ダニエル・クレイグが楽しそうに演じているのが何より。
ボンド俳優は良しいに悪しきにそのイメージに縛られ、何を演じても
「ボンド、ジェームズ・ボンド」と言い出しそうで、時として役柄の呪縛となる。
三作品で出演終了との本人の決心も目の前に積まれた札束に負けたのか、
執拗なネゴシエーションの結果なのか続投が決まっているみたいだけど。
その隙間に自由に正反対のチンピラ役をトム・フォードのスタイリッシュなスーツから、
囚人服の繋ぎに汚れたTシャツ(ボーダーが重なっている案件だ!)に変え、
なまりのある英語で収監中の爆弾犯を嬉々と演じる。
元々ボンド役で世界的にブレイクする前は、
強面のギャングやチンピラ役の多い中堅俳優だったので、ある意味原点回帰なのか?
スティーヴン・ソダバーグ監督復帰作というのもあったのだろうか?
元来役者の配し方がうまい。ギャラや予算とは関係なく、俳優が自ら出演したくなるタイプの監督だ。
ダニエル・クレイグ以外にも、軍人か警察官専門のマッチョ男優チャニング・テイタムが
意外と知能犯なホワイトトラッシュだったり面白い配役だ。途中までの気が付かなかった意外さ。
アダム・ドライヴァーもまた超大作SWシリーズと掛け持ちしながら、
最近インディーズ映画で個性的なようで役柄に溶け込み印象が薄いすっとぼけた役柄ばかりを演じている。
今回もこの三人の面構えを揃えた段階で期待が高まる。
ストーリーテリング自体はアメリカ映画の主流手法、キャラクターを立たせ、
物語と共に変化させるという脚本セロリー通りの起承転結が明確で音楽でお盛り上げ、
全編スリリングな見せ場をテンコ盛りというタイプではない。
むしろその正反対でゆるいキャラクターの動きとオフビートな物語運びである。
ケーパーものの真骨頂である、トリックやスリリングな展開は程々にとどめ、
何よりも強奪劇なのに一発の銃弾も死者もでない、荒唐無稽感はなく描写は一応はリアルだけど、
全体的には牧歌的なファンタジーともいえる作風だ。「オーシャンズ」シリーズよりもさらにゆるい。
深読みすれば、アメリカの社会の底辺(ボトムズ)を見つめる視線が明らか。
底辺元アメフトの有望選手だっだが、怪我のためにプロの道を立たれた、肉体労働に従事している兄、
イラク戦争で左腕を失い、義手でしがないバーテンダーの弟とどちらも不遇な人生を過ごしている。
ハイソな「オーシャンズ」シリーズとは対照的。
誰も死ないのも皮肉とも言えるだろう。
またエルヴィス・プレスリーの孫娘を二人の妹役で華として揃えるが、
不遇な男たちの底辺を抑圧する社会へのオフビートな無血革命という図式が基本なのだ。
対する追ってとしてのスパイスはヒラリースワンクの不敵な面。
明確な物語構造を敷くけれども、決して気張らずゆるく、ゆるく、ひたすらゆるく、
でも娯楽として全然退屈しないで2時間にまとめ上げるのは流石の手腕だ。

偏愛度合★★★

帰郷ものって映画の物語の定番ジャンルのひとつだろう。
でも大概は都会で成功して、故郷に錦を飾ってのめでたい帰郷ではなく、
どこか後ろめたさが伴ってくるのが多い。
都会での生活や仕事に行き詰まった逃避であったり、故郷に絡む因縁から逃げ続けてきたけど、
やむ負えない理由で帰郷をへと追い込まれる等、これまで保ってきた距離感を縮めるには訳がある。
物語としては、暖かい歓迎よりも家族や友人、隣人との再会でひと悶着へと発展するのが定石。
スペインとアルゼンチンと国規模でなくても、
地方の田舎から東京に出て暮らしている人が久々に帰郷するのと同じであり、普遍的な物語がある。
故郷アルゼンチンを捨て、現在はスペインで暮らしながらも、
この度ノーベル賞受賞という栄光を手にした作家である主人公が40年ぶりに帰郷する。
きっかけは故郷の田舎町からの「名誉市民」称号授与であったり、講演依頼など。
故郷の記憶を基にした物語を作品として次々と発表しながらも、
親の死に目にも帰国しなかった男が気まぐれのように故郷へと向かう。

