溢れんばかりのヤンキー感!
もちろん監督はイギリス人だし、伝説のイングランドの騎士王とその剣の物語だけど、
ネットでふと目についた「エグザイル系」と評した言葉で刷りこまれて、
もう日本語でいう「ヤンキー」感で一杯になってしまった。
アーサーを演じるチャーリー・ハナの微妙なファションセンス、髪形、立ち振る舞いや行動原理が
もうその筋の人にしか見えくなったぞ。先入観っておそろしい。

会話劇とアクションを組み合わせたガイ・リッチー節ともいえる語り口は健在。
作品を越えて使いまわされるコマ落としのアクション演出と会話の合間にフラッシュバックと
フラッシュフォーワードが挟み込まれ、時系列が行ったり来たりの独特な編集手法だ。
但し、その語り口がしっくりきている感じではない。
本来、伝説的な偉人である王の荘厳物語のはずが、やんちゃなチンピラの立身出世にしか見えない。
この格調のない下衆っぷりというかヤンキー節に伸るか反るかが観客の分かれ道だ。
ファンタジーではお馴染みの量産CG投入の魔術師やら物の怪、怪獣、怪人勢ぞろいの廉価感。
大音量でドッカンドッカンと見得を切った見せ場擬きが続くけど、もう見飽きたというか、どうでもいい。
勝手にしてくれ。

余談だけど、高校生の時に観た「エクスカリバー」という作品が好きだった。
テーマ、主人公は同じでももっとリダークな物語だった気がする。
当時は気に入り何度か観たはずだけど、それ以来なので詳しくは殆ど覚えていない。
1981年の作品で、監督はジョン・ブアマン、何とリーアム・ニーソンなども出演している。
どうでもいい話だけど。

偏愛度合★★

2013年ボストンマラソン当日に発生した爆弾テロという実話をベースに
リアルに事件発生前から犯人逮捕に至る過程を逐一再現した娯楽アクション映画を装っているが、
これは完全にプロパガンダ映画だ。それも相当政治的に偏向している。
タイトル自体はボストンマラソン開催日が祝日「愛国者の日」に当たっているので仕方がないが、
劇中の主人公が唐突に善と悪があり、悪に打ち勝つには愛しかないと、キリスト教的な
博愛主義類というか、類型的な愛国精神を声高らかに語る。
制作にも名を連ね、主演を務めるマーク・ウォールバーグ演じる地元の警官トミーだ。
実際に捜査にあたった警官や行政、法務関係者を実名でモデルにして、何名かは有名俳優こそ
配しているけど、あくまでも実録的な再現映像と予想していたので違和感を感じた。
事件発生後の経過時間とその所在地、署長、FBI捜査官、市長など全て実名役職付きで
まるで「シン・ゴジラ」のようにスーパーインポーズされる。
ところが肝心のトミーは実在人物でなく、複数の警官を元にフィクションとしてつくられた人物らしい。
それを知り、違和感に納得した。
彼自体は地元勤務で現場付近の土地勘には長けているけど、右足を痛めており、
捜査や現場での実効戦力としては非力なのだ。
冒頭から複数の視点が交錯して、時系列通りに事件へと近づいているスタイル。
ここでは物語上の役柄として具体的な説明がないまま、夫婦や親子の愛情を繰り返して描く。
不可解なくらいに人と人との愛情や繋がりが強調される。当然、テーマとなる台詞への前振りだろう。
唯一比較的にキャラクターを明らかにして、観客視線との共鳴に誘導するのがトミーだ。
犯人を追い詰めいよいよ佳境の頃、同僚相手に唐突に思い出話として「愛」について語りだすのだ。
明かにこの作品が狙っているテーマそのものを映像や行動ではなく、直接的な台詞で説明するのだ。
これは禁じ手というか、余りにもあからさまな直接的メッセージであり、演出的には野暮な手法だ。
追い打ちをかけるように、オバマ大統領の犠牲者への追悼文演説を引用し、
ラストには事件解決後の地元球団による始球式前の黙とうが
モデルとなった実際の関係者、犠牲者が写真と共に紹介されるのだ。
いくらなんでもやり過ぎだろう。
犯人逮捕までの細々した捜査手順がリアルだけに、余計にメッセージ性が目立つ。
監視カメラや携帯、GPSのデーター解析、
残留品を元に現場再現など僅か100時間強で逮捕に至った偉業が説明される。
監視カメラの映像など、かなりリアルにつくり込まれている。
逆を返せば、捜査機関の偉業を全て暴露しながらも、アメリカ万歳と褒めたたえることで、
アメリカ国内でのテロリズム実行の可能性や不合理性をアピールするキャンぺーン映画となっている。
例によって「愛」「感動」「奇跡」と薄ら寒い言葉を宣伝煽り、
「自由」「人権」「市民」「団結」と強いアメリカを守っていくためのプロパガンダを押し付ける。
何よりも冒頭からテロ実行犯で逮捕された兄弟、その妻と娘という家族の直前の日々を
他者と並行させてカットバックさせながらも、テロに至る具体的な内面や背景は一切描かない。
宗教や民族の持つ多様性とかは一切無視し、単なる狂信的な爆弾テロリストとしてのみ描く。
この中途半端さがよくわからない。
いっそう全く描かないのであれば、捜査官として、
白紙から犯人断定に至るまでの捜査サスペンスとして共有できたはずだ。
彼らは実行後も普段通りのほほんと家族と生活しているのだ。
更に深読みすれば、アメリカの敵はすぐ身の回りに潜んでいて、食わぬ顔で日常生活を送っているが、
事あれば理想とするアメリカ国家へ反旗を翻し、行動すると警告したいのだろうか?
奇跡の実話とか、感動とかを白々しく謳い、
娯楽作品を隠れ蓑にした明らかなプロパガンダが不快だ。

