巨匠ポール・シュレイダーによる意味不明なリンチごっこ。
厳密にいえばデヴィッド・リンチ直系のニコラス・ウィンディング・レフンごっこだ。
自分くらいの世代のボンクラ映画ファンならシュレイダーには世話になりっぱなしである。
脚本作ならば「タクシー・ドライバー」から「レイジング・ブル」「愛のメモリー」「ローリング・サンダー」、
監督作なら「アメリカン・ジゴロ」「キャット・ピープル」など、どれ程に自分らを酔わせてくれたことか。
そんな彼が何故今更、映画オタクの初監督作ではあるまいし、レフン模倣品なのだと思っていたら、
同じニコラス・ケイジ主演でレフンが製作総指揮を務めた監督・脚本の2014年制作の前作
「ラスト・リベンジ」という代物があった。あゝ完全に忘れていたぞ。
その流れでエドワード・バンカーの原作を基にしながらもマシュー・ワイルダーなる人物に
レフン風の脚本を書かせて撮ったことは十分に想定内だろうか。
予想通り、刑務所帰りの主人公が古い仲間を再起を賭けて報酬のデカい仕事に手を出すという
いったい何百本と似たような作品を体験したのかというくらいに既視感いっぱいの設定ながら、
物語はすぐに脇道へと逸脱し始めて、意味不明なカットの連続で
肝心の仕事はいったいどこ吹く風かというの破綻ノワールが展開される。当然オチもテキトー。
そもそもプロのはずが、計画自体の細部の詰めはなく、
その場限りのやっつけテキトー仕事で、整合性や伏線なんてものはありゃしない。
一体いつ頃からニコラス・ケイジはニコラス・ケイジというジャンエル俳優と化したのだろうか。
名門コッポラ・ファミリーの一員であり、ちゃんとしたアル中演技もオフビートなコメディもできる俳優
だったはずが、昨今はスクリーンに映るだけで色物扱いの失笑しかない怪優と化してしまった。
薄くなった頭髪(時々カツラ)に長い手に極端ないかり肩に猫背というバランスの欠けた体型で
眉をしかめてモソモソと喋る演技は、何を演じてもニコラス・ケイジにしか見えないのだ。
今回も同様。
ノワール映画というより、ニコラス・ケイジ映画という特殊ジャンル映画に成り下がっている。
仲間への寡黙を守り、長い刑務所暮らしから解放された割には、無計画な悪行を繰り返す。
本人はシブい仁義のある男の演技のつもりだろうけどギャグにしか見えず、始終失笑しかない。
その相方は薬まみれで過ぎに銃をぶっ放す狂人ウイレム・デフォー。
この人っていつもそんな狂った役柄ばかりだから、こちらは目新しくはないけど。
途中からは債権者の赤ん坊の誘拐という主軸となるプロットを無視して、
執拗なまでにセックスに暴力、ドラッグ酩酊描写を繰り返す。
観客もいちいち整合性や筋を追うのを諦めてしまう。
リンチ作品で既視感のある真夜中のハイウエイの路面を延々と追う。でも意味はない。
レフン作品特有の赤などドキツイ原色画面を展開する。これも意味はない。
どちらもスタイルとして真似したかっただけに見える。
監督自身も劇中で「ギリシャ人」という異名の暗黒組織の情報屋を嬉々と演じている。
ああ、やっちまったね、ポール・シュレイダー。
往年の巨匠が十分に楽しんでいるのはうかがえるけど、作品は然程楽しくはないけど。


