見事な演出、脚本、撮影、役者による素晴らしい演技と揃った是枝監督の新境地。
稀に見る邦画豊作の昨年から一転、同じ役者を使いまわしたゴミ青春映画ばっかりで一気に低迷。
その中ではズバ抜けて実験的な意欲作で、2017年で記憶に残る1本になること必至。

映画には古今東西数多の法廷劇があり、傑作も多く、本来極めて映画的な物語の構造を持つ。
真実と嘘、善と悪、さらには罪と罰という分かりやすい対立構造があり、
法廷でのやりとりを通じての真理の追求が物語の起承転結を明確にする。
あるいは裁判を通じて登場人物の成長があったり、勧善懲悪であったり定石が多い。
被告(弁護士)と原告(検事)のいずれに観客の視点を置いても、
最後には必ず勝敗(判決)があり、カタルシス(あるいはその逆)へと自然に導くことができる。
だが同時にそれはあくまでも映画的な文法で、俯瞰的に図式化された物語構造に過ぎず、
実際の裁判は必ずしも真実を明らかにする場ではなく、法廷は便宜上の判決を決定する場と主張。
リアリティの追求というよりは、映画的図式化を見事に逆手に取った構造となる。
それは台詞や言葉で白黒を明確に説明しない曖昧さ、観客によって受け取り方が異なる多義性であり、
歴史が勝者の都合で残す主観的なものであると同様に、所詮法廷における真実もまた
関係者の主観的な見方に過ぎず、視点の置き方次第では真実は複数となり、
いちおうの結論自体が多数決によるある種擬似的なものに過ぎない。
今作は法廷の在り方、あるいは法の定める罪と罰自体を問うのだ。

まずは本来は法廷劇のはずが、通常の法廷映画ならお馴染みの検察と弁護士の舌戦を
駆使した丁々発止のやりとりはなく、被告人と弁護士のガラス越しの接見シーンが延々と続く特異な構成。
撮影段階で、接見シーンを増やし、本来であれば映画的な見せ場である弁護士による最終弁論すら
(実際には撮影したにも関わらず)全てカットするという監督の意図的な極端な手法がうかがえる。

冒頭で役所広司演じる殺人懲役の前科のある三隅が河原で第二の殺人を犯す絵が提示される。
第二の殺人が物語の前提条件のはずだが、
物語という話のつかみとも言うべきこのシーンが後々観客を揺るがし混乱させる。
映画において、映像化されたものは必ずしも現実ではなく、ひょっとしたら幻かも知れない。
観客は映像を信じると同時に、常に疑っていかねばならない。
中盤でインサートされ列車の中での重盛の夢のシーン(雪原での三人の姿)がそれを案じさせる。

警察による逮捕や検事による起訴などは描かず、
塀の中に拘留中で裁判を待つ三隅に弁護士の重盛が接見する。
順撮りされたらしいが、ここから延々と続く、二人のやりとり(都合7回)こそが物語の根幹をなす。
「あれほど自分の脚本がわからなくなったのは初めて」と
監督自身がインタビューでこぼすように、現場での俳優が物語を動かしていく。
まるで役所広司という根っからの俳優で空っぽの器でカメラが回れば何にでもなりうる男が
発言をコロコロと変え、周囲を翻弄させる、空っぽの器の様な得体の知れない人物を演じる姿の実録を
脇にいる監督がカメラで記録したかの様にも思える。
ある意味俳優演技を撮影したというドキュメンタリー的かもしれない。
それくらいになリアルというよりも、生々しく見える。
福山雅治演じる弁護士は受け身の芝居に徹している。
次々を姿を変える物の怪を目の当たりにして、素で戸惑い、混乱している様が同じく記録されている。
弁護士として選民感というか傲慢な人を見下したような人物が、接見を追うごとに変化していく。
もはや演技とか、演出というレベルではない。
監督の恣意的な演出や俳優の技巧を越えた緊張感が生じている。
この特異な接見シーンを繋ぐのが、
本来ならば主であるはずの法廷シーンや弁護士側の事実関係調査や彼らの日常風景である。
逆にこちらは台詞も演出もコントロールされている感じがする。
例えば重盛の娘との日常エピソードが、三隅と被害者の娘の疑似的な父娘関係性とダブらせたり、
同じセリフを言い手を変えて繰り返すなど、丁寧な脚本構成がうかがえわれる。
それ故に接見シーンの生々しさと妙に噛み合わず、
無意識的と恣意的構造が交錯して、結果異常に張り詰めた空気が全編に持続する。
監督の物語を動かす役所広司と福山雅治のやりとりへの信頼感と同時に脇役への気配りは流石。
お馴染みといえる斎藤由貴の不気味さはもちろん、やはり何と言ってもその娘役の広瀬すず。
前作からの連投だが、一転して高い運動能力を封印して、片足の不自由な被害者の少女を演じる。
笑顔すらなく、感情や思いを全て内に秘めこんでしまっている役柄だ。
彼女の演技への監督の絶対的な信頼感が画面越しにひしひしと伝わってくる。
後半の言動ですんなり決着するはずの法廷が覆され、一転二転してゆく。
まるでカイザー・ソゼだ。
怪我の原因も劇中では明確にしないため、思わず映画マニアとしては、ラストシーンで
それまで引きずっていた足を伸ばし、素に歩き出すのではないかと勝手に妄想してしまう。
彼女とダブらせた存在として容姿が似た蒔田彩珠を重盛の娘役に配しているのは意図的だろう。

50年代のフォルムノワールを意図したらしい銀残しを使った陰影感が見事な撮影や美術、
イタリア人作曲家によるピアノや弦楽器による重厚な音楽と徹底したつくりこみと、
監督自身が先の見えぬ現場で俳優によってつくりあげていく生々しさが同居する稀有のバランス感だ。
粗編段階で3時の作品を監督自身が編集も兼ねて、2時間の作品へと引き算していったらしい。
常々言えわれることだが、足し算は容易でも引き算は思い切りとセンス、そして痛みを伴う。
ましてや自分の分身とも言うべき作品を自ら切るのだ。
でも結果的には余白の残したこれ以上は切れないが、
これ以上長いと余分となる絶妙のさじ加減となっている。見事な編集だ。
それ故に観客は法廷劇には定石の起承転結や結論を描かないため、観客は行間を埋めるというか、
余白を楽しみ、それぞれが思い思いの解釈で物語を再構築することができる。
実はそれこそ素晴らしい映画の持つ力なのだ。

偏愛度合★★★★★