35年前に「ブレードランナー」を公開時に劇場で観た世代だ。当時16歳の高校生。
ちょうど一人で映画館や名画座へ通い始めた頃で、
日曜日の朝一番の上映に合わせて、郊外から電車を乗り継ぎ、都心へと出向いた。
今は無き梅田グランドという現在は梅田花月のビルの地階にあった劇場だった。
満席で最前列しか席をとれずに、一番前からスクリーンを見上げるようにして体験した。
ディック諸作品に出会うのはもう少し後でだったけど、
当時レイモンド・チャンドラーなどの翻訳ハードボイルド小説に夢中だったので、
デッカードの私立探偵のようなモノローグとコート姿に短銃(ブラスター)を構える姿のカッコよさ、
何よりもこれまで見たことない西欧とアジアが入り混じった未来のビジュアルにしびれた。
その後、LDからDVDへ複数のバージョンが登場するたびに飽きもせずに散在してきた。
不思議と何度観ても新しい発見があるものだ。
82年当時は客の不入りで打ち切りという表記を見ると、あの満席で見上げたスクリーンも
地下の劇場から出て、明るい通りで心高鳴った記憶もまた後日インプラントされたものかも知れない。

映画館で観る映画には動体視力が求められると某評論家が主張していた。
DVDやネット配信など反復装置で再生しない限り、1秒間で24コマが見るはしから消えていく。
一つの画面に込められた一瞬一瞬の情報を捉えるのが観客であり、
動体視力がとらえた画面の運動を記憶するのだ。
IMAXデジタル3Dという現行で最高スペックの劇場で初回観賞したが、
画面の隅々まで配された情報量が圧巻で大まかなプロットを追うだけで精一杯となり、消化不良。
結局細部を再確認するために、今度は2Dの標準的な劇場でおかわり観賞。
ようやく物語の流れ、台詞や背景、音楽、といった細部に配された仕掛けを楽しむことができた。
二度目はライアン・ゴズリングのあまりの悲痛さにラストでは涙してしまった。
2時間43分という長尺ながら全く飽きさせない。これはまだまだおかわりもいけるぞ。

二度の観賞でも印象派変わらなかった。
前作をぶれることなく正しく引き継ぎ、新たなる物語の紡ぎながらも、
ドゥニ・ヴィルヌーヴの作家性を打ち出した文句なしの正統的な続編であることは間違いない。
「2001年の宇宙の旅」にとっての「2010年」には陥らなかった。
同時に82年製作の映画は、劇中の舞台となる2019年を間近にしても色あせることなく、
新鮮であるという類まれで途轍もない凄みを改めて認識した。
35年の時間を何とか生き抜いてきた良かったとすら感涙。

◎KD6-3.7
ライアン・ゴズリングが演じるKの全編通してのどうしようもない悲痛さこそにこそ作品の根幹がある。
その名の通りP.K.ディック由来だろう。
彼が生涯賭けて書き続けた本物と偽物、現実認識とその崩壊といったテーマが貫かれる。
そして同様にカフカのヨーゼフKでもあろう。
再観賞した「複製された男」で提示される「カオスとは未解読の秩序」であるという一文とも繋がる。
不条理で混沌たる世界でどこにも拠り所なく、一人生きる。
記憶はインプラントされたもので、結局のところ自分が何者かすらわからない。
上司の命令には絶対服従で、不要レプリカント処理という汚れ仕事を請け負い、
LAPDの同僚からさえも「スキンジョブ」と罵られる。
常に傷つき、血を流し、ボロボロになりながらもながらも、
レプリカントでありながらも、レプリカントを処理するという人間にとっての秩序を守ろうと努める。
ブレードランナーという仕事を通じて秩序に殉じることが、全ての公僕だ。
唯一の慰みは実体はない、データーのみのホログラムの恋人であり、やがてそれすらも破壊される。
微かな希望は自分が製造されたレプリカントではなく、デッカードとレイチェルの子ではないかという思い。
自分の中の記憶を頼りに父探しを始める。
ヴィルヌーヴ監督の傑作「灼熱の魂」に似た、自らの出生のルーツを探る物語である。
旅路の果てに提示される結末にはもう涙するしかない。
初めてヴィルヌーヴ作品に接したのが「灼熱の魂」であり、その時の容赦ない衝撃を思い出した。
これほどまでに悲痛な、不遇でつらい境遇の主人公も珍しい。
観客が共感できる物語の視点とその行動が明確で、
モーションとエモーションが見事に一致している本当に見事な脚本だ。

