タイムトラベルにパラレルワールドというゴリゴリのSFガジェットを導入しながらも、
それは単なる物語のきっかけに過ぎず、全体的にご都合主義な緩さが漂う。
SFを期待すると、作品中の粗探しで、全く落ち着かないだろうけど、多分作り手の意図は別にある。
逆に非現実な設定に無意識に拒否が伴うというSF脳がインストールされていなくても大丈夫。
この緩さは基本的には、いい話としてベタに泣かせる演出へと向かう。
可憐なひとりの女性を愛するふたりの男という聖三角関係を敷く。
描かれる女性像は男性妄想的な内面描写のない画一的な元気で明るい愛いっぱいの美人像。
ツイストしてあるのが、そのふたりの男が時代を隔てた同一人物であるという点。
ひとりは未来を知らない故に未来を信じる若者、もうひとりは過去に絶望し、現実にやさぐれた中年男。
通常の時間旅行ものの場合、親殺しのパラドックス故に本人同士の接触は避けられる。
ところがふたりがこれから起こることをベラベラと話すばかりが、
協力しないながら、未来を変えようとする。もうその時点でハードなSF脳は拒否するだろう。
カンボジアの老人からもらった魔法の薬って程度で流した方が良いだろう。
更には都合よく、過去へ旅立てるのは10回限定(薬が10粒)というのだ。
割とテキトーに思いつくままにトライ・アンド・エラーで試行錯誤するのもどうしたものか。
ふたりだけど、元々ひとりなんだからそこで何をして、何を思っても所詮自己完結に過ぎない。
過去を変えることでその都度現在が改変されるのだ。
でも本人は余り気にしないし、過去の改変によって波及するであろうバタフライエフェクトは、
全く無視して、主人公たちの身の回りだけの変化しか描かない。あああああ。
結局、当然のように最愛の恋人と最愛の娘という主人公の現在を守る術を実行する。
この再会の感動を売りにしているの知れないが、流石に乗れない。

ふと蛇足のように思った。
この作品の一連のご都合主義こそ、映画製作へのメタファーなのではないだろうか?
映画は撮影で切り取った断片を編集(モンタージュ)によって組み換え、時間を操作するメディアだ。
作品が完成するまで何度でもやり直しがきく。
都合の悪い部分はカットして、撮り直せばよいのだ。
そして映画の物語は箱庭的な舞台限定なのだ。物語世界内での物語を構築すればよい。
更に複数の俳優によってひとりの人物の過去から現在へと演じ分けるのも常套手段。
物語の都合で脚本をいじり、役柄のキャラクターを変えるのもありがち。
どれも映画製作現場で当たり前のように行われている手法ばかりだ。
物語という目的のために、ありとあらゆる語り口を駆使して作品へと仕上げるのだ。
主人公が望んだ現実とはまさしくそのような手段で得られたものなのだ。
果たして監督がそのようなメタフイクションを密かに意図しているかは不明だけど、
映画って現場での試行錯誤というご都合主義によって生まれた結果的産物なのだ。


偏愛度合★★★

ひとりの男を狂おしく愛するメンヘラ具合やブルー系のワンピースのイメージから
何となく「ベティ・ブルー」のヒロインを思い浮かべた。
男性にとっては、女性は永遠に憧憬の対象であると同時に、理解不可な畏怖の存在なのだ。
その儚げな美しさと危うい怖ろしさの両極を身をもって表現してくれるのがマリオン・コティヤール
であり、彼女の底知れない魅力を存分に堪能できる作品。
殆ど「マリコひとり芝居劇場」といってもいいくらい、近年でも群を抜いた熱演だ。
それを引き出したのが女優としても知られる監督ニコール・ガルシア。
それを知って納得した。
最近ヨーロッパ映画での女性監督の躍進が目立つ。
元来監督業は男権が強く、時折女性監督が登場すれば決まり文句の様に
「女性ならではの繊細な……」と意味不明な称賛を課するミソジニーな世界だ。
どちらかといえば繊細さよりも、
同性への容赦のないリアルな生々しさこそが多くの女性監督に目立つ特徴なのだ。
ロジェ・ヴァデムやゴダールなど女優の美しい瞬間を撮ることに定評がある監督は多いが、
それはどこか男性視線の妄想性に満ちている。自分の偶像の具現化に近い。
今作はスケジュールもマリオン待ちで調整したくらいの入れ込みようだ。
同じ女性が、更には同じ女優が描く女性像は確かに美しいけれども、
同時に思い込みの激しい、危うい内面を容赦なく描く。
生々しすぎて相当痛い。やはり同性には容赦がないのを痛感。

