「愛か、狂気か。」と宣伝文句にはあるが、
ゴッホ自身の愛や狂気というより、製作者のゴッホへの愛と狂気を感じさせる。
実写で撮影した映像を125名の絵描きがゴッホのタッチを模した1秒間12枚の油絵に置き換え、
その総数62450枚の絵を繋げた作品。確かにゴッホの絵がそのままギクシャクと動く様は圧巻。
途轍もなく手が込んでいるというか、ちょっと異常な執念の欠片すら垣間見える。
絵画への愛情が転じて、動画でのその再現という偉業へ挑んだ妄執は凄まじい。
同じ実写映像をアニメーション加工した作品では「スキャナーズ・ダークリー」を思い出した。
こちらも「ゴッホ」ほど手は込んでいないが、こちらは一流の俳優を使いながらも、
オリジナルの実写ママではない加工された映像によって、独特の浮遊感が生まれて効果を上げている。


やはり、何よりも映像スタイルありき作品。
肝心のストーリー自体は誰も知らない巨匠の衝撃的な真相とか、意外性を売りにしたものではない。
未体験な手の込んだ映像こそが全てが語る。
郵便配達人の息子アルマンを探偵役にして、
晩年の弟テオとの関係や耳切り事件、その末の自殺といったゴッホの行動を追うミステリータッチ。
アルマンがソフト帽を被り、コート姿で手紙の謎を追い、現地へ赴き、周囲に聞き込みを続けるなど
私立探偵を主人公としたハードボイルド小説をイメージしているのだろう。
もっともこれまで知られた史実を覆すドンデン返しがあるわけではない。
その調査過程複数の書簡を通して、ゴッホという人物の心情へとに近づこうとするだけ。
誰しも他者の内面に入り込むことは不可能であり、
客観的な事実を積み重ねて個々が特定の人物像として組み立てるだけ。
「絵画によって彼自身を語らせる」「体験型アートサスペンス」というコピーは言い得て妙だ。
動く油絵という衝撃に慣れてしまえば、割と淡々としたストーリーテリングで、体感時間は長く感じる。

偏愛度合★★★

盛りすぎな韓国力業エンターテイメント。
曰く「国家を揺るがす史上最凶の詐欺事件」という実話を基にしているが、
その手口や首謀者の内面、被害者数4万人も喪失総額3兆ウォンにも左程興味を示さず、
ひたすらイ・ビョンホン×カン・ドンウォンという図式化された対立構造での動きのみを追う。
元ネタが実話だからといっても、ドキュメンタリー風味とは無縁で
如何にも娯楽作品として盛った感じがあり、まるで劇画タッチのようなだ。
でも2時間半近くの長尺ながら、飽きさせずに力業で引っ張る強引さは流石。
冒頭からいきなり金融投資会社の会長であるイ・ビョンホンが騙した出資者たち相手に
臭い芝居で真実を訴える嘘泣きを披露する。全編に渡ってこの調子が続く。
確信犯的なインチキ臭さ、外連味いっぱいの過剰な演技で悪役を楽しむ。
多数の集めた資金を貯め込み、洗浄しながら、権力者に賄賂をばらまき、一大帝国を築いている。
対するカン・ドンウォンは警察組織に属しながらも、
手段を択ばずに一匹狼的に悪事を執拗に追及するという明確な図式化。
会長側近のハッカーを罪状免除で脅し、二重スパイとして巻き込み、対立をかき乱す。
捜査過程で部下の女性警官も絡んでくるが、多様な容姿趣味に対応できるように
タイプの異なる男前を三つ巴で揃えて眺めるの基本。みんな揃って濃ゆいけど。
表と裏で騙し、騙されての駆け引き、カーチェイスに銃撃戦と見せ場をてんこ盛りで用意する。
一応社会悪を駆逐する警官という勧善懲悪物語のはずだけど、その両者の内面描写は希薄で、
観客は見た目の感情移入(応援)に徹し、倫理観や社会意識なんかはどうでもいい感じ。
基本は映画的(あるいは劇画的)な動きを追うだけで、十分にお腹いっぱいに楽しめる強引さ。
飽きさせずにパワーで押し切れば、それはそれでいいんだな。