偏愛度合★★

ツイスト具合が堪らない。
正体不明の組織による突然の主婦の拉致、監禁で始まり、
密室での不可解な人体実験というか心理的拷問が延々と続き、
やがて「ボディスナッチャー」な侵略SFへ突然飛躍し、逸脱していく。
とりわけ珍しくはない設定だけど、定番ジャンル映画の繋ぎ合わせみたいな一度で何度も楽しめる
みたいな過剰なサービス精神の展開には心躍る。但し、一部偏愛者限定だけど。

脚本のブライアン・ネルソンは「ハードキャンディ」では赤ずきんをモチーフに少女が
ロリコンオヤジを逆に監禁するなど、つくづくツイストした監禁モノが好きなようだ。
監督のステーヴン・シャインバーグも「セクレタリー」ではSM秘書モノという倒錯ぶりだ。
また主演女優もオリジナル「ドラゴンタトゥーの女」のパンクヒロインのリスベット役のノオミ・ラパス。
更にはヤバい系専科のピーター・ストーメアーだ。
殆どの舞台は地下実験室。
複数の拉致者たちが拘束され、嫌いなモノで延々といたぶられるのだ。
ヒロインはクモ嫌いで、クモ攻めされる。虫嫌いでなくてもさぶいぼ級のイヤ~な感じが出ている。
中盤以降は閉鎖空間の構造を活かした、監禁と逃亡劇がサスペンスフルに展開される。
その果てに明かになる真相へと転がっていく、逸脱感が快感。
観客の予想を裏切って、逸脱することがジャンル映画においては一番の切り札だ。
映画では時として潤沢な予算ではなく、
個々のアイディアこそが物語をおもわぬ方向へと加速度的にドライヴさせるのだ。
特殊ジャンル映画の曲者が揃いも揃って、一発ネタで繰り広げる悪ふざけのような作品だ。
もちろんこれは最高の褒め言葉だ。


偏愛度合★★★

物語の持つ普遍的な魅力と同様に、物語を語るという物語の構造もまた同じく大きな力を持つ。
「物語る私たち」という映画(超偏愛作品)があったが、
まさしく物語る者こそが映画自体のをつくり手であり、誰かに物語を語り聞かせるのが映画と物語だ。
幼少期両親からベッドサイドストーリーとして聞かされたおとぎ話やアラビアンナイトで有名な名作
「千夜一夜物語」を例に出すまでもなく、
誰かに別の誰かに向って話聞かせることこそが物語の基本構造なのだ。
しばしば主張している通り、映画の原点は法螺話であり、
法螺吹きにはそれを聞いてくれる観客が不可欠。両者の対話なしには物語は存在しえない。