偏愛度合★★★

ゾンビ系のジャンル映画であることは知っていたが、原作も含めて全く前知識なしに劇場へ。
公開規模もミニマムで然程期待していなかったが、意外な掘り出し物。
冒頭、時代も世界観の説明もなく、地下施設に隔離された少年少女の日々を描く。
どうやら何かしらの目的のために教育管理されているらしい。
同じイギリスが舞台で映画化もされた「わたしを離さないで」を思わせる。
夜は施錠された独房に隔離され、昼間は拘束されたまま教室に集められ授業を受ける。
女性教師だ。
子供たちにせがまれて彼女の物語るのがギリシャ神話のパンドラの箱だ。
パンドラの夫は神から送られた禁じられた箱を好奇心に負け開けてしまい、
箱からは疫病や悲嘆、欠乏、犯罪などが飛び出し、閉じた箱に希望だけが残ったという寓話である。
無意味な引用ではなく、ちゃんと物語のこれからの展開と隠された意味を示唆したもの。
子供たちに与えられる食事が活きた虫であったり、
何かの制劇で歯をむいて狂暴化するなど徐々に状況が明らかになってくる。
繰り返される異常な日常から、細部から、徐々に隠された物語の全体へと導いていく語り口が巧みだ。
.未知の細菌によって文明が荒廃した近未来のイギリス郊外であることが示される。
周囲はハングリーと呼ばれる人肉を食する感染者(ゾンビ)に溢れている。
この施設ではハングリーと人間のハイブリッド第二世代から、
病原体に対するワクチンを完成させようとしている。
その中で思考能力と学習能力を有するひとりの少女が物語のカギとなる。
少女だけど、少年のようにも見える中世的なセニア・ナヌマが好演している。
お決まりのように、隔離施設が取り囲まれた感染者の群れに破られ、
殆どが死に、感染者と化したが、かろうじて数名が逃亡でする。
件の女性教師に、女性科学者、軍人、黒人兵とお馴染みの配し方は既視感がある。
ゾンビという設定自体が何度となくアプデートを試みられたが、もはや使い古されたものであり、
設定だけを借りたパロディか、過去作をサンプリングした模倣しか道はない。
後者の手法を用いながらも、過去作へのオマージュや引用はあれども、
ゾンビと人を繋ぐ中間的な視点である少女という新しい物語の機軸を打ち出している。
逃亡劇自体は、お馴染みの車両の立ち往生、ショッピングモールでの物資確保劇など定番通り。
アメリカ製のディザスターな破壊願望と違い、イギリス製ゾンビ映画はどこか湿っぽく、
神の裁き下った世界の終末観が濃厚だ。ディストピアやパンドラの少女という邦題は言い得ている。
ゾンビそのものの原因を未知の菌糸類による感染症とし、菌の繁殖を拡散させる手段として、
思考能力を奪い、人肉を食らい食らったものも感染者となるという設定が面白い。
更に菌糸を広範囲に繁殖させるための樹木状の母体が登場する。まるで生命の樹だ。
その後の皮肉な結末といい、使い古されたゾンビ設定であっても、巧みな物語の語り口と
定石の中に少々の新しい解釈を香辛料のようプラスすることによって新鮮味は打ち出せ、
まだまだ終わったジャンルではない。


偏愛度合★★★★

壊れる女だ。

宣伝で煽られる

 「世界中が熱狂!この父と娘に涙し、笑った」

という浮ついた文句に騙されてはいけない。涙はなく、笑いも「苦笑」の方だ。
宣伝文句に惹かれてハートウォーミングな父と娘の物語を期待すると背筋も凍る目にあうぞ。
この壊れ方がドイツ人らしいクソ真面目で皮肉な笑いなのだろうが、ひたすら痛い。
誰しも身につまされる部分がある。
これは大手コンサルタント会社でキャリアを築き、目下ブカレストで新しいプロジェクのトリーダーとして
多忙な日々を過ごしている妙齢の女性が後半如何に壊れていくかというディザスタームービーだ。
演じるサンドラ・ヒュラーは多少癖はあるけどゲルマン系の金髪碧眼でスレンダーな美人ともいえる。
身も蓋もない杓子定規な常識人でスクエアな感じが上手く出ている。好みのタイプではない。
自意識とプライドを頑なに守り、
仕事を通しての社会的地位と成功によってマウンティング高位を維持するため切磋琢磨する。
そんな彼女に襲い掛かった物語の後半の崩壊は、
もはや天変地異や災厄といっても語弊がないくらい、
合理性と整合性、秩序に満ちたキャリアと日常がカオスと化していく。
一見壊しているのは闖入者である彼女の親父ギャグ連発の父のよう見えるが、
実は彼女自身であり、彼女が自ら選んで身を置いた世界なのだ。
ドイツ映画だけど、例えば日本でも探せばいくらでも彼女に似た境遇の壊れる女候補を
見つけられるように結構普遍的な物語だ。
壊れる「女」という言い回しがフェミニズム的に問題があるなら、設定自体を男に置き換えてもいいだろう。
どちらにせよ、人は現実に追い詰められ、気が付くとネジが何本か飛び、知らぬうちに壊れていくのだ。
ジャック・ニコルソンがハリウッドで自演映画化したいとうのも頷ける。
逆に父の娘への直球の思いもまた普遍だ。
だたそれを伝える適切な方法を知らないだけなのだ。