偏愛度合★★★

もはや現在、宗教とSNSとの差異は希薄だ。
それは神という抽象的な存在の有無の問題ではない。
誰かしらをリーダーとした集団があり、特定の手段(概ねネット経由のメディアツール)で繋がっており、
共有思念を持った段階でその集団は広義の宗教と化する。
宗教法人登記とか、教会やバイブルと無関係に、群れとして信仰心に近い暴走を開始する。
ネットでトライブとなった集団は瞬時の情報交換を行い、時として暴動、デモなど
リアルでの動きを伴いながらもベクトルを持ち、社会に影響力を与える。
かつての宗教は信者だけが共有しているいい意味でも悪い意味でも閉じた世界だった。
ところが知覚の扉が不特定多数へと開かれると、味噌もクソも混在してたカオスと化す。
原作は2013年に書かれた小説。
当時はいくつかのIT企業をモデルに来るべき未来像をイメージしたかもしれないが、
現実がフィクションを追い越し、現実の世界そのままとなっている。
エマ・ワトソンが実験モデルとなる音声映像を24時間中継可能な小型端末「シーチェンジ」だって、
直ぐにでも商品化可能だろうし、彼女の所属する「サークル」社も現存する複数IT企業を
部分部分を寄せ集めて融合されたような会社で、全く絵空事ではない。
新商品の発表では社員が一同集う会場の壇上へカジュアル姿なCEOが登場し、
ジョークを交えながら説明する姿などアップル社で既視感一杯だ。
同時にこの光景は宗教集会と全く同質のもので、教祖をあがめる礼拝とそっくりの光景なのだ。
物語は語り口に準じた図式化されている。
田舎出身で友人から誘われ入社したエマ・ワトソン。当初は純粋無垢な存在であり、
それが全てを可視化した私生活と聴衆の反応「いいね!」を得るために変化していく様を主軸とする。
対するトム・ハンクス自体は社を代表する存在で、全てを知ることができる理想社会を唱えながらも、
懐に二面性を抱えたようないかがわしい人物を演じる。
流石表層の当たりの良さとその裏面の黒さを好演。
人の持つ本質は今も昔も大して変わりない。
でもネット普及以前と以降が明らかにもとなるのがある。
特定の教義や人種、属性へ異論を唱える右翼やレイシストも昔から存在してきたけど、
例えばわかりやすいところでは右翼の街宣車が街中をがなり立てるなど、
リアルな実行動を伴ってきたがネット以降はそれがネット上でアンダーグラウンドな匿名として展開
されるようになっただけ。人の本性ではなく、単なるツール(使用武器)の問題なのだ。
物語の後半、全て可視化するツールの持つ諸刃の剣が明らかになって、
図式化して対比された主人公たちが内面が変化していく。
エマ・ストーンは彼女を会社へ誘った友人、家族、創業者の一人でありながら左遷されたシステム開発者
などとリアル世界でのすれ違いで変化し始め、自分なりの真相を悟っていく。
まさしく物語の構造は、新興宗教に潜入した女性がフリのつもりが段々と洗脳されながらも、
最後にはそ自己の解放へと至るというお馴染みの潜入捜査もののような形式を導入している。
やはり宗教とSNSは同質なのだ。

