既視感はあっても、無重力での人物に寄り添ったカメラワークは流石。
この一連の長回しで物語の状況と6人のクルーのキャラクターなりが説明される巧い導入だ。
回収された火星探査機の土壌から発見された生命体というお馴染みの展開も安心感いっぱい。
再生を試みて、活動を始める単細胞の生命体が暴走するというのももちろん予想内だけど、
その過程での小ネタや元ネタの引用をあれこれ探りながら楽しむのが正しいジャンル映画の醍醐味だ。
狂暴なエイリアンが船内で暴れるお馴染みの密室劇ではあるけど、
地球外生命体を地球に持ち込まない検疫という現実的な規約を設けているのがリアルだ。
「エイリアン」が企業側の思惑で生物兵器として生命体回収を
隠された目的としているのを逆手に取った設定が巧い。ジャンル映画クラシックの研究成果だろう。
6人のメンバーには検疫官がおり、非常時を想定した厳密な危機管理のためのプロトコルを課す。
この縛りがエイリアンとのドッタンバッタンな活劇に新鮮味を加える。
劇中で繰り返されるガラス(窓)越しに見るという描写はこのプロトコルに越しの行動選択という隠喩だろう。
揃えた俳優陣もツボを押さえている。
ジェイク・ギレンホールの「80億人のバカがいるところになんて帰りたくない」というとぼけた虚無感、
シガニー・ウィーバーの後継者なジャンル映画のクイーンと化しているレベッカ・ファーガソン、
日本からは真田広之と劇中設定と同じ国籍の俳優を揃える徹底ぶり。
そして詳しく書くとネタバレになるけど、
ジャンル映画の定石ともいえる痛快なオチといい定番感文句なしに堪能できる。


偏愛度合★★★★

今回は犬は死なない♪
ネタばれ警察的には規定に抵触するのかもしれないが、犬飼としてはそれは安堵だ。
(前作はそれがつらかったのね。)

さて本題。
「マトリックス」のネオとモーフィアスの再会ということで、ジャンル映画を青と赤のピルで喩えてみよう。
モーフィアスはネオに2つのピルが差し出し、決断を迫る。
青いピル選べば、現実の日常生活のままでいられるが、
赤いピルを選べば、真実を見ることができる代償としてハードな戦いが待っている。
ジャンル映画とは赤いピルなのだ。
現実と似ているようで、非日常性をミックスして、
誇張し、最大音量までディストネーションで歪ませた世界だ。
2時間限定という救いはあるけど、基本的には痛々しく、ハードコアな世界が展開され、
救済や癒し必ずしも約束されない。でも同時にその背景に隠された日常生活では認知できない、
現実のメタファーとしての真実を垣間見ることが出来るのだ。
さてどちらのピルを選ぶのか?
ホラーやアクション、SFといったジャンル映画とは一見ゲテ物のようで、
有能な監督による確信犯的な作品には必ず現実へのメタファーが隠されている。
単なる模倣ややっつけ仕事も多いが、玉石混合の中から、真実を見つけた時の喜びに勝るものはない。
だから飽きもせず、凝りもせず、この種の映画をひとり観るために、劇場へと向かう。
もっとも現実世界が虚構の先を行く昨今では必ずしも赤いピルと青いピルという分類による、
日常生活が安泰というわけではなさそうだが。こちらの方が恐ろしいことが多々ある。
ちなみに今作ではキアヌ・リーブスが逆にローレンス・フィッシュバーンに二者選択を強い、
それへの回答がまた「マトリックス」偏愛者としてはアガル。

時間的にもそのまま前作から連続しており、正統派の続編で三部作で企画しているらしい。
復讐を終え、愛車奪回のために敵アジトへと突入する。
(しかし車を取りに行ったはずが、格闘の末車はお釈迦になるのはいかがなものか?)
前作たたきプロットの説明を手短に行い、冒頭からハードアクションでツカミはバッチリ。
帰宅して、束の間の新しい犬の休息後、矢継ぎ早に無理難題で断れない仕事を吹っ掛けられる。
ノンストップでヨーロッパへと飛び、ヤマに取り組むが、はめられて殺し屋世界から狙われの身となる。
「コンチネンタル」という殺し屋請負組織も明らかになってくる。
もうすべて有無を言わせぬコミックのような展開がリアリティを越えて期待値をあげる。
防弾仕様のスーツの仕立て業、ガンのソムリエなどがたまらん。
紳士たる殺し屋という設定は「キングスメン」の影響もあるだろう。
自分は銃系のミリオタが少々入っているボンクラおっさんのため、数々の銃器や排莢、
銃弾数を計算したような執拗なまでのマガジン交換描写にはおそれいるばかる。
複数の銃器を敵地へ持ち込みながらも、逃走路確保を想定して、各所に隠しておくという
まさしく「男たちの挽歌」のチョン・ユンファ戦法には歓喜感激で涙する。
一番の見せ場であろう鏡ばりの部屋での銃撃戦なんか、
そのまんま「燃えよドラゴン」という王道中の王道からの引用だぞ。アジア映画への目配せが濃厚。
ジョン・ウィック抹殺指令が下ったニューヨークでの銃撃などバカバカしいくらいに見せ場が続く。
荒唐無稽というえば日活アクション級だけど、予算とスケールアップで物語をひろげた正しい続編であり、
制作が控えている最終章に期待が高まるばかりである。