前半はありがちな人情コメディの定石をなぞる。
父と娘のすれ違い。
父から見れば娘はいくつになっても少女の頃のままであり、悪ふざけで楽しませようとする。
当然大人になった娘はそんな父は疎ましく、距離を取ろうとする。
愛犬の死から、海外の彼女を訪問するも、冷たくあしらわれる。
そこで彼はいったん戻ったふりをして、再び彼女の元へと「トニ・エルドマン」という別人を装い再訪する。
まるで多重人格者だ。
ボサボサのカツラに入歯、トリッキーな言動で彼女とその周辺の人々をかき回す。
突然目の前に奇人が現るギャップ感はオーソドックスな手法だ。
台詞としては語られないが、その奇行に隠された意味は言わずもがなな娘への愛情だ。
ところが中盤、某氏が「鮭が卵子に精子をかける」と称された恋人との性の交りの当たりから、
娘自身がおかしな方向へと逸脱をし始める。
高まる仕事のプレシャーと周囲を蠢く父親の別人格に惑わされていく。
文字通り壊れていくのだ。
ホイットニー・ヒューストン「Greatest Love Of All」意味不明な絶唱と、
裸での誕生日会など、矢継ぎ早に逸脱を連発し、段々と観客も凍り付いていく。
笑うに笑えない、というか笑ってよいものかという状況が逆に面白すぎる。
この監督の凄い(恐ろしい)ところは、
いちいちその過程や背景を周囲との会話やモノローグによって一切説明しないこと、
ただひたすら主人公たちの行動だけを追うことだ。
まるで虫かごの中で弱っていく虫を嬉しそうにしげしげと眺めている感じだ。
流石ドイツ人だ。いや、これは人種偏見か?
人情コメディはナンセンスな不条理劇へと転じて、何故か最後には
元のちょっぴりしっとりな人情コメディ風味に戻るという不可解な先読みできない展開なのだ。
そこで唐突に何の説明もなく登場するのが宣伝にもある実物大の鳥の着ぐるみ。
ブカレストの魔除けらしいけど、そのことは全然説明しない。
こんな具合だから、監督(脚本も兼任)の頭の中を覗いてみたくなるとんでもない展開なのだ。
そう、映画の物語は周囲の反応に困る親父ギャグの寄せ集めのような作品なのだ。


偏愛度合★★★★

享年90歳の監督の遺作とは思えない。
正直に言えば、アンジェ・ワイダ作品は避けてきた。
ぬぐいきれない政治色が劇場へ足を運ぶことを遠のかせた。
映画史上に名を連ねる初期ですら、未体験な作品が多い。
今となっては彼の作品を観るべき年頃とタイミングを逃してきたことを少し悔やむ。
亡くなるまで一貫して既存体制への反骨精神を貫き、
年を取っても、,事を荒立てないように穏便にとか、丸くなった気配は全くない。
今作はポーランドの実在する画家ヴワディスワフ・ストゥシェミスキーの最晩年の4年間の描く。
時代背景はスターリン時代のソヴィエト連邦の影響下に置かれたポーランド。
ソヴィエト連邦も共産主義も体制崩壊し、既に過ぎ去った20世紀の過去だ。
でも老監督の作品には、過去を振り返る懐古的なタッチは全くない。
それは「残像」というタイトルが語る。
人が視覚で光を見た時、その光が消えた後もその光や映像が網膜内に残って見える現象。
劇中の主人公が学生たちへの講義でも説明される現象だが、
歴史的な過去は途切れることなく現在へと繋がり、残像として焼き付けられているのだ。
歴史を単なる過ぎ去ったものとして忘れ去ってはならないものとして突きつける。
東欧における近代美術の巨匠でありながら、スターリンの全体主義の波にもまれて、
社会主義的リアリズムからは全面否定され、不遇の晩年をおくる。
反体制として疎まれ、彼の境遇は物語の後半に向かい悪化を辿るが、ダークな色調ではない。
冒頭、老監督の描く、瑞々しい描写に驚く。
彼は大学で美術史を教えているが、
既存の価値観に縛られない自由を求める学生たちからは注目されている。
物語は緑が生い茂る丘で開かれる野外講義から始まる。
熱弁を振るった後、
小高い丘の上から、第一次大戦で片足を失った彼が幼子のように草むら転がって降りてくる。
学生たちも倣ってそれを真似する。
まるで青春映画の一場面のような青臭くも、透き通った瑞々しさに溢れている。
まだ光があった時代だ。
やがて中盤以降、政権の圧力によってその光が徐々に失われていく。
如何にして権力が人の自由や光を踏みにじり、いとも簡単に奪い去っていくのかを淡々と描く。
これは時代が変わっても、たとえ体制が変わっても、変わることのない悪しき現実の姿だ。
彼はどんな境遇に追いやられても、無暗に抵抗したりせず、決してくじけず、現実を認め、生き続ける。
自分の内なる思いを絵画という芸術へと昇華させる姿は、監督であるワイダ自身と重なってくる。
あの時代から現在に至るま引きずっている体制の理不尽さこそが残像であり、
それを亡くなるまでも作品として訴え続けてきたワイダの遺言とも言うべき作品も残像として残る。
物語を語り終え、決してハッピーエンドではないが、
静かに流れるラストクレジットでの見事な色使い、デザイン、タイポグラフィには心躍る。
それが余韻となって作品を刻む。

