古今東西の映画で繰り返される設定といえば「記憶喪失」「多重人格」、そして「潜入捜査」だろう。
でも現実世界の身の回り、あるいは友達の友達(Friend of Friend)などで
実際に遭遇することはまずない、如何にも映画的な物語としての設定ということだろう。
どれも共通するのが自己アイデンティティの喪失、分裂、変化であり、
視点となる人物設定に観客を同調させて、物語の展開へと導く王道手法なのだ。
本人の手記という実話がベースだけど、映画的な起承転結展開で再構成された物語性が強い作品。

コロンビアの麻薬組織を撲滅するために、架空の大富豪を装い取引を持ち掛ける。
捜査官自身が麻薬バイヤーを装うというP.K.ディック「暗闇のスキャナー」を思い出す。
殆どひとり芝居で物語を引っ張るブライアン・クランストンが巧い。
「トランボ」で初めて知った役者だけど、割と地味な風貌で強烈な個性は薄いけど、
自然と役柄に溶け込み、なり切ってしまうカメレオン系。
役者もまた自分とは異なる何かを演じるということが職性なので、
富豪を装う捜査官を演じるという役者という演技を演じる二重構造が面白い。
彼のなり切った地味なその辺にいそうな富豪オヤジ具合と、
逆に灰汁の強いジョン・レグイザモ、華やかなダイアン・クルーガーとの対比が活かされている。
後半はお決まりの展開が待っている。
演じることを突き詰めれば自己本来のアイデンティティが喪失することに繋がる。
捜査官であることと、信頼された友人としての取引相手は矛盾を生じさせる。
正義も信念も相対的な基準に過ぎないので、自己の中で普遍の対極として整理できない。
最終的には、ある立場からみた、本来の目的を達成したハッピーエンドへとなだれ込んでいく。
流石に実話ベースなのでディック的な現実崩壊とアイデンティティ喪失はなく、
現実的ではある分、ひりひりとした緊張感は薄く、仕方がないけど生ぬるい結論でもある。

しかしこの設定はまだまだ個人情報が牧歌的な80年代だから、成立したものだろう。
ネットやSNS、公的機関による監視カメラの記録が当たり前になって、
テクノロジーによる個人情報がダダ漏れの時代に物語を成立させるのが困難な時代にもなった。
ひょっとして時事なリアルタイムでの潜入捜査モノって消える運命かも知れない。


偏愛度合★★★

このシリーズが一部に人気なのは理解できる。

◎古典的なスペースオペラを現代風にアップデート
◎宇宙を舞台にしたシリアス過ぎない軽いコメディタッチ
◎カラフルな色使い
◎ベタな産業ロックを歌詞を物語に絡めた巧みな再生使用
◎カセットテープなどガジェット、美術、衣装などの面白さ
◎個々のキャラクターの明確な設定とその疑似家族的な集団一体感

など、ファンを刺激する絶妙なツボがあるのだろう。
今作も余計なキャラクター説明が不要なため、一気呵成に物語へと導入でき、
前作のお決まりを繰り返しながらも、その関係性や物語背景を更に深堀りする点では正しい続編だろう。

でも何故かそれ程には乗れない。

前作も今作も同じく、普通には楽しんだけど、
劇場を出ればそれっきりで、繰り返して楽しんだり、溺愛、偏愛する感じではない。
多分これは映画に求めている私的な感覚の違い、相性の問題なので、
決して作品自体を否定することではない。
お馴染みのメンバーに加えて、
シルベスター・スタローンのゲスト参加に、最近公開が相次ぐ復活カート・ラッセルを配して、
歴史への干渉を試みる巨大脳髄なんかは「お前はマモーか!」というツッコミで楽しんだ。
でもやっぱりそれっきりなんだよな。
まあ、これからもシリーズは続いていくんだろうし、
別に拒否せずに、それなりには付き合っていくだろうけど、それはそれで。