物語は彼女の視点で描くことで一種の叙述トリックのミステリーとなっている。
50年代のラベンダー香る南仏プロヴァンス地方という絶妙な舞台設定。
やっぱりマリオン・コティヤールは古典劇がよく似合う。
一方的な恋に破れて、見合い結婚したスペイン人の夫との日々。
「あなたを絶対愛さない」と言いながらも、平穏な毎日だったけど、この描写は狂気への助走に過ぎない。
平穏の日々にも狂気が潜んでいるのが恐ろしい。
腎結石の治療のため、アルプス山麓の療養所へ。
そこで出会ったのが、インドネシナ戦争の負傷兵アンドレ。
そこでスイッチが入り、後半の暴走へとギアチェンジする。
いや暴走というより、妄想かも知れない。
彼と過ごした僅かな期間、その別離後も執拗に彼を思い続ける執念というか、狂気が凄まじい。
一方的に手紙を書き続けるが、返事もなく実体のない彼女だけが抱く妄想存在と化していくアンドレ
と夫のアレックスとの対比が巧い。物語は17年にも及び、その末に知った真実。
マリオン・コティヤールをひたすら眺める作品ではあるが、
同時に男性観客の視点としては、彼を見守る夫への同情はあっても、
ヒロインの心情には全く共感できずに、最後まで振り回されるだけなのだ。
決して捕まえられない女性に振り回されること自体が、一部の男にとっては快感って見方もあるけど。
それも理解できる。

しかしマリオン・コティヤールは美しかった。
でもマリオン・コティヤールは怖かった。そんな映画。



偏愛度合★★★★

シリーズ第一作「死霊館」は楽しめた。
超常現象研究家でありウォーレン夫妻がいい味出していて、
特に妻役を演じるヴェラ・ファーミガが結構好みなのだ。
ケイト・ブランシェットやティルダ・スウィントンにも通じる細面で血の薄そうなタイプの美人。
夫婦のコンビネーションで死霊と対決するのが、目新しかった。
その夫妻の家にある結界で封印された部屋に仕舞われた忌まわしき物の数々の中でも、
最恐なのが死霊人形アナベル人形なのだ。
その誕生の秘密がついに明かされるのかと思えば、
2014年に既に前日譚「アナベル死霊館の人形」というのがあった。完全に忘れていた。
この種のジャンル映画は消費され、劇場を出た瞬間から忘れ去られるのが常なので仕方がないけど。
とうことで前日譚の更に前日譚というネタ切れ感も感じられる強引なシリーズ化にちょっとうんざり。
でも動画サイトにアップした自主製作の短編で名を馳せ、
長編化「ライト/オフ」に抜擢されたというデビッド・F・サンドバーグが監督をということでk微かに期待。
でも残念ながら、全然怖くない。
ここでも繰り返しているのが、電気が消え暗闇になったら悪魔が近づいているという同じパターン。
おいおい、監督の持ちネタはこれしかないのかよ?
物語は文字通り人形の誕生、その製造現場から始まる。
昔気質の手作りにこだわる人形職人とその妻と娘が第一幕の登場人物。
不慮の事故で娘を交通事故で失った夫妻。深い悲しみに明け暮れ数年の時が流れる。
そして第二幕はその夫妻の家に修道女が行き先のない孤児の少女6人を連れて泊まり込みに来る。
幽霊屋敷譚でお馴染みの立入禁止の封印された部屋、怪しげな物音、不穏な人影と次々と異変が起こる。
少女のひとりのが何者かに憑かれ、支配され、言動が異常となってくる。
もう展開自体が定石過ぎて目新しさがない。そこに自家薬籠中の電気のオンオフを盛り込む。
全然盛り上がらない。
やがて登場人物の口から、異変の原因を台詞で説明される。
いかにも説明的な台詞ってところが禁じ手でまたしてもテンションが下がる。
古くは「猿の手」と同様の、死んだ子供を蘇らせるために、忌まわしき者へと近づいたために、
予想外に娘とは別の異物(キリスト教徒なので明確に悪魔か悪霊)となって帰ってくる。
その惨劇から12年が経過しているが、その間は平穏が維持されていたらしい。
そこに突如巻き込まれるのが寄宿している少女たち。
闇に潜む姿、影、音と脅かす手法もお馴染み。
そうなのだ。実はホラーとコメディは同類なのだ。
極限状態の恐怖がどうしようもなく、戸惑いながら薄笑いへと繋がるのと同じく、恐怖と笑いは似ている。
コメディ劇ならは、決まりのギャクが展開される形式性とそのタイミングやじらし方に演じ手の技がある。
ホラーも同様に、入ってはいけない場所へとわざわざ踏み込む、開けてはいけないものを開ける、
わざわざ逃げ道の立たれる二階へと逃げるなどの形式があり、それを巧みに繋いで、観客を驚かせる。
お決まりのネタこそホラーとコメディの本質だ。
ハッキリとは見せない気配で怖がらせている分には良いのだが、後半は悪魔降(悪霊)降臨とばかりに、
単なる怪獣映画か動物パニック映画となってしまうの残念。
存在とその背景が明かになると恐怖というより、単なるワッ!とびっくりさせるショッカーに過ぎない。
個人的にはデビッド・F・サンドバーグの短編は一発ネタで楽しめる傑作だろうけど、
それを長編にするために背景や登場人物のディテールを水増しして、結果薄っぺらいと感じた。
舞台での一発ギャクなら笑えるけど、それを繰り返し、背景説明されると冷めるだけなのと同じ。
今回もまた同じ轍へとスタックしてしまった。
不謹慎な言い方だけど、生贄となる少女を6人(年齢も大人びた子から、まだまだ少女まで幅がある)
も揃えているのに、死亡率は低く、ゴア度数も低い。
犠牲はあれども、大方はあっさりと逃げのびて、神父の除霊で完了って、都合よすぎないか?
このシリーズももはや断末摩か?