◎オッサン接待
細部に配されたオッサン接待も手抜きなし。
前作と共に歩んできた自分くらいの世代への目配せも抜かりはない。
作品の冒頭、再び瞳の超クローズアップから始まる。
誰の目なのかは明らかにされないが、ツカミとしてはこれ以上のシーンはないだろう。
高層ビルの合間をスピナーが飛び、お馴染みの雨が降り注ぐ、ごちゃ混ぜのエスニックな街の風景なども
きっちりと再現されながら、後半は雪や砂漠の中の廃墟といった新イメージへと繋がっていく。
Kが物語の最初で処理する旧型の生き残りモートンも前作でカットされたシナリオの再現らしいけど、
それはマニアックすぎてついていけない。
手に止まる蜂、ガフなど懐かしい顔ぶれの登場にもニヤリと笑った。
ヴァンゲリスの音楽のここぞという時の使用も同様だ。
根強いファンを有する物語の続きの場合、ファンへの目配せや接待は欠かせないが、
それだけでは留まらない新たなる作品の世界観(ビジョン)と物語の語り口(ストーリー)にこそ意味がある。

◎多くを語らない演出
ヴィルヌーヴ監督作品には共通しているが、台詞や補足説明で多くを語らない。
今作も言葉よりも相棒である撮影監督のロジャー・ディ-キンスの光や色使い、映像美で魅せる。
例えばデッカードレプリカント問題への回答へも明確な解釈を提示しない。
ウォレスとの意味深な会話劇のも観客が自由に解釈できる余白を設けている。
余白こそが本来映画の持つ力を強くする。時として説明の過剰さは興を割くことになる。
物語のカギとなるレイチェルも旧約聖書の登場人物であるラケルと掛け、より深読みさせられる。
調べてみると子供を授からなかったヤコブの妻ラケルがベツレヘムへの旅の途中、
神の言葉によって身ごもり、男子を産むが難産で命を落とすというそのままの話らしい。
西欧の物語の根幹にあるのが聖書内で書かれたエピソードであることを痛感。
自らの動体視力を駆使して、更に培った知識を総動員して、解釈してもまだまだ謎と余白が残る。
そして鑑賞後も、誰かの解釈もその助けとして読みふける。
本当にすぐれた物語は、例えば「宝島」のように、常に語り継がれ、解釈され、
再び別の物語へと再構築されていくものなのだ。


偏愛度合★★★★★

「なんや漫画みたいな話やな」と思っていたら、実際に原作はコミック(グラフックノベル)だった。
てっきりボリショイバレイ団を目指す天才バレエ少女の自伝をドキュメンタリータッチで
描く作品かなと思っていたけど、勝手が違った。「エースをねらえ」のバレエ版みたいなものか。
本当に少女漫画のような展開だけがご都合で先行して、ディテールのリアリティがスカスカ。
ほぼ美少女のビジュアル優先。もっとも中身も知らずにそれに惹かれて観た自分もスカスカだけど。
ヒロインは貧しい家庭の生まれながらも、バレエの才能に恵まれ、
ボリショイバレエ団を目指してひたすら努力する日々を過ごす。
ようやく夢がかない入団目前となった時、バレエ学校の同窓のイケメンフランス青年に
恋をして、ボリショイ捨てて、ふらふらと渡仏。
あんなにも貧しい暮らしだったのに渡仏の費用や査証がどうなっているとか細部は一切無視。
男の部屋に同棲しながら南フランスのコンテンポラリーダンスカンパニーへ入団。
そこでは踊るあたらなる師ジュリエット・ビノッシュに出会う。
あっけなくけがで挫折、恋人とも嫉妬が原因で別離とこれまた絵にかいたような少女漫画展開。
このあたりから真面目に物語を追うのが面倒くさくなってくる。
行き当たりばったりの彼女の行動にはついていけない。
確かに演じるのが映画初主演ながら、実際に一流ダンサーであるアナスタシア・シュフツォワの
踊りは魅力的なので、かろうじて物語が漫画でも体裁は保たれている。
ダンスにおけるクラシックとコンテンポラリーの区別も正確に理解していない門外漢なので怪しいけど。
自分探しではないけど、南フランスを飛び出し、無銭で街中を彷徨いながら、
路上生活を送ったり、父親の訃報などなど、とってつけた試練が待ち受けている。
でもちゃんと最後にはダンスのパートナーとなる男性(もちろんイケメン)に出会う。
ジュリエット・ビノッシュはあれ以来登場しない。いったい?
基本プロットはあっても生々しさを感じさせる世界観が構築されていないので、あちらこちらに隙間だらけ。
隙間風に煽られても、感情移入はしにくい。
華麗なダンスを見るしかないけど、そっちはあまり興味がないので仕方がない。
全くもって「なんじゃこりゃ~!」なダンス映画だった。