偏愛度合★★★

宗教や宗派を問わず「信じる者は救われる」という慣用句。
でも自分にとっては、ただ信じる者が恐ろしい。
信仰という鎹を持つ者への畏怖からは逃れられない。
アンドリュー・ガーフィールドの絶対的なキリストへの信仰と
(役者の演技なのか監督による演出なのか不明だけど)常に浮かべている薄笑いがホラーな作品だ。
戦場において銃弾で頭蓋骨を貫通されたり、手りゅう弾で手足がもげ、
ズルズルと腸を垂れ流している凄惨な光景は所詮つくりものという自覚が付きまとうので
執拗に繰り返されても何ともないが、信じている者が信じている「もの」の方が十分に恐ろしい。
アンドリュー・ガーフィールドの薄ら笑いは、架空の殺人鬼の何十倍も背筋を凍らせる。
時々店にも同様の笑みいっぱいの勧誘者が訪問していくる。
清潔なたたずまいで、やさし気な笑みを浮かべてはいるけど、眼元が真剣で怖い。
個人的には全くの無宗教、無神論者なので
「信じられるものがあっていいね」と軽蔑半分、畏怖半分の気持ちだ。
彼はマーティン・スコセッシ「沈黙」といい、つくづくカトリック系監督のマゾっ気を刺激する役者だな。
実在するはずもない神と会話し、神によって自らの行動を自由意思を越えて制約する。
周囲に及ぼす影響、特に一般社会ならまだしも、軍隊という訓練によって洗脳され、
目的に従い殺人を目的とした特殊組織における異物感といったことは完全に無視する。
彼の場合はそれは武器を放棄して、隣人を救うという一見善行に思える行為へ駆り立てたが、
逆に神の名の下で大量殺戮を繰り広げるのも同じ信仰であり、表裏一体でそこには差はない。
古今東西の歴史を見れば明確だが、
宗教という大義名分や免罪符を得た時に人のなす行為ほど残酷なものはない。
勿論信仰を全面否定するわけでも、
悪魔の証明ではないが神が不在であることを立証しようとも思わない。
特定の宗教や宗派ではなく、八百万の神を信仰としではなく、日常生活のおける儀礼として
受け止め、初詣や犬の散歩で神社境内に立ち入る時には黙礼するなどには抵抗がない。

主人公デズモンド・ドスは実在の人物をモデルとている。
いきなりの苦言だけど、昨今の流行りなのか実話映画化ではラストクレジットで本人が登場して、
語り始めるという愚策を講じているが、いったい何を伝えたいのだろうか?
映画は物語を映像で語るべきであり、それ以上の手法は蛇足以外何ものでもない。
より真実度を強調したいのか、時折憤りすら覚える。
「フルメタルジャケット」以降の戦争映画らしく内地での訓練と戦場という二部構成となっている。
そこに主人公の行動背景となる信仰や家族との関わりといった回想が挿入される。
構成自体はオーソドックスで、語り口は明確でブレはない。流石にメル。ギブソの手慣れた演出。
後半は厳密には戦争映画ではなく戦場映画と化す。
俯瞰的に沖縄戦、特に前田高地での攻防戦を描くのではなく、局地的なドンパチ描写に始終する。
国同士の駆け引きや戦略、背景、策戦過程を含めて俯瞰的に戦争映画とは違い、
敵も味方も無暗に殺し合うだけのカオスと化した戦場を局地的に描く戦場映画だ。
当然戦場に隣接している民間人の描写を意図的に描かない。
非難もあるだろうが、戦争映画と戦場映画は似ていて異なるものなので、仕方がない。
鬼畜スティーヴン・スピルバーグ監督「プライベート・ライアン」以降の定番となった
銃弾の動きを可視化した銃撃戦、肉体破壊を伴う徹底した残虐描写、
四方八方から飛び交う音響効果などをそのまま導入。
スピルバーグの銀残しのダークな映像に比べると、よりリアリティ寄りの生々しい戦場描写だ。
反日映画との評価も危惧されていたが、日本兵の描写も概ね違和感はなく、
ドス自身も戦場で日本兵も救ったりとキリスト教の聖戦的な偏向はない。
ストーリー上必然性のない、日本人将校の切腹自害はメルギブの自虐残虐趣味のような気がするけど。
でも岡本喜八監督「沖縄決戦」との併用が推奨だろうな。