偏愛度合★★


NETFLIXに限らず、特定の有料会員動画配信サービスでの限定公開という形式にはついていけない。
WOWOWという有料チャンネルで映画を観ることも多く、劇場未公開の傑作と出会うことも少なくない。
もちろん映画と出会う機会(手段)の問題だけであって、全面否定はできない
これは否めない時代の流れであり、今後も拡大するだろう。
例えば、珈琲豆を大手チェーンから画一商品を仕入れていた喫茶店が自家焙煎を始め、
自店オリジナルの商品を提供するって商いとしては当然のことだろう。誰も非難しない。
でも映画というメディアに関してはややこしい。
映画館で観るのがこそが映画であり、
レンタルDVDやネット配信で観るのは邪道だと、いまだに映画館という場所が聖域化される。
音楽の世界でもフィジカルなメディア(特に中途半端なCD)が駆逐されようとしている中、
映画も鑑賞スタイルを変えていかざる得ない。
否定はしないが、いつでも観れる状態だと日々の時間的な制約もあり、結局余り観ないだろう。
劇場ならば、休日に時間を確保して梯子するなどが可能。
逃げ場のない暗闇へと追い込んでこそ集中できる時もある。
でも動画サイトって流しそうめんみたいな感じだ。
流れてくるそうめんを食べることに追われたり、食べる前に流れ去っていく。
だから今のところ一歩踏み出せない。
「okja」も韓国シネコンでの上映拒否や公開形式を非難してカンヌ映画祭での
今後のネット配信限定作品の出展拒否とかの物議を醸しだした作品。
自分も京都国際映画祭での特別上映にて劇場鑑賞。一般公開はされていない。