父親は離婚し、難病に臥せる母と二人暮らしの少年。
学校でも虐められ、友人もなく孤立している。
咲への希望が見えない、行き場のない閉塞感の日々を毎夜の悪夢と共に過ごしている。
唯一絵を描くことで現実から逃れ、空想の背系へと逃避を繰り返す。
いきなりシリアスでハードワークな現実的な設定だ。
ある深夜、少年の元に巨木のような怪物が「今からお前に3つの真実の物語を話す」と現れる。
語り手の登場だ。少年と怪物が物語を巡って対話する。
しかも、続きの4つ目の物語は少年自身が話さなければならないのだ。
おとぎ話とくか、寓話というか、隠喩に満ちた物語が実写ではなく、
水彩画や切り絵ののアニメーションのような映像で挟み込まれる。
怪物は物語を語り終えると、教訓や説明なしに怪物は去っていく。それが三度繰り返される。
この物語がワクワクして、ついつい先の展開を急ぐようなエモーションには欠けるばかりか、
ある意味現実的な矛盾に満ちた後味の悪いバッドエンディングばかりなのだ。
往々にして物語はハッピーエンディングばかりではない。
怪物と語る物語が、この「怪物はささやく」という物語で何を隠喩しているのかは明らかだろう。
少年自身が抱え込む内的な葛藤の表象だ。
現実世界とリンクした運命的に抗うことが出来ない矛盾と皮肉に満ちた物語であり、
それを司る巨大な怪物こそが世界を支配す運命ともいうべき存在だ。
怪物の声を演じるリーアム・ニーソンのドスのきいた低音が素晴らしい。
拒否しならも、同時に身を任せたくなる二面性を巧みに演じる。
やがて最後には少年が現実を見つめて、勇気をふり絞り4つ目の話を語る。
彼の語る物語もまた彼自身の内面であり、物語を語り聞かせるという行為の持つ根源的な力を表す。
それは救いや癒しであったり、自らの解放であったりする。
映画における物語、映画をつくるという行為も同様なのだ。


偏愛度合★★★

前評判で「闇の奥」な西部劇と聞いて興味津々だった。
監督自身の言葉を借りれば、

  ジョゼフ・コンラッドの『闇の奥』的な一面がある。
  エイブラハムの狂気に飛び込むべくリオ・グランデ川上流へ向かうデヴィッドの旅は、
  “カーツを探すためのウィラードの旅”のウェスタン版だ

らしい。期待が高まる言葉だ。
先日のコロンビア映画「彷徨える河」といい、
「闇の奥」というより、それを翻案した「地獄の黙示録」直系が多い。
改めてあの作品の後世へと残した偉大さを痛感する。