偏愛度合★★★

恐るべきトム・フォード。
その経歴をググるとグッチ、イブ・サンローランでデザイナー、クリエイティブディレクターとして活躍後、
自らのブランド会社を立ち上げ、活躍中。
個人的には007のダニエル・クレイグのスーツの印象が強い。
そして2009年に監督第一作の「シングルマン」でデビュー。
通常俳優や脚本家、撮影監督の監督など同業からの進出とは異なり、全くの畑違いの映画監督業は
別業種でのキャリアを借りた一発限りのお遊びで概ね失敗に終わることが多い。
我国の有名作家やミュージシャンの映画監督仕事の酷すぎる結果を見れば明らかだ。
確かに「シングルマン」も傑作であったけど、彼の映画監督としての才能とは直結しておらず、
所詮はビギナーズラック程度の認識だったがそれは甘かった。
映画好きのデザイナーが二足の草鞋を履いた趣味映画ではなかった。
映画監督トム・フォードは本物だった。
原作に魅せられ、自ら脚本を書き、演出に挑んだのが「ノクターナル・アニマルズ」だ。
その作風はヒッチコックやデヴィッド・リンチ、ブライアン・デパルマ、トビー・フーパー、コーエン兄弟
など数多の名監督の諸作品が脳裏によぎるが、オリジナリティはそれらに匹敵するクオリティだ。
結論のみを急ぐと本年度のベスト10入りは確実の超ド級の傑作サスペンス。
細部まで徹底してこだわり緻密に配された情報量は圧巻で、
一度の観賞では反復できない劇場鑑賞では動体視力が付いていけない。
繰り返しおかわりが必要な作品でもある。

三つのレイヤーがある。
例えば本を読む姿を想像すれば良い。
まずは第一層。
それは本を読んでいる自分自身の現実世界。
住んでいる家(部屋)があり、家族や友人、仕事仲間がおり、仕事や生活に追われ、日々を過ごしている。
自分を縛る環境に満たされている時もあれば、何か飢え、満たされていない時もあるだろう。
でも常に時間の流れが不可逆に進み、止まることなく延々と歩み続ける。
その世界で手に取ったのが一冊の本。
本の中には別世界の物語がある。
登場人物たちがあたかもそこが現実世界であるかのように振舞い、同様に日々を過ごす。
これが第二層。
第一層にいる人物が第二層の人物の心情や行動とシンクロして、物語という海を渡っていると、
思いがけない第三層に飲み込まれることがある。
それは過去の記憶の断片だ。
記憶が物語とリンクしている時もあれば、全く無関係な時もある。
また記憶自体が本物であるか、脳内で無意識にねつ造されたものであるかも関係がない。
突如封印していた断片がまるでフラッシュバックのように蘇るのだ。
そんな経験は誰しも当たり前のこととして、一度ならずとも体験しているだろう。
映画を観ていて、暗闇で突然蘇る過去の記憶の断片も同様だ。
これはすぐれた物語が持つ根源的な力であり、
だからこそ人は現実に生きながらも、絵空事である物語を求めるのだ。
この特性をものの見事にひとつの物語として再構成してくれたのが「ノクターナル・アニマルズ」なのだ。
冒頭から全く意味不明な過剰に太った裸の女性の踊りでかましてくれる。
いったい何が始まるのか見当もつかないフルスロットルなツカミだ。
主人公であるスーザンは、現代アートのキュレター、バイヤーであり、
パーティ会場でのデモストレーションのひとつであることが直ぐに明らかにされる。
そこから第一層であるスーザンの生活が描写される。
ここからはシフトダウンして見るからに金のかかった豪邸に夫と住み、
家事や身の回りのことは使用人が行う恵まれた暮らしぶりを淡々と描写する。
その裏にある夫との冷え切った関係、事業の不調、浮気などが徐々に明らかになってくる。
虚飾の陰に隠された歪みが一番怖い。
そこに20年前に離婚した前夫から「ノクターナル・アニマルズ」という著作のゲラが送られてくる。
頁の冒頭には献辞としてスーザンの名がある。
彼女が本を読み始める。第二層の始まりだ。
物語が映像化されて、観客にも提示される。
物語はテキサスの砂漠の真ん中で起きたある家族(夫婦と娘)の受難が描かれる。
脳内で映像化された小説の物語を演じているのは
エイミー・アダムスとジェイク・ギレンホールという現実と同じ人物。
現実と物語が並行して語られるうちに、そこに第三層が侵食してくる。
別れた夫との過去の記憶だ。
三つの層がカットバックされながらも、微妙に繋がり共鳴しあい、他層へと侵食し始める。
テキサスの持つ底知れない不気味さは「悪魔のいけにえ」にも通じる怖さである。
リンチ的な陰惨な家族の結末はまるで残酷さを売りにした現代アートのようにも見える。
第三層の回想シーンでの描写も容赦ない。
駆け落ち紛いに結婚しながらも、僅か1年程度で愛していると唱えながらも、
生活力のない作家志望の夫を捨て去り、財力のある現在の夫へと乗り換える。
同じことを繰り返す似た者同士である母と娘の歪な関係性も痛い。
物語と現実、過去と現在の巧みな交錯から一瞬たりとも画面から目が離せない。
第一層である現実でのラストの付き放ち方は見事。
そういえば、第二層と第三層に登場する元夫は第一層には一度も姿を見せない。
メールと小包みのメッセージのみという描写。
実際のことろ元夫が実在しているのかすら疑ってしまうそっけない描き方だ。
そもそも著書を一方的に送り付けてくる意図すら不明。
過去への復讐なのか、歪んだ愛情なのかも明言せずに、全てを観客に委ねる。
本当に見事に書き込まれた脚本だ。
また本業である衣装はもちろん、小道具や美術、撮影と音楽など
細部にわたって気配りされ、情報量は圧倒的であり、全てが繋がり、隠された隠喩や主題の
深読みを強いるが同時に、初見では動体視力と情報処理が追い付かず、
やはりこれは反復観賞するしかない。仕方がないので、劇場でのおかわり決定!