前置きが長くなったが、それは兎も角、是非幅広く公開して一人でも多くの人に観て欲しい傑作だ。
特に小学校の授業の課題として必須にすべき作品なのだ。
多分社会規範や道徳的な側面を学びつつ映画というメディアを楽しみ、慣れ親しんでいくことができる
2時間の娯楽作として無駄なくきっちりとまとめているが、テーマは奥深い。
まずは動物(ペット)と過ごすことの素晴らしさが余すことなく体験できる。
CGでつくられた存在しないものなのに、少女の目を通してリアルで生々しくたまらなく愛おしく思える。
犬や猫を飼っている人ならば、お馴染みの仕草、例えばへそ天で居眠りする姿などが堪らない。
同時に生命への大きな責任が伴う。
一緒に過ごした時間の全てが大切な記憶になるけど、必然的に別れが重荷となる。
更には肉食という当たり前の日常に潜むダークサイドを描く。
人の都合で家畜として、食うために生まれ、育てられた動物の過酷な現実がある。
食卓や店頭に並ぶ、美味しいものの裏には必ず屠殺という過程があり、
食肉加工される動物の姿を事実として容赦なく描く。屠ることの意味を知ることが出来る。
世間的には隠したがる部分ではあり、それを担う人への差別を伴ってきたが、必ず知るべき現実でもある。
その筋のドキュメンタリー映画でお勉強するのではなく、娯楽作品を通して自然と学んでいくのだ。
押し付けられる知識ではなく、楽しんで身についたことは一生忘れない。
自分自身がそうだった。
人生で役に立つことも、余り役には立たないことも殆ど映画を通じて知った。
物語は映画的に明確に図式化している。
純粋無垢な田舎育ちの少女に対して、敵役として世界的な食品メーカーを置く。
企業の飽くことなき利益追求と金儲けに伴う表と裏を描く。
CEOであるティルダ・スウィントンの偽善的な過剰演技なパフォーマンスには笑える。はまり役だ。
また一見味方のような動物保護団体という一見正論だけど、その偽善性も皮肉る。
動物愛護をうたうインチキ司会者も同様。
こちらもジェイク・ギレンホールとポール・ダノがティルダ・スウィントンと同様にはまり役。
少女役を始めとして配役が何とも見事なのだ。
細かいエモーショナルな演技というより役柄に徹したパフォーマンス感が娯楽作品としての図式化を担う。
そして(観客である)子供は大人って所詮インチキで、
世の中に蔓延るまやかしを信じてはいけないことを学ぶのだ。
韓国の山中からソウル市内、更にはアメリカのニュージャージー、ニューヨークへと
ダイナミックな移動を繰り広げるのも映画ならではの躍動感だ。
連れ去られたokjaを追う少女の視点で一貫して観客を感情移入させる演出も見事であり、
一見シンプルな善悪対比の娯楽として成立させながらも、
ちゃんと主軸となる道徳や倫理が一貫して、作品全体として揺るぎがない。
これは本当に傑作。ポン・ジュノの最高級の1本と断言できる。

だからこそ、ネット配信オンリーなんてけち臭いことを言わずに、
DVD発売や小学校の授業必須科目にしてでも幅広く知らしめるべきなんだ。


偏愛度合★★★★★

シリーズものの場合、どうして間隔が空いてしまうと前の作品を忘れてしまう。
ざっくりと物語は振り返ったものの、出来れば事前にDVDで予習を済ませ、
シリーズを通して一気に観るべきなんだろうな。
初代「猿の惑星」へと向かう三部作とは聞いていたので、
一応今作が最後のはずだけど、確かに段々と近づいているけどまだミッシングリンクが残っている。
TVの洋画劇場で初めて観て、衝撃を受けた世代。
くどいくらいにシリーズ化され、段々と物語上の矛盾点ややっつけ仕事も目立ってきたけど、
やはり思い入れの多い作品だけど、吹き替えばかりで、オリジナル言語版は相当後で観た。
殆ど無かったことにされているティム・バートン版は置いておいて、
この三作は全体的にダークなトーンで猿側の視点で共感できるつくりになっている。
今作は監督曰くクリント・イーストウッド「アウトロー」を参考にした断言するくらい西部劇風味が濃厚。
それも正統派ではなく、血生臭い復讐劇が繰り広げられるマカロニウエスタンの流れの西部劇。
戦時に、敵側兵士に妻と息子を殺された男の復讐譚という基本設定が同じ。
シリーズ前作からの続きで、猿の知能を高めたウイルスにより、滅亡の危機を迎えている人類の
最後足掻きともいうべき紛争が続く近未来。
都市は壊滅し、残されたわずかな者たちが結束して猿へ対抗する。
虚しいまでにお互いの復讐と復讐の掛け合いしかない。試みられた共存は前作で争いへと転じた。
そこに「地獄の黙示録」というトリッキーな引用を企てる。
先日の新作「キングコング」といい、
丁度ひと回りして若手監督のリアルタイムで影響を受けた作品なのだろう。
カーツそのままの人物造形な大佐といい、劇中の地下道に書かれた落書きが
「Ape Callyplypse Now」にヘリコプターでの敵陣襲撃などわかりやすすぎる監督の偏愛感。
ウディ・ハレルソン演じる大佐は猿の撲滅を企てる軍隊のリーダーだ。
剃髪された頭と奇妙なロジックをモゴモゴと喋る演技でマーロン・ブランド風味を巧みに再現する。
基地の建物の上から軍団を見下ろし、兵隊たちががまるでナチスのように動きを揃え、軍団を称える。
こちらは「マッドマックス怒りのデスロード」のイモータル・ジョーの影響か?
こちら王国もまた引用ネタと同じく崩壊していくのだが、その様子が滅びゆく者の物悲しさを訴える。
国旗や国歌(星条旗よ永遠なれ)の皮肉な使用が現在のアメリカへの揶揄が効いている。
断末摩に足掻く狂った集団にしか見えない人間側に対して、
最初から観客視点は明らかに猿側でシーザーの言動と同調する。
妻と子供を襲撃で殺された以降の彼の言動はクリント・イーストウッド化する。
常に眉にしわを寄せ、暗い表情で多く語らず、執拗に相手を追う。
そこに同行する腹心の猿たちとの復讐の旅路となる。
それは雪の山中の行軍や、過酷な旅だ。
ウイルスにより口のきけない人間という設定、ノバという少女や懐かしいコーネリアスという名の登場で
初代「猿の惑星」へのリンクを巧みに提示するあたりはファンとしては嬉しい限り。
ラストの湖も宇宙船の不時着場所を意図しているのか?
アンディ・サーキスの熱演も見事。
モーションキャプチャーというテクノロジーは俳優を肉体と言う呪縛から解放したともいえるだろう。
老若男女問わず、動物、機械など何モノにでもなれるという特殊メイクや衣装では限界がある演技の
縛りを全て取り除いた新たな自由度が生まれた。
初代と同一世界観の作品とすれば、最後のミッシングリンクは自由の女神で示される核戦争だ。
続けてまだシリーズを続けるつもりなのか?
このシリーズのクオリティ維持度ならば、ちょっと観てみたい気もするけど。