偏愛度合★★★

現実世界の人生においては、その瞬間を境に前後で大きく人生がかわってしまう一日がある。
その多くは人の死にまつわることだ。
生きている者にとって、死は圧倒的な力を持ち、相手かまわなく容赦なくのしかかってくる。
例えば肉親、近親者や友人などの予期しない突然の死はそれ以前とそれ以降が人生の分岐となりうる。
これまで余り公に語っては来なかった極々私的な話となるが、
30年ほど前、19歳の弟を交通事故で亡くした。バイク事故だ。それは5月12日のこと。
毎年のこの時期になるとそのことについて思いを巡らす。
途轍もない悲しみ、誰か(仮想的な責任所在者)を口汚くののしりたくなる怒りや
信仰的への断絶と人生への諦観など。
兄ですらそうなのだから、実の息子を失った両親にとっての悲しみは想像を超えるものだ。
ちなみにうちも男ばかりで、真ん中の欠けた三人兄弟だった。
劇中の兄と弟という関係性も理解できる。

同様にこの映画の主題とも言うべき、ある一日を境に人生が変わった主人公には大きく共感できるし、
それを役者として、同一人物でありながら、表情や目の輝きや視線、動き、言葉使いなど、
全く印象が異なる前後を巧みに演じ分けたケイシー・アフレックの功績は大きい。
オスカー主演男優賞賞にも頷ける。
元妻役のミシェル・ウィリアムスもまた、登場シーンこそ少ないながらも、
芯からの薄幸系女優の独壇場ともいうべき元夫との再会を生々しくも、痛々しく体現する。
更にこの作品が特異で良心的なのは、安易な救いや癒しを誰にも与えないことだ。
アメリカ映画にしては珍しく宗教(キリスト教)との関わりが希薄だ。
神への祈りや告解や赦し、御言葉に天国といった、ありがちで悪く言えば他力本願な救済はない。
一度変わってしまったものは決して元には戻らない。
そして絶対にその日のことを忘れることはない。
そのうえで、一日、一日を何とか折り合いをつけ続けるしかない。
主人公を生まれ育った街を離れ、微妙な距離感を保ちながらも、
困窮しない程度に働きながらも、将来への希望も展望もなく日々を自堕落に過ごしている。
その事件で一番責任所在者に近い存在なのだから、誰かを責めることもなく、
決して自責の念は消えることが無く、死ぬまでの赦しはなく、ただ諦観の日々だけがある。
生き地獄ともいうべき現実。映画は現実を誇張することなく、容赦なく描写するだけだ。
物語は彼の視点で進められるため、段々と息苦しくなってくる。
過去と現在がランダムに交錯するだけに、天国と地獄を変わりばんこに巡るようなものだ。
最後に提示されたある選択も、目の前の現実から逃げるわけでもなく、
かといって選択によって救いが得られるわけでもない、
極めて現実的なひとつの取捨選択に過ぎないのに好感が持てる。

但し、ちょっと苦言も補足する。
これはちょっとした個人的な演出への相性の問題かもしれない。
聞き流してもらった方がいいかもしれないが、
演出というか物語の語り口自体には些か違和感を感じた。
「湯を沸かすほど熱い愛」に近い印象を持った。
どちらも主題は明確で共感でき、素晴らしい役者の演技も堪能できる、世間的な評価も高い作品だ。
でも個人的には違和感が否めない。
演出者のこれ見よがしな意識の高い感じというか、お行儀良さ、くどさに起因するのだ。
物語を大きく分ける分水嶺である、ある事故をいかに描くかという一点に尽きる。
ネタばらしとも言うべき事件を物語中盤よりちょっと後半で描く。
「アルビノーニのアダージョ」をバックで流して、一連の出来事を観客に明かす。
少々あざとい演出が否めない。
映画でしばしば挿入されるこの曲とバッハの「マルチェルロの主題による協奏曲」はある意味反則だ。
誰しも胸をかきむしられるような悲痛な美旋律に満ちているのだ。
演出がテキトーでもこの曲を流しておけば、雰囲気だけはつくろえる。
フルコーラスをバックにしながら、淡々とした描写を重ねるのだ。
映画的な外連味たっぷりの演出自体は否定しないが、
どうしても真相が明らかになった後の失速感が伴うのだ。
前半は頑なに「あれがあの事件のリーか」という風に、周囲にももったいぶった言葉を連ねていたのに、
これ以降は抑制が解かれる。ちょっと興醒すら感じた。
演技も描写もそれ以前ほどは活きてこない。
まるで種明かしを知った手品みたいなものだ。
どこで真実を明かすかという語り口の選択には疑問点を感じる。
私見だけれど、一番のラストで明らかにされるという手法もあったのかもしれない。

