特殊なジャンル映画なのでどうしても観客を選ぶが、
ワンアイディアを閉鎖空間で演出とカメラで巧みに語る傑作。
これはその筋の人なら劇場で手を打って歓喜する、掘り出し物と言ってもいいだろう。
実はアンドレ・ウーヴレダル監督の前作「トロール・ハンター」も傑作。
トロールという北欧の伝説の生き物を追うフェイクドキュメンタリー形式の作品だ。
今後彼はアメコミや大作ジャンル映画の雇われ監督としてハリウッドに引き抜かれるかも知れない。

ジャンル的にはホラー映画に属するのだろうが、基本となるのは法医学という合理主義だ。
事件性や死因究明のために、警察の依頼で死体解剖を担う一家が主人公。
外部から内部に至るまで目に見える物理的な症例で判断する合理主義を貫く。
本来スーパーナチュラルなホラーとは相反するもの。
この合理主義が段々と呪々なマジックリアリズムへと転じていくの過程を描くのだ。

主人公は三世代に渡り死体の解剖と焼却を行う親子。
といっても病院や警察といった大施設ではなく、田舎町の個人宅の地下室を作業場としている。
まずはこの舞台設定が秀逸。
前半までに、この閉鎖空間の説明を積み重ねる。
地下の作業場へは階段ではなくエレベーターのみの移動であり、
外部と通じているのは非常口として設けられた庭先に突き出た観音開きの換気口だ。
地下は通路が入り組み、曲がり角にはカーブミラーがある。
後半に伏線として活かされる空間設定をごく自然に描く。逃げ場のない密室的な構造なのだ。
更には父と息子の二人のみという絞り込んだキャラクター設定が活かされている。
ジャンル的にありがちな恐怖で泣き叫ぶ女子や欲情したバカ男子などは登場しない。
あくまでも専門医として、合理的な状況判断をする。

舞台と主人公が揃った。
前半で張った伏線を回収しつつ、思わぬ方向へと転じていく。
「セブン」でケヴィン・スペイシーが演じたのはジョン・ドゥだけど、
こちらは殺人現場の地下で発見された身元不明の美しき死体ジェーン・ドゥ。
当然「ツインピークス」のローラ・パーマーが過るぞ。
解剖ルーチン通りに、外部損傷を確認しながら、その後切り開いて各部位の検証を行う。
この作品で何よりも注目すべき点は最後まで、この死体が動かない死体のままあり続けること。
誰が見ても怪しげで何かしでかしそうな状況(だってジャンル映画だ)なのに、
解剖結果は異常であっても、観客の期待を裏切り、単なる動かぬ物体としあり続ける。
下手な作品ならば、怪異の要因となる存在(大概は悪魔や悪霊)をあからさまに見せてしまう。
実は見せることよりも、見せないことの方が効果的で、より観客の不安感を煽る。
変化が訪れるのは、周囲の状況のみだ。
悪天候、電気系統の不調、ラジオのノイズ、物音、影などが積み重ねて、
息子の恋人が脇役として登場するが、基本は初老と青年という親子のむさ苦しい主人公たちだ。
やがて二人は逃げ場を失い密室と化した地下室に閉じ込められる。
合理判断で活路を見出そうとするが、様々な抵抗が遭遇して、
徐々にリアリズムがマッジクリアリズムへと転じていくのがこの映画の最大の見せ場となる。
演出とカメラワークだけで、観客を釘付けにする。
驚愕のというと仰々しいが、
お決まりに最後で提示されるオチによって頭尾が繋がる物語の構造といい万歳三唱したくなる傑作。
その筋の人は見逃してはならない。