偏愛度合★★★

何とももどかしい作品である。
決して映画的な技巧を張り巡らした、所謂巧い作品ではない。
主人公ふたりの不器用で素直に真っ直ぐには進めない、
もどかしさ、ややこしさが愛おしくなってしまい、作品もまた同様なのだ。
昨今流行り(と言ってもいいだろう)のナチスもののひとつだけど、歴史自体を直接描くのではなく、
その当事者の孫の世代に歴史が如何に影響を及ぼすかという切り口が新しい。
ナチズムという過去に世代を越えて向き合い、
決して忘れることなく語り継ぐ歴史観こそドイツの特筆すべき美点のひとつであろう。
残念ながら都合の悪い歴史観はなかったにして、
決して後世へと語り継ぐことをしないわが国とは大違いだ。
主人公はナチスの戦犯を祖父に持ち、家族の罪と向き合うためにホロコースト研究に
人生を捧げる男性と犠牲者となったユダヤ人の祖父を持ち、親族の無念を晴らすために
ホロコースト研究に青春を捧げる女性というスタート地点は真逆でも目的が同じという二人。
どちらも共通するのはもどかしいまで過去への執着と愚直さであり、情緒不安定さ。
ナチス孫世代のメンヘラ男女が共に旅する噛み合うはずのないドタバタコメディである。
まるでナチをネタにして身を挺したギャグを繰り返す笑えない掛け合い漫才の様な二人なのだ。
この意外な設定には参った。そして何故か愛しくて仕方がなかったのだ。
基本作品はブラックコメディタッチ。笑えないけど、笑えない故にすべり続ける二人が愛しくなる。
実は直接体験ではない何かしらの過去の事実に囚われるってそれ程珍しいことではない。
生の体験ではない故に、独り歩きする妄想が勝手に血肉化して、
時としてがんじがらめになり、前向きで進むことが困難になるくらいに身動きが取れなくなるのだ。
だからナチズムとは無関係であっても、この二人の不器用な言動を憎めないのだ。
そして年齢や価値観、性格を越えて、反発しながらも無性に惹かれてしまう不器用な男女がいるだけ。
「午後8時の訪問者」ではクールな印象だったアデル・エネルが全く異なる役柄を演じている。
際立った特徴は薄いけど、何気ない巧さと役柄に応じた印象操作がフランスで人気なのは理解できる。
アウシュビッツ会議という共通の目的のために、当時の体験者の参加を説得したり、
現地を検分したりと遁走を繰り返す珍道中が続く。
通常の作劇ならば、当初のこの一大イベントをクライマックスに用意して、
複数の登場人物を一堂に会して交錯さすぇるのが定石だろうが、
意図的に盛り上がりをはずして、あっさりとした描写にとどめるのが面白い。
主人公たちにとっては、それは最終目的ではなく、明日に向かって生きていくための過程に過ぎないのだ。
昨日咲いた花(ブルーム・オブ・イエスタデイ)を自らと周囲の明日へと繋げるための日々に過ぎないのだ。
このことを考えると作品の最後に用意されたちょっとしたオチには思わず笑みが漏れる。


偏愛度合★★★★

一番の怖いのは悪魔でも、悪霊でもなく、人そのもの。
人の心の中に巣くう飽くことなき自己利益の追求や排他心であったりする。
それ故に世界中どこの国でも差別は決してなくならない。
表層化する差別行為の方が明確で判断しやすいものであり、奥底に根深くしのぶ心の方が怖い。
その意味では観るものを震え上げさせる見事なホラー映画。
でも同時に、笑うに笑えないけど堂々たるコメディ映画でもある。
全米で人気コメディアンの監督作と知って納得した。
概して笑いと恐怖は同じ構造を持つ。
実は表面に見えるものの裏側に隠された極端な誇張、部分増幅、滑稽さ、暗喩、皮肉、心理操作、
既成概念や倫理観の破壊、扇動、疾走感等々、そこには共通する手法がいくらでもある。
ヒロインである白人女性がニューヨークから黒人男性の恋人を連れ、
白人が多く暮らす保守的な郊外の住宅街に帰郷するのが物語の発端。
黒人である彼に対して明るく気さくに接し、リベラルでオバマ大統領支持を表明する家族たち。
この作品の面白さは、前半で提示されたこの設定が中盤以降ことごとく逸脱して、
予想外の方向へと転がっていく展開にある。
前述で言うホラーとコメディの共通手法をそのまま導入する。
誇張された差別のない家族の平穏さが皮肉や滑稽さになり、やがて張り巡らせた伏線により、
観客を心理操作し、その既成概念を打ち砕き、予想外の方向へと扇動し、疾走していく。
転調していくこの一連の流れが何とも最高なのだ。
詳細を記すとどうしてもネタバレになってしまうけど、シドニー・ポワチエ「招かざる客」が
何故か「ボディ・スナッチャー」「ステップフォードの妻たち」へ転調する流れは堪らんものがある。
基本観客視点は黒人青年に置き、彼の見たり、体験した風景として描いていく。
愛していたはずの恋人の突然の様変わり(実際に見た目の様子が明らかに変わる)、
理解のある家族の本音を露わにして、崩れゆく様など恐怖であると同時にブラックな笑いを伴う。
「ええええええええ、その展開なの?」という全く予想外の驚愕が待っている。
これこそ、すぐれた映画のつくり手の持つ観客を欺く心理操作という詐欺師感であり、
何とも映画的などんでん返しだ。
そして一皮むけば明らかになる人の本性こそ、一番怖いものであることを痛感。

