原作にも、主演二人には全く興味なしで行定勲監督一点張り。
旬の人気俳優を配して、売れ戦狙いの商業映画を偽装しながらも、
陰でこそこそと作家性の強い、小技と好き勝手をしている二面性が好きな監督なのだ。
この「ナラタージュ」も松潤目当ての女子相手に成瀬巳喜男「浮雲」とビクトル・エリセ「エル・スール」
をぶつけてくるなど、「そら、知らんやろ」的な奇策にも程がある。
だからこの監督好きなんだけどさ。
今時珍しい畳敷きに襖、天井に中々点灯しない蛍光灯、縁側など古い日本家屋(そこに松潤が住む!)、
昔ながらの2本立ての名画座、寒々しい海辺の風景など細部にこだわった舞台設定や小道具、
陰影のある暗い画面の活かした撮影など巧みな演出には唸る。

ただ今回ばかりは主演者の力量が届かず。
松本潤は役柄的に常に目が死んだ、優柔不断でズルいダメ男なんで、微妙な表現力よりも
ダウナーでどうしようもない様でウジウジしてればよいので、それ程演技力不足は目立たない。
でも問題は有村架純の大根ぶり。
世間的には彼女こそ「出会うオッサンを全て狂わせるガール」なんだろうけど、
どうにも苦手で個人的には全く萌えないタイプ。
童顔で小柄な幼児体型、セミロングのサラサラヘアー、
上目遣いで目をウルウルさせて何気にアピールする様に
世のオッサンたちは庇護心をくすぐられるのだろうけどね。
坂元裕二脚本作品ですら破壊したその凄まじい演技力には驚愕する。
何故かネイティブな関西人なのに、非関西人が使うイントネーションのズレたパチモン関西弁にしか
聞こえないというトリッキーな演技を披露していた。
彼女の演技力では、道理でいいとか悪いとかを越えて、誰かを狂おしいほど好きといった普遍的な感情
への共感が全く生じないままに、傍観者として眺めているだけで微妙な感じ。
役柄的に必要不可欠な濡れ場での中途半端な脱ぎっぷりにも冷める。
逆に劇中では写真と僅か数秒しか登場しない妻役の市川実日子の燃える納屋を前にした
横顔での狂気の美しさには参った。あのショットこそ劇中のベストかも知れない。

原作である島本理生の生徒と先生の恋という少女漫画的な設定には、
家族は近親相姦にも通じる生理的な拒否感を感じると言っていたが、流石にちょっときつい。
流行りの設定なのか、広瀬すず版の類似作品も近日公開を控えており、
こちらも先生役が眼鏡のヤサ男というシンクロニシティさ。
でも割とありがちなネタの割には2時間20分という長尺。
ゆるやかで低い温度で燃えくすぶるかのような流れは体感時間的に苦痛とまではいかないが、
ちょっと語り口は緩い。
現在(映画配給会社に勤める社会人)から始まり、過去の回想シーン(大学時代)へ、
更にその回想の中にまた回想シーン(高校時代)が差し込まれるという入れ子構造の脚本は
混乱はしないけど、手法としては禁じ手だろう。
演技とストーリーテリングが空回りして、細部描写が結構好きなだけに、惜しいというか、もったない。