ドスは最終的には銃を持たずに戦場を駆け巡り、75名を救ったという。
信仰を抱きながらもキング牧師やガンジーの殺人という非暴力を訴えるのではなく、
殺戮を義務として遂行する軍隊の同胞を救うことは、単なる美談では済まず、
いわば殺人幇助といもいうべき不可解で中途半端な倫理観に満ちている。
よく言われるひとり殺せば殺人罪だけど、多数殺せば英雄という不条理な世界だ。
目の前の逃れられない現実と信念の不可解なバランス感覚は到底理解の及ぶものではない。
戦場での彼の神からの使命への覚醒、繰り返される十字模様、天国へ召されるかのようにタンカで
上がっていくそのままな昇天な構図などキリスト教信仰へのモチーフは散りばめられている。
根幹にはメル・ギブソンの不可解な二面性が現れている。
宗教を信じながらもアルコールにおぼれ、周囲を罵倒し、暴力をふるう自虐的な側面を持つ。
自らの罪を償うかの如く、自己投影した主人公を過酷な境遇で執拗に攻め立てる。
攻められ、傷つきながらも、ひたすら耐え忍び、最後まで信念を全うしようと試みる。
信仰の持つ、特にキリスト教の持つこの不可解な側面こそが、門外漢にはホラーなのだ。


偏愛度合★★★

ゆるい。
まぁ全員70歳を越える爺さんたちが機敏に動き、スタイリッシュにガンさばき決めると
それはそれで嘘丸出しで、映画というフィクションですらリアリティが欠如する。
この程よい弛緩した「ゆるさ」こそがこの作品の魅力なんだろう。

冒頭の本編前、延々とづつく制作会社のトレードマークに70年代ファンクを思わせる
ドラムのブレイクビーツのBGMが被さってくる。
曲は似ていないけど何となく「ブリット」のオープニング思い出した。
どことなく音楽はジョン・バリーやラロ・シフリン風味。
その後アップデートされラップも使われるなど、さりげなくポピュラー音楽史をたどる。

更には多用されるマルチスクリーンスクェアな顔面をスライドさせるワイプなど既視感のある手法だ。
ステーヴ・マックイーン「華麗なる賭け」でシネマスコープの横長を活かしたスタイリッシュな画面。
また強盗決行前夜にDVD(まさかビデオ?)でイメトレするのが「狼たちの午後」だもんな。
ここでようやく腑に落ちた。そうなのだ。
確かに年齢的にも70年代で30歳の主人公も半世紀経つと、軽く80歳を越えるのだ。
シドニー・ルメット「狼たちの午後」は1975年作、当時のアル・パチーノは35歳で現在では77歳なのだ。
ニューシネマの流れをくむ60年代末期から70年代の米アクション映画を自然な経年変化に基づき、
加齢させ、ゆるく耄碌させた感じこそがこの作品の狙っていテーマなのだ。
主人公のその後を描くのではなく、主人公と同年代の男たちの姿。
70歳を越えた老人に機敏さの欠片もないけど、それは当たり前の自然な老化現象なのだ。
時代が変わり、決して報われない生きづらい現実を提示するのだ。
その意味ではこの三人は全員オスカー像付きだからというよりも、
俳優人生ともオーバーラップする見事な配役だ。