偏愛度合★★★

j着陸寸前の飛行機の正面衝突という実際に起きた空前の飛行機事故の映画化。
ただし事故そのもをは殆ど直接的に描かず、事故で妻と娘(胎内は孫を宿していた)を
一度に亡くした初老の男と悪い偶然が重なり、結界的に400名以上の乗客を業務上過失で
死に至らせた若い管制官の事故の余波(アフターマス)のみに絞った人間ドラマとなっている。
事故前後の二人の日常や心理描写が中心の極めてミニマムな作劇だ。
事故そのものはレーダー上で機影が消える瞬間のみで表現し、
その後はいきなり雪の原野に散在した破片のみという限定した形でしか表現しない。
些か不謹慎ではあるが、衝突の瞬間という映像的な見せ場を封印している。
もっとも昨今安易なCGが溢れ、観客もつくられた疑似映像であることには自覚しており、
仔細に描写しても目新しさも衝撃もないだろうが。
二人のその後の余韻のみに物語を絞り込む。
最近日本では飛行機事故の事例自体は多くはなく、それ程身近なものではないかも知れないが、
交通事故や大震災による津波や原発事故などに置き換えれば、
突然理由もなく被害者となった者と原因の一部を担った者という対峙は誰誌にもありうる事象。
テーマ自体は消え編めて普遍的なものである。
大切な身内を失った途轍もない悲しみ、それでも続く日常。
同じく自分の過失で多数の人の命を奪った罪悪感に苛まれる苦しい日々。
正反対のようで、実は同質のものだ。自ら死を覚悟するのも同じ(結局そこへは踏みこまない)。
航空会社の補償問題、業務上の状況、責任追及など事務ルーティンも多少は描かれるが、
全編を貫くのはふたりの重苦しいまでの苦悩。
眉をしかめて、焦点の合わない視線で、生と死の合間をかろうじて生きながえて彷徨う。
物語的は、彼らに安易な救済や癒しを与えることを一切しない。客観的にその姿を追うだけ。
アメリカ映画に珍しく、神の救済というありがちな定石は一切描かない。
無神論者というより、概ね現実世界では神は然程役立たず、アイコンだけの無能な存在だ。
単調に延々と続く、眉をしかめ、思いつめた暗い表情が苦痛になってくる。
シュワルツェネッガーが演じる主人公は責任追及の果て、復讐という安易な手法へ駆り立てられ、
管制官との間にボタンの掛け違いの様な悲劇が起こる。
悲劇が悲劇を生み、更に悲劇を生んでゆくという負の連鎖がある。
物語は事故発生から10年弱の時間を追うが、演出的なメリハリが弱く、
一度も晴れることない曇天と雨天を延々と見せ続けられ、やがて苦痛すら伴う映画だ。
監督の意図的であったとしても、心地よいものでない。