偏愛度合★★★

普通は期待してしまうよな。
「ラ・ラ・ランド」でのミュージカル映画再評価の中、
ましてや映画の元ネタであるドゥミ×ルグランの直系のフレンチミュージカルなのだ。
この流れに乗って二匹目の泥鰌を狙った配給会社も同じなんだけどね。
楽曲が不世出の才人ルミシェル・グランには到底及ばないのは仕方がないとして、
街中などロケーション中心の舞台や衣装や靴などで、原色を使ったカラフルな色使いは華々しい。
でも問題は中途半端なフェミニズムと社会背景を導入した挙句に、その初心を貫けずに自爆。
作劇的に一貫性のない、その場限りのキャラクター設定など全体的に雑な構成には共感できない。
ヒロインは「正社員が欲しい~♪」と歌って踊る、職なし、金なし、彼氏なしのジュリー。
演じるポーリーヌ・エチエンヌはちょっとポッチャリ気味だけど、
表情が豊かで愛嬌のあるファニーフェイスがキュートでツカミとしては問題なし。
試用期間中の量販靴店での採用結果は不採用で、
その代わりが明らかに彼女より巨乳の如何にも男性受けしような女性。
落ち込み、求職に困った挙句に、靴工場の倉庫番というアルバイトに至る。
古くからの伝統のある婦人靴の専門会社らしい。
老舗らしい会社のプロモーション映像が提示される。
如何に職人たちが繰り返し錬り込まれたデザインを、何工程にも渡る丁寧な手作業の加工で
芸術品ともいえる商品として完成さるかという宣伝素材だ。モノクロームで本物らしく再現されている。
そこに登場するのは揃いも揃って白衣を着こんだ男性職人ばかり。
ところが現在工場で働いているのは全員老齢の女性ばかりで外面と現実の明らかなギャップ。
実は世界は女性が動かしているのだ。
会社経営はパリ本社でのんきな若社長(男前)が現場無視の合理化の訴え、工場閉鎖を企む。
世現在多くの世界的なブランド力を有するメーカーのお決まりの道、中国への工場移転だ。
でも何故か彼の妻は中国系女性。単に尻に敷かれているのか?
自分たちが守って来た工場の閉鎖を阻止すべく、ストライきや本社直談判へと繰り出す展開。
女性を卑下した、男権主義的なフェミニズム感が中心となる。
ピケを張り、工場でストを敢行する古株女性たちに対して、入社したばかりのジュリーは、
確な意思もないまま単に断れずに運動へに駆り出される。
この主体性の無ささが最後には致命的な自爆へと繋がる。
会社御用達のイケメン運転手が気になり始め、酔った挙句にベッドインして恋仲へ。
でも運動との兼ね合いで会社に金で雇われた彼に見切りをつけて三行半。
会社側の仇役と思っていた受付秘書が何故か靴フェチで自社商品をこよなく愛する女性
であるといきなり転身するなど、展開が無茶苦茶。
彼女のアイディアで「戦う女」という名の真っ赤なヒールのない、でも美しい靴を復刻させて、
一気に経営陣に反旗を振りかざす。
革命的な勇ましい抵抗のようだけど、あっさりと「戦う女」は話題になり、
ボンクラ社長は金の臭いにつられて、工場移転を中止し、あっさりと自分の手柄へとすり替える。
女性革命成就のカタルシスは演出が下手くそなので、薄いけど、一応は感じられる。
しかし、功績を評価され正社員として採用決定されたジュリーに対して、
いざ契約という段階で重責故かその場から逃亡して、挙句振ったはずのイケメン野郎の元へと走る。
えええええええええという結末だ。いったい何それ?何のための行動なのか?全然わからん!
ミュージカル映画に現実世界と繋がる社会性を導入してはならないということではない。
「シェルブールの雨傘」だって背景となるのは、フランスのアルジェリア戦争なのだ。
ファミニズムを賛歌し、訴えるかのように装いながらも、
最後には何故かで勝手に自爆する脚本が許せない。ふざけるな!

補足だけど、「ラ・ラ・ランド」と比較するとデイミアン・チャゼルの策士ぶりが明確になる。
ここぞというシーンは一切カットを割って誤魔化さずに、
ミュージカル本来のスタイル通り長回し移動に徹する。
対してこっちはありがちにMTV風にパカパカとカット割りでお茶を濁す。演出力の核が違う。

偏愛度合★★★

先日の「サーミの血」と同様に安易にコメントできない作品だ。
もちろんアメリカ映画が得意とする物語のわかりやすい起承転結と娯楽性、
キャラクター描写などを存分に楽しめる好きなタイプの映画だ。
でも隠されたテーマや細部は単なる昔話ではなく、現在進行形の課題であり、相当根深く、
安易に意識高い人を気取り、上から目線で言及すると痛い目にあう重責を伴う。

二種類の差別が存在する。
一つは意識的な表層化している、見て、聞いて明らかな差別意識。
ネットを散策すれば、飛び交う特定の属性への罵詈雑言からも明らかだろう。
明らかな悪意があり、はっきりしている分、否定的な対処や距離を置くことが可能である。
もう一つは無意識な差別意識。
発言、行動している本人が差別だとは気が付いておらず、
その対象となる人の心のみに、差別として感じられる無意識な言動がある。
こればかりは、常に自戒を課さねばならない。
人は無意識をコントロールできない。
時として言葉や行動派は常に独り歩きし、受け取り側の感覚次第で暴走し、制御不能となるのだ。
そうなのだ。
本当に危険なのは後者であり、当人が無意識なだけに性質が悪い。
この映画の優れたところは、この二つの差別意識をちゃんと客観的に描いていること。