偏愛度合★★★

【ネタバレあります】

作家ロバート・A・ハインラインはSF(サイエンス・フィクション)の一般的な定義を

     過去や現在の現実社会や、科学的手法の性質と重要性の十分な知識に基づいた、
     可能な未来の出来事に関する現実的な推測

と述べている。
広義にSF映画といっても、
「Sci-Fi」と揶揄される低予算・低技術のパルプマガジンのようなB級作品から、
さまざまな点で現実世界と異なった世界を推測、追求するスペキュレイティブ・フィクション(思弁小説)
まで幅広いジャンル映画として成立している。
基本世界観を自然と許容できるかというSF脳が
標準装備していない門外漢には全く受付ない特殊なジャンルでもある。
一見「メッセージ」は如何にも「Sci-Fi 」的な安っぽいガジェットに満ちている。
世界中に同時多発的に現れた空を覆うばかりの巨大宇宙船と
ジュール・ベルヌ「宇宙戦争」以来のお馴染みのタコ型の多足軟体異生物というエイリアンだけで、
どうしても類似設定の「インデペンデンス・デイ」というゴミ映画の記憶もあり、
それだけで思わず脳が拒否する人も多いだろう。
冒頭で引用した定義は示唆的だ。
知識やテクノロジーを基にした、可能な未来への現実的予測こそがSFの主幹なのだ。
前評判が異常に高い作品だったが、予想を大きく上回るスペキュレイティブ・フィクションの傑作。
まさに定義通り、「あるテクノロジー」によって未来の出来事を推測する物語なのだ。
間違いなく本年度のベスト10に入るべき超ド級の傑作映画。
★全ては輪になっている。
リニア―な呪縛から逃れられない現実を越えて、始めも終わりもない円環状の存在に溢れている。
クラゲの様ような形状で四方目を持ち、前も後ろもない円環構造であるエイリアン。
その言語もまた始まりと終わりがない円環上の墨文字のようなものだ。
(かつて見たことがない斬新なデザインで、映画のテーマの白眉となる見事さ)
劇中に引用されるマックス・リヒターの曲もループ状の歌声らしきものが延々と繰り返される。
そもそも物語の語り口自体が、冒頭と末尾はそのまま繋がり、一本の輪となっている。
何故我々は常に時間というリニーアで、
かつ一方向性で不可逆な縛りの呪縛から逃れられられないのだろうか?
常に増大し続けるエントロピーという理論によって、
決して解放されることなく、その生から死に至るまで延々と囚われ続けている。
対して不思議なことは現実がいったん認識され、記憶という情報化された時にはその呪縛はない。
記憶はノンリニア―でランダム、シームレスに自由に飛び回る。
時系列通りの記憶再生はなく、過去を自由に動き回り、何かのきっかけで突然再生される。
もちろんそれは変質、歪曲、圧縮された記憶の残滓であり、
現実そのものではないが、記憶によって人は形作られる。
今更ではあるけど、何故減じるは一方向の呪縛にしばられているのに、
記憶は時間軸を越えた自由さを持つのだろうか?
冒頭と末尾で繋がった輪の中には、異性人の来襲と世界中同時に、
その目的と意図を探るため彼らの言語を解明するという進行形の物語がある。
主人公であるルイーズはコンタクトを繰り返し、彼らの発する文字らしき円環状の墨絵の解読を急ぐ。
そこに後半に向かうにつれ頻度を高めて、挿入される記憶の残滓ともいうべきフラッシュバック。
夢や日常の解読作業の中にも侵食してくる。
そこで描かれるのは娘との日々。誕生から突然難病を患い、若くして死んでいく様だ。
劇中では何も説明されないが、観客はこの物語以前に起こった過去の悲劇としてとらえる。
モンタージュという映画での時間操作の定石手法を何の疑いもなく受け入れる。
映画もまた編集によって、リニア―な時間軸を越えることが可能なメディアなのだ。
以下重要なネタバレにはなるが、
エイリアンのもたらそうとしているテクノロジー(思想)こそ、
時制を越え、過去現在未来を同時に俯瞰して把握できる能力なのだ。
それ故に最後に明らかにされる繰り返されるフラッシュバックこそが叙述トリックであり、
実はこれから起こるであろう未来の姿を描いたフラッシュフォーワードであることに驚愕する。
全て構造で腑に落ちる。
物語には始まりも終わりもない。未来から始まり、過去へと戻り、
現在を経て、未来へと向かう輪になっている。
独身であるはずのヒロインの娘、そのやすらかな日々、不在の夫像が全てパズル一片のように収まる。
この語り口は単なるどんでん返し一発のハッタリではなく、丁寧に作り込まれた作為はネタばれしても、
物語を繰り返して観れるだけの強度を持っている。是非再度観たい。