ちょっとここで脇道へそれるが、書評家大森望氏は

 現実的で論理的なのがミステリー
 非現実的で論理的なのがSF
 現実的で非論理的なのがホラー
 非現実的で非論理的なのがファンタジー

という分類をしていた。
そこから引用すれば現実的で論理的なミステリーとしての物語が、中盤以降、主人公に降りかかる
不条理性によって、現実的で非論理的なホラーへと変わるメタフィクションといえるだろう。
そして次から次へと襲い掛かる不条理が宇宙人来襲でも天変地異でもなく、
現実世界で誰しもに起こりうる条理を越えた出来事なので思わずホラーに背筋が凍る。
正直期待していなかったが、これが滅法面白いのだ。
ノーベル受賞作家の感動的な帰国や故郷の人々との暖かい交流を描いたヒューマンドラマを
期待していたら、巻き散らかす毒素に目も当てられないだろう。
何よりも一番怖いのは悪魔や悪霊でも、エイリアンでもなく、人間なのだ。

物語は、(後でその意味が明かされるが)章立てされた一幕ものを連ねていく。
まずは授賞式での反体制的な作家を気取った、やや不遜なスピーチから始まる。
ここでは彼の描く作品自体には触れないが、実は故郷での実際の記憶を身勝手に改変したものらしい。
事実を美化することなく、誇張、歪曲して揶揄した作品らしい。
だから身(記憶)を削って書くため、現在はネタ切れで断筆状態のようだ。
それが後々の伏線となっていく。
空港から数時間車を走らせてようやくたどり着く何もない田舎町。
それも車の故障で一晩田舎道で夜を明かすなど、故郷との距離感は中々縮まらない。
翌朝ようやくだどり着いた町うすら寒いさびれた町並みで過疎化が進んでいるのか、
老人が目立ち、全体的に活気がなく、何故か街中をやせた犬ばかりが歩いている。
故知の同郷人から表面的には笑顔で迎えられ、滞在中は歓迎セレモニーに、講演会、
絵画の品評会、肖像除幕式などスケジュールいっぱいで追われる。
変わり果てた生まれ育った家、死に目をあえなかった両親の墓参り、
昔の恋人や親友との再会など多忙な日々を過ごしながらも、些細な不具合は生じていく。
「笑う故郷」という邦題は秀逸である。
笑いに隠された笑えない代物こそが人の本性なのだ。
一定距離離れていたものを急に、無理やり距離感を縮めると必ず感情的な軋轢が生じる。
章を追う毎に、この笑いの裏に隠されたものが徐々に露呈してきて、
まるで迷宮に彷徨い込んだ不条理劇のように襲い掛かるのだ。
その辺が丁寧に書き込まれた脚本が見事である。
また主人公作家を演じるオスカル・マルティネスも身勝手で飄々としながらも、
段々と追い込まれていく演技の変化が見事だ。
そして終章での展開には驚き、更にそれを覆すエピローグでの展開には再度驚くだろう。
ミステリーからホラーへと転じるメタフィクションであることは理解できるはず。


偏愛度合★★★★

今年の「お嬢さん」といい、先日衛星放送で観た「暗殺」 ☟ といい韓国映画では
日本軍の統治時代の朝鮮を舞台とした映画がちょっとしたブームのようだ。


自国の歴史や当事者(抵抗者)を美化して、反日感情を煽るプロパガンダ的な作品もあるだろうが、
それを越えた娯楽作品としてテンコ盛りの傑作が多いのも事実。
先に挙げた三作品は、日韓の二重言語が飛び交う、登場人物における言葉のリアリティの問題は
残るものの、映画として存分に楽しめる傑作ばかりである。
実は物語の視点を比較してみると、結構面白い。
そもそも対立陣営における諜報戦が映画的な物語の定番のひとつであり、
米ソ冷戦時代に多発されたスパイ映画を見ても明らかなことだ。
対立組織、潜入者、二重スパイ、裏切りなどなど、お馴染みの物語展開がいっぱいだ。
韓国が描く日本人像だから、神経質になる部分もあるだろうけど、作品の面白さとは全く別問題。
本国で750万人動員、3週連続興行収入第一位というのもうなずける。
まるでテンコ盛り状態で過剰なまでに楽しませる娯楽に徹した語り口には感服する。
現在、邦画で同じテーマ、舞台で客を呼べる娯楽作品が撮れるかといえば疑問だ。