偏愛度合★★★★

全く乗り切れず。
「桐島、部活やめるってよ」の吉田大八監督ということで期待値大だったけど、結局空振り三振。
そもそも火星人、金星人、水星人という設定自体が現代を舞台にしても生々しさがない。
三島由紀夫の原作は未読だけど、当時の時代背景では宇宙人に特異な寓話性があっても、
空想が現実を先行する現代においては、低予算のCGを駆使した中途半端なSF映画擬きは
陳腐さが否めず、ファンタジーにも、アイロニーにも感じられず、
今更21世紀に矢追純一じゃないんだから。
最大の失策はリリー・フランキーの使用法を誤っていること。
昨今、邦画界で引っ張りだこで、本職を忘れるくらいに役者仕事に従事している。
ただ彼の存在は香辛料なのだ。
作品という料理を作る時、メインの食材や調理手法をより効果的に活かすピリッとした刺激物なのだ。
いやいや香辛料をメイン素材にしちゃだけだよ。
到底食えたものではない。
元々テクニカルな演技力を持つわけでもなく、役柄になり切る変貌力があるわけでもない、
素なのか演技なのかが不明な得体の知れないある種の異物感が彼の持ち味だ。
だから邦画界は彼を香辛料として配して、全体を引き締め、まとめ上げることを何度も繰り返してきた。
でも香辛料自体に主役を張らすと危険だ。
更には橋本愛、中嶋朋子、佐々木蔵之介といった芸達者な面子が周囲を固めているだけに、
より稚拙さが露呈してしまっている。
ちなみに橋本愛の整った容姿で無表情な暴走ぶりは素晴らしい。
彼女の演じる役の奇妙な違和感こそ、これまでリリーが得意としてきたところだ。
また「桐島」での見事な多層的な語り口もない。
役者同士の有機的な反応である丁々発止のやりとりも引き出せていない。
群像劇的に複数視点を交錯させているけど、単に無造作に好き勝手に並べているだけの印象だ。
原作の(時代背景特有の)核戦争の緊迫感を地球温暖化へと置き換えているけど、
やっぱり生ぬるく、地球連合だの、人類滅亡など煽られても切迫感は皆無。
そしてこれだけいろいろとネタを仕込みながらも、全くピクリとも笑えないという難儀な出来具合。
皮肉な寓話というより、ここまで笑えない皮肉さに苦笑する。

偏愛度合★★

宣伝によると

「ティッシュ会社の株価が上がるほどに観客は泣くに違いない」

らしいが、
泣くとか泣かない以前に、これほどまでに空虚なラブストーリーも珍しい。
正直言って見るべきものは艶やかな主演ふたりのみなのだ。
確かに実生活でもカップルである、現在最も旬な美男、美女ふたりには惚れ惚れする。
密かに交わす甘い視線はまるで古典映画のようだ。
あと付け加えるなら、
孤島の灯台という絶景と年を重ねて益々美しきレイチェル・ワイズくらい。
でも、それしかない。
それくらい空っぽな物語だ。
世界的なベストセラーかも知れないが、
陳腐な設定とご都合主義的な展開の通俗的で安っぽいラブロマンスに過ぎない。
「ブルーバレンタイン」という超ド級に後味が悪いけど、愛の現実感を生々しくもリアルに描いた
デレク・フランシス監督という期待もあったが、見事に肩透かしだった。
女性なら男前を、男性なら美女を心ゆくまで眺めるのも
映画の醍醐味のひとつではあるけど、それしかないのにも困ったものだ。
「愛」「感動」「涙」「胸が張り裂ける」「涙腺」「心の洗浄」と決まり文句がこれでもかと並ぶチラシだけど、
宣伝の様に本当に涙した人ってどのくらいいるのだろうか?
あゝ無情。

偏愛度合★★

河瀨直美が嫌いである。
神経をイラっとさせる容姿と類まれに悪趣味なファションセンスと
それに反した作品から言動まであからさまな「ワタシ、ワタシ、ワタシ」と自己主張の激しい
自意識の垂れ流しが、関西弁で言うところの「さぶいぼ」が出るほどに苦手なのである。
三島有紀子と荻上直子と合わせて決して映画を撮らすべきでない三大女性監督と断言しても良い。