★全ては私的な物語だ。
原作は「あなたの人生の物語」という中国系アメリカ人の短編小説。
現時点では未読なので、映画との比較はできないが、
映画ではヒロインの娘への語りから始まるという私的な記憶の物語だ。
物語の視点となるのは始終一貫してルースであり、ある意味私小説のような一人称映画ともいえる。
設定自体はエイリアン来襲と宇宙戦争勃発かという大風呂敷をひろげているのに、
描かれる行動やそれに伴う感情な極々個人的で、ありがちな出来事ばかりだ。
そこにあるのは母と娘の関係性、夫とのすれ違い、不条理な病と若い死。
ひょっとしたら誰しにも起こりうる物語ばかりだ。抱く感情もまた誰しも想像、共感できる。
時制とは無関係にランダムに再生される記憶の断片もまた我々が日々体験していること。
マキシマムな極限状態とミニマムな日常の対比が何の違和感もなく地続きで、
ひとつの物語として全体を形成する至極な構成には参った。
余談だけど
   「夫が私の元から離れた理由がわかったわ」
   「え、君は結婚してたのか?」
というエイミー・アダムスとジェレミー・レナーのかみ合わない会話が大好きだ。
その意味は後で理解できる。

★言葉の持つ力。
解説で繰り返して述べられている
「言語によって生き方や世界観が決定づけられる」というサピア=ウォーフ仮説。
初めて聞いた理論だけれど、記憶をたどるとシンクロニシティなエピソードがある。
伊藤計劃「虐殺器官」のアニメ映画を観て、その出来具合に不満足であったわけではないが、
もし米資本でドゥニ・ヴィルヌーヴが監督すれば途轍もない傑作だったのではという妄想を抱いた。
原作は虐殺を司る言語を無意識のうちに植え付けることによって、
自然淘汰にも通じる大量虐殺が発生するという理論だがテーマだ。
まさに言語によって行動が決定づけられるのだ。
ヴィルヌーヴ監督は偶然にも同時期に同じテーマを別の作品で更に深化させ描いていたのだ。
SFというジャンル映画の先見性にも驚き、同時に言葉の持つ力の偉大さを痛感した。
主人公が戦略アナリストでも、動物学者でもなく、単なる言語学者というのが素晴らしい。
言葉を分析し、言葉を操り、言葉によって何か伝達していくという異文化の橋渡しとなる役柄だ。
言葉の持つ根源的な力を思えば、彼岸と此岸を繋げる巫女のような存在かも知れない。
エイリアンの言葉は円環状で始まりも終わりもなく、繰り返され、ぐるぐる回り続ける行のようなもの。
そこに現在過去未来といった時制はなく、非直線的(ノンリニア―)な形態を持つ。
ある言語を学び始めるとその言語で考えたり、夢を見るらしい。
エイリアンと何度も何度も言葉を交わし、単語の意味を知ることで、彼らの意識が侵食していく。
メッセージというか、思考そのものを言葉を介して感じ取っていくようになる。
でも本当に少しづつ徐々にグラデーションのように変化していくだけだ。
ただこれ見よがしな劇的な描写はせずに、観客もまたラストに至るまで
そのことすら自覚できないくらいに抑制された演出だ。
最後に至る言葉の持つ力を理解して、驚愕し、感動し、全ての流れを感じ取ることがきるのだ。