偏愛度合★★★

断じて「しあわせ」な「人生」の選択についての映画ではない。
何故昨今の邦題は揃いも揃って、使い古された常套句ばかりを繋ぎ、
結果作品の中身とは無関係で意味のない空虚な臭いを発する商品名ばかりなのだろうか?
翌年、いや翌日には忘却されている覚えられない商品名なんていったい何の意味があるのだ。
更に駄目押しで、宣伝には一方的に「感動」「勇気」「共感」「愛」などを押し付ける。もううんざり。
原題は「TRUMAN」という主人公と暮らす犬の名。
そう、これは主人公の人生うんぬんというよりも、飼主のいなくなった後の犬についての映画なのだ。
犬(別に猫でも構わない)と暮らす者なら、誰しも考えることだろう。
勝手に自分の人生の残りを想定して、
目の前の犬の寿命を当てはめ、果たしてもう1頭と共に生涯を過ごせるかなとふと過ることがある。
劇中では執拗に犬を描写する。
犬を散歩へ連れ出し、餌を与え、ベッドで共に眠り、更には獣医で相談し、里親を探す。
何てことない彼と犬の日常を積み重ねる。
妻とは別れ、息子とも離れ離れにで疎遠となり、余命いくばくもない主人公が覚悟を決めた時、
まず考えたのは犬の未来だろう。
もちろん犬の存在が隠喩するのが彼の人生そのものであることは明確だけど、
少なくとも感傷的で泣かせようとするための直接的な感動演出は一切加えない。
最近の流行り言葉で言えば「終活」の話なのに、湿っぽい自己憐憫はない。
現在はカナダにいる昔馴染みの友が突然訪ねて来て、数日を共に過ごすけど、
気まぐれに食って、飲んで、ぶらぶらと歩き、息子の元へと旅をするだけで淡々とした時間が過ぎる。
死を迎える主人公を善なる完璧な存在として美化して描かない。
家族とは縁を切って、犬と共に貧乏暮らしながらも、役者としてのエゴを抱える偏屈なオッサンだ。
友と過ごす時も、通常は映画という虚構の物語においては
避けたがる金銭というシビアな現実的なやりとりをやたらと細かく描き続ける。
彼は数日間、友に財布を頼りっぱなしで好き勝手にやりたい放題する。
スペインでの仕事仲間や知人とのやり取りも同様だ。
それを友人側の視点で描くので、これまでの自分勝手な人生も想像できる。
単純に美化されて感情移入しやすい人物像ではないが、逆に生々しく痛々しく目が離せないのだ。
そんな彼の傍にはいつも一頭の老犬がいる。当たり前だけど、犬は言葉で何も語らない。
でも些細な視線や仕草で言葉よりも多くを語る。
だからこれは一人の人生の一幕であると同時に犬の物語なのだ。
だから最後に彼が考えた犬の未来への選択にはちょっと胸を打つ。

昔馴染みの野郎二人の寡黙なやり取りをリカルド・ダンとハビエル・カマラが巧み演じる。
そこは安定感のあるバディものとしても楽しめる。
ちなみに主人公の従妹パウラを演じるドロレス・フォンシが何となく10年後のエマ・ストーンみたい。


偏愛度合★★★

続いて、ロベール・ドアノー。
同じく監督は女性であり、作品のテクニカルな分析、研究よりも写真家自身のパーソナリティと
その家族との関わりという切り口をドアノーの孫娘という血縁者が描く。
写真家の作品と人生を観察対象としたドキュメンタリーというより、
監督自身の「おじいちゃんの物語」という側面が明確で、家族のクロニクルとなっているのが面白い。
邦題の由来になっている最後に引用される彼の言葉が印象的だ。

 「今まで成功した写真はせいぜい300枚。
 1枚が1/100秒だとすると、50年でたったの3秒だなんてすごいだろ」

写真というメディアが持つ時間の流れから切り取られた瞬間を巧みに言い得ている。
たかが3秒だけど、多くの人に愛され、その心を動かす永遠の3秒だ。
パリ市庁舎前のキスを例に出すまでもなく、写真家のつくりだした瞬間の持つ力を痛感する。
ドキュメンタリーとしては、本人が故人のため、
残された作品やアーカイブと家族や関係者の発言のから構成されている。
特に監督である孫娘からの祖父像が濃厚でるため、非情にパーソナルな視点が一貫している。
写真家の人生を年代ごとに振り返にあたって、
テーマを設けて細かく章立てした構成が身内ならではの「記憶」に基づく視点に満ちている。
彼の想い出を語ることはすなわち自分自身を振り返り、向き合うことに繋がる。
対象への客観性と主観性が同一のポジションにあるのは、
ドキュメンタリーの手法としてはちょっと珍しいパターンだろう。
仕事に対しては厳格だけど、家族に対しては慈愛に満ちた写真家の姿が浮かび上がってくる。
通常は対象の作家性に対する監督のプロパガンダ的な自論展開というドキュメンタリー映画の定石
に反して、私的で血の濃い、稀有なやさしさに満ちた作品となっている。


