歌って、踊って、てんこ盛りTOO MUCHな3時間越えのインド映画よりも、
2時間を切るこの「裁き」の方が体感時間が長く感じた。
正直に言えば、椅子でモソモソと動き続け、意識が飛びそうになる睡魔と闘い、苦痛すら感じた。
でも凡庸な監督が無自覚な結果、間延びした作風となったのではなく、
多分この監督は確信犯的に狙って仕掛けているのが余計に困ったものだ。
勿論意図したのは弛緩した体感時間ではなく、観客に対して物語の拠り所を外すという試みだ。
映画の物語には拠り所が必要だ。
これは観客と作品の登場人物能の視点の共有だ。
例え倫理的配慮で行動や感情に共感や共鳴できなくても、何かしらの拠り所が必要なのだ。
特に法廷劇という特殊ジャンルであり、構造的に善と悪、真実と嘘、
その果ての有罪と無罪といった対比構造があり、通常はどちらかの視点へと観客を誘導する。
それが被告人、弁護士、検察官の誰にも拠らずに、宙ぶらりんで彷徨い続け、
インド時間なのかダラダラと続けられる裁判劇とその周辺の日常を並べる。
そもそも公衆の場でやや煽動的な歌詞内容の曲を歌った歌手が、
マンホールで発見された下水掃除人の自殺へと駆り立てたという因果が証明しようがない罪状だ。
裁判劇でありながら、さながら不条理劇だ。
言いがかりの様な逮捕、そして告訴を巡って、被告人も弁護士も誰も文句も言わず、笑うこともなく、
ひたすらくそ真面目に裁判を執り行う。
アメリカ映画の裁判劇ででお馴染みの勝訴にこだわり手段を択ばない弁護人、
あるいは悪徳検察官などのキャラクター化は一切ない。ただ淡々とやりとりを細切れに続けるだけ。
過去には反体制的な組織に関わっていたらしいが、現在は子供たちに勉強を教え、
人前でやや抽象的な自作ポエムを歌う被告が何を考えているかが全く不明。
そこに国選のようだが、高カーストで金持ちの弁護人もやる気もなく正義漢という感じではない。
高級マンションに住み、ジャズの流れる高級車で通勤、ワインとチーズを嗜み、
クラブで生演奏を聴きながら食事という生活を送る。
まさかインド映画でピシンギーニャの"Carinhoso"を
「ポルトガルで偶然聴いたブラジルの曲です」と女性歌手がギターをバックに歌うシーンを見るとは。
もちろん物語と何の関係もない。そんなんばっかり。
検察官は女性で、働く女性として、ガシガシ攻めてくる感じではなく、
その辺にいそうな普通のおばちゃんのごく普通の仕事って感じで、その普段の日常も描写される。
物語における拠り所とはこれら劇中で提示されるシーンに共感したり、
逆に拒否したりして、感情を動かされて、物語に隠された意味を見出すことである。
それをことごとく外す。
裁判はなかなか進まない。
宙ぶらりんの観客の心はあてどもなく彷徨い、物語がどこへ向かっているのかさえ見失う。
多分ここまで執拗に意味の見いだせないシーンを続け、並べるのは意図な確信犯だろう。
挙句の果てに、裁判劇は唐突に中断され、劇中では結論は描かれない。
退屈に苦しみ続けた果てに、何のカタルシスもないままに終劇となる。
おいおい、確信犯であることは理解できるが、いったいい何を伝えたいのか全く分からない。
監督の底意地の悪い神経を逆撫でするような観客コントロール技術は、
あるい意味凄いかもしれないけど、流石に共感しようがない。


偏愛度合★★