そこに現代的なテーマを皮肉としてぶつけてくる。
高齢者社会、年金支給額、病気や介護、認知症など、
日本でもこれからか必ずやって来るリアルで逃げ場のない社会問題を絡める。
ただし余りシリアスにこの問題を突っ込みすぎるとダークすぎるので、ゆるく留める。
リタイヤして気軽に余生を過ごすはずが、企業合併に伴ない年金の一方的な支給停止だ。
まさしく崖っぷち爺さんたちの悪徳銀行への復讐劇は「加齢なる崖」だよ。

脇役へ補足だけど、マイケル・ケイン孫役は成長したクロエちゃんの後釜に収まりそうな感じ。
ボケに徹するクリストファー・ロイドとマット・ディロンのいたたまれなさも苦々しく笑える。

ちなみに宣伝会社による邦題非難が多い昨今だけど、これは秀逸。
「はじめ手の銀行強盗」という副題だけは蛇足だけど、憶えやすいし、物語の核心をついている。


偏愛度合★★★


時々鑑賞中や直後よりも、後々に不穏感が募り、居心地の悪い不快さを刻む作品がある。
それがどの程度演出的に意図されたものなのかは不明だけど、
今作「セールスマン」はある時間経過後、確実に後味の悪さを残すことは間違いない。
基本プロットにミステリーの骨組みこそ導入しているが、
犯人捜しというわかりやすい娯楽性やトリックの意外性やカタルシスは一切ない。

監督は男性だが、女性が観ても、男性が観てもある種の不快さを残すことは間違いない。
流石にイランならず世界的な名称と称され、近年でも「彼女が消えた浜辺 (2009)」
「別離 (2011)」「ある過去の行方 (2013)」と傑作揃いである。打率十割の完成度だ。
自宅に侵入した見知らぬ男性から妻が性的暴行を受け、心身共に傷つく。
女性ならば同姓として、この状況への直接的な不快さは明白だろう。
更には男性もまた夫のとった行動が決して特殊な他人事とは思えない不快さを提示する。
特に男性には物事には必ず原因があって、
それによる結果が生まれるという因果律に縛られることが多い。
この男性脳はまるで呪縛の様に無意識にうちに言動に付きまとう。
因果律から生まれるのは原因の追究という犯人探しであり、
その先にあるのは当事者の罪に対するしかるべき罰を課すという明白な解決志向なのだ。
これは解決志向の男性脳者の逃れられない痛い所を突いてくる。
自分が同様の状況でこの呪縛を断ち切ることが出来るのかは怪しい。
当事者である妻への心遣いよりも、
大切な妻を傷物にされたことへの怒りが先行し、安直に復讐という手段をとる。
多くの男性は素直に自戒せねばならないだろう。

ましてや舞台はイランであり、背景となるのがイスラム社会なのだ。
テーマを一層根深いものへと深化させている。
基本的には男権社会であり、女性の地位は低い。
ヘジャーブをかぶらない女性は宗教警察により逮捕され、女性の体のラインを強調する服装も禁止、
婚外交渉が非合法であるなど性的自由はきわめてきびしく制限される社会だ。

事件発生後も妻は警察へ届けようとしない。
傷心や世間体もあるだろうが、それ以上に一方的なレイプすらも女性側に隙があったと罰せられる国だ。
彼女は「覚えていない」と当時のことを多くを語らない。
夫はそれに納得できず、自ら犯人探しへと向かう。
単に妻への配慮だけではなく、
自分の教師や役者としての名誉や家族の平和な暮らしを破壊されたことへの怒りもある。
ただ巧いのは実際に浴室で妻に何が起こったのかを劇中で一切見せない。
「あなたは現場を見ていないから言えるのよ」と隣人女性の言葉だけが想像力をかきたてる。
映画においては、見せるもの(こと)よりも、見せないもの(こと)の方が圧倒的な力を持つ。
上手い演出家は一番肝心な部分を巧みに引き算して、
欠けたパズルのピースを観客の想像力に委ねる。多くを語らない。
映像で描かれない欠けたシーンを想像し、
結果から安直な犯人追及という解決志向のみを繰り広げる夫と観客(特に男性)の視点を一致させる。
見なかったことを探し求める呪縛にに囚われた男となる。
また犯人が置いていった紙幣や携帯電話、車と言った小道具が活きてくる。