垂れ流しされる自意識そのものを否定しているわけではない。
自意識を垂れ流すこと、すなわち生きることであり、「我思う故に我あり」の通り、自意識こそが、
その人をその人たらしめているレーゾンデートルなのだ。
巧みな表現者は、その自意識を「あれは自分のことを描いている」「ある、あるよね」と
まるで他者のことを自分自身の物語であるかのように擬装、普遍化させる手腕がある。
これこそモノをつくる人の根幹だ。
失敗すると「馬の合わんオバハンが何やまたギャーギャー言うて、御託垂れ流しとるわ~」となる。
いきなり身も蓋もないディスリスペクトで始めてしまったが、当人を憎むのはさておき、
作品に関してはちゃんと身銭を切り、観てから文句を言うべきなのが、観客の通せる唯一の筋だ。

さて本題。
結論から言えば今回に関しては肯定派。
きっと西川美和が同じ題材で、彼女の自意識で撮っていれば大絶賛しただろう。
視力を失いつつある写真家と視覚障碍者への映画の音声ガイドという仕事をリンクさせた設定が秀逸。
映画という視覚メディアで映像を失うことを映像で表現すること、
同じく映像を見ることが出来ない映画を言葉で表現して、伝えるという一見矛盾したメタな二重構造だ。
失ったものを別の何かで埋め合わせるという過程が共通している。
うざった見方をすれば、カンヌ映画祭のご贔屓監督としては、
作品を通じて映画そのものの在り方を問い、賞狙いに賭けたと言えなくもないけどね。

まずは百々新の撮影が素晴らしい。
視力を失うという過程を観客にも追体験できるようなあえて極端な手法を用いている。
被写界深度の浅い、フォーカスの当たった部分以外の背景画がボケている映像を、
あえて望遠なのに完全にフィックスせずに、不安定に動かす。
正直不安感を煽り、慣れるまでは少々酔うくらいだ。
反対にロングショットに関しては広角の左右幅を活かしたランドスケープを刻む。
またタイトル通りにちょっとあざといくらいに光(特に逆光)を使う。
その場面の背景や主人公の心情と手法を上手く同調させている。
映画の基本は光(ルミエール)であり、光を操って物語を刻むのだ。
それは巧みな撮影者によって、単なるひとコマの連なりが物語として普遍化される。

脚本という言葉を映像化するのが映画制作の基本だ。
出来上がった映画を再び言葉へと還元するという逆に遡った作業が面白い。
実際の脚本執筆の際に相当視覚障碍者への取材を重ねたのだろうか、
本来見えないものを見せるという作業の困難さがちゃんと違和感なく描かれている。
言葉→映像→言葉という一連の流れを一本の映画として見せる切り口は新鮮だ。

配した役者の見事なハマり具合も否定できない。
連投の永瀬正敏の醸す、いい感じの枯れ具合は同い年として嬉しいな。
決して過剰でない、まるで素のままのような朴訥とした演技が素晴らしい。
(これまでの経歴は知らないが)水崎綾女も同様で、
一見かみ合わせが悪い二人が徐々に近づいていく感じの相性は抜群だ。
藤竜也とカメオ出演の樹木希林はやっぱり手堅い。
当たり前だけど、作品は監督のものかも知れないが、演技は役者のものだ。
映画の出来具合は監督が称賛されても良いが、
素晴らしい演技がスクリーンで繰り広げられたらそれは役者の実力と判断すべきだろう。
撮影前から奈良に泊まり込み、主人公の境遇になりきるために合宿することは演出ではない。
ちょっと苦言を添えれば、監督の思い上がりにも程がある。

蛇足だけど、舞台を奈良に設定することは自己都合だけしか感じられない。
映画館が消え、撮影所があるわけでもない一地方都市で
視覚障碍者への音声サポート制作という仕事は到底成り立たないだろう。
自身のプロフィールに「奈良県出身・在住」と書く監督の身勝手にしか思えないぞ。