偏愛度合★★★

結局のところ、愛ってややこしい。
元をたどれば、単なる脳内ホルモンの為せる幻想であり、
一瞬の狂気の一種に違いないのだろうが、どうしても関わるもの全てをこじらせる。
それは男と女であっても、男と男であっても、女と女であっても結局同じ。
王家衛「ブエノスアイレス」を観ても、異性愛者は男同士だから関係ないとは感じない。
性別とは無関係に誰かを狂おしいまでに欲し、抱きしめたく、愛したくなる気持ちには変わりない。
異性愛者でも共感できる普遍性があり、それはセクシャリティの問題とは無関係なのだ。
レズビアン映画といってもある特定の嗜好をゆする人を対象とした特異なジャンル映画ではない。
この映画は痛快なのは男性による妄想的なレズビアン映画ではなく、
またレズビアンによるレズビアン映画でもなく、女性によりレズビアン映画だという快挙。
女性監督は勿論、プロデューサー、カメラマン、照明に至るまでのスタッフに全員女性を揃えたこと。
「女性視点からみた女性のためのラブストーリー」を目指したらしい。
これらを前情報として知らずに劇場へと足を運んだけど、
結果はフェミニズム的なミサンドリーな断片が蔓延しているかと言えば全くそんなことはない。
「ブエノスアイレス」と同じく、ややこしく、こじれた愛の姿があるだけだ。
映画や文学などの作り手に対しての
「女性ならではの繊細な感性」というクリシェな言い回しが大嫌いなのだ。
男性抱く女性同性愛者への妄想性は皆無。
言葉通り繊細さよりも、同性であるが故に生々しさが感じられる。
それは時として男性が求める妄想性を排除した容赦のないリアルさであったり、生々しいまでの姿。
そこには異性愛の男性から見ても素直に「恰好良い!」とエールと
密かな欲情をおくりたくなる痛快さを二人のヒロインが見事に体現する。
モデル出身で金髪のエリカ・リンダ―の存在感は素晴らしい。
短髪で細身だけど、職業は大工で男勝りの仕事っぷりで、常に男っぽい服装やしぐさなのだが、
やはり女性が秘めているアンビバレンツな感じにはたまらなく魅せられた。
彼女の相手役であるナタリー・クリルもまた同様に目が離せない。
異性愛者で男前の婚約者がいながらも、何故か同性である彼女に惹かれていく葛藤。
思いもよらずひとりの女性の中から別の女性が噴出していく感じが伝わってくる。
二人の距離は縮まったり、離れたりと、恋愛映画ではお馴染みの駆け引きが続く。
この出会った瞬間のビビビッというきらめき、直後のもどかしい感じも、痛いほどわかる。
本編の多くは女性同士のラブシーンが延々と続くが、男性を欲情させるためという視点が
全く欠落しており、如何に自分たち女性を生々しく、美しく撮ることだけ徹しているのが清々しいのだ。
流石に男性監督なら描かなかったであろう、
男性器型の張り子をベルトで腰に装着してプレイするシーンには驚いた。これがリアルワールドなのね。

最後にネタバレになるけど、このジャンル映画の多くは悲恋に終わることが多い。
マイノリティ、あえて正論者から見れば異論な唱える道を外れる者への
戒めのつもりなのかバッドエンドで終わることが多い。
全くバカげているけど。キリスト教背景もあるのかもしれない。
でも今作はハッピーエンドと言えよう。
既存の価値観から離れ、自由に生きる二人の姿が余韻として残る。
彼女たちの選択によって、時として男は不要な存在に過ぎない痛快さが提示される。拍手喝さい。