★物語は繋がっていく。
原作、演出、脚本が完璧に物語構造をつくり上げ、役者や美術、衣装、特殊効果が映像を具象化し、
無音からノイズまで緻密に計算つくされた音響効果と
ミニマムだけど密かに感情を揺さぶる音楽と全てを兼ね備えた作品だ。
余りにも情報量が多く初見だけでは、理解しきれない側面も持つ。
これが繰り返して鑑賞できるすぐれた物語特有の強度なのだ。
繰り返すが、私的偏愛度で言えば、
本年度のベスト10には必須で、何年経っても繰り返して観ることになるだろう。
すぐれた物語は物語と繋がる。
町山智浩氏は同じくSF作家カート・ヴォネガット原作の「スローターハウス5」や
「エターナル・サンシャイン」との類似性を指摘していた。記憶をたどり、作品を再見して確認したいものだ。
また「ブルー・バレンタイン」での時制をシャッフルされたカップルの始まりと終わりの物語が浮かんだ。
また宇宙船の数が世界で12船なのも意味ありげだ。
つい先日読んだ本によると、
西欧では十二という数字は天道の十二宮などであらわされるように完全数としての意味が強いらしい。
現実の情報と偶然にも、無意識に繋がっている。
そういえば星座もまた最初も終わりもなく、延々と回り続けるのだ。キリストの使徒も十二人だ。
世界の十二ヶ所に贈られたメッセージをすべて合わせることで完全数となるのだ。
作品に隠された物語の断片はいくらでも深読みできる。
「灼熱の魂」「プリズナーズ」「ボーダーライン」「複製された男」と傑作が続き、
今年になってようやく公開された旧作「静かなる叫び」といいう打率十割の天才っぷりを発揮している。
次につながる物語は「ブレードランナー2049」だ。これもまた期待するしかない。
これほど期待値が鰻上りの監督も稀有だろう。

偏愛度合★★★★★

88分という最小限の尺で、原題である砂漠を舞台とした、
アメリカへと不法入国するメキシコ人たちとそれを銃で人狩りする白人アメリカ人という
ワンシチェ―ションを緻密な演出だけで一気に観客を釘付けにする傑作。
流石アルフォンゾ・キュアロンは息子も同様に侮れない。
トランプ政権以降、メキシコとアメリカの国境問題が映画の絵空事といは言い切れない。
昨今、現実が虚構の物語を越えて、その先をひとり歩きすることが多いのが怖い。
大統領が確約した壁の建設がどうなるのかは兎も角、
それ以前から白人による国境自警団が結成され、警備にあたっているらしい。

ガエル・ガルシア・ベルナルというメキシコ出身の世界的なスターこそ配しているが、
それ以外は全く無名の役者陣で固め、その背景やキャラクターを説明されないまま、
いきなり砂漠の真ん中で車の故障で徒歩での越境という状況へと追い込む。
限定された特殊なシチュエーションありきの潔いプロット展開だ。
タイトルバックで左右に広がる広大な砂漠の風景を走る車両をロングショットで捉える。
物語へと誘うための緩やかなタメを置く。
同様のショットはラストクレジット前にも繰り返され、物語の頭尾が繋がる。
50度を超える気温の過酷な砂漠を徒歩で歩くという試練へ進める。
国境付近を銃と犬と共にピックアップトラックでフラフラと彷徨う白人が登場し、
いきなり長距離狙撃で越境者を射殺し始めるというテンポのよい演出で攻める。
国境を超える移民たちを憎み、何の道徳的、法的な抵抗もなく無造作に彼らを射殺するのに、
愛犬の死にはむせび泣くというソシオパス気質のホワイトトラッシュ。
砂漠を舞台とした、無差別に殺戮を繰り返す殺人鬼ホラーのような構造だ。
狩る者と狩られる者というマンハントものだ。
追う者と追われる者のキャラクターは割と類型的だけど、ひとりまたひとりと射殺されていく。
プロットはシンプルだけに、余計に細部の演出力が試される。
砂漠の水平と高低差のある岩場の垂直を巧みに活かした風景とそれを活用した位置関係が絶妙。
息もつけずにラストまで一気に引っ張る。
その背景に隠された現代世界の歪みへのメタファーとしてを深読みすることは可能だけど、
それよりもシンプルでミニマムな状況を演出だけで引っ張る、最良の娯楽作品として成立させている。


偏愛度合★★★★

「禁じることを禁止する」とトロピカリア時代のカエターノ・ヴェローゾは歌った。
元ネタはフランスの学生運動の写真にあった言葉らしいが、
まぁ身近な例でも「壁に落書きするな」という壁の落書きであったり、自己矛盾は時として真理を突く。
その意味では今作は