ということで本題。
統治国と被統治国という国家が登場人物のアイデンティティの背景に存在する。
朝鮮人でありながら日本警察に属し、協力する主人公を演じるのはソン・ガンホ。
流石の存在感を放ち、スクリーンでそこにいるだけで、何かが起こりそうな雰囲気を漂わせ、
観客を巻き込み、物語をドライブさせる起爆剤のような俳優だ。
彼の役柄は二つのアイデンティティを背負い、両国を俯瞰して眺める物語の視点としても機能する。
対立図式こそ、映画における物語の原点だ。
日本軍の命で独立運動組織の追い、二重スパイとして潜入捜査しながらも、
彼らの活動自体に影なる協力者として、やむを得ずに巻き込まれていく姿を描く。
日本軍と独立運動組織の両者を騙しているのか、騙されているのかというのかが曖昧になり、
裏切者である密偵の存在が浮かび、その心情が揺れ動く過程がスリリングに堪能できる。
ソン・ガンホの行動を追うことで、戦時下における国家間の諜報図式が俯瞰できるのだ。
また鶴見慎吾を配するなど、日本の観客が見ても、
日本軍の描き方には極端に事実を歪曲、逸脱した違和感はない。
あえて言えば日本人であるはずのハシモト役に韓国俳優オム・テクを配しての、
変な片言の日本語だけは流石にちょっと違和感があるけど、それ以外の部分は問題なし。
また独立運動組織のボスであるイ・ビョンホンの登場は少なくてもふてぶてしい存在感、
「新感染」とは全く違う印象のコン・ユのといい濃い男同志の熱いバトルには思わずあがる。
ハン・ジミンという紅一点はいるけど、基本は男の世界が炸裂する。
それぞれが抱える信念や信条、友情が国家間の駆け引きで揺れ動く。
とにかく見せ場が多い。
冒頭の逮捕劇からして、日本家屋の豪華セットを組み、地上から、屋根からと
縦横無尽にカメラが移動しながら追う者たちと追われる者をスピーディーに描く。抜群のツカミだ。
その後も、上海に舞台を移してからの逃亡劇に銃撃戦、
再び京城へ向かう列車内での敵味方が入り乱れる密室サスペンスから一転して、
駅での激しい銃撃戦へと矢継ぎ早に繋がる。
そしてラストに用意された日本軍の晩餐会での爆破劇は、絶対意図して模倣しているだろうけど、
まるでタランティーノの「イングロリアス・バスターズ」のラストでのナチス暗殺を思わせる。
そしてラストの「第三の男」引用とくれば、
反日思想の扇動が目的ではなくて、つくり手が映画を愛し、観客を楽しませるために、
ひたすら娯楽作品として、2時間20分にもわたり、ありとあらゆる要素を盛り込んでいるのがわかる。
この途轍もないテンコ盛り感こそ、昨今の韓国映画の持つ悪化なパワーだ。
いやいや、参りました。