偏愛度合★★★★★

女神の見えざる手」と二本立て観賞推奨。
「女神」が頭脳戦ならば、こちらは肉弾戦だけど、
同性異性問わずに、抱かれたくなる(抱くではない)強い女性の物語。
どちらも先読みできない展開で観客を魅了する。
元来防諜戦って、大枠の対立構造(今作では欧米資本主義とソ連共産主義)はあるけど、
「裏切りのサーカス」などを見ても明らかなように、二重三重の内通者が入り混じり、
誰が味方で、誰が敵なのかすら判読不明な混沌たる状況下。
特にベルリンの壁崩壊寸前という時代設定が絶妙だ。
両体制内とも混乱の極みに至り、体制を分ける壁の崩壊は諜報員自身の失業でもあるので、
大義名分となる思想より、現状維持という保身故に裏切りが飛び交う。
正直言えば、余りに魂胆とした状況なのに、説明や台詞を省き、最小限に留めているため、
物語の流れは破綻寸前で肝心のプロットが全く整理できていない。
ロシア人はみんなひげ面で同じ顔に見えるし、途中でどうでもよくなってくる。
でも同時にこれは意図的な演出のような気がする。
すぐれた映画に共通するのは如何に観客を操作して、だまくらかすかという点に尽きるのだから。
状況整理よりも、ヒロインであるシャーリーズ・セロンの行動のみを追う視点を狙ったのだろう。
結果は吉と出ている。
観客は筋を追うよりも、彼女のやることなすことに釘付けで、魅了される。
彼女の内面の心理描写や過去を全く描かず、常に無表情で罵声を除けば、言葉も最小限。
これは「女神の見えざる手」のヒロインも同様。
観客が主人公に自分との共通項を見出し、共鳴して、自己投影するタイプの役柄ではない。
ましてや演じるのがマジで幼少期から地獄を見続け、どん底から這い上がってきた42歳の女優だ。
説得力の桁が違う。
単純な女性活躍映画というフェミニズム視点でも収まらない。
スタンドインは最小限で殆ど自らが傷だらけになってアクションシーンをこなしているらしい。
特に後半の見せ場である8分間ワンカットでの長回し、ウェイトに差がある野郎多数を相手の
段々とよれよれになって、傷だらけにって瀕死でも戦い続けるシーンは圧巻。
思わず「姐さん、もうやめて、お願いだから」と訴えたくなる。
アクションと同様に銃描写(弾着、ゴア描写)も容赦ない。
また背丈のありスタイル抜群の彼女だから、着こなすハイファッションからパンク姿まで凄まじく映え、
ブルーの瞳に原爆級の破壊力のブロンドヒロインだ。
彼女に花を添えるのはジェームズ・マカヴォイのインチキ臭さであり、役柄自体は全く意味不明だけど
身を張って絡むソフィア・デプラ(ジャンル映画特化型映画秘宝系女優♪)に
常にグッドなのかバッドなのか不明なジョン・グッドマンと巧みな配役なのだ。これも文句なし。
当局からの、行為の合否を問われる査問シーン(これも「女神の見えざる手」と共通)から始まるけど、
結局のところプロット自体はどうでもいいのだ。
物語よりもシャーリーズ・セロンを心ゆくまで堪能して、お腹いっぱいになって劇場を後にする。
まさしく男も女もセロン姐さんに抱かれ映画だ。

偏愛度合★★★★★


果たしてどこまでが仕組まれた展開だったのだろう?
彼女はどこまでを自分と周囲をコントルールして、望む結果へと導いたのだろうか?
専門用語が飛び交う台詞に背景など情報量が過剰で、一見では処理しきれず、
結論から逆算して張り巡らせた伏線を再確認したくなり、もう一度劇場へとと足を運びたくなる傑作。