偏愛度合★★★★


ありふれた現実世界に知らぬうちに異分子が何食わぬ顔で侵入する。
もしSF映画ならば火星から来た蜘蛛であったり、遊星からの物体Xであったりするわけだけど、
この映画の場合、それはポエマーだ。
ごく平凡な普通人のように生活しているけど、同類同士が会話する時、何故か言語がポエムとなる。
原作となっている最果タヒの文語的な散文詩を台詞としてひたすら呟き続ける。
当然、周囲と日常会話とは噛み合わない二人だけの世界だ。
逆に舞台となる風景や二人以外の登場人物は現代の東京社会をリアルに描く。
それはハイソサエティではなく、どちらかと言えば、社会の底辺に属したダークな現実だ。
エアコン代を払えず熱中症で孤独死する身寄りのない老人、
職を失い腰を痛めながらも肉体労働に従事する中年男、突然死の青年など決して幸福ではなく、
どん詰まりの閉塞感とぬぐいきれない死の臭いと共に日々を生き抜いている者たちだ。
ただ単純に現代社会の闇としてネガティヴに描いているわけではなく、
安易に物語上の救いや癒しを投げかけることもなく、
ありのままを見つめる視線は冷めてはいるけど、何処かやさしげでもある。
またタイトルのようにブルーを基調とした夜の東京の風景も見事だ。
劇場の外にひろがる観客の現実と地続きの世界として違和感なく緻密に描く。
このリアルな舞台とのギャップ故に、二人の交わされるポエティックな言葉が宙が浮遊する。
そこに馴染めない者同士だけが言葉を通じて緩やかに繋がるのだ。
実はこへんてこな物語構造が,妙に心地よいのだ。
物語のない断片的な言葉の連なりである詩を
起承転結のある映画の物語の原作として再構築する手法としては斬新。

何よりも石橋静河が素晴らしい。
石橋凌と原田美枝子の娘らしいが、
決してシンメトリカルで美人すぎない、絶妙に崩れたバランスの容姿は個人的にはツボの顔立ち。
昔の市川実日子に似た顔つきとた空気感、
そして独特の棒読みの様な朴訥な台詞回しと顔と思ってたら本人が回想での母役で登場した。
池松壮亮もまた、いつものボソボソ喋りな台詞回しが役柄にしっくりくる。
今回はお馴染みの脱ぎと腰振り、女こまし術は封印して、人の好いストイックな青年を好演している。
このポエマー二人の会話の空気感が何とも濃密なのだ。
まるでエイリアン同士が地球人には判読できない電波でコミュニケーションしているかのようだ。
ちなみに個人的にはポエムとポエマーを嫌悪している。
詩作を読んでも染み入るように理解できたことは一度もない。
大概は垂れ流しされる自意識が居心地悪いのだ。
だからこそ詩集の映画化と知って、一抹の不安を抱いていたが、
生身の役者に台詞として語らせるという、演劇や舞台にも通じる手法で違和感なく克服できる。
これはアンチポエマーでも大丈夫な画期的なポエム映画だ。