物語の視線は、NASAの宇宙計画に携わる三人の黒人科学者に置き、
ちょうど公民権運動の時代と重なるが無暗に人権運動(抵抗)として訴えるのではなく、
彼女たちを取り巻く職場環境、同僚や上司との関係性といった現実を通して知らしめる。
三人はGifted(才能に選ばれ者)たちだ。
幼少より数学の天才と称されたり、エンジニアとしての天賦の才を有する。
国家事業を担うNASAという組織でさえ、白人至上主義、男権主義が蔓延り、
女性であること、黒人であるこという二重差別を強いられる。
最近、PC的には「アフリカン・アメリカン」という呼称が正確なのだろうけど、ここではあえて黒人と表記。
目に見える差別は、物理的な人種隔離。
有色人種用のトイレが離れた別場所にあったり、珈琲のメーカーの白黒分離など。
でもそれ以上に登場する白人エリートたちが揃いも揃って、
意識的かつ無意識な差別意識を抱えた者ばかりなのだ。
多少作劇上の図式化する誇張表現もあるだろうが、本当にクズばっかり。
自分がクズであることにすら自覚していないクズどもである。
三人と共に働く黒人女性たちは孤立無援の施設の隅に追いやられ、隔離されている。
冷戦真っただ中なので、宇宙計画がロシアに先行され、焦りを感じ、
やがて国家の威信を賭けて、手段を択ばない策へと走る。
そこで三人が主要ポストへの異動となり、
段々とその本来の実力を発揮して、件のクズどもを唸られせる。
こう書くと、勧善懲悪な展開を想像するかも知れないが、あくまでもリアリティラインを守った、
地道な努力を繰り返し、小さな一歩を積み重ねる困難な道程だ。

三人のそれぞれのエピソードが秀逸だ。
天才数学者のキャサリンは最初、何故黒人なのに?何故女性なのに?と周囲に訝せながらも、
その才能で周囲を驚かせ、着々とポジションを築いていく。
ロケット発射の合否に対してパイロットが「あの切れ者の彼女がOKなら、俺はいつでも飛ぶ」
と応えるシーンはちょっと泣かせる。多分彼が軍人だからだろう。
軍隊では同じ部隊に属した者同士は肌の色よりも、戦場という死線を越えるにあたり、
お互いを守るバディとなり、そこでは背後を守る仲間を信じるしかないのだ。
実質現場を仕切っていながら、昇格を拒まれるドロシーに対して、金髪白人の管理官が言う。

「偏見はないのよ」
「ええ、知っています。そう思い込んでいることは」

という対話には拍手喝さい。やがて彼女も言葉を越えて管理職となる。
キルスティン・ダンストが無自覚な差別主義者を嫌味な感じで上手く演じる。
もうひとりのメアリーもまた資格獲得の条件となる白人限定宇学校への入学(拒否するための方策)
のために、裁判所へ直訴し、最後には勝ち取る。このエピソードも泣かせる。
ケヴィン・コスナー演じる白人の上級管理官が有色人種の専用トイレの現状を知り、人種隔離の
仕切りとなるサインを斧で破壊するシーンは一見美談としての見せ場のようだが、実は根深い。
彼自身目的のためには手段も人種を択ばない徹底した合理主義者であるけれど、
同時に職場に差別が存在すると言う事実をキャサリンから指摘されるまで気が付かないという
一番性質の悪い無自覚な者なのだ。だから単なる美談ではない。
現在にも通じる何かから目を背ける、眼中にないという根深い問題を示す。

そして何よりもこの映画は実話を元にした物語が過去の黒歴史として、
現在は差別が消え、社会全体が変わったわけではなく、
現在に至るまで紆余曲折の中、脈々と続いている問題であることを訴える。
幅広い娯楽性と思想やメッセージを絶妙に同居させ、興行的にも大ヒットさせるアメリカ映画の底力だ。