そもそも映画というメディアは監督や脚本家、俳優といったつくり手が観客を如何に騙して、
感情移入させ、物語を望むべき方向へと導くかという張ったりと洗脳技術の賜物なのだ。
まさしくつくり手という神の見えざる手によって操られることを楽しむメディアなのだ。
観客もまたそれを承知でわざわざ騙されに劇場へと向かう。
一流の映画監督は一流の詐欺師でもある。

その意味では今回の邦題は的を射ている。
原題は「Miss Sloane」とシンプルに主人公の名だが、初対面からファーストネームがまかり通る
社会風習において、常に周囲から「エリザベス」でも「リズ」でもなく、尊敬と畏怖と込めて
「Miss Sloane」と呼ばれるのが彼女。それを超訳したの邦題。
もちろんアダム=スミスが「国富論」で提唱した(神の)見えざる手、即ち市場において、
各個人の利己的な行動の集積が社会全体の利益をもたらすという調整機能からの引用で、
主人公が女性なので、そのまま「女神の見えざる手」としたのだろう。
二手、三手と先の先を読み、詳細説明なしに周囲を意図通りに動かし、
結果へと導くのはささしく、観客すらを操る女神の見えざる手に委ねられているといっていいだろう。
これは珍しく名邦題。

まず特筆すべきはジェシカ・チャスティンの格好良さ。
「ゼロ・ダーク・サーティ」にも通じる当たり役。ちなみに両作とも上司はマーク・ストロング。
表情は殆どあらわさず、赤毛で隙間のないハイファションで身を固め、1
5センチのピンヒールで肩で風を切って颯爽と歩く。
同性異性問わず惚れ惚れする姿だ。個人的にも結構偏愛女優なのだ。
そして容姿だけでなく、徹底した合理主義と結果主義に準じた超切れ者。
うううううう、かっこえええええええ~♪
ただそれ故に周囲への人間的な配慮に欠けや、結果のためには利用できるものは
合法違法すれすれでも一切手段を択ばないという強引さが仇となって、
誰に信用せず、誰にも頼れない四面楚歌状態で組織的には孤立している。
同時に直接的には描かれこそしないいが、
内面の孤独感が何気ない仕草や言葉から薄っすらと浮かび上がってくる。
間接的で計算されつくした演技と演出の賜物だ。

これは絶対同時公開中の「アトミック・ブロンド」と続けて観るべき作品だ。
こちらが頭脳戦ならば、シャーリーズ・セロン演じる英情報部スパイは肉弾戦で戦う。
偶然にもどちらの物語も主人公の過去の逸脱した行為に対する当局の査問会(現在)から始まり、
その発端となった回想シーンへとつながる構成が共通している。
またヒロインの背景や心情描写といった内面描写がほとんどなく、
観客は行動のみを表層的な追うしかなく、いささか感情移入はしにくいけれども、
余りにも痛快な行動原理からは目が離せず、
敵味方が入り乱れる騙して騙されるゲーム感覚は非常に似通っている。
現実世界では数々の障壁がはびこる現代社会において、
たとえ映画であっても女性が強い物語は素晴らしい。全面支持する。
従来のアメリカ映画であれば、主人公はイケメンで不屈の正義感溢れる男優が配されていただろうが、
女性に置き換えたのが斬新で画期的。
初脚本作らしいが、見事なキャラクター設計、伏線展開と情報処理力にある。

ロビイストという職業が日本政界ではあまりなじみのない職業であり、
法による銃規制を阻止する擁護団体というのもイメージしにくい。
物語のモデルとなっているNRA(全米ライフル協会)は、
マイケル・ムーアのドキュメンタリー「ボーリング・フォー・コロンバイン」で当時会長を務めていた
チャルールストン・ヘンストンへアポなし訪問するシーンが唯一思い出すくらい。
劇中でも圧倒的な資本力と影響力を誇るこの団体を相手に協力を拒否すると大手ロビイスト会社から
解雇され、銃規制賛成派の弱小会社へと転職する。
持つと持たざる者、圧倒的強者と弱者という対比構造を明確にして、
裏駆け引きなどその手段こそ択ばないけど賛成票を獲得している過程の痛快さは、
全く退屈しない社会派サスペンス感にに満ち溢れている。
圧倒的な影響力を持ち銃規制反対派のあの手この手の手段も同様だ。
ラストに待ち受ける身を挺しの攻撃には、そこまで計算されていたのかとうならされる。
脇ながらそれを支えるエスコート(男娼)の奇妙な男気には感動。
これまでの類型的な映画ならば、
男性主人公を支える健気な娼婦という月並みな構造だったのが、完全逆転しているのが痛快。