偏愛度合★★★★

何故か物語の途中で消えてしまった登場人物が気になる。
先日も「武曲」という映画でもそうだったが、ストーリー運びの結果、
あるところまで登場していた脇の人物がプッツリと消息を断つことがある。
勿論所詮は脇役なので、全体の流れさえ守れば、全てをきっちりフォローする必要性はない。
でも観客に略した、省いたその部分に気付かさせるのは、厳しく言えば失策だ。
脚本上あるいは編集上での齟齬であり、構成ミスと言ってもいいだろう。
時として瑣末な部分のミストーンノイズが作品全体のノイズとなり、バランスを崩しかねない。
基本的なストーリーはトンネルの内部の崩落により中間部分に車で閉じ込められた主人公の
サバイバル劇というワンシチュエーションのパニック映画だ。
短時間でミニマムな密室劇として絞り込む手法もあったのだろうが、娯楽作品として風呂敷をひろげ、
駆けつけたレスキュー隊のキャラクター描写、安否を気遣う家族の心中という定石から、
果てはトンネル建設を担った自治体の手抜き工事やら、
国民の生命の重さと国家事業との優先順位など背景となる社会まで長期戦で大きく話を展開させる。
社会背景には現政権への揶揄も含まれているのだろうか?
そんな劇中で消えた件の人物とは、閉じ込められたもう一台の車中で動けない若い女性だ。
レスキュー隊と主人公のやりとりに手詰まり感が出た頃、
観客を飽きさせずにここで起承転結とばかりに彼女が発見される。
やがて動けないまま彼女は死亡するのだが、携帯での母への連絡や飲料水と食料の分担、
シリアスな作風のコメディリリーフとも言うべき飼犬を割と細かく時間を割かれているのに、
死亡以降ぷっつりと描写が消える。
ラストの救出時にも犬は延々と描くのに、肝心の飼主である彼女には一切触れられない。
映画を終えてまず思ったのが「えええええ、彼女はいったい何処へ?」という疑問。
確かにどうでもいいけどそれが気になって仕方がないのだ。

いきなり執拗な突っ込みに始終してしまったが、作品自体が決して退屈な訳ではない。
アメリカ製ディザスタームービーが教科書とばかりに、コリヤン風味に味付けて、不屈の主人公、
家族、犬、果敢なレスキュー隊のプロフェショナリズムとあの手この手を駆使して、
観客を飽きさせない王道演出を繰り広げる。
何よりも私的に偏愛するペ・ドゥナさまが拝めるのだ。
設定上、登場時間が少ないのは仕方がないけど、
元々スタイル抜群で日常生活が不可能なハイファションも似合うけど、
主婦のありあわせの普段着なファストファションも全然違和感がない幅広さ。アジアの至宝だ。
男前ハ・ジョンウは途中からは暗闇で泥まみれとなるけど、巧みなひとり芝居で手堅く惹きつける。
細部の不整合と些か全体的に盛り過ぎた感もあるけど、
演出力にパワーがあるので十分に楽しめる娯楽作品だ。


偏愛度合★★★

湯浅政明監督は前作「夜は短し歩けよ乙女」で初めて体験したけど、
カルチャーショックとも言えるくらいに、アニメ的な簡略化されたデザイン、
変形や疾走感など極端に誇張された描写力には参った。
熱烈なファンがいるのもわかる、特異な作家性のあるアニメーション監督だ。
まだまだこれまでの作品を追えていないが、とりあえず新作ということで

確かに斉藤和義の「歌うたいのバラッド」は素通りだし、ポニョは苦手な宮崎駿作品だし、
心を閉ざした少年にも、音楽に捧げた青春にも、地方都市の閉塞感にも
個人的には無縁なので、その意味では実は物語世界には置き所がない。
では作品自体が退屈なのかと言えば、正反対で、設定の持つ共感性よりも、
作画(絵)の持つ物語の語り口と躍動感が半端なく、目が離せない。
パソコンや携帯、アンプや楽器、舞台となるランドスケープの位置関係などディテールは
リアルだけど、線画自体は極端に簡略し、戯画化するという相反するものの両立がお見事。
カラフルな色使いも素晴らしく、省略と緻密さと過剰さという絶妙のバランス感がある。
更には歌、楽器など音楽が奏でるというビート感が加わり、
時としてある種の酩酊感というかトリップ感を醸す。全く癖になる酔いだな。
やはりこの監督凄いわ。
引き続き、フィルモグラフィーを追っていくことにする。

偏愛度合★★★

十年ほど前、イタリアへ旅行へ出かけた時、夜ホテルでテレビを付けたら、
そこにいたのはは何処かで見たことがるミツバチのアニメだった。
「昆虫物語 みなしごハッチ」だ。
日本人が思っている以上に、ヨーロッパなど海外で日本のアニメが放映されているみたい。
そして「鋼鉄ジーグ」だ。
監督の溢れんばかりのジーグ愛に満ちている。それは否定できない。
イタリアではテレビ放映で夢中になった世代が大人になってもジーグを忘れないらしい。
確かに自分もその世代にあたり、放映は勿論、関節部分が球状の磁石となった
超合金の玩具も持っていたが、流石に主人公やその物語の詳細は殆ど忘れてしまった。