偏愛度合★★★★

ヌーヴェル・ヴァーグへのオマージュに満ちたスタイルの模倣っぷり。
ゴダール、トリフォーらしさもあるけど、やはりエリック・ロメール風味が一番濃厚だろう。
というよりネットで見たホン・サンス感という評価には思わず納得。
韓国のエリック・ロメールにフランスのホン・サンスって循環しているみたいで面白い。
映像こそカラーだけどお馴染みのパリの街並み、カフェや古書店、猫などの映画的、妄想的な映像に、
更には今時珍しいアイリスイン、アウトで幕間を繋ぐなど、古典的なスタイルを導入。
舞台は現代なのだろうが、パソコンやスマホはなく、
馴染みのカフェの席でノートに手書きで文章を書くなど、時代設定は明確ではない。
物語自体もアメリカ映画のようなはっきりとした起承転結はなく、
日常の断片を積み上げて、ゆるやかな流れがあるのみの雰囲気映画。
好きな人ならば、ずっと続いてほしいような映画的なパリの街中の空気感が漂う。
ヒロインはイザベル・ユペールの娘、ロリータ・シャマ。
面影は母と似ているところもあるけど、
全体的には母の尖ったヒリヒリ感よりも、やや灰汁抜きされたようなやわらかい印象。
でも如何にも昔のヌーヴェル・ヴァーグ映画に出てきそうな雰囲気を発している。
ジャン・ソレルが演じる謎めいた古書店主の老紳士との絡みも淡々としたものだ。
活動家だったらしい後ろめたい過去を匂わせるけど、
真相やどんでん返しははっきりと描かず、フィルムノワールというジャンル特性には至らない。
激しい恋が芽生えるわけでも、ファムファタールというわけでもない。
生活感ゼロ、沈黙と隙間だらけの、本当に静かなふたりである。
中盤からジャン=ピエール・レオのすっとぼけ感のある若い男性が現れる。
ヒロインが映画館で暗闇で映画を観ていて、明るくなったらガラ空きの劇場で真隣に
座っていたという変質者のような登場なのに不思議と違和感なく、段々と好感を抱きあうのがおかしい。
彼女にはパーソナルスペースへの侵害という強迫概念はないのだろうか?
そういえば、劇中で主人公が映画館へ出かけたり、映画を観るってのもお馴染みの映画的な光景だ。
一見ヒロインが年上と若者の間を揺れ動く恋愛映画のようだけど、具体的には何も発展しない。
思わせぶりだけど、思わせるだけで、何も起こらないミニマムな雰囲気が全て。
予告編にもある、物語本筋とは何の関係もないけど口笛(多分マカロニウエスタンのテーマ?)を
吹きながら、ゆったりと通りを歩くヒロイン姿が印象的。

偏愛度合★★★

ヤンキー劣化版園子温。
監督本人も園子温監督からの影響を認めており、
同じ実話ベースである「冷たい熱帯魚」路線を狙ったのだろうけど、
力技のヤリスギ感、残酷度数、モラルの欠如も何よりも完成度も到底及ばず。
同じ高橋ヨシキが絡んでいるなど、一部界隈では評価とプッシュが高かったけど、
個人的にはリズムというか、ノリが合わずに沈没。
やっぱりヤンキー的世界や価値観とはどうにも相性が悪い。
でも劇中にヤンキーがひとりでも登場する映画が全てダメダメかというえばそんなこともなく、
出演者(毎熊克哉)が重なる「ケンとカズ」などは結構好きな作品なのだ。
主人公への共感はなくても、作品全体のタッチと演出次第で楽しめることもある。
やはり問題箇所は「笑い」の相性に至る。
「冷たい熱帯魚」はリアルでさぶい描写がもはや笑うしかないという極北の境地だったけど、
今作は最初からコメディとして、全編にギャグにを散りばめ、狙ってきている。
結局「笑い」って絶対評価として出来不出来が明確にあるわけではなく、
個人的なノリとリズムにうまく合うか、否かが全てなので残念ながらすべりまくってあえなく撃沈。
主人公の言動や事実関係、コメディタッチなども全て実話ベースで本人の手記によるらしいけど、
別にここでモラルや社会倫理を問うているわけでない。
ベースが実話であろうが、なかろうが映画なので好き勝手に誇張、歪曲すればよいだろうし、
劇中での容赦のないヤリスギは大好きだ。
映画に関してはゴアも殺しもセックスもドラッグも一切ご法度はない。
宣伝コピー通り「狂悪」は全くタブーではない。
濃ゆい面子を揃えた配役と奇妙な音楽の選曲、粗いビデオ映像を使ったスーパーインポーズでの
説明など、部分部分は決して嫌いではないけど、結局どうしても乗り切れず。