舞台はメキシコとの国境、リオグランデ川上流の町マウントハーモン。
川の下流に流れ着く無数の死体。
「プリーチャー」と称される男エイブラハムによって歪んだ教義と呪術、
暴力によって町全体が支配されているらしい。
そこへ状況把握の潜入捜査官として、テキサスレンジャーのデイヴィドが調査に向かう。
言わずもがなカーツ大佐とウィラード少佐の関係性そのままだ。
案の定というかウディ・ハレルソンの禿げ頭と
モゴモゴした台詞回しを駆使したマーロン・ブランド擬装には些かヤリスギ感もある。
時代背景もまたメキシコ・テキサス独立戦争とベトナム戦争をオーバーラップさせていることは明らか。
戦時中期から末期にかけて、そこらじゅうに死と混沌が溢れ、なまぐさい狂気が蔓延る。
闇の奥の王国への向う旅が展開される。
二作品が大きく異なるのが、件の町への向かう工程が陸路だということ。
てっきりリオグランデ川を船で遡行するのかと思えばいきなりすかされる。
野を越え山を越え、主人公とメキシコ人の妻という夫婦で割とのんきに馬で旅をする。
劇中のネイティブアメリカンの老婆の台詞にかる彼岸と此岸、生と死を分けるのが川であり、
物語的にはその生と死の境界線を辿りながら、遡ることには形而上の大きな意味を持つ。
ああっさりそこは切ってしまったのが肩すかし。
現地でのカーツの王国も希釈されて、プリーチャーが操る、正統派キリスト教ではなく、
呪術を使う奇妙な宣教と洗脳には確かに狂信的(まるで新興宗教の集会のようだ)だが、
町民もやや排他的ではあるが割と普通の田舎町なのだ。
そう、全体的にどうにも薄口の「地獄の黙示録」世界なのだ。
突き抜けた狂気はなく、やがてエイブラハムの異常行動もある目的に準じたものだとわかってくる。
そのオチともいえる目的な明らかになった結末の肩すかし感には少々失望。
邦題の副題となっている「セントヘレナの掟」も何か意味ありげだけど、
お互いの左手を結び、右手のナイフで一方が死ぬまでの闘うという決闘の流儀に過ぎない。
メタファーとして忍ばせたアメリカとメキシコ人との関係、国境など今日性は含ませてはあるけど、
全体的にコケオドシな西部劇風味「地獄の黙示録」の希釈版に過ぎない。

偏愛度合★★★

何よりもソードオフの二連ショットガンで大いにアガル。
メル・ギブソンが構えているだけで、その筋の人なら天にも登る気分だ。
荒野を駆ける荒くれオヤジの復帰作としては最高のガジェットを持って来てくれたぞ。

イメージ 1

主人公は出所後、荒野のトレーラーハウスで細々と暮らし、酒を断ち、断酒会へと参加して告解する。

   酒のせいで人間関係はボロボロ。修復不可能だ。断酒したって誰もほめてくれない。
   娘は行方不明のままで、元妻は口もきかない。昔の仲間と会えば仮釈放は取り消しだ。
   散々人に迷惑をかけてきた。汚点は消せない

などと演技なのか、素の懺悔の告白なのかという台詞が続き、
演じるメル・ギブソンのキャリアと劇中の役柄を意図的に重ねていく。
だからこそ窮地に陥った娘の救済のために、
立ち上がり、アウトロー魂を覚醒させ、裏社会へと復帰する姿が胸を打つ。
それは、まるで虚実を越えて、罪をあがなう贖罪のようだ。
多分これは最初にメル・ギブソンという配役ありきの、アテ書きだろう。
監督は何故かフランス人なのだけど、アルコール中毒と酔った果ての人種差別発言で、
一線から遠のいていたギブソンの主演カムバックとしては最高の舞台だ。
公開を控えている期待大な「ハクソー・リッジ」といい、第二の黄金期に突入したのかもしれない。
言わずもがな「マッドマックス」自体が西部劇をベースにした映画だ。
荒野を舞台に、馬を車に置き換えた物語だ。
そして今作もまた古き良き西部劇の香りが濃厚なのだ。
家族のために、組織的な巨悪に立ち向かう初老の男だ。
過去の罪を引きずりながらも、誰かのために行動する。
長年裏社会で培った行動と状況判断能力、昔の仲間を頼りに逃亡劇を繰り広げる。
プロット自体はシンプルで、強いていえばご都合主義なツッコミどころも少なくないけど、
勧善懲悪じゃなくて、悪が更なる悪を討つという明確で痛快な物語が観客を寸分も飽きさせない。
普遍的な王道の物語っていつの時代でも形を変えて、生き残っていくのだろう。
超はまり役(?)のメル・ギブソンだけでなく、エリン・モリアーナのやんちゃな娘役、
最近「スター・ウォーズ」以降引っ張りだこのディエゴ・ルナの下衆野郎っぷりもイイ感じ。


偏愛度合★★★


「トンネル」と同様に何故か物語の途中で消えてしまった登場人物が気になる。
あるところまで登場していた人物が後半プッツリと消息を断つことがある。
所詮は脇役なので、全体の流れさえ守れば、全てをきっちりフォローする必要性はないが、
時折それがしこりとなり、全体の構成を疑ってしまう齟齬となる。
今回消えたのは前田敦子。
役柄としては酒浸りの綾野剛の恋人役。
素肌に男物Tシャツでパンツまで見せて男性妄想全開(監督の趣味か?)ながらも消え去る。
ある評論家も同様のことが書いていたので、やはり気になる人は気になるのだろう。