しかし。
出来上がった作品は何故か「悪魔の毒々鋼鉄ジーグ」だった。
あゝ何ということ!
件の「悪魔の毒々モンスター」はひ弱ないじめられっ子が
有毒廃棄物が入ったドラム缶に飛び込み、何故か化学反応によって、
醜悪なモンスターへと変身を遂げ、やがて悪が蔓延る街で正義のために
悪と闘うヒーローとなるというB級モンスター映画。
ヒロインが盲目じゃないけど、頭のネジの緩んだ美女だというのもちょっと似ている。
キャラ設定とプロットをそのまま借り、 何故か強引に大好きなジーグと結びつける。
そもそも主人公をジーグと呼んでいるのはアニメのDVDに夢中のヒロインで、
怪力と再生パワーはあるけど、直接的設定は全く関係はないのだ。
冒頭、腹の出たオッサンの日々が続きなかなか肝心のジーグにたどりつかない。
でもうだうだの末、日本語で邦題と同名のタイトルが
ドーンとスクリーンいっぱいに踊るとちょっと歓喜するぞ
更には「ダークナイト」のジョーカー擬きの歌謡曲を歌うサイコパスの悪役をミックスするなど、
通常なら90分尺程度の一発ネタ痛快モンスターアクションのはずが、
あれもこれも足して、盛り込み過ぎ、やり過ぎ感いっぱいなのだ。
ちょうど相手との間合いと沈黙が耐えられなくなって、
とりあえず知っていることをベラベラとひたすら喋り続けるオタクのようだ。
全体的にはプロットは脱線と無駄が多く、些か破綻気味。
勧善懲悪のヒーローもののようで、スーパーパワーを身につけた主人公が
最初にやるのがATM泥棒だというチグハグなハズし方には苦笑するしかない。
でも愛がありきの過剰なサービス精神が溢れ、決して憎みきれない。
挙句の果て、ジーグといい、サイコな悪役といい作り手の愛故に
キャラがひとりで立って歩き始めるのだろうか、死んだかと見せて
実は……が執拗に繰り返される。
もう付き合うしか仕方がないけど困った展開だ。
ハイ、ハイ「鋼鉄ジーグ」が好きなのはわかりましたよ。