繰り返そう「アトミック・ブロンド」と連続観賞しよう。
同性、異性ともに彼女たちに抱かれてみたい気分になること必至だ。


偏愛度合★★★★★

文字通りのノオミ・ラパス七変化。
一人で七人姉妹を演じ分けるのが一番の売りで、細かい設定や辻褄は多少雑でも十分に楽しめる。
しかしノオミ・ラパスって面白い女優だ。
スウェーデン起源なのか日本では音が覚えにくい名前だけど、
徹底したジャンル映画でのヒロインぶりと仕事選びの基準が異色だ。
元々は「ドラゴン・タトゥーの女」でデビュー。
私的な偏愛で言えば米リメイク版の同役ルーニー・マーラの方が好みではあるけど、
その後の仕事選びが半端なく、侮れない。
米デビューは「シャーロックホームズ シャドウゲーム」でその後もリドリー・スコット「プロメテウス」、
デ・パルマ「パッション」、最近公開では「ラプチャー」なんていうとんでもない拷問映画と続く。
まさしくジャンル映画特化型の映画秘宝な女優だ。
特徴があるような、ないような微妙な容姿に37歳という若手とは言えない中途半端な年齢だけど、
確かにその筋の人ならば、フィルモグラフィから目が離せない。
でも今作でもその七変化演じ分けという大胆な挑戦に挑む。
基本姉妹七役と言っても見た目から明らかに異なるコスプレショー状態なので、
彼女の演技テクニックが大雑把なのか、繊細なのかはこれまた微妙なんだけど、
リアルで生々しい微妙な心理描写というよりもキャラと動きで飽きさせないのには魅せられる。
設定自体は典型的なディストピアもの。
それもちょっと古い近未来映画でお馴染みの設定。
資源枯渇と人口増大により、1家族につき1人という出産制限が敷かれた管理社会であり、
街中の移動ももID認証で制限を課している。
どんよりとした鼠色の世界は昔にテレビの洋画劇場体験でトラウマを受け付けた「ソイレントグリーン」
や最近ならばアルフォンソ・キュアロン「トゥモロー・ワールド」なんかに似た設定でお馴染みだ。
二つを合わせて二で割った感じ。
そうそう、自分くらいの世代の50代前後って、幼少期、万博で象徴される明るい未来の反動で、
世界的に流行ったダークな近未来で希望を砕かれたディストピア世代とも言える。
核戦争に、食糧危機とありとあらゆる暗い未来を受け付けられ、「もう未来なんてどうでもいいや」となった。
さて、そもそもヒロインたちのマンデイからサンデイまでの1週間の名前を付けるため
としか思えない強引な七つ子という力技設定が笑える。
いくら遺伝子組み換え作物の影響の多産化と言っても七つ子なんてあり得るのか?
更にはそれぞれが真面目な優等生、自由人のヒッピー、ワイルドな反逆者、天才エンジニア、
セクシーなパーティーガールなどとこれまた絵にかいたようなキャラ立てのさせ方。
対外的には一人の人間として、名に該当する曜日以外は室内で隠れて過ごす。
優等生が実は……、パーティガールが実は……という展開なんて余りにも類型的で笑えるけど、
そこを突っ込んでも仕方がないのですべてを受け入れて楽しむべし。
消えた月曜日をきっかけに、七人一役という設定を維持するために、
次は火曜日が出向き、彼女もまた消える。
残りの姉妹がそれぞれの個性を活かして協力しあい、真相を追求する。
ネタばれになるけど、通常は物語の視点となるヒロインはなかなか死なない。
死ぬとそこで物語を進める語り手を失ってしまうから当然の定石。
でも今作はそれを逆手にとって、代わりが七人もいるので、どんどん死ぬ。
結構容赦なくヒロインを殺す。
やがてたどり着く隠された陰謀とそれを担う武装集団もまた節操も容赦もない。
物語全体の整合性よりも、全編ノリと意外性、ドライブ感を重視したブラックユーモアに溢れている。
それを殆ど舞台での一人芝居のようにノラミが演じるのだ。
コスプレからハードなアクションまでノオミ・ラパスを存分に堪能できる。
B級感炸裂のパワー一発の演出ながら、飽きさせない122分を彼女と共に疾走した後には
もう映画秘宝感いっぱいで、お腹もいっぱい。