偏愛度合★★★★★

「生き残った者の掟」という映画があったが、まさしく60年代末から70年だにかけての激動の時代を
生き残ったロックニュージシャンには、一定の「掟」がある。
あの時代,、数多の才能のなるロックスターが27歳になると自動的にタイマーが作動するかの如く、
夭逝していった。殆どがドラッグ、アルコールなどのオーバードース。
そこには二つの選択がある。
若くして死に伝説と化した者と生き残る者だ。
本人が望むと望まないに係わらず悪魔の気まぐれで死に至ることもあれば、
自らの意志で生き抜く選択もあるだろう。
後者を選んだものには、共通して自ら課し続ける「掟」が存在する。
イギー・ポップは1947年生まれなので今年で、ちょうど70歳をむかえる。
本名はジェームズ・ニューエル・オスターバーグ・ジュニア。
映画でのクレジットではジェームズ・オスターバーグとある。
「淫力魔人」と称され、ステージ上で嘔吐したり、ナイフで己の体を切り刻んだり、
裸でガラス破片の上を転げ回って救急車で搬送されるといった奇行を繰り返し、
過激で暴力的な行動と定石の様にドラッグ中毒に陥ったロック・ミュージシャンとして悪名を馳せた。
でも近年バンド再結成などで披露したそのパフォーマンスには全くの衰えがない。
贅肉が一切なく、絞り込んだ体型とその機敏な動き、
舞台で繰り広げるパフォーマンス自体は往年と比べても全く遜色がない。別の意味で魔人だ。
ミック・ジャガーにも全く同質なものを感じる。
今作はそんなイギー・ポップへのジム・ジャームシュの
底知れない無限の愛と尊敬によって実現したドキュメンタリー映画だ。
伝説のロックスターとバンドのドキュメンタリーとおいうことで彼の作家性は薄い。
本人が健在なので、インタビュー中心となり、その他のメンバーや関係者の声に
残されたスティルとアーカイブ映像をミックスして、アニメーションなども導入しながらバンドの歴史を追う。
とりわけ目新しい手法ではない。
まず驚くのは、撮影時の正確な年齢は不明だけど、70歳近い老人のインタビューとは思えない。
過去への回想や質問に対する回答などその語り口には全く淀みがない。
凄まじく頭の回転が速く、的確に、そして知的に言葉を紡いでいく。
その姿はまるでロックスターというより引退した偏屈な老社会学者のようだ。
かつて淫力魔人とは思えない。そこでの彼の名はイギー・ポップというステージネームではなく、
ジェームズ・オスターバーグというひとりの男なのだ。
この二面性こそ生き残る為の課した掟なのだ。
日常でのワークアウトや体調調整など徹底した自己管理と
逆にステージという場では観客の求める姿を振ろうするプロフェショナリズムこそ全てなのだ。
この掟を課すことが出来た者だけが、生き残ることが出来るのだ。
ジム・ジャームシュならではの作家性によるドキュメンタリーではないが、
並ならぬイギーへの愛を感じそれは作品全体として観客も巻き込み、
当時を知る者も知らぬ者もあの時代を振り返る、年代記となっている。
今更ながら、最後に提示されるパンク、ニューウェーヴに与えた影響の大きさを痛感。

偏愛度合★★★

舞台はポルトガルの港町ポルトながらも、監督のゲイブ・グリンガーはブラジル出身であり、
制作はポルトガル、フランス、ポーランド、アメリカと多国籍資本が乱れている。
主人公のアルトンイエルチェンはロシア移民のアメリカ国籍、
ヒロインのルシー・ルーカスはフランス人、何故か製作総指揮にアメリカからジム・ジャームシュ。
ポルトガルの古都に直接由来する者は不在で、
誰しもが人生の途中で訪れて、寄り部もなく滞在している旅人のような感覚が浮かび上がる。
32ミリ、16ミリ、スーパー8と撮影メディアを使い分け、それをそのまま編集している為、
1本の映画の中で画面サイズや粒度が変わていく。
如何にもシネフィルが好み、撮りそうな作品だ。
コメントを寄せているのがジャームシュ以外にもにリチャード・リンクレイターなどその筋の人。
更に如実なのが、冒頭で提示さる制作プロダクション名が「Band A Part」なのだ。
もちろんゴダール「はなればなれ」の原題であり、YouTubeにはオフィシャルなのか、
ファン編集なのがは不明だけど、こんな動画が上がっている。
主人公とヒロインの再会となる場となるエドワード・ホッパーの絵画のようなカフェでのシーンだ。