偏愛度合★★★

「アルゴ」に続くベン・アフレックが出演、脚本、監督と渾身のオレ様映画だけど、
おいしいところは脇のエル・ファニング持っていかれた感じ。
無垢な良家のお嬢さんが映画界を目指し、ロスへ向かい、麻薬と性のまみれて堕ちていく。
その後、神をへの信仰を唯一の糧として布教へと講じる。
壇上から罪と罰、救済を高らかに叫ぶ教祖さまとしての姿が強烈だ。
エル・ファニングの昨今の作品選択って意図的な堕天使感がある。
この年齢が放つ、一瞬しかない輝きと真っ白な容姿を逆手にとって、常に堕ちていく女ばかり。
例えば今作以外にも「ネオンデーモン」「20センチュリー・ウーマン」など。
輝きがやがて消え去ることを知っていて、その儚い瞬間を刻むこむかのような衝動を感じる。
眩いばかりに姿は手慣れの名優たちの熱演も食ってしまう。
更にはこの物語の根幹こそは、良き者が堕ちていく様であり、
堕ちながらも何とかその先で生き抜こうとする人の生々しい足掻きであり、
ちょうどエル・ファニングの演じたキャラクターと共鳴して、圧倒的な印象を放つ。
デニス・ルヘインの原作は未読だが、第一次世界大戦後の禁酒法の時代という設定が基調となる。
ロストジェネレーションと呼ばれる世代だ。
冒頭のモノローグで語られる通り、大戦で多くの死者を目の当たりにして、
善であることへの失望感、虚無感、諦観に囚われ、善悪の彼岸を越え、
日々を生き抜くために己だけを信じて行動する主人公ジョーの生き様と重なる。
アフレック特有の表立った感情表現の乏しい、平坦で朴訥な無表情演技(?)がピッタリだ。
知れた仲間内のみで行動し、
組織に属さない一匹狼を望みながらも、やがては対立する組織間に揉まれていく。
イタリア系とアイリッシュ系というギャング映画お馴染みの構造だけど、南部の辺境地へと
河岸を変え、あの手この手で巧みに立ち回る姿はフォルムノワール感いっぱいだ。
語り口は割と事実関係を細部にまで丁寧に追うが、淡々としている。
外連味に満ちた仰々しいアクション連発という感じではない。
虚無感に囚われながらも、愛情や希望を捨てきれない主人公がいる。
カジノ絡みのエル・ファニングの役柄への甘さや直接の殺しを避けたがるなど
どこか矛盾を持て余す善でも悪でもない主人公像がリアルだ。
やがてたどり着くラストのホテルを舞台とした銃撃戦は見事でアガル。
描写が淡々としているだけに痛々しさが巧い。
また物語全体の構造があの時代を生き抜いた、俯瞰的な人生譚となっている。
まさに夜に生きた者の物語だ。

偏愛度合★★★


※結論にふれるネタバレがあります。取扱いにはご注意ください。

前項「潜入者」の通り、古今東西の映画で繰り返される「記憶喪失」「多重人格」「潜入捜査」設定。
今回の多重人格もまさしく、主題は自己アイデンティティの喪失、分裂、変化であり、
第三者として物語を観察する観客を同調させて、欺き、意図する方向へと導く王道手法なのだ。
またひとりの役者複数の別人格を演じ分けるということ自体も映画、演劇的な根幹だ。
ただ余りにも映画的で今更ながら使い古された手法である故に
どうしても陳腐で月並みな展開へと陥る可能性が高い。
その点はシャマラン監督も自覚していたような気がする。
ましてや観客から毎度毎度大どんでん返しをお決まりのように求められる特異な監督だ。
「今回は何とどんでん返しがないというどんでん返しだ」と冗談のように揶揄される監督だから。
だから多重人格ものとしての展開そのものに、予想外で前代未聞の手法(それは相当困難だろう)
を折りこむのではなく、割とオーソドックスなサスペンス演出に徹している。
観客の期待い応えるために、
意図的に付け加えられたどんでん返しのためのどんでん返しが「アンブレイカブル」ネタなのだ。
そもそも実は2000年公開の映画の続編で次回作と併せて三部作を為すと
唐突に示されても違和感意外なにもない。
ブルースリ・ウィリスの同じ役柄設定での再登場も同様に力技すぎる。
何せ十数年も前の作品なので、幅広い観客層を考えれば、
いったい何割が理解できた怪しく、もちろんネタバレ禁止なので予習もできないので、
一部の身内受けのギャグでお茶を濁す感じも否めない。
個人的には、その取って付けたようなオチにはやはり否定的。

肝心の本編は割と想定内。
芸達者なジェームズ・マカヴォイが如何に23人を演じ分けるのかと期待していたら、
劇中で登場する人格は数人に過ぎず、肩すかしだったけど、
ヒロインのアニヤ・テイラー=ジョイは今後の価値う役が期待できそうな目力のある女優だ。
拉致した者と拉致された者という明確な善悪の線引きがくずれ、同調していく展開、
その先にあるラスボス的な存在など決して飽きさせはしない。
「ヴィジット」のよう細かい伏線や小技を駆使した、閉鎖空間でのアクション演出。
特異なキャラクター描写などに始終していたらとふと思ってしまう。


偏愛度合★★★