偏愛度合★★★★

フランソワによるフランワへの見事なまでのオマージュを堪能できる。
前知識なしに物語に浸っていたら「何となくリズムがトリフォーぽいな……」と感じていたけど、
よくよく考えると第一次世界大戦後の傷跡が生々しい時代を背景に、
フランス人とドイツ人のという二人の男に挟まれ、心揺れ動くヒロインって設定自体が
フランソワ・トリフォーの名作「突然炎のごとく」そのままだった。あゝ迂闊だった。
そのことに気が付くと不思議と容姿は似ていないのにヒロインを演じるパウラ・ベーアにも
亡きジャンヌ・モローの面影を見出してしまうのだった。これも映像の持つ大きな力だろう。
元々多岐にわたる作風やジャンルを支える演出力があるフランスワ・オゾン監督で
エルンスト・ルビッチ監督の原作(未見)を自ら脚色しているようなので、
意図的に仕掛けられたフランソワによるフランソワ解釈ではないかと妄想はひろがるばかり。
そう、リズムってのがトリフォー感いっぱいなのだ。
現代映画のせわしない展開やテンポ、カット割りではなく、クラシックな語り口が何とも心地よい。
モノクロームの淡い色彩でゆったりと長めに、引き気味でとらえられた映像はノスタルジックだ。
ピアノや弦楽器の奏でるゆるやかで静謐な音楽も同様だ。
物語はミステリータッチではあるけど、謎解き自体よりも、
それに至る人物(特にヒロインであるアンナ)の心情描写の揺れ動きを主題にする。
会話劇主体で語り手の話す内容がそのまま映像化されるといういささか古典的な手法もしっくりくる。
本来ミステリーならばであれば、重視すべきそれが真実(現実)であるか、嘘(虚構)であるかよりも、
映像を通じて登場人物の内面が露呈され、それが双方向の対話となる。
初めての世界大戦という途轍もない喪失感を抱く時代なのだ。
亡き婚約者の面影を突然現れた見知らぬ男に委ねていく。
常に人は脳内で記憶を改竄、歪曲しているので記憶の断片が本当にあった過去なのか、
そうあって欲しかった願望なのかなんて明確に区別できない。
たとえそれが嘘であっても相手が信じた段階でそれは真実に転じる。
またパートカラーの使い方が見事だ。
基本はモノクロームの陰のある冷たいタッチの映像がある時、カラーに転じる。
単純に回想シーンをカラーで表現とかいう手法ではない。
主観となるヒロインの感情的な流れに準じて、エモーショナルな展開となると徐々に色づいてくる。
グラデーションのようなゆっくりした変化なので、最初はカラーになったことに気が付かないくらいだ。
心象風景に準じて色づくって映画的な手法だけれども、同時に理にかなったもののような気がする。
実は世界が本当に自分が認識している通りに存在するのではなく、記憶と同様に、
視覚レンズから視神経を通じて認識された映像情報を脳内でフィルタリングして、
自己都合で加工して認識しているのだ。当然色彩の決定やディテールの強弱が施される。
それを映画的な手法として流用して見せたに過ぎない。
やがて真相を求めて、婚約者の友人を探してフランスへと向かうアンナ。
そこで見た風景、知った事実らしき断片、それに伴ういくつかの嘘も
やがてすべて真実そのものというりも、彼女が求める物語に過ぎない。
あらゆる人にとって、映画と同様に後加工された記憶という物語こそが真実であり、人生となる。

偏愛度合★★★★

件の「ボクシング」と「卓球」瑛太のもう一本。

こちらは怪我でボクサーを引退、ひょんな誤解から妻と娘とは離婚、
現在は建築現場で働くやさぐれ者がご都合主義にも卓球大会に挑戦するという話。
でもあくまでも、基本は新垣結衣主演のダメ女が卓球に賭けて再生復帰ししていくのが主題。
「逃げるが恥だか役に立つ」以降、昇り調子で旬の女優の主役に据え、ドラマの流れをくむ、
八方ふさがりの状況でちょいとこじらせた役柄という二匹目の泥鰌狙いは見え見え。
しかし「エイプリル・フール」というクズ、カス、ゴミなどと称される石川淳一監督に古沢良太脚本コンビ
なのだから最初から嫌な予感しかしない。そして案の定とうか予感は的中した。
上滑りという言葉がこれ程相応しい作品も類を見ないだろう。
確かに主役の新垣結衣と瑛太は勿論、東宝とフジテレビの金に物を言わせて
ストーリー上どうでもいい脇役への豪華な配役を実現して見せた。アコギというか、下世話というか。
状況的には弱者である苦境に陥った主人公たちが、くじけながらも、日々の努力の末、
卓球を通じてそれぞれの栄光を勝ち取るという類型的なストーリー。
卓球というのが珍しいだけで、スポ根ものの亜流として別に珍しくもない。
一度は挫折を味わいながらも、再起するというパターンも同様。
これみまた所詮ジャンル映画なので、別に今まで見たことがない、
奇抜な設定やトリッキーな展開、大どんでん返しを求めているわけではない。
メンバーそれぞれが抱えた背景を描きながらの群像劇風に仕上がているけど、何せ薄っぺらい。
そのご都合主語的な強引な展開や内面へ共感できない上滑りしていく。
映画というメディアがテレビドラマよりも格が上という古臭く悪しき論を持ち出すつもりはなくても、
どこかテレビドラマ的な安っぽさを秘めている。
ドラマではあんなにも魅力的なガッキーもいまいち精彩があがらない。
元々苦手というか、全く眼中になかった個性の薄い女優を毎週放映を心待ちするくらいに
魅力的に描いたのはドラマそのもの(演出と脚本、配役を含む)の持つ底力だったろうが、
今作に至っては狙って外したパターン。往々として狙い過ぎると外すのが世の常。
2時間ひたすらすべり続けて、上っ面だけの中身のない、どこも深読みをしようがない、
更にはラストでは上から目線で説教までおっぱじめるに至ってはゲンナリ。
あゝ唯一笑えたのは蒼井優が演じる中国人料理店の楊さんだけかな。