偏愛度合★★★★★

時として行き当ったりばったり力って凄いんだ。
勿論一本の映画の物語としてきちんと計算された構成で伏線と回収を実践する作品も大好きだけど、
細部は破綻しまくっていても、力技で一気に最後まで押し切る作品も悪くない。
物語のプロットが本当に行き当たりばったりなのだ。
登場人物は兄弟。
弟はちょっと知恵遅れで、カウンセリングへと通っていることが冒頭で提示される。
二人は金が欲しいから銀行強盗。
でもろくすっぽ計画もせずに古典的な窓口へ紙を差し出すという手段で実行して、
何とか金をせしめて、逃亡したものの、金は盗難防止のペンキまみれで、
挙句の果てに職質で思わず逃げた弟が身柄確保され、兄もまた逃亡犯となってしまう。
捜査から逃げながらも、弟の保釈金を確保するためにジェニファー・ジェイソン・リーに泣きつき、騙す。
彼女はゲスト出演程度。
ところが今度は既に病院へと移送された弟を逃がすために、
奔走するという具合にどんどん話が逸脱していく。
時間的には半日から一日程度の間なのに、兄の行動目的が次々と変わって、
金が欲しいがいつの間にか弟を取り返すにすり替わり転じていく。
街の光を強調したようなラフ映像でひたすらアッパーな音楽を流して、ノリだけで突っ切る。
元々何も考えていない主人公なので、展開を追い、先読みするというよりも、
夫を介護する老人の娘、遊園地の深夜警備員、ドラッグの密売人と
次から次へと唐突に現れる登場人物と無軌道な展開を共に体験するという感じだ。
途中参加の人物の逸話が唐突に挿入されたりと、無茶苦茶な構成。
疾走の一晩を終え、夜が明けて、落ち着くべき展開へと繋がる。
本当に全編パワーだけで押し切る。
だけど共に一晩の夜遊びを終えて、程よい疲れと、酩酊感が漂うような印象が残る。
ラストは再び病院での弟のグループカウンセリングの姿が描かれ、
弟に挟まれた兄の意味のない無暗な疾走がより浮きだって見える。