別にそのことを追求しようというのではない。
それくらい物語の構成が杜撰なのだ。物語全体が雑なのだ。
脚本自体に、あるいは演出や編集に難があったのかは不明だけど、
似たような回想シーンばかりを何度も繰り返し、然程大きなネタでもないプロットを仰々しく水増しする。
件の前田敦子の役柄も本流からは不要で切り捨てるべきだろうし、
例え本編に残すにしても、印象の薄い匿名性の高い女優を配するべきだろう。
別に前田敦子を偏愛しているわけでないが、
他作品ではそれなりに存在感のある若手女優の無駄遣いは合理的でない。

基本ヤンキーの絶叫での格闘映画だ。
役者に肉体改造を施し、剣道の流儀を叩き込み、
映画的なリアリズムに違和感のないバトルシーンを演じさせる。
ひと昔前、何を考えているかわからない軟弱青年のイメージの綾野剛のムキムキボディには驚いた。
格闘シーンもカットを細かく割って誤魔化す手法ではなく、
ここぞとばかりに長回しで一連の動きを捉える演出は、それなりに迫力がある。
しかし物語の背景となる父と息子の確執の回想シーンが延々と繰り返されるのは正直クドイ。
綾野剛に高校生を演じさせるのも力技さだし、使いまわしたような似たようなシーンばかりが並ぶ。
絵にかいたような酔っ払いのくどい演技もtちょっと興ざめ気味だ。
そこに村上虹郎演じるかつての自分を投影した第三者が現われる。
彼は河瀨直美という出目故に毛嫌いしていた二世俳優だけど、
最近は親の七光りに留まらない、懸命さが感じられ、だいぶんと抵抗がなくなって来た。
但し、そこでも意味もなくひたすら闘う。
ギャー、ギャー、チャンチャン、バラバラという絶叫の闘いが延々と続く。
それなりにつくり込んであるので、ちゃちいのではないが、闘いとか勝ち負け自体が大嫌いなのだ。
ヤンキー感は更に親子、師匠、同輩など体育会系の上下関係で支配される関係性に及ぶ。
マイタウン愛(舞台は鎌倉)もまたヤンキー脳に顕著な傾向だ。
残念ながら、たかが映画であっても、
ぬぐえないヤンキー臭には耐えられない性分故に途中で投げ出したくなった。

偏愛度合★★★

何とこの手があったとは!!

アメコミ映画には然程興味がなく、更には「X-MEN」シリーズに至ってはシリーズを追うごとの
質低下と更にはそれをなかったことにして過去からの力技での仕切り直しにはうんざり。
ローガン(ウルヴァリン)のスピンオフも同様だ。
期待値ゼロだったけど、どうも世間が「ローガンが老眼」とオヤジギャグを執拗に繰り返し、騒がしい。
仕方がなく、劇場で開封して、びっくり!
アメコミ世界へのメタな一発ネタな怪作だったぞ。
最初の「X-MEN」から17年間に渡って、同じ役を演じてきたヒュー・ジャックマン。
当然その分だけ役者自身も加齢しているに加え、
近未来が舞台ということで、もう見るからにヨレヨレのカギ爪のおじいちゃん。思わず苦笑。
そこはミュータント自体がほぼ絶滅した世界であり、、無敵だった治癒能力も衰え、
老いた生身の人間として老眼鏡が手放せない、枯れすすきのような元ヒーロー像には驚愕する。
自殺衝動も心の奥底に抱き、死と向き合いながら絶望感と日々を過ごす。
このおじいちゃんが更によれよれでやせ細った薬漬けのボケ老人と化したプロフェッサーXと
まるで世捨て人の様にメキシコ国境付近で暮らしているのだ。
滅びゆく者たちの寂寥感というか、ぬぐいきれない悲壮感が半端ない。
劇中に少女が愛読していると負いう設定で「X-MEN」のコミックブックを登場させ、