この一連長回しショットのバックに流れる曲「はなればなれの」で
アンナ・カリーナがマディソンダンスを踊る曲(ミシェル・ルグラン)を思わせる曲。
どうやらJohn Lee Hookerらしいけど。もうぐうの音も言えない直球オマージュぶり。
作品全体への製作総指揮のジャームシュの関与具合は不明だけど、
男性視点、女性視点、二人の視点と物語に章立てした三部構成を導入したり、
フィルムの使い分けなど「パターソン」他、彼の旧作との共通点も感じられる。
ただ弱いのが肝心のプロットであり、主人公の内面描写だ。
口の悪い輩だったら、プロットの弱さを編集テクニックで誤魔化しているとも揶揄されそうだ。
見ず知らぬ二人が偶然の三回の邂逅から、言葉もなく、愛し合い、
その晩のうちに何度も性交を繰り返す過程が読み取れない。
視点を変えての構成なので、同じシーンが繰り返される。勿論会話を交わすが、
いわゆる作劇上の説明的な台詞ではないので、惹かれあう濃密な空気感のみが残る。
唯一印象的な言葉は

   「人はあらゆるものを忘れてしまうけど、忘れ去られたもの失われない」

という台詞だ。
二人を彩るのがポルトという街そのものの風景だ。
港、船、薄暗い通り道、カフェ、川、橋、ロープウェイ、カモメ、などが巧みな撮影で刻まれる。
エドワード・ホッパーの絵画の様な色彩感だ。
結局結ばれることなく、別れ離れになる二人。
アルトン・イエルチェンの遺作だ。作品は彼に献辞されている。
不慮の事故死なので、結果から逆に辿るのは反則技だけど、年齢の割には髪が薄く、
皺が目立ち、劇中でバーのカウンターで酔いつぶれ伏している様には死相すら感じらえた。
正直なところ、これからの役者としての活躍を見たかった。

偏愛度合★★★★

19世紀末、フランスのある上流階級の一家の女性を中心とした四世代に渡る年代記(クロニクル)。
最初何となくフランスワ・トリフォ―作品のようなタッチを感じた。
舞台はフランスで、言語もフランス語、現代フランス映画界を代表する女優三人を揃え、
たとえ当時の社会は男性であっても、生命は女性が守り、繋げていくという女性賛歌がうかがえる。
でも同時に何となく不アジア的な思議な感覚が付きまとい、
もちろん監督がベトナム人なので当然のことなのだが、奇妙なバランスに少々戸惑いを感じた。
視点が常に客観的で、傍観するかの様に世代を越えて家族に寄り添う。
でも映画的な起承転結や明確な物語、台詞も最小限で、
それも決して劇的なものではなくあくまでも日常の会話レベルでしかない。
そこに被さってくるのフランス語での女性のナレーション。
最初は後世代の誰かが自分の家族のルーツを振り返っているのかと思っていたが、
結局最後までそのことは説明されないまま終わる。
一体誰の声であり、誰の視点の物語なのか?
調べてみると実はナレーションを担当しているのは、監督の伴侶であり、
「夏至」「青いパパイヤの香り」「シクロ」など、常連女優であるトラン・ヌー・イエン・ケーだった。

イメージ 1

写真は「夏至」の頃。
いかにもアジア的な美人像だけど、不思議な色気のある女性で結構好みだった。
彼女の声で全てが腑に落ちた。
声こそ彼女が堪能しているけど、その背景にあるのは
紛れもない監督自身のアジア的な死生観や人生観なのだ。

「人生とは死者を見送ること」
「生命は永遠。生から死へと受け継がれる」

と劇中のナレーションで語られるのがこの映画の主題だ。
結婚式、洗礼式、一家での食事、子供たちのピアノやバレエの練習などディテールが丁寧に描写され、
人生賛歌とも言えるが、同時に無造作な生と死が溢れている。
それを所謂映画的な劇的なシーンとして描写しない。
当たり前のように死(例えば、戦死であったり、病死であったりする)が訪れる一方、
新たなる生命の誕生がそれに続く。
タイトル通りの永遠(エタニティー)の流れがある。
私的偏愛するオドレイ・トゥトゥとメラニー・ロランが揃え、
その名こそ記憶していなかったがベレニス・ベジョの美しさもまた随一である。
余談だが、メラニー・ロランを見ているといつも胸が締めつけられてキュンとなる。
ある日、気がついた。それは十代の頃に大好きだったナスターシャ・キンスキーを思い出すからなのだ。
初恋への思慕に近い感覚だったのだ。
女性陣の豪華さに対して男性は些か影が薄い。
男前を揃えてはいるが、その存在は所詮種馬であり、文字通り胎内で生命を紡ぐのは女性なのだ。
そう言えば監督の女性視点というのは初期作品でも一貫している。
「ノルウェーの森」での沈滞は本来得意分野でないストーリーテリングを
長尺原作の映画化に求められたというミスマッチングだったのかもしれない。
基本(いい意味での)雰囲気映画監督なのだ。
更には今作の撮影が何とも見事なのだ。
台湾出身だけど、もはやアジア、世界の名匠撮影監督と呼べるリー・ピンビンだ。
何と言っても代表作は「花様年華」だろう。
あの色彩、あの構図と完璧なまでに構築された随一の世界観がある。
他にも監督とは「夏至」以来のコンビで、ホウ・シャオシェン「黒衣の刺客」、
邦画でも是枝裕和「空気人形」など、そのプロフェショナルで美しい映像には驚かされる。
今作も印象派の絵のようなと称されているが、淡い色彩で緑の風景をロングショットで捉える。
カット割りは最小限、長回し主体で、カメラ移動はゆっくりと自然であり、
観客が自覚するようなこれ見よがしの技巧的な映像はない。
それでも映像が染み入って来るのだ。
そして音楽。
バッハにリストにドビュッシーなどをピアノメインで選曲される。
グレン・グ―ルドのバッハをバックにあの映像に浸っていると、現実感はぶっ飛び、夢幻的な感覚となる。
もう、堪らん作品だ。藻っと浸っていたかったぞ。