偏愛度合★★

丁度2時間の尺なのに体感時間は恐ろしく長い。
2時間42分の「ブレードランナー2049」よりも長く感じる。
映画の尺って、体感次第で伸び縮みするから不思議なものだ。
といっても無駄なカットが多いとか、演出の手際が悪いという感じではない。
ひたすら晩年のロダンのアトリエでの創作風景を描くだけ。
役柄になり切ったヴァンサン・ランドンの演技と巧みな移動カメラでの長回しなどを駆使して、
肖像を完成させてゆく現場に立ち会ったようなドキュメンタリータッチの臨場感はあるけど、
明確な起承転結のある物語はない。
説明や台詞も最小限でアトリエ内の室内劇が中心で張り詰めた緊張感こそあるものの、
細部描写は執拗なまでに明確でも、全体像の流れがゆるく、結果淡々とした印象が続く。
どんなに部分部分がリアルであっても、結局のところ、人は物語を求める。
ロダンのアーティストとして狂気にも通じる徹底した作品へのこだわり、の反面出入りする弟子や
モデル女性と片っ端から関係を持つ節操のなささなど、感情移入しにくいキャラクターでもある。
何度も映画化されたカミーユ・クローデルとの長年にわたる執着と反発も正直言って重たい。
創作活動に没頭するロダンの姿を観客をつき放して延々見せられるのは結構きついかな。
着物に髪を結った変な日本人モデルやラストの箱根美術館での描写は完全に蛇足で意図不明。

偏愛度合★★★

ソリッドシチュエーションスリラーの走りであり、低予算ながらツイストの効かせた展開とオチで
存分に楽しめた「ソウ」第一作。その筋のジャンル映画の流れを決定づけたスタッフを産んだ。
でも柳の下の泥鰌を狙い過ぎて、続編を追う毎に、繰り返され、希釈され、筋立てのほころびが目立ち、
出来具合も散々で自分ですら途中からフォローをやめた。
今回も無視するつもりだったけど、監督がスピエリッグ兄弟と知り、久々に劇場へ。
 何といっても超偏愛作「プレデスティネーション」 ☟ の監督なのだ。


物語上、仕掛けたトリックという結論から逆算して、プロット展開をひろげるというスタイルは
てっきり監督兄弟の脚本かと思えば、別だったけど、人選は間違っていない。
ラストに用意されたオチでのひっくり返し方やそれまで張り巡らせた伏線の回収など、
その巧みなストーリーテリング手法は両作に共通するのだ。
これまでの物語で既に死んだはずの男を続編で生き返らせる手法は、
ヒット作の続きという興行上の要請でよくあることだけど、一応矛盾はない。
でも結果は惜しいけど並かな。
自らの罪を贖うために生死を賭けたゲームに参加させられる5人の男女。
お馴染みの手の込んだ装置で時間がカウントダウンされる中、活路を見出すというゲーム。
個々が密かに抱える割とミニマムな罪に対して、
わざわざ不条理なまでに面倒な臭い装置を用意して、実践するという何ともマメなジグソウ。
これはシリーズのお決まりであり、歌舞伎の見え切りと同様に、
次はどんな新しい仕掛けが登場するのかを眺めていれば良い。
多少はグロいシーンもあるけど、ゴア度はそれほど高くない。
今作はそれと並行して、犯人を追う警察側の視点をカットバックさせて挟み込まれるのが目新しい。
悪徳刑事と検視医、その助手である女性検視官という誰もが怪しげな三者の視点が描かれる。
登場する俳優陣は全て無名というか、見たことない人ばかりなので、
俳優の格で誰が生き残るかは予想できない。
やがて、物語はこのふたつが見事に交錯するところに、オチが用意されている。
別の作品で既視感があり、とりわけ珍しいものではないけど、
そのちゃぶ台ひっくり返しと伏線回収にはまあまあ楽しめるけどね。
しかし、またしてもシリーズ化するつもりなのか?