偏愛度合★★★★


北野武監督らしい潔いというか、力づくの幕引きだ。
本人もインタビューで答えているが、「仁義なき戦い」の様に、
終わりがない延々続くシリーズと化すのが嫌だったみたい。
ないのは仁義じゃなくて、終わり。映画会社の飽くことなき利益という儲け主義には限りない。
まぁ商売だから、余り前だけど。
確かに海外での評価は絶大で、評論家や一部熱狂的ファンの支持があっても、
興業収入的には然程ふるわない北野作品の中では稼ぎ頭のシリーズだけに、
本人はもう付き合う気はないにしても、普通ならば製作会社は懲りないだろう。
実際、祝日の午後の回だったけど、大きめのシネコンの劇場の8割がたは埋まっていて、
かつての東映ヤクザ映画好きの老人風とか老婦人が娘と家族で観るなど、幅広い層のファンがいた。
それを一気に断ち切るがごとき「最終章」はある意味あっぱれ。
しかも最高傑作との声も高い「ソナチネ」を露骨に引用して、
「ほら、おめえたちが観たかったのはコレだろ。もう、オイラはおしめえぇにしとくぜ」
とばかりにシリーズを締めくくる。
まずは「バカ野郎」「この野郎」と銃弾の代わりに罵声が飛び交う。言葉もまた武器だ。
予告編で丸々見せている銃撃シーンまで、ひたすら繰り返される罵声をバックに、
面倒臭い派閥間の人間関係をどうでもいいんだけど、整理し中盤まで待つしかない。
現実の会社内での派閥争いや上下関係、先代社長の継承者などの権力争いを
モチーフしにて、そこに銃を持たせたと監督自身がインタビューで答えているが、
まさしく魑魅魍魎が跋扈するマウンティング全開の社内戦争だ。
これらの主流組織からのハグレ者として、
僅かな部下と共に済州島でのんびりと釣り糸を垂れているのが大友一派。
海のバックに大森南朋と減らず口をたたき合う冒頭から「ソナチネ」感。
やがて花菱会の幹部とのトラブルから、抗争へと発展していく。
表裏での駆け引き、餌をちらつかせての引き込み、裏切り、切り捨て、圧力に
影の韓国系フィクサーや警察権力が絡み、一触即発の混乱状況となる。
でも相変わらず描写は淡々としている。
言葉は乱暴でも、演出自体は決して激昂しない、常にクールで客観的な視点で淡々と成り行きを追う。
北野監督お馴染みの編集リズムで盛り上がりそうで、盛り上がらない。
このどこか冷めたダウナーな加減が心地よいのだ。
そして中盤から最終章へと、ここぞとばかりにフィナーレの花火を打ち上げる。
ホテル宴会場への軍用マシンガンを腰だめに、見境なしに抹殺する銃撃戦が最大の見せ場だろう。
一連の関係者を始末して、仁義を通しをた後のラストシーン。
再び「ソナチネ」を引用して、あっさりと「これでおしまい」とばかりにあざ笑うかのようにピリオドを打つ。
何処までも頭の切れる北野監督だ。


偏愛度合★★★


韓国の是枝監督。
まさしく、宣伝では是枝監督本人が賛辞のコメントを寄せているけど、
その言葉にある「ファーストカット」からして是枝節がうかがえる。
製作会社のクレジットの後、黒地に複数の子供のじゃんけんの声が被さってくる。
そして望遠レンズで撮った少女ソンのアップショット。
遊戯の組み分けのじゃんけんらしいが、最後まで誰にも指名されない彼女の表情の変化を追う。
些細な戸惑いや淡い期待、そして落胆と一連の表情の流れを長回しで延々ととらえる。
望遠なので、子供たちの置かれている状況はわからない。後の引きの全体絵で初めてわかる。
冒頭から是枝節が全開だ。
全編がこの調子でドキュメンタリー映画に近い手法を導入している。
子役俳優として演技を強いるのではなく、実際に同じクラスの同級生となって、授業を受けたり、
校庭で遊んだり、家族と話したりと、全ての場面でなるべく作り手の作為が感じられないように、
子供のナチュラルな反応を引きだそうとしているのがわかる。
カメラはこ広角のロングショットか、望遠レンズ主体で、なるべくカットを割らずに長回しで、
カメラの存在(即ち監督の演出)そのものを意識しないように追い込んでいる。
実はラストショットの切り方にも通じるものがある。
ネタバレになるので、詳しくは記さないが、「え、そこで終わるのか?」というのが何とも痛快。
是枝監督が絶賛するのもわかる作品だ。

子供たちのリアルで生々しくも生き生きとした姿が全編で続くのだけれども、
同時に描かれる物語はシビアで痛々しい。
クラスではいつもひとりぼっちのソンが夏休み直前に出会った転校生ジアとの交流。
ほのぼのとしたひと夏の友情譚で始まる。
ええ話やなぁと浸っていると、夏休み明け、新学期からはクラスの仁義なき戦いが始まろうとは。
スクールカーストや派閥争い、そこから生じる無視やいじめ、密かに比較される家庭環境の格差など
たとえ小学校のクラスといえども実社会と同じマウンティングが繰り広げられる。
転校生ジアが自分のポジショニングのために、派閥間を態度を変えて、転々して挙句に自爆。
積み重ねたウソがばれたり、結局クラスの阻害対象に陥ったりと踏んだり蹴ったり。
マイペースに進むソンと何とか立ち回ろうと足掻くジアの対比が
仁義なき戦いを引き起こし、スリリングだけど、苦しい。
子供同士、傍の誰かを傷つけたり、傷つけられたりしながらも、日々を過ごし、少しづつ成長していく。
いろいろあっても親や教師はその領域に入り込めない。
閉じているのだ。
だから大人はすぐ近くにいながらも気が付かない、何もできない。
物語全体が女子視点で、男子の影が薄いのは監督が女性だからだろうか。