偏愛度合★★★

酔っ払いダメウーマンがシンクロする巨大な怪獣とロボットが戦うというボンクラ映画マニアならば
無条件でアガル設定ながら、観賞中どうにも居心地の悪い印象がつきまとった。
よくよく考えると、これはフェミニズム視点の怪獣映画なのだ。
確かに他ならぬアン・ハサウェイが演じるヒロインのダメさ加減は、キュートで可愛いんだけど、
このダメさを裏読みすると「誰が彼女をダメにしたのか?」という問いかけに突き当たり、
男性的には背筋の凍る現実に突き当たる。
作品の宣伝的にはダメウーマンであることを強調しているけど、
実際にはその陰にいるのがダメ男、というより女性をダメにする男たちなのだ。
てっきりフェミニズムを唱える女性監督かと思えば、
写真を見るとむさ苦しいひげ面40歳のオッサンがいた。ああああああ………。
主人公はかつてNYで彼と同棲するネットライターだった。
ところが書いた記事の言葉尻を捕らえられ、炎上してリストラ、現在は無職。
その内容は具体的には描かれないが、男権的な嫉妬や上げ足取りであることは想像できる。
当然ディズニー映画のヒロインながら、幅広く作品を選び、真面目にキャリアを重ね、
ようやくオスカー助演女優賞を得た途端にネットで意識高い系としてバッシングされたハサウェイの
現実とも重ね合わせるできる。今作で彼女は製作総指揮にも名を連ねているのだ。
彼氏は高級マンションに住むイケメンだけど、無職で酒浸りの彼女をあっさりと追いだす。
その癖、故郷の彼女に嫉妬して、未練がましく追いかけてきて復縁を迫るというどうしようもないカス男。
更には帰郷した彼女の同級生であり、バーを経営する。
職のない彼女を雇ったり、親切な友人を気取りながらも、裏でストーカー紛いの行為を繰り返し、
挙句彼女がバーに出入りする別の男へと走った途端に嫉妬でモラハラ行為全開というカス男。
彼女がダメなのではなく、彼女をダメにする野郎が世界には存在して、
それが社会通例として機能しているのだ。
自分自身、決してマチズモな男権主義者ではなく、どちらかといえば女性的なものを好みながらも、
決して男性としての呪縛からは逃れられない。
無意識のうちに女性へと男性性を押し付けているのだ。
だから鑑賞中ずっと居心地が悪く、そのことに気が付いて背筋が凍ったのだ。
彼女のオルターエゴたる巨大怪獣が地球の裏側ソウルに現れる。
怪獣にシンクロしながらも頭をポリポリと掻くアン・ハサウェイが何ともキュート。
心理学的には髪をいじることは、無意識な緊張や退屈、嫌悪感が秘められているとされているらしい。
ソウルから世界中に同時配信される怪獣の姿。
ネットで追放された彼女が、ネットを通じて人生の再起を図るのが面白い。
酔っぱらっての行為ながら、怪獣シンクロによってなされた破壊を悔やみ反省する彼女に対して、
バー野郎が嫉妬心から同じく男権のオルターエゴたる巨大ロボットとシンクロして登場する。
何故かソウルに繋がっているけど、
田舎町の公園砂場を舞台に女性と女性を抑圧する男性性とのバトルとなるのだ。
そのことに気が付くと、彼女の一連の行動やラストシーンの持つ意味が異なって感じた。
居心地を見出したのだ。ざまあみろという痛快感すら感じたのだ。
蛇足ながら、目のデカさといいバランス感のおかしい顔つきのアン・ハサウェイの
見事な酔っ払いぶりは可愛いすぎる。いやいや、しつこいけど。

偏愛度合★★★★

こんなとんでもないオッサンが実在していたというアメリカの途轍もない懐の広さというか、
クレイジーな現実には驚くしかない。
更には映画の絵空事よりも荒唐無稽な実話をベースにして映画というワールドワイドな商品へと
置換する貪欲さもまたいかれたかの国を象徴する。暗部も恥部もまた映画のネタに過ぎないのだ。
エスキモーに氷を売るというセールスマンの例え話を地でいくのが映画業界。
本人写真は似ても似つかぬもっさいオッサンだけど、トム・クルーズが演じるとクレイジーだけど、
チャーミングなアンチヒーローとなり、作品自体もピカレスクロマンと化する。
というよりある時期以降、トム・クルーズは何を演じても、
頑張って役柄に挑んでいるトム・クルーズにしか見えないんだけどね。
トム・クルーズものというジャンル映画と化してしまったのだ。
でもお抱えの監督や脚本家と組み、長年に渡り、毎回ある程度のクオリティを維持しているのが凄い。