二人は老夫婦役でアーサー・ミラーの戯曲「セールスマンの死」を演じている。
舞台での、その練習風景が挟み込衣まれる。
戯曲自体は未読だけど、長年連れ添った夫婦の現実と舞台が微妙にリンクして、台詞が重なっていく。
家庭内の問題も抱えて、過去にすがる夫、献身的だけど自身をとりまく問題に必死に耐えている妻と
物語と重なる部分も多く、物件を紹介した劇団員への八つ当たりが台詞を変えたりする。
それ以上に印象的なのは、やがて犯人が明らかになり、
ある結論を迎えた後の舞台とそれ以前の二人の決定的な表情の違い。
この舞台での変化が物語の大きな流れをなす。
「SHOW MUST GO ON」とばかりに、
現実で何があって舞台の物語を継続しなければならないのだ。

全てのシーンにおいて何気なく配された物や台詞など全ては意味があり、
細部まで徹底して配慮していることがうかがえる。
勿論一見ではそれをすべて解読することはできない。今年上半期を代表する文句なしの傑作。


偏愛度合★★★★★

リリー=ローズ・デップというだけで、前知識なしに劇場へ。
何でダンサーの話のはずが、西部劇みたいな寂れた荒野の一軒家から始まるんだと面食らった。
クラシックバレーはともとより、モダンダンスといわれても全くの門外漢でその知識がない。
ロイ・フラーについても、彼女を演じるソーコという女優についても同様。
時代設定はアメリカの西部開拓期と重なるフランスのベル・エポックのパリなので、
矛盾はないが、いきなりお目当てのリリーが不在のまま、予想外の冒頭に驚いた。
フランス人の父と荒野で暮らしながら、女優志望のロイが父の死後、敬虔な母の元へと行く。
実在の人物だけど、自意識過剰なキャラクター設定で、やがてニューヨークでひと悶着の末、
ダンスに目覚め、盗んだ金でフランスへ渡るなど話の展開が見えず、
ただひたすら「リリーを待ちながら」という感じ。
もっともゴトーと違って彼女は中盤で登場するけどね。
そして登場したリリー=ローズ・デップの熟練の演技力というより、
猫のようにしなやかに躍動する動きと眼力は親の七光りでは収まらない存在感で、
この瞬間のみの輝きを放ち、全てをかさらっていく。思わずため息が出る。
物語のプロットがどの程度に史実に基づいているのかは不明だけど、ロイ・フラーの伝記のはずが、
熱演のソーコはさておき、結局映画全体の旨味は全てリリーの元へと凝縮される。

さて本題。
これはベル・エポックの時代を舞台としたダンスを通したフェミニズム映画だ。
よくよく調べてみると、19世紀末から第一次世界大戦勃発までのベル・エポックと呼ばれる時代は、
パリに新しい文化が次々と花開いた、文字通りの「良き時代」であると同時に、
女性解放が進んだ、フェミニズムの時代なのだ。
「突然炎のごとく」でジャンヌ・モローが演じた破天荒な女性なんかもこの時代の女性がモデルなのだ。
そこから物語をみると、新しき時代へと解放される女性と
それと相反するダメ男たちという構図がうかがえる。
監督は女性であり、主要キャラクターを三人の女優が巧みに演じる。
単なる踊り手としてではなく、衣装や照明、舞台セットまで明確な自我を持つロイはもちろん、
彼女の才能をいち早く見出し、劇場主へと繋ぎ、その後も彼女を支えるのも女性ガブリエルだ。
またバックダンサーの穴埋めとして雇われた天才ダンサー、イサドラ・ダンカンとの
確執や離反などまるで少女漫画のライバル同士のような濃い女性同士の閉じた関係性がある。
対して登場する男性は既存の価値観、金や権力の囚われ続けるダメ野郎ばかり。
ギャスパー・ウリエル演じるドルセー伯爵もロイを支え続けるが、
アヘン中毒の没落貴族に過ぎず、その男前だけど、同時にどうしようもないダメ男ぷりだ。
史実的にはロイ・フラーは同時代のコクトーやロートレック、ロダンたちを
魅了したミューズであるはずだけど、劇中では時代の先端を切り開く男性は一切描かれずに、
強欲で保守的な権威主義的の男性しか登場しない。
最後まで解放された時代の女性と取り残されたダメ男という図式を貫く。
「女性ならではの繊細さ」と男性視点で女性監督を称してしばしば引用される常套句はない。
女性が描く女性は常に生々しく現実的であり、その所作振る舞いにはファンタジーはなく、容赦ない。
フェミニズム映画といっても、単に思想を押し付けるのではなく、あからさまな女性像を突きつける。
監督であるステファニー・ディ・ジューストは偶然に見たロイ・フラーの写真に強い感銘を受け、
その自伝の映画化を思いたったそうだ。
でも彼女自身が視点として共感しているのは、ロイでも、天才イサドラでもなく、ガブリエルだろう。
共にロイを発見して、ロイを育て、ロイの傍で生きたのだ。
実は演じるメラリー・ティエリーが二人のダンサーという花の間にありながらも、
魅力的な存在感で感じられるのは、そこにある気がする。