偏愛度合★★★

騙されたというか、反応に困る作品である。
やたらと壮大な設定の割には90分という尺なので嫌な予感はあったけど、まさかシリーズだったとは。
来春二作目の公開が決定しているが、この後一体全何作の作品なのだ?
物語の後半から延々と続く、ゴジラと人類の地球支配をかけた戦闘シーンがメインなのだろう。
舞台は二万年未来の地球。
既に過去の姿の面影はなく、ゴジラを頂点とした動植物で変わり果てた姿だった。
そこへ陣を張り、地上、空中の複数舞台からの射撃、トラップへの誘導、一斉攻撃と作戦を
軍事用語が台詞で飛び交い、細かく執拗に描かれる。今回はミリオタ限定なのか?
このプロットならば予算不足で安っぽいCG実写よりも、
アニメーションならではの動きの方が逆に想像力が生まれるので正解だろう。
でもこの戦闘に至るまでの物語が薄っぺらい。
巨大生物「怪獣」の出現と半世紀にもわたる戦闘の末、
人類は恒星宇宙船で外惑星への移民へと逃避する。
この基本的な背景設定がダイジェスト版のように端折って、断片だけが描かれる。
唐突な人間型の宇宙人の登場なども含め、物語そのものへの没入が全くできない構造になっている。
主人公であるはずのハルオにしても、その他のキャラクターにしても、類型的なのだけど、
物語の円滑な流れから切り離されて、唐突に突きつけられるために、全く理解や共感ができない。
だから肝心の戦闘シーンも単なるドンパチな絵空事にしかうつらない。
確かに圧倒的な敵に対して、小さな力を合わせてv立ち向かうという物語は、
「シン・ゴジラ」と似たような構造ではあるけど、そちらには観客の中心となる視点が明確にある。
記憶に新しいうちの同じコンテンツの再構築jなので比較は逃れられない。
当然オリジナル版を踏まえながらも、現在へとアップデートした新しい切り口の「シン・ゴジラ」に対して、
スカスカの隙間だらけの脚本を力業で引っ張る演出力もなく、宙ぶらりんで収集つかぬまま、
あっけなく90分を終えたら、厚顔無比に第二章に「続く」と予告編までつけてくる。
商魂たくましいというか、守銭奴なやり口には溜飲が下がる。
余談だが、「先輩っ!」という花澤香菜の声には条件反射的に
同じ製作会社の「夜は短し歩けよ乙女」を過ってしまう。確信犯で狙っているのか?

偏愛度合★★

基本は雰囲気映画。
楽しめる人は楽しめるだろうし、退屈と感じる人はそうかもしれない。
ゆるい物語と隙間だらけの3人のキャラクターのぼんやりと眺めていればいいのだろう。
魚喃キリコは何作か持っているはずだけど、原作を読んだかどうかは怪しい。
連載は1998~1999年らしいけど、
あの時代の岡崎京子からのコミック流れ持っていた空虚な空気感には当時ははまった。
映画がらみで見れば公開を控えている「リバース・エッジ」が1994年、
「ヘルタースケルター」が2003年だから丁度その中間に位置するのか。
ベタやトーンの少ない、ミニマムな線画のタッチや背景の真っ白な空白は再現できている気がする。
でも18年寝かして、現在に映画化という必然性は見えない。
劇中での時代設定も曖昧。
無理やり現在へと変更しているわけでもないけど、当時のままでもない。
キャラクターの関係性と日常のディティール描写だけで成立しているので、物語の背景が希薄。
何んとなくゆるりとした雰囲気のみが横たわる。
三者三葉、配役は絶妙。
オダギリ・ジョーはお馴染みのダメ男役をいつも通りに演じる。
作品が変わっても演技もキャラクターも殆ど同じ。
たまに新機軸を演じたゲバラの腹心役が未見なので、やっぱりいつもダメ男にしか思えない。
同性から見ても不思議な色気があり、クズだけど憎めないというか、
自分から一番遠い位置にいる、あり得ない役柄だからついつい怖いもの見たさで感情移入しやすい。
対抗馬であるもうひとりのダメ男役、太賀もダメさ加減で検討しているけど、
まだまだダメ専科の達人とは格が違う。
彼も何故かダメ男役が多いので修業を積んで、次なる達人を目指してほしい。
ふたりのダメ男の狭間で揺れるダメ女が臼田あさ美。
いつもにじみ出る幸の薄いキャラクターがうまく活かされている。
脇役中心の特徴の薄い役柄が多かったけど、今回は物語のダメ男実地視察の視点として頑張っている。
冨永昌敬は「ローリング」の柳英里紗もそうだったけど、
突き抜けた個性や華のない女優を妙に生々しく、エロく撮る監督だな。
細部を丁寧に描くけど、流れはゆるやかで、
一部時間をシャッフルした編集はやや唐突で余り効果を上げている感じではない。
ラストのクレジットが音楽なしの無音というのには拍手喝采。
ミュージシャンや音楽がテーマの作品なのに、
蛇足で臭い歌声や陳腐な歌詞でお茶を濁さない潔さには感服。