 「撮影することを撮影する」

映画である。流しのタクシーの車内に備え付けられたビデオカメラで出入りする客や風景を記録する。
恥ずかしながらジャファル・パナヒ監督は初めて。
昨年死去した師匠筋にあたるアッパス・キアロスタミと同様、素通りしたままだ。
イラン映画に偏見があったわけではないが、
何となく当時自分が求めていた刺激と異なり、観る気が起こらなかった監督だ。
世界的な作品の評価はもちろん知っている。でもこの手の映画との出逢いって縁なのだ。
たまたま縁が薄いと、中々出逢えないこともあるのだ。
それ故に事前知識がないまま劇場へ。
劇中でタクシーの客が言う。

「監督、あんた映画撮ること禁止されてなかったけ?」

その通り、現政府への反体制的な活動を理由に、20年間の映画監督禁止令を受けているようだ。
彼とこの国の背景を知らないと、
何やらけったいなタクシー運ちゃんがビデオで客を勝手に撮っているにしか見えないのだ。
でも難解なわけではなく、劇中で説明されるので、背景を知らなくても段々と状況を把握できてくる。
映画監督が映画を撮ることを禁じられたため、映画作品として演出するのではなく、
自らがハンチング帽被って、タクシーの運転手として、備え付けのカメラで事実を記録撮影するのだ。
作品として映画文法的な矛盾はない。
あり得ないインサートショットは一切なく、編集はされているけど、全て車内カメラのみで構成されている。
まさに映画を禁止されたか映画監督が自ら被写体になって撮影することを撮影する。
実際に街中を流して、手を挙げた客を乗せる。こちらではタクシーの相乗りは当たり前の様だ。
そこで客同士の会話が展開される。
ここで疑問が生まれる。
さて何処までが脚本と演出が伴う、仕込んだやらせで、何処までが事実なのか?
そこにこの作品の巧みな面白みが隠されている。
イランのタクシー営業許可うんうんは知らないが、実際に監督が運転して町を走っている。
メーターもなく、料金ももらったり、もらわなかったり、割とテキトーだ。
その反面、拾った客の会話は、死刑制度や国内で観ることが出来ない海外映画の海賊版の業者、
映画監督志望の大学生、政府から停職処分を受けた弁護士、定刻に金魚を届けないと殺される
老婆など深読みすれば、余りにも出来過ぎで隠喩な話題ばかりである。
特に小学校の課題で「上映可能な映画」を撮る姪が示唆的。
どうすれば上映可能なのかという法令を説明する。
メタフィクションとして作品を作る過程を延々と撮影して、真実と虚構の隙間にメッセージを託す。
観客が劇場で観ている編集され、日本でも配給され公開された作品。
最後にクレジットされるのはこの映画はイラン国内では上映許可は下りなかったという事実だけ。
結局作品内に潜む虚実の線引きはどうでもよく、
映画を撮ることを禁止された監督のひねり出した映画を撮る方法という構成勝ちの作品だ。

偏愛度合★★★

日本初のチベット映画らしい。
かの国で映画がどれ程根付いているのかは知らないが、娯楽のための派手な外連味や
技巧を凝らした演出はなく、巷にあふれかえる映画と比べると一見地味な作品に思われる。
何処までの伸びる大地とそこにささやかに生きるごく普通の人々の生活の日々が描かれる。
父と仲違いしている息子と働き者の献身的な妻とまだまだ母離れができない幼子、
やがて生まれてくる赤ちゃんと洋の東西を問わず普遍的な人生のひと幕だ。
風景を描くときはロングショット、人を描くときはミディアムショットでどちらもカットを割って、
編集で全体像を構築するのではなく据え置いた長回しに徹している。
季節の移り変わりに応じた、羊の放牧、種付などの農作業、
テントでの移動生活などの実際の日々を淡々とリアルに描写する。
大地、光、雲、雪、風など圧倒的な風景もまたリアルにせまってくる。
背景には劇音楽はなく、ひたすら風や草木の音だけが心地よいノイズとして流れる。
全体を通して、余りに奇をてらわないため、
国営放送局が秘境巡り番組で、現地の人に同行取材したドキュメンタリーかと思うばかりだ。
でも決して退屈で、ありふれた作品ではない。
チベットならではの豊饒な人と自然の営みは溢れんばかりに堪能できる。