大手航空会社のパイロットという安定した職を捨て、CIAの怪しげな依頼を受ける。
中南米国々の航空撮影から始まり、武器輸送、兵士輸送とどんどんエスカレート、
更にはコロンビア麻薬カルテルからのコカインの空輸も並行する。
フライト毎に双方から莫大な報酬が動き、財産を築く。
際限なく貯まり続ける札束の扱いが面白い。
小銭稼ぎで始めた仕事だったが、財が飽和状態を超えてからは目的と手段が逆転して、麻痺してゆく。
本来の金儲けという目的が形式化して、両陣営の間を綱渡りし、飛ぶスリルが全てとなる。
行動原理は破天荒だけど、単なる金の亡者にはならないのが、不思議なバランス感覚。
銀行に預けきれなくなると、次々とペーパーカンパニーを立ち上げ、
それでも処理できなくなるとストレージに掘り込み、庭に埋めるというドタバタ喜劇と化してゆく。
実話ベースだけど、リアルでシリアスな話をそのままシリアスに映画化するのではなく、
ブラックなコメディとして、時代毎に章立てして、
回想形式で80年代のロックをバックにテンポ良く展開する。
決して退屈はしないけど、トム・クルーズというジャンル映画として並の出来具合かな。

偏愛度合★★★

原作は翻訳単行本で発売時に読んだが、完全に忘却の彼方へ。
個人的にはスティーヴン・キングの長編すぎる長編はどうも苦手で、
短編から中編、長編でも1巻で完結程度が好ましいのだ。
彼特有の執拗で過剰なまでのディテールの書き込みが苦手で読み進めるうちに根負けして、
段々と面倒くさくなり筋だけを追う流し読みと化してしまうのが常なのだ。
だから短めならば、緊張感を保つことができる。
巷での評判通りキング作品の映画化では人気の上位を争う「スタンダ・バイ・ミー」タッチを思わせる。
原作を覚えていないので、細かいエピソードの取捨選択は不明だけど、
2時間を超えるけどちゃんと1本の作品としてまとめ上げている。
80年代のメイン州の片田舎を舞台にした少年と少女のノスタルジックな冒険譚。
原作は90年代から30年前を振り替えり、過去(60年代)と現在(90年代)が交錯する構成となっている。
今作は、第二章として現代編を製作するため、あっさりと現代編を切り捨て、過去編のみに絞り、
時代考証をちょっと現代寄りにアップデートしている。
だから舞台は80年代。
最近映画で描かれることが多い80年代って、アラフィフ、アラフォーにとってはついこの前のことであり、
多感な青春時代と重なるため、どうしても記憶も生々しく、同時に途轍もなく恥ずかしい時代でもある。
でもそれよりも若い世代にとっては生では未体験で新鮮な時代背景なのだろう。
実際に映画館でも普段自分とは重ならないような若い層、
それも男子同士が複数連れだって続々と観に来るなど意外な感じがした。
次々と子供ばかりが姿を消す失踪事件が続く田舎町。
開拓時代からの街の起源の歴史をたどると、27年ごとに様々な惨劇が続く、子供たちが消えささっている。
学校でも同級生が行方不明となり、「MISSSING」というお馴染みの張り紙が目立つ。
その謎へと向き合うのが「LOOSER’S CLUB」と周囲から揶揄されるいじめられっこやコミュニティの
アウトサイダーたちといった負け組なのが泣かせる。
いかにもキングらしいキャラクター造形だ。
リーダー格は弟を失ったドモリの少年、田舎町では珍しいユダヤ人や貧しい黒人少年、
父から虐待を受けている少女、過保護の母に縛られている少年などがそのメンバーだ。
多分キング自身が一番自己投影しているのは、
太っちょとだけど赤毛の紅一点に憧れて詩を捧げる文才のある男子だろう。
閉鎖的な田舎町や学校という狭い世界で、自意識とせめぎあい、自分の居場所を確保できない者が
感じる疎外感は嫌っていうほど生々しく感じられる。
それぞれが家庭内で事情を抱え、血が濃いゆえの親子関係のこじれ具合は
当人、当時にとって全く逃げ場のない呪縛となる。苦しい今しかなく、未来が見えない状態だ。
各キャラクターにおける、その辺の心理描写が巧み。
負け組だけではなく、表面では大きな顔で威張っている者もまた同様の事情を抱えるのも同様だ。
やがて負け組が力を合わせて、失踪事件の元凶らしいピエロを追い、その謎と打開策を探す。
街から一歩もでないけど、それは壮大な冒険譚なのだ。
子供への直接的残虐描写故にアメリカではR指定作品となったが、
いかれた80年代の連続殺人鬼ホラー映画の首チョンパに内臓ドバドバに見慣れている世代としては、
それ程エグいゴア描写は少なく感じた。全体的にそんなにエグイ感じではない。
そんなに後を引くような怖い感じでもない。
もっとも幼少時に見ると、きっとピエロが悪夢で暴れるトラウマと化してしまいそうだけど、
全体的には「スタン・バイ・ミー」に通じるジュブナイル作品として楽しめる。
もちろん子供だましということではない。
余談だけど、ピエロが近づいてくるときのカクカクとした早送りの動きはJホラーの影響か?
続編である第二章の製作も決定しているようだ。
30年後の赤毛の女の子役にジェシカ・チャスティンの名があがっているらしい。
密かに彼女の偏愛者としては俄然盛り上がってきた。