「実話を元にしているけど、現実の話じゃない。現実では人は傷つく」

とアメコミ世界額を否定するメタな台詞を重ねる。
ある意味MARVER社のこの設定の脚本、作風の承認という「攻め」にも驚くばかりだ。
二大巨頭から連発されるアメコミワールドで、一度しか使えない禁じ手でもある一大一発ネタだ。

死を待つ老人倶楽部に闖入するのが
人間兵器として極秘裏に開発、培養され、逃亡生活をおくるミュータントたちという設定も王道ながら、
滅びる者たちと次世代の者たちが向きい合う相対的な世界観が物語構造を強固なものにする
特に12歳のダフネ・キーンが演じるローガンと
同等かそれ以上の戦闘、治癒力を持つ最後のミュータント新世代が素晴らしい。
役者としてもエキゾチックな顔立ちといい、今後の期待値大。
聖地を求めて逃げる者たち。
微かな希望を求めた巡礼の旅といってもいいだろう。
「シェ-ン」のあからさまな本編、台詞の引用を観ても明らかなように
近未来を舞台にした西部劇を基調としている。
監督のインタビューでは「子連れ狼」なんて引用もあった。
成程そう言われれば、疑似家族的な旅路には納得できるな。
彼らを追う者たちの旅をロードムービー形式で描き、先々で衝突を繰り返す。
多くの血が流れる。
どこまでも容赦なく、執拗な殺戮描写を重ねる。
人を殺すことで背負う罪と死まで付きまとう深い業を描き、
皮肉なことに無残な死を描けば描くほどに、やがて死にゆく者の生きることへの執着が現れる。
アメコミというジャンルを借りた、人間の老いについての映画でもある。
最後には老人は死して屍う拾う者なしとばかりに、次世代へと希望を託して静かに去っていく。
この作品全体を最初から最後まで貫く、
ある意味禅や仏教にも通じる東洋的な無常感こそが、作品の物語を力強くしている。

こんなメタな一発ネタは一度しか使えない。
これでようやく「X-MEN」シリーズも有終の美を飾り、去っていくのかと思えば、
「LOGAN」自体がスピンオフ的な位置づけらしく、相も変わらず、シリーズは延々と続いていくようだ。
あゝ飽くことなき利潤追求がどこまでも続くようだ。
ハリウッドというか、人間ってつくづく業の深い、貪欲な生き物だった。


偏愛度合★★★★


文字通りの山師の話だけど、騙して、騙されるコンゲーム的な駆け引きは希薄。
実話がベースで、宣伝で「一晩で消えた170億ドルの金塊」と仰々しく煽られる割には肩すかし。
「全てが逆転するラスト10秒」もシャマラン作品じゃないんだから、誇大宣伝だな。
インドネシアで掘り当てた金脈を巡り銀行に投資家とハイエナどもが我先と漁るマネーゲーム。
金塊にロマンを求めていると、展開自体がどうにも生臭くって、
拝金主義な飽くことなき利益追求と山師同士の粘着質な駆け引きばかり。
結局マシュー・マコノヒーの禿げ頭とメタボ腹という肉体改造しか印象に残らない。
彼とエドガー・ラミレスとの男同士の濃ゆい関係性が主軸となる。
ここに感情移入できるかが、作品に伸るか反るかの分かれ目。
だってブライス・ダラス・ハワードには感情移入しようがないだろ。
どちらかというと、金塊の行方よりも、鑑賞して然程時間が経っていないにも関わらず、
ほとんど中身を覚えていないこの映画の消えた記憶の方が気になる。

偏愛度合★★★

これははまった。
ワンカット、ワンカットの全てが愛おしく、
物語が醸し出す時間がいつまでも終わらずに、永遠に続いて欲しいと願う。
映画を観続けていると、毎年1本か、2本かそんな作品がある。
昨年なら「キャロル」なんかがその類だ。
冷静な解釈や分析よりも、もうただひたすら好きなんだから仕方がないという感じ。参ったよ。

