89年のベトナム中部の田舎町って、
こんなにも貧しくも素朴で豊かな自然が満ちた生活だったことに驚いた。
自分くらいの年代ならば、89年ってまだまだ記憶が生々しいついこの前という感じだ。
ガス、水道、電気も通っておらずも、農業を営み、家畜を飼い、慎ましながらも家族を養う。
夜になると深い暗闇があり、神話や物の怪に対する恐れや信心が存在していた。
流石に都市部には多くの人が集まり、自転車も三輪自動車も走り、
あちらこちらに市場が開かれているのだが、郊外の周辺部とのギャップが顕著みたいだ。
郊外の緑が豊かな田園風景を舞台にした少年少女のひと夏の青春図には期待が高まった。
緑豊かな稲田や森や川、風が抜けるていく風景が美しい。
ところがどうにも物語が動きださない。
正直なところ、舞台設定は文句なしで、少年少女の演技も十分にリアルでなので、
問題があるとすれば演出(監督)なのだ。
ベトナムといえは名匠トライ・アン・ユンがいる。
彼は既にベトナムの土着性(ローカライズ)からは離れ、ワールドワイドに作品を撮りけている。
彼に続く逸材と称されているヴィクター・ヴー監督は格違いの力量不足が感じられる。
経歴を調べるとアメリカで生まれ育ち、ハリウッドで映画を学んだらしい。
そこが明らかに凶と出ている。

まずはドローンを使った空撮の多用。
テクノロジーは映画の撮影方法を変える。
デジタルカメラが小型化し、玩具のラジコンヘリコプターでも機材を搭載しての空撮がいとも簡単になった。
その昔なら本物の飛行機かヘリコプターを高額払って飛ばして、
重量機材と撮影監督を同乗なせなければ到底得られない映像だった。
それが地上からのラジコン操作でいとも簡単に映像化できるのだ。
素人にビデオカメラを渡して撮影させると、ほぼ不安定にズームをいじりまくりブレブレで
鑑賞にてない映像が出来上がるのと同じだ。新しいテクノロジーは使い方次第なのだ。
正しく効果的な使用こそが映像としての説得力を生む。
アメリカ生まれの監督はドローンを既知していて、作品の手法に取り入れたのだろう。
効果を出している部分ももちろんあるのだが、執拗に繰り返されるドローン映像はやっぱりくどく、
映像技術を見せびらかしているにしか思えない。安易なテクノロジーの使用は物語を壊す。

もうひとつはCG。
デスクトップクラスのPCでも、それなりに未知のクリーチャー創造し、動かし、
画面の中に合成することが容易にできるようになった。
劇中で兄が語る昔話に登場する獰猛な虎を安易に映像化して見せる。
語りの中でこそ息づく神話性を無視して、映像として具体化させるセンスの無ささに驚いた。
思い出したは、小栗康平「FOUJITA」で後半に登場する幻の白い兎の姿である。
やすっぽいCGで映像化されたそのカットがそれまで積み上げてきた映画の世界観を全て破壊した。
具体的に映像化して描くべきない部分が必ずある。
映像として描かないからこそ想像力で埋め合わせをするのだ。
ドローンとかCGが簡単にできるかンくようになった現代。
無自覚な監督は安易にテクノロジーに頼り、画面にそのままの姿を並べることに抵抗がない。
ベトナムは決して映画的産業が豊かな国ではないだろう。
これらのテクノロジーがごく普通に普及されているとは考えにくい。アメリカルーツの監督故に、
舶来品をありがたり、自慢するかのごときの安易さとセンスの無ささが不快で仕方がなかった。
登場する素朴な少年、少女はもちろん、
貧しいながらも苦労して子供を育てる親、まだまだ村社会的な周囲の人々など役者はリアルに演じている。
それを記録する撮影もまたリアリズムに徹するべきだった。
安易なテクノロジー自慢によらずに、オーソドックスな固定カメラでの長回しや手持ちカメラでの移動、
ドリーやクレーンと言った昔ながらの最低限の機材で限定すべきだっただろう。
更に輪をかけて、ストリーテリングの稚拙さ。
幼い恋心や聡明な弟に対して兄のとった行動といった肝となるエモーショナルな描写が
上手く描かれているとは言えない。主人公に短絡的な行動には反感さえ生まれる。
語り口の稚拙さ故に体感時間は長く、中途半端な映像だけが美しく流れる雰囲気映画に陥っている。
題材だけに、勿体ない。


偏愛度合★★★