偏愛度合★★★

もう、ほんとこのシリーズどうでもいいや。
ジミー・ペイジがケチで使用料がバカ高いらしいレッド・ツェッペリン「移民の歌」の
格好良さを改めて認識するにするに至る。
チャカチャカと細かいカット割りで繋ぎ、
殆どがCGで描かれたフラットでつまらぬ画面でも楽曲の力でそれなりに盛り上がる。
関係ないけど、やっぱりジミー・ペイジはリフの天才だ。
「バッドマン」以降、現実と血続きの世界観でスーパーヒーローが活躍するというアメコミ映画。
その割には、ソーというキャラクター北欧神話に出てくる雷神であり、
時空で繋がるアスベスト(間違い)とかいう惑星の王子であり、ムキムキボディに鎧を着て、
トンカチ飛ばして戦うというリアリティのある世界観に馴染みようがない濃ゆすぎるキャラクター。
シリーズの最初から一応観てはいるけど、本当に詰まんない作品ばっかり。
頑固親父と跡取り息子の親子喧嘩に何かとかき回してくる血のつながらない弟との確執、
今作は更にはかつて汚れ仕事を請け負ってきた挙句、
牢屋に隔離された姉が返ってくるという全ての展開は家族内争議に過ぎない。
他人の身内の喧嘩ほど興味がない、くだらないものはない。
某家具会社の父と娘の経営権をめぐってのこじらせた争いを見ても明らかだろう。どうでもいいや。
そこらへんは製作者も自覚的なんだろう、シリーズンの中では異色なくらいにあっさりと作風を変え、
シリアスな身内の喧嘩から離れ、全面的に笑いの方へと寄っている。
延々と続くバカ兄弟の掛け合い漫才や左遷された宇宙の果てで出会った面子も
ほぼ「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」タッチを模したようなドタバタコメディ劇へと転じている。
この大胆な路線変更は異色であるけど、シリーズの今後を考えると吉と出るかは知らない。
というか全然興味ないんだけど。もう、どうでもいいし。
劇場へ足を運んだほぼケイト・ブランシェットの仕事を択ばない暴走への義理だけなのだ。
抜群の演技力を発揮しようがないやっつけ仕事のコスプレのジャンル映画だけど、
ケイト・ブランシェット力は薄まることなく、その神々しい存在感には無条件にひれ伏したい気分。
まあ女優として「ブルージャスミン」みたいな骨身を削る役柄ばっかりだと神経と身が持たないだろうし、
おバカ映画でキャリアと財布に緩急をつけるのも必要なんだろうな。
この最強の姉だけど、あっさりと殺すのは勿体ないのか、最後が曖昧にされており、
次回以降の当番はケイト様のギャラと意思次第か?