偏愛度合★★

家族の瑛太目当てに同行で「ミックス。」と二本連続。
製作者、会社も無関係なはずなのに、何故か瑛太が「ボクサー」「卓球」というキーワードで繋がる。
こちらは元卓球部でボクシングの勝負に挑む売れない役者で、
「ミックス。」は元ボクサーが卓球大会に挑むという裏を返したような設定。
単なる偶然なのか、瑛太の配役に絡む裏事情があるのかは不明。
でも残念ながら、どちらも単なるプログラムピクチャーで微妙な出来具合。
しかし世間的には評判の高かった「百円の恋」の武正晴監督で、
瑛太に佐藤江梨子という配役なのに宣伝や公開規模の少なさには驚く。
一方は東宝系で、ガッキー主演ということもあり、大量の宣伝投下と劇場展開とどうも分が悪い。
まあまあ何かしら大人の事情があるのでしょうけど、作品自体とそれを観る客には関係ないことだ。

武監督は余程ボクシング映画偏愛なのか、引き続きボクサーもの。
「百円の恋」で安藤サクラが演じるダメ女役を今回は瑛太をダメ男役でという二番煎じ感が否めない。
そこまで同じパターンを踏襲しながらも、冒頭から脱線スタート。
いきなり日本のプロレスの歴史が語られる。ナレーションは瑛太。
ボクシング映画のはずが、いきなり何故プロレスと肩透かしを食らう。
瑛太でプロレスといえば「最高の離婚」を思い出す。ここでも設定が他所と被る。
でも瑛太は売れない役者で、オーディション風景やマネージャーとのやりとりなど繰り替えされる。
自意識だけが高く、いつまでも役にありつけないダメ男を支える健気な彼女役が佐藤江梨子。
気が回り、人当たりも良く、マ真っ直ぐな彼女の唯一の欠点はダメ男好きという点。
同棲中というより、家賃も彼女頼りの殆どヒモ状態。
バイト先をリストラされた佐藤江梨子が見つけた仕事がプロレス事務所の庶務。
弱小プロレス団体は身を張ってのパフォーマンスと地味なドサ回り活動で支えている。
全く縁のない世界だったけど、やがて彼女は頼りにされる存在として活躍する。
ところが瑛太の嫉妬から退職して、次の仕事がボクシングジムという展開。
ひょんなことから瑛太と躍進中の若手ボクサーと試合をする羽目になる。
こうして説明を連ねていて、いい加減に嫌になって来た。一体何がしたいのか?
ボクシング映画を撮りたいのに、何故此処まで執拗に余計な枕を並べ、寄り道を続け、
挙句の果てにあからさまに「ロッキー」をパロった練習風景って、
もちろん何かしらの意図的な展開なんだろうけど、全く理解できない。
意味不明の行動原理で転がっていく主人公二人に感情移入できるはずもなく、宙ぶらりんのまま。
最後のファイトシーンでしっかり盛り上げるのか思えば、素人とプロの対決だから仕方がないけど、
とそこは妙にあっさりとして、選手入場時のミュージカル風のダンスシーンに力を入れている矛盾ぶり。
もうやっていることが支離滅裂。
役者の高感度でかろうじて体裁を保って入るけど、流石に脚本、演出はボロボロ。
こりゃ、やっぱりお蔵入り寸前だったはずなのに、
「ミックス。」に便乗してどさくさ紛れにこそっと同時期に公開したわけだ。

偏愛度合★★