偏愛度合★★★

同時に上映されていたロベール・ドアノーのドキュメンタリーと続けて鑑賞。
どちらも監督は女性であり、作品のテクニカルな分析、研究よりも写真家自身のパーソナリティと
その家族との関わりという切り口が共通しており、モノクローム写真で切り取られた瞬間の持つ力、
異邦人からのアメリカ像、日本人との関わりなど偶然に並べられた作品が
まるで共鳴するかのようで面白い。連続鑑賞すると違った意味合いが生まれてくるのだ。

まずはロバート・フランク。
写真(写真家)と映像(映画監督)という二つの側面を持つ。
写真と映像は地続きであり、お互い似ているようでだけど大きな違いがある。
劇中でもその違いを彼自身が語っているが、改めてその点を考えさせられた作品だ。
時間の流れから瞬間を切り取る写真に対して、
その瞬間を連ねて新しい時間の流れをつくりだすのが映像。
愚問は承知だけど、どちらか一方を選べと言われれば、圧倒的に映画(映像)派だ。
活動写真という訳の語源である「motion picture」がその差を示している。
写真pictureにmotionという動きを加えたのが映画だ。
この動きによって、より多層的に物語が語られる。
でも不思議なことに、映画における映像表現を極めれば、
逆にそこからスティルとして瞬間を切り取っても、フォトジェニックな一瞬がまるで写真と同様に存在する。
例えばゴダールなんて、そもそも物語を語ることは放棄して、
奇跡的にフォトジェニックな瞬間の連なりを作品として記録することに長けた監督だ。
また最近ではトッド・ヘインズ監督作品「キャロル」での色彩や構図、アングルなどの映像表現が
ソール・ライターの写真をモチーフとしているという確信犯的な逆引用例もある。

ロバート・フランクは写真と映像の両刀使いで創作を続けている。
すぐれた写真家が映画監督になることは珍しいことではない。
その一例はアントン・コービンやブルース・ウエーバーなどいくらでも思い浮かぶ。
少なくとも畑の違う作家(文字)やニュージシャン(音楽)よりも、そもそもの圧倒的に親和性が高い。
彼の映画は作品としては、劇映画のような明確な物語はなく、
瞬間が連なっていく感じが写真の持つ客観的な視察者というより、
その場の空気感を共有するようなパーソナルで実験的な手法だろう。
ジャズをバックにしたアレン・ギンズバーグたちとの作品などは
そのままジョン・カサヴェテス「アメリカの影」へと繋がらり、ジム・ジャームッシュに受け継がれる。
アメリカ映画の主流ではないedgeとなる。ロバートは端(edge)が好きらしい。
写真は机の引き出しにしまわれるけど、
映像は知らない道を地図なく進んでいる感じで生き物だと語っている。

「違和感のあるものはそのままにして、何かが生まれる余地を残しておく」

との言葉が突き刺さる。
監督のインタビューによれば、元々は写真家をしてスタートしているけど、
映像作品への進出は家族との関係(娘と息子の死)に起因していると説明している。
パーソナルな時間の連続性を記録しているパーソナルな感じはそこに由来しているのだろうか?
娘と息子の若い死についてのシーンは痛々しい。

多くの瞬間を切り取った写真をデジタルデータ化して、色補正や音声調整などを加え、
連続的に撮影することで、瞬間に連続性を与え、
まるで観客が作品の目の前で鑑賞しているかのように再現している。
また映画の場合、プロジェクターで背後に映された作品を本人が語るというシーンが繰り返される。
偏屈で頑固なで屈折したユーモアセンス持つ老人だ。
インタビュー嫌いらしいが、監督には信頼を置いているのか、文句ながらも正直に答える。
作品からも感じられるアメリカという現実への冷ややかだけど、同時に愛情のある視点の置き方がある。
タイトルはジャーナリストが「いま写真を勉強している若い人に何か言葉はありますか」と
聞かれたロバート・フランクの

「Keep your eyes open! Don’t blink!」

との言葉に由来している。

最後にハル・ウィルナーによる音楽監修が見事。
ジャズから、ブルース、ロックからパンクまで彼が同時代を過ごしたアメリカの音楽史を
俯瞰したような選曲が素晴らしい。
トム・ウェイツ、ヴェルヴェット・アンダーグラウンド、チャールズ・ミンガス、ジョニー・サンダース、
 ボブ・ディラン、ローリング・ストーンズ、ニュー・オーダー、パティ・スミスなどと
まるで自分の音楽偏愛史を聴くかのような具合だ。 サントラが欲しくなる。


偏愛度合★★★