余談だけれども、
仏教信仰への関わりで、チベット自治区と中国政府との関係性を
直接的な政治的非難という感じでもなくにおわせる。
何処であっても、国と国、人と人がいる限り、確執は生まれる。難儀やな。

偏愛度合★★★

本物と偽物、事実と虚構の線引きは難しい。
特に映画や文学といった法螺話を生業にしている業界においては、
如何に巧みに嘘をつくかがその価値を決定づける側面も否定できないのだ。
その経緯を追うドキュメンタリーもまた一見真実のみを伝える、
事実に即したものかと思われているが、撮影段階はもちろん、
根拠となる資料の選択、編集と全てにおいて監督の恣意的な作為があり、
プロパガンダなきドキュメンタリーは決して存在せず、ドキュメンタリーは必ず嘘をつく。
例えば見るからに怪しげな法螺吹きと高級スーツに身を包む詐欺師とは実は本質的には同質なのだ。
でもどちらが性質が悪いかは明確だ。
サンフランシスコ在住の40歳女性が、自らのプロフィールをでっち上げ、私小説として発表し、
親類の女性を男装させ、替え玉とする。
自分の平凡な容姿や生い立ちへのコンプレックスを裏返しにした変身願望、
多重人格性などで彼女の言動を結果論的に説明しても然程意味はない。
ただ、その作品の内容は周囲を震撼させ、各国で翻訳され一躍ベストセラー作家となった。
2006年にニューヨークタイムズの暴露記事までは全てが真実と事実であると信じされていたのだ

果たしてこの一連の事件では、騙した方が悪いのか、騙された方が悪いのか?

冒頭いきなり、やり玉に上がるのはウィノナ・ライダーだ。
「愛してるわ、JT~!」と壇上で感極まり叫ぶアーカイブがこれ見よがしに引用される。
深読みすれば、果たしてそこに全く悪意はなかたのだろうか?あのウィノナだぞ。
他にもガス・ヴァン・サント、アーシア・アルジェントなどの監督とのコラボレーションの経緯が紹介される。
ただ、録音テープや音声記録(疑い出せばこれも本物かは怪しいが)のみのトム・ウェイツ、
コトニー・ラブ、ビリー・コーガンなども次々と生贄のされる。
ある意味忘れたい恥部なのに、よく当人たちの使用許可が下りたものだ。
同時に善なる被害者のようで、実は時流に乗って、
流行りもののリロイを巧みに利用した搾取者たちでもある。
そもそも監督や作家はプロの法螺吹きであるならば、役者はプロの別人格憑依者なのだ。
それを追うドキュメンタリー作家もまた事実を取捨選択、歪曲して、仮想事実をでっちげる詐欺師なのだ。
何せ全員が筋金入りの本物の嘘つきなのだ。

一応は人騒がせなローラ・アルバートに対しては法的な決着(判決)はついたようだが、
もうこの世界では被害者も加害者もない。真実も虚構もない。
ドキュメンタリー映画としてはネタ一発の手法も構成、演出も平凡で退屈、
誰しも嘘つきばかりなのでにも感情移入できない宙ぶらりん感が否めないが、
確かにこれ以上にドキュメンタリーという真実を装う偽装世界にふさわしい主題はない。