実は観ていて何度か苦しくなった。
記憶が蘇るのだ。自分の場合、一番ダークな時代は小学生よりも中学生の頃だった。
明確ないじめとまではいかないが、クラスで誰とも親しくなれない疎外感や
いつ誰かが何かのきっかけでいちゃもんつけるみたいになるか分からない不安感。
授業が終われば即帰宅して、私立高校受験のための塾通いの毎日。
あの頃の同級生の顔はひとりも思い浮かばない。
だけど具体的なシーンではなく、記憶の奥底にしまい込んで、
既になかったことにしてあるはずの断片が何故か次々浮かび上がってくるのだ。
物語の持つ力って恐ろしい。封印していた記憶までも復活させるのだ。


偏愛度合★★★

「新感染」の前日譚ということだが、製作は「ソウル・ステーション」の方が先行しており、
元々ヨン・サンホ監督は実写ではなくアニメーション作家として作品を残している。
同じ突然発生したゾンビを扱ってはいるが、二作の物語は厳密に繋がってはない。
予想通りというか、やはりゾンビの起源やパンデミックの原因そのものには触れていない。
ジョージ・A・ロメロのオリジナル以来、ゾンビは社会背景のメタファーだ。
突然既存の社会にゾンビという異物が発生し、あっという間に拡散していくという恐怖や不条理にこそ
意味があり、その明確な発生経路や原因、解決策などは二の次となる。
もちろんその過程に焦点を絞った作品もあるだろうが、
基本的にゾンビ自体は理不尽で説明できないものなのだ。
何かした異物が侵入したことで、社会が混乱崩壊する状況下、市井の人々が逃げ惑う姿を描く。
必ずゾンビが何かの隠喩となっている。
「新感染」では北から南下してくる異物は、当然朝鮮半島での対立国家の侵略を隠喩させている。
「ソウルステーション」ではそのような国際政治的なニュアンスはないが、
天変地異な災害や疫病などの災厄を隠喩として、それが都市部で突如発生した時、国民と政府
(警察や軍隊などの武力行使を含む)がどうなるのかという姿をシミュレーションしている。
だから今回の物語舞台は韓国の首都ソウル限定。
背景としては原題のソウルという社会構成や諸問題が敷かれている。
繰り返し「家」というモチーフで物語を構成する。
発端となるのは「家」を持たない地下道や道路などで寝泊まりするホームレス。
彼が最初の感染者で、接触した者へとゾンビ化を拡散させていく。
父の「家」から家出して、ソウルで風俗嬢に身を落とし、現在は男友達と安宿で同居するのがヒロイン。
男友達は無職でその「家」も家賃を滞納して、大家から何度も督促され、追い出される寸前である。
そして物語の最後に逃げ込むのが、分譲中の高級マンションのショールームという「家」である。
「家」は誰しもにとって帰るべき場所であったり、平穏にくつろぐ場所であったりするが、
それは同時に社会的な階層の証となる。
家なしから、豪華絢爛な超高級マンションまで、資本主義的な意味で持つ者と、持たざる者が生まれる。
突然社会に侵入してきた異物によって、家や資産がいとも簡単に崩壊していく様を描く。
駅舎や地下街、道路や建物などの街の風景は現実からトレースされ、リアリティラインを守っている。
人物キャラクターもアニメーションの線画として簡素化されてはいるけど、同様だ。
アメリカ映画のアニメーションでも実写に限りなく近い動きや
日本のリミテッドアニメーションでの止め絵の中間的な動画の間が抜けたような
ギクシャクしているけど現実的な動きが独特の味わいを出している。
混乱が短時間で町全体へと広がっていく中、ヒロインとその男友達の視点を中心に逃亡劇が展開。
実は父と娘という関係性も二作に共通している。
実家から娘を探しに来たという父と娘が交錯する。
「新感染」はどちらかといえば、移動する列車内という閉鎖空間でのアクション主体で残酷描写を控え、
親子や恋人、友人同士といった関係を割とベタに泣けるイイ話として落としていたが、
その点では「ソウルステーション」の方が絵面はアニメだけど、よりリアルで残酷な展開となる。
何かの変事には、いとも簡単に「家」は崩壊して、無意味と化して、人々は拠り所を失い、
本来国民を守るはずの警察や軍隊が銃を向けるかを思い知らされる。
これは国を越えて普遍性が高く、記憶に新しい阪神大震災やオーム真理教によるテロ、
東日本大震災、原発事故などにその異物を置き換えても逸話として十分に成立する。
やっぱり、ゾンビは社会背景のメタファーなのだ。

偏愛度合★★★