偏愛度合★★

映画は基本単独行。
はたから見ればビョーキな数をこなすには、誰かと連れ立っていくのは無理だろうし、
結局は映画って暗闇でスクリーンとひとり対峙するものである。
でも多くの劇場で夫婦50割引なるサービスがあり、嗜好が一致した作品は妻と出かける。
時間帯や曜日によらずひとり当たり1100円とサービスデー料金、ふたりで2200円と得した気になる。
元々彼女もひとりでも映画館へ通う無類の映画好き。
もちろん上映中はひとりだけど、上映後の帰りに観た映画の中身を話すのは面白い。
印象や評価が一致する時もあれば、異なる場合もある。
でもこのうだうだとした会話こそ、誰か連れ立って映画へ行く醍醐味であることは認める。
今回は印象がいささか異なる。
自分は退屈したわけでも、酷い映画でもないけど、どこか消化しきれずに不宙ぶらりんな印象。
でも彼女はもう一度観たいというくらいにはまっていた。
どうやらその核にあるのが、阿部サダヲが演じる陣治という「下劣な男」らしい。
彼が入れ込んでいるのが蒼井優「嫌な女」であり、彼女が囚われている過去の「クズの男」が竹野内豊、
あたらに松坂桃李の「ゲスな男」が絡んでくるという共感度0%、不快度100%という宣伝文句も
あながち嘘ではない四角関係である。
その中で阿部サダヲの役柄にもういいとか悪いとかもう超えちゃって、久々に感情をかき乱されたらしい。
愛なのか、単なる呪縛なのかすら整理がつかない映画と評し、いまだに引きづっているらしい。
目から鱗が落ちたというか、成程という解釈に納得。
どうしても男性視点では蒼井優の役柄へ目が移り勝ち。
概ね男性には多かれ、少なかれ女性に振舞わされたい願望が秘められている(多分)。
だから映画でも、小説でも多くの物語において「ファムファタール」というジャンルが根強いている。
ゆるふわの見た目に反して「オーバーフェンス」系の(多分地に近い)毒を巻き散らかす役柄を放つ。
「オーバーフェンス」では完全にオダジョーに感情移入して、彼女に踏みにじられていた。あゝ快感。
今作の蒼井優は同じく毒系だけど、過去を引きずり、自己コントロールできないダメ女ではあるが、
ネタバレになるが、ミステリーという物語の構造上、ある人格的な二面性を担わされている。
彼女の過去(竹野内豊)と現在(松坂桃李)という対比の中で、
常に中立的に始終一貫して彼女へ尽くし続けるのが阿部サダヲの陣治なのだ。
そう、これは阿部サダヲの物語なのだ。
地位も金もなく、日雇い仕事に追われるチンケで不潔な男だけど、
その下劣さを身なりとオーバーアクト気味で強調すること観客へのカモフラージュであるのだ。
強調すればするほど、その内面に隠された一途なまでの愛情が浮かび上がってくる。
多分監督のそこへ思い入れして全体をまとめ上げて演出しているのだろう。
それに気が付けば、過去と現在の二人の男は物語の副菜に過ぎず、
蒼井優と阿部サダヲの歪な関係性の物語という主軸が見えてくる。
恥ずかしながらながら、そこには全く気が付かなかった。
わかりやすいまでに図式化した毒婦やゲス男っぷりを眺めている場合ではなかったのだ。
映画は観る者の心に訴え、それぞれが好きなように解釈すればよいのだ。
気が付かなかったことも、誰かの視点から知ることもできる。
だから映画って面白いのだ。


偏愛度合★★★★