偏愛度合★★★

清水崇監督も迷走している。
オリジナルビデオ版「呪怨」の半端のない怖さには驚いた。
複数の視点で時制を繰り返す見事な編集の語り口、余計な説明をせずに、
ただ穢れが理不尽にひろがり、累々たる死者が投げ出される描写はヤバいという印象だった。
劇場版として映画化されたまでは兎も角、それ以降はハリウッドでも再度リメイクされ、
物語が繰り返されるごとに、伽椰子と俊男がキャラクター化され畏怖対象から
単なる苦笑へと変わり、作品の質も失速していく。
ホラー以外のジャンルにも手を広げているが、どうにも中途半端な出来具合で先細りの一方。

「こどもつかい」は脚本を共作して、監督するなど自身のルーツへ原点回帰もあるのか、
白塗りで白目の子供が大人を復讐するなど「呪怨」とどこか似た設定でもいある。
しかし作品のターゲット層が不明。
弱年齢層をショック演出でキャーと叫ばせる単なるホラーかと思えば、
貧困層の生活難、母からの児童虐待など、重い社会問題を背景としている。
逆に大人向きにしては、安っぽいファンタジー要素が強く、肝心の恐怖演出も生々しさも空回り。
最大の問題は滝沢秀明演じるジャック・スパロウ擬きの登場だ。
苦笑するしかないコスプレの容姿と仰々しい台詞回しは芝居がかっており、著しくリアリティに欠ける。
某海賊映画ならともなく、これほどホラー映画に相応しくないキャラクターはないだろう。
安っぽいCG処理と合わさって、彼が画面に登場する度に、物語のバランス感を乱す。
更には臭い台詞でいちいち背景や因縁を登場人物に説明してくれるのだ。
一見するとスーパーナチュラルのようでありながら、
大人の道を外れた行為に対する罪と罰という因果関係が明確なのだ。
最初の「呪怨」で突如襲ってくる理の通らない理不尽な穢れを描いた監督が
辿りついたエンターテインメントを装いながらのわかりやすい過剰な説明には失望。
語ることよりも、語らないことの方が圧倒的な力を持つという物語の語り口の原点を見失っている。
いい加減にしてくれと、最初から最後まで苦笑が耐えなかった。
もう私的に偏愛する門脇麦恒例のふにゃふにゃ演技しか見るべきものはないぞ。

偏愛度合★★

フランス映画が大好きだけど、時々コメディだけは微妙なセンスの時がある。
これもアメリカなら、同設定でも過剰な容姿に関する差別ネタと、更にはドン引き下ネタをぶち込み、
最高に下品で露悪的で悪趣味なジョークのような作品(←褒めている)に仕立てただろうが、
どうにも中途半端に良識のある薄っぺらい作品となっているのだ。
ひと昔の3K(高学歴、高身長、高収入)ではないが、
ヒロインの苦悩も想定内の白馬の王子様的な類型であり、共感しにくい。
かといって肝心の背が低いというコンプレックスを抱えた男性の内なる心境に
切迫しているかといえば、こちらも形通りの苦悩に過ぎず、余計にご都合主義的が目立つ。
「オトコの価値は何で決まる?」などと宣伝で煽っていても、身長以外は全てを持つ者であり、
同性ですらキャラクターとして感情移入しにくい。
愛の生々しさやすれ違いを描くことは、ラムール至上主義のフランス映画の独壇場のはずが、
単なる特異な状況設定があるだけで、二人の掛け合いは、真実の愛を求めるというより、
互いの条件の消去法に過ぎず、設定だけが空回りし続ける。フランス映画らしくもない。
何とか笑いを取ろうとするけど、半端な羞恥と常識が足を引っ張り、場を凍らせるコメディアンのようだ。
ヒロインであるヴィルジニー・エフィラは隠微なエロさはないけど、健康的な別嬪さんだし、
180センチを超えるジャン・デュジャルダンをCGやアングル、遠近法など
あらゆる手法を駆使して縮めた撮影手腕は認めるけど、肝心のお話には全く乗れない。


偏愛度合★★★