偏愛度合★★★

やはりクリストファー・ノーラン「ダンケルク」と続けて観ると面白い。
どちらも同じ史実を描きながら、極端なまでに事実を取捨選択して、意図的に隙間だらけで、
ある意味エゴイスティックな歪んだ時間の流れをつくりだしたのがノーラン版。
対して今作はメタフィクションとして、史実を映画という物語として再現する過程を描きながらも、
単なる感動的なヒューマンドラマには収まりきらない、
如何に映画がプロパガンダとなりうるかという裏テーマを突きつける。
ノーランの屈折具合は周知の事実だけど、今作の冷ややかな視線と警告もまた一筋縄ではいかない。
レニ・リーフェンシュタールの「オリンピア」「意志の勝利」のナチス賛美を例を出すまでもなく、
常に映画はプロパガンダの手段として、特に戦時においては国民の戦意高揚策として活用されている。
舞台は第二次世界大戦中、ダンケルクの戦いの直後のイギリス。
ヒロインのカトリンは、徴兵された男性ライターの代わりに情報省映画局から、脚本執筆経験なしに
プロパガンダ映画の脚本家としてスカウトされる。
古参の男性脚本家と組みながら、飛ぶ鳥を落とす勢いのナチスに対抗して、
徴兵に空襲、食糧不足と何かと沈みがちな国民の戦意を高揚させるための映画を製作する。
まずは物語の中心に女性の視点をしっかり確保しているのが素晴らしい。
彼女を演じるジェマ・アータートンのチャーミングさもあって、観客も直ぐにこの視点に感情移入する。
これは余談だけど彼女が纏うイギリスらしい何気ないコートやセーター、ブラウス、スカートなどが素敵。
例えるならマーガレット・ハウエルのような感じ。
これは女性から見た戦争であり、戦時生活であり、軍人や軍部であり、
あるいは映画製作(者)と常に当事者ではない外からの視点で出来事を客観視してゆく。
実は後から知ったのだが監督は私的偏愛作「ワン・デイ 23年のラブストーリー」のロネ・シェルフィ。
道理で女性監督ならではの男性を見つめるどこか冷めた視点と容赦なささが共通している。
通常画製作の現場を描いた作品は劇中人物はもちろん、
物語の外側にいる作品のつくり手である監督などの溢れんばかりの映画愛を
高らかに謳う直球勝負が多いが、今作はちょっと毛色が異なる。
主人公は映画愛が高じて、脚本家になったわけではない。
周囲の都合で図らずとも徴用されただけ。
あくまでも素人視点で脚本を通して、製作の困難に遭遇していくという現場体験型となっている。
ふと目にしたダンケルクへイギリス兵救助のために、
民間船を出した双子姉妹という新聞記事を基に物語を脚色し始める。
まだまだ皆の記憶に新しい出来事の映画化だ。美談に仕立て上げようとする魂胆が明らか。
というか元から情報局製作のプロパガンダ映画であるため、戦意高揚を目的とした政府、軍部の検閲や
横やり、さらには戦争の英雄という素人を役者として押し付けてきたり、
ありとあらゆる無理難題がいっぱいで執筆現場は混乱を極める。
あからさまな政治的な事実の歪曲や隠ぺい、変更があり、
単なる映画製作現場万歳のオマージュとしては終わっていない。
また執筆に並行してロンドンに鳴り響くサイレンに、地下への非難生活、
爆弾による建物倒壊など厳しい空襲生活も描かれる。
昔の名声を引きずる老俳優であるビル・ナイが
戦時下の緊張した現場の息抜き的なコメディリリーフを相変わらず嫌味なくらい巧みに演じる。
彼のシーンだけは気が緩む。
映画の製作が進み、完成が近づき、初めは反発しあっていた脚本家の男女の距離も縮まる様子も
まさしく定石通りだけど、これはこれで素直に感情移入してしまう。
最後には、映画の完成とヒロインカップルの成就と行くかと思えば、
やはり一筋縄ではいかない、あの「ワン・デイ」の監督だった。
ここはネタばれになってしまうが、
予告編にもあるヒロインが劇場でスクリーンを見上げる表情の裏に隠されたある仕掛けが容赦ない。
その突き放ち方と落とし方が同じだ。
「そう来るか!」という衝撃と女性監督の容赦のなささで、偏愛度合の★を1個追加♪
また完成した映画が劇場を満席にして、想定通りに涙を流して、歓喜する観客の操られた心情から
映画というメディアの持つ大衆操作という作用を思うと、些か穏やかではない。

偏愛度合★★★★