家族および擬似家族の世代を越えた私的でミニマルで美しい記憶の断片が横たわる。
そこには何となくジョン・アービングの風味を感じた。
彼ほどシニカルで悲劇的な側面はないが、私的で些末な出来事の描写を積み重ねながらも、
同時に時間と場所を越え、俯瞰的な物語の視点での語り口がある。
サンリンジャーからカート・ボネガット、リチャード・ブローティガン、
ジョン・アービングへと連なる個人的に偏愛するアメリカ文学の流れに近い空気感がある。
マイク・ミルズ自身の母と周囲の女性たちの記憶を再構成した自伝的なある少年のビルドゥングスロマン
のはずが、いつのまにか女性への賛歌と憧憬、不可解さへと逸脱して、
タイトル通りの20世紀に生きた女性たちの年代記(クロニクル)となっている。
普通ならば、主人公である少年の一人称的な視点での展開が定石だろう。
でも彼の記憶を通して定点観察しているはずの女性たちの視点へと突如移行し、
一人称のモノローグで未来から過去の自分を振り返るなど、
時系列通りに過去を再構築するのではなく、行ったり来たりの奇妙な浮遊感でゆらぐ視点が素晴らしい。
例え男性であっても、視点にそのまま身を任せていると、過去から未来へと揺れ動く女性となり、
監督のインタビューでの言葉では「ポリフォニック」と説明しているが、
男性でも女性でも、物語を通して多層的な人格と時間の旅を楽しむことが出来るのだ。
男性監督(脚本)だけど、フェミニズムの視点を描く。
当たり前だけど、自分はどうしても男性視点という呪縛から逃れることが出来ない。
果たしてミルズ監督の男性と女性の間を自由自在に彷徨う視点が女性から見て、
フェミニズム的にどの程度整合性があるのかが知りたいものだ。

この作品において、配役こそが根幹だ。
完璧な配置とアンサンブルとなっていると断言できる。
少年の移ろいやすい視線、アネット・ベニングのいい感じの枯れ具合と男っぷり、
堕天使エル・ファニングの怪しい輝きといい全てが文句なしなのだ。
他作ではダメ女専科のグレタ・ガーウィグのパンク女子も本当に見事なはまりっぷりだ。
何気なく耳に入ってくる台詞と音楽に秘められたメッセージは奥深く、
一度の鑑賞では情報処理できずに、何度も繰り返し観たくなるに違いない。
すぐれた物語は繰り返しての体験に堪えうる強度を持つのだ。
思わずパンフレットを買てしまったので、執筆者の私的な読み込みを比べて楽しむこともできる。

劇中でアビーがミックステープをジェイミーに手渡す。

   10代の頃に、 聞いていたら楽になれたと思う曲ばかり だから
   今、聴いてくれれば 私よりずっと幸せで目覚めた人になれるわ

実はこの台詞って奥深い。
監督のマイク・ミルズとは同い年。
でも自分が15歳の時に彼方のパンクを知らなかった。
多分デヴィッド・ボゥイもトーキングヘッズもクラッシュも聴いたのは20歳を結構過ぎてから。
同じ音楽を聴くのでも、リアルタイムと後追いというタイムラグの持つ意味合いは大きい。
音楽でも、映画でも現在進行形で進んでいる何かに
夢中になることって、その瞬間にしか味わえない特別なサムシングがあるのだ。
同い年だけど、このタイムラグ故に、とっても羨ましく、とっても悔しい。
その瞬間の何かを追いかけることって、主人公のあの年代(15歳)では大きな意味がある。
年を重ねての偉大なアーカイブたちを振り返る懐古主義もそれなりには悪くはないけど、
確かに系統的な後追いは圧倒的な生々しさには勝てない。
悲しいことに、個人的には舞台となる1979年という年を殆ど記憶してない。
中学生だったが、インベーダーゲームにウォークマン、「機動戦士ガンダム」に「ドラえもん」、
「銀河鉄道999」と並べれば何となくは思い出すけど、とりわけ印象が深い年ではない。
実際の私的な記憶に「もし」はありえないけど、
この作品の物語を通して体験できなかった記憶も生々しく感じることができるのだ。
これもまたすぐれた物語の持つ根源的なパワーのひとつだ。

偏愛度合★★★★★