偏愛度合★★★

本当にウディ・アレン版「ラ・ラ・ランド」だった。
ただ偶然の一致というより夢見る恋人同士がお互いに愛し合っても、運命のいたずらで、
それぞれ別々の道を進み、何年後かに再会するというのは物語の定石であり、珍しくもない。
類似した物語のモチーフを使いながらも、わざわざ言われないと気が付かないくらいに作風は異なり、
紛れもないウディ・アレン節が全編からプンプン漂っている。
流石に近年老いてからは自ら主演するのは避け、
自分のアバター的な役柄(今作ではジェシー・アイゼンバーグ)を配して、その芸を継承させる。
お馴染みの全編流れる(モダン以前の)古典的なジャズナンバー、
舞台となるのが1930年代のはハリウッドとニューヨークという独壇場もあり、
アイゼンバーグのなり切りぶりに加え、ナレーションをアレン自身が担当しているので、
これでもかというくらいにウディ・アレン感でお腹いっぱいになる。
相変わらず女優の趣味がいい。
売れっ子スターを起用するというより、ブレイク前の逸材を発掘して、巧みに演技を引き出す。
それはダイアン・キートン以来の手腕だ。
スカーレット・ヨハンソンといい、件の「ラ・ラ・ランド」のエマ・ストーンといいアレン映画をステップに
スター街道へと躍り出た。
昨今バンパイア映画の悪しき偏見を打ち破る作品チョイスが見事なクリステン・スチュワートと
ブレイク・ライブリーのさっぱりした女っぷりというダブルヒロインの対比が面白い。
関係ないけど当然「ふたりのヴェロニカ」とくればキエシロフスキー作品を思い出す。
久々に観たいな。
虚実入り混じる実名のスターたちにゴージャスなドレス、シャンペン、豪邸とうっとりする夢の世界だ。
何せ今作の撮影監督は初組み合わせのヴィットリオ・ストラーロなんだから文句なし。
映画を観始めて初めて意識した偏愛する撮影監督なのだから、この感慨もひとしおだ。
作品自体は割と手慣れた感じで、とりわけ目新しさはなく、肩の力のぬけたいつものスタンダードだけど、
時々「ブルー・ジャスミン」という超ド級に意地悪い傑作を撮るのだからまだまだ侮れない。
ウディ・アレンはほぼ年1作のペースを守り、新作が公開されれば必ず劇場へと駆けつけていたが、
いつまでそれを続けていくことが出来るのかはちょっと不安にはなる。
多くの映画ファンにとって失った時の喪失感は大きいだろう。
縁起でもないけど、そんなに遠い未来ではないかも知れない。


偏愛度合★★★


映画の原点は法螺話である。
如何に上手く嘘をつき、観客を楽しませるかというのが基本だ。
優れた監督の多くは、巧みな嘘つきであり、虚実の維持混じる世界へと観客を誘う煽動者である。
冒頭のフェイクドキュメンタリー映像で、
大嘘をかまして、観客を一気に物語世界へと誘導するツカミは秀逸だ。
そこで語られるのはカミンスキーという盲目の天才画家。
ウディ・アレン「カメレオンマン」やロバートゼメキス「フォレスト・ガンプ」などでも使われた
実在人物のフッテージ素材に出っちあげの架空の人物を巧みに入れ込む手法だ。
近代美術史に詳しくはないので全部を把握できていないけれど、
ピカソにダリ、アンディ・ウォーホールからボブ・ディランまで、引用された元ネタを探るだけでも、
十分に楽しめる情報量の多さだ。虚構もまた仕込みによっては偽装現実となる。
これで観客は物語上の架空の人物ではなく、
実在した画家として、それを追うジャーナリストの視点と旅に同調できる。
人物造形的には決して単純に「いい人」とは言い切れないややこしい輩である。
最初は自己中心的で、手段を択ばず、他者への共感に欠ける。
演じるダニエル・ブリュールもまた飄々とした演技で心底から憎めない。
でも観客が自己投影してしまいがちなありがちな欠点であるため、
ついつい「やれやれ」という感じでも直面することになる。
当然物語の定石として彼は旅と共に変化し、観客もまたその変化を共に体験することになる。
章立てして、短いエピソードを連ねる語り口の構成、
そのインターバルで絵画タッチと実写映像がモーフィングするような映像効果も上手い。
画家を演じるイェスパー・クリステンセンがどこまでが真実で、どこからが嘘なのか、
全く線引きできない得体の知れない感じを醸し出し主人公と観客と混乱させる。
相変わらずのドニ・ラヴァンのトリックスターっぷりにも笑える。
原型が見えない変装とエキセントリックな演技はもはや彼の芸風と化しているな。
見えているものと見えないもの、表と裏、嘘と真実は相対しているようで、それ程単純ではない。
大人のためおとぎ話という評価もうなずける。
混然一体とした世界をそれぞれが情報の取捨選択をして、判断するしかない。
映画を観ることもも同様だけど、
日々に必要なのは正確に虚実を見極めることでなく、そこから何かを選択することなのだ。
ややこしいけど、それが生きるってことなのだ。
そんなことを思いださせてくれる巧みな大人の法螺話だ。

偏愛度合★★★