偏愛度合★★★★

映画は女優を愛でるものである。
その一点のみでは反論はないのだけれども、落としどころがない不可解な映画だ。
そもそもが、「Planetarium」という抽象的なタイトルでバスタブで裸(上半身のみだけど)で向かい合う
ナタリー・ポートマンとリリー・ローズ・デップのスティルを配したポスターだけで、
偏愛する二大女優への妄想に駆られて、わざわざ普段は買わないムビチケまで購入したのだ。
更には

「人の心を狂わすこの姉妹は、高名なスピリチュアリストなのか、それとも世紀の詐欺師なのか」

と煽るキャッチコピーこそ、皮肉にも映画そのもののを表す言葉なのだ。
ちなみにこのチラシやポスターのシーンは僅か数秒程度で、実は本編自体の展開とは何の関係もなく、
このワンカットを切っても全く影響がないレベルなのだ。
そう、映画自体がそんな詐欺師感に満ちている。
舞台は30年代のパリ。
アメリカから来たスピリチュアリスト(霊媒師)姉妹として、降霊術のショーの舞台に立つ。
配役が絶妙、というか映画全体で二人しか見るべきところは少ないのだけれど。
霊感があるとされているのは妹のリリー・ローズ・デップ。
女優としては未知数だけど、あの父母から引き継いだ容姿と透明感はぴったり。
マネージャーとして仕切るのが野心家の姉のナタリー・ポートマンだ。
実生活でも子役出身ながら身を崩すことなく、一流大卒でオスカー狙いを「ブラックスワン」で
達成して以降も、その伴侶や作品選びなど、留まることない強かな野心がありありとうかがえる女優だ。
今作も初監督作品が評価された女性監督を起用するなど、策士としての片鱗がうかがえる。
ここまで常時意識が高いと嫉妬や嫌味を越えて、清々しいくらいの真っ直ぐな生き様だ。
でも、二人が30年代のクラシックな衣装で動く姿には溜息が出る美しさだ。
作品を覆う詐欺師感とは、二人のキャラクターによるのではなく、
映画作品(視点)として、最も肝心の心霊現象そのものへの否定も肯定もしない中途半端さにある。
それらしい舞台を見せながらも、本物のスピリチュアリストなのか、詐欺師なのかを明確にしないまま、
ユダヤ人富豪で映画プロデューサーの怪しげな男の登場で物語は逸脱していく。
彼は映像で降霊現場を記録すると意気込み、作品自体が映画制作現場の裏話へと転調していく。
動画フィルム(モーションピクチャー)で現実を越えた現実を記録するという映画そのものへの
メタな言及とも取れるけど、大金をはたいて撮影した作品を周囲はあっさりと実証不可能なものと
詐欺扱いのままあっさりと終焉する。物語が取集つかぬままに終わる。
観客もまた置いてけぼりで、あっさりとその後二人の顛末のみが語られる。
もっと見えない世界を見せて欲しかった。

偏愛度合★★★

公開館数が少なく、前情報一切なしで劇場へ。
まずはタイトルが全く意味不明だった。スイスとも軍隊とも無関係。
本編を終え、ようやく気が付いた。
イメージ 1
コレのことなのね。
何でも役に立つ万能ナイフじゃないくて男(厳密にいえば死体だけど)だから
「スイス・アーミー・マン」なのか。確かに子供の頃、これ欲しかった。
本物は高くて買ってもらえなかったけど、それらしいパチモンは持っていた。
かと言って実際に使用した記憶はないけど、男子は持っているだけで嬉しいものだ。
しかし何とも人を喰った映画だ。
船が遭難して無人島で一人助けを求める孤独な青年はハンク(ポール・ダノ)の元に、
波打ち際に男マニー(ダニエル・ラドクリフ)の死体が流れつくのだ。
絶望の淵で、自ら命を絶つ決心で首つりを敢行していたまさにその時なのだ。
果たして現れたのは天使か、悪魔か?
そこからの先読み不可能な展開には驚愕。
死体から出るガス(要は屁)を動力として、沖へと繰り出し、海を渡り、何とか陸へとたどり着く。
挙句の果てに死体はしゃべり始め、孤独な者同士として二人は会話を交わすのだ。
いわゆる生きている死体であるゾンビなのだけど、ゆったりだけど会話もあり、少しは動くこともできる。
いったいこれは何を意味するのか?
勿論死者が生者を食らうゾンビものではない。
夢なのか、それとも主人公の死に間際の幻なのか?
そもそも、無人島で遭難したというのも、果たして現実なのか?
当然ながら、合理的な説明や理由付けは一切しない。
予想外の展開に身を任せて楽しむだけだ。
ハンクは内気で、根暗な青年。
毎日バスで出会う美しい女性に憧れながらも声をかけることが出来ずに、携帯で隠し撮りするのみ。
そんな彼が出会うのがマニーというスイス・アーミー・ナイフ並みに多機能を要した死体だ。
会話相手となり、ジェットスキーにも、浄水器にもなれる理想的な秘密兵器なのだ。
深読みするまでもなく、友人のいないオタクの妄想的なイマジナリーフレンドのメタファーであろう。
生きることに欠けた者同士が力を合わせて、人里を目指して、旅に出る。
道中、ごみを集めた小屋(二人の秘密基地か?)で記憶の一場面を再現するなど、
ミシェル・ゴンドリーなどでお馴染みのガラクタを集めたハンドメイドなガジェット劇が展開される。
お互い段々と友情が芽生えてくるのも当然。
旅の末、ようやくたどり着いたのが件の憧れの女性の家という唐突な展開。
一応はマニーは彼の妄想ではなく、実在する死体として処理されるが、最後までの説明はされない。
この物語自体が死に際のハンクが見た走馬灯の様な光景ともとれる。
まるで笑えないジョークの様な人を喰った話だけど、不思議と後味は悪くなく、
もう一回観てみたい衝動に駆られるのだ。

しかしダニエル・ラドクリフの染み付いたハリー・ポッター色を、
何としてでも払拭しようと足掻く、無茶な仕事選びと演技ぶりには笑える。



偏愛度合★★★

神は細部に宿るという通り、ディティールの積み重ねが物語を動かす。
特にミステリーというジャンル映画なわけで、細部での描写こそが、
全体の伏線となり、どうにもそこの詰めが甘いのが目立つ。
原作は未読なので、原作自体の問題なのか、映画化の際の脚本の粗なのかは不明。
古いノートに記された書き手の不明な文章の事実を探るという叙述トリック自体は映画化が困難。
文章ならば勝手に読者がそれぞれ書かれた場面を勝手に想像し、曖昧なままで済ませられるが、
映画化の場合はそれを映像化しなければならないので、具体的、限定的な像を提示せざる得ない。
想像力の隙間が少なくなる。
そこで細部の整合性の粗い描写があり、物語自体に乗り切れない。
まあ役者は文句なし。
吉高由里子、松坂桃李、松山ケンイチの三者も役柄通りではまっていて想定内。
佐津川愛美や清野菜名などの脇も上手く配している。
ちなみにリストカッター三人娘という酷使具合。割と生々しくゴアに見せるので痛い。
ほころびは木村多江の役柄に起因する。
彼女の演技力ということではない。いつのも薄幸オーラは全開である。
ネタバレになるが、過去と現在を繋ぐある人物でありながらも、
その容姿の差は整形手術というご都合主義、また後半の佳境で単身ヤクザの事務所に素手で乗り込み、
手負いなしに全員をあっさり抹殺するなど余りにもいい加減なキャラクター設定が続く。
また重要な小道具であるはずの青酸カリの瓶のぞんざいな扱い、
物語の展開に対して、時折一切描かれない出所不明の金が見え隠れするなど矛盾が多い。
身体を売って生活した女性が、
結婚後夫婦と男の子の慎ましく貧しい暮らしからは捻出できそうもないのだ。
重箱の隅を楊枝でほじくる必要はなくても、その細部のリアリティで人は大きな嘘を信じるのだ。
結果、どうにも乗り切れず。


偏愛度合★★

逃げるという選択についての映画。
何かしらが自らを束縛し、抑圧し、他者から区分け、差別される縛りとなっている場合、
それからの逃亡という選択とそれに伴う重荷について描く。
安易に評価できない重いテーマを秘めた作品だ。
残念ながら、洋の東西、時代を越えて、人は常に差別する生き物であることは紛れもない事実。
世界中どこの国でも、人種や種族、瞳や肌の色などの身体的特徴、性別、特定の職業に従事者、
居住地域、社会的階層の下位者など、ありとあらゆる理由を設けて、差別や区別を強いる。
多分これは人類の創生から、消滅まで絶えることなく続くだろう悪習で、決して消えない。
悲しいけれども、それが前提でリアルワールドは成立している。
差別や抑圧に対して、時として世間では安易に叫ぶ。
「逃げちゃダメだ」「逃げずに立ち向かえ」「(要因となる)制度を変えよう」、
あるいは逆に「逃げてもいいんだよ」「そんな時は逃げるべきだ」などとまことしやかに語る。
でもそれは束縛、抑圧、差別されている当事者の声ではない。
意識の高い人ほど、理性的、中立を装い、これらの発言を真理であるかのように繰り返す。
映画「ドリーム」では、白人女性の管理官が職務上差別されている黒人女性に対してこう言う。

「(人種に対する)偏見はないのよ」
「知っています。そう思い込んでいることだけは」

背筋が寒くなるのを感じて、自戒を込めて、リベラルで中立的な立ち位置を改めて考え直した。
当事者とそれ以外の者との温度差、感覚の差は明確なのだ。
自分のアイデンティティを形成する要素(タイトルであるサーミ人としての血筋)を
捨て去るのは並み大抵のことではない。
物語の主軸となるのはその選択を選んだヒロインの内面の葛藤や苦悩だ。
ただしこの映画が巧みなのは、その語り口であり、プロットの構成手法にある。
アイデンティティから逃げるという選択と選んだ結果しか描かない。
その中間にあったであろう人生を一切描かない。
法を犯した犯罪者の逃亡生活には、大概時効があるが、この逃亡には時効がない。
いや、それ以前に差別には罪もなければ、罰もない。
生まれた時から理由もなく一方的に強いられるだけだ。
単に周囲から強いられたものとは違う道を選んだだけなのだ。
選択の当時は周囲と違ったことに挑戦したい、自分の可能性を信じたい、
別の世界で暮らしたいなど、単なる若気の至りもあっただろう。
若者が家出や駆け落ちレベルで、まだ見ぬ未来に期待するのは当然のことだろう。
そして別名を名乗り、サーミ人であること(部族社会)から逃げることを選択した。
結果は、半ば息子に強引に連れられて妹の葬式に出向くまで一度も故郷の地を踏むこともなく、
親姉妹の死に目にもあえずに、密かに生き続けてきた。
物語は帰郷という現在の断片(フラッシュフォーワード)から始まり、
過去の回想シーンを物語の中心として挟み込み、再び現在に戻るという構成だ。
観客は隠されたその空白を想像する。
劇中では描かれない現在に至るまでのこの空白にこそ、途轍もない重荷がある。
自分自身を形成している要素の全てを日々絶え間なく否定し続けてきたのが彼女の人生だ。
安易に「いつでも逃げてもいいんだよ」と言えるレベルの選択ではない。
常に選択にはリスクと重荷が伴うのだ。
スウェーデンのラップランド地方にサーミ人という先住民族がいることも、人種的に劣っているされ、
文明社会で生活できない野蛮人として差別されていることもこの映画で初めて知った。
規模から見れば映画産業の先端ではないスウェーデンという小国が自国の歴史の暗部であり、
現在も継続しているタブーをテーマとして、決して幅広く楽しめる娯楽作品ではないが、
世界的に評価される商業作品として撮ることが出来る懐の大きさには驚いた。
現在の日本でそれが可能かと言えば、悲しいけれども疑問しかない